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欧州映画界とブルジョア-47(ラウル・レヴィの自殺)

2024年10月15日 | 欧州映画界ネットワーク

欧州映画界とブルジョア-45(『バルドー』でロジャー・ヴァディム役を演じたジャン・ポール・ベルモンドの孫) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

欧州映画界とブルジョア-46(『バルドー』でサミー・フレーを演じたジャン・ルイ・トランティニャンの孫) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

から:

ラウール・レヴィのバイオグラフィはフランス語版wikipediaから-

Raoul Lévy — Wikipédia (wikipedia.org)

抜粋Google翻訳:

ラウル・レヴィはラトビアとロシアのユダヤ人移民の出身で、アントワープで育ち、ビジネススクールのコースを受講して学業を終えました。 1940年に彼はベルギーを出国し、パリを経由してリスボンに向かった。彼はゼネラルモーターズの代表を務めていた叔父のもとでしばらく働いた。翌年、彼はトロール船に乗ってイギリスに向かい、イギリス空軍に入隊し、1943 年 8 月から終戦までの間、フランスとドイツ上空で数回の爆撃任務を遂行しました。

映画デビュー

1945年、彼はパテとコロンビアと提携した映画製作・配給会社を経営するメキシコのいとこのジャック・ゲルマンに入社した。 2 年後、ラウル・レヴィは最初の会社、トランスモンディアル・フィルムを設立し、メキシコ映画をフランスで配給し、フランス映画をメキシコで配給しました。その後、アメリカのプロデューサー、エドワード・スモールの利益を代表するためにジョルジュ・クラヴェンヌと協力しました。この機会に、彼は映画の宣伝のためにパリを訪れているアメリカ人俳優たちとつながります。 1950年、彼はエルヴェ・ブロンベルジェ監督の映画『司法のアイデンティティ』の製作総指揮として雇われ、特にレイモンド・スープレックス、マルト・メルカディエ、ドーラ・ドールが出演した。この映画は翌年のカンヌ国際映画祭に出品される予定です。ラウル・レヴィはイエナ・プロダクションズを設立し、この機会に自分自身をラウル・J・レヴィに改名し、エージェントのアラン・ベルンハイムと協力します。

1953 年、彼はイヴ・アレグレ監督の映画『Les Orgueilleux』の製作総指揮を務め、ジェラール・フィリップとミシェル・モルガンとともにメキシコで撮影されました。その後、彼はマリーナ・ヴラディを国際的なスターにしようと努め、アンドレ・ミシェルの『魔女』とロベール・オッセンの最初の映画『許してください』という2本の映画を彼女と一緒に製作した。

「B.B.」時代

ラウル・レヴィが、パリ・マッチ記者で友人のロジェ・ヴァディムの若い妻ブリジット・バルドーを主役にした最初の映画を製作し、名声を得たのは 1956 年のことでした。彼は、土壇場で不動産開発者のキャラクターをまとめ上げたカード・ユルゲンスのクレジットのおかげで、コロンビアの支援を受けてなんとか予算を達成した。 『クリエイテッド・ウーマン』は国際的な成功を収め、ブリジット・バルドーを50年代と60年代のセックスシンボルに押し上げ、ロジェ・ヴァディムのキャリアを後押しし、ラウル・レヴィがコロンビアと6本の映画契約を結ぶことを可能にした。

彼はヴァディム、フランソワーズ・アルヌール、ロベール・ホセインと続きます。次にバルドーとヴァディムの「Les Bijoutiers du clair de lune」。多くのプロジェクトが発表されますが、実現するものはほとんどありません。そこで彼は、ヴァディムとハリー・カーニッツの脚本で、夜にB.B.パリスとツアーするようフランク・シナトラを説得しようとした。歌手は躊躇してから拒否します

1958年、レヴィは他のプロデューサーが切望していたシムノンの小説『不幸の場合』の権利を購入した。クロード・オータン=ララが監督し、ジャン・ギャバンがバルドーに答えを与える。レヴィはその後、B.B. のために他の 2 本の映画を製作しました。クリスチャン=ジャック監督のレジスタンスを描いたコメディー、『バベット・セン・ヴァ・アン・ゲール』、そしてアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の劇映画『ラ・ヴェリテ』です。ブリジット・バルドーと共演したこれら 4 本の映画は、世間的に大きな成功を収めることでしょう。

