新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

2019年の美術館・博物館めぐりの振り返り

2019-12-31 10:34:22 | 美術館・博物館・アート

毎年、なぜか12月30日に書いてきた、その年に観た展覧会のふり返りですが、今年は諸般の事情により(って、関西旅行記完結させた開放感ボケっとしてた)大晦日のきょう、書きます。

例年だと、「TOP 10」と、その中での「TOP 3」、そして「TOP 10までもう一息」と区分しておりましたが、今年はちょっとだけ趣向を変えます

が、まずは、今年のTOP 3 

 インポッシブル・アーキテクチャー @埼玉県立近代美術館(MOMAS)
 入江明日香-心より心に伝ふる花なれば- @茨城県天心記念五浦美術館
 流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美 @京都国立博物館

「佐竹本三十六歌仙絵」展のことは、関西旅行記ほかで散々書いてきましたしたので、このブログで書いていない2つの展覧会についてちょっと書きます。

まず、「入江明日香」展
この展覧会は、この展覧会を観るために五浦まで出かけたのではありませんで、「Misia Candle Night Reiwa」いわき公演(記事はこちら)への遠征の際、せっかくクルマいわきまで来たのだからと、福島・茨城の県境を越えて足を伸ばして行った茨城県天心記念五浦美術館で、たまたまやっていたもの
入江明日香さんは、初めて耳にするお名前だったのですが、観たら嵌まりました
フライヤーから引用すると、「手漉きの和紙に刷った銅版画をコラージュし、水彩・墨・箔・胡粉をほどこすという独自の技法を用いた表現により、見た人の記憶に残る作品を制作し続けています」という入江さんの作品、いやぁ~、イイ

特に気に入ったのは、東大寺戒壇堂の四天王(大好き) をモチーフにした作品で、ついつい額絵2点購入し、後日、それに合う額縁まで買ったくらいです。
しかも、入江さんが、埼玉・朝霞市丸森芸術の森(私が大好きな、ベン・シャーンアンドリュー・ワイエスのコレクションでも有名)活動の本拠としていると知って、ますます好感度 up
今後も入江さんには注目していきたいと思っています。

   

インポッシブル・アーキテクチャー」は、

20世紀以降の国内、国外のアンビルドの建築に焦点をあて、それらを仮に「インポッシブル・アーキテクチャー」と称しています。ここでの「インポッシブル」という言葉は、単に建築構想がラディカルで無理難題であるがゆえの「不可能」を意味しません。言うまでもなく、不可能に目を向ければ、同時に可能性や豊穣な潜在力が浮かび上がってくる--それこそがこの展覧会のねらいです。

という趣旨(フライヤーより)
今年の「次点」に選んだ「終わりのむこうへ:廃墟の美術史」展とも相通じるところがあると思うのですが、「これが存在していれば、目の前の光景はどんなものなんだろうか?」という想像力を奮い立たされるような展覧会でした。
展示作品の中で一番胸に響いた、というか、考えさせられたのは、コンペに勝ちながら、ボツになったザハ・ハディドさんの新国立競技場設計案でした。

膨大な量の図面や計算書、そして、かなり大きな風洞実験用模型を見ていると、施主側の不誠実な決断/仕打ちに怒りのようなものが沸き上がる気がしました。
レガシーを後世に残す、という意味では、ザハ・ハディド案の方が圧倒的にインパクトがあると思うのですが…。
きっと、パラレル東京では、このスタジアムで東京2020の開会式が行われることでしょう。

そうそう、山口晃画伯の作品が2点、「都庁本案圖」(c/w 会田誠「東京都庁はこうだった方が良かったのではないかの図」)と、

私も持っている「新東都名所 東海道中『日本橋 改』」が出展されていて、おやまぁ でした。

このインポッシブル・アーキテクチャー」展は、来週・1月7日から大阪の国立国際美術館でも開催されます(3月15日まで)

   

次は、次点の展覧会の前半。

終わりのむこうへ:廃墟の美術史 @松濤美術館 [記事]
ブラジル先住民の椅子 @ MOMAS [記事]
浮世絵に見る意匠(デザイン)の世界 @東海道広重美術館
徳川美術館名品 尾張徳川家の至宝 @秋田市立千秋美術館 [記事]
大浮世絵展 @江戸東京博物館
目 非常にはっきりとわからない @千葉市美術館

河口湖ステラシアターでの「Misia Candle Night Reiwa」遠征の2日目に出かけた東海道広重美術館については、遠征記「河口湖-3」で、

ということで、東海道広重美術館の見聞録「河口湖-4」で。

と書きながら、そのまま「お蔵入り」状態になっています。
まったくもって面目ない…

で、「浮世絵に見る意匠(デザイン)の世界」展は、

浮世絵版画の背景や人物の衣装には、直線や曲線で構成される幾何学模様や連続模様、身近な植物や伝説上の動物を題材にしたものなど、多種多様なモチーフがデザインされています。本展では浮世絵版画の中に見ることができる、様々な意匠(デザイン)をご紹介いたします。

というもの。
ふり返ってみれば、浮世絵を背景や衣装の(がら)に注目して鑑賞したことはなかったな、と目からウロコの落ちる展覧会でした。
フライヤーにも「定番」幾何学模様が描かれていて、かなりイイ

「意匠」についての説明板も詳細で、勉強になりました
ただ、図録なく、復習できないのが残念です
ということで、後日、「日本の文様」というをネットで購入した次第です。

一方、江戸東京博物館「大浮世絵」展は、「歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演」というサブタイトルどおり、浮世絵の大御所たちの作品が世界各地の美術館から前後期合わせて約260点集結するという、豪勢な、まさに「大浮世絵」展でした。
個人的には、あまり国芳が好きじゃないこともあって、「どうして春信が入っていないんだ」とクレームを入れたいところですが…
もっとも、「あまり好きじゃない」国芳の大判錦絵3枚続の大作「相馬の古内裏」大迫力には圧倒されました

また、「浮世絵に見る意匠(デザイン)の世界」によって目覚めたで見ると、歌麿ってやっぱり凄い と思ってしまいます。
どれだけ大量「衣装の意匠」の引き出しを持っていたんでしょ、歌麿は…
歌麿凄いんだけど、彫り師摺り師とんでもない仕事をしていることに眼を見張ったのでありました。

   

