新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

引きこもり生活を継続中

2020-04-29 16:16:58 | 日記・エッセイ・コラム

世の中、緊急事態宣言の下、圧倒的多数の人たちが外出を自粛している一方で、当然ながら辛抱できなくなる人もいるわけで、営業自粛要請に応じないパチンコ屋に出かけてしまうパチンカーが話題になったりしています。

いつぞやのTV報道で、パチンコ屋の店頭でインタビューを受けたオヤジが、

店を閉めて欲しい。やってると来てしまうから。

と答えていて、パチンコ依存の根性の入り方に驚いたものでした。
また、産経のWebに載っていたパチンカー曰く、

無責任と批判されても構わないが、息が詰まるような毎日の中で楽しみを奪われるのは心外だ (男性会社員・51才)
新台が入ったと聞いて打ちに来た。近所のパチンコ店は休業していて、アルバイトもなく、なので他にすることがない (男性フリーター・25才)

だそうです。
はぁ~~

一方の私はといいますと、最後に電車に乗ったのは、別邸から帰省Uターンした3月27日でございまして、以降、ほとんど自宅周辺から出ていません
クルマビールの買い出し「MISIA星空のライヴ Across The Universe」チケット代入金に出かけたときに、戸田市かすったかな? くらいのもの。
しかも、外出するのも、2~3日に1回のペースで近所のスーパーに行き、そのついでに、昼食を摂る程度です。

つまり、1カ月以上にわたってほとんど自宅内で過ごしているのですが、それで退屈しているかというと、全然そんなことはありません

「近況報告:自粛生活でもブログを更新できなかったわけ」で書いたように、ブログを書くのも後回しにするほどやることがたくさんありまして、退屈する余裕もない状況が続いています。

ここ数日は、できそこないの本棚返品するや、すぐに発注した「高級本棚」の受け入れに向けて寝室の片付け&掃除没頭していました。

まずは、本棚を設置するスペースの確保。

本棚代わりのボックスから一次避難させ、また、寝室のあちこち散らばったモノ分別して、たまったホコリを払い、カーペットに掃除機をかけて、、、と、「JIN-仁- レジェンド」に気を取られながらも、土日の2日間で、どうにか本棚を設置するスペースを確保しました。

この過程で出たゴミの量たるや

燃やせるゴミだけでこんな具合で、

この他、もう着ることのなさそうな古いスーツよれよれのネクタイその他古着類、どうして取っておいたんだ と思うようなカタログやパンフレットや大小さまざまな段ボールなど古紙類、もう二度と使うことのあるはずもないPC周辺機器とか、たまりまくっていたクリーニング店の金属ハンガー などの金属類と、まぁ出るは出るは…

このうち、燃やせるゴミは、27日(月)に回収していただきまして、その他の古着、古紙、金属類は、今週の金曜日回収していただく予定にしております。

こうして歓迎の準備を整えた「高級本棚」は、予定どおり、27日(月)の昼下がりに到着し、予定の場所に据え付けていただきました。

そして、さっそく、書庫部屋リビング折コンに散らばっていた美術書を収納いたしました。

展覧会の図録や美術書は、一冊一冊が重量級なのですが、この本棚の棚板は見るからに頑丈かつそれ自体が重量級で、さすが でございます。

というような状況で、これからじわじわと、リビングに2書庫部屋に3本ある既存の本棚と、寝室に新調した1本の本棚の間で「トランスフォーメーション」していく予定にしていますし、まだカオス和室リビングの片付けが手付かずですので、やることはまだまだたっぷりあります。

私の部屋の片付けが終わるのと、新型コロナウイルス沈静化と、どちらが先になるんでしょ?

つづきのようなもの:2020/05/18 部屋の片付けは匍匐前進中 

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思いつきの岐阜ドライブ旅行 #3-5

2020-04-24 18:53:36 | 旅行記

しばらく間が空きましたが、「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #3-4」のつづきです。

駿府城東御門につづいて、そのお隣に立つ巽櫓の内部を拝見しました。

巽櫓(たつみやぐら)は、その名(巽=辰巳)のとおり、二ノ丸の南東隅にある櫓で、現在ある建物は、平成元(1989)年に復元されたのだとか。

駿府城公園内には、この巽櫓・東御門のほか、坤櫓(ひつじさるやぐら)が復元されています。

「坤(ひつじさる)」は、私の大好き艮(丑寅:北東)乾(戌亥:北西)に比べて、あまり聞かないことばですが、坤=未申=南西を示しています。

「坤」は、方角を示す文字としては知名度が低いと思いますが、「乾」ペアを組んだ「乾坤一擲(けんこんいってき)という熟語はかなり有名だと思います。

「乾坤一擲の大勝負とかね…。

でも、「乾坤」って何?

