新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

静岡までMISIAを聴きにドライブ遠征 (2日目・後編)

2022-12-28 21:48:57 | 旅行記/テレビ番組

「静岡までMISIAを聴きにドライブ遠征 (2日目・前編)」のつづき、完結編です。

ここで静岡遠征2日目の旅程を…。

ホテル掛川IC東名高速(上り)沼津IC伊豆縦貫道大場・函南IC一般道大場川南R136四日町いちご街道県道136 (反射炉・富士見ロード)韮山反射炉県道136韮山時代劇場 (鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館)蛭ヶ島公園県道136いちご街道八日町R136三島市内R136南二日町R1三島塚原IC伊豆縦貫道長泉JCT長泉沼津IC新東名(上り)御殿場JCT東名高速(上り)東京IC環八笹目通りR17 (新大宮BP)自宅

で、韮山反射炉です。

炉は「連双2基4炉」2つずつ2組L字型に配置されています。
なんでこんな配置になっているのかはあとで判りますので、まずは特徴的な煙突について。
3段式ロケットのような、トラスで補強された煙突の姿が印象的ですな。
でも、現役当時の煙突は、煉瓦を積み上げて、表面を漆喰で覆っていたそうで、上部(2段目と3段目)のみ、鉄枠で補強されていたようです。
ここからは説明板を転記してしましましょう。

明治維新を経て、明治12年(1879)には反射炉の建つ土地が官有地とされ、この周囲が柵で囲まれ保存が図られます
明治14年(1908)には陸軍省により保存のための本格的な修理が行われます。この保存修理工事では、傷んでいた煉瓦の補修や煙突部の鉄帯補強等がなされました。
その後、昭和5年(1930)に発生した北伊豆地震により北炉煙突部最上段が崩壊する被害が生じています。この被害を教訓とし、昭和32年(1957)には、反射炉の外側に鉄骨製のトラスを設ける耐震補強が実施されます。平成元年(1989)に行われた保存修理でこのトラスはさらに強固なものに改修され、耐震性の向上が図られました。

だそうで、「遺産」を継承するのも大変です。

ところで、「3段式ロケット」のような煙突ですが、中の「煙道」は下から上までほぼ同じ太さ(人が通れる太さ)なのだとか。断面四角形なのか円形○なのかは判りませぬ
私、煙突というものは、単に煙を排出するための設備だと思っていたのですが、

煙突内で上昇気流が発生すると、煙突内に温かい空気が吸い込まれていき、燃料投入口からドンドン空気が流入するため、送風装置を使わなくとも、常に空気を送り込んでいる状態となり、その分、炉内の温度が上昇して、少ない燃料で高い燃焼効率が得られる。 (Wikipedia)

だって 知らなかった

さて、鉄を溶かすとき、「前編」に載せた「炉体断面図」を視ていただきたいのですが、石炭投入口から石炭を、

石炭投入口

鋳物鉄投入口から鋳物鉄を、

鋳物鉄投入口

それぞれ投入して石炭を燃やすと、千数百度の高温で熔けたは、傾斜のついた炉床を伝って、出湯口から流れ出るという仕組みです。

出湯口側

四角い大きな穴が一つと、小さな穴が二つ見えます。
大きな穴「方孔(ほうこう)」「熔解した鉄をかき混ぜたり、取り出して品質を調べたりするところ」、その右下の穴「出滓口(しゅっさいこう)」「熔解した鉄の上部に浮く滓(スラグ/かす)を取り出すところ」で、その左下の穴「熔解した鉄が流れ出てくる」出湯口(しゅっとうこう)

ここで、「連双2基4炉」L字型に配置されている理由が明らかになります。

反射炉の出湯口側と鋳台(跡)

このように、出湯口は一つの四角いエリアを向いています。
4つの出湯口から流れ出た鉄は、この四角いエリア(鋳台)に設置された鋳型に流れ込むようになっているんです。
現在は「砂場」みたいになっていますが、往時は、大砲の鋳型を置くための4.06m×4.06m×2.7mの凹みがあって、その上には、「前編」に写真を載せた「模型」で再現されているように、鋳造が終わった大砲の原型を吊り上げるための「シャチ台」と風雨から炉を守るための「覆い屋」があったのだそうです。

韮山反射炉は、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」の構成資産の一つ。
もともと産業遺産好きの私にとってこの韮山反射炉の見学は予定外かつ予想以上楽しさでした。

   

