新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

きょうは墨田区内をブラブラと…

2021-10-28 21:28:34 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

きょうは墨田区へおでかけしてきました。

目的地は二つありまして、一つは東京スカイツリーで、もう一つはたばこと塩の博物館
もともと、「杉浦非水 時代をひらくデザイン」展を開催中のたばこと塩の博物館に行きたかったのですが、この博物館は、

と、「4駅利用可」、つまり、どの駅からも遠いという、なんとも交通の便の悪いところにあって、この博物館単独で訪れるにはなんとも非効率です。
それならば、まだ登ったことのない東京スカイツリーにも行ってみよう ということで、東京スカイツリーの予約をして、きょう出かけてきたわけです。

で、きょうの行程はこんな具合でした。

自宅⇒徒歩最寄り駅武蔵野線南越谷駅新越谷駅東武スカイツリーライン曳舟駅東武スカイツリーラインとうきょうスカイツリー駅東京スカイツリー⇒徒歩たばこと塩の博物館⇒徒歩錦糸町駅総武線快速東京駅上野東京ライン赤羽駅埼京線最寄り駅⇒徒歩自宅

帰りは、往路と逆のルートをたどるのが一番だったのですが、それは無粋 と、真っ平らな墨田区内を歩いて、錦糸町からJRに乗って帰ってきました。
その結果、重複無し一筆書きルート

   

東京スカイツリー見聞録後回しにしまして、まずは本日のメインだった「杉浦非水 時代をひらくデザイン」@たばこと塩の博物館のお話から。

杉浦非水のことは、このブログでは一度だけ触れたことがありました。
それは、杉浦非水のふるさと、松山への旅行記(こちら)で、愛媛県美術館の常設展で「三越呉服店 春の新柄陳列会」「爽快美味滋強飲料カルピス」を観て、いたく萌え上がったという記事です。

で、なぜに「たばこと塩の博物館」で杉浦非水展を? ということは後回しにしまして、フライヤーからこの展覧会の概要を転記します。

日本におけるモダンデザインのパイオニアとして知られる杉浦非水(1876~1965年)は愛媛県松山市に生まれました。東京美術学校入学後は円山派の川端玉章に師事して日本画を学んでいましたが、在学中にフランス帰りの洋画家・黒田清輝がもたらしたアール・ヌーヴォー様式の図案に魅せられたことで、以降は図案家として活動しました。
(中略) 非水の単なる「宣伝」の枠を超えた図案家としての幅広い活動から生みだされた作品の数々は、現在でいう「グラフィックデザイン」の原点といえます。
本展覧会は、非水の故郷・愛媛県美術館所蔵のコレクションを中心に、その作品を振り返ることで、近代日本のデザイン史に刻まれた意義を考えようとするものです。今も色あせない魅力的な作品をお楽しみください。

いやぁ~楽しかった 素晴らしかった そして面白かった

「面白かった」という点はいくつかありまして、日本画を学びながらも基本的な模写・臨画よりも写生に精を出したこと、洋画家・黒田清輝邸に入り浸って黒田が持ち帰った「お土産」に熱中したこと、黒田清輝とは馬が合わなかった藤田嗣治とも親交を持ったこと、会社(三和印刷店)勤務の傍ら大阪商船(現・商船三井)の意匠図案嘱託兼任したり、新聞社(中央新聞社)勤務の傍ら三越呉服店(現・三越伊勢丹)の夜間勤務嘱託兼任したり、日本美術学校講師の傍らラクトー(現・カルピス)の顧問を務めたり、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)教授の傍ら大蔵省専売局(現・JT)の嘱託を務めたりと、二足のわらじを履き続けたこととか…。

このうち、の黒田清輝との関係については、図録に載っている非水の自伝からの抜粋によれば、

私が期待してゐたのは(黒田)先生が新しく齎(もたら)される芸術品のサンプルに外ならぬのである。巴里の万国博のあらゆるものが、新興の意気を持つて満飾されたそれ等の装飾美術の片鱗に触るゝこと。当時新進作家の傑作の複製品、書籍に、カタログに、写真に、雑誌に。私の待つていたお土産とは、これ等の先生に依って持ち帰へられた作品を鑑賞する欲望に外ならぬのであつた。(中略) 私が日本画科を出て、先生から洋画に対する多くの知識を与へられたのであつたが、断然図案の方面に進出して行かうとい云ふ心が動いたのは、黒田先生のこのお土産品の到来が最大の動因であつたことは事実なのである。

だそうで、黒田清輝先生の教えよりも、黒田先生がパリから持ち帰ったお土産の方が大きな影響を及ぼしたって… 黒田先生には直接言えない話ですな

ここで話題を非水の作品に戻しまして、レトロモダンポスターや装丁に人知れず顔をほころばせ続けていたが、ほわぁ~ 声を漏らしそうになったのは、上記のとも関連しますが、まるで図鑑のような植物や鳥や昆虫の写生と、繊細なタッチで描かれた「非水百花譜」でした。

またまた図録からの転記で恐縮しますが、

「非水百花譜」は、大正9年(1920)3月から同11年(1922)9月まで、1輯5点として全20輯100点を老舗版元・春陽堂より刊行、600名の会員を募って頒布された。非水が原画を描いた100種に及ぶ花卉図が、彫りを大倉半兵衛、摺りを西村熊吉、田口菊松、桃瀬巳之吉といった当代きっての一流職人たちが担当し、大判の多色摺木版画として仕立てられた。

だそうで、超豪華本です

この「非水百花譜」を観ていると、やはり日本画を学んだ人なんだなぁと思います。
一方で、非水が傾倒したアール・ヌーヴォーの影響も感じられて、

写生を常に創作の基盤に据えていた非水にとって、多様な手法を用いて植物の本質に迫ろうとしたと言える本作は、非水の全ての仕事の中でも究極渾身の一作である。

という図録の説明に納得です。

ここで、前に書いたなぜに『たばこと塩の博物館』で杉浦非水展を?ですが、これは非水職歴をざっと書いたにあるように、大蔵省専売局の嘱託を務め、

大蔵省専売局のデザインワーク全体の指導者的立場として活躍した。自らデザインしたパッケージは「響」が最初で、その後、「PALOMA」「Momoyama」「光」「扶桑」「NIKKO」を手がけている。

というわけですから、「たばこと塩の博物館」を運営するJTとも浅からぬ縁があります。

ところで、買ってきた図録を眺めると、きょうたばこと塩の博物館では観ていない作品どっさりと載っています。
前期(9月11日~10月10日)のみの展示だった作品とか、東京展では展示されない作品もあるようですが、きょう観ただけでも十分満足できました。
わざわざ出かけて良かった…

ただ、バッグにをぶら下げていて、チャリチャリと音を館内に響かせ続ける若者がいたことだけはいただけなかった
財布とかバッグにをぶら下げるのはおばちゃんたちだけかと思っていたんですけどねぇ

ということで、東京スカイツリーの見聞録と、たばこと塩の博物館常設展示のお話はまた後日。

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大魔神のこと

2021-10-22 09:00:02 | 美術館・博物館・アート/映画・演劇

「角川武蔵野ミュージアム探訪記(前編後編)」番外編です。

[後編]で書いたように、ところざわサクラタウンには、大魔神魔神像武神像が鎮座していました。

後ろ姿もなかなか

大魔神といえば、かつての大映映画ヒーローですが、その彼がどうしてここにいるのでしょうか?

