新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

大阪でビバった旅行記 #2-9

2017-06-30 22:11:57 | 旅行記

2週間ぶり「大阪でビバった旅行記 #2-8」のつづきです。

ここ数年、京都・奈良に出かけるたびに、高校の修学旅行で見物したスポットを重点的に見物して、追体験しているのですが、つくづく思うのは、なんと短い期間数多くの観光スポットを巡ったものだということ。
何度京都・奈良に出かけても、「追体験」終わらず、あの弾丸ツアーは何だったんだ と半ば呆れています。
貸切バスだからできた観光スポット巡りだっただろな、と思ったりして…

京都鉄道博物館の見物を終えた私は、まだ「追体験」が終わっていない観光スポットの中から、今回は銀閣寺こと慈照寺にに出かけてみることにしました。

でもその前に昼食

時刻は12:45過ぎで、ラッシュを避ける意味ではちょうどよい時間帯です。

ところが梅小路公園周辺を歩いてみたものの、めぼしい食事場所見つかりません

そこで、一旦、バス京都駅に戻り、昼食を摂ったのち、京都駅前からバスに乗って銀閣寺に向かうことにしました。
せっかく「市バス・京都バス一日乗車券カード」を買ったのですし…

そして、京都駅前地下街ポルタで、京料理のランチをいただきました。

いつも京都での食事は、混んでる 高い 全国チェーンの店じゃイヤ と苦労してきた私でしたが、今回は満足

こうしてお腹満たされた私は、市バスの「100号系統」に乗って銀閣寺へと向かいました。

この路線、京都国立博物館・三十三間堂、清水寺、八坂神社、岡崎公園・平安神宮、京都市動物園と、京都でも名だたる観光スポットを通って銀閣寺へと至るドル箱路線で、外国人を含む観光客ビッシリと混んでいました
幸い、私は始発京都駅前から座れたから良かったものの、ずっと立ちんぼ銀閣寺まで行くのはかなり辛いだろうと思いました。
もっとも、乗客の乗り降りはかなり多くて、銀閣寺まで行くのだったら途中で座れる可能性はけっこう高いとおもいますけど…

そうそう、途中、バスは、、、、

泉屋博古館の前を通りました。

私は、おぉ、こんなところに泉屋博古館があるのか と思わず写真を撮ってしまったのですが(東京・六本木分館があります)、この泉屋博古館(せんおくはくこかん)は、旧住友財閥・住友家のコレクションを展示する施設です。
英文呼称が「Sumitomo Museum of Art」というところからも想像に難くありませんよね。
ただ、ここのコレクションの中心は中国の古美術ということで、ちょっと私の守備範囲を超えるわけで…

そういえば、私のこのブログへのアクセス状況を眺めると、「ロングセラー」的にアクセスしていただいている記事が旧三大財閥三井・三菱・住友マークについて書いた「井桁と菱を調べてみた話」で、その中で、

でも、「三井⇒井桁」「三菱⇒菱」は容易に結びつきますが、どうして「住友⇒(菱)井桁」なんでしょうか?

として、泉屋博古館についてもちょっとだけ触れております。
ご興味がおありでしたらお読みいただければ幸いです。

まだ銀閣寺たどり着いていませんが、明日から「MISIA SUMMER SOUL JAZZ名古屋遠征で、その準備をしなければなりませんので、きょうはここまで。

つづき:2017/07/06 大阪でビバった旅行記 #2-10

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南東北ドライブ旅行記 #1-8

2017-06-28 23:25:38 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「南東北ドライブ旅行記 #1-7」のつづきです。

2013年の夏休み、帰省からのUターンの途中、福島県立美術館で開催中だった「若冲が来てくれました プライスコレクション 江戸絵画の美と生命」福島展を観覧するべく、福島市で一泊しました(記事はこちら)。

福島県立美術館(2013年8月)

実家を朝早く出発すれば、福島市には昼前に到着できるわけで、14時には「若冲が来てくれました プライスコレクション 江戸絵画の美と生命」福島県立美術館常設展を観終わり、さらに昼食も摂ってしまい、さて、これからどうするか…

そこで、福島県立美術館を見物したのだから、次は県立の博物館にも行ってみよう と考えて、調べると、、、あれま、福島県立博物館は福島市ではなく会津若松市にある

この時間から福島市と会津若松を往復するのもなぁ~ というわけで、結局この日は福島市内でクルマを走らせて、正直、ムダな時間を過ごしてしまいました

というわけで、今回は鶴ヶ城三の丸跡にある福島県立博物館に行ってみました。
なにせ飯盛山からなら、クルマでならすぐ近くですし、あわよくば鶴ヶ城まで見学してしまおうという心持ちで…。

飯盛山から福島県立博物館までのルートマップ

そして、すんなり福島県立博物館に到着
しかも、駐車場無料ときたもんだ
それにしてもデカい

城址にあることを意識したと思われる瓦屋根が印象的です(写真では干渉縞で酷いことになっていると思いますが、屋根はです)。

で、福島県立博物館常設展は、自治体が運営する博物館ではお約束の、石器や土器の展示から始まります。
地元の人たち&子どもたちにはそれで良いのでしょうけれど、あちこちの博物館を巡り歩いている身からすれば、またかぁ~ で、つまらない…

