ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

ある医師の歩いた道

2006年03月18日 | ノンジャンル
出張は落ち着いたものの、相変わらず忙しい1週間が終わった。
夕食も入浴も済ませて、心底ほっと一息つける時間だ。
この時に何がしかのテーマや、考えていた事を書き出すと、
本当にスッキリと出来るのだが、大抵は途中で寝てしまう。

妙な安心感からか、眠気には勝てない。後日に続きをまとめる
というのが普通である。
このテーマも、長くなりそうなので、今夜はほどほどにしておこう。

例会やミーティング、ネットなどの場や媒体を通じて、様々な方の
体験に触れてきてはいたが、わざわざ、自分で専門書やドキュメントを
購入して読む気にはなれないでいた。
ある日、たまたま本の検索をしていた時に、上記のタイトルの書物に
目が留った。
何か期待するものがあったので、早速購入して、折々に読み進んだ。

離脱症状が始まってから、病院へ行くまでの私の体験については
詳細に渡り「記憶の跡」に記したように、かなり冷静に分析を
しながら、幻覚や幻聴、
その他の症状を自覚し、認識していたが、この著者については、
もとより医師であることから、その分析能力は私の比ではなく、
専門的に且つ冷静にお酒に関る身体的症状について分析、判断し、
必要な処置なり対応を迅速にされている。

もちろん、内科医であることから、依存症の知識や認識は皆無で、
そのことが、断酒という最も不可欠な治療法を遠ざけ、専ら身体的
治療に焦点を置いてしまうという失敗を繰り返されたようだ。
胃から出血があった時も、瞬時に吐血である事を察知し、食道か、
胃壁よりの出血かと判断されて、直ちに入院されるなど、やはり、
医師としての豊富な知識と経験によって、何度も入退院を繰り返し
ながらも、いずれも紙一重のところで、命拾いをされたようである。

お酒をしばらく断っていても、体調や検査結果、自覚症状などから、
少しなら飲めるといった判断も自分で出来てしまうところに、反面、
この医師の不幸があったともいえる。
自分では、身体の状況を睨みながら、お酒を飲む事を調節していた
つもりであったようだが、次第に依存症の状態へと発展して
行きながら、本人にはその自覚も認識も無いという危険な状況へと
進んで行ったのだ。

一杯のつもりが、飲み潰れて路上で寝ていたとか、全く記憶が無いとか、
ともすれば、失禁していたり、酔い潰れている姿を患者に見られたり、
お酒の匂いをさせて診察したりと、次第に家族の信頼、患者の信頼、
ひいては社会においての信頼を失っていき、失業先生となる事も
しばしばであったようだ。

そんな彼でさえ、自身がアルコール依存症である事を認める事はかなり
難しい事であったようだ。もちろん医療のプロであるプライドも
あったであろうし、言い換えれば、依存症という「病気」の実態を
認識していなかったという事がいえる。度重なる入院についても、
彼の焦点はアルコールではなく多少過ごしたお酒による
内科的疾患であった。

つまり、内科的疾患が平癒すれば、また「普通に」飲めるという事が
大前提であって、根本原因であるアルコールを問題視する事が
出来なかったのだ。いや、むしろ、問題として認識しながらも、
それを認めたくはなかったのであろう。既に典型的な依存症の兆候だ。
ようやく依存症との診断をされ、それを断固として否定した彼では
あったが、奥さんが断酒会につながり、そのあたりから、断酒会への
参加、依存症の認識、そして、自分自身がアルコール依存症に罹患して
いる事を自覚するに至る。

保護室というどちらかといえば牢獄に似た環境に短期間幽閉?された
事もあり、本人にとっての衝撃は大きかったであろう。そんな彼も、
短期のスリップを繰り返しながらも、高齢となって、旧知の飲み友達が
主にお酒が原因で亡くなっていく事を目の当たりにして、潮時と
考えられたのであろう。一切お酒を飲まない、断酒生活に入られた。

彼の行動というより、思考は私と似通っているところが多くある。
かなり冷静に自身の状況を分析しながら、判断、行動を取っている。
幻聴を自覚していながら、それが幻聴か、本当に聞こえているものかを
客観的に判別しようともし、自分の症状についても、より客観的な
判断をしようと試みるのだが、こと、お酒を飲むという事になると
それらは一瞬で失われ、気がつけば戸外で寝ているか、病院へ運ばれて
いるかという事がしばしば起こる。

私の場合は、彼ほどではなかったし、最後まで家には辿り着いていたし、
失禁などの失態も無かった。が、お酒に関しては、飲みだすと止まらない
という状況は少しも変わらなかった。

そして今の私が最も衝撃を受けたのが、彼が9年以上の断酒を敢行
した後、診療所の移転など、仕事以外のしがらみや煩雑な人間関係に
翻弄され、疲れ果てた時に気分転換にと奥さんと旅行をされ、帰りの
駅の売店で、ふっと缶ビールを買ってしまったことだ。

半分ほどをぐっと飲み干した時、彼はその味を甘露の味と表現している。
さすがに残り半分を捨てて、気付かれないかと奥様の顔色を伺いながらの
帰路となったようだが、結局それが、連続飲酒につながって行って
しまったのである。
あとはもう、述べる必要も無い。お決まりのコースである。
医師であり、それなりの経験と知識によって9年以上断酒を継続して
来た方が、たった缶ビール半分で、もとの木阿弥に戻ってしまう。
これほど大きな衝撃は無い。もちろん、このビールを口にして
しまった時から、医師である彼をしても、この病気の前では全く
無力であったのだ。

大きなストレスとなる環境の変化、その時における気分転換。
当たり前のようにどこにでもある話なのだが、その隙を魔は狙っている。
それも、9年間も「その隙」を狙っていたとしかいいようの無い
タイミングで、スリップは起こってしまった。
その9年間は、医師の立場でいわせれば、「潜伏期間」となって
しまったのだ。

この事実は、今の私にとっては、非常に恐ろしい。これから、少し腕を
伸ばせばお酒に手が届くという機会はいくらでもあるに違いない。
そこで、お酒に口をつけるか否かが、全てを決する事になるのだ。
はじめから、お酒の場に出る事が分かっていれば、それなりに心の準備や
気合を入れて、臨む事が出来るし、そこで飲む事はまず無いと自信が
あるが、何年もの月日の中で、どういう形で魔が差すという事が
あるのかは予想も出来ない。

天災と同じで、「忘れた頃に」やってくるかもしれない。だからこそ
定期的な原点復帰が必要となるのだ。この事を忘れる事が一番危ないと
感じている。

月々日々に、自覚を新たにし、断酒を当たり前と意識しなくなった頃には、
改めて原点復帰する必要が必ずある。やはり、地道ではあるが、積み重ね
なのだ。だが、その積み重ねの中にも、常に魔が潜んでいる事を
忘れてはならない。

どこかで、「自分は大丈夫」という意識が芽生え、断酒が長年に渡って
くると、その意識がだんだんと強くなるであろう。そしてそれが最も
危険であるという意識が薄らいでいく事になりかねない。
やはり、一瞬の連続が永遠であり、一日一日の断酒生活を大切に
心掛け、それを積み重ねていく他に、根本的な解決はなさそうである。

これまで、自分なりに考え、体験談や文献で知識としても得てきた
わけであるが、その本当の恐さというものを実感として教えて頂いた
ような気がした。
客観的且つ明瞭な文章は、著者の高い意識を如実に示しているが、
その彼でさえ、魔の誘惑に隙を突かれる事があるのだという事を、
驚きと共に知ることが出来た。

今の私にとって、非常に感銘を受けた衝撃の一冊であった。