満足感を胸に、「鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館」へと向かいました。

途中、銅像のある公園があって、あれ? と思いつつもクルマを走らせ、韮山反射炉からほんの10分ほど大河ドラマ館に到着しました。

前夜、「鎌倉殿の13人」最終回視られず、帰宅してから録画を視るつもりの私、ネタバレはないよな… とほんのちょっとだけ緊張しつつ入館しました。

まずは主要な登場人物のパネル

小池"尼御台"栄子さんってイメージより背が低いんだな と思ったものの、小栗"小四郎"旬さんと坂東"時政"彌十郎さんが共に180cm台大きいだけでした

大河ドラマ館で楽しいのは、実際に着用された衣装を見られることだと思っておりまして、まずは闇落ち前小四郎の衣装

と思ったら、草履だけが「撮影使用品」で、着物(松葉色地染め木綿小袖に若苗色地染め桔梗拮抗柄麻直垂)「複製品」でした

一方、八重さん千鶴丸くんの衣装は「撮影使用品」

八重さんの衣装の「前掛け」みたいなの「褶」がなんともキレイ

政子さんの衣装の説明によると、

「当時は小袖に『褶(しびら)』という布を腰に巻くスタイルが武家の女性に多くみられた」だそうです。

とかなんとかと見物しているうちに、かなり腹が減ってきました
まだ12:30なのに…

「地域クーポンが使える三島の鰻屋さんに行く前に、さっき気になった銅像を観て行くことにしました。
実は、あの銅像は、源頼朝が配流された「蛭ヶ島」と言われている場所に立っているらしいのですよ

そして蛭ヶ島公園の駐車場にクルマを駐め、さっそく例の銅像「蛭ヶ島の夫婦(ふたり)」を見物しました。

「蛭ヶ島の夫婦」とは、もちろん、源頼朝&政子夫妻のことで、この二人が本物の富士山を眺めている様子。
頼朝の配流地がこの場所だったという確証は得られていないようですが、雲さえなければ富士山がこんなにきれいに見える場所なら、流人ではあっても、また、しばしとはいえ、頼朝心穏やかな日々を送れたんじゃないかと思ったりして

なお、「蛭ヶ島公園」はいわゆる「島 (island)」ではありません

   

以上を以て静岡観光お開きにして、三島の鰻屋さんGo

そして、鰻重をいただきました

ふわっふわとろっとウナギでございました
これが地域クーポン+現金630円で食べられたなんて、全国旅行支援バンザイ\(^o^)/であります

   

新東名 & 東名は、交通量が若干多い地点はあったものの、渋滞は無く、14:40には多摩川橋を渡って都内に入りました。
まだ時間も早いし、首都高速でも大丈夫かな? と思っていたのですが、3号線と中央環状線渋滞しているようで、「昔取った杵柄」環八ルートを選択しました。でも、環八もしっかと渋滞していまして、東京ICから自宅まで1時間半もかかってしまいました。

1泊2日の「小さな旅」でしたが、なかなか濃い旅行でした。
とっぴんぱらりのぷぅ。

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今年2度目の関西遠征記 #3-6 [完結編]

2022-04-07 19:25:05 | 旅行記/テレビ番組

「今年2度目の関西遠征記 #3-5」のつづきです。

朝ドラ「カムカムエヴリバディ」は、明日、ついに最終回を迎えるわけで、この「連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ展』」見聞録がそれより前に完結できそうでホッとしております。

「回転焼 大月」では、回転焼きの数に応じて、大きさの異なる紙袋に入れてくれていましたが、その紙袋も展示されていました。

大きな手提げの紙袋にも「回転焼 大月」のロゴが入っていて、紙袋は何種類あるのだろうと思っていましたが、このロゴゴム印でした
ゴム印なら、どんな大きさでも、無地の白い紙袋を用意すれば簡単に「大月の袋」になるし、もしかすると、ジョーさんでもゴム印を捺すお手伝いくらいはできたかもしれません

あ、こちらは 回転焼きの仕上げに使われていた「大月」焼き印

最後に、スタンプコーナーがありまして、「条映映画村」のキャラクター「カットりくん」大月のスタンプを捺しました。

が、「カットリくん」のスタンプがかなり曲がってしまった

「スタンプを回転させてどないすんねん」でして、「大きな声で『カット』とさけぶよというカットリくんに、「カァ~ットと叫ばれそうです

ところで、「条映映画村」のモデルが「東映太秦映画村」であるように、カットリくんにもモデルがいまして、それが、かちん太

恐らく「カチンコ」から名を採った旅ガラスです。

一方のカットリくんは、忍者の扮装をしたで、映画監督がシーンの最後に発する「カットと、東映とも縁のある「忍者ハットリくん」にかけているのでしょう。

なかなか巧妙「本歌取り」だと思います。

さて、以上で「カムカム展」おしまい…と思いきや、いかにも普通の掲示板のようにして、重要なポスターが掲示されていました。

右の「かわらばん」チビひなたジョーと映画村にやって来たときに赤螺親子と一緒に見たもの。ひなたが空き瓶集めで入場料を貯めてやって来たこのサイン会モモケン大月の回転焼きをプレゼントし、モモケンはひなたの質問に対する自分の答え初代モモケンのを感じるという重要なできごとになりました。
さらに書けば、空き瓶集めの過程で、ひなた吉之丞と空き瓶を取り合ってケガ⇒そのお詫びとして吉右衛門福引補助券を贈呈⇒福引きでるいラジオを引き当てる⇒るいラジオ英語講座が放送中であることを知る、と繋がっていったのでした。

そして、真ん中の「ミス条映コンテスト」のポスターは、将来が見えなくなっていた高3ひなたが、黍之丞の顔出しパネルから見つけたヤツで、コンテストに出場することで、虚無さんから「時代劇を救う者」として見いだされたんでしたな…