また、悲しいことに近世以降では会津最大のできごとになった戊辰戦争に関する展示もイマイチ (この点には後日談あり)

でも、これまた悲しいかな近代では会津最大のできごとになった磐梯山の噴火に関する展示はよくできていました

気象庁のこちらのサイトによれば、磐梯山山体崩壊を起こした1888年の大噴火は、

7月15日。低温の火砕サージ→岩屑なだれ→火砕物降下・泥流。噴火場所は大磐梯山頂北方。
数日前から弱い地震。7:00頃鳴動始まり、7:30頃から強い地震が3回発生。7:45頃大音響とともに爆発、短時間に爆発が15~20回反復して小磐梯山の大半を崩壊させた。 同時に琵琶沢沿いに疾風(火砕サージ)と土石流が発生し、南東山麓の村を破壊した。爆発音が50~100kmまで聞こえ、降灰は太平洋岸に達した。 火口は北に向いてU字形に開き、東西約2.2km、南北2kmで堆積物総量は1.5×109m3。大規模な岩屑なだれ(45~77km/時)を生じて山麓の5村11集落を埋没し、死者461名(477名とも)。 家屋山林耕地の被害大きく、桧原湖などが生じた。この後に土石流(火山泥流)が数多く発生した。

と、山が崩れ落ちて村落を埋め尽くし、とんでもない人的被害をもたらすとは、ちょっと想像できません

思い起こしてみれば、福島の人たちは、幾度となく試練に直面し、立ち直ってきたんだな…と思い入ったしだいです。

   

こうして福島県立博物館常設展の見学を終えまして、さぁ、次はどうしようか
(基本的に行き当たりばったりの旅行だったわけです)

すぐ目の前にある鶴ヶ城を見学しようか、とも思いましたが、上がったとは言え天候すぐれないし、もうホテチェックインできる時刻を過ぎているし…ということで、鶴ヶ城の見学良い天気になりそうな翌日に廻すことにしまして、この日の観光はここでお開きにして、ホテルへと向かいました。

ホテルの自室の窓からは夕焼けが見えて、こりゃ明日は良い天気だ と確信

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南東北ドライブ旅行記 #1-7

2017-06-25 18:31:59 | 旅行記

「南東北ドライブ旅行記 #1-6」のつづきも会津若松・飯盛山のお話です。

飯盛山(いいもりやま)といえば、「#1-6」で書いたさざえ堂よりも、白虎隊で有名です。
戊辰戦争新政府軍と戦った白虎隊の少年たち19名自刃、彼らのお墓があるのが飯盛山

戊辰戦争当時、会津藩の軍制は、大きく分けて、実戦部隊の朱雀隊(18~35歳)、国境守備隊の青龍隊(36~49歳)、予備隊の玄武隊(50歳以上)白虎隊(16~17歳)ほかがありました。「白虎隊」「白虎」って、四神「白虎だったんですな。
そしてこの4隊は、それぞれ階級(身分)によって「士中(上士)」「寄合(中士)」「足軽(下士)」に分けられ、さらにそれがいくつかの隊に分けられていたそうで、朱雀隊の場合、「士中」「寄合」「足軽」それぞれ一番隊から四番隊(各100名前後)で構成されていたのだとか。
そして、白虎隊は、「士中」「寄合」「足軽」それぞれ一番隊と二番隊(各50名前後)で構成されていた由。

武士階級が、更にいくつかの階級に分かれていたというのは会津藩に限った話ではないのですが、ちょっと解せないのは、会津藩では階級ごとに部隊が編成されていたことです。
もちろん、年齢層別に、役目(実戦担当、国境守備担当、予備)が分かれていたのは理解できますが、階級別に隊を編成したのはなぜなんでしょうか?
例えれば、士官学校出身者だけの部隊、志願兵だけの部隊、徴兵された兵士だけの部隊だった感じでしょうか?
こんな編成の軍隊が有効に機能するとは思えないのですけれど…

それはそうと、飯盛山悲劇の最期を遂げた19名の少年たちが所属していたのは「士中二番隊」
白虎隊記念館HPによれば、

「白虎隊」約340名おり、身分により「士中一、二番」「寄合一、二番」「足軽隊」の5隊に分けられていました。この中の「士中二番隊」42名が、慶応4年8月23日(太陽暦では10月8日相当)に、猪苗代湖近くの「戸ノ口原」で戦いましたが退却を余儀なくされ、うち20名(人数には諸説あり。他所での戦死者も飯盛山での自刃(じじん)者に含まれている模様)が、飯盛山に逃れてきましたが、城下で発生していた戦火を見て、もはや会津に勝ち目無しと思い、敵の手にかかるよりはと、自刃したのです。(理由には諸説あり)元号が明治に変わる16日前の出来事でした。

だそうで、

「白虎隊」全体では85%にあたる289名が生き延びています

とも…。
白虎隊の少年たちが城下の様子を見て「会津に勝ち目無し」と思って自刃したのが「8月23日」とありますが、実はまだ会津戦争は続いていて、会津藩が降伏したのは、その1ヶ月後9月22日のこと。
状況をしっかりと把握しないまま自刃してしまったんですな。
彼らが飯盛山から抜け出して鶴ヶ城に合流したとしても、戦況を変えることはできなかったでしょうけれど、早まった としか言いようがありません。
上士としてのプライド意識と、同じ年頃の少年たち集団心理が悪く作用した気がしてなりません。