台座に貼られた説明板を転記しますと、

大魔神 魔神像
荒ぶる剣が封印を解き ツクヨミが声に覚醒する。
1966年(昭和41年) 大映京都撮影所が、日本初の特撮時代劇として世に送り出した作品。
「大魔神」「大魔神怒る」「大魔神逆襲」のシリーズ三作品が僅か一年の間に製作された。

そして、

大魔神 武神像
日本の地と民に平安をもたらす守護神。
「大魔神」は、日本古来の神話や伝承、巨人伝説などをモチーフに、埴輪「挂甲武人」のイメージを借りて創造された。
55年の時を経て、2021年「妖怪大戦争 ガーディアンズ」で復活を遂げた。

だそうです。
「大魔神」と聞いて佐々木主浩元投手辛うじて思い出す人、「なんのこっちゃ」という人は、Wikipediaでもお読みくだされ。
簡単にいえば、理不尽なことが起こると、それまでは埴輪然とした武神像忿怒の表情に変わり、動き出し、善悪の見境なく暴れまくる、ってヤツ。

かく言う私も「大魔神」映画館で観たことはありませんで、ずいぶん昔にTVで観た程度です
そのときの印象では、大魔神ウルトラマンゴジラみたいに巨大なものではなく、中途半端デカいウルトラマン奈良の大仏様なら、大魔神丈六仏程度の大きさ(身長:1丈6尺≒4.85m)で、でも、それだけに面と向かって睨まれたら 怖い

いったい大魔神の大きさはどんな設定なんだろ? と思ったら、Wikipediaによると、

大魔神の造形は、『ウルトラQ』『ウルトラマン』の怪獣造形を担当した高山良策が手がけている。1作目で高山は京都に出張し、武人埴輪に着想を得て、15尺(4.5メートル)の実物大の魔神、人間を掴むシーンのための実物大の魔神の腕、実物大の脚、人間の入るぬいぐるみ、ラストシーンで崩壊する魔神のミニチュアを製作している。

だそうで、「丈六仏程度の大きさ」という私のイメージはピッタリじゃございませんか
しかも、仏さんの標準よりもちょと小さい「丈五」という奥ゆかしさ
素晴らしいなぁ

   

ところで、大魔神のモチーフになったという国宝「挂甲の武人」は何度も東京国立博物館(トーハク)で拝見しています。

一見して「兜が違うという指摘があろうと思います。
確かに、「挂甲の武人」の兜には頬当てはあるものの、大魔神のような脇立てついていません

しげしげと両者を見比べると、大魔神「挂甲の武人」完コピしたわけではないことが判ります。

例えば、「挂甲の武人」は、左手首に、を射たときにから手首を保護するための道具「鞆(とも)」を装着していますが、大魔神付けていません

「大魔神はを持っていないからは不要」なのか?

「挂甲の武人」は、の入った靫(ゆぎ)という装備を背中に着けているんですが、

大魔神はというと、

大魔神「靫」を装着しています。(魔神像は色の関係で見づらいため武神像の写真を載せましたが、魔神像「靫」を着けています)

まぁ、「挂甲武人のイメージを借りて創造」ですから、あまりに細かいことに突っ込むのはヤボですな

   

で、誰が見てもすぐに判る「大魔神」と「挂甲の武人」との違いに戻りますと、大魔神と同じような脇立て付きの兜をかぶった武人像(高崎市出土)をこれもまたトーハクで観たことがあります。

クリエーターの高山さんは、国宝「挂甲の武人」タイプ頬当てのみの兜だと防御的過ぎる脇立てがあれば、鬼の角のようにも見えて、怒ってる感強まると考えたのでしょうか?
うん、うん、この説、なかなかイイかも…

   

さてさて、冒頭の大魔神といえば、かつての大映映画のヒーローですが、その彼がどうしてここにいるのでしょうか?」という疑問が解けていません。

その答えは、東所沢駅のバス停の横にありました。

往路では気づきませんでしたが、ここにも大魔神(こちらは胸像)がいました

こちらところざわサクラタウン大魔神に比べて、脇立て短くて、お顔むくみ気味?

ところざわサクラタウンの大魔神の方がカッコイイ

それはともかく、こんなことが書かれた説明板がありました。

“大魔神”について
“大魔神”は1966年に大映(現・KADOKAWA)の京都撮影所が世に送り出した特撮時代劇シリーズ三部作のキャラクターです。多くのファンに長年愛され、敬われて来たこの大魔神の巨大な半身像が、所沢を舞台とする映画「妖怪大戦争 ガーディアンズ」の公開を記念し、COOL JAPAN FOREST構想の標榜する「人々のにぎわい」の創出の一環として、東所沢の地に降臨することになりました。

ここに至ってようやく、大映KADOKAWA引き継がれていることを知った私です
まったく疎いというか、なんというか…

と、ここでこの記事を終わらせようと思ったのですが、冒頭に転記した「大魔神 魔神像」の説明板の「荒ぶる剣が封印を解き ツクヨミが声に覚醒する。」のツクヨミ????のままです
記紀に登場するツクヨミのことかと思いますが、大魔神とどう関係しているのか、さっぱり判りません

このことは、のんびり探ることといたしまして、ここはお開きとさせていただきます

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角川武蔵野ミュージアム探訪記 [後編]

2021-10-21 11:26:06 | 美術館・博物館・アート/本・雑誌

「角川武蔵野ミュージアム探訪記 [前編]」のつづきです。

私のこのブログのタイトルバックに使っている写真は、16年前の欧州出張の際、観光として訪れた大英博物館の図書室で撮ったものです。

大ドームの下、ほぼ360°を本に囲まれる空間、この中にどれだけの人類の知識が眠っているだろうかと、めまいがするような、酔った気分になったことを思い出します

と、ここまでのスケールではないけれど、似た感覚を味わったのが角川武蔵野ミュージアム「本棚劇場」でした。

この空間は、

約8メートルの巨大本棚に囲まれた図書空間。KADOKAWAの出版物のほか角川源義山本健吉竹内理三外間守善の個人文庫など約30,000冊が配架されている。「本と遊び、本と交わる」がコンセプトのプロジェクトマッピングも上映され、本の内容が表紙の外に飛び出してくるような音と映像の体験が味わえる。