それにしても、こうして振り返ると、「カムカムエヴリバディ」は約半年にわたっていくつものプロットを積み上げて、それをつなぎ合わせて、ゴールを目前にしているのだなぁと感慨深い

こうして「カムカム展」を存分に楽しんで、「条映映画村」から下城しました。
そして、外にある「条映映画村MAP」「観察しました。

良く見ると、基本的には東映太秦映画村のレイアウトを踏襲しつつも、微妙に違うんですな。

さて、これにて東映太秦映画村の見物はおしまい

   

この時点で時刻は13:50で、帰りの新幹線までは約2時間
1時間ちょっと余裕がありますが、さて、どうしようか?? と考えながら太秦広隆寺駅へと歩いて行くと、神社の由緒書が目に入りました。

その名も「大酒(おおさけ)神社」で、それ名前だけでもインパクトがありますが、注目すべきは「祭神」の筆頭が「秦始皇帝」だということ

この由緒書は、極めて読みづらいのですが、いつか役立つときが来るかもしれませんので、とりあえず転記しましょ。

当社は、延喜式神名帳葛野(かどの)郡二十座の中に大酒神社 (元名)大辟(おおさけ)神社とあり、大酒明神ともいう。
「大辟」称するは秦始皇帝の神霊を仲哀天皇8年(356年)皇帝14世の孫、功満王漢土の兵乱を避け、日本朝の淳朴なる国風を尊信し始めて来朝し此地に勧請す。
これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生まれた。
(=後) の代に至り、功満王の子弓月王(ゆんずのきみ)応神天皇14年(372年)百済より127県の民衆18,670余人統率して帰化し、金銀玉帛等の宝物を献上す。又、弓月王の孫酒公(さけきみ)は、秦氏諸族を率いて蚕を養い、呉服漢織に依って絹綾錦の類を夥しく織出し朝廷に奉る。絹布宮中に満積して山の如く丘の如し。天皇御悦の余り、埋益(うずまさる)と言う意味で酒公に禹豆麻佐(うずまさ)の姓を賜う。幾多の絹綾を織出したつ呉服漢織の神霊を祀りし社が大酒神社の側にありしが明歴年中破壊に及びしを以て、当社に合祭す。
機織のみでなく、大陸及半島の先進文明を我が国に輸入するに努め、農耕、造酒、土木、管弦、工匠等産業発達に大いに功績ありし故に、其二神霊を伴せ祀り三柱となれり。
大酒の字を用いるは酒公を祀るによって此の字に改む
広隆寺建立后、寺内、桂宮院(国宝)境内に鎮守の社として祀られていたが、明治初年政令に依り神社仏閣が分離され、現在地に移し祀られる。現在広隆寺で10月10日に行われる、京都三大奇祭の一つである牛祭りは、以前、広隆寺の伽藍神であった時の当社の祭礼である。
尚、603年広隆寺建立者 秦河勝酒公の6代目の孫
又、大宝元年(701年) 子孫秦忌寸都理(いみきとり)松尾大社を創立。和銅4年(713年) 秦伊呂具(いろぐ)伏見稲荷大社を建立した。古代の葛野一帯を根拠とし、機内のみならず全国に文明文化の発達に貢献した、秦氏族の祖神である

これを読んで、「太(うずまさ)」という地名(知らなきゃ読めない)の由来とか、古代の有力渡来人一族として歴史の授業に出てきた(はた)氏」の始皇帝に繋がる家系(との伝承)だということとか、初めて知りました
また、嵐電太秦広隆寺駅の東隣りの駅の名前が「蚕ノ社(かいこのやしろ)」から採られているのも、秦氏一族の影響なんだろなと感じ入ったりして…。

なお、古代の秦氏のお話は、伏見稲荷大社の沿革で、やや易しく書かれています。

神仏分離 (また出た) の中で広隆寺から「追い出された」社殿は、かなりこぢんまりしていました。

さて、このあと、久しぶりに広隆寺に拝観しようかな、とも思いましたが、すでに東映太秦映画村満腹状態でしたので、「#3-1」書いた旅程のとおり、おとなしく、来たルートで京都駅まで戻り、しばしぼーっとした時間を過ごし、帰路についたのでした。

今年2回目の関西旅行は、訪れた「観光地」こそ少なかったものの、けっこう充実したものとなりました。
とりわけ、敢えて1泊追加しての京都での一日は大成功
あ~、楽しかった [完]

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今年2度目の関西遠征記 #3-5

2022-04-06 19:35:14 | 旅行記/テレビ番組

「今年2度目の関西遠征記 #3-4」のつづきも、東映太秦映画村での「連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』展 ~ひなたの映画村へようこそ~見聞録です。

「#3-4」に載せたるいの命名書稔⇒安子の手紙は実際に誰が書いたか不明でしたが、上白石萌音さんが書いた安子⇒稔の手紙以外にも、出演者自ら書いたというものがいくつか展示されていました。