白虎隊士中二番隊の少年たちが自刃した場所には、鶴ヶ城を望む 少年の像が立っていました。

白虎隊士自刃の地

そして、その「視線の先」には、、、

雨に煙る鶴ヶ城が見えました。

   

ところで、白虎隊のお墓の前の広場には、外国語が刻まれた記念碑が2立っていました。
それが、1935年駐日ドイツ大使館員のハッソー・フォン・エッツドルフ(Hasso von Etzdorf)が飯盛山を訪れた時に、白虎隊の少年たちの心に深い感銘を受けて個人的に寄贈した記念碑」1928年ベニート・ムッソリーニが寄贈したという古代ローマ時代のポンペイから発掘された宮殿の石柱による記念碑」。(写真はありませぬ)

第二次世界大戦枢軸国からの贈りものとは…
よくよく負け戦と縁のある場所のようです…

それはそうと、に濡れたシャガがきれいでした。

そして足元にはサクラの花びら…。

そしてそして、あの石段を下り、

最後に白虎隊記念館を見学しました。

この施設私設施設で(くどい…)、運営されている方の白虎隊に対する熱い思いが伝わってくる展示でした。

その一方で、その熱い思いが強すぎるのか、何から何までも展示している感じで、もっと体系的に整理して展示される方が、観る方にはありがたいと思いましたです。

   

ところで、修学旅行に出かけた男子小中学生が旅行先で買いがちなものに「木刀」があります。
観光地土産物屋さん 定番の商品といえば、各地の名産品は別にすれば、断然「木刀」でしょう
私は旅行中に限らず木刀を購入したことはありませんが、どうして観光地木刀が売られているのか不思議に思っていました。
そのが、今回の旅行で解明されました
Wikipediaによれば、

初めて観光地で木刀が販売されたのは福島県会津若松市の飯盛山で、白虎隊をモチーフにした白虎刀とされる。白虎刀がたいへんよく売れたため、製造会社が各地の観光地名が入った木刀を全国各地の観光名所に売り込んだため全国で販売されるようになった。

だそうな
飯盛山「観光みやげの木刀」発祥地だったんですかぁ~

なるほど、飯盛山の土産物屋さんが木刀を販売するのはよく理解できます

でも、日本全国の観光地木刀が売られているというのは、やはりだと思います。

以上

つづき:2017/06/28 南東北ドライブ旅行記 #1-8

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MISIAカレンダーを埋めてみる

2017-06-24 23:10:06 | MISIA/美術館・博物館・アート

上場企業のHPには、株主総会の開催とか、決算発表の日程を載せた「IRカレンダー」というページがあるものです。

それに倣って、病気療養明け以降のMISIA関連の日程を「MISIAカレンダー」として整理するとこんな感じかな?

「復活」5月「助走」6月につづいて、「怒濤7-8月突入 って感じがします。

昨夜放送の「さんまのまんま 初夏に大笑いしましょかSP」は、絶好「踏みきり」だった気がしてなりません。

「歌っていないときのMISIA」エッセンスでしたもの

「トゥウィッターを見ると、世の中の人々が、勝手に描いていたMISIAのイメージと実際とのギャップ大きく驚いていたことや(よく言われる歌声と話し声とのギャップより大きそう)、「MISIA、かわいい「トゥウィート」に、私は「そうだろう、そうだろう…にんまりしていました。

もっとも、私も、MISIAラジオ放送を聴いたり「日記」(自宅の冷蔵庫がちりめんじゃこいっぱいになったとか、自宅のベランダからカラス掛け合いをやってみた、なんて話)を読むまでは、「孤高のシンガー」「完璧主義者」といった、なんとなく近寄りがたい気難しそうなイメージを持っておりましたです

そんな「騒がしい」状況の中、来週から「MISIA SUMMER SOUL JAZZ」が始まります。

私は、名古屋2日目除く6公演に参戦予定でして、名古屋大阪遠征時の「観光」思案中です。

そんなおり、きょう出かけた東京国立博物館気になるフライヤー2 get しました。
まず1枚目。

キトラ古墳壁画が現地で公開されるのだそうで、今回の期間は7/15~8/13

私の大阪遠征7/15~172泊3日ですから、ピッタリ ではございませんか

こちらで書いたように興福寺「阿修羅・天平乾漆群像展」が、ちょうど会期のはざまがっかりしたこともあって、意気揚々とこのフライヤーを自宅に持ち帰り、よくよく見ますと「事前申込制」で、第一次応募の受付は1週間前、6/18で終了していました

※第一次応募により定員に達しなかった場合、第二次応募を行います。

だそうですが、私が行きたいのは、公開しょっぱなの3連休ですから、もう無理だろな…

でもまぁ、キトラ古墳壁画朱雀・白虎・玄武「十二支像」のうち子・丑は、3年前に東京国立博物館現物拝見していますから(とりあえず記事はこちら)、現地・明日香での拝見はまた後日ということにいたします。

