新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-2

2020-03-13 17:52:01 | 旅行記

「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-1」のつづきです。

岡崎SAを出て新東名の本線に戻り、数分走ると、ナビは豊田JCT東名に入るよう指示してきました。
ん"? このまま新東名じゃないのか? と、根拠もなく考えた私は、豊田JCT直進して新東名を走り続けました。
でも、道路上の案内表示を見ると、名古屋とか伊勢とか、ちょっと違う地名が出てきます

もしかしてこの選択は間違いだった? と、ナビを広域地図に変えると、やはり方向が違う

こんな無謀なルート選択をした私に対してもクルマのナビは優しく代替ルートを表示してくれましたので、今度は、それに従って、名古屋南JCTから、いかにも名古屋らしいネーミングの「名二環」に入りました。

名二環は、ひたすらトンネル掘割状の、まったく眺めのよろしくない道路で、ひたすらクルマは流れ続けています。
でも、知らない道では「ネズミ取りが怖いので、なるべく車群の先頭に立たないよう、オービスらしきものはないか目を配りながら、慎重に運転しました。

そして、清洲JCTから名古屋高速16号一宮線に入り、さらに、名古屋高速16号線⇒一宮IC⇒名神⇒一宮JCT⇒東海北陸道⇒岐阜各務原IC、というルートで岐阜県に入りました。

東海北陸道岐阜各務原ICも、5年前かかみがはら航空宇宙博物館に出かけたとき以来です。
5年前とはR21西に進み、岐南ICからR156北上しました。

すると、真っ正面にが見え、その頂上には岐阜城の天守が見えるではありませんか

長森細畑交差点信号に捕まったのをこれ幸いと、記念撮影

これを眺めてダイジェストに書いたように、あれまぁ~ こりゃ、岐阜城天守⇔岐阜公園の片道だけでも歩くのは無理だぁ~ となりました。

さて、長森細畑交差点から岐阜公園までは、ナビ金華山半時計回りに回り込むルートを提示してくれました。
なんとなく逆回りの方が良さげな気がしましたけれど、先ほどの件もありましたので、素直にナビに従いました。

R156トンネル(岩戸TN)を抜けて左折すると、またトンネル(井ノ口TN)をくぐり、長良川の手前を左折しての北側に回り込むと、道が狭い
加えて、道の左側には断崖絶壁が立ち上がっていて、ところどころに「落石注意だの「崩落注意などと物騒な標識が立っています。
「注意しろと言われても、落石や崩落には注意しようがないのに…
でも、岐阜城北面は、長良川+断崖絶壁鉄壁の守りとお見受けいたしました。

そして、再びトンネル(金華山TN)に入り、そして、抜けると、岐阜公園入口でした。

騎馬像があって(下の写真は観光を終えて駐車場へ戻るときに撮ったもの)

あれは織田信長かな? なんて思ったのですが、それよりも、駐車場どこ?
すぐに見つかった駐車場は、バス&身障者専用だそうで使えない
あれ? あれ? と思ううちに公園エリアを通り過ぎてしまい、とりあえず左折してみました。
すると、前に、私と同じ境遇のようなクルマが駐まっていて、道ばたに立っているビブスを着けたおじさんと話しています。
もしかして駐車場の場所を教えてもらえるかもしれない

と、思ったら案の上で、駐車場マップを頂戴できました

このマップによれば、一般車駐車場には、先ほどの騎馬像の見えた交差点を右折して、側道からアンダーパスに入らなければならないようです。
って、そんな案内路上にあったか?

と、Googleのストリートビューを見たらありました

駐車場マップを頼りに一方通行だらけの地区を抜けて、駐車場にたどり着くことができました。

この時点で、時刻は14:45でしたので、慌てることなく岐阜城観光ができそうです。

   

さっそくロープウェー天守まで登ろうと、

ロープウェイ乗り場に向かう途中、説明板がありましたので、メモ代わりにパシャリ

この説明板から岐阜城の概要を転記しておきましょう。

岐阜城跡は、金華山(稲葉山)に築かれた山城で、稲葉山城井口城とも呼ばれていました。戦国時代に美濃国を治めた斎藤氏の居城であるとともに、織田信長天下統一の拠点とした城としてもよく知られています。
建仁年間(1201~1203年)頃に二階堂氏が最初に城を築いていたと言われていますが、実態は不明です。大永5年(1525)頃、ここが守護方と長井氏の争いの舞台となったため、少なくともこのころには城として利用されていたと考えられます。天文5年(1536)には、斎藤道三が拠点としていたことが分かり、以降は義龍・龍興と、斎藤氏3代の居城となりました。永禄10年(1567)、斎藤氏を追放し美濃を攻略した信長が、城に大きく改修を加え、町の名を岐阜と改めました。その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の前哨戦で落城し、廃城となります。

上の説明に「慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の前哨戦で落城し」とさらっと書いていますが、この岐阜城を、誰がどうやって落としたのでしょうか?

Wikipediaによると、このは、岐阜の領主だった織田秀信(信長の三男・信忠の嫡男) VS 東軍福島正則&池田輝政連合軍の間で行われたもので、東軍は、援軍の集結を阻止しつつ、岐阜城への登山口を押さえ本丸を孤立させることで、秀信を降伏させたのだそうな。

これほどの山城天守を攻略するのは難しいでしょうけれど、孤立させるのはなんとかなります
とりわけ、東軍の池田輝政は、1585~1591年に岐阜城主だった人物ですから、岐阜城の弱点重々承知していたのでしょう。

ということで、#1-3は、天守に向かうロープウェー乗り場から再開します。

つづき:2020/03/14 思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-3 

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