「目 非常にはっきりとわからない」展は、正直、「非常にはっきりとわからない」展覧会でした。

平日(12月27日)だというのに、千葉市美術館にはチケットを購入する人たちのができていてどうしたことか でした。

列に並んでいると、係員さんから鑑賞にあたってのいくつかの注意事項が伝えられまして、その中に、1階は撮影可能ですが、会場の7階・8階は撮影禁止です」というのがあって、もしかして展覧会1階から始まっている? と…
千葉市美術館は、12月28日にこの展覧会が終わるとリニューアル工事に入って、2020年7月中旬まで休館するらしいですので、その工事が始まっているのか? という風情なんですが…

そして、エレベーターで8階に上がると、やはりそのフロアも、壁は養生シートで覆われているし、梱包されたままのモノがあちこちに置かれているしで、え" でした。

また、作品(らしい)ものに、タイトルとか素材とか制作年といったことが表示されていないし、かなり変わった展覧会だな と思いました。

8階の展示を観終わった私はエレベーター7階に降りてつづきを観始めたのですが、、、、あれ ここはどこ?
さっきと同じではありませんか
フロア全部観ても、やはり、さっきと同じ

おっかしいなぁ~と、再びエレベーターに乗って8階へ…。
でも、やはりさっきと同じ

私はどこにいるんだろう と頭の中はぐっちゃぐちゃです
ちょっと前に「別のフロア」で見かけた観客も歩いているし…。

ふと気がつけば、エレベーターフロアにある階数表示「養生」されて見えなくなっています

ここでようやく理解できました。7階8階とは、一部の「作品」がフロアによって「養生(=目隠し)」されていたりされていなかったりすることと、ミュージアムショップ7階だけにあることを除けば、ほぼ同じ展示なのですよ
7階⇔8階の移動がエレベーターに限定されていたのは、観客に「あれ ここはどこ?」の感覚をもたらすためだったんですな

なんだかわかったような、でも、やはり「非常にはっきりとわからない」感覚のまま千葉市美術館を出て、千葉都市モノレール葭川公園駅まで歩きました。

あれ? もしかして、「目 非常にはっきりとわからない」展は葭川公園駅から始まっていた?

   

今年は天皇代替わりというか今上天皇即位がありまして、それを記念する展覧会や特別展示がいくつかありました。
そんな中から東京国立博物館で開催された次の3つ「次点」に選びました。
「両陛下と文化交流」展は、現・上皇陛下「御即位30年記念」ですが…。

両陛下と文化交流 [記事]
正倉院の世界 [記事]
特別公開 高御座と御帳台 [記事]

ちょっと性格が異なりますが、大嘗宮の公開(記事)を加えても良いかもしれません。
公開終了後はサーマルリサイクル(要するに「焼却」)される大嘗宮を拝見するなんて、このときだけの経験でしたから。

ちなみに、大嘗宮を参観した人は、11月21日~12月8日18日間で、782,081ですって
この人数、福井・徳島・高知・島根・鳥取各県の人口よりも多い

ということで、今年の美術展・展覧会のふり返りはおしまい
また、この記事が今年のブログ書き納めです。

来年元旦、というか今夜から書き始める予定ですので、来年も当ブログを暖かく見守ってくださいますようお願い申し上げます。

では、皆様、良い年をお迎えください

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今年2回目の関西旅行は2泊3日 #3-4 (完結編)

2019-12-30 12:58:13 | 旅行記

「今年2回目の関西旅行は2泊3日 #3-3」のつづきは、いよいよ「今年2回目の関西旅行は2泊3日」シリーズ完結編です。

今年、東京国立博物館(トーハク)では、「御即位記念」と冠して特別展「正倉院の世界 皇室がまもり伝えた美」が、10月14日~11月24日に開催されました。私もこちらに書いたように前期展を観てきました(後期展は断念)
毎年、この時期は、奈良国立博物館「定番」として正倉院展が開催されていますが、会期は2週間程度で、今年の場合、10月26日~11月14日でしたので、今回の奈良訪問の際には終了していました。

「それならばというわけではなく、せっかくの平日ですから、正倉院正倉の外構を拝見しようという次第です。
ちなみに正倉院正倉の外構を見学できるのは、奈良博「正倉院展」開催期間を除けば「年末年始を除く平日」限られるのですよ。

で、やって来ました 約2年ぶり3回目正倉院正倉です

毎回同じ構図の写真になってしまいますが、大きすぎて、私のカメラで正倉院正倉の全体を収めようとすると、どうしてもこの位置からの撮影になってしまうのですよ

塀の内側に入って撮ると、こんな具合。

この旅行に先立って、私がトーハクミュージアムシアターVR作品「正倉院―時を超える想い 」を観ました。

上に載せた「予告編」では「螺鈿紫檀五絃琵琶」が大々的にフィーチャーされていますが、「正倉院―時を超える想い」主役は正倉院正倉の建物で、その内部「疑似体験」できる「優れもの」でした。この作品を観たあとで観る正倉院正倉は、また格別でした。

奈良の古寺の多くは兵火・落雷・失火で伽藍を何度も失っています
興福寺中金堂なんぞは7回焼失(祝 再建落慶)
東大寺も例外ではなく、大仏殿1180年と1567年の2回東塔(再建検討中らしい)も1180年と1362年の2回西塔(現存せず)も934年と1000年の2回、そして、正倉院正倉すぐ近く講堂(現存せず)は917年と1180年と1508年の3炎上しています。

木造だというのに焼失することなく1200年以上お宝を守り続けてきた正倉院正倉奇跡かと思いますが、VR作品「正倉院―時を超える想い 」によれば、正倉内部には焼け焦げた跡があるんだそうな。
大仏殿講堂燃えたときには、正倉院正倉類焼しないよう、東大寺関係者懸命に活動したんでしょうねぇ~

現在、正倉院のお宝は、近く建てられた鉄筋コンクリート造り2つの新宝庫に移され、そしてかつて同様に勅封されて、大切に保存されています。
したがって、正倉院正倉空っぽの状態らしい。
VR作品「正倉院―時を超える想い 」を観て正倉院正倉「入った気になっている 私ですが、実際に入ってみたいものです 絶対に無理ですが…

   

