新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

6年前の南九州旅行 4日目のこと(後編)

2017-03-27 19:28:51 | 旅行記

せっかくのタイミングですので、「6年前の南九州旅行 4日目のこと(前編)」のつづきを書いてしまいます。

仙厳園・尚古集成館からカゴシマシティービューに乗って市街地に戻った私は、宮崎に向かう電車の時刻まで鹿児島の市街地を散策しました。
ルートマップはこんな具合です。

ルートマップ

まず最初に向かったのは①西郷隆盛終焉の地でした。

観光スポットとしてはかなり地味で、人っ子一人いませんでしたが、場所柄、それも良しとします。
でも、来年のNHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」ですから、来年はかなり賑わうのでしょうねぇ

ここからほど近いところに、西郷隆盛が設立し、西南戦争発火点ともなった②私学校跡がありました。

石垣には、あばたのようにたくさんの凹んだところがありますが、これらは西南戦争のときの弾痕なのだそうな。

傍らに、西郷隆盛の年譜を含む丁寧な説明板が立っていまして、

遣韓使節をめぐる政争に敗れたことで、辞表を出して帰郷した西郷隆盛は、一介の農夫として静かに暮らそうとしました。ところが西郷を慕って続々と帰郷した若者たちはこれを許さず西郷は求められるままに、私学校を設立しました。
1874年(明治7)6月、鶴丸城の厩跡に篠原国幹が監督する銃隊学校と村田新八が監督する砲隊学校、これを本校として城下に12、県下に136もの分校が生まれたのです。(中略)
私学校は年々強大化し、反政府の気運を高まらせ、ついに過激派生徒が暴走。政府火薬庫の襲撃によって西南戦争を引き起こし、私学校はわずか4年でその歴史を閉じたのです。石垣には激戦のあとを物語る銃弾の跡があります。

だとか。
「私学校」という名前は、私立学校のイメージですが、銃隊学校とか砲隊学校とか、何やら物騒です。私学校では普通の教育も行われたようですが、西郷隆盛は何を考えて私立兵学校みたいなものを作ったのでしょうか?
若者のガス抜きのつもりだったのか? もしそうだとしたら、あまりにも危険すぎる… 

そんなことを考えながら歩いていくと、すぐに薩摩藩の本拠地だった③鶴丸城跡に到着。

鶴丸城址北東隅注目

ものの見事に北東隅に切り欠きがつくられていて、これはどう見たって鬼門(艮=丑寅=北東)」消しですな。
それはそれでドキドキものなのですが、この鶴丸城、単純な平城で、起伏はないし、ちょっと石垣が残っているだけで、あまり見物して楽しい城ではありませんでした。

残っていれば見どころだっただろう御楼門(大手門)も、熊本鎮台の分営として使われていた1873(明治6)年12月に焼失してしまったとな。
明治初年に軍隊が使っていた城跡が炎上するケースって、 鶴丸城に限らず、少なくない気がするんですけど、どうしてなんでしょ…

正直、鶴丸城跡面白くなかったのですが、鹿児島市街地には魅力的「近代建築」がいくつも残っていて、凄く面白かった

まず、巨大な④西郷隆盛銅像の斜向かいにある鹿児島市中央公民館(旧鹿児島市公会堂)。

この建物は、

大正13年1月の皇太子殿下(昭和天皇)のご成婚の記念事業として大正15年8月に起工、昭和2年10月に完成し「鹿児島市公会堂」として発足しました。

だそうで、雰囲気がありますなぁ。

そして、⑤鹿児島県立博物館本館(旧鹿児島県立図書館)。

この建物は、「九州で最初のコンクリート造りの図書館」だそうで、竣工は鹿児島市中央公民館と同じ1927年
曲面の使い方が大変よござんす

また、鹿児島市中央公民館から鹿児島県立博物館本館に向かう途中にある鹿児島県教育会館(1931年竣工)もなかなかの佇まいでした。

新造ビル竣工ラッシュだった昭和初期国道10号線の終点界隈にタイムスリップしてみたいぞ

上に載せたルートマップを見るとおり、ここから私は迷走いたしまして、なぜか目的地の鹿児島中央駅とは逆の方向に足を進めました。
道に迷ったはずはないのですが、どうしてこんなルートをとったのか、記憶にありません…

もう一度④西郷隆盛銅像を観たいと思ったのか、

はたまたこれまた巨大さが目を惹く建物(⑥西本願寺鹿児島別院)を観たかったのか、

う~む です。

それはともかく、このあと、こんな貼り紙っつうか号外を目にしました。

 ビンラディン容疑者殺害

ですって
これを見たとき、これで終わるとは思えない…という気がしたのですが、残念ながらその私の予感は当たっていました 

イスラム過激派の話に続けるのはイマイチの感もありますが、次は、最後の観光スポット⑦ザビエル公園です。

この日朝、鹿児島中央駅からカゴシマシティービューに乗って城山に向かう途中、「ザビエル公園前」というバス停を通過したんですが、バス停のアナウンスがあったとき、乗っていた若い女性2人組「ザビエルぅ~萌え上がっていましたっけ。