その替わり、というか、「土日曜・祝日を含め一年を通して申込手続不要『通年公開』を実施する体制に移行」したという京都御所に行ってみようと考えています。

次いで2枚目は、8月末Misia Candle Night」@河口湖ステラシアター遠征絡みでして、こちら。

箱根にある岡田美術館での「歌麿大作『深川の雪』と『吉原の雪』」展です。

喜多川歌麿肉筆三部作「雪月花」のうち「深川の雪」は、

昭和27年(1952)に銀座松坂屋で展示されて以来、長年行方不明だったものが平成24年(2012)に再発見され、めでたく岡田美術館の収蔵となりました。

というものなのですが、日本画の宿命として、いくら岡田美術館の収蔵品とはいえ、展示期間は限定されてしまいます。

それが、7/28~10/29に展示されるだけでなく、三部作のうちワズワース・アセーニアム美術館収蔵の「吉原の花」一時帰国して、また、フリーア美術館収蔵の「品川の雪」特製高精細複製画が展示されるのだそうな

フリーア美術館は、スミソニアン博物館群の一つで、美術コレクターのフリーアさんがコレクションを米国政府に寄付するにあたり、

米国政府にコレクションを追贈する際の条件として、フリーア美術館以外での作品の展示や、反対に他からの展示目的での借用を禁止した。同様の制限は近年入手した作品でも適用され、美術館は現在もこの条件を守り続けている。

だそうで、「品川の雪」フリーア美術館の収蔵品である限り、「雪月花」三部作の同時展示は不可能なんですな。

なんとも理不尽な話(他からの展示目的での借用を禁止の意図が判らない)ですが、次善の策として、この方法しか「雪月花」三部作を同時に拝見するのは叶わないのでしょう。

今年の「Misia Candle Night」@河口湖ステラシアターには初日のみ日帰り参加の予定で、ライヴ以外には「富士山世界遺産センター」だけを見学してくるつもりでしたが、朝早く出発して岡田美術館にも行ってみようかと考えています。

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南東北ドライブ旅行記 #1-6

2017-06-22 22:05:23 | 旅行記

「南東北ドライブ旅行記 #1-5」のつづきも、会津若松市飯盛山からお送りします。

建物好きの私、こんなを持っています。

奇想遺産―世界のふしぎ建築物語
鈴木 博之, 藤森 照信, 隈 研吾,
松葉 一清, 山盛 英司
新潮社

いつの間にやら絶版になってしまったようですが、「まえがき」を抜粋しますと、

日々の生活では思いつきもしない「奇想」に基づいて構築された建築、記念碑、そして大地の造形。新鮮な驚きを期待する好奇心が、不思議な形を求めてやまないから、観光は今や世界の主要産業なのだ。
「奇想遺産」とは、そうした旅人たちの記録帳に描かれた不思議な遺産を抜き出してきたものである。

というこの本が、私とさざえ堂(旧正宗寺三匝堂)との最初の出会いだった気がします。
そして、ぜひともさざえ堂上り下りしてみたい と思っていました。

で、サクラが飾り立てた石段の先にあったのが、さざえ堂

あまり広くない敷地どぉ~ん と立っているので、なかなか全体像の写真を撮りづらかったのですが(しかもが降ってきた)、こんなもんでいかがでしょうか?

さざえ堂

 

さざえ堂の名のとおり、ねじれまくった建物です。

ブラタモリでも紹介されましたので御存知の方も多いと思いますが、見かけ以上に「奇想のなのはその内部構造でして、「奇想遺産―世界のふしぎ建築物語から引用しますと、

木造の六角堂で、上りのスロープを回っててっぺんまで到達。中央にかかる太鼓橋を渡って下りのスロープに入り、入口とは別の出口へ。途中、二つのスロープは交差しない

というもので、かつては、このお堂上り下りすることで、四国三十三観音一筆書きお参りできるというものだったそうですが、今は観音像はなくなってしまい、ただ上って下るだけの建物になってしまっています。
もっとも、だからこそ、内部を写真撮影できるのですが…

こんなスロープギシギシいわせながら上っていくと、

てっぺん「太鼓橋」を渡り、(天井に貼られまくっている千社札うっとうしい)

そこからスロープギシギシ下ります

ものの5分間ほどで、四国三十三観音のお参りは完了 だったんですな、昔は。

それが、

会津さざえ堂のもともとの呼称は「正宗寺円通三匝堂」。明治の神仏分離寺が廃され、飯盛山主飯盛本家が保持してきた。明治前期に荒れ放題となり、修理を重ねて復旧。国の重要文化財となった。(「奇想遺産―世界のふしぎ建築物語より)

だそうで、明治政府の神仏分離令「忖度」した廃仏毀釈で、どれだけの文化財・文化遺産失われたことか と、毎度のことながら、憤った私でした。

さざえ堂の出口近くには、修理学術調査の実施を記念する木札がありました。

「荒れ放題」になっても、残ってさえいれば、その後の修理でなんとかなるものなのですな。
もっとも、関係者の尽力あってのことですが…

ところで、二重らせん構造「さざえ堂」は、この会津のお堂特有のものではなく、「奇想遺産―世界のふしぎ建築物語からもう一度引用しますと、

(1960年代に実測調査した)小林氏(日大教授)の研究に基づく創建年は1796年。世界に目を向けると、フランス革命と産業革命興隆の直後にあたる。社会の変動、都市の拡大と技術の進化がフランスの空想建築家のようなそれまでになかった空間を夢想させるひとびとを出現させた。わが国ではこの時代に、江戸をはじめ各地にさざえ堂が建築された