モモケンサイン色紙尾上菊之助さんが書いたものだし、ひなたの部屋に飾られていた「さむらい」新津ちせちゃんが書いたものだとか。

ちせちゃんは他にも、こちらの絵日記も書いたのだそうで、かなり多才な「お子」ですなぁ。

ところで、この絵日記には、

 三人で宿題をしました。

って書いてあって、実際にそうなのですが、三人でやったのが「ひなたの宿題」であることは巧く伏せられています

一方、ひなたの絵日記を手伝うつもりが、いくらなんでもこれはだったジョーによる絵は誰が描いたのでしょうかねぇ

また、同じくジョーによる「回転焼 大月」のチラシも作者不詳です。

このチラシをもらったケチ右衛門さんが顔をしかめるのも無理はない
でも、求められているものよりもの自分がやりたいものを優先させる芸術家・ジョー本領発揮 という気がします。

   

どこの家でも録画できるようになって、ドラマをつくる側は、ますます細かなところまで気を使わなくてはならない時代になっているのでしょう。
なんとも素晴らしい「仕事」だと思ったのは、虚無蔵さんの木刀でした。

使い込まれた(ところどころ凹んでいる)リアルですし、

柄には「伴虚無蔵」の名前がきれいに彫り込まれています

また、飲み物のラベルら缶も、かつてのNHKのドラマに比べると、かなりかなり手をかけて作り込んでいます

「ワンカップ大関」ならぬ「オニチョップ殿下」、「ワイルドターキー」ならぬ「マイルド フェザント(雉)(トミーがナイト・アンド・デイでの演奏中にラッパ飲みしてた)、「コカコーラ」ならぬ「武士道コーラ」、「ハイシー」ならぬ「オイシー」とかとか…

「キレの良い店 森岡酒店」前掛けは、手作り感満載でした

森岡酒店が出てくれば、「あかにし」も…。
ケチ兵衛⇒ケチ右衛門 (ケチ之丞⇒小夜ケチ と繋がるのか?) と引き継がれた赤螺家のポリシーが顕著に示されているのは、この電話器

  

電話はかけるもんやない
かかってくるもんや

だそうです

どの小道具も、良くできているのですが、放送されたときに「ん?」と思ったのが、ジョーとるいの戸籍でした。

昭和39年4月20日ジョーとるいの結婚に伴って編製されたこの戸籍、和文タイプで打たれています。
この数年前に作られた私の両親の戸籍手書きでして、その数年の間に手書きから和文タイプに変わったのか、はたまた、都会と地方との違いなのでしょうか?

それはともかく、この大月家の戸籍を見て気づいたのですが、大月家の本籍は、

 岡山県岡山市朝丘町八丁目六番地

です。
「たちばな」初代の「あかにし」があったのは朝丘町商店街でしたから、もしかすると、橘家のあった場所を本籍にしてる?
それとも、初代「Dippermouth Blues」朝丘町にあった?

謎が謎を呼びますが、小道具担当さん芸の細かさが見えたのは、ラジオ英語講座のテキストに書かれた名前でした。

安子が書いた「Yasuko Rui」と、るいが書いた「Hinata」の筆蹟が違う
でも、どちらも母⇒娘愛情が感じられます…
どうでもいいですが、私が「3カ月坊主」で買った「基礎英語」「続基礎英語」のテキストは、ひなたちょっとだけ使った「英語会話」のテキスト同じデザインだった記憶があります。

モモケンさんを忘れてた
二代目モモケン演じる棗黍之丞のハデな衣装と、

リメイク版「棗黍之丞 妖術七変化 隠れ里の決闘」ポスターです。

武藤蘭丸こと青木崇高さんの出演はあれだけなのかな? そうだとすれば、「おちょやん」での箕輪悦子こと天海祐希さんと並ぶ贅沢な起用だ…

先だって東映太秦映画村映画文化館で映画の台本を見たとき、その意外な薄さに驚いたのですが、「カムカムエヴリバディ」に登場した台本もまさしく同じ「薄さ」でした。

左は、轟監督が役名に赤丸をつけて文ちゃんに手渡した台本ですな。
レシートの裏箸袋以外になら 気安くサインに応じる美咲すみれさんのサインはこんなところにもありました。

ホントはこの記事で「カムカム展」のことは書き終えるつもりだったのですが、まだ終わらない

でも次の「#3-6」完結させるつもりです。

【追記】武藤蘭丸(by 青木崇高さん)再登場した しかも、三代目 棗黍之丞として
さらに、最後に載せた2枚のポスターにあんな意味が込められていたとは (2022/04/08) 

つづき:2022/04/07 今年2度目の関西遠征記 #3-6 [完結編] 

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今年2度目の関西遠征記 #3-4

2022-04-05 21:08:11 | 旅行記/テレビ番組

「今年2度目の関西遠征記 #3-3」のつづきです。

東映太秦映画村を楽しんだあと、今度は「条映映画村」です。

「連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』展~ひなたの映画村へようこそ~」(4月27日で終了)の入口は、東映城大手門のすぐ右の通用門のようなところにありました。

