Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

ジョン・レノンとオノ・ヨーコと「ヌートピア(Nutopia )」-5

2024年05月11日 | 人物

なんで今、ジョン・レノンとメイ・パンの『失われた週末』なのかー

多分、それは『ヌートピア(ニュートピア)』に注目させるためなのかもしれません。

今年4月にNutopiaが再誕生させようとされているようです。

ジョンとヨーコの“ニュートピア”設立宣言”映像が公開 (udiscovermusic.jp)

(前略)

ジョン・レノン(John Lennon)とオノ・ヨーコ(Yoko Ono)が1973年4月2日にニューヨーク市の42 W 44th Stにあるバーで、概念的な国としての“ニュートピア/Nutopia”の設立を宣言している映像が新たに発掘され、“Citizens of Nutopia/ニュートピアの市民”と題された特設サイトとともに公開された。二人の“ニュートピア宣言”はオノ・ヨーコによる次のような声明から始まる。

(中略)

「1973年にニューヨークで、ジョンと私は報道陣を招き、“ニュートピア”という概念的な国の設立を発表しました。市民は自動的にその国の大使になります。国の主体は、私たちの共同思考の離着陸場です。その国の憲法は私たちの愛であり、その精神は私たちの夢です。私たちはポケットから白いハンカチを取り出し、“これは平和に降伏するための旗です”と言いました。 “平和のために戦う”のではなく、“平和に降伏”する”ことが重要でした」

ジョンはこう付け加えた。

「国土はなく、争うこともなく、境界線もなく、線を引くこともなく、パスポートもなく、人だけが存在するのです。旗はありますが、法律はありません。ニュートピアの人々はみな大使です。そして市民権は、ニュートピアへの自覚を表明することで得られます。一度宣言しまえば、それで市民です。旗は降伏と服従を意味し、鼻をかむこともできます(笑)。私たちは衝動や本能で(こういうことを)します、わかりますよね。特に“マインド・ゲーム”と呼ぶこの種のことについては、本能を働かせようとしています。まず、思いついたことを実行に移す。その結果、どんな反応が返ってきても、それに反応するんです」

Written By Will Schube

 

平和運動、反戦運動でなぜ、同性愛やポリアモリーや麻薬の受け入れまでする人が多いのでしょうか?

ポリアモリー - Wikipedia

主導する人たちはアーティストであれ「裕福層」(彼らは逮捕されることはあっても、戦争に行かされることもない。)、たどれば大資本家や国際政治畑の人たちにもたどり着きます。パフォーマンスで、それは実は煙幕になるだけということも。

ブルームズベリー・グループを思い出します。

ブルームズベリー・グループ - Wikipedia

 

こちらからもう一度ごらんください。

ジョン・レノンとオノ・ヨーコと「ヌートピア(Nutopia)」-1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

スイスのInstitute Le Rosey-3(オノ・ヨーコの家系・米国のフィリップス・アカデミー) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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ジョン・レノンとオノ・ヨーコと「ヌートピア(Nutopia)」-4

2024年05月11日 | 人物

ジョン・レノンとオノ・ヨーコと「ヌートピア(Nutopia)」-3 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で紹介したウッドストック。

ウッドストック・フェスティバル - Wikipedia

 

ウッドストックと言えば、ボブ・ディラン。

ボブ・ディラン - Wikipedia

1941年5月24日、ミネソタ州ダルースに生まれる[18][19][20][21]。ヘブライ語の名はシャブタイ・ツィメルマン(シャプサイ・ジスル)(中略)ジスルはイスラエルの愛称。祖父母はロシア帝国のオデッサ(現ウクライナ)やリトアニアからの移民であり、父エイブラハム・ジマーマン(1911 - 1968)と母ビアトリス・ストーン(愛称ビーティー)(1915 - 2000)は小規模だが絆の固いミネソタのアシュケナジム・ユダヤ人の一員だった。

(中略)


1961年冬、ミネソタ大学を中退してニューヨークに移住したディランは、グリニッジ・ヴィレッジ周辺のフォーク・ソングを聴かせるクラブやコーヒーハウスなどで弾き語りを始めたが、やがてハリー・ベラフォンテのバンドで初めてプロのレコーディングを経験。キャロリン・ヘスターのレコーディングに参加したことや[51]、ニューヨーク・タイムズ紙で好意的に論評されたことを契機に、コロムビア・レコードのジョン・ハモンドにその才能を見出され[54][53]、1962年3月にアルバム『ボブ・ディラン』でレコードデビューする。しかし同年の成績は5,000枚程にとどまり、これはコロムビアの期待していた売上の3分の1に過ぎなかった。

当初は、トラッド・フォークやブルースを中心に歌っており自作曲は少なかったが、ニューヨークで出会った人達、絵画、ミュージカル、レコード、ランボー、ヴェルレーヌ、ブレイクといった象徴主義的な作風の詩人の表現技巧など、さまざまなものに創作上の影響を受け、急速に多くの自作曲を書いた。