だそうで、

さざえ堂と呼ばれる仏堂は、青森県弘前市群馬県太田市埼玉県本庄市などに現存する。

とな。
上に挙げられている3つの「さざえ堂」の写真を見ると、この会津のさざえ堂奇抜な外観飛び抜けている気がします。

これは見ものですぞ

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南東北ドライブ旅行記 #1-5

2017-06-21 23:15:01 | 旅行記

「南東北ドライブ旅行記 #1-4」のつづきです。

喜多方での昼食#1 & プチ観光を終えた私は駐車場に戻り、会津若松へ向かいました。

会津若松ICから喜多方まではR121「下道(したみち)」を使いましたが、戻りは途中から私のクルマのナビには一部しか載っていなかった会津縦貫道を使いました。
無料なのが申しわけないほど、快適かつ早く会津若松IC近くまで戻り、そこからさざえ堂白虎隊の墓所のある飯盛山へ行き、その後、福島県立博物館に行ったわけですが、このルートは下図のとおりでした。
青い線会津若松IC⇒喜多方のルート、赤い線喜多方⇒飯盛山⇒福島県立博物館のルートを示しています。

5月1日午後のルートマップ

ナビに従ってクルマを走らせると、迷うことなく飯盛山の麓に到着しました。

ガラガラの駐車場にクルマを駐め、いざ

だったんだすが、あれぇ~凄い登り

そういえば、ブラタモリではエスカレーター(スロープコンベア)で昇っていましたっけ…
でもお金を払って昇るのはなぁ~ と思っていたところ、白虎隊記念館の前に案内図がありまして、それによると、 

「楽な参拝順路(6分)」というのがあるではありませんか
なぁ~んだ、これで行こう

「楽な参拝順路」を進んで行きますと、あれま、「厳島神社」

厳島神社といえば、まず頭に浮かぶのは、安芸・宮島にある世界文化遺産厳島神社ですが、宮島の厳島神社と関係があるのでしょうか?

傍らにあった説明板によれば、

当社は宗像三女神の一にして古くから人々の信仰が厚かった、主神は市杵島姫命である。
会津の領主芦名直盛公の時代、石塚、石部、堂家の三家によって社殿が建てられたるものとして時は永徳年間のことである。
別当正宗寺である、降って元禄十三年には会津藩主松平正容公は御神像及び土地を寄進され、明治の初期厳島神社と改めたこの山を飯盛山と呼ぶ、別名の辯天山は、この神社にあやかるものである。

と、なんとも下手くそな文章で、よく判らないのですが、少なくとも宮島の厳島神社よりも、宗像大社(市杵島姫神[いちきしまひめのかみ]をお祀りする宗像大社辺津宮の訪問記こちら)との関係が深そうです。

Wikipediaによれば、

厳島神社(いつくしまじんじゃ)は福島県会津若松市の神社。かつては宗像神社といい、永徳年間に地元の豪族、石塚、石部、堂家の三家によって建てられた。厳島神社の名は1868年(明治元年)の神仏分離令に際して改名されたものである。別当は正宗寺。旧社格は郷社。
祭神の市杵島姫命弁才天習合していた事から、神社のある飯盛山は別名を辯天山という。1700年(元禄13年)には会津藩主松平正容によって、飯盛山周辺の580間が寄進され鳥居や仁王門、青銅の大仏も建立された。明治期に大仏は市内の七日町にある阿弥陀寺へ移されたが、鳥居は今も残る。 また1796年(寛政8年)旧正宗寺三匝堂が建てられ、境内に現存する。

だそうで、説明板よりこちらの説明の方が判りやすい
近くに弁才天の石像がある理由も理解できます。

でも、なぜ、明治期になって(また出たよぉ~、神仏分離令)「厳島神社」改名されたのかは判りません。

ただ、会津バスしゃもじを奉納していることからして、宮島の厳島神社無関係であるとは考えられませんな
もっとも、宮島の厳島神社宗像三女神をお祀りしていることからすれば、社名は変わっても、本質は維持されているとも言えるわけで…

あ、そうそう、上に転記した会津・厳島神社についてのWikipediaの記述の中に、「また1796年(寛政8年)に旧正宗寺三匝堂が建てられ、境内に現存する。」とありますが、この「旧正宗寺三匝堂」というのが、かの「さざえ堂」です。

「さざえ堂」のことは「#1-6」で書くことにします。

つづき:2017/06/22 南東北ドライブ旅行記 #1-6

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わたし的に今年は「ポスター展」の当たり年かも (後編)

2017-06-19 22:36:54 | 美術館・博物館・アート

「わたし的に今年は『ポスター展』の当たり年かも (前編)」のつづきです。

「前編」では、サクラビール、カブトビール、ユニオンビールと、今はなきブランドのポスターの話を書いたのですが、当然ながらキリン・アサヒ・サッポロ御三家のポスターもたっぷりと展示されていました。
さすがに1963年にビール業界に本格参入したサントリービールのポスターはありませんでしたが…
でも、サントリーの前身・壽屋あのポスターは当然のように展示されていました

