Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

フランスーメランション&ド・ヴィルパン&ル・ペンの時代に

2024年07月12日 | 国際・政治

2027年の大統領選までマクロンがフランス大統領。

マクロンの前任のオランド元大統領とサルコジ元大統領のライバルでもあった、ドミニク・ド・ヴィルバンは、メランションと共通点があります。アフリカ生まれ、反戦。そして、同じシンクタンクに在籍していたときもあり。

Jeune République - Wikipedia

いずれにせよ、フランスが立ち向かわなくてはいけないのは、経済立て直し。

メランションにド・ヴィルパンが協力して、今までとちがって、対等なフランス&アフリカとの関係を築けるように方向を示したらよいのでは?

移民(本当の難民より「経済難民」が多そうに思う)の受け入れより、アフリカから経済移民がアフリカから出なくても良いようにするように、ル・ペンを説得して協力しあいながら。

 

2013年フランスのマリ侵攻時のド・ヴィルパンの言葉-

「アフリカの問題はアフリカで解決すべきである。そもそもマリと国境を接しているアルジェリアさえ進攻していないのに。
アフリカに必要なのは仕事。彼らは成長し(独立)国であるが、我々は未だに昔の悪習から抜け出せない」

マリ侵攻を非難するドビルパン元仏首相 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ドミニク・ド・ビルパン - Wikipedia

ドミニク・ド・ビルパン(フランス語:Dominique de Villepin[1]、1953年11月14日 - )は、フランスの政治家・作家・外交官・弁護士。本名はドミニク=マリー=フランソワ=ルネ・ガルゾー・ド・ビルパン(Dominique Marie François René Galouzeau de Villepin)。ジャック・シラク政権で第18代フランス首相を務めた。

呼び名については貴族称である前置詞 "de" を略し、ビルパン(ヴィルパン)という呼称が使用されることがある[2]。

名前に"de"と付いているが、貴族階級の出身では無い。

来歴
1953年11月14日にモロッコの首都であるラバトに誕生する。青少年期はアフリカ・ニューヨーク・カラカスで過ごし、帰国後はトゥールーズにあるイエズス会系私立のリセに通った。バカロレアに合格し、パリ第10大学、パリ第2大学(パンテオン・アサス)法学専攻を経て、パリ政治学院から1978年、フランス国立行政学院(ENA)入学。ENA卒業後の1980年にフランス外務省に入省。ワシントン・ニューデリー勤務を経て、保守派の有力政治家であったジャック・シラクの外交面での側近として頭角をあらわしていった。

1995年にジャック・シラクが勝利した大統領選挙で貢献し、エリゼ宮(大統領府)官房長官に抜擢。1997年にはシラクにフランス国民議会解散を強く進言するが、選挙では与党が大敗。辞表を提出するがシラク大統領は受け入れず、2002年まで務めることになった。

2002年にフランスのジャン=ピエール・ラファラン内閣で外務大臣に就任した。

イラク戦争開戦を強行しようとしたアメリカに対して強く反対した。アメリカのドナルド・ラムズフェルド国防長官から「(開戦反対の)フランスとドイツは古いヨーロッパだ」と皮肉られると、国際連合安全保障理事会で「フランスは古い国だからあえて反対する」と切り返した。その外交姿勢はド・ゴール主義にとても近いといわれている。折から高まっていたイラク反戦の世界的な世論に、ド・ビルパンの国際連合での演説は強くアピールし、シラクの側近官僚というイメージから、一躍大統領候補として注目されていくようになった。

(後略)

 

Film - Conférence Vendredis de Supdeco avec Jean-Luc Mélenchon (youtube.com)

Dominique de Villepin invité de LCI : "les Français veulent une cohabitation" (youtube.com)

 

参考:

【削除覚悟】99%の人が知らない「フランス最大の闇」 (youtube.com)

アフリカの発展を妨げる「CFAフラン」の闇【後編】 (youtube.com)

ミッテラン元大統領-極右から左派、植民地主義者 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

テロを呼ぶオランド大統領・真の文明人とは - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ニューズウィーク『パリとシリアとイラクとベイルートの死者を慎む』 by 酒井啓子氏 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

パリのテロと友人達・冷静な分析を始めた欧州のメディア - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ニューズウィーク『パリ同時多発テロを戦争へと誘導する未確認情報の不気味』 by 川上泰徳氏 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