それはともかく「ザビエル公園前」バス停の近く、「鹿児島カテドラル ザビエル教会」といういかにもな名前の教会の向かい側に⑦ザビエル公園がありまして、ザビエル滞鹿祈念碑が立っていました。

ザビエル(フランシスコ・ザビエル)のことは、1549年に来日して、日本にキリスト教を伝えた人物として、みんな学校で習ったはず。
もちろん、この肖像画と一緒に…。

ザビエルの肖像画ザビエルといえば、この肖像画のイメージなんですが、ザビエル滞鹿祈念碑に付属するザビエルの胸像は、、、、、

ザビエルの胸像

肖像画と全然違う

肖像画いかにも宗教者っぽいのに対して、胸像江戸時代末期に日本にやって来た外国人っぽい 

こちらのブログとその引用元のWikipediaによれば、ザビエルの肖像画は、日本人絵師がザビエル来日の80年後頃に想像で描いたものらしい。
胸像が何を資料として作られたものか判りませんが、 どちらが真のザビエルに近いか、それは観た人それぞれの想像に委ねるしかないようで…

さて、鹿児島中央駅に近づいてきた⑧高見馬場交差点で、見慣れないものを見てしまいました。

交差点に立つこの建物は何?
給水塔っぽくも見えるけれど、それにしては低すぎるし、こんな場所に給水塔があるはずもない… 

調べると、操車塔あるいは信号塔というものだそうで、この中にが入って、手動で路面電車(鹿児島市電)のポイントの切り替えを行っていたらしい。

今も現役なのでしょうかねぇ
このご時世、自動でポイントを切り替えるようになっていると思われる反面、用済みにしては、しっかりとメンテナンスされている感じです。

と、考えても、私が高見馬場交差点でこの信号塔を観たのは6年前のことで、現在も健在だという保証はありませんのであしからず…

こうして鹿児島市市街地の観光を終えた私は、朝方、鹿児島中央駅のコインロッカーに入れた荷物を回収して、特急きりしまに乗って、宮崎空港へと向かったのでありました。

う~ん、、、、いろいろと鹿児島市の見聞を深めることができた1日でしたな。
ただ、かえすがえすも、桜島を見られなかったことが痛恨の極み

どうか5月末鹿児島遠征黄砂を含む天候に恵まれますように と切に願う私でありますよ。

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6年前の南九州旅行 4日目のこと(前編)

2017-03-26 16:43:28 | 旅行記

何事も起こらなければ、今週末、2泊3日(月曜日は年休)の鹿児島旅行に出かけているはずでした。
3月25-26日の両日に仙厳園で開催される「世界遺産劇場 Misia Candle Night 鹿児島 仙厳園」 がお目当てだったのですが、MISIA急病でライヴが5月末に順延されてしまいました。

せっかく航空券マイレージ特典で確保し、ホテルを予約し、そして月曜日に年休を取ることを職場内で宣言していましたから、ライヴがなくても、6年ぶりに鹿児島に出かけてみようかと考えましたが、2ヶ月後に行くのだからと、今回は自宅蟄居していることにしました。

前回鹿児島に出かけたのは、2011年のゴールデンウィークで、このとき、仙厳園にも行ってきました。ところが、6年前の旅行のことは、このブログで旅行記本編を書いていた途中で筆が折れ(最後の記事はこちら)、仙厳園でのことはダイジェストでしか書いていません。これといって書かなかった理由は思い当たりませんが、あまりに酷い黄砂のせいで桜島が見えなかったことに気落ちしてしまったことがあるかもしれません。

でも「特段、やらなきゃならないことがない」せっかくの機会ですから、6年前南九州旅行4日目のことを書いてみることにします。

   

このときの旅行の日程をざっくりと書いておきますと、

  • 初日:自宅⇒クルマ⇒羽田空港⇒飛行機⇒熊本空港⇒バス⇒熊本市街(熊本泊)
  • 2日目:熊本市内観光(水前寺成趣園熊本城)⇒熊本駅⇒新幹線⇒鹿児島中央駅(鹿児島泊)
  • 3日目:鹿児島中央駅前⇒路線バス⇒知覧観光(知覧特攻平和会館武家屋敷通り)⇒路線バス⇒鹿児島市街地(鹿児島泊)
  • 4日目:鹿児島市内観光(仙厳園・尚古集成館城山 ほか)⇒鹿児島中央駅⇒ 特急きりしま⇒南宮崎駅⇒タクシー⇒宮崎空港⇒飛行機⇒羽田空港⇒クルマ⇒自宅

というものでした。

で、最終日4日目のちょっと詳しい旅程は、

ホテル⇒徒歩鹿児島中央駅バスカゴシマシティービュー城山・磯コース)城山城山展望台⇒徒歩薩摩義士碑バス:カゴシマシティービュー(城山・磯コース)仙厳園前仙厳園・尚古集成館バス:カゴシマシティービュー(ウォーターフロントコース)薩摩義士碑前⇒徒歩西郷隆盛終焉の地⇒徒歩私学校跡⇒徒歩鶴丸城跡⇒徒歩西郷隆盛像⇒徒歩ザビエル滞鹿記念碑⇒徒歩鹿児島中央駅特急きりしま南宮崎駅⇒タクシー⇒宮崎空港⇒飛行機⇒羽田空港⇒クルマ⇒自宅