サンフランシスコ・レガッタから最長の日まで

ラウル・レヴィは、次の2本の映画ではそれほど成功を収めませんでした。彼は、オータン=ララが『不幸の場合』の成功の功績とされていることに我慢できず、ダニエル・ゴーベールのキャリアをスタートさせることを目的とした映画『サンフランシスコ王妃』をめぐってオータン=ララと対立した。プロデューサーは俳優を配置し、サウンドトラックを変更し、カットを加えます。オータント・ララは映画の原作者になることを拒否する予定です3。ジャンヌ・モローに夢中になったレヴィは、マルグリット・デュラスの小説を原作とした『モデラート・カンタービレ』を、ジャン=ポール・ベルモンドと共演して製作することに同意した。 1960 年に公開されたこれら 2 つの難解な映画は、批評家と観客を失望させました。

ラウル・レヴィは気にせず、彼は、アイルランド人ジャーナリストのコーネリアス・ライアンが前年に出版したノルマンディー上陸作戦に関する本『The Longest Day』の権利を購入した。彼は映画の準備を開始し、約50人のスターとともにコルシカ島で撮影することを発表し、軍の支援を求めた。しかし、アメリカのプロデューサーたちはハリウッド作品を希望したため、彼らの支援を拒否しました。レヴィは権利をダリル・F・ザナックに譲渡します。 1961年6月16日、ジャンヌ・モローは彼に別れたいと告げた。彼のパートナー、息子ダニーの母親であるルシエンヌ・ホッチキスは、彼を家から追い出す。意気消沈したレヴィは、バルビツール酸塩を摂取して自殺を図ります。

(後略)

 

1961年以降は日本語版wikipediaからー

ラウール・レヴィ - Wikipedia

1962年(昭和37年)、クリスチャン=ジャック監督、アラン・ドロン主演で着手した70ミリ超大作『Marco Polo』は、その後、『荒野の七人』のホルスト・ブッフホルツに主役を交代、監督もドニス・ド・ラ・パテリエールに交代して、さらに共同監督としてニコラス・レイの超大作『北京の55日』(義和団の乱、1963年)のスペインロケを仕切ったB班監督ノエル・ハワードを招き、またレヴィみずからも一部演出に乗り出すという混乱を経て、『La fabuleuse aventure de Marco Polo (L'echequier de Dieu)』(邦題『マルコ・ポーロ 大冒険』)として1965年(昭和40年)8月6日、ようやくフランスを皮切りに公開するも惨敗、「イエナ・プロデュクション」社は破産した。

1965年(昭和40年)8月11日、『マルコ・ポーロ』公開の1週後にあたるこの日、初監督作『二人の殺し屋』を公開した。主演エディ・コンスタンティーヌ、撮影監督はラウール・クタールを初の起用。レヴィのプロデュース作品の撮影は、『素直な悪女』から『マルコ・ポーロ』まで、監督が変わっても例外なくアルマン・ティラールが支えて来たのだが『マルコ・ポーロ』をもって決別、「イエナ」社破産以降の本作を含む遺作に至る3作品では、いずれもクタールと組むこととなった。

1966年(昭和41年)8月20日、監督第二作『ザ・スパイ』が西ドイツ先行で公開。フランスは11月。主演に引っ張り出したモンゴメリー・クリフトは4年振りの映画出演であったが、クリフトにとって本作が遺作となった。音楽にはセルジュ・ゲンスブールを起用、ジャン=リュック・ゴダールが俳優としてノンクレジットで出演している。

同年12月31日、フランス・サントロペのホテルで拳銃自殺、死去した。満44歳没。

没後の1967年(昭和42年)3月17日、『野性の誘惑』のマリナ・ヴラディを主演に起用したレヴィ最後のプロデュース作、ゴダール『彼女について私が知っている二、三の事柄』がパリで公開された。本作には大きな役でレヴィは出演しており、彼の最後の姿を観ることができる。ゴダールがのちに発表した『ゴダールのマリア』(1984年)の原題(Je vous salue, Marie)は、レヴィの『二人の殺し屋』(Je vous salue, mafia !)のもじりである。またアラン・ドロンはみずから製作・主演の映画『ボルサリーノ』(1969年)をレヴィに捧げた。

(後略)

 

ラウル・レヴィは、1961年にも自殺未遂を起こしているし、ギャンブル気質があることもあって(失敗して融資を断り続けても博打的に映画を作り続けた)、その結果が1966年大晦日の拳銃自殺に繋がったのでしょう。…と言いながら、ゴダールにせよ、コルシカ・マルセイユ出身のギャングを描いたアラン・ドロンにせよ、暗に「ギャングによる殺害」をほのめかしていたのではないか、とも思えてしまいます。

(1961年になぜレヴィはコルシカにフランスの軍隊を使って映画を作ろうと思ったのでしょうか?そして自殺した場所がモンテカルロであったわけは?)

 

参考:

アラン・ドロン追悼・フランス映画界の戦後-5(『ボルサリーノ』の主役のモデル) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

仮置き:

アラン・ドロン追悼・フランス映画界の戦後-12(ブリジット・バルドー) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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