ここまで来たらそのまま近鉄奈良駅まで行くのはもったいないので、転害門にも行ってみることにしました。

大仏池の畔まで来ると、「派出所」と呼ぶには立派すぎる派出所がありました。

この派出所は奈良県警のものではなく、皇宮警察のもの。
壁には「皇宮警察本部京都護衛署 正倉院皇宮護衛官派出所」とあります。

さすがは「日本の、直接的には「皇室の大量に保管されている正倉院です
でも、人気(ひとけ)は感じられませんでした

   

大仏池の周りは、紅葉キレイ

この眺め最高

宮内庁正倉院事務所裏手で、カエデ凄まじい紅葉を見せてくれました

そして、転害門

なんど拝見してもイイなぁ~

余りに素っ気なく立っていて、そして観光客ほとんどおらず、とても国宝とは思えない環境ですが、イイ

転害門を思う存分愛でたところで今回の奈良観光終了
ちょうどやって来たJR奈良駅前行きのバスに乗りました。

と、なんだこれは

巨大鹿

って、先行するバス鹿ちゃんラッピングバスだったのでございます

近鉄奈良駅に着いたのは12:50頃で、指定席券を買っていた京都行きの特急に乗るには食事する余裕はありませんでしたので、柿の葉寿司を買って、電車に乗りました。

柿の葉寿司を食べる前に一服すべく行った喫煙ルームから、平城宮朱雀門の写真をパシャリ

うわぁ ススキのようだ

   

電車は定刻に京都に到着し、

前回の「日帰り京都旅行」と同様に、551蓬莱豚まんを購入した上で、東海道新幹線に乗って帰宅したのでありました。

これを以て「今年2回目の関西旅行は2泊3日」旅行記本編完結

ふ~書き終えた

これで心置きなく年を越せます

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今年2回目の関西旅行は2泊3日 #3-3

2019-12-29 20:47:28 | 旅行記

「今年2回目の関西旅行は2泊3日 #3-2」のつづきです。

東大寺法華堂(三月堂)にやって来ました。

説明板を転記します。

東大寺最古の建物で、寺伝では天平5年(733)の創建とされ他にも諸説あるが、平成22年(2010)から始まった「法華堂須弥壇修理」の際、八角二重壇の部材を測定した所、729年伐採の可能性が出てきた。
盧舎那大仏建立以前から「華厳経」は講じられていたとも伝えられ、華厳の根本道場として尊ばれてきたが、旧暦3月法華会が行われたことから法華堂又は三月堂とよばれるようになった。
本尊不空羂索観音菩薩像をはじめ奈良時代を代表する仏像(乾漆造9躰・塑像1躰)が安置されている。なお、修理前までおられた塑像4躰(日光・月光両菩薩、弁財天、吉祥天)木造2躰(地蔵菩薩、不動明王)は、東大寺ミュージアムに安置されている。

私が法華堂にお参りするのは、2010年8月(記事)2016年9月(記事)に続いて3度目です。

2010年8月には、上記の説明板にある「法華堂須弥壇修理」が始まっていて内部を拝見できたのは礼堂のみで、また、御本尊の不空羂索観音菩薩像「入院中」でした。
2016年9月には、須弥壇の修理は終わり、不空羂索観音菩薩像は定位置の須弥壇中央に戻られていましたが、「塑像4躰(日光・月光両菩薩、弁財天、吉祥天)木造2躰(地蔵菩薩、不動明王)」は東大寺ミュージアム引っ越されたあとでした。

今回も2016年9月と同じ状況を拝観しましたが、なんだか物足りない
不空羂索観音菩薩像は、ひたすら巨大荘厳なんですが、やはり物足りない
日光・月光両菩薩がいらっしゃったらなぁ~、と思いました

つまり、私は、不空羂索観音菩薩像の両脇に日光・月光両菩薩が控えるというフォーメーションを、一度も拝見したことがないのです。
今にしておもえば、2007年12月東大寺を訪れたとき、法華堂も拝観しておけばよかった…。一生の不覚です

   

ところで、法華堂(三月堂)について、東大寺のHPはこのように説明しています。

もとは寄棟造り正堂(しょうどう)と礼堂(らいどう)が軒を接して建つ配置であったが、鎌倉時代礼堂を入母屋造りに改築して2棟をつないだ。正堂は天平初期の建築だが、礼堂は大仏様(だいぶつよう)の特色が見られる鎌倉時代の建築。時代の異なる建築高い技術によって結ばれ、調和の取れた美しい姿を見せる。

上の写真では、左側「天平初期の建築」正堂で、右側鎌倉時代に改築されて正堂と接続された礼堂です。
今回は、この接続部分注目してみました。

まず、正面から接続部分に寄ってみましょ。

オリジナル正堂北西隅と見比べてみましょうか。

接続部分に見える鬼瓦は、正堂北西隅では二段になっている鬼瓦上段に見合うもののようですな。

そして、隅木とよばれる、四隅に突き出す部材は、接続部分では、礼堂の棟から降りてくる瓦屋根下をくぐって突き出しているように見えます。
また、礼堂側の軒のラインが、正堂の隅木近くで歪んでいます。

これを下から見ると、

ほう、礼堂側の隅木(上段)見当たりません
瓦屋根は新築の礼堂に出つつも、パイセン正堂敬意を表してその小屋組を活かしたのかもしれません。

それにしても、よくぞ「築400年(当時)建物に新築物件を合体させることを決意したものです。

   

二月堂から見上げるだけにとどめ(時刻は12:06)

二月堂裏参道を、歩みを早めて下り

正倉院を目指しました。
何せ、13:00には近鉄奈良駅着いていなければならない のですから。

つづき:2019/12/30 今年2回目の関西旅行は2泊3日 #3-4 (完結編)

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今年2回目の関西旅行は2泊3日 #3-2

2019-12-29 11:36:23 | 旅行記

「今年2回目の関西旅行は2泊3日 #3-1」のつづきです。

入江泰吉記念奈良市写真美術館を観た次は、すぐお隣にある新薬師寺にお参りしました。

と、その前に、近くに立っている携帯電話基地局のアンテナに目が止まりました。

茶色にペイントされています。
「景観への配慮」ってやつですかねぇ 
良いことだと思います

で、私にとって3度目となる新薬師寺

いまでこそ「小さなお寺」ですが、「現在の本堂の西方約150メートルやや南寄りに」あったという往時の金堂は、

堂内に七仏薬師、脇侍の菩薩2軀ずつ十二神将が並んだ東西に長いお堂(横幅約60メートル)だったことが、最近の発掘調査で確認されました。(新薬師寺のリーフレットより)