というもので、珍しく南宮崎駅⇒宮崎空港間でタクシーを使いましたが、基本的には例によって路線バス(ホテルで割引券get)と徒歩で動きまわりました。

カゴシマシティービュー

そうそう、その宮崎のタクシー、運転手さん霧島の噴火について語り合った(?)のですが、運転手さんの言葉が判らなくて判らなくて、でも、何度も聞き直すのも悪いかと思って、適当に話を合わせましたっけ…

さて、最初に訪れた城山展望台、天気がよければ、桜島どぉ~ん と、、、、

見えるはずだったのですが、

、、、のはず

なに、これ…
全然見えないじゃないの…

これじゃ、写真パネルを掲げて記念撮影するか、

鉄棒に興じるしかありませぬ。

なんとも残念でございました。

それでも、城山から下る途中で何匹ものネコにお目にかかり、ちょっとは心が慰められました。それにしても、ネコが多いぞ、城山

城山展望台がこんな具合だったものですから、仙厳園からの眺めも期待できないかもしれないと思いつつも、かすかな期待を胸に仙厳園に向かいました。
バスの割引券には、仙厳園から観た桜島のこんな写真が載っていましたから…

ところが、城山展望台からの眺めに比べればほんの少しマシながら、やはり桜島ほとんど見えませんでした

仙厳園からの眺め

天気悪くなかったんですよ。
新緑が目に飛び込んでくる気持ち良い天気

でも、桜島見えませんでした

こんなに良い天気なのにねぇ~
なんとも恨めしい黄砂でした。

   

ところで、この仙厳園という施設、リーフレットから引用しますと、

仙厳園万治元(1658)年、19代島津光久が別邸として構えたものであり、その後、歴代の当主らによって受け継がれました。
21代島津吉貴は、隠居後仙厳園に居住し、礒奉行を置いて園内の整備に努め27代島津斉興の時には庭地拡張が行われました。また、28代島津斉彬は隣接地に集成館を築くなど、島津家の長い歴史の中でも重要な意味を持つ場所となっています。さらに、明治時代には、29代島津忠義と後の30代島津忠重らが暮らしたこともある由緒ある庭園です。

だそうな。

350年以上の歴史を持つ由緒正しき庭園、というわけですが、ちょっと不思議じゃありませんか?
「Misia Candle Night 鹿児島 仙厳園」「世界遺産劇場」と銘打たれているからには世界遺産なのですが、どうしてここが世界遺産なんだ? ということ。

実は、世界遺産に登録されているのは、仙厳園ではなく、お隣の旧集成館です。

日本をdisことに至上の喜びを感じているらしい隣国のいちゃもんをかいくぐって2015年に世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業」の物件に、軍艦島こと端島炭鉱などと一緒に「旧集成館」が掲げられています。

仙厳園・尚古集成館のリーフレットから引用します。

嘉永4(1851)年、薩摩藩主に就任した島津斉彬は、礒地区を中心に富国強兵・殖産興業政策を推進するため集成館事業を興しました。この事業は造船・造砲・製鉄・紡績・ガラス・印刷・電信・医療・福祉など、様々な分野に及んでいました。(中略)
文久3(1863)年の薩英戦争で、西洋の軍事力や科学技術の凄さを見せつけられた薩摩藩では、薩英戦争で焼失した集成館の再建にはげみ、石造洋風工場建築の機械工場(尚古集成館本館)を造るなど、事業の充実を図りました。島津斉彬の夢は、薩摩藩の多くの家臣らにも受け継がれていました。彼らによって明治維新が成し遂げられ、日本は近代国家へと生まれ変わったのです。

だそうで、 尚古集成館は、集成館事業に関する博物館になっていまして、産業遺産好きの私は、非常に興味深く見学させていただきました。

ただ、内部が撮影禁止だったのが残念…。

仙厳園に行くと、必然的に、反射炉跡とか、

大砲はご覧になると思いますが、

「世界遺産劇場 Misia Candle Night 鹿児島 仙厳園」に行かれたら、仙厳園の散策と共に、尚古集成館を見学されることをお勧めします。

ということで、仙厳園・尚古集成館の見聞録はおしまいなんですが、せっかくですから、二部構成にして、後編では、鹿児島市街地に戻ってからの見聞録を書くことにします。

つづき:2017/03/27 6年前の南九州旅行 4日目のこと(後編)

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「ビバ初め」札幌旅行記 #2-8

2017-03-25 23:26:44 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「『ビバ初め』札幌旅行記 #2-7」のつづきです。