どうやら、「乾=天」「坤=地」という意味らしいのですが、方角では、乾(北西) vs 坤(南西) では相対するイメージが沸きません

調べると、「乾=天」「坤=地」は、四書五経の一つ「易経」「八卦」からやって来たものだそうで、「乾:☰」「坤:☷」と、まさにと陰の関係にあるんですな。

なるほど~ 判ったような判らないような…

   

激しく話が逸れてしまいました

話を駿府城巽櫓に戻しまして、

巽櫓の中に入りますと、、、

書道展が開催されていました。

みかけ、普通のお座敷っぽいのですが、太さが尋常ではありません
そして、ぜんぜん普通じゃないのは、天井が張られていないこと

小屋組を見物できるようになっていました。

でも、しっかりと天井板が張られた一室もありました。
それが、こちら

「竹千代手習いの間(復元)」だそうで、説明板によりますと、

この部屋は、家康公(幼名・竹千代)の勉強部屋です。
家康公は、天文18年(1549年)から12年間、今川義元の人質として駿府で生活していました。8才から19才の時です。
家康公は人質の間、この部屋で今川家軍師の臨済寺住職雪斎和尚から学問を学んだと伝えられています。現在、特別に臨済寺様より許可を得て、「手習いの間」を原寸で、ここに復元しています。

とな。

NHK「麒麟がくる」とほぼ同じタイミングのお話ですな

「人質」と聞くと、座敷牢に閉じ込められているようなイメージを持ちますが、今川義元は、三河・松平家将来の当主たる竹千代を、今川シンパの武将とすることも考えていたのか、しっかりと教育も施していたのですねぇ

と、この「手習いの間(復元)」の入口の長押の上にあったのは、

「人の一生は重荷を負ひて遠き道をゆくが如し」で始まる有名な家康の遺訓です。
そして、最後に「慶喜書」とあります。
江戸幕府初代将軍・家康公の遺訓を、最後の将軍・慶喜公が書いているというこの組み合わせ

そういえば、徳川慶喜は、明治維新後、駿府(静岡)に住んでいたんでしたっけ。
でも、どうして駿府に住んだんだろ? と思ったら、Wikipediaによると、

(慶応4年:1868年) 2月には勝海舟に事態収拾を一任して自らは上野の寛永寺大慈院において謹慎する。また、徳川宗家の家督は養子である田安亀之助(後の徳川家達)に譲ることになった。
江戸総攻撃の前に行なわれた勝と新政府軍参謀西郷隆盛との交渉により、江戸城は4月11日に新政府軍に明け渡された。彰義隊や旧幕臣の暴発を恐れた慶喜は4月11日午前3時に寛永寺大慈院を出て水戸へ向かった水戸では弘道館の至善堂にて引き続き謹慎した後、7月に徳川家が駿府に移封されると、慶喜も駿河の宝台院に移って謹慎した。これにより、徳川家による政権は幕を閉じた。

だそうです。

そういえば、東京の日本橋橋銘徳川慶喜さんの筆によるものでしたっけ

以上を以て巽櫓内部の見学を終えた私は、一旦、東御門から東御門橋を渡って外に出て、城外(三ノ丸跡)から東御門と巽櫓を見物しました。

13:00を過ぎ、そろそろお腹が空いてきましたが、もうちょい駿府城公園を見物しようと、再び二ノ丸跡に戻ったのでありました。

【追記】この記事をアップした2日後(4月26日)に放送されたNHK「麒麟がくる」、本編後の「紀行」静岡市で、太原雪斎とか臨済寺とか「竹千代手習いの間(復元)」が紹介されて、あまりのタイミングの良さに驚きました。(2020/04/27 21:46)
https://www.nhk.or.jp/kirin/journey/15.html 