というほどの大寺だっといいます(下の写真は旧・金堂があった現・奈良教育大学のグラウンド)

現在のこじんまりした本堂は、

奈良時代の建物です。当初は本堂ではなく、修法を行うためのお堂だったと考えられます。本堂内には円形の土壇(高さ約90cm、直径約9m)が築かれ、壇上に薬師如来坐像十二神将立像が安置されています。

だそうで、 お目々ぱっちりの御本尊・薬師如来をお守りするべく、

円形の土壇から周りを睥睨する十二神将たちは、なんだか大相撲幕内力士土俵入りみたいです

私が本堂に入堂したとき、堂内には10名くらいのシニアのグループがいらっしゃいました。この皆さんは、先達っぽいおじさんにつづいて真言を唱えるという本格派

私もそれに加わって…なんてことはあるはずもなく、土壇を2~3して十二神将立像ガン見させていただきました。

何度拝見しても素晴らしい像です

今回は本堂参観&お参りするだけにして、新薬師寺を後にしました。

   

まさに原生林の風が漂う春日大社「中の禰宜道」を歩いて北上。

誰ともすれ違うことのない閑散とした道(たまに鹿はいる)を、木々に囲まれて歩くのはなんて気持ちが良いのでしょうか

日頃、とかとか機械とかとかとか機械とかとかとか機械とかに囲まれて暮らしていると、こんなひとときは、贅沢としか言いようがありません

いやぁ~幸せ

でも、こんな「癒しタイム」が永遠に続くはずもなく、春日大社中心部に近づくにつれて、人の気配が伝わってきて、さらに、人の声が聞こえてきて、それが喧噪に変わってきて、と、ゆっくりと娑婆引き戻される感じ
まさしく「#3-1」で書いた、

アナログ的にグラデーション付き

ってヤツでした。

そして、表参道に入ると、、、、

聞こえてくる会話の多くが外国語だったというのも、善し悪しはさておいて、昨今の観光地ではもはや「常識」です

   

今回は、春日大社御本殿には向かわずに、クルマで埋まる駐車場脇を通り、若草山方面へ…。

前日朝にホテルのロビーで入手した地図を手掛かりに、春日大社から東大寺法華堂(三月堂)に行くことにしたのです。

何を隠そう、毎年欠かさず奈良に遊びに来ている私ですが、このルートを歩くのは、これが初めて

ですから、若草山エリア有料(150円)だということを知ったのも初めて

もそっと高い場所から奈良の街眺めてみたい気持ちもありましたが、時間に限りがあるものですから(このとき11:45)、柵外から若草山を眺めるだけにしました。
一面芝生に覆われた若草山、秋田・男鹿の寒風山を思い出します…

そして手向山八幡宮/東大寺n月堂エリアに到着。

手向山八幡宮の宝蔵前の紅葉がキレイ

と、ここで一息入れます。。

つづき:2019/12/29 今年2回目の関西旅行は2泊3日 #3-3

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今年2回目の関西旅行は2泊3日 #3-1

2019-12-29 07:17:22 | 旅行記

「今年2回目の関西旅行は2泊3日 #2-6」のつづきは、旅行最終日(11月21日(木))旅行記本編始まりです。(当日のダイジェストはこちら)

最初に、この日の行動マップを載せましょう。

この日は平日でしたから、首都圏帰宅ラッシュ始まる前帰宅してしまおうと考え、逆算すれば、13:00頃の電車に乗って奈良を離れることにしました。
この限られた時間を目一杯使って、奈良観光を楽しみ、そして、もくろみどおり、17:00ちょい過ぎには自宅最寄り駅に帰着。うまいこといきました

   

さて、最初の観光スポットは、これがの観覧となる「入江泰吉記念奈良市写真美術館」

この美術館、過去2回、新薬師寺に参拝した際、その前を通って、存在は知っていましたが、諸般の事情により 素通りしておりました。

で、寄棟瓦葺きの、奈良にふさわしい落ち着いた佇まいの建物(設計:黒川紀章)に入館すると、隣のに反射した陽光が天井に映り込んでキレイ

東京都現代美術館サンクンガーデンこんな趣向だったよな、と思い出したりして…。

さて、入江泰吉記念奈良市写真美術館で開催中だった展覧会は、常設展的な入江泰吉「道」展百々新「WHITE MAP -On the Silk Road-」展でした。(どちらの会期も2020年1月13日まで)

   

今さらながらではありますが、この美術館にその名を冠されている入江泰吉さん、奈良出身の著名な写真家です。
詳しくは上のお名前に貼ったリンク先Wikipediaをご覧いただくこととして、ごく簡単に書けば、1945年3月に大阪で営んでいた写真店兼自宅を空襲で失うと、ふるさとの奈良転居終戦直後から85歳で亡くなられるまで「奈良大和路の風景、仏像、行事等の撮影」ライフワークとされていました。

で、入江泰吉「道」展

フライヤーには、

「大和の路は、すべて古社 寺につながっている。
すばらしい古美術にふれる感動への、いわば前奏曲のような、
情趣にみちた路すがらである」と語っています。
奈良大和路へと旅情をさそう「道」をテーマに入江作品で紹介します。

と、その趣旨が書かれていましたが、観ていて、ほんとに、大和路を歩きたい と思う作品群でした。
どの作品も、美しいことは言うまでもなく、潤い静けさに満ちていて、α波が伝わってくるようでした。
奈良を、大和路知り尽くした入江さんだからこそ撮影できた写真なんだろうな…

こちらで書いたように、このとき2週間も経たないうちに、神保町の古書店「「昭和写真・全仕事 SERIES 14【入江泰吉】」 を見つけて、購入できて、もう舞い上がる気分でした。

   

つづく次の百々 新「WHITE MAP -On the Silk Road-」も面白かった

ここで疑問  「百々 新」さんというお名前どう読むんでしょ?