というものだそうです。

先日のような大きな地震があったらどんな惨状を呈するんだろ? とか余計な心配をしてしまいますが、すべての棚板には、ちゃんとストッパーが装備されておりました

ちなみにこの書架に並ぶ本は、「エディット・タウン-ブックストリート」とは違い、手に取って読むことはできません。「本棚劇場」のキャストであり、舞台装置でした。

この本棚をスクリーンにして「上演」されたプロジェクトマッピングがこれまた「見ものでした。

なかでも、本が燃え上がる場面では、「華氏451度」を思い出しました。

なお、ここでは写真撮影ですが、もちろん、ストロボの使用は不可です。

ところで、本棚劇場に並ぶ本にはKADOKAWAの出版物も含まれているのですが、森村誠一さんの著書の多さには驚きました
私、森村さんの本をあまり読んでいないんだよな…

そうそう、プロジェクションマッピングは結構頻繁に「上演」されていますので、よほどの急ぎではない限り、体験されることをお奨めします。

   

本棚劇場をあとにして、裏側の階段を使って5階にあがりました。
と、この階段「アティックステップ」がまた…
ただの階段室ではなく、

本棚劇場裏にある屋根裏的階段空間荒俣宏蔵書から約3,000冊を厳選して自ら配架。19世紀の書物から近作まで、日本ではここにしかない本も。荒俣宏の頭の中を覗き込んだような体験ができる

というもの。
ここに並んでいる本には、私も読んだ/持っている本が何冊もあってビックリ
例えば、

「トリノの聖骸布」とか、

「贋作者列伝」とか、

大好き「伊東忠太動物園」とか、

荒俣さんの小説デビュー作「帝都物語」(私が持っているのは文庫版)とか…。
そして極め付きなのが、この本たち

ここに並ぶ11冊のうち、「無冠の疾走者たち」「ビギン・ザ・ビギン」「宮武外骨」「時刻表2万キロ」4冊を持ってる or 読んだ

いやぁ~、荒俣さんの本の嗜好、合う合う
もっとも、「荒俣ワンダー秘宝館」は、あまりにもいかがわしくイマイチでしたが…

すっかり「アティックステップ」魅了されて5階に上がり、本棚劇場を見下ろし

「武蔵野回廊」と「武蔵野ギャラリー」ザッと観たあと、角川武蔵野ミュージアムから退館しました。

   

既に14:30を過ぎ、かなり腹が減っていたので、迷ったあげく、うどんを食べました。

「隠れたうどん王国」といわれる埼玉に住んで長いのに、いわゆる「武蔵野うどん」を食べたのは、これが初めて
ドぶっとい麺は、表面はゴツゴツ感さえあるほど強い歯ごたえで、噛むとモチモチ感もあって、濃い味付けのつけ汁合う

と、書いていたら、また武蔵野うどんを食べたくなってきて、ついつい近くの店を検索
すると自宅からほど近い場所になかなの評判の店を発見しましたので、この記事を書き終えたら、食べに行こう

さて、[前編]でところざわサクラタウンについて、

KADOKAWAの本社機能(一部)や工場、倉庫のほか、ホテル、飲食店、物販店、イベントスペース、なぜか神社、そして角川武蔵野ミュージアムなどで構成されています。

と書きましたが、その「神社」がこちらです。

鉄パイプ製鳥居がどことなく安っぽい「武蔵野坐令和神社」です。

この神社も、設計は角川武蔵野ミュージアムと同じ今をときめく隈研吾さん。

角川武蔵野ミュージアム内の展示で、「開き直って神社でない『神社』を造りました」という隈さんのコメントを見ましたが、神社としてはかなり非常識な造りです。
なによりも、屋根の上にV字型に立つ「千木」

「千木」には2種類あることは、伊勢神宮にお参りしたときのこちらとか、大嘗宮を見学したときのこちらで書きましたが、武蔵野坐令和神社千木は、正面に向かって左が「外削ぎ」で、右が「内削ぎ」になっています

隈さんのコメントを転記しますと、

神社デザインは、二例目ですが、今回はある種開き直って遠慮せずにやりました千木に雄・雌があると松岡(正剛)さんから聞いて、大屋根は雄雌を混ぜた両義性の流造(中略) 実際歩いてみると全く神社的ではないものになっている。そこに至るまでにお稲荷さんの連続した鳥居があって、それをくぐって側面から入る。鳥居の連続体も求心性とはかなり違い、アミニズム的な、地形をフォローするみたいな特別なものです。僕らがやろうとしているアプローチの特殊さを鳥居をくぐりながら是非体験してもらいたいですね。

だそうで、この外削ぎ&内削ぎ混在の千木は、LBGTQをはじめとする多様性を認めようとする現代にふさわしいものなのかもしれません

   

ところざわサクラタウンには書店「ダ・ヴィンチストア」がありました。
さすがに「ダ・ヴィンチストアは『発見と連想』をコンセプトにした、KADOKAWA直営の体験型書店です」と自称するだけに、刺激たっぷりの個性的な書店でした。
書店ですから、KADOKAWA以外の出版社の本も取り扱っていまして、それまで角川武蔵野ミュージアムで盛り上がっていた私は、購買意欲盛り上がりこちらの2冊を購入しました。

池澤夏樹「ワカタケル」は、まず、鴻池朋子さんの装画惹かれました

   

私がところざわサクラタウンに辿り着いたとき、やはり角川武蔵野ミュージアムとその壁面の鴻池朋子「武蔵野皮トンビ」が目に飛び込んできたのですが、次におわぁ となったのは、

大魔神でした

なぜ大魔神ここに????

