新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

伊勢では玄関先に一年中「しめ飾り」を吊す?

2014-04-30 19:00:55 | 旅行記

ついに、私にとって47都道府県目になる三重県にやって来ました

こちらでツイートした「特製ビニール傘」を勝浦のホテルに忘れてきたり、昨日来の豪雨の影響とかで列車が遅れて乗り継ぎにヤキモキしたり、伊勢市駅の南北間の行き来の不便さ(自由通路がない)に閉口するといったできごともありましたが、天候に恵まれた三重初日となりました。

今日の旅程は以下のとおりでした。

ホテル⇒徒歩紀伊勝浦駅特急「南紀」多気駅参宮線JR伊勢市駅⇒徒歩ホテル⇒徒歩近鉄宇治山田駅前で昼食⇒徒歩豊受大神宮(外宮)せんぐう館外宮前バス内宮前⇒徒歩皇大神宮(内宮)おはらい町・おかげ横丁内宮前バス宇治山田駅前⇒徒歩ホテル

詳しいことは後日にまわすとしまして、伊勢市を歩いて気づいたことがあります。
それは、玄関先にしめ飾りを吊している家庭・店舗・企業が多いということ。
私の常識では、「しめ飾りは正月のもの」なのですが、伊勢では常識が違うのでしょうか?

飾られているしめ飾りのほとんどは、

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「笑門」と書かれたものか、

140430_2_02

「蘇民将来子孫家+門」と書かれたもので、ごく一部に、

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「お多福+門」と書かれたものもありました。
そういえば、去年のGWの関西旅行の際(旅行記はこちら)、當麻寺の参道で、しめ飾りを玄関先に下げている家庭がいくつかありましたっけ…

140430_2_04

やはりお隣同士の県だけに似た風習を持つのだろうかと考えつつ調べてみました。

すると、発見から1年も経って、新たな事実が明らかになりました。
當麻のはしめ飾りではなく、當麻天神講のしめ縄なんだそうな
葛城市のこちらのサイトによりますと、

7月25日、葛城市當麻において、當麻天神講(六十人講)が営まれました。旧當麻町大字當麻に伝わる天神さん信仰の講によるもので、毎年頭屋を二軒選び、古いしめ縄をはずして新しいものに付け替えるという習わしです。しめ縄は、天神講の家の中に悪神が入ってこないよう、家族の安全を祈って掲げられます。

だそうな
うかつな推察はするものではありませんなぁ

で、一方の伊勢「伊勢 しめ飾り」ググると、すぐに答が見つかりました。
伊勢市観光協会のサイトによれば、

正月の注連縄飾りは普通は松の内が過ぎればはずすのが一般的ですが、伊勢志摩では、一年間かけたままで過ごす風習があります。
それは、「その昔、この地を訪れたスサノオノミコトに、貧しいながらも慈悲深い蘇民将来が一夜の宿を貸した。ミコトは旅立つ時、今後は門符を門口にかけておけば、子孫代々疫病から免れると言い残した」という伝説があるからです。蘇民の子孫である証拠として門符を掲げ、無病息災を願うようになったそうです。つまり、家内安全の祈りを込めた「厄除け」の門符です。
ちなみに「笑門」とは、後に「蘇民将来子孫家門」を縮めた「将門」で、さらにこれが平将門に通じるのを嫌って「笑門」になったと言われています。

だとか。
「門」も含めた「蘇民将来子孫家門」なんですな。でも、蘇民将来の話は以前に耳にしたことがありましたが、「笑門」が、笑門来福(笑う門には福来たる)」ではなく、

「蘇民来子孫家を縮めた「将門」で、さらにこれが平将門に通じるのを嫌って「笑門」になったと言われています。

だとは、思いもよりませんでした
それにしても、平将門がこれほど嫌われているとは、東人(あずまびと)たる私としては、かなりビミョーな気分です。

ということで、人生初の「お伊勢参り」よりも、こんな風習が印象的な伊勢初日でありましたとさ。

【追記】伊勢のしめ飾りコレクションに1枚追加

140430_2_99
(2014/05/03 07:36)

つづき:2014/05/01 お伊勢参りの順番

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紀伊半島南部では天候がグングン回復中

2014-04-30 08:40:43 | 旅行記

一晩中、の音が響いていましたが、夜が明けると雨は上がり、だんだん陽も差してきました。

140430_1_01

朝飯前の散歩では、念のために持って出たは無用。
朝方は大雨警報が出ていた伊勢地方も、天候が回復に向かっているようですから、良い一日になりそうです

そろそろ荷物を整えます

つづき:2014/04/30 伊勢では玄関先に一年中「しめ飾り」を吊す?
旅行記本編:2014/05/19 紀伊半島旅行記(その6:勝浦)