どうやら、「どど あらた」と読みらしい。「百々」という苗字を初めて聞いた と調べてみると、こちらのサイトによると、読みどど,ささ,ひゃくびゃく,ひゃくも,とと,とど,どんど,どうど,どうどう,どんと,もも,ももどう,ももひゃく,ももも,とうどう」様々ながら、すべて合わせて日本全国2,300人いらっしゃるらしい。レッドブック掲載レベルの希少性です

で、WHITE MAP -On the Silk Road-」展の概要についてフライヤーから転記しますと、

真摯なまなざして写真表現の旅を続ける百々新の「WHITE MAP -On the Silk Road-」展を紹介します。
展示では、第38回木村伊兵衛賞を受賞した「対岸」をはじめ、新作ウランバートル、日本写真協会新人賞を受賞した「上海の流儀」、京都を撮った「鬼にも福にも-もうひとつの京都」幼少期を過ごした奈良の作品を加えて展示構成します。

彼の原点である奈良起点に、新しいシルクロードの道を切り拓く百々新の世界をご覧ください。

今は、飛行機に乗れば、どんな遠くの地でもひとっ飛び(例外あり)点と点の移動で、この写真展を観るように、違う社会・人・風俗デジタル的遭遇します。
ですが、「旅行記 #2-4」で触れた玄奘三蔵法師のように、あるいは、かつてシルクロードを行き交ったキャラバンのように陸上を移動すれば、違う社会・人・風俗に、アナログ的グラデーション付き遭遇したわけで、まったく違う感覚なのでしょう。
そんなことを考えたりして…

この展覧会は、作品と、そのタイトルやキャプション離れて掲示されていて、観づらいという難点を抱えていましたが、それ故、この展覧会を反芻してみたいと思い、高価ながらエイヤッ と購入した図録傑出していました

 なんとなんとこの図録折りたたんだ紙を組み合わせているだけで、綴じられていません

下手すると、バラバラになってしまいますが、ページが印刷されているので、復旧は可能かと思われます。(屋外で見るのは危険)

綴じられていないということに加えて、表紙出展目録になっているし、半透明のカバー撮影年表になっているしで、こんな図録、初めて見ました
載せられた作品の多くが小さいのが残念ですが、それも許せる気分です。逆に言えば、小さく載せなければならないほど出展作品数が多いわけで・・・

百々新「ススキ塚」この展覧会であ~れ~ となったのが、「回顧」と題する奈良を撮影した作品群のキャプションでした。

「ススキ、気になるんですよ」
「ああ、あれは徳川時代からある
由緒正しいススキやねん」
オッチャンはビールを半分くれた。
二上山の方へ日が傾きはじめ、ススキ塚の中に立つ電信柱の影が長くなってきた。
変わったススキですけど何ていうススキですか」
「あれは確か何ていったか、ススキやな!と教えてくれた。

この百々さんオッチャンとの会話は、現在の葛城市あたりで交わされたものかと思われますが、「変わったススキ」というのは、私が、前日、大和小泉駅から慈光院に歩く途中に富雄川の川沿いで見かけて「ちょっと変わったススキだな… 」と思った(記事はこちら) ススキと同じ種類のススキなんじゃなかろうか と思って、激しくときめきました

この記事を書いていて判ったことなんですが、入江泰吉記念奈良市写真美術館館長百々俊二さん
百々さん
こんなレッドブック級苗字が連なるか

と思って調べてみると、こちらのサイトによれば、百々新さんは、百々館長ご子息(長男)みたい…。

こんな「発見」があるからブログの旅行記やめられません

ん~~、初めての入江泰吉記念奈良市写真美術館良かった…
通り過ぎてばかりの、東大寺のすぐ近くにある「入江泰吉旧居」にも、遠からぬうちに行ってみよう と思ったのでした。

つづき:2019/12/29 今年2回目の関西旅行は2泊3日 #3-1

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今年2回目の関西旅行は2泊3日 #2-6

2019-12-28 11:42:18 | 旅行記

「今年2回目の関西旅行は2泊3日 #2-5」のつづきなんですが、唐招提寺のことで書き漏らしたことがありました。
金堂の傍らでひと休みしていると、こんな「石像」が目に止まりました。

押しつぶされた「鬼」みたいですが、これは、金堂の屋根を四隅で支える「隅鬼(邪鬼)」を象(かたど)ったもの。

すみ鬼にげた (福音館創作童話シリーズ)
松村公嗣
福音館書店

隅鬼は、法隆寺五重塔で見たことがありましたが(記事)

唐招提寺金堂にもありましたか…
でも、鳥除けの網のせいでよく見えませんでした

   

さて、薬師寺唐招提寺の拝観を終えた私は、奈良の中心部へと戻ることにしました。
西ノ京駅から電車に乗る手もありましたが、約10年前と同じルート、徒歩垂仁天皇陵の近くを通って尼ヶ辻駅まで行き、そこから電車に乗りました。
が傾きつつある中での垂仁天皇陵なかなかの眺め

垂仁天皇陵から離れ、尼ヶ辻駅へと右折しようとすると、ちょっとした段差があって、立て札が立っていました。

そこに書かれていたのは、

垂仁天皇陵 飛び地 ほ号

「ほ号」って何?
「い号」「ろ号」「は号」「に号」もあるというのでしょうか?

ググったら、結構あちこちの天皇陵「飛び地」があるようで、予想どおりいろは順に名づけられているみたいです。

で、尼ヶ辻駅に着き、大和西大寺方面行きの電車を待ったのですが、西ノ京駅には停車する快速電車は、尼ヶ辻駅通過するんですな
15分近く待っている間、ホーム上の待合室から出てきた外国人の女性から、「(近鉄)奈良駅へはどうやって行けば良いのでしょうか?」と(英語で)尋ねられました。
私は「次の大和西大寺駅で近鉄奈良駅行きの電車に乗り換えればいい。私も近鉄奈良駅まで行くので、着いてきて」と答えましたが、この外国人のグループどこを観光して、この尼ヶ辻駅にやって来たのでしょうねぇ

そして、やって来た各停全員が乗り、大和西大寺駅で階段を上り下りしてホームに移動し、近鉄奈良行きの電車に乗り、無事に近鉄奈良駅に到着できましたとさ。

   