8年前に北海道開拓の村を見学したとき、一番印象に残ったのは、いわゆる「鰊御殿」、で、そして、今回もやはり旧青山家漁家住宅が見どころ満載でした。

旧青山家漁家住宅

この旧青山家漁家住宅は、

青山家は安政8年(1859)山形県から渡道し、小樽沿岸を中心に鰊建網などを経営した漁家である。
建網経営には番屋をはじめ網倉、船倉のほか海産干場、船入澗(ふないりま)など多くの施設、設備を必要とした。
鰊漁場の建物が、このように集約的に保存されているところは少なく、貴重な遺構の一つである。

というものなのですが、 説明板を見ると、この「施設」「住宅」の範疇を超えて、いわば鰊コンビナートのようなものだったものであることが窺えます。

上に載せた写真は、番屋(従業員のみたいなもの)と青山さんのプライベートエリアが一緒になった「母屋」ですが、この建物だけでなく、いくつも(下の写真は網倉)や、網干し場などが復元されています。

私は、2014年度後半のNHK朝ドラ「マッサン」を土曜日のBSでまとめて観ていたのですが(欠かさず、ではない)、主人公のマッサン(モデルは竹鶴政孝さん)が大阪の鴨居商店(モデルはサントリー)を退職して北海道に渡ったとき、小樽の鰊漁の網元・森野熊虎さん(すげぇ名前)と出会い、永く交流を深めるのですが、この森野さんの自宅っつうか、母屋がまさしく旧青山家漁家住宅で、ほぉぉ~ となりました。

旧青山家漁家住宅・母屋の内部

そして、予想通り、「マッサン」のことを書いた説明書きがありました。

NHK連続テレビ小説『マッサン』で撮影された建物です。

それはいい。

でも、よく読むと、、

旧青山家漁家住宅ので撮影されました。
ちなみに、北海道編の熊寅番屋の中は、大阪のスタジオのセットで撮影されたものです。しかし当青山家の内部のレイアウトや資料なども参考して作られました。

ですと

えぇ~ あれ、セットだったのかぁ~

落ち着いて考えれば、ドラマの中に何度も登場した番屋のシーン、そうそう何度も北海道ロケをするわけにはいかないでしょうからねぇ…

ところで、季節労働者たちが寝泊まりしたのは、番屋の中心部の囲炉裏&板の間をぐるりと囲む2階構造畳敷きの部分だったそうで、1人1畳のスペースが与えられていたのだとか。

1畳分の広さがあれば、寝るには十分ではあるけれど、汗臭い&潮臭い野郎どもがひしめいている中で寝るっつうのは、慣れるまでは大変だったことでしょうなぁ…

この番屋部分と屋根つづきで、事務所青山さんの自宅部分がありまして(上に載せた母屋の写真でいえば、右半分)、自宅部分別世界でした。

使われている木材も、かなり質が高そうでした。

そりゃねぇ、網元ですから…。

ニシン漁のときだけ身一つ出稼ぎにやって来る人たちと、これだけの資産を持って、雇い人を食わせる網元とは、世界が違うのでしょう。

明治以降、北海道の日本海側を潤したニシン漁は、1960年頃を最後にパッタリと衰えてしまい(ニシンが来なくなった)、現在に至るわけですが、今年2月、久しぶりにニシンがやって来たらしいというニュースが流れていました。

北海道新聞のサイトによれば、

江戸時代から明治時代にかけてニシン漁で栄えた江差町のかもめ島沿岸で(2月)26日午前、ニシンの群れ産卵のために押し寄せ、海が白く濁る「群来(くき)」似た現象が確認された。道が調査をしている段階だが、漁業関係者は1世紀以上前となる豊漁の再来を期待している。

だそうです。

いくら豊漁になったとしても、ニシン食べるだけでなく、脂を搾り、滓を肥料として売りまくった時代とは状況がまるで違いますから、「往時の復活あり得ないでしょうけれど、よい話ではあります。

つづき:2017/04/05 「ビバ初め」札幌旅行記 #2-9

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大阪でビバった旅行記 #1-5

2017-03-24 23:17:54 | 旅行記

「4日週」だったことに加えて、毎月の私の最繁忙期だということもあって、なかなかブログを更新できずにいましたが、「大阪でビバった旅行記 #1-4」のつづき、大阪城公園のお話です。

大坂城公園

「#1-4」で書いたように、すでに天守閣の入館時間を過ぎておりまして天守閣を時計回りに廻って、大阪城ホールへと向かいました。

大坂城天守閣

天守閣北東側に、いかにも枡形っぽい部分がありました。

山里口出枡形

説明板によれば、「山里口出枡形」という場所だそうで、

本丸山里丸とを結ぶ通路に設けられた枡形で、徳川幕府が行った大坂城再築工事によって築かれた。外敵に備えるための、石組みに囲まれた四角い区画を枡形といい、特にこの場所は本丸から山里丸側に突き出していることから出枡形という。南には本丸に通じる姫門、東には山里丸に通じる山里口門があったが、いずれも明治維新の大火により、石垣上の塀ともども焼失したと考えられる。なお西は埋門(うずみもん)となっていて隠し曲輪へと通じている。