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紀伊半島旅行2日目は早々にホテルに退却

2014-04-29 18:21:26 | 旅行記

ドシャバシャ雨が降る中、熊野古道を歩いてきました。
天気が良くなさそうだという予報を元に、ダイソーでレインコート(雨ガッパ)を買って持参していたのですが、これが大層役に立ちました
もしもしか持っていなければ、バッグも服もびしょびしょになっていたはずです。
特に歩き疲れて木の切り株や岩やベンチに腰掛けたくなったときには、いくら濡れているところでも平気で腰掛けることができましたから。
さすがに「税込み108円」「お手軽品」ですから、早々にボタンの部分が引きちぎれてしまったり、気がつくとあちこちが破けていましたけれど、そこは「使い切りと割り切ればよろしいのかと思います。

それにしても良く降るです。
ホテルに帰着したころの雨雲の様子は、

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私のいる辺りが一番酷い…

そんな状況での、きょうの私の旅程はこんな感じでした。

ホテル徒歩紀伊勝浦駅紀勢線那智駅徒歩⇒(大門坂那智山駐車場)⇒徒歩熊野那智大社青岸渡寺⇒徒歩那智の滝⇒那智山バス停(那智山駐車場)路線バス⇒紀伊勝浦駅前⇒徒歩ホテル

140429_1_02_2 こちらのお薦めコースを歩いたわけですが、こんな天気のせいか、私のように歩いている人は那智駅⇒大門坂の区間では皆無でしたし、大門坂⇒那智山駐車場の区間でも、一組の親子しか見かけませんでした。そもそも、那智駅で電車(105系でした)を降りたのは私ひとりだけ(クルマで行く人が多い⇒電車本数が減る⇒電車行く人が減る⇒電車本数が減る…の悪循環か?)

でも、せっかくの熊野です。歩かなきゃ

さすがに帰りは那智山駐車場から紀伊勝浦駅までバスに乗ったのですが(行きに2時間半かかったのに、帰りの所要時間40分弱)、これが熊野古道だ という風情にあふれた「大門坂⇒那智山駐車場」区間はもちろんのこと、ほとんど舗装路で、正直「大門坂まではバスで来るべきだったか…と考えもした「那智駅⇒大門坂」区間でも、歩かなければ気づかないところも見ること・感じることができました。
例えば、こんな幽玄な眺めとか、

140429_1_03

2年半前の大水害の傷跡がまだ生々しい現実とか、、、。

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さらに、那智駅前にこんな記念碑がありました。

140429_1_06

日本サッカーの始祖 中村覚之助 顕彰碑

中村覚之助さん…? 知らないなぁ…

碑文に曰く、

「日本サッカーの始祖」中村覚之助は明治11年(1878)5月 この地で 生まれた。同35年東京高等師範学校(現筑波大学)在学中に「アソシエーションフットボール」を翻訳し、日本初のサッカー指導書を発刊、蹴球部を創設し、日本最初の近代サッカーの試合を行った。(中略)日本サッカー協会の旗章「三本足の八咫烏」熊野出身の氏に因んで選定されたと伝えられている。(以下略)

だそうです。
へぇ~ です。

140429_1_11

Wikipediaの「八咫烏」の記述にも、

現代では、日本サッカー協会のシンボルマークの意匠として用いられている事で知られている。これは1931年(昭和6年)に採用されたものであり、東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)の漢文学者であり、日本蹴球協会(日本サッカー協会の前身)創設に尽力した内野台嶺らの発案を基に、日本に初めて近代サッカーを紹介した中村覚之助(内野台嶺の東京高等師範学校の先輩でもある)に敬意を表し、出身地である那智勝浦町にある熊野那智大社の八咫烏を元にしたものである。

と書かれています。

ところが、日本サッカー協会(JFA)のHPでは、その沿革で、1931年6月に、

大日本蹴球協会旗章制定。3本足の烏は、東京高等師範の内野台嶺(大日本蹴球協会理事)ら協会役員が発案し、彫刻家の日名子実三がデザイン化したもの。

としているだけで、関連記事としてリンクされている先には、

いま多くの人に親しまれている、三本足のカラスとボールを組み合わせた図柄は、中国の古典「淮南子(えなんじ)」と「芸文類聚」に記された、太陽の中に3本足の烏がいるという話から取ったものらしい

とありますし、JFA自身の説明ではさらに踏み込んで、

ボールを押さえている三本足の烏は、中国の古典にある三足烏と呼ばれるもので、日の神=太陽をシンボル化したものです。日本では、神武天皇御東征のとき、八咫烏(やたがらす)が天皇の軍隊を道案内をしたということもあり、烏には親しみがありました

とあって、シンボルマークはあくまでも中国の古典にある「三足烏」で、「八咫烏」は、日本人には烏に親しみがあったというとして挙げられているだけです。

う~む、、、どういうこと?