つづき:2020/05/01 思いつきの岐阜ドライブ旅行 #3-6 

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近況報告:自粛生活でもブログを更新できなかったわけ(後編)

2020-04-23 14:35:59 | 日記・エッセイ・コラム

「近況報告:自粛生活でもブログを更新できなかったわけ(前編)」のつづきです。

4月7日の記事「本宅の片付けを決行中」で書いた「片付け」は、9日以降、パタッと止まっていました
この中断は、物理的&精神的な理由によるものでして、これが昨日まで尾を引いて、ブログ書きにまで影響を及ぼしていました。

というのは、Amazonマーケットプレイスに注文して届いた本棚とんでもないシロモノで、その処理に私の限られた思考能力が使われてしまっていたのです。
結局、2週間弱を要して、昨日、全面解決に至りまして、備忘録的に、経緯を書いておこうと思います。

   

4月6日(月)発注し、同日中に支払いを済ませると、翌7日(火)AMに出品業者から出荷手配中とのメールが届き、さらにその翌日の8日(水)深夜にAmazonから「発送のお知らせ」が届きました。

それによると、「お届け予定日:水曜日, 04/22」だそうで、「のんびりと受け入れ準備を進めよう…と考えていたのですが、、、、、なんと、「発送のお知らせ」が届いた当日、9日(木)に届きました

ドタバタと、寝室に「幅90×奥行29×高さ180cm」の本棚を組み立てるためのスペースを空け巨大かつ重い(30kg弱)梱包を廊下に横たえ、開梱
そして、組立説明書を一読して、組立作業に取り掛かりました。

ところが、最初に手に取った部品が、、、、、、

壊れていました

ダボ穴に、サイズが合わないダボを叩き込んだら割れた といった風情です。

この部品が、見えない場所用のモノで、構造(強度)に影響のないものなら、木工用ボンドで補修して使う手もあるかと思いますが、この部品は、本棚の底を構成する部品で、しかも、正面に向けて取り付けるモノです。
見た目は悪いし、そもそも、本棚が本来の強度を保てる保証はありません

そもそも、一目NGだと判る部品を、梱包内の一番上に乗せて出荷するメーカーってどんな品質管理をしているんだ
NG品を作ってしまった作業員は、なぜNG品を後工程に流した?
NG品を梱包した作業員は、なぜNG品に気づかなかった?
なぜ出荷前検査をパスした?
もちろん、この商品は日本製ではなく、「Made in Chinaなのですが、これを輸入して国内向けに出荷した某大手メーカーは、なぜ検品しない?
それほど、中国の生産工場の品質管理体制は信用できるのか?

と、疑問やら怒りがふつふつと湧いてきました。

さっそく出品業者からの「出荷手配中メール」返信する形で、NG品が梱包されていたこと、当該部品の交換を希望している旨、メールしました。

   

メールを送ったあと、改めて、この本棚のレビューを読んでみたところ、全体評価は「★★★★☆」良好なものの、「★☆☆☆☆」のレビューを見ると、私と同様に壊れた部品が入っていたとか、大型本を入れると棚板と側板が歪むとか、カビだらけだったとか、虫がうようよしていたなんてのも…

その後、1日経ち、土日を挟んで、稼働2日経っても、出品業者からの返信はありませんでした

と、「出荷手配中メール」をよく読むと、

冒頭に「こちらのメールは送信専用となります」とあるではありませんか
あれまぁ~ 私としたことが…
でも、「問い合わせフォーム」って何だ?
Amazon「出品者プロフィール」を見ても、「問い合わせフォーム」とやらはないし、メアドもない

ここに至って、Amazonを通じて返品申請することにして、「出品履歴」から入力 (4月13日(月))

ところが、1日経っても2日経っても、Amazonから連絡がない

そこで、出品業者に電話してみることにして、4月15日(水)の午後に電話してみたのですが、「電話が大変混み合っておりますので、お掛け直しください」のメッセージが返ってきました。
何度電話しても同じで、さっぱり通じません
そしてリダイアルを繰り返すうちに、17:00を過ぎると、「弊社の営業時間は、、、」営業終了のアナウンスに変わってしまいました

4月16日(木)も、出品業者への電話は通じずヤキモキ…
そして、Amazon「返品申請」をごちょごちょしていると、3日前にしたつもりだった「返品申請」完了していなかったことが判明
あれまぁ~ 私としたことが… と、今度はフォームに最後まで入力すると、その数分後Amazonからメールが届きました。