ここで大魔神にまつわる話を書き出すとどんどん本題から離れて行きそうですので、それは、[番外編]で書くことにしまして これにて「角川武蔵野ミュージアム探訪記」本編完結といたします。
なんとも唐突な幕引きですが、うどんを食べに行きたいもので…

とりあえず結語めいたことを書きますと、角川武蔵野ミュージアムは、まったく合わない/受け入れられない/つまらないと思う人もいるでしょうけれど、ある種の人々にはかなりの刺激を与えてくれます。
この日は平日だったにもかかわらず、多くの人が訪れていたことからしても、「ある種の人々」少なくないと思いました。
少なくとも私は、また何度も行きたいと思ったのでありました。以上。

【追記】このブログをアップしたあと、ネットで見つけ出した近所のうどんに行ってきました。
まだ12時前だというのに、広い店内はほぼ満席あれまぁ
で、肝心のうどんは、まさしく武蔵野うどん的太さ色黒さ

うどんを1本づつ食べるなんてそうそうあるものじゃありませんが、周りを見渡すと、ほとんどの人が私と同様にうどんを1本づつ取って食べていました
コストパフォーマンスイイし、うどんにもかかわらず腹持ちイイ。今後贔屓にしようと思っております。 (2021/10/21 16:41) 

番外編:2011/10/22 大魔神のこと 

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角川武蔵野ミュージアム探訪記 [前編]

2021-10-20 17:53:12 | 美術館・博物館・アート/本・雑誌

北海道遠征記の本編を書き始める前に、先週月曜日に出かけてきた角川武蔵野ミュージアムのことを書いておきます。

武蔵野線・東所沢駅から徒歩10分ほどのところに、ところざわサクラタウンという去年11月にグランドオープンした真新しい複合施設があります。所沢市の下水処理施設跡地に、KADOKAWA角川文化振興財団が主体となって建設したもので、KADOKAWAの本社機能(一部)や工場、倉庫のほか、ホテル、飲食店、物販店、イベントスペース、なぜか神社、そして角川武蔵野ミュージアムなどで構成されています。

私の自宅からは、電車一本、30分ほどで行けてしまうような場所なのですが、訪れたのは今回が初めてでした。
お目当は角川武蔵野ミュージアム、それも、その壁面に設置されたこれを観るため

鴻池朋子さんの24m×10m巨大な作品「武蔵野皮トンビ」です。
角川武蔵野ミュージアムが進める「6人のアーティストがコロナ禍のなかで人々に求められるイメージをそれぞれの解釈で制作する『コロナ時代のアマビエ』プロジェクト」第2弾として今年1月から約1年間の予定で設置されたもの。

前記のとおり、家から簡単に行ける場所だけに、そのうちに行こうと考えているといつのまにやら10月になってしまいました。こりゃそろそろ行かねば ということで訪れた次第です。

角川武蔵野ミュージアムのエントランスに掲げられた鴻池さんのメッセージには、

美術館の中か外かというならば、もはや私はどこであっても、その展示場所に特に違いはないような心持ちになっています。けれどもひとつ思うことは、美術館の中はとても安全で守られている、それが一番の弱点と感じるようになってきました。理不尽なことを言っているようですが、その“妙な感触”というのは、遡れば東北の震災を経たあたりから、より自覚的になってきたように思います。感覚は言語に先行して情報を捉えます。人間にとって利点である「守られている」ということを、なぜ直感力は弱点とするのか、探ってみたいと思いました。 [中略]
設置の構造は台風時にも耐える仕様になっていますが、作品自体は床皮(とこがわ/牛革を漉いた際にでる裏皮)を縫い合わせ、水性塗料を塗っただけの素朴な製法で、いわゆる絵画を屋外に晒しているような状態です。ですから、雨を受け太陽に当たれば、どんどん経年劣化して朽ちていきます。そこには、これまでの美術館の中で成立していた永遠とか、普遍とかいう言葉は何一つ通用しません。当たり前すぎることですが、地上に存在するという事は、常に外部に晒され、未熟で、同じものではいられないからです。 [中略]
「動物の皮」というその躯体に、何か“敵意”のようなものさえ孕みながら、しなやかに岩肌にへばりつき、雨や風や太陽や鳥などと呑気にやりとしながら、人間の皮膚のようにタフに歳とっていきます。「皮トンビ」はこれから約1年間、ここに棲みつきます。

だそうです。

設置から10ヵ月過ぎてもピンピンしている「武蔵野皮トンビ」を間近からしげしげと眺めた後、洞窟を思わせるエントランスから館内に入りました。

そもそも、角川武蔵野ミュージアムって何? 博物館? 美術館?

角川武蔵野ミュージアムは「博物館・美術館・図書館・アニメミュージアムが融合した文化複合施設」を標榜しているようです。

それすらも判らないまま、数多い券種のなかから自宅からネットで「KCM スタンダードチケット (本棚劇場含む)」を購入していた私は、エレベーターで4階に上がりました。

   

そしてまずアートギャラリーに行くと、俵万智展が開催中でした。

この個展(?)は、俵さんが今年、「短歌界の最高賞迢空賞を受賞したことを記念」たものだそうで、厳選したという作品(全部で約300首とな)が、ポップに展示されていました。
もちろん、一大センセーションを巻き起こした「この味が いいねと君が 言ったから 7月6日は サラダ記念日」とか、私が妙に気に入っている「万智ちゃんを 先生と呼ぶ 子らがいて 神奈川県立 橋本高校」とかもありました。

そうか、、、「サラダ記念日」の出版は1987年か…。昭和は遠くなりにけり です。

今、Wikipediaを見たら、面白い記述がありました。

角川短歌賞受賞者月刊カドカワの企画で注目を浴びていた俵の初歌集ということで角川書店からの出版になるはずだったが、角川書店社長の角川春樹自身が俳人であり、歌集、句集など短詩型文学の書籍は売れないものであると考えていたため、出版には反対したといういきさつがある。結局河出書房から出版されたこの『サラダ記念日』はミリオンセラーとなり、みすみすそのチャンスを逸した格好になった角川は後に「人生最大の失敗だった」と振り返っている。

角川書店といえば、蛇笏賞超空賞の主催をはじめ、「俳句歳時記」の出版とか、短詩型文学「家業」だったはずなのにね…

久しぶりに俵さんの短歌を拝見して、やはり唯一無二の歌人だなぁと感服しました。
中でも、この歌、イイです

「俵万智展」のことは、こちらのサイトのレポートがなかなかのデキです。

   

さて、ここからが角川武蔵野ミュージアム真骨頂エリア

角川武蔵野ミュージアムといえば、昨年末のNHK紅白歌合戦YOASOBIが歌った「本棚劇場」ばかりが取り上げられがちでが、その手前にある「エディット・タウン-ブックストリート」が、なんともイイのです

このコーナーは、

本の息づかいや賑わいが感じられる「本の街」松岡正剛の監修のもと、世界を読み解くための9つの文脈によって25,000冊の本が50メートルの通りに配架されている。新しい本と出会い、新しい連想が生まれる空間。

で、図書館の開架閲覧室のように、本を手に取って、その辺の椅子に座って読むことができます。

ここに並べられている本は、背表紙を眺めているだけで、こちらにビンビンと響いてきます。
ふと、昔、銀座勤めしている頃、会社の帰りに、当時晴海通り沿いにあった近藤書店(こちらの記事で書きました)に寄ると、「これを読みたい、あれも読みたいと盛り上がってしまい、個人的に「衝動買いの近藤書店」と呼んで親しんでいたことを思い出しました。
ネットで本を購入するときには味わえないこの感覚を久しぶりに味わいました。
これって、丸の内勤めをしている頃、丸善丸の内本店「松丸本舗」をぶらついたとき以来です、、、、、って、「松丸本舗」松本正剛さんプロデュースのショップインショップでした