近鉄奈良駅に着いた私が次に訪れたのは、東大寺南大門

「旅行記 #1-5」で書きましたが、前日の清水寺で見た獅子は、2頭揃って阿形で、斜め上を向いて咆哮している「異形」でした。
そのことをTweetしたところ、

「奈良東大寺の南大門の狛犬がモデルと聞きましたよ」というリプライをいただいたもので、さっそく検証しよう というわけです。

もう夕暮れ迫る16:00だというのに、東大寺修学旅行生観光客鹿ちゃんたちで賑わっていました。

南大門をくぐると、

すぐに裏側(境内の内側)チェック

まずは西側おぉ、ホント、清水寺の獅子ほぼ同じ格好をしてる
でも、写真は手前の金網にピントが合ってしまい、肝心の獅子ピンボケ

そして東側の獅子も、

阿形でした
ただ、清水寺の獅子斜め上を向いて咆哮しているのに対して、東大寺南大門の獅子真正面に向かって吠えている感じですな。

東大寺南大門の獅子は、産経新聞のサイト(筆者は地域歴史民俗考古研究所辻尾榮市所長)によると

この狛犬を制作したのは、宋人石工「六郎等四人」であったことが知られており、建久7(1196)年には、脇侍2体と四天王像4体の石仏も制作しています。六郎らは、宋の技術者、陳和卿の大仏修造に際して来日した宋人石工の「伊行末(いぎょうまつ)」らではなかったかと考えられ、春日周辺の石造品に影響を与えた集団です。ほかには、建長5(1253)年銘の般若寺十三重石塔、承元2(1208)年銘の大野寺弥勒磨崖仏などを制作したことが知られています。

だそうです。金剛力士像(1203年竣工)よりも古いとな

辻尾さんによる記事には、こんな注目すべき記述もあります。

狛犬は右2体ともほぼ同形ですが、東側高さが約180センチ男根が刻まれ、西側約160センチで、両前脚を突っ張り、大きく胸を張っています。後脚を立てて腰を引き、威嚇的で口や鼻を開きますが、阿吽の形ではありません

へぇ~~ です。

一方の清水寺の獅子の縁起/由来についていろいろWeb上を彷徨った結果、綿密な資料探し&考察を重ねられているこちらのサイトに行き着きました。
そこでの結論は、

明治44(1911)竹原友三郎によって金銅製北方系中国獅子が寄進されたが、戦時下の昭和17(1942)金属供出のため台座を残して撤去された。そこで昭和19(1944)年に石造東大寺南大門型獅子が清水普門会と音羽婦人会によって再建された。

というもの。
もともと(といっても明治⇒大正の代替わり頃以降)は、金属製の、それも近世中国式獅子(右の写真は、北京の清華大学構内で見た石造りの獅子:私の一部が写り込んでいます)だったというのは興味深い話です。
ちなみに、初代の獅子を寄進した竹原友三郎さんという方、こちらの日経の記事によれば、

北浜金融街としてにぎわっていた明治後半から大正時代にかけ、公社債の引受業として名を挙げたのが黒川幸七高木又次郎野村徳七竹原友三郎4人であった。自分たちの名を唄い込んだ「春の賑わい」という歌までつくり、軍歌調のメロディーで声張り上げたという。

と、いわゆる「相場師」と呼ばれる方だったそうな。

それはともかく、獅子を見たあと、大仏殿の周りをちょっとだけ散策して、

私の奈良観光での定番 というべき興福寺国宝館に向かいました。
毎年一度は来ている興福寺国宝館今年最初にして最後の拝観です。

閉館時刻まで1時間を切った中、いつものように大好き天燈鬼&龍燈鬼にんまりして、乾漆八部衆立像ホゲホゲしました。
厨子入り木造弥勒菩薩半跏像ステキでした。

夕焼けを背景にシルエットで浮かぶ南円堂の写真を撮ったのち、

ホテルまで歩いて戻り、この日の観光は終了
ホテル一息ついた東向商店街焼鳥屋さん夕食を摂ったのですが、イマイチでしたとさ。

これにて2日目の旅行記完結です

つづき:2019/12/29 今年2回目の関西旅行は2泊3日 #3-1

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今年2回目の関西旅行は2泊3日 #2-5

2019-12-27 07:58:58 | 旅行記

MISIAが今年の紅白紅組トリを務めるというニュースが入って、知ったのが血圧測定の前で良かったと思う盛り上がりまくりの朝ですが、「今年2回目の関西旅行は2泊3日 #2-4」のつづきです。
今年中に「今年2回目の関西旅行は2泊3日」シリーズ完結させたいもので…

   

薬師寺白鳳伽藍から退出した私は、以前も立ち寄ったそば屋さんで昼食を摂って、そして、唐招提寺

何度訪れても、南大門越しに眺める金堂佇まいいいなぁ~
っつうか、唐招提寺の伽藍って、どの建物もめちゃくちゃ魅力的です。

校倉造り宝蔵(手前)と経蔵(奥)も、

講堂も、

1200年以上の時を超えて、天平時代タイムスリップした気分に浸れます。

そして、トイレまでもステキ

   

開山堂鑑真和上坐像のレプリカ「御身代わり像」を拝見したあと、いつものように、鑑真和上のお墓(開山御廟)にお参りしました。

何度訪れても(また同じフレーズを使ってしまった)開山御廟の周辺の静けさ落落ち着いた風情に、現在を含む後世の人たち鑑真和上に対するリスペクトが感じられて、心を洗われる気分になります

今回、初めて、唐招提寺創建の根源ともいえる場所を拝見しました。

紅葉を楽しみながら歩き、

やって来たのは、戒壇

唐招提寺のサイトから転記しますと、

天宝元年(742)、第9次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)から、朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、渡日を決意。その後の12年間に5回の渡航を試みて失敗、次第に視力を失うこととなりましたが、天平勝宝5年(753)、6回目にして遂に日本の地を踏まれました。

という鑑真和上、坊さんを坊さんとして認める「授戒」の制度を確立するために日本にやって来られたわけで、「戒壇」はその儀式を行う場所です。
鑑真和上は、来日後最初に大宰府観世音寺近くで初めての授戒を行ったのち(下の写真は観世音寺金堂:2019年3月)

平城京に移り、東大寺本邦最初常設の戒壇を設置したそうで(下の写真は東大寺戒壇堂:2016年9月)

唐招提寺の戒壇は、どちらかというと、鑑真和上の「私設戒壇」と言えるものかと知れません。
ちなみに唐招提寺の戒壇は、

創建時に築かれたとされていますが、中世に廃され、その後再興されたものの火災により建物は失われました。
現在は、3段の石壇のみが残り、その上に昭和53年(1978)にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が築かれました。。