「グラスを持つ半裸の女性」1922年片岡敏郎井上木它による赤玉ポートワインのポスター「グラスを持つ半裸の女性」(1922年)です。

「日本初のヌードポスター」と言われている割にはおとなしいのですが、このポスターが掲出された大正時代にはセンセーショナルだったようです。

今観ると、ほぼモノトーンの中に、ポートワインのが印象的で、、、、いや、それもあるけれど、それ以上に、モデルさんの微笑が素晴らしい

このポスターの宣伝効果たるや、メディアの限られた当時は絶大なものがあったことでしょう。

さて、話をビールに戻しますと、御三家のポスターは、この赤玉ポートワインはもとより、サクラビールのポスターに比べても、きれいにまとまってはいるものの、インパクト乏しい気がしました。

そんな中で印象的だったのが、キリンビールのこちらのポスター

「グラスを持つドレスの女性」1922年「グラスを持つドレスの女性」(1922年)です。

なぁ~んともエロっぽい

この官能的な女性の表情、どこかで観たことがある気がして、ちょっとググった 結果、これはクリムト「ユディトⅠ」(1901年)そっくりではなかろうか

グスタフ・クリムト「ユディトⅠ」

 

それはともかく、このキリンビールのポスターは、それまでのビール御三家のポスターとは一線を画している気がしました。

そういえば、「グラスを持つ半裸の女性」「グラスを持つドレスの女性」1922年(大正11)の作品です。
大正デモクラシーつかの間の自由な雰囲気が生みだしたポスターたちなのかもしれませんな

   

さて、ビール御三家だけでなく、今もお馴染みブランド飲料のポスターが展示されていて、こんなに歴史のある飲み物だったのかぁ驚きがありました。

伊原宇三郎「カルピスを持つ赤い洋服の女性」(1928)例えば、カルピスの発売は1919年(大正8)ですし、(リボン)シトロン三ツ矢サイダー1909年(明治42)、後発のキリンレモンでも1928年(昭和5)ですから、この息の長さにはビックリ

健康被害なんてもってのほかで、時代に合わせるべく、細かなレシピの変更や、大胆なボトルの変更を繰り返しながら、ブランドを維持してきたメーカーの皆さんのご努力に感服するしだいです。

ここまで来れば、もう「日本の宝ですぞ

で、「宝」といえば、宝焼酎・宝味醂のポスターもかなりのものでした。

画像が見つからなかったのですが、「瓶を持つ青い和服の女性」(1928年)のキャッチコピーは、

お台所の両大関

ですよ。
宝焼酎と宝味醂が両大関なら、横綱は何なんだ と突っ込みたくなったりして…
また、「割烹着姿の女性」(1927-35年)に描かれた、味醂5合瓶2本入る、恐らく紙製メッシュの手提げ箱斬新で、今でも絶対にウケると思いました。

こうして、私をメチャクチャ楽しませてくれたこの「サカツ・コレクション」これって何? と思うわけですが、名古屋を地盤とする業務用酒類販売会社「サカツ・コーポレーション」のコレクションでした。

HPによれば、

弊社は明治29年山田屋酒店として名古屋市に創業、昭和4年に屋号を「酒津屋」と改名しその頃から酒類に加え輸入洋酒、柑橘類の取り扱いも始め、戦時中は食料品配給事業に精力し、戦後は飲食店事業や舶来洋酒店の開設など図り、名古屋「洋酒の酒津屋」と親しまれ、おかげ様で現在では中部・北陸における業務用酒販店として、また小売部門「銘酒の森アルコ」の多角化展開をみるに至りました。
6代目社長、故・牧野純三はこうした展開を支え、また社長業の傍ら戦争によって散逸してしまった酒類関係の文化資料の収集に努め、なかでも広告ポスターの収集にはその文化的、芸術的価値の高さからも力を入れておりました。コレクションの中でも中核を占める五百点以上に及ぶポスター類には、先代のこうした酒販業に賭ける思いが投影しているものです。

だそうです。
創業以来のコレクション(だけ)ではなく、戦後に蒐集したものだったんですねぇ。
こういうお金の使い方って素晴らしいと思います。

埼玉県立近代美術館での「カッサンドル展」(来週末まで八王子夢美術館巡回展を開催中)で盛り上がった私(記事はこちら)、今度は日本の飲料系のポスター展でも盛り上がるとは…。
私にとって、今年は「ポスター展」の当たり年かもしれません。

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わたし的に今年は「ポスター展」の当たり年かも (前編)

2017-06-18 22:25:37 | 美術館・博物館・アート

かつて、今の季節になると、ビーチ生ビールジョッキを持って微笑む水着美女のポスターが居酒屋の店内を飾ったものでした。(右の井川遥さんが持っているのはグラスですが…)
ところが、広告の世界では水着キャンギャル離れ「ギャル」の響きが古くさい)が著しいそうで(こちらのサイトをご参照方)、ビール業界も例外ではないそうな。

「不景気で企業はまず広告宣伝費を削った。ビールの愛飲者に女性が増えたこともあるし、水着自体が目新しいものでなくなった点も大きい」(マーケティングコンサルタントの西川りゅうじん氏)