「(愛国者は)治安部隊入隊を!」 と国民に呼びかけるオランド政権 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ニューズウィーク『パリ同時多発テロを戦争へと誘導する未確認情報の不気味』 by 川上泰徳氏 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

仮置き:

European migration? How a continent is sealing itself off | DW Documentary (youtube.com)

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「1933年にムッソリーニ政権が起こした強制ワクチン被害」と「コロナワクチン被害」

2024年07月12日 | 福祉・医療

エンリコ・マッティの1962年に飛行機事故(のちに事故ではなく事件であったことがわかる)は、グラディオ作戦ネットワークの起こした事件だったのではないかと思いながら、このブログ記事に載せたWikipediaを見ていました。

イタリアのテロ事件(グラディオ作戦)の二人の日本人被害者 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

このリストについて、ブログ記事には「イタリアのテロ」と書きましたが、正しくは「イタリアの虐殺」。

List of massacres in Italy
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_massacres_in_Italy 

 

このリストに、本来「虐殺」というわけではない事件が載っていましたが、「ムッソリーニ・ファシスト政権の事件」ということでWikipediaに載せた人がいるのでしょう。

Strage di Gruaro - Wikipedia

Google翻訳:

グルアーロ虐殺では、1933年4月から5月にかけてヴェネチア州グルアーロで、ワクチンの試験中の誤った手順により28人の子供が死亡した[1]。

 歴史

当時のイタリア王国当局は、新たに開発され、これまでテストされたことのなかったジフテリアワクチンをテストするためにグルアーロの町を選択しました。町医者の反対にもかかわらず、生後13か月から8歳までの253人の子供がこの予防手術に集められた。

しかし、ワクチンの投与直後、彼らは異なる性質と重症度の症状を経験し始めました。彼らは直ちにポルトグルアーロ病院と、パドヴァのジーノ・フロンターリ教授が管理する小児病院に入院し、緊急措置が講じられたにもかかわらず、28人が死亡した。 後に、ナポリの国立血清療法研究所の研究室で調製された血清の容器が正しく準備されていなかったため、患者はまだ活動し弱毒化されていない細菌にさらされていたことが判明した。

ファシストイタリア当局はこの事件を沈黙させ、この事件に対する司法捜査は開始されなかった[2][3]。


原文:

La strage di Gruaro causò la morte di 28 bambini a Gruaro, in provincia di Venezia, tra l'aprile e il maggio 1933 a causa di un'errata procedura durante la sperimentazione di un vaccino[1].

Storia

Le autorità dell'allora Regno d'Italia selezionarono l'abitato di Gruaro per sperimentare un vaccino contro la difterite di nuova concezione e mai testato prima; nonostante la contrarietà del medico del paese, 253 bambini di età compresa tra i 13 mesi e gli otto anni furono reclutati in questa operazione profilattica.

Subito dopo la somministrazione del vaccino, però, iniziarono ad avvertire sintomi di diversa natura e gravità; furono prontamente ricoverati presso l'ospedale di Portogruaro, e l’ospedale pediatrico gestito dal Prof. Gino Frontali, a Padova dove, nonostante la messa in opera di misure di emergenza, 28 di loro spirarono.

In seguito si scoprì che un contenitore di siero, preparato in un laboratorio dell’Istituto Sieroterapico Nazionale di Napoli, non era stato correttamente preparato, esponendo perciò i pazienti al batterio ancora attivo e non attenuato.

Le autorità dell'Italia fascista fecero passare sotto silenzio l'episodio e nessuna inchiesta giudiziaria venne aperta sull'accaduto[2][3].

 

コロナワクチンは「治験ではない」といいながら、2025年まで治験する予定のワクチンだったので、このワクチンの事実上の強制接種を決めた人たちは、やはり「ファシスト」と言っても良いのでしょうね。

(「予防接種があるから助かる人がでてきた」ということもあるので、医療業界も治験を要し、一般人も恩恵を得る。とはいえワクチンは金の卵にもなる-第二次世界大戦でナチスと日本が行った人体実験はやはり戦争の目的の一つだったのではないでしょうか。)

今もワクチンを打って死亡したり、後遺症を残した人達のほとんどは「ワクチンの因果関係が認められない」と言われています。

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