だそうです。

私は、満足のうちに唐招提寺をあとにして、次なる目的地に向けて歩き出したのでありました。

つづき:2019/12/28 今年2回目の関西旅行は2泊3日 #2-6

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今年2回目の関西旅行は2泊3日 #2-4

2019-12-26 13:16:51 | 旅行記

「今年2回目の関西旅行は2泊3日 #2-3」のつづきです。

薬師寺白鳳伽藍北側玄奘三蔵院伽藍があります。
この伽藍は平成に入ってから新築された真新しいもので、西遊記で有名な三蔵法師=玄奘三蔵をお祀りしています。

と、その前に、玄奘三蔵院伽藍手前右真っ赤紅葉したがありました。

説明板によれば、これは「楷(かい)」という木だそうで、

中国の聖人である孔子の墓所に実ったの種子から育てた苗木を、楷の木を広める運動をしておられる山浦啓榮氏(栃木県在住)によって移植されたもの

だそうです。
私、寡聞にして、「楷」なる木を初めて知ったのですが、調べてみたら、学問の木として有名みたいです。また、「楷」の字は「楷書「楷」なんですな…

中国語を話すおばちゃんたちが、一所懸命にの写真を撮っていましたが、中国由来の木だと知ってか知らずか…

で、玄奘三蔵院伽藍です。

玄奘三蔵院伽藍

篇額は誰が書かれたのだろうか? と写真を拡大してみると、どうやら「趙樸初」という方の書のようです。
そこでさらに趙さんを調べると、Wikipediaによれば「中国の政治家、書道家、仏学家、作家、社会活動家」とな。
さらに趙さんと薬師寺との関係を調べると、こちらのサイトに、趙さん中国仏教協会会長を務められたことに加えて、玄奘三蔵院伽藍についての簡潔な説明がありましたので転記します。

『西遊記』の主人公である玄奘三蔵頂骨(頭のお骨)が、昭和17(1942)年に南京で駐屯していた日本軍によって発見された。昭和19(1944)年に頂骨の一部を全日本仏教会に分骨された。当初は東京芝の増上寺に奉安されていたが、戦争のため一時疎開として、埼玉県岩槻の天台宗寺院である慈恩寺に遷された。
玄奘三蔵は法相宗の根本教義である唯識学を究めるために、身命を賭してインドまで往き17年後に帰国した。また、玄奘三蔵以前の翻訳を旧訳といい、玄奘三蔵以後の翻訳を新訳と区別されるほど影響を及ぼした。特に唯識教学を所依とする法相宗の寺(薬師寺や興福寺)と玄奘三蔵との縁は特に深い。氏(薬師寺の安田暎胤長老)は、ぜひ薬師寺で玄奘三蔵を顕彰すべきだと考え、昭和46(1971)年に慈恩寺を訪問し、住職の大島見道師の賛同を得て、共に全日本仏教会を訪ね薬師寺への分骨を要請した。
諒解を得て薬師寺へ分骨したが、薬師寺境内は歴史的風土保全特別地区に指定されており、元あった建造物の復興は可能だが、新築は許可されない。その難関を建設の意義を宗教的理由で意義付け申請し、許可を得てできたのが現在の玄奘三蔵院伽藍である。頂骨八角堂の基壇の中に奉安し、基壇上には翻訳している姿の像を安置した。八角堂の後方に壁画殿を建て、その壁面に平山郁夫画伯が玄奘三蔵の歩んだ道を追体験した風景画が描かれ、20世紀最後の日に奉納された。

ここでいう「八角堂」(玄奘塔)お参り

均整のとれた良いお堂です

そして、大唐西域壁画殿で、

平山郁夫画伯の「大唐西域壁画」を鑑賞しました。
8年半ぶり(前回の記事)「大唐西域壁画」良かった
でも、やっぱり、ガラス越しじゃなく、間近から観たかった…

ところで、薬師寺玄奘三蔵院伽藍は、お参りできる時期制限があります。

年4回お正月(1月1~15日)、春(3月1日~6月30日)、お盆(8月13~15日)、秋(9月16日~11月30日)しかお参りできませんのでご注意くだされ

これを以て薬師寺を退出して唐招提寺に向かいました。

そのお話は「#2-5」以降で書きます。

つづき:2019/12/27 今年2回目の関西旅行は2泊3日 #2-5

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まだシャンシャンの寝姿しか見たことがない

2019-12-26 08:40:06 | タウンウオッチング

きのうの記事(こちら)で、上野動物園に行ったことをチラ書きしましたが、そのお話を…。

上野動物園に出かけたのは、去年5月以来のこと(記事はこちら)で、前回と比べてかなりの短縮版となりました。

仮正門から入ってすぐのジャイアントパンダ舎は、30分待ち」
平日なのにねぇ~

最初から行列に並ぶのは面白くありませんので、まずはプレーリードッグを観ました。

相変わらずかわいいなぁ
冬毛で、毛玉みたいになってる。

お次は、お坊さんが使う「払子(ほっす)」のような尻尾が印象的なアビシニアコロブス

長ぁ~い尻尾を、自分で踏んづけたり、仲間に踏んづけられたりしないのか、余計な心配をしてしまいます。

ニホンリスもかわいい

 

 

 

 

 

 

 

 

 アジアゾウは、寒いのか、それともいつものことなのか、動きが鈍いなぁ。

ところで、動物園写真を撮るのは難しい
上の写真なんて、手前のワイヤーピントが合ってますもの。
AF(オートフォーカス)に頼ると、酷い場合はこんな風になってしまいます。

を撮ろうとしたわけじゃないのにね…

   

というところで、ジャイアントパンダ舎行列に並びました。

1年半前に来たときは寝ていたシャンシャン、きょうはどうだろうワクワクしながら…。

で、、、きのうも寝てた

しっかり目をつぶって寝てた

一方、シンシン母さんは、活発に動きまわっていらっしゃいました。

そして、リーリー父さんは、、、寝てた お尻に葉っぱをつけて…

リーリーの寝姿をもう1、角度を変えて。

1年半前に、

まぁ、パンダは、寝てるか、食べてるか、寝てるか、食べてるか、遊んでるかなわけで(アドベンチャーワールド「浜」一族を観て実感:記事はこちら)、こんな状況に遭遇するのは確率的に不自然ではありません

書いたとおりであります。

ちなみにユーラシアカワウソお昼寝中でした。

「2歳になったら中国に引き渡す」という約束が、「来年12月末まで」に変更されたシャンシャン、中国に渡るまでに、寝姿以外を拝見できるのでしょうか?