だそうです。

きょう、「サカツ・コレクション 日本のポスター芸術:明治・大正・昭和の彩り」展@うらわ美術館を観てきました。

本展では、散逸した飲料メーカーのポスターの収集・保存に努めるサカツ・コレクションより、美人画ポスターを中心に、選りすぐりの約85点を展覧します。明治の引札から昭和戦前期まで、懐かしくも新しい貴重なポスターの数々をご覧いただきます。

というこの展覧会、楽しかったぁ~

図録が用意されていなかったこともあって、ポスターに見入ってはメモ、メモ、メモ…でした。
図録代わりというか、サカツ・コレクション立派単行本が出版されていますが(会場で現物を拝見)、6,000円超というお値段では、ちょっと手が出ません

明治・大正・昭和 お酒の広告グラフィティ―
サカツ・コレクションの世界
サカツコーポレーション
国書刊行会

そんなわけで、ネットで探し出したを交えながら、私のメモからこの展覧会をふり返りましょう。

   

まず、冒頭から、ポスターに先立つ宣材引札(ひきふだ)コレクションにあれまぁ
長坂商店という味噌・醤油の醸造元の引札なんですが、

合資会社長坂商店
羽後増田町

ですって
去年の夏休みに内蔵を楽しんできた横手市増田(記事はこちら。最近、JR「大人の休日倶楽部」CM/ポスターにも登場)のお店引札とは
「長坂商店」の今はどうなっているのだろうか? と帰宅してから、ググると、、

㈱長坂商店/破産開始決定

あれぇ~6年前つぶれてた
でも、創業時(1903年・明治36年)からの味噌製品室と土蔵(国登録有形文化財)は、今も公開されているようです。

「長坂商店引札」の近くに展示されていた「ヱビスビール宣伝掛札」(1894-1905年)興味深いものでした。
えびすさんがビアジョッキを掲げている図案もさることながら、書かれている社名&所在地に注目

日本麦酒株式会社
大日本東京荏原郡 目黒村三田

「三田」と聞くと、慶應義塾大学のある「港区三田」を連想しますが、現在、恵比寿ガーデンプレイスのある地域(ヱビスビールの工場跡)「三田」であることは、丸谷才一さんのエッセイを読んで知っていました。
豆腐好き丸谷さんは、ビールの工場があるくらいだから良い水が出て、したがって美味しい豆腐を食べられるだろうと考えて、目黒区の三田に引っ越したのだそうな。
こんな話を思い出しました

   

美人画ポスターを中心に、選りすぐりの約85点を展覧するというこの展覧会ですが、ここから出てきますよ、美人画ポスター

現在、日本のビール会社は、アサヒキリンサッポロサントリー、そして実質アサヒ傘下オリオンと、4.5社による寡占状態ですが、かつては他にもビール会社があったようで、例えば、北九州にあったサクラビール(昭和恐慌の立役者の一つ? 鈴木商店による経営)のポスターが粒ぞろいでした。

 左から順に、

1) Koembangビール 1912-16年
2) 「桜ビール」文字入りの和服を着て給仕する女性 1916年
3) 菖蒲を背にした和服の女性 by 北野恒富 1913年
4) 桜の旗を背にビールを掲げる女性 by 樋口富磨呂 1928-31年

ドレスのヒダやタイポグラフィーがアール・ヌーヴォー風の1)太い輪郭線とタッチがフォト・コラージュっぽい2)菖蒲金屏風の背景が冴える3)、どことなく「民衆を導く自由の女神」を思わせる4)と、それぞれいい感じです。

ところで、1)「Koembang」って何でしょうか?
このポスター輸出用に作られたものだそうですが、もしかして思いっきり日本的「検番」のことか?

それはともかく、サクラビール以外にも、今はなきブランドビールのポスターも展示されていました。

カブトビールテーブルの上の薔薇と二人の女性1915年)は、名古屋駅前にあったらしい広告が映画「風立ちぬ」に何度か登場してリバイバルしましたが、

ユニオンビールレストランの女性 by 町田隆要1926-33年)は初耳のブランドです (モデルさんのお顔が宮崎美子さんっぽい)

こうして姿を消したブランド数知れず、なんですが、逆に長い間、生き続けているブランドも数多いことを知ったのも収穫でした。

その辺のお話はまた後日

つづき:2017/06/19 わたし的に今年は「ポスター展」の当たり年かも (後編)

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6年ぶりの鹿児島旅行記 #2-4

2017-06-18 09:30:55 | 旅行記

「6年ぶりの鹿児島旅行記 #2-3」のつづきです。

有村溶岩展望所からR224をちょっと東に走ると、すぐに、流れ出た溶岩桜島大隅半島陸続きになったポイント「桜島口」です。

当初の予定では、桜島口右折して、R220を南下、鹿屋へ向かうはずだったのですが、そのまま直進(鹿児島・霧島方面)に向かうことにしました。
ここまで、桜島噴煙山頂の向こう側から立ち上っている様子しか見られなかったことから、桜島東側からだと、噴火口が見られるのではないかと思ったからです。
そこで、R220から県道26号線に入り、北上しました。

ところで、R220、調べると、この国道のルートは「宮崎市~日南市~鹿屋市~霧島市」となっています。
んんん… なんか
もしかして大迂回ルート?
と思ってルートを地図になぞってみたところ…、