140429_1_07 想像を自由の空で羽ばたかせると、第二次世界大戦後の「民主化」の過程で、JFAが1931年に制定された旗章を護持するため、旗章が天皇制と繋がりの深い「八咫烏」ではないことをGHQに弁明するためにこねくりだした方便ではなかろうか?

ですから、Wikipedia那智駅前の碑文にあるような中村覚之助さんとシンボルマークとの関係を覆い隠す必要があったのではないか、それゆえ、JFAの沿革には中村覚之助さんの名前は登場せず、ただ「1896年3月」に、

東京の高等師範学校(東京高師)にフートボール部が設立される。

とあるだけなのではないかと推察(邪推?)します。

この辺りの事情を研究している人はいないのかなあ…
なかなか面白い話だと思うのですが…。

   

こんなことを考えることができただけでも収穫のあった今日の行動でしたが、一番のハイライト「那智の滝」でした。

140429_1_08 目の前の三重の塔もかすむほどの悪天候の中で、よく見えるのか心配だったのですけれど(右の写真は敢えてモノクロにしてみました)、「飛瀧神社」ご神体「那智の滝」はこんな天候をものともしない存在感でした

140429_1_09_2 とどろき渡る水音、まっすぐ落ち、岩にぶつかって砕け広がる大量の水凄い としか書きようがありません

まさしく「ご神体」です

あまりに大きなスピリチュアルな感動をいただきましたので、角度を変えてもう一枚

140429_1_10 こんな天気だからこそ、滝口が不鮮明になって、それゆえ神秘性が増しているかもしれません。

それにしても、「那智の滝」迫力神々しさに圧倒されましたけれど、考えてみれば、一瞬たりとも同じ姿であり得ない滝が「ご神体」とは、かなり興味深い発想です。

さすが「八百万の神」を持つ日本人ならではなんだろうな、と思ってしまいます。

   

きょうの話は後日詳しく書くつもりですが、とりあえず今日はここまで。

あす、いよいよ「徒然煙草の足跡全国47都道府県コンプリート達成です

【追記】記事中に写真だけ載せた「八咫烏のおみくじ」、まだ八咫烏のご託宣を読んでいませんでした。

このまま取っておくのは、おみくじとしての八咫烏の本分(?)に反することだと思いますので、読んでみました。

すると、

140429_1_11_2

第一番
運 勢  大吉

だそうな

しっかりと読んで、写真に撮った上で、再び巻き直して八咫烏に保持してもらいました。

このまま自宅に飾ってしまおうという算段です。

140429_1_12 でも、ケースに同梱されていた紙には、こんな風に書かれています。

おみくじをご覧になった後は、
魔除、開運・招福の置物として…
また、この紙に「誓いの言葉」
「願い事」などを書いて神棚や
机の上に… 恋文をしたためて
「伝書カラス」に…
など、ご自由にお使い下さい

なかなか気の利いたおみくじです

那智熊野大社・那智の滝にお詣り・お出かけの際には、是非一羽
(2014/04/29 22:05)

つづき:2014/04/30 紀伊半島南部では天候がグングン回復中
旅行記本編:2014/05/17 紀伊半島旅行記(その4:熊野 前編)

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牡パンダは食べ、牝パンダは寝ていた

2014-04-28 18:36:25 | 旅行記

私の足跡皆無県を消す旅(こちらの記事をご参照方)にやって来ています。
今日の旅程は以下のとおり。

自宅⇒徒歩最寄り駅前リムジンバス羽田空港飛行機南紀白浜空港路線バス白浜駅路線バスアドベンチャーワールド路線バス白浜駅特急「くろしお」紀伊勝浦駅⇒徒歩ホテル

白浜まで来たとなれば、行かなければならないでしょう、アドベンチャーワールド

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パンダ目当てで高い料金(4100円を払って入場したアドベンチャーワールドでしたが、パンダ以外にも随分と楽しめました
でも、この記事ではパンダの写真だけを載せておきましょう。