と、その左側にあったのは、

「カムカムエヴリバディ」では条映映画村の日本橋のたもとに設置されていた案内MAPでした。

この案内MAPはあとでじっくりと観察させていただくことにして、入村

来場者を迎えてくれたのは、

初代モモケン主演作の手描き看板

るいジョー(クリーニング屋の竹村夫妻も)大阪で視た「駄作」の誉れ高い(?)「棗黍之丞 妖術七変化 隠れ里の決闘」だけでなく、算太岡山で視た初代モモケンのデビュー作「桃から生まれた劍之介」とか、安子大阪で視た「棗黍之丞仁義劍」とかの看板もありました。
きょうの「カムカムエヴリバディ」では、この「棗黍之丞仁義劍」アニーの「壁」決壊させましたなぁ。

振り返ってみれば、「カムカムエヴリバディ」ではモモケンが物語を動かす重要な役回りだったんだなと思います。
わたし的にこれまでの大好きシーン No.1は、落ち込むチビひなたに臨月のるいが披露した

 おかあちゃん、見参 (最高に決まっていた)

だし…

お次は、「条映映画村の備品」の顔出しパネルです。

右側の二代目モモケンの顔出しパネルは、川栄李奈さんの顔の大きさに合わせて制作されたと聞いていましたが、「感染拡大防止のため」として、実際に顔出しすることはNGでした。

「カムカム展(略称)入場無料だけあって(?)、その展示スペースは狭かったのですが、それでも展示された品々はどっさりあって、「あ~、あの時の連発でした。
係員さん条映のはっぴを着ているのも良し

展示品は、冒頭に載せた「条映の社旗」につづいて、ジョー関係から始まりました。
ジョーが優勝した笹川プロダクション主催のジャズセッションポスターとチケットチビ・ジョー米軍クラブでトランペットの吹き真似していたボトル

ジョーの思い出の品

そしてトランペットと、ジョーが笹川家のピアノの上に無造作に置いたものだから、Twitter上で批判がかまびすしかったケース

見上げると、ナイト・アンド・デイネオンサイン本家サッチモちゃん

このネオンサインのデザインがイイ

「カムカム」が番組のロゴやタイトルロールや回数表示などに多用している「円(丸)だし(回転焼きもそう)、ネオンサイン独特の流れるような筆記体文字の傾きが、楽しげです。

   

お次は、「安子&稔」編で、「Dippermouth Bluesマッチと二人の交換書簡

「Dipper Mouth」は、「サッチモ (Satchmo)」以外にもいくつかあったルイ・アームストロング愛称の一つなんですな
ですから、こちら「Dippermouth Blues(敵性語排除の時代の店名は「出齒口の憂鬱」)常備品だったのでしょう。

さんは男女兼用で「るい」ひらがなで命名したから、ちゃんは「塁だと思い込んだ悲喜劇

ここまで書いたところで、稔⇒安子⇒るい⇒ひなたと受け継がれた「神器的存在の「雉眞稔」名入りの英和辞典の写真を撮り忘れていた ことが判明しました
Why? Why?
もったいないことをしました…

いまさら悔やんでもせんないことなので、気を取り直して、もう一度、安子&稔交換書簡をじっくりと拝見しましょ。
まずは、昭和14(1939)年9月27日付け安子⇒稔の手紙

つづいて、同年(と思われる) 9月28日付け稔⇒安子の手紙

この2通の手紙は、大阪~岡山のどこかすれ違ったはずなんですが、奇しくも二人とも十五夜の月のことを書いていて、ここでも「円(丸)」共鳴しあっています

というところでカムカム展のお話は「#3-5」につづきます。

つづき:2022/04/06 今年2度目の関西遠征記 #3-5 

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今年2度目の関西遠征記 #3-3

2022-04-04 11:47:47 | 旅行記/テレビ番組

「今年2度目の関西遠征記 #3-2」のつづきです。

私が小学生の頃、うちには、脳卒中で寝たきりだった祖母の介護役として、縁戚だか知人だかのおばさんが住みこんでくれていました。
このおばさんが時代劇ファンで、うちでもよくTV時代劇を視ていたものです。
そんな環境もあって、私もけっこうTV時代劇視たクチでした。
ですから、東映太秦映画村のオープンセットで「銭形平次の家」を見たときは、長火鉢の奥に座る平次親分(大川橋蔵さん)がいるような気がして、懐かしさを感じました。

銭形平次は、いつもでつなげた穴あき銭を腰にぶら下げていて、いざとなると、そのピッと取って、悪党に投げつけるのが見せ場になっていました。
その頃から私が疑問に思っていたのは、平次親分が投げつけた回収されて再利用するのか? ということと、どうして紐で繋がっているのに瞬時に銭を取り外して投げることができたのか? ということでした。
前者は、あとで平次親分の手下が回収してたのだろうと推察できましたが、後者については、ずっと疑問に思い続けていました。っつうか、疑問に思っていたことすら忘れていたのが真実に近い…

そして、「銭形平次の家」を訪れている最中、この後者の疑問が蘇ってきたのです。
そしてそして、思いついたアイデアがあって、それをけさ、実験してみました。

それは、伸縮性のある紐を銭の穴に通して、その先端に穴より微妙に大きい結び目を作るというもの。
これだと、銭を何枚も重ねて紐を腰からぶら下げても、銭が落っこちることはありません。でも、一番下の銭を力を入れて下に引くと、結び目が押し縮められて、銭は結び目を通り抜けられる…というもくろみです。