それほど不自然ではありません。
こんなことで私の土地鑑の無さ暴露されたりして…
この土地鑑の無さは、このあと緊急事態を引き起こすことになるのですが、それはまだ先のこと…

さて、県道26号線は、交通量が少なく、とても快適なドライブでした。
もっとも、道路近くまでが迫っているため、景色としてはイマイチ

それにしても、道路端に頻繁にある小さな鳥居は何だろ…

謎の鳥居

旅行後に調べると、この鳥居は鹿児島周辺特有のものではなく、ゴミのポイ捨て防止おまじないのようです(こちらのサイトをご参照方)。
なぁ~んだ… ですな。

しばらくクルマを走らせると、絶好の展望ポイントがありました

とても営業しているようには見えなかった「旅の里 展望台」という施設なんですが、火口付近がよく見えました

でも、もうちょっと裾野も見える場所はなかろうか と更にクルマを進めると、路側帯が広くなっていて、「どうぞここから桜島をご覧ください」と言わんばかりの場所があり、クルマを駐めました。

おぉ~ 絶景

ここからは、かの有名「黒神埋没鳥居」までは数百mの距離だったのですが、私は「もうここらでよか」と、ここでUターンして鹿屋を目指しました。

「見ると聞くとは大違い」「百聞は一見に如かず」とはいうものの、このとき、私は黒神埋没鳥居食指が動かなかったんですな。

見てくればよかったかなぁ~ と今でも思いますが、仮に黒神埋没鳥居を観に行って、その後の行動が、実際の行動・所用時間そのままだったとしたら緊急事態が、「痛恨の極みにまで悪化することになったわけで、なんとも言えません。

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6年ぶりの鹿児島旅行記 #2-3

2017-06-16 22:56:55 | 旅行記

「6年ぶりの鹿児島旅行記 #2-2」のつづきです。

烏島展望所の駐車場からクルマを出し、ちょっとスーパーマグマロードを走ると、すぐにR224と合流し、そのまま桜島南岸を走りました

スーパーマグマロードでもR224でも、展望所&駐車場と共に頻繁に目につくのは、シェルターと、護岸がコンクリートで固められた涸れ川のようなもの。どちらも噴火対策なんだろうな と思っていたのですが、調べると、私の読みは当たっていたものの、桜島噴火したり大雨が降ったりすると、とんでもない状況になるんですな。
こちらの資料を見ると、

桜島の河川は、水無川とよばれ、水が流れていませんが活発な火山活動のため、山体は荒廃し、少ない降雨でも土石流が発生し、下流域まで流出した土砂が住民や人家に被害を及ぼしてきました。

だそうで、土石流が発生したあとの写真には想像を絶するものがあります。

この日は、噴煙こそ上がっているものの、晴れ渡り絶好のコンディションでした、、、と思ったのですが、次にクルマを駐めた有村溶岩展望所ではこんな光景が

有村溶岩展望所駐車場一面が火山灰に覆われていたのです

間近に見ると火山灰は予想以上に細かく、こりゃ厄介なシロモノです。

戸や窓を閉めていても家の中に入ってくるでしょうし、それ以上に住民の方々健康への影響が気になります

う~む…と唸りながら展望所から桜島展望しました。

おぉ~、近い
近いのもさることながら、私にとっては、噴煙が湧き上がる動きが見えたのが何とも新鮮で、これぞ「桜島のライヴだと思いました。
スチル写真を見ているわけではないのですから動いて当たり前 なんですが、「あぁ、動いてる感動してしまった事実は動かせません

それはともかく、このスポットにあった説明板が、ものの見事に火山灰にまみれていました。

この説明を読むと、

ゴツゴツとした溶岩原は、火山らしい景色ですよね。こんな場所に植物は育つの? と思うかもしれませんんが、彼らはたくましく生きています。あなたの足元は大正溶岩(1914年)。日なたが多いので、クロマツやススキなどの日光を好む草木が目立ちます。小高い丘は昭和溶岩(1946年)。ここより緑の量が少ないのは、新しい溶岩だからです。その先は深い緑。古い溶岩の上には長い時間をかけて森が戻っています。あれ、山のさらに上の方には緑がありませんね。火山ガスが出る火口のまわりには、植物は育ちづらいのです。流れた溶岩の年代と、火口からの距離によって、植物たちは生きてゆける環境を見つけます。桜島では、植物も火山とともに暮らしています。

だそうです。

なるほどねぇ~、グラデーションには、そんな理由があるんですなぁ

有村溶岩展望所にはレストハウスがありまして、その中では桜島に関する資料・説明充実していまして、特に参考になったのは、こちらのマップでした。

桜島を多う溶岩噴火の年代ごとに色分けされていまして、大正溶岩(1914年)ピンク昭和溶岩(1946年)で示されています(烏島展望所有村溶岩展望所の場所は私が追加したもの)。
年代ごとの溶岩原3Dで再現したパーツを組み合わせた「桜島立体パズル」なんてのがあったら楽しいかも

いやいや、地元の人たちとそのご先祖さまたちにとっては、「楽しいかも」なんて言っていられない過酷な歴史ですよなぁ

不謹慎だったと、ちょっと反省 

つづき:2017/06/18 6年ぶりの鹿児島旅行記 #2-4

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