感覚の合う書架って、眺めているだけでどうしてこんなに楽しいのでしょうねぇ。まぁ、判らない人には判らないでしょうけれど

こんな分類って、ありますか

いやはや楽しいったらありゃしない

このあと、「本棚劇場」圧倒され、その裏にある「アティックステップ」あれまぁ~ となったのですが、そのお話は後編で。

つづき:2021/10/21 角川武蔵野ミュージアム探訪記 [後編] 

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3度目の正直:北海道遠征記 [ダイジェスト]

2021-10-19 19:27:02 | MISIA/旅行記

「MISIA星空のライヴ ACROSS THE UNIVERSE」は去年6月18日の大宮ソニックシティでの CLUB MSA 限定公演を皮切りに、華々しく全国を巡る予定だったのですが、新型コロナウイルス感染症のせいで、7月5日の新潟公演までが中止となり、その後の公演も順次延期や中止が発表されました。
そして、7月26日の札幌公演は同年10月30日に延期7月28日の函館公演中止となりました。その代わりというか、10月29日に旭川公演がセットされたことから、私は旭川⇒札幌のハシゴ遠征を計画し、航空券とホテルを予約したのでした。

今にして思えば、昨年4~5月の第1波同8月頃の第2波も、その後の第3~5波に比べれば、ちょっとした盛り上がり程度ですが、当時はそんなことを知るよしもありませんでしたよね

でも、10月29日旭川公演2021年9月12日に、10月30日札幌公演2021年10月17日に、それぞれ約1年再延期
私が昨年10月29~31日に予定していた北海道遠征は、予約していた札幌のホテルが「120日前予約でお得にSTAY 素泊り」などというキャンセルできない(しかも、Go To トラベル始まる前の予約だったので「2泊素泊まりで25,000円超と、ぜんぜん「お得」じゃない)プランだったため、空振り旅行に姿を変えて決行したことはこちらで書いたとおりです。

なお、札幌のホテルは、チェックインのときにぼやいたその場「キャンセル⇒Go Toトラベル適用プランで再予約」できて、「朝食2食付き約15,000円」で泊まれました

このときの旅行記は、ダイジェスト(こちら)全日分を書いたものの、本編2日目の途中で途切れてしまいましたそれなりに楽しめた旅行になりました。

   

さて、再延期された旭川公演第5波再々延期となって、開催日は未定のままですが、札幌公演10月16日に1日2公演が追加されて、16日・17日の2 days 4公演になり、私は16日の1公演を追加してチケットgetし、今回の遠征となった次第です。

前置きがメチャ長くなりましたが、この2泊3日の旅行の行程を簡単に書くとこんな感じ。

初日(10月16日):自宅⇒羽田空港⇒新千歳空港(昼食:ラーメン)⇒札幌駅⇒ホテルMISIAライヴプチ・オフ会⇒ホテル
2日目(17日):ホテル北海道立近代美術館札幌オリンピックミュージアム⇒昼食:ジンギスカ⇒ホテルMISIAライヴ⇒夕食:寿司⇒ホテル
3日目(18日):ホテル⇒札幌駅⇒新千歳空港⇒羽田空港⇒自宅

初日、札幌駅に到着して改札を抜けるやいなや、デジタル・サイネージでヤクルト Y1000の広告が流れていて、MISIAお出迎えしたいただいた気分で、幸先の良い札幌となりました。

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でも、観光らしい観光は2日目だけ
3日目も、午前中観光しようとも思ったのですが、あいにく月曜日とあって、博物館や美術館のたぐいは軒並み休館日
そこで、15時頃のフライトを、1便(欠航) + 1便早いのに変更して帰ってきました。でも、夕方の帰宅ラッシュが始まる前に帰ってこられて、楽々でした

ちなみに、初日の夜に氷雨が降った以外は良い天気で、ちょっと寒かったことを除けば、非常に恵まれた天候でした。
私の服装は、Tシャツ+シャツ(初日:半袖、2-3日目:長袖)+薄手のブルゾンでしたが、十分な装いだったと思います。でも、周りを見渡すと札幌の人たちかなりの厚着で、ダウンジャケットを羽織った人もいたりして、意外な気がしました。寒さには私の方が強そうです

   

さて、メインMISIA星空のライヴ ACROSS THE UNIVERSE札幌公演のことを、ネタバレしないよう、簡単に書いておきます。

私は両日とも 2nd Showのみに参加しました。
会場の札幌文化芸術劇場hitaruは、私にとって初めてのホールでしたが(MISIAにとっては2019年2月の「MISIA星空のライヴX」以来2度目)立派キレイ音響もイイ

ただ、熊本城ホールと同様、延々とエスカレーターを乗り継いで上って行かなければならないので、開演時刻まで余裕を持って行くべき会場でした。
私は、「THE TOUR OF MISIA LOVE BEBOP」札幌公演2日目で、席に着いたら、既にLittle Black DressRYOちゃんオープニング・アクトは始まっていた(記事) なんてことがありましたので、因縁の札幌公演ですし、その轍を踏まないよう、早めに到着しておりました

客席は、最近のライヴではお馴染みになった感のある「グループ・ディスタンス」で、客席の充填率は2/3くらいだったでしょうか。

で、ライヴ2本とも、いつも以上素晴らしかった

MISIA歌声は、まさしくタイトルの「ACROSS THE UNIVERSE」そのままに、宇宙や万物を貫いて響きわたるって感じ。MISIAを聴くチャンスがあって、それを逃したら、もったいないったらありゃしない
2日目の途中、ちょっと声が枯れ気味か? と思った場面がありましたが、次の曲ではなぜかそれまで以上に艶やかな歌声響かせるという、「MISIAあるある」まであったりして…。

さらに、サポートメンバー超一流
JAZZ畑のメンバーが多いこともあってか、毎回、アレンジやパフォーマンスが違って、毎度驚かされます。これだから、何度でも聴きにいきたくなるんだよなぁ…

ビミョーにネタバレになりますが、初日の2nd Showで、新曲初お披露目がありました。
かなりかなり魅力的な曲だったことをバラして、ダイジェストをおしまいにします。

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2ヵ月ぶりの「MISIA星空のライヴ」で長野遠征 #4 (完結編)