そして写真のように50円玉を使って試してみました。

すると、見事に成功

ただ、何度もやっていると、結び目が圧縮されてしまい、銭のホールド性が低下しますので、定期的に新しい結び目を作るのがよろしいかと思います。ご参考まで

   

オープンセットのあちこちに、「カムカムエヴリバディ」撮影スポットを示す表示があって、

歩き回る人の多くが、私と同様、「『カムカムエヴリバディ』の舞台 映画村めぐり」を持っていて、「あぁ、ここ、覚えてるとか会話を交わしていました。

ここで悲報を…。

東映太秦映画村では、

朝ドラの和菓子監修「吉乃屋」中西店主によるあんこをふんだんに使用

という回転焼きが販売されているはずだったのですが…、

OMG

気を取り直し、東映だけでなく、すべての日本の映画人たちへの敬意が感じられる「映画文化館」を見学して、これでひととおりオープンセットの見学を終えました。

そして、喫煙所で一服しながら、「『カムカムエヴリバディ』の舞台 映画村めぐり」を眺めて反芻していると、

「4つのキーワード」一つも見つけていない
っつうか、そんなのを見た記憶もありません

どういうこと???

困惑しながら、ヒントを探しました。
「MAPを見てから…」クサい と思い、もう一度MAPじっくりなめ回すように見ると、、、あることに気づきました
そして、オープンセットをもう一度巡りながら出口に向かう過程で、4つ「あなうめ問題」を見つけ、「言葉を完成」できました
答えとか、コンプ記念品は、これからチャレンジされる方への配慮として秘させていただきます

入場口(入村口)のある建物「パディオス」2階も覗いてみましたが、

私は仮面ライダーシリーズにも、スーパー戦隊ものにも、プリキュアにも、興味がないので、ふ~ん…でした。

最後に「スターズカフェ CHANBARA」そばを食べて、これにて東映太秦映画村有料ゾーンはおしまい。

結局、ここまで2時間半にわたって楽しめました。
課金アトラクションとか、お子さま向けパスして「2時間半ですから、お子様連れだったら、ほぼ一日コースになってしまうのでしょうな…

私はここで東映太秦映画村を退場(退村)しましたが、「お楽しみはこれからだで、「連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』展~ひなたの映画村へようこそ~」のことは「#3-4」で書きます。

つづき:2022/04/05 今年2度目の関西遠征記 #3-4 

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約1年ぶりの関西旅行記 #2-3

2021-12-04 15:28:34 | 旅行記/テレビ番組

「約1年ぶりの関西旅行記 #2-2」のつづきです。

住吉大社へのお参りを終えたのは11時ちょい過ぎ
さて、次はどこに行って、お昼には何を食べようか? などと考えながら、とりあえずは北上しよう ということで、戻りは阪堺電車に乗ってみることにしました。

住吉鳥居前で待つこと数分で天王寺駅前行きの電車がやってきて乗車。

電車に揺られながら今後の行動を検討した結果、まずは、道頓堀界隈をブラブラしながら昼食を摂ることにしました。
道頓堀への行き方をスマホで調べると、天王寺駅から大阪メトロ・御堂筋線に乗り換え、なんば駅で降りれば良し、と…。

そしてなんば駅から外界に戻り、ちょいと北上すると、道頓堀エリアに突入しました。
過去、何度も道頓堀にはやって来ましたが、じつは法善寺にはお参りしたことがありませんで、今回が初めて

話に聞くとおり、水かけ不動さまは分厚くに包まれて、菊人形ならぬ苔人形の風情でした。いったいどれだけの年月を経てここまでになったのやら…

と思ったら、法善寺のHPによると、

400年近い歴史をもつ法善寺ですが、実は“水掛け”の歴史は浅く、戦後すぐに始まったものでした。ある日、法善寺へお参りにやってきた一人の女性が、お供えされていた目の前の水を手ですくい、お不動さんに掛けたのです。「願いを叶えて欲しい」と仏さまにすがる女性の強い思いが、今日まで続く“水掛け”の作法の発祥となりました。水掛不動尊を包む苔は、願いの数だけ広がり、願いの分だけ育まれてきました。

ですと

さて、昼飯 なんですが、土曜日の正午だというのに、開いている店がめちゃくちゃ少ない
法善寺界隈だけでなく、名物の立体看板(6年前の訪問記)が溢れる道頓堀商店街に出ても、やはり営業していない店が多い

外国人観光客がほぼ皆無になっていることが大きいのか、人出6年前に比べれば少なく、半減という感じ
それでも、開いている店が少ないことで、営業中の店には行列ができているという、行列嫌いのには厳しい状況でした。

とりわけ、

「道頓堀 今井」には長い行列ができていました。
以前、道頓堀に来たときはまったく気づかないうどん屋さんだった「道頓堀 今井」ですが、昭和21(1946)年創業老舗。その歴史をたどれば(こちらのサイトは実に読みごたえあり)、前身は「今井楽器店」で、そのまた前身は芝居茶屋「稲竹」、、、と来れば、NHK朝ドラ「おちょやん」の主要な舞台となった芝居茶屋「福富」(千代ちゃんの職場は「岡安」だったけど)⇒福富楽器店⇒うどん店「岡福」とぴったり重なります。

今でこそ道頓堀「食い倒れの街」のイメージ一色ですが、江戸時代初期(17世紀)から「芝居の街」で、関西大学 大阪都市遺産研究センターこちらのサイトによると、

最盛期には、歌舞伎六座、浄瑠璃五座、からくり一座の計十二座が軒を並べていました。天保13年(1842)の改革令で、「筑後の芝居(大西の芝居)」・「中の芝居」・「角の芝居」・「若太夫の芝居(若太夫座)」・「竹田の芝居」の五座に減らされますが、川側の通りには芝居茶屋が立ち並び、芝居街として大いに賑わいました。明治時代には、筑後の芝居(大西の芝居)が「浪花座」に、中の芝居が「中座」に、角の芝居が「角座」に、竹田の芝居が「弁天座」へと改称され、「朝日座」とあわせて、「道頓堀五座」と呼ばれるようになりました。

だとか。

大正中期の道頓堀

現在の道頓堀のシンボルTOP3といえば、「くいだおれ太郎」グリコの看板戎橋かと思います。

特にグリコの看板を背景に、戎橋の上でバンザイ\(^o^)/するのは記念撮影の定番
ところが、「おちょやん」道頓堀編にしばしば登場したは、戎橋ではなく太左衛門橋でした。

これは、太左衛門橋道頓堀芝居街真ん中に架かる橋だったからなのだろうと思います。

それはさておき、既に「道頓堀五座」はいずれも跡形もなく姿を消し(中座くいだおれビル「中座」の名前が残っているくらいか…)、「芝居の街」だった時代の最後期、大正12(1923)年に開業した大阪松竹座道頓堀唯一の大劇場として残っているのはなんというか…
この日、大阪松竹座で松竹新喜劇が公演中で、演目の中には「おちょやん」で重要な役回りになった「お家はんと直どん」が含まれていました。

で、昼食を摂るお店を決めあぐれるまま道頓堀商店街をさまよい歩いた末、結局、道頓堀川の北側、心斎橋筋で前夜に続いて串カツを食べました。

   

昼食と、河岸を変えての食後のコーヒーを終えた段階で、時刻は13:40約1時間フェスティバルホールに着けばよいタイミングです。(この日の「MISIA星空のライヴ ACROSS THE UNIVERSE1st Show15:00開演)
フェスティバルホールへは、御堂筋線なら心斎橋駅から淀屋橋駅まで2駅四つ橋線なら四ツ橋駅から肥後橋駅まで2駅と、地下鉄に乗ればあっという間に着いてしまって、時間を持て余すこと必至です。しかも地下鉄で2駅なら歩くのも良かろう と考え、徒歩フェスティバルホールを目指すことにしました。
大阪の街はほぼ碁盤の目状の町割りですから、道に迷うこともなさそうです。

こうして、心斎橋筋商店街を北に向かって歩き出したところで、「#2-4」 につづきます。

つづき:2021/12/05 約1年ぶりの関西旅行記 #2-4

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思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-4 [番外編]

2020-03-17 16:41:32 | 旅行記/テレビ番組

きのうの記事「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-4」番外編です。

秋田の別邸帰省しています。
きのう、新幹線で帰ってきたのですが、今回の帰省用というか、帰省中のブログ書きの参考用に、BDレコーダーに録画済みの「ブラタモリ」「#92 岐阜(17/12/2放送)」「#143 比叡山(19/9/21放送)」「#144 比叡山の修行(19/9/28)」BDに落として持ってきました。

私、「ブラタモリ」は、結構、リアタイで視ているはずなんですが、「#92 岐阜」視た記憶が無くて、きのう、別邸で視てみました。

岐阜城チャート露頭を観たり、その「由来」を読んだりするうち、なんだかブラタモリみたい… なんて思っていたら、「ブラタモリ #92 岐阜 ~岐阜は 信長が夢見た“平和の都” !?~」前1/3は、まさしく、「金華山=チャートの山」の話に終始しているではありませんか
しかも、番組で最初に出てくるチャートの地層「#1-4」写真を載せた、山頂部の喫煙所近くの場所だし、「褶曲(しゅうきょく)」愛でるのは、山麓の織田信長居館跡滝のところだし…

私の岐阜城観光は、「なんだかブラタモリみたい… 」どころか、完全に「ブラタモリ」後追いですよ
しかも、放送2年半もあとに…

やはり、出かける前に、予習として「ブラタモリ」見ておくべきだったなぁ~と、反省しきりでございます。

上の写真は、天守の手前で見えた石垣なんですが、この石垣が、天守手前の低くなっていた地点に土を盛り石垣を築いてなだらかな通路に変えた跡だなんて、現地じゃ思いもつきませんでしたよ…

また、の際には、天守に立て籠もっても、麓を制圧されれば孤立するだけという戦いには不向きの城(「#1-2」で書いたように、関ヶ原の戦い直前の「岐阜城の戦い」では、1日で落城した) を、なぜ信長が造ったのか不思議だったのですが、「ブラタモリ」で解説されていたように、岐阜城示威接待のための施設だったと考えれば合点がいきます

   