とな。
上に載せた写真の右側が姫門跡、中央やや左側の石垣が切れているところが山里口門跡なのでしょう。
そして、写真に写っていない右手前が、切通しのようになっていまして、これが埋門跡でした。

埋門跡

上の写真は、「隠し曲輪」側から見た埋門跡。

さて、山里口跡に作られたスロープを降りると(せっかくの石段をここまでスロープで覆う必要があるのかな…)、

山里口跡のスロープ

山里丸跡、今は「刻印石広場」と呼ばれる場所になっています。

刻印石広場(山里丸跡)

この「#1-5」大阪遠征初日の巻完結したかったのですが、事情がありまして、まだ続きます。

つづき:2017/04/03 大阪でビバった旅行記 #1-6

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動物づくしの週末でした

2017-03-20 22:08:42 | 美術館・博物館・アート/映画・演劇

きょう、昼下がりから2度目「SING/シング」(吹替版)を観ることにして(今回はポイントを使って無料)、それまで恒例の「博物館でお花見を」が始まった東京国立博物館(トーハク)を観ようと、朝から上野に出かけました。

そして、上野駅公園口から道路を横断して東京文化会館前に来ると、「本日無料公開」という掲示が目に止まりました。
どうやら上野動物園無料らしいのですよ。

花見には1週間早いことだし、

トーハク来週にとっておくことにして、かなり久しぶりに上野動物園を見物することにしました。

無料なのは、きょう(3月20日)開園記念日(135周年)だったんですねぇ。

まずは、こちらの記事に登場した五重塔を見物しました。

この五重塔(旧東叡山寛永寺五重塔)1958年に寛永寺から東京都に寄付されたらしいのですが、どうしてこの重要文化財を寄付したのか、不思議

説明板によれば、

老中土井大炊頭利勝が寛永8年(1631)今の地に上野東照宮(1627造営)の一部として五重塔を創建寄進しました。

ということで、もともと寛永寺の塔としてではなく、上野東照宮の塔として建てられたんですな。
神社と五重塔とは妙な組み合わせですが、当時は神仏ごちゃ混ぜだったということなんでしょ。
そして、1639年の焼失⇒再建を経て、明治になると、例の神仏分離令によって五重塔上野東照宮から寛永寺移管されたのだそうな。

こういう経緯を考えれば、寛永寺としては五重塔を保有し続けるのは居心地が悪いというか、持て余すというか…、だったのかな?

さて、動物

「SING/シング」尽くしの真っ最中なものだから、どうしても「SING/シング」登場動物と結びつけてしまうんだよなぁ…。

ゾウは、

もちろんミーナだし、脱力感しかないガイアナカイマントカゲは、

ミス・クローリーだし、ニシゴリラ(遠くて、後ろ姿で、ピントが合っていない)は、

ジョニーだし、カナダヤマアラシ(後ろ姿残念)は、

アッシュだし、アグー豚は、、、、

さすがにロジータグンターを連想するのは難しいし、こちらのヒツジも、

エディナナを連想するのが難しい

その代わり、銀行のおねえさまを連想するアルパカを載せておきます。

残念ながら上野動物園にはコアラはいない
けれどジャイアントパンダがいます

今年は赤ちゃんの誕生に期待したいゾ

そうそう、「動かない鳥」として名高いハシビロコウ動きまわっていておかしかった。

この他にもかわいらしい動物をたくさん観られて、満足でした…
たとえばカピバラとか…。

もしかすると、気が向けば「続編」を書くかもしれませんが、きょうはこれまで

たまには動物園見物もいいかもしれません。

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「ビバ初め」札幌旅行記 #2-7

2017-03-19 19:13:16 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「『ビバ初め』札幌旅行記 #2-6」のつづきは、北海道開拓の村の見聞録です。

8年前に北海道開拓の村に来たときは、4時間以上も歩き回って、それでも見尽くせなかったというのに、今回は2時間しか時間がないので、建物の内部に入るのは厳選しました。

で、ルートマップがこちら。
が内部まで観た建物で、こうして見ると、ホント少ない

でも、博物館明治村にしても、江戸東京たてもの園にしても、実際に使われていた建物を目の当たりにするのは、楽しいのですよ。たとえ建物の中に入らず、外観だけでもね。
建物好きの私にはたまらない施設(博物館)です

と書きながら、建物の中に入ってみると、この建物の中で人々が本当に暮らして、喜怒哀楽が繰り広げられていたのだと考えると、グッとくるものがあります。

右に載せた「旧近藤染舗」(1913年築)の次に内部を拝見したのは、

「旧手宮駅長官舎」(1884年築)
説明板によれば、

明治13年(1880)、北海道で初めての鉄道として、幌内鉄道が敷設された。その職員官舎として建てられたのがこの建物である。
骨組みや上げ下げ窓など外部の意匠に様式の手法が用いられている。

とありますが、確かに「上げ下げ窓」って珍しい。

ところで、「手宮駅って聞いたことがない駅名だなと思っていたのですが、これが翌日に繋がることになるのですから、縁は異なもの味なものです。

お次は「旧開拓使爾志通(にしどおり)洋造家(白官舎)」(1878年築)

この建物は開拓使の官舎として建てられたが、完成後、順次払い下げられた。アメリカ中西部の建築様式を模範とし、外観は洋風だが、内部は畳敷きなどの和風で、和様折衷である。外壁に白ペンキが塗られていたことが、俗称「白官舎」の由来で、1棟2戸建ての建物が4棟並んで建てられていた。

だそうで、下見板張り白ペンキ塗りといえば、札幌市時計台(旧札幌農学校演武場)を連想しますよね。

そこで旧札幌農学校演武場のことを調べてみると、建築年は1878年と、白官舎と同じ年。
当時の札幌では、こうしたアーリー・アメリカンな建物が流行っていたのでしょうか?