2021-10-11 22:12:31 | MISIA/旅行記

またもや1週間もサボってしまいましたが「2ヵ月ぶりの『MISIA星空のライヴ』で長野遠征 #3」のつづきです。

ちょっと後ろ髪を引かれる思い「北斎館」をあとにして、小布施駅へと向かいました。
せっかく小布施まで来たのですから、北斎筆の天井絵のある岩松院も拝観したかったところですが、北斎館の至近にある高井鴻山記念館ならいざしらず、岩松院は結構離れたところにあって、岩松院まで歩いて、拝観して、小布施駅まで歩くという行程を40分ほどでこなすのは不可能です

とはいえ、小布施駅に着いてみると、長野行きの電車まではまだ30分以上もあります。

そこで、駅舎内のお店で栗ソフトクリーム を食しました。

小布施町のキャッチフレーズは「栗と北斎と花のまち」だそうで、北斎よりもの扱いがなのです

栗と北斎と花のまち 小布施町

それはともかく、栗ソフトクリームを美味しくいただきました

栗ソフトクリームを食べながらこの行程について考えました。
10:45長野駅に着いて、11:33発の電車に乗って小布施駅到着が11:56、そして、小布施駅13:55発の電車に乗って長野駅着が14:30
つまり、小布施に滞在できる時間は2時間しかなかったということです。
しかも、長野駅到着から「MISIA星空のライヴ ACROSS THE UNIVERSE長野公演の開演まで30分しか余裕がない
ちなみに、私が乗った長野電鉄のダイヤでは、往路の一本前長野駅10:26発で、その頃の私はまだ軽井沢の辺りだったし、復路の一本前小布施駅12:53発で、逆に1本あと小布施駅14:12発 & 長野駅14:38着でライヴ開始までの余地が20分ほど とかなり危ない。つまり、私としてはフル小布施に滞在できたということになります。

そもそも、「#1」で書いたように、長野駅に着いてから、ライヴまでの4時間の使い途を考えて、思いつき小布施に向かったわけですから、何の下調べもしておりませんでした
これでは、4年前「Misia Candle Night 鹿児島・仙巌園」遠征で、思いつきで鹿屋から佐多岬まで足を伸ばしたせいで、「これじゃライヴに間に合わない絶望一歩手前まで行ったこと(記事はこちら)が活かされていないではありませんか
反省です…

さて、栗ソフトクリームを食べ終えた私はお店を出て、駅の柵外から景色を眺めました。

う~む…。
が低く垂れこめて、な~んも見えない
ホーム上の案内板によれば、この方向に妙高山をはじめとする「北信五岳」が見えるらしいのですが、な~んも見えない

帰宅して、2017年1月放送のNHK日曜美術館「果てしなき夢 ~画狂老人、北斎の晩年~」復習のつもりで視たら、天気が良ければこんな眺めだったのか… と残念がったりして…。

   

さて、定刻にやってきた長野行きの各停に乗って長野駅に戻りました。
これまた定刻長野駅に着き、そこからは昼前に直接目視で確かめたホクト文化ホールを目指して、早足で歩きました

途中からは、私と同じようにホクト文化ホールに向かっているとおぼしき人たちが周りに増えて、一安心でした。

会場に近づくと、交通整理の係員さんが、「駐車場は満車で~す」と声かけをしていました。
こんな開演15分前のようなタイミングで、あてにしていた駐車場が使えないと判った人たちの心持ちたるや…と思い計ると不憫でなりませぬ…
というか、ホクト文化ホールの駐車場を使うつもりなら、もっと早く来い ってヤツだと、私は思います

ということで、私はちょっとだけ余裕をもって、実質最前列の私の席に着くことができました。

そして、ほぼ定刻にライヴが始まり、私としては7月末盛岡公演以来、約2ヵ月ぶり生MISIA堪能いたしました。
MISIAはいつもどおりの安定っぷりだったのですが、2度ほど、っつうか不快な音の響きがありました。あれは会場の音響特性との相性だったのかな??

ここで、唐突ですが、「MISIA 星空のライヴ ACROSS THE UNIVERSE」のセットリストを載せます。ネタバレ不要の方を考慮して、クリックしたら見られるようにしますので、不用意にクリックしないよう、ご注意くださいませ。

ライヴが終わり、ツアーグッズ「ランダムバラエティグッズ」2個購入したら5~6個目「鳥さん」2羽だったことにショックを受けたものの、外に出ると、あれま青空 
これはMISIAパワーのなせる技なのでしょうか??

そこでちょいとミー友さんたちと久しぶりに立ち話をしているうちに、帰りの新幹線の時刻が気になり始め、「またね~長野駅に向かいました。

長野市は天候が回復した気配だったのですが、上田を過ぎた辺りから雲行きが怪しくなり軽井沢辺りではこんな様子

帰りの新幹線は、コロナ禍が始まってから初めてかも知れない と思うほどお客さんたっぷりと乗っておりました。
9月24日に年休を取って4連休にした人を含めて、この週末に北陸方面に旅行に出かけた人が多かったということなのか? 

ということで、19:00には自宅に帰着し、日帰り長野遠征無事終了致しました。
次の遠征は、今週末の札幌です。
こちらはしっかりと行動計画をたてて、慌てることのないようにするぞ と心に決めております。
めでたしめでたし…。

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2ヵ月ぶりの「MISIA星空のライヴ」で長野遠征 #3

2021-10-04 20:41:51 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2ヵ月ぶりの『MISIA星空のライヴ』で長野遠征 #2」のつづきです。

北斎館が所蔵する葛飾北斎肉筆画を堪能して、既に満腹に近い状態の私でしたが、最後の第四展示室には、まさしく北斎館でしか味わえない至高の空間が広がっていました。

リーフレットから転記しますと、

北斎筆の天井絵が描かれた二基の祭屋台(長野県宝)を収蔵展示しています。東町祭屋台の「龍」「鳳凰」は天保15年(1845)北斎85歳上町屋台の「男浪」「女浪」の怒濤図は弘化2年(1845)北斎86歳の作品です。なお、上町屋台には「水滸伝」に登場する皇孫勝応龍像が飾られています。

だそうで、天井画のオリジナルは間近に観られるよう、外されて観覧者の目線の高さに立てて展示され、屋台の天井にはレプリカが取り付けられていました。
これはうれしい配慮です

と、ここまで書いて、確かこの屋台の天井絵に関するTV番組を録画しているような気になって、BDケースをごそごそしたら、見つけました
2017年1月8日放送NHK日曜美術館「果てしなき夢 ~画狂老人、北斎の晩年~」でした
さっそくガン見しました。
すると、天井絵4枚のうち、なぜか怒濤図「女浪」だけスルー
そういえば、すみだ北斎美術館での「北斎 視覚のマジック -小布施北斎館名品展-」でも「男浪」だけで「女浪」はやってこなかった…。(東町の方は、「鳳凰」だけで、「龍」お留守番)