これによると、「2営業日以内」、つまり4月20日(月)夕方までに、出品業者から返事があるはず

   

ところが、「返品申請」から96時間「2営業日」を過ぎても、出品業者からの返信はありませんでした
そこで、4月20日(月)の夜、「Amazonマーケットプレイス保証による返金」を申請したところ、「返金リクエストは、調査に最大1週間かかります」とあるにもかかわらず、数分後に、Amazonから「保証申請結果」が届き、

お客様のご注文***-******-*******について保証申請が認められ、返金手続きを行いましたので、お知らせいたします。このご注文については、ご購入時のお支払い方法にて¥**,***の返金をお受け取りいただけます。

とな
なぁ~んという対応の早さ
Amazon見直しました

   

こうして、代金回収できたのですが、巨大かつ重い「不良品」(=粗大ゴミ) をいかに返品するか?次のタスクとして残りました。

出品業者着払いで送りつけようか とも思ったのですが、この出品業者の住所がおかしい…
Googleマップ & ストリートビューでこの住所を覗くと、輸送業者さんターミナルではありませんか

ここに、一方的に着払いで送ったとしても、受け取り拒否されて「粗大ゴミ」が戻って来たら目も当てられません

そこで、あの通じない「電話」を試してみることにしました。
前回は、お昼休み避けて電話したのですが、今回ばかりは無慈悲「お昼時」に電話をかけました(4月21日昼)
すると、何度か「電話が大変混み合っておりますので、お掛け直しください」撃退されたのち、電話が通じました
ただし、自動音声用件購入サイト(Amazonとか楽天とか…)を質問されたあとは、「大変混み合っております。しばらくお待ちください」のアナウンスが…
ここで、延々と待たされました
3分経ち、5分経ち、8分経ち、10分経っても、「しばらくお待ちください」のアナウンスが延々と繰り返されます

でも、このチャンスを逃したらいつまた電話が通じるか判りませんし、フリーダイヤルですし、こちらには時間はいくらでもありますし、電話の受話器はスピーカーホンにして傍らに立ててありますので、待っている間に別の作業をすることができます。

ということで、ヤキモキすることなく平然15分ほど待ったところで、ようやくオペレーターさんと話すことができました

そして、返品したいこと、既にAmazonから返金済みであること、そして注文番号を伝えると、すんなりと話が通じ、出品業者側が引き取りの手配をしてくれることになりました

そして、昨日(4月22日(水))の昼過ぎ、

約束どおり、宅配屋さんがやって来て、本棚を持っていってくれました
宅配屋さんは、「ご迷惑をお掛けしました」とおっしゃっていましたが悪いのは宅配屋さんじゃないのにねぇ

こうして、「粗大ゴミ」は姿を消し、ようやく平安が戻って来たのでありました。

今回のネットショッピングを通じて、かの某大手メーカーの商品は、国産・輸入を通じて信用できないことを痛感しました。

なにせ、「日本の品質基準に基づいた徹底した品質管理・技術指導をおこなっています」だそうですから、こんな「品質基準」国産品だって、たかが知れたものです (最近、このメーカーは、マスクの生産を国内で始めたそうですけど…)

もうひとつの今回の教訓は、レビューは、低評価のものから読んだ方が良いということ。
出品者が複数のアカウントを取得して盛り盛りのレビューを書くなんてことも聞きますし…

   

本棚を返品後、さっそく代わりの本棚ネットショッピングしました。
今度は、家具屋さんに、「粗大ゴミ」と化した本棚のお値段の約3倍する国産品を発注。
美術展の図録美術書など、重量のある本を並べるつもりですので、頑丈そうな本棚にしました。

ブツは4月27日(月)に配達予定です。

ということで、時間と精神の安寧をムダに費やした日々でございました。

つづきのようなもの:2020/04/29 引きこもり生活を継続中 

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近況報告:自粛生活でもブログを更新できなかったわけ(前編)