「旧開拓使爾志通洋造家(白官舎)」の内部では、開拓使明治時代の札幌をテーマにした資料展示が行われていまして、その展示品の中にこんな写真を発見

「開拓使博物場開業式」(1882年)だそうですが、この建物、見たことがあります
っつうか、見学したことがあります

写真コレクションをゴソゴソするまでもなく、上に載せた札幌市時計台と同じ2006年8月の札幌旅行(MISIA星空のライヴIII 岩見沢公演の遠征)の写真の中にありました

今は北海道大学植物園博物館本館として使われているこの建物(重要文化財)は、

博物館本館は、1882(明治15)に建てられた開拓使の博物館、札幌博物場の展示室です。当初より博物館として建築されているため、内部の展示ケースと一体になった構造になっています。
長い歴史の中で、ケースが改変されたこともありましたが、重要文化財指定とそれにともなう復元改修工事に際して、構造上安全な仕様である1932年の改造時の姿に復元されました。
博物館の各所には、開拓使由来の星印が施されています。また、一部のケースでは、明治時代から残る手焼きのガラスが利用されていて、明治時代の博物館の様子をうかがい知ることができます。

というもので、入ってすぐに、ヒグマ剥製が展示されていて、その巨大さ身震いした記憶があります。

そういえば、白官舎札幌市時計台北海道大学植物園博物館本館も、揃いも揃って「下見板張りの白ペンキ塗り」上げ下げ窓が使われています。
できるものなら、1880年代初頭の札幌タイムスリップして、街並みを眺めてみたいゾ

つづき:2017/03/25 「ビバ初め」札幌旅行記 #2-8

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映画「SING/シング」を観てきた

2017-03-18 10:04:04 | MISIA/映画

昨夜、封切り当日に映画「SING/シング」を観てきました。

SING/シング

私が映画館「吹き替え版」を観るのは、幼少期を除くと初めてだったかもしれません。

私、海外TVドラマ映画吹き替えっつうものが、声優さん派手な息づかいとか、「う"っみたいな間投詞の多用とか、わざとらしい言い回し苦手で(一方で、ディラン&キャサリンはパロディーとして買っています)、どうして自然に聞こえないのか、どうして普通にしゃべれないのか不思議に思っています。

そんな私ですが、このSING/シング」は、まず、吹き替え版を観てきました

これというのは、「言わずもがな」ながら、MISIA「出演」しているから
それも、本職のを披露するだけでなく、声優初挑戦しているというのですから、これは観ずにはいられません

ということで、さっそく観てきたSING/シング」(吹き替え版)、ネタバレにならないようにしつつ、感想を書いておきます。

まず書いておきたいのは、SING/シング」「吹き替え版」アリ だということ。
キャラクター吹き替えキャストピッタリだし、そして何よりも、懸念の矛先が集中している斎藤さんを含めて、みんな歌がうまい
しかも、私が苦手にしている「吹き替え臭さ」もほとんど感じられませんでした。

「字幕原理主義者」と思われる人たちからは、「オリジナルでなければ」とか、「歌詞が英語と日本語のごちゃ混ぜなんて」「少なくとも歌はオリジナルを使え」といった意見が沸いているようですが、なんだか偏見(私も持ってる)とか食わずもの嫌いっぽい反応に感じられます。

MEENA

そもそも、この作品はアニメなんだから、字幕版だって「声」は後付けだし、シンガーが自分のオリジナル曲を歌っているのではなくカバーだし、ましてや、話す声と歌う声が別人だということの方に違和感が大きいゾウのミーナは、話し声も歌声もMISIA本人です。念のため。)

ですから、字幕版吹き替え版はそれぞれ別の作品と考えた方が良いのかもしれませんぞ。
せっかく、日本は、世界で唯一、歌を含めた吹き替え版の制作が認められた国なんだそうですから、吹き替え版を(も)観なきゃもったいないかも…。 

ところで、「ミーナ=MISIA」のキャスティングが実現していなかったら、この作品はどうなっていたのだろうか…
きのうだったかおとといだったか、「オリジナル」Tori Kellyの画像(映画未見の方は観ない方がよろしいかと…)を観たとき、こりゃMISIAの領域内だ と思いましたし、他にふさわしい日本人シンガーは思い浮かびませんでしたもの。