それはともかく、まずは、東町祭屋台からじっくり拝見

説明板を転記します。

東町祭屋台
高さ474cm/幅201.5cm/奥行333.5cm
この屋台は文化2年(1805)に再建された記録が見られ、小布施に現存する7基の祭屋台のうち最も古い歴史を持つ。特徴は二階建て・台車付きの構造で、唐破風の屋根と欄間の透かし彫り、飾り舞台を有する。当時の小布施村民の意向を受けた高井鴻山の依頼に基づき制作、天井の一部を改造し、龍、鳳凰の二図が収められた。
「龍図」「鳳凰図」
桐板着色/123.0cm×126.5cm
北斎85歳、天保15年(1844)来遊の折、約半年を費やして東町祭屋台天井絵「龍」「鳳凰」図を描いた。
燃えるような紅の地に龍図、暗い藍を基調とした鳳凰図が対照的に描かれ、その明暗が屋台の装飾効果を高めている。

その龍図と鳳凰図のオリジナルがこちら(両図の並びは)。

「鳳凰図」と「龍図」

上手く撮れず、一部が欠けました
の周りのが、いかにも北斎
鳳凰は色も鮮やかでなんとも華やか

一方の上町祭屋台

上町祭屋台
高さ484cm/幅240cm/奥行383.5cm
この屋台は弘化2年(1845)、高井鴻山が私財を投じ北斎の協力を得て建造された。特徴は東町祭屋台と同様の構造だが、東町と比べて全体的に大きく造られている。二階には北斎の意匠による『水滸伝』の武将皇孫勝と応龍の木彫が飾られている(皇孫勝は信州高井村の彫師・亀原和田四郎、応龍は江戸の人形師・松五郎の作)。
「男浪「女浪」
桐板着色/118.0cm×118.5cm
弘化2年(1845)、北斎は引き続いて小布施を訪れ、上町祭屋台天井絵「怒濤」図二面の制作屋台の装飾に携わった、「男浪(おなみ)」「女浪(めなみ)の四周を彩る縁絵は、北斎の下絵を元に鴻山が彩色したといわれている。

そして「男波」「女波」のオリジナル

「ザ・北斎」です。
しか描かれていないし、使われているの種類も少ないのに、なんでこんなに引きこまれるんでしょ?
飾り舞台に上がり、天井に描かれたこの波を見ると重力マイナスになり、天井に吸い込まれるような気分を味わえそうです。

ところで、東町の「龍」「鳳凰」上町の怒濤図とは、制作年が1年違うだけなのに、なんとも対照的です。

東町祭屋台は、極彩色豪華絢爛で、そしては無し。
上町祭屋台は、色数少なく、描かれているのはだけ。でも、彩極色縁絵付きです。

勝手に妄想を繰りひろげると、こんな裏話が見えてきました。

東町祭屋台を仕上げて江戸に戻った北斎は、天井画の出来映え満足していたが、そのうち、豪華絢爛祭屋台龍と鳳凰極彩色の天井画は、あまりにありきたりで、正直、ヤボではないか? と思い始めた。
江戸っ子たる北斎にとって「ヤボ」と評されることは、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」マーフィー「Chicken呼ばれるのと同じくらいイヤ
今さら描き直すわけにはいかないが、うまい具合に、来年も上町祭屋台の天井画を描くことを依頼されているし、こっちの天井画は、誰もがアッと驚くような絵にしてやろうじゃねぇか。
そういえば、の周りにを描いていたら、妙に胸がムズムズしてきやがったことだし、いっそのこと、上町祭屋台には波だけを描いてやろう

そして翌年、小布施にやって来た北斎は、富士とならぶお得意の題材であるの天井画を描くと、どんなもんでぇ得意満面北斎だったが、パトロン鴻山曰く、「あのぉ、先生、これだと上町の連中がむくれます。東町祭屋台並みにとは申しませんが、もうちょっと、派手な、、、、そうだ キラキラ系縁絵を描いていただけませんでしょうか?」
北斎は乗り気ではなかったものの、パトロン無碍にはできないし、、、と、スラスラと草花天使もどきの素描を描くと、「色付けはあんたがやんな」と絵の心得もある鴻山に放り投げた。

そうして完成したのが、上町祭屋台の天井絵だった。[完]

これは完全に私の妄想ですので、真に受けないでいただきたい

それはともかく、満足した状態で北斎館の展示を見終えた私、何時だろう? とスマホを見ると、13時を過ぎています。
直今の電車に乗ったら、長野駅に着くのは何時?

14:30、、、、、、、、ええっ
今回の長野遠征メインイベント「MISIA星空のライヴ ACROSS THE UNIVERSE」長野公演の開演時刻は15:00ですから、ぜんぜん余裕無い

あとで考えれば、乗るべき電車小布施駅13:55発で、北斎館から小布施駅まではゆっくり歩いても15分くらいですから、それほど焦る必要はなかったのですが、このときは、気がせいて ミュージアムショップもそこそこに、北斎館をあとにしました

といったところで「#4 (完結編)」につづきます。

つづき:2021/10/11 2ヵ月ぶりの「MISIA星空のライヴ」で長野遠征 #4(完結編)

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2ヵ月ぶりの「MISIA星空のライヴ」で長野遠征 #2

2021-10-02 20:41:21 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2ヵ月ぶりの『MISIA星空のライヴ』で長野遠征 #1」のつづきです。

小布施駅の案内地図で目的地の北斎館の場所を確認したあと、の中を歩き始めました。
自宅を出発するときはは降っていなかったものの、天気予報を信じて、長い傘を持ってきていました
それはともかく、周りはひとっこ一人もいない 状況で、「大丈夫か、小布施 大丈夫か、北斎館って感じ。

この日のルートは下図のとおり。青線が往路、赤線が帰路です。

最初の交差点を左折してちょっと行くと、左手に神社があり、その境内を抜けることにしました。

その神社の名前は「皇大神社」
いかにも伊勢神宮の系統っぽい名前ですが、社殿は、

神社には珍しい瓦葺きで、伊勢神宮系っぽくない
でも、奥にある本殿は、

棟木の上に鰹木を載せていて、銅板葺きではあるけれど、「さすがは伊勢神宮系」と納得いたしました。
帰ってきてから皇大神宮について調べると、長野県神社庁のHPによると、

往古伊勢神宮の御分霊を勧請して開発田畑家の守護神として祀る
以来開発居住民の増加に伴い崇敬の念高まり長久年間には社を造営替し境内を拡張す而して地方郷土として郷原直衡・唐沢伊右ェ衛門尉の諸氏代々及び領主として須田久郎為実・福島左ェ門大夫正則・真田伊豆守信之諸氏代々の崇敬厚く又、既に伊勢神宮直属の社にして社は神宮に習いて20年目毎に造営替する例なり
又社財は神宮より年々下向して祭祀は勿論北信州一円の崇敬者に大麻を頒布す斬して明治12年迄存続し同13年より諸制度改まり地方神職及び崇敬者の経営となる。崇敬者数は大凡そ6000人