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高御座と御帳台を観てきた

2019-12-25 22:22:16 | 美術館・博物館・アート

きのう、特別公開中の高御座と御帳台を拝見するべく、東京国立博物館(トーハク)に出かけたものの、「待ち時間70分以上」大行列に、あえなく断念して、総合文化展(本館2F)だけを観たことは、昨日の記事に書いたとおりです。

そして、きょう、連日上野出撃決行しました。

もっとも、きょうのメインは、ぐるっとパスを使って上野動物園に行き、久しぶりにジャイアントパンダご一家にお目にかかることでした。
そして、もしもトーハク「特別公開 高御座と御帳台」空いていれば、そちらも観てこようという算段。

上野動物園(きょうは東園のみ)を観終わり、さて、トーハクの混み具合はどんな感じだろう?スマホトーハクのサイトを覗くと、あれま トーハクは明日から元旦まで閉館だぁ~
「特別公開 高御座と御帳台」は、来年1月19日までですから、まだ余裕がある… と高をくくっていた私ですが、年が明けたら、1月2日から2週間程度、秋田の別邸で過ごすつもりの私にとって、余裕さほどありません
あわわ… とちょっとうろたえながらトーハクのTweetで混み具合を見ると、、、、あれっ? 入場待ち「10~20分」ですって

こりゃ、きょう観るしかない

と、トーハクへ向かいました。

入場して本館前を眺めると、行列はできているものの、きのうとはぜんぜん違う

これなら慌てて行列に並ぶ必要はないぞと、いうことで、喫煙所一服して、レストランで昼食を摂った後、本館車寄せのスロープ途中の行列最後尾に並びました。
そして、10分かかったかかからなかったか? くらいの待ち時間で会場に入れました

そしてそして、おわぁ~

大きい デカ キラキラだぁ~ と、「お前はガキか?」と言われても反論できない感想しか出てきません。

9年半前平城宮跡に復元された大極殿「高御座」観たつもり(記事はこちら)でしたが、ぜんぜん違うじゃありませんか
平城宮跡「高御座」は、現地の説明板によれば、

大正天皇の即位の際に作られた高御座(京都御所に現存)を基本に、各種文献資料を参照して製作した実物大のイメージ模型です。細部の意匠や文様は、正倉院宝物などを参考に創作しました。

だそうですから、「大正天皇の即位の際に作られた高御座」、つまり今回の即位礼正殿の儀でも使われ、トーハクで特別展示されている高御座と違っていて不思議はありません

それにしても、凄い装飾です

 

ここで配布されたリーフレットの助けを借りましょう。

高御座は、朱塗り高欄をめぐらせた黒漆塗りの方形の継壇(つぎだん)を基壇とし、八角形の床板を2段に重ね、8本の円柱八角形(きぬがさ=屋根)を支えるつくりになっています。

の頂上の露盤(ろばん)には(たいほう) 1羽を、の各角の蕨手(わらびて)には小鳳(しょうほう) 8羽を、すなわち大小合わせて9羽の鳳凰の像を載せています。
そして全体にわたって、白玉(はくぎょく)を嵌入(かんにゅう)した華形(はながた)、銀鍍金(ぎんめっき)の鏡光(きょうこう)、瓔珞(ようらく←ATOKで変換できた)、その他の飾り金具で装飾されています。

内部には御椅子(ごいし)があり、その左右に剣璽(けんじ)と国璽(こくじ)及び御璽(ぎょじ)を置く(あん=小卓)があります。

現場では見えませんでしたが、撮った写真を拡大すると、御椅子(ごいし)には螺鈿の装飾も入っているみたいですな。

一方の「御帳台」は、高御座と比べると簡素で、ちょっと小ぶりでした。

こちらもリーフレットから転記しましょう。

御帳台は、高御座の隣に置かれます。
御帳台のつくり方は、高御座とほぼ同じですが、には(らん)という瑞鳥の像を飾り、また高御座に比べると少し小振りになっています。

高御座&御帳台裏側には階段がありました。
そりゃ、階段がないと両陛下とも高御座と御帳台に登れませぬ

ガラス越しながら、高御座と御帳台じっくりと拝見できました。
2年半前京都御所に出かけたとき(記事はこちら)紫宸殿の中にはこの高御座と御帳台があったはずなんですが見えませんでしたから。

試しにこの時に撮った写真を拡大してみると、、、

高御座と御帳台台座(の金具)らしきものが写っていますね
でも、これじゃ「観た」うちには入らない

   

さて、「特別公開 高御座と御帳台」第二会場では、「即位礼正殿の儀」で使われた「威儀物」と呼ばれる武具楽器(:しょう=鐘、:こ=太鼓)、そして、いわゆるスタッフの服装が展示されていました。

ここで私が注目したのは、束帯を着用した文官「帯」でした。
というのも、今回の即位関連儀式の中で、天皇陛下宮中三殿に参拝される様子をTVで見たとき、お付きの人も陛下も、背中というか腰の辺りにループ状のものをつけていらっしゃいまして、あれは何だろう? と調べてみたら、どうやら「帯」らしいということが判った次第です。

そして、きょう、マネキンさん後ろ姿を拝見しますと、

?ループ状のものがありますでしょ?

これは、「石帯(せきたい)」という束帯用の帯で、長い帯の先端を、背中と帯の間に挟み込んで着用するしきたりなのだそうです。

変だと思っても、「しきたり」となれば、一般人はひれ伏すしかありません。

この「礼装」は、一見、柄(がら)のない単色の生地で作られているように見えますが、よく見れば文官の束帯も、

女官の五衣(いつつぎぬ=いわゆる「十二単」の構成要素)も、

さまざまな柄が織り込まれていて、その奥ゆかしさにもひれ伏すほかありません。

というわけで、「特別公開 高御座と御帳台」で展示されている物は、ごく一部のホンモノのハイソサエティの方々以外は、生で拝見するのは一生に一度あるかないかの物だらけです。
来年1月2日からトーハクでの公開が再開されますので、機会があれば、なければ機会を作ってでも観られることをお勧めします

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