音楽プロデューサーの蔦谷好位置さんは、こちらのサイトこのキャスティングについて、

これは僕のアイデアです。というか現実問題、日本の女性シンガーであの劇中曲を歌いこなせる人は、MISIAさんくらいしか思い付かなかった。

と発言していらっしゃいますが、MISIAの歌の収録が終わったとき、蔦谷さんは、「もらったぁと思ったんじゃなかろうか

こちら蒐集・転載したように、観た人たちを震撼させているMISIAの歌ですが、正直、私にとっては「想定内でして(もちろん素晴らしくって、ライヴに行っている気分でしたけど)、この作品で一番驚いたのは、ヤマアラシのアッシュ役の長澤まさみさんでした。

Ash長澤さんの声の質話し方パンク少女のアッシュJust Meetだった上に、見事
さすがはきりちゃん、いやミュージカル女優です

ところで、アッシュハリネズミだと勘違いしている人がいらっしゃるようですが、ヤマアラシです。

ハリネズミヤマアラシも、体毛が変化したトゲトゲを身にまとっているところは同じですが、根本的な違いがあります。
それは、ハリネズミのトゲトゲは防御用であるのに対して、ヤマアラシのそれは攻撃用であること。
映画の中でも、その威力が遺憾なく発揮されますが、そんなヤマアラシって、性格も見た目もパンク・ロッカーにはピッタリのキャラクターだと思いました。

もう一人(一匹)、印象的だったのは、25匹の子持ち主婦、ブタロジータ

幸せなんだけど、繰り返される日常に疲れ物足りなさを感じるロジータには、世の中のお母さんたちの共感が寄せられているんじゃなかろうか。

そのロジータがステージで歌い、踊る様子は、かわいらしくステキでした。

こうしてふり返ると、「SING/シング」(吹き替え版)弱点は、主役のウッチャンかも…。
無難といえば無難ではあったけれど、ちょっと単調で、もっとやりようがあったと思うなぁ とくに、最重要なあのひと言にはなんの芸もなかった感じで、残念 としか言いようがありません。
それと、ゴリラのジョニー年齢設定違和感を覚えました。
大橋卓弥(スキマスイッチ)さんの青年のイメージなんですが、キャラからすると、クルマを運転できるほどの年齢ながらも、少年に近いのではなかろうか?
まぁ、大橋さんの歌とピアノに免じて見過ごしましょう(って、見過ごしていない) 

そんなこんなで(?)「SING/シング」映画館で観るべき価値 大あり と断言します。
DVD/BDの発売TV放映を待っていないで、映画館に出かけましょう

私は、いつ字幕版2回目吹き替え版を観に行こうか…

   

あ、そうだ
「SING/シング」サントラ盤のことを書いておかねば 

シング-オリジナル・サウンドトラック
Universal Music =music=
Universal Music =music=

注意していただきたいのは、

国内盤には、海外デラックス盤に収録されている楽曲の他、日本語吹替版の豪華キャストの中から長澤まさみ、大橋卓弥(スキマスイッチ)、山寺宏一の楽曲の収録が決定! 

ということで、吹き替え版その他の方々の歌は、MISIA3曲(?)を含めて収録されていません

お~~い~、何とかしてくれぇ~~~

【追記】きょう(3/19)字幕版を観てきました。
字幕版・吹き替え版の両方を観た上での結論は、字幕版・吹き替え版それぞれに楽しめる ってこと。

吹き替え版では国籍不明だったあのきゃりーぱみゅぱみゅ大好きの5匹組が、日本からやってきたことが判ったり(ムーン日本語とんでもないことを言って彼女らを怒らせる)、ムーン「Singのひと言にグッときた一方、吹き替え版オリジナル版全然負けていないことが判りました。
ひいき目かも知れないけれどミーナ対決では、MISIATori Kelly完勝 だし、アッシュ対決ロジータ対決マイク対決グンター対決は、ほぼ互角の勝負だった感じです。

ただ、私の場合、字幕版をIMAX 3Dなんぞという豪華&高価な仕様で観ざるを得なかった(選択の余地がなかった)のが心残りです。 (2017/03/19 20:18)

ある意味「つづき」かも:2017/03/20 動物づくしの週末でした

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2016年師走の仙台旅行記 2日目 #9 [最終回]

2017-03-14 22:33:56 | 旅行記

「2016年師走の仙台旅行記 2日目 #8」のつづきです。

東北大学総合学術博物館(理学部自然史標本館)の見学を終えた私は、すぐ近くにある青葉山駅から地下鉄に乗って、仙台の市街地に戻りました。

青葉山駅から4つ目青葉通一番町駅で降りたのですが、乗車時間はたったの7分

いくら「下り坂とはいえ、たったの7分だなんて、バスしかなかった頃とか、原付で仙台市内を走り回っていた頃のことを思えば、冗談のような話です

地下鉄って偉大だなぁ~と思いました。
でも、Wikipediaをみると、地下鉄東西線の建設にあたっては、 環境・財政・費用対効果など様々な側面から反対運動もあったようです。
まぁ、今のご時世、日本では何をするにしても反対があるのは想定内って気がするのですが…。