(中略)

アルバート・グロスマンがマネージャーに就任すると、幅広い活動が可能になり、他のアーティストへの楽曲提供が発案された。しかし一方でグロスマンとハモンドが契約をめぐって対立。

(中略)

1962年12月から1963年1月、初めてイギリスを訪れ、BBCのテレビドラマ「マッドハウス・オンキャッスル・ストリート (Madhouse on Castle Street)」に出演し[70]、ロンドンのクラブで演奏した。

(中略)

この頃から、ディランの楽曲をカバーするアーティストが増加した。

(中略)

1964年頃から大麻などの薬物の影響が、コンサートやレコーディングでも見られ始めた。ビートルズやローリング・ストーンズをはじめイギリスのミュージシャンとの交流が芽生えたのもこの時期である。ただしビートルズのメンバーはハンブルク滞在中から薬物[76]、セックス、ロックンロールを享受しており、ディランがビートルズに薬物を教えたというのは誤りである。中期以降のビートルズは薬物体験を題材にしたサイケデリックな曲を多く残したが、特に1960年代半ばのジョン・レノンはディランに傾倒し、作風から精神性などの面でディランに触発された。またジョージ・ハリスンとは後に生涯にわたる友情を築くこととなる。

(中略)

このような非難にもかかわらず、これら3枚のアルバムでディランは従来以上に新しいファン層を多く獲得した。内省的で作家性の強い原曲を、アメリカ社会のさまざまなルーツミュージックやリズム&ブルースなどのバンドアレンジに乗せたこの時期の作品が、ロック史の大きな転換点として位置づけられている。また、この頃の歌詞はアレン・ギンズバーグらの文学者からも絶賛されるようになっており、ロックの歌詞が初めて文学的評価を獲得したものとして重要である。

(中略)

こうして最初の絶頂期を迎えていた[79]1966年7月29日に、ニューヨーク州ウッドストック近郊で[80]交通事故を起こす[81]。重傷が報じられ[82][注釈 32]、すべてのスケジュールをキャンセルして[83]隠遁。再起不能説や死亡説などの噂が流布した[84]。しかし当時、ドラッグ[85]とコンサートツアーに明け暮れ、「競争ばかりの社会から抜け出したかった」[81]ディランにとってはかえってよい休養となった[86][83]。事故の三週間程前、秘密裏に結婚していたサラ・ラウンズとの間に子供が生まれ、家族以外のことには興味を持てなくなっていたディラン[81]の大きな転機である[86][85]。

翌1967年からはウッドストックに隠遁し、ザ・ホークスのメンバーとともにレコード会社向けデモテープの制作に打ち込む。このセッション音源をもとにしたアセテート盤が配布され、マンフレッド・マンによる「マイティ・クイン ("Quinn the Eskimo (The Mighty Quinn)") 」がキャッシュ・ボックスで10位、全英シングル・チャートで1位を獲得するなど、様々なミュージシャンにカバーされて紹介された。

 

1967年といえば、ビートルズを作り上げたブライアン・エプスティーン(エプスタイン)が薬物の過剰摂取で死亡した年でした。。

ブライアン・エプスタイン - Wikipedia

抜粋:

ブライアン・サミュエル・エプスタイン(Brian Samuel Epstein, 1934年9月19日 - 1967年8月27日)は、イギリスの実業家。

1962年6月26日、ビートルズをマネージメントする為の会社「NEMSエンタープライズ」を弟クライブを共同経営者に迎えて設立する。ビートルズのマネージャーとして最もよく知られ、彼らからはエピーという愛称で呼ばれていた。なお、彼自身は自分の苗字を常にエプスティーン(Epsteen)と発音した。

家族と生い立ち
父方の祖父アイザック・エプスタイン(1877〜1955)は、リトアニアからイギリスに移住したユダヤ人(ユダヤ系リトアニア人)。

 

オマケ:

なお、英語版Wikipediaには、

Brian Epstein - Wikipedia

In 1964, after having been introduced to cannabis by Bob Dylan in New York, Epstein was observed by McCartney standing in front of a mirror, pointing at himself and repeatedly saying "Jew!", while laughing loudly, which McCartney found hilarious and "very liberating".

(1964年、ニューヨークでボブ・ディランから大麻を紹介された後、エプスタインは鏡の前に立って自分を指差し、大声で笑いながら「ユダヤ人!」と繰り返し言うのをマッカートニーに目撃され、マッカートニーはそれが面白くて「とても面白かった」と感じたという。 [161] エプスタインはその後、1960年代の麻薬業界に深く関与するようになった。)

なぜポールは面白がったのでしょうか?

案外、「Hey Jude」の「Jude(ユダの意味あり)」は、ジョンの息子ジュリアンにむけたものでなく、エプスティーン(エプスタイン)に向けたもの?