だそうです。

同じ敷地内には、金比羅社もありましたが、こちらも瓦葺き

私のイメージとしては、神社の屋根萱葺き・檜皮葺き・こけら葺き・銅板葺きが主流で、瓦葺きは珍しい
こちらのサイトによると、やはり「実は神社にはほとんど瓦が使われないんです」だそうです。

それはそうと、こんぴらさん船乗りの崇敬の厚い神社のはずなのに、なんで信州の山に囲まれた盆地金比羅社があるのでしょうか? 
と、Wikipedia金刀比羅宮の記述をみると、

当初はあらゆる分野の人々に信仰されていたが、19世紀中頃以降は特に海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集める。

とありますので、こんぴらさんとを結びつけるのは古くない発想なのでしょう。

   

皇大神社の境内を横切ってR403に出ると、それまでの「閑散と打って変わって、クルマ多い
観光客目当てと思われるお店もたっぷりあって、それぞれが大賑わい

みんな、長野電鉄ではなくクルマでやってくるんですな

で、北斎館に到着

入館料1,000円のところ、JAF割引を使って900円で入館しました。
お客さんが結構多い
たいへん結構なことと存じました

ところで、なんでこの信州の小さな村だった小布施葛飾北斎由来の地になったのでしょうか?

北斎館のリーフレットから引用しましょ。

葛飾北斎(1760~1849)は80歳代の半ば、当地小布施の豪農商・高井鴻山の招きにより来町・逗留地元の祭屋台天井絵・東町(龍図・鳳凰図)、上町(男波図・女波図)のほか、岩松院大間天井絵(鳳凰図)を描きました。
北斎館は昭和51年(1976) 11月に開館。二基の祭屋台のほか、長く大切に受け継がれた肉筆画、版本や錦絵など、北斎の画業を広くご覧いただけます。

ここに出てくる北斎のパトロン高井鴻山さんなる人物のことは、北斎館のすぐ近くにある高井鴻山記念館に行けば詳しく知ることができたでしょうが、そちらをハシゴする時間的余裕はまったくなく、今回は涙を呑みました
そこで Wikipediaをみると、鴻山さんったら、豪農商ボンボンらしく、若くして京都に出て16年にわたって書、画、国学、和歌、儒学、漢詩を学んだ文化人で、その一方で商売からっきし…というかなりの人物らしい。
絵画のお師匠岸駒・岸岱親子だったというのがなんともイイ
岸岱の作品は、讃岐の金刀比羅宮(記事)京都御所(記事)東京国立博物館(記事)で拝見しましたっけ…

話を北斎に戻します

北斎館では、「北斎視覚のマジックⅡ -北斎館所蔵名品展-」を開催中でした。

このタイトル、どこかで聞いたことがあるような…と思ったら、約2年前すみだ北斎美術館「北斎視覚のマジック -小布施北斎名品展-」を観たのでした

このときも思ったのですが、北斎館のコレクションは、なんといっても肉筆画や資料の充実ぶりが特徴です。

もちろん、浮世絵版画や版本の類も、冨嶽三十六景北斎漫画をはじめとしてたっぷり収蔵していますが、そうした作品は世界各地の美術館・博物館も状態や数はともかくコレクションに加えています。でも、一品もの肉筆画や書状のたぐいはそうはいきません。
北斎の肉筆作品をこれだけ収蔵する美術館はそうそうあるものじゃありません
しかもうれしいことに、北斎館は展示作品の撮影OKですと (もちろん、三脚やフラッシュの使用はNG です)

ということで、この日拝見できた作品をいくつか備忘録的に載せておきます。

まずは、弘化2年(1845)北斎高井鴻山に送った新年の挨拶状

篆書「新年之御吉慶」と書かれた下に、姿でをする人物 (北斎?) が描かれています。
説明書きによると、

北斎が高井鴻山に宛てた新年の挨拶状です。本書状は弘化2年(1845)のものと考えられ、3月に小布施に向けて出立することが記されています。「是悲ゝ(ぜひぜひ)」とあるように、3度目の来訪に向けて意気揚々であることが文面からも感じ取れます。

だそうです。
85歳を過ぎたおじいちゃんが、江戸から意気揚々と歩いて行き、そこで絵を描くなんて、なんという怪物なんでしょ

お次は、北斎の娘にして、北斎をして「美人画を描かせたら俺より上手い」と言わしめた葛飾応為ことさんの書状です。

これまた説明書きを転記します。

舌代 (ぜつだい=取り急ぎ簡潔に用件を伝える意)
絵具の作り方が記された応為直筆の書状です。伝来から受取人は小布施栗書状と同一人物だと考えられます。書状には他にもお手本がすぐに送れないこと、代わりに女絵の下絵を送ること、絵具の使い方は直接会って指導するといった内容が記されています。

お栄さんは、北斎の保護者として小布施に同行したんでしょうね。
そうそう、お栄さんといえば、NHKドラマ「眩(くらら) 北斎の娘」(原作:朝井まかて)を思い出します。

ホント、良いドラマでした
とにかく画像が美しく、主演の宮崎あおいさんが素晴らしかったこのドラマ、実際に絵を描くシーンもまた見事ですが、北斎最期の作品として登場した絵も展示されていました。

幕末の嘉永2年(1849) 4月88歳(数え90歳) で亡くなった北斎は、「天が私の命をあと5年保ってくれたら、私は本当の絵描きになることができるだろう」といったことを臨終のことばとして残したそうですが、この作品「富士越龍」には「嘉永二己酉年正月辰ノ日」の日付が記され、落款は「九十老人卍筆」、印は「百」

説明書きには、

富士山に立ちのぼる黒雲の中~龍が姿を現し、展を目指して上って行く様子が描かれています。落款には九十老人卍筆とあることから、90歳で没した北斎の絶筆の遺作といえるでしょう。
北斎は生涯で富士山を最大の絵のテーマにしてきましたが、人生の最後に富士山を描きそれを越えていく龍を描きました。自分の画業を、「いずれ神の域に達するだろう」と言った北斎は、龍を自分にたとえて描いたのかもしれません。

とありましたが、私もこの龍は北斎自身だと思います。
「遺作」だからなのか、どことなく寂しさを感じる一方、「先にあの世とやらに行ってるから」が言い捨てているようなおかしみも感じます。

この辺りで既に満腹感があったのに、北斎館にはまだ凄いのがありました
そのお話は「#3」で。

つづき:2021/10/04 2ヵ月ぶりの「MISIA星空のライヴ」で長野遠征 #3 

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