ちなみに、青葉山駅の隣、東西線の終着駅八木山動物公園駅は、Wikipediaによれば、

日本一高い場所(レール標高:136.4m)にある地下鉄駅であると日本地下鉄協会より認定された。

だそうです。

   

さて、繁華街に戻った私は、遅い昼食牛タン定食を食べたあと、喫茶店に入って一服…したのは良いのですが、完全に時間を持て余してしまいました

観光のネタ尽きてしまった私は、無為に時間の経つのを待つばかりで、これは反省すべき点でしたな…

そして、「THE TOUR OF MISIA LOVE BEBOP」仙台公演2日目の開演時刻が近づくの待って、た~らた~らと、会場の仙台サンプラザホールまで歩きました。

仙台サンプラザホールの前に掲示されたポスターが、、、

MISIAJeff Beck様と、そして、綾小路きみまろさんって、なんとシュールな組み合わせ

ちなみに、仙台サンプラザホールの館内には長澤まさみさん主演のミュージカル「キャバレー」のポスターも掲示されていたのですが、まさかその数ヶ月後に、MISIA長澤まさみさんが、映画「SING/シング」の吹き替え版で共演することになろうとは、このときは知るよしもありませんでした。

   

「THE TOUR OF MISIA LOVE BEBOP」仙台公演2日目大盛り上がりのうちに幕が降り(仙台 2 daysの記事はこちら)、ミー友さんたちと語らい合いながら仙台駅まで歩き、仙台駅から東北新幹線に乗って帰宅しました。

この仙台遠征をふり返って、MISIATHE TOUR OF MISIA、楽しかったぁ~)を除いて一番印象に残ったのは何だったのだろうか…

う~んんん…
やはり、塩竃で食べたカキフライかな? (記事はこちら)

あれほどプリップリカキフライなんて、そうそう食べる機会はありませんでしたから

以上をもちまして、昨年12月初旬の仙台遠征旅行記完結でございます。
めでたし、めでたし…。 

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久しぶりの水戸で美術展をハシゴ

2017-03-13 22:46:14 | 美術館・博物館・アート

きのう、好天の下、水戸までドライブして美術展2ハシゴしてきました。

観てきたのは、「藤森照信展 自然を生かした建築と路上観察」@水戸芸術館 現代美術ギャラリー「東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展」@茨城県近代美術館

どちらも、往復約240kmを走って出かけた甲斐のある展覧会でした

展覧会のことは、追々書いていくとしまして、まずは昨日の行程から。

自宅戸田東IC外環道三郷JCT常磐道水戸北スマートICR123 & R118 水戸芸術館⇒一般道⇒ 茨城県近代美術館⇒一般道 & R6茨城町東IC北関東道友部JCT常磐道三郷JCT外環道外環浦和ICR298ガソリンスタンド⇒一般道⇒自宅

というもので、高速道・一般道とも渋滞皆無快適なドライブでもありました。

あら探しすれば、朝食を食べるために立ち寄った守谷SA飲食店が、完全に観光地モードで普通の朝食メニューになかったことくらいでしょうか?
以前は、守谷SAにも普通のレストランがあった記憶があるのだけれど… 

 藤森照信さんと東山魁夷さん、一般的にはなかなか結びつかないかも知れないけれど、私にとっては、お二人ともお気に入りのアーティスト藤森さんの場合は「アーキテクト」と呼ぶべきかも…)なのですよ。
そんなお二人展覧会が、ときを同じうして、水戸で開催されるなんて、私にはのようなお話でしたとさ。

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大阪でビバった旅行記 #1-4

2017-03-12 07:31:25 | 旅行記

「大阪でビバった旅行記 #1-3」のつづきです。

JR森ノ宮駅から大阪城公園をブラブラしながら、「THE TOUR OF MISIA LOVE BEBOP」の会場の大阪城ホールへ向かったわけですが、その散策ルートは下図のとおりです。

大阪城本丸一番古い建物っぽい旧第四師団司令部庁舎は、「#1-3」で書いたようにリニューアル工事中だったのですが、その養生壁には大坂城(大阪城)の歴史パネル展示されていまして、これが面白かった

豊臣秀吉築城時の「黒い城」こちらの記事をご参照方)に始まり、

大坂夏の陣炎上する天守閣、

徳川幕府による再築

落雷のため、天守寛文5年(1656)に、大手口多門櫓天明3年(1783)焼失

江戸時代最末期古写真

戊申戦争中の放火っぽい火災

そして、昭和初期の再興。

大坂城(大阪城)の歴史を概観できる、とても良い趣向だと思いましたが、旧第四師団指令部長舎のリニューアル工事が終わり、この養生壁がなくなったら、これらのパネルはどうなるのでしょうかねぇ…。
お蔵入りさせるには惜しすぎると思うのですが…

さて、再興から80年以上も経った現在の天守閣は、夕陽に輝いていました。

天守閣の中にも久しぶりに入ってみたかったのですが、時刻はすでに最終入館時間16:30を過ぎていて、今回は見送り、天守閣の外を廻って歩き続けましたとさ。

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