ヘイ・ジュード - Wikipedia

The Beatles - Hey Jude - YouTube

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ジョン・レノンとオノ・ヨーコと「ヌートピア(Nutopia)」-3

2024年05月11日 | 人物

ジョン・レノンとオノ・ヨーコと「ヌートピア(Nutopia)」-2 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

から:

オノ・ヨーコは「ハプニング」のパフォーマンスをして話題になりました。

Happening - Wikipedia

抜粋翻訳:

1964年に東京では、オノ・ヨーコが草月アートセンターでカット・ピースを上演し、ハプニングを巻き起こした。 彼女は布地で覆われたステージに上がり、観客にハサミを差し出し、出演者がやめるべきだと判断するまで布地を徐々に切り取るように観客に指示した[29]。 この作品は 1966 年にロンドンで開催された芸術破壊シンポジウムで再び発表され、今回は彼女の街路布の切り取りが許可されました。


ハプニング都の始まりは、日本語版Wikipediaより。

ハプニング - Wikipedia

ハプニングは、1950年代から1970年代前半を中心に、北米・西ヨーロッパ・日本などで展開された、ギャラリーや市街地で行われる非再現的で一回性の強いパフォーマンスアートや作品展示などを総称するのに用いられる美術用語である。ハプニングの創始者と言われるアラン・カプローによると「きまった時間と空間の中で演じられる点では演劇に関連をもった芸術形式」。

概要
アメリカの文献では1959年、アラン・カプローがジョージ・シーガルの農場のアート・イベントで、アート作品を発表する際に、「ハプニング」という言葉を初めて使用した。

(中略)

ハプニングの起点はアラン・カプローの、ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングへの多大な関心にあった。(1.ペインティング Painting)カプローはそれを展開してアクション・コラージュを考案した。(2.アッサンブラージュ Assemblage)それにさらに空間的な要素を追加した。(3.エンバイラメント Environment)そして出来上がった「描く自分とその対象物」という構図はわずかにスライドし「自分と様々な物質の相互作用」という構図に落ち着いた。(4.ハプニング Happening)[3]

(中略)

ハプニングはパフォーマンスアート、インスタレーションに大きな影響を与えた。また、日本と米国においては、同時代に盛んだった市民運動や反戦運動、学生運動などのカウンターカルチャーと強い結び付きを得て、しばしば行政当局に事前の許可を取らないゲリラ的活動をとった。(草間彌生[5]もアメリカでの活動時代、ハプニングの女王と呼ばれていた。)そのため、以降の世代には「ハプニングは全てゲリラ的活動」という誤解が蔓延っている。

(後略)

 

農場といえば、1969年に農場で行ったウッドストックも農場で開催されました。

ウッドストック・フェスティバル - Wikipedia

このウッドストックのコンサート会場を提供したのは、「ウッドストック」に会場を提供したのは、マックス・ヤスガーという、ロシア系ユダヤ人でした。

Max Yasgur - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

マックス B. ヤスガー (1919 年 12 月 15 日 - 1973 年 2 月 9 日) は、ニューヨーク州ベセルにある 600 エーカー (240 ヘクタール) の酪農場の所有者であり、1969 年のウッドストック音楽祭が 8 月から開催されたアメリカの農家でした。 1969 年 15 ~ 18 日。 私生活と酪農 Yasgur は、ニューヨーク市でロシア系ユダヤ人移民の Samuel と Bella Yasgur に生まれました。 彼は兄のイシドール (1926–2010) と共に家族の農場 (両親も小さなホテルを経営していた) で育ち[2]、ニューヨーク大学に通い、不動産法を勉強した。

1960 年代後半までに、彼はニューヨーク州サリバン郡で最大の牛乳生産者になりました[3]。 彼の農場には 650 頭の牛がいて、そのほとんどがガーンジー種でした[4]。 1969 年のフェスティバルの時点で、ヤスグルはミリアム (ミミ) ガートルード ミラー ヤスグル (1920–2014) と結婚し、息子のサム (1942–2016) と娘のロイス (1944–1977) をもうけました。 彼の息子は当時、ニューヨーク市の地方検事補だった[4]。

後年、ヤスグルは実際にはベトナム戦争を支持した保守的な共和党員であったことが明らかになった[5][6]。 それにもかかわらず、彼はウッドストック・フェスティバルが彼の農場でのビジネスを助け、ジェネレーション・ギャップを和らげることができると感じた[5][7]。 彼がカウンターカルチャー運動の扱いに対して不承認を示したという主張にもかかわらず[5]、これは確認されていません.[6] ウッドストックのプロモーターであるマイケル・ラングは、ヤスガーを自分の「ヒーロー」と見なし、ヤスガーはウッドストック・フェスティバルの「アンチテーゼ」であると述べた[8]。 Yasgur は早世したため、なぜ祭りが開催されたのかについての質問に答えることができなかった [6] 。

 

参考:

Grasia Mendes Nasi-番外編(1969年) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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