2020-04-22 20:44:39 | MISIA/日記・エッセイ・コラム

先週金曜日(記事はこちら)を最後に、4日ほどブログを更新しておりませんでした。
もちろん、新型コロナウイルスに感染してしまったわけではなく、「外出自粛」を続けておりました。
近所への買物を除けば、ほぼ在宅しているのに、ブログを更新できなかったのは、時間的にも気分的にもその状況になかった、というのが正直なところです。

もっと具体的に書けば、ブログが途切れた4月18日(土)は、昼下がりからまで、MISIA関連ずっぽり 嵌まっておりました。

この日から3週にわたって計6回放送されることになった「JIN -仁- レジェンド」を見始めたら、初回放送をしっかり視て、そして、全話BD(ブルーレイディスク)に落として、それを何度も視ているというのに、目が離せません

「JIN -仁-」初回放送のとき(10年半前…)には、150年前コロリ禍「大変だったんだなぁ~」程度にしか思えなかったのが、新型コロナウイルス猛威を振るっている今視ると、治療法が判らず、いつ誰が感染するか判らない恐怖は、完全に現代と重なっていて、医療関係者奮闘や、行政(幕府)の関わり、一般大衆の行動など、10年半の時を経て、現実になった という感じでした
このタイミングで「JIN -仁- レジェンド」を放送したTBS偉い と誉めます。

「JIN -仁- レジェンド」第1回を見終えた後は、番組視聴中につぶやいた私のTweetへの反応に驚愕

2011年10月THE TOUR OF MISIA JAPAN SOUL QUEST大阪公演に遠征したとき(記事はこちら)大阪歴史博物館で拝見した緒方洪庵「虎狼痢治準(ころりちじゅん)」の現物についての私のTweetが、私史上最大「いいね」ラッシュに見舞われていたのです 

4月18日当日だけで約800「いいねをいただき、翌日仁先生と洪庵先生の最後のOne on One (シリーズ中、最高の場面だと思っています) があった第2回を経ると、「1000いいね」一歩手前までに至りました。

さらに、ニッポン放送「いま、音楽にできること」リモート出演したMISIAの部分を聴いて、

「いま、音楽にできること」on ニッポン放送

そして、MISIAのレギュラー番組、TBSラジオ「LOVE RAINBOW TRAIN」を聴いて、

「LOVE RAINBOW TRAIN」on TBSラジオ

と、これじゃ、ブログを書くどころではありませんでしょ

   

4月19日(日)も、「JIN -仁- レジェンド」第2に、前日以上大感動で、これまたブログどころではない ところに陥ってしまいました。

実は、TVやラジオ以外にも、私がブログに立ち向かう 気を削ぐ 状況がありまして、それは「後編」で書きます。

【追記】書き漏らしました。
2009年11月に書いた「労咳とは老害ではありませぬ」は、以前からアクセスの多い記事だったのですが、先週末以降、この記事へのアクセスが特に増えています。「JIN -仁-」効果でしょうな、K.I.T (2020/04/22 21:04追記、2020/04/23 10:05修正) 

つづき:2020/04/23 近況報告:自粛生活でもブログを更新できなかったわけ(後編) 

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思いつきの岐阜ドライブ旅行 #3-4

2020-04-17 18:42:17 | 旅行記

「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #3-3」のつづきです。

駿府城東御門渡櫓の中に、が展示されていました。

説明板によりますと、

この鯱は、慶長12(1607)年に大御所徳川家康公が築いた、駿府城二ノ丸東御門の大棟にのっていた雄鯱と推定されます。
瓦製の鯱が多いなかで当時としては貴重な青銅でできています。昭和44年、二ノ丸堀整備工事の際、東御門前の堀底から大量の瓦や建築材料と共に発見されました。
 鯱の高さ 約1.4m 重さ 約500kg

だそうな。
どうしてこの「東御門前の堀底」「大量の瓦や建築材料と共に」沈んでいたのでしょうか?
明治初年の廃却払い下げの際に、使い途が無いとして堀に捨てられた?
はたまた、甚大な被害が出たという宝暦地震(1707年)か安政地震(1854年)で、堀に落下した?

その辺の説明はありませんでしたが、この鯱が青銅(その他との合金)製だということからすれば、現在の相場地金としても20万円くらいの価値があるわけで、地震で落っこちたと考えるのが自然でしょう

落っこちた鯱といえば、江戸城大手門が有名です。

江戸城大手門枡形の中に置かれているこのは、

1945年(