今回の岐阜観光は、岐阜公園のみ2時間半程度のスポット観光でしたけど、「ブラタモリ」を視たら、もう一日岐阜市内をのんびりと歩いて川原町の街並みとか、

織田塚なんぞを、

見物すれば良かったかな… と思ったりして…

もっとも、翌日は、そもそも観光に不向きの天気だったのではありますが…

やはり、観光の予習には「ブラタモリ」欠かせない と思うわけでございます。

旅行記本編に戻る:2020/03/21 思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-5 

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「MISIA星空のライヴIX @河口湖」遠征3日目のこと(その6)

2016-06-29 21:27:19 | 旅行記/テレビ番組

この日曜日の夜、NHKスペシャルは、

でした

昨年の信州旅行(記事はこちら)をきっかけに、初めて諏訪大社とか御柱祭のことを調べたり見聞きした私にとって、この番組は興味津々のネタが盛り沢山でした。

例えば、昨年の信州旅行落ち穂拾いとして今年のゴールデンウィークに出かけた中ッ原遺跡(記事はこちら)が登場したり、

代々、諏訪大社上社神長官(記事はこちら)を務めてきた守矢家ご当主が登場したりと、

私は大盛り上がりでした

ところが、ふと冷静になってみると、中ッ原遺跡に出かけたり、井戸尻考古館の前で諏訪大社上社御柱の展示を観てから、

まだ2か月も経っていません
それなのに、去年7月の信州旅行今年5月の「MISIA星空のライヴIX」遠征とが混じり始めていて、これはちょいとマズい状況です。

これというのも、「MISIA星空のライヴIX @河口湖」遠征記遅遅として進んでいないからかもしれません。

ということで、「『MISIA星空のライヴIX @河口湖』遠征3日目のこと(その5)」つづきです

実は、「その5」で、

IZU PHOTO MUSEUM「本橋成一 在り処」展を鑑賞した私は、満足のうちに駐車場からクルマを出して、ベルナール・ビュフェ美術館へ向かいました。

と書いたのですが、ベルナール・ビュフェ美術館で観た「ロベール・クートラス 僕は小さな黄金の手を探す」の感想が、私の頭の中でまとまらなくて・・・

そもそも、ロベール・クートラスという画家を知ったのはこの展覧会初めてで、そんな初めて知った画家の回顧展を観るという体験は初めてだったかもしれません。

そんなわけで、どうにもブログに書けなくて、旅行記を先に進めることができなかったというわけです。

そんな頭がカオスの状態で、ベルナール・ビュフェ美術館を出てクルマに乗り、走り出した私です。
ホントは、クレマチスの丘レストランのどれかで、のんびりとランチを食しながら、「ロベール・クートラス 僕は小さな黄金の手を探す」の感想を整理したかったのですが、折悪しく昼食のピークタイムだったのですよ。
やむなく、とりあえず、次の目的地を目指してクルマを走らせたのでありました。

   

NHKスペシャル 古代史ミステリー「御柱」~最後の“縄文王国”の謎~は、7月16日(土) 00:10~00:59金曜日の深夜ともいえる)に総合テレビ再放送されるようです。
初回放送を見逃した方、今度はお忘れなく

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祝 「ブラタモリ」復活!

2015-03-27 23:13:02 | 旅行記/テレビ番組

TVで「ブラタモリ 京都・完全版」を横目で見ながらこの記事を書いています。

NHKのHPによれば、

街歩きの達人・タモリさんが、“ブラブラ”歩きながら知られざる街の歴史や人々の暮らしに迫る「ブラタモリ」。
3年ぶりに4月からレギュラー番組として復活します。

だそうで、めでたいことこの上もございません

今年の1月にパイロット版的に「京都編」が放送されると聞いたときには、狂喜乱舞していたのですが、放送当日のそのタイミング、来客があったもので、リアルタイムには観ることができませんでした。
でも、しっかと録画予約しておりまして、後日、その録画を観ることができました。

すると、、、おおおぉ~

「徒然煙草の咄嗟日記」で書いたネタがいくつも出てくるではありませんか

まずは、琵琶湖疎水

南禅寺の境内にある水路閣とか

インクラインとか、

は、2011年4月の京都旅行重点的に見物して「いったいいつの話だ?の京都旅行記」シリーズ(例えばこちらとかこちら)で書きましたし、タモリさんが「初めて見た」とおっしゃっていた犬釘も、

九州鉄道記念館で実物を観て、「『福岡・北九州 新春の旅』覚え書き(その6)門司港篇」で書きましたっけ・・・

さらに「御土居」も、「新装『ミュージアムシアター』を楽しんだ!(後編)」北野天満宮にある遺構を取り上げましたなぁ

こんな風に、「おぉ、知ってるの連発で、激しく盛り上がってしまったのでありました。

いよいよ復活する「ブラタモリ」初回&2回目長崎だそうで、またまた私が観たことのある場所/モノが登場するのでしょうかねぇ・・・

ちなみに3回目&4回目金沢は、私は列車で通過したことがある(はず)だけですので、こちらは今後の勉強のために拝見することにいたしましょう。

井上陽水書き下ろしの新テーマソング楽しみデス。

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