面白いことに、のパンダはひたすらお食事中で、のパンダはひたすら睡眠中でした。

まず、PANDA LOVEでは、陽浜(♀3歳8ヶ月)は木に引っかかったかのようにして眠り

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海浜(♂3歳8ヶ月)はひたすらバリバリと笹をかじり続け

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優浜(♀1歳8ヶ月、確かに小さいは自分の腕枕でかわいらしく眠り続け

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ブリーディングセンターでも、良浜(♀13歳7ヶ月)はすべり台の上で前後不覚ならぬ前後不明眠りこけ

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永明(♂11歳7ヶ月)はパンダ座りでバリバリと笹を食べ続けていました

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牝パンダだって食事するだろうし、牡パンダだって寝るだろうに、これは一体どういうことなのでしょうか?
もしかして、牡パンダと牝パンダとは生活リズムが違う
そんなことは聞いたことがありません。

それはともかく、5頭の生パンダを拝見できただけでもアドベンチャーワールドに出かけた甲斐があったというものです。
ちなみに私、これまで生パンダを見たのは大昔に上野動物園一度だけです。

と、腹がへりましたので、マグロを食べに出かけてきます

つづき:2014/04/29 紀伊半島旅行2日目は早々にホテルに退却
旅行記本編:2014/05/06 紀伊半島旅行記(その1:白浜のバス)

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東博は「キトラ古墳壁画」展以外にも見どころあり

2014-04-28 07:37:31 | 美術館・博物館・アート

きのう、好天に誘われて上野というか東京国立博物館(東博)に行ってきました。
目的は、昨年末からリニューアル工事が行われていた本館1階15~19室の改装具合を観ることと、こちらで書いた「仮面土偶」に再会することがメインで、あわよくば特別展「キトラ古墳壁画」を観ること。でも、「キトラ古墳壁画」展は難しいだろうな…と思いつつ
新緑が鮮やかな上野公園は、花見シーズンほどではないにしろ、かなり賑わっていました。

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歩くだけでも気持ちいいって感じ。

で、東博の入場券売場が刷新されて、正門プラザがオープンしていました。

140428_1_02

ガラス張りの開放的な施設で、通りすがりの人もミュージアムショップを利用できるようになりました。やはり京都国立博物館の南門と似た感じです。

と、正門の前にこんな掲示が…

140428_1_03 「キトラ古墳壁画」展は、入場前・後合わせて100分待ち
やはりきょうは「キトラ古墳壁画」展をあきらめるしかなさそうです…

気を取り直し、一通り正門プラザの中を眺めて、次は、しばらく避難していたジェンナー像こちらの記事をご参照方)へ…。

140428_1_04 ジェンナーさんは、無事に定位置に戻られて、新緑の下で読書されていました。
ただ、藤棚喫煙コーナーは復活せず…
お気に入りのスポットだったんだけどなぁ…
ちょっとガッカリしてふり返ると、もう一つの変化に気づきました。

あれっ、無い

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こちらの記事に書いたように、正門プラザの工事中、目と鼻の先に養生壁が作られて、「嘆きの壁」状態だった朝鮮の石像(文官)がなくなっています

どこへ行ったのだろうか?と思ったら、東洋館前に引っ越していました。

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どうせ引っ越すなら、正門プラザの工事が始まったときに引っ越していればよかったのにねぇ…

   

さて、きのうのメイン・イベント「平成26年 新指定 国宝・重要文化財」、お目当ての「仮面土偶」はやはり良かったぁ~

約3000~4000年前に、これほどオリジナリティにあふれ、かつ、完成しきったデザインのものが造られたなんて、凄い と、改めて思い入りました。

残念ながら「平成26年 新指定 国宝・重要文化財」の展示すべてが撮影禁止だったもので、代わりに、火焔土器の写真を載せておきましょう。

140428_1_07 こちらは仮面土偶が造られた縄文後期から1000年ほど遡る時期(縄文中期)の作品だとか。
オレンジ色の台座を配した東博の展示も素晴らしい
東博本館2階の「日本美術の流れ」の冒頭を飾るのにふさわしい作品と展示だと思います。

話を「平成26年 新指定 国宝・重要文化財」に戻すと、この日一番のサプライズがありました。

それは、「未指定文化財を重要文化財に」「蒔絵調度類(本妙寺蔵)」

名前を聞いただけではピンと来ませんが、加藤清正公が所蔵・使用していた膳・椀の一群でして、側面には桐・桔梗・折墨紋これでもかとばかりに配された調度です。

そう、一時期、私がその画像を探し求めていた「折墨紋」こちらこちらの記事をご参照方)が、大量に眼前に展開しているのですよ
「折墨クエスト」の途中で、清正公の菩提寺(本妙寺)に、折墨紋が配された調度類があることを知りましたが、それが、重要文化財に新指定されたとして、この「平成26年 新指定 国宝・重要文化財」で展示されているとは、会場で拝見するまで知りませんでした
まさしく「ここで会ったが百年目」ってヤツで、興奮いたしました。

「平成26年 新指定 国宝・重要文化財」は、本館2階の8室1階の11室の2ヶ所に分けて展示されていますので、ご注意ください

   

さて、本館の周りには、特別展「キトラ古墳壁画」への入場を待つ善男善女が列をなしていました。

140428_1_08

平成館で開催中の特別展「栄西と建仁寺」への通路を確保した上で、この行列は、、、

140428_1_09

ここまで伸びていました

暑くもなく寒くもない、行列するにはうってつけの日和とはいえ、皆さん、がんばっていますなぁ…
それにしても、特別展「キトラ古墳壁画」の会期中はずっとこんな具合なんだろうか…

ちょいと不安になりつつ、私はこちらへ。

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表慶館では、特別展「キトラ古墳壁画」の開催に合わせて「飛鳥 -キトラ2016-」が開催されていました。

こちらでは、里中満智子さん「持統天皇物語 天上の虹」原画とか、藤原京ジオラマとか、

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聖徳太子蘇我馬子の人形が展示されていたほか、

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キトラ古墳高松塚古墳壁画大型モニタータブレット端末で楽しめるイベントが開催されていました(明日香村のミニ観光物産展も

どれも楽しいものばかりでしたが、私のイチオシはこれ

140428_1_13みちやすさん作の蘇我馬子

聖徳太子立ち姿もよろしいのですが、この憎々しげな表情には負けるなぁ~

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特別展「キトラ古墳壁画」を観に行く方も、観に行かない方も、東博に行かれた際には、こちらをお見逃しなく

そうそう、私は未見ですが、ミュージアムシアターではバーチャルリアリティ作品「キトラ古墳」が上映されていますよ

おわぁ、出かける時間だ

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犬山で江戸時代にタイムスリップ(その6)

2014-04-27 18:00:08 | 旅行記

明日から旅行に出かけることにしておりまして、ちょっとあせりながら「犬山で江戸時代にタイムスリップ(その5)」のつづきです。

当日の記事「愛知(名古屋・犬山)旅行最終日が始まりました」で書きましたように、朝食前の散歩のときには閉じられていた犬山城の門は、2度目の「登城」の際には、しっかりと開放されていました。

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そりゃそうだ、もうランチをとっても不思議ではない時刻になっていましたから…
で、入城

140427_1_02

私にとって初めての「国宝4城犬山城天守です。

ネットでは、「古い城にしてはキレイすぎる」なんて声もあるようですが、こまめに修復してきたおかげなんでしょう。
写真をご覧のとおり、私が訪れたときも応急修理中で、足場が組まれたり、養生幕で覆われた箇所があったりと、ちぃと見栄えは良くありませんでした(応急修理は3月半ばで完了の由)。

140427_1_03

でも、修理が必要な箇所を写真パネルで拝見すると、こりゃ仕方ない…と納得

犬山城のリーフレットによれば、

天守の創建年代は天正(1573~92)頃、慶長5(1600)-6年などいくつかの説がありますが、現存する天守の中では最も古いといわれています。

だとか。
そして、

明治維新に犬山城は廃城となり、天守を除いて櫓や門の大部分は取り壊され公園となりました。

その後、多くのお城・天守が見舞われて落雷・失火・戦災といった災難は免れたようですが、濃尾震災(1891年)伊勢湾台風(1959年)で大きな被害を受け、その都度解体工事を含む修復工事が行われて現在に至っているそうです。
昨日の記事にも書きましたが、

文化財を後世に伝えるということは、基本的に「意志「財力が伴わなければ無理なんだろうな

です。

   

それはともかく、天守に登りましょう。

まず1階、いくつかの広い部屋が設けられていまして、「上段の間」は、「床の間」「違い棚」「天袋」「帳台構え」と、「書院造り」の様式に造られていました。

140427_1_04

キンキラキン二条城二の丸御殿(大広間一の間)や名古屋城本丸御殿(記事はこちら)とは対照的に、質実剛健で、これもまたよござんす

武具庫だったという二階には、「日本100名城」の変色してしまった写真パネルと共に、1/10の「骨格標本」が展示されていました。

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こうして骨組みだけにすると、結構シンプルなものなんですねぇ。
肉付けした模型と見比べるのも楽しいなぁ。

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「3重4階」の犬山城天守、3階は大屋根に埋もれていまして、リーフレットによれば、

入母屋屋根の中に位置します。創建当初は2階の屋根裏でしたが、増築に伴って3階となりました。南北には唐破風が設けられています。

ということで、唐破風がなかった頃は、かなり暗い部屋だったことでしょう。

140427_1_07

現在は、掃除機置き場にも使われているようです

140427_1_08 と、柱や梁をしげしげと眺めていますと、、、おぉ

140427_1_09 なんだか、メリメリっと行きそうですが、大丈夫なのでしょうか?

   

天守の最上層の望楼を外から見上げるとこんな風になっています。

140427_1_10

一方、その内部はこんな具合。

140427_1_11

何か気づきませんか?

外見上は火灯窓があるのに、中は壁があるだけ…

140427_1_12 実は、「火灯窓風」飾りでした

でも、この「飾り」があるとないとでは、随分と見栄えが違うと思います。
もし、望楼にこの飾りがなければ、「天守の顔」ぼかしがかけられてしまったような気がします。
もしかすると、3階の唐破風が造られたタイミングで、この飾りが付け加えられたんじゃなかろうかと、何の根拠もなく想像しています。

ところで、この日の望楼、南北の出入口を北風が通り過ぎて、寒かった

140427_1_13
暖房の上限の目安「18℃」を遙かに下回る「6℃」
その代わり、冬型の気圧配置のおかげで、眺めは最高に近い状況でした
南側には、小牧城(らしい)や、JR名古屋駅周辺の高層ビル、テレビ塔尾張富士が見えましたし、

 

140427_1_15

北側には、リーフレットと照合すると、岐阜城が見えたようです

140427_1_14

と、「その5」で、

それにしても、この成瀬氏という一族は何者?
国宝に指定されるほどのお城の持ち主だったにしては、成瀬某という大名がいたという話は聞いたことはないし…
う~む、、、、どういうこと?

と書いた「成瀬氏」に触れずじまいでしたが、それは「犬山で江戸時代にタイムスリップ」シリーズ完結編(のはず「その7」で書きます。

つづき:2014/05/05 犬山で江戸時代にタイムスリップ(その7:完結編)

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世界文化遺産登録へあと一歩

2014-04-26 13:33:06 | ニュース

うれしいニュースが飛び込んできました。

140426_1_01

朝日新聞の記事を転載しますと、

ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に、世界の絹産業の発展に重要な役割を果たしたとして政府が推薦していた「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県)が登録される見通しとなった。ユネスコの諮問機関が勧告した。6月15日からカタールのドーハで開かれる世界遺産委員会で最終的に決まる。

だそうで、まことにめでたい

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私が旧富岡製糸場に出かけたのはもう6年前の2008年6月で、そのときのことは、こちらの記事でチラリと書きましたが、世界文化遺産登録が確実になったことをお祝いして、撮ってきた写真を紹介しましょう。

日本史の授業では、明治初期の「殖産興業」の一例として必ず登場する「富岡製糸場」、その設立は明治5年(1872年)のこと。

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西洋の進んだ機械式製糸を日本に移植することと、製糸工女を指導・育成する人たちの訓練する施設だったのですから、いわば「製糸業のトップガン」とも言える場所だったわけですな。

という近代日本の足がかりとなった重要な施設が、140年以上の時を超えて良好に維持・保存されていたことが感動的ですらありました。

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しかも驚くことに、1987年まで現役の製糸場として使われていたとのこと。
けさのNHKニュースでは、昭和末期の操業中の工場の様子も紹介されていました。
新しい機械を導入する際などには、新しい建屋に建て替えたい気持ちもあったでしょうけれど、よくぞ使い続けてくれたものです。
Wikipediaには、

(直前の所有者)片倉工業は富岡工場(旧富岡製糸場)を閉業した後も一般向けの公開をせず、「貸さない、売らない、壊さない」の方針を堅持し、維持と管理に専念した。富岡製糸場は巨大さゆえに固定資産税だけで年間2000万円、その他の維持・管理費用も含めると最高で1年間に1億円以上かかったこともあるとされる。また、片倉は修復工事をするにしても、コストを抑えることよりも、当時の工法で復原することにこだわったという。こうした片倉の取り組みがあったればこそ、富岡製糸場が良好な保存状態で保たれてきたとして、片倉の貢献はしばしば非常に高く評価されている

140426_1_04 とありますが、ホント、強い「意志」がなければとっくに建て替えられていたに違いありません

旧富岡製糸場に限ったことではありませんが、文化財を後世に伝えるということは、基本的に「意志「財力が伴わなければ無理なんだろうなと常々考えています。
美術品の場合は、「所有者の趣味の側面も多分にあるでしょうけれど、旧富岡製糸場のような産業遺産古民家のような建造物の場合は、特に「意志「財力が重要でしょう。

ところで、Wikipediaの「片倉工業」の記述を見ますと、冒頭に、

片倉工業株式会社(かたくらこうぎょう)は、東京都中央区に本社を置くショッピングセンター等の不動産運営・賃貸、自動車部品等の機械製造販売、繊維製品の製造販売を行う企業である。

とあります。さいたま新都心駅前にあるショッピングセンター「コクーン新都心」は、片倉工業の大宮工場跡地にあって、同社が管理・運営しています(まだ行ったことはないけど
「コクーン(=繭)」という名前は、片倉工業の礎となった製糸業にあやかったものなのでしょうねぇ

ちなみに片倉工業(連結)セグメント別売上高(2013年12月期)はこんな具合。

140426_1_06

Wikipediaは、片倉工業の事業の主体は不動産事業に変わってしまったかのような記述ですけれど、実はそんなことはなかったりして…。

   

ところで、博物館明治村(訪問記はこちら)には、旧富岡製糸場で使われていた蒸気機関が展示されていました。

140426_1_07

説明板によれば、これは片倉工業から寄贈されたもので、

この蒸気機関は、官営富岡製糸場の繰糸機の原動力として使用されたものである。同製糸場の建設を進めていたお雇外国人ブリューナ(P. Brunat、フランス人)によって輸入されたことからブリューナ・エンジンとも呼ばれている。
蒸気機関は繰糸工場に隣接する「汽罐・汽機室」に据付けられ、動力はシャフトを通して繰糸工場内の繰糸機に伝達され大正中頃に電動機に変わるまで使用された
本機にはフライングボール式の調速機や「マイヤー式二重弁」と呼ばれる蒸気分配装置などが採用された。
現存する国内最古の蒸気機関である。

とのこと。

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110年以上も建物が現役の工場として使われてきたことも驚きながら、使われなくなってもなお約90年も機械が保存されていたことも驚きです。
素晴らしいなあ…

140426_1_09

   

旧富岡製糸場といえば、レンガ造り繭倉庫(東と西の二棟)が印象的で、洋風のイメージをお持ちの方が多いと思います。
実際、ぱっと見は洋風なのですが、屋根をよくよく見ると、、、

140426_1_10

こりゃ和風テイストですな。

こんなところも魅力的な建物群です。

140426_1_11

   

きょうのニュースをきっかけに、このゴールデンウィークには多くの観光客が押しかけることでしょう。

となれば気になるのが、周辺の交通渋滞です。
旧富岡製糸場には専用の駐車場はなく、市内の時間貸し駐車場にクルマを停めて歩いて行くしかありません。

市内では交通規制も敷かれているようですので、お出かけの際にはご注意を!

140426_1_12

駐車場探しを別にすれば、首都圏からクルマで行くのは結構簡単です。

上信越道富岡IC練馬ICから約100km)で下りて、ちょっと走ればすぐに富岡の市街地に到着しますよ。

ぜひお出かけくださいませ

お薦めデス

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特別展「キトラ古墳壁画」は大入りのようで

2014-04-24 22:31:34 | 美術館・博物館・アート

今週火曜日から始まった東京国立博物館(東博)での特別展「キトラ古墳壁画」は、平日だというのに連日大入りのようです。
公式ツイッターによれば、


140424_1_01


入場待ちに最大60分、さらに展示室に入ってから「壁画観覧待ち」30分だとか…


う~む、、、、週末・祝日はどうなるんだろうか…

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東博に行かねば!

2014-04-22 23:28:46 | 美術館・博物館・アート

約4年前、2009年12月15日~2010年2月21日の約3か月間、東京国立博物館(東博)ではちょっと小ぶりな特別展、「国宝 土偶展」が開催されました。
この展覧会は、

縄文時代の人々の精神世界や信仰の形を現す土偶の展覧会です。青森県風張1遺跡出土の「合掌土偶」、北海道著保内野遺跡出土の「中空土偶」、長野県棚畑遺跡出土の「縄文のビーナス」国宝3件と重要文化財23件、重要美術品2件を含む全67件を展示します。

というもので、「行列に並ぶのが嫌いな私にしては珍しく、入場待ちの列に並んで観たものでした。
その時の話はこちらに書きましたが、冒頭から衝撃を受けました。

そのブログの一部を再掲しますと、

初めっからやられました…。
「星空のライヴV Just Ballade MISIA with 星空のオーケストラ2010 in Yokohama」のオープニングの曲が「銀河」だった時に受けた衝撃(こちらに書きました)と似た感覚かも…。
初球がど真ん中に剛速球みたいな…(ご理解いただけますでしょうか?)。

これほどまでに私が強烈な衝撃(理解できる人には理解できると思います)を受けた作品がこちら

100221_1_3

長野県茅野市で出土した「仮面土偶」デス。縄文後期、紀元前2000~1000年のモノ。

どうしてこれほどの土偶が国宝ではなく重要文化財に留まっているのか、不思議に思ったものでしたっけ…

   

きょうから東博では、特別展「キトラ古墳壁画」と共に、総合文化展の一部として「平成26年 新指定 国宝・重要文化財」の展示が始まりました。
その紹介ページに登場しているのが、

140422_1_02
「仮面土偶」ぅ~

おぉ、もしかして、愛し「仮面土偶」国宝昇格したんですか?

さっそく調べると、毎日新聞のサイトにこちらの記事を見つけました

140422_1_03

長野県茅野市中ッ原(なかっぱら)遺跡で2000年に出土した縄文時代の土偶(「仮面の女神」)。18日にあった国の文化審議会は、国宝に指定するよう文部科学相に答申した。

だそうです。

いつの間に「仮面の女神」なんて名前がつけられたのでしょうか?
「縄文のビーナス」「縄文の女神」「仮面の女神」だと、混乱させるだけだと思いますけど…
ここは単純に「仮面土偶」を貫き通してほしかったなぁ…

それはともかく、久しぶりに「仮面土偶」に再会しなくては

140422_1_05 ちなみにこちらは先日、国立科学博物館getした「縄文人と縄文犬」カプセル・フィギュアです。

ホントは「秋田犬ハチ」「トロートン社製赤道儀天体望遠鏡」「国立科学博物館日本館」のフィギュアが欲しかったもので、ちょいとガッカリだったのですが、縄文繋がりで登場させることができて、縄文人の顔を立てられたってヤツですナ

それはともかく、ぜぇ~ったいに「平成26年 新指定 国宝・重要文化財」を観に行かねば と思うわけですが、今年の春の東博はこれにとどまりません

「予想以上に見応えのあった『栄西と建仁寺』展」も引き続き開催中(5月18日まで)ですし、加えて、特別展「キトラ古墳壁画」見逃せません

140422_1_04

まだ特別展「キトラ古墳壁画」を観ていないのに、久しぶりに飛鳥に行ってみたくなってきました。

つづきというか何というか:2014/04/24 特別展「キトラ古墳壁画」は大入りのようで

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秋田でも桜が開花

2014-04-20 21:11:05 | 旅行記

実家に滞在すること約20時間、慌ただしくUターンしてきました。

空港リムジンバスの停留所に向かう途中、実家の近所でを見物

140420_2_02

二分咲き三分咲きといったところでしょうか。

でも、昨日の記事(こちら)で書いたように、昨日時点では、秋田では開花宣言は出されていませんでした。でも、「秋田市での桜の開花宣言は明日にも」だったわけで、帰宅してからさきがけのサイトを見ると、

140420_2_01 見込みどおり開花宣言が出ました

ちぃと遅い気がしないでもありませんけれど、まぁ、桜前線がわがふるさとを通過したということで、まずはめでたい

ところで、今年の秋田での桜の開花は、

平年より2日遅く、昨年より3日早かった。

だそうで、まぁ、早くもなく遅くもないってところでしょう。
でも、私が秋田に住んでいた頃の感覚からすれば、ちょっと早いかな…
いわゆる「地球温暖化」の影響なのでしょうかねぇ…

   

こちらの写真は、帰りの飛行機からの眺めです。

140420_2_03

もしも私が、他の情報なしでこの写真を見せられたら、さっぱり判らないと思いますが、これは鳥海山

私、鳥海山をこの角度で観るのは、きょうが初めてでして、あれ って感じ…
なんだかべたぁ~としていて、鳥海山地上から観た方がずっとキレイな山だ確信いたしました。

地上からだと、秋田市からも横手市辺りからも、「いよぉ 出羽富士ぃ~と叫びたくなるような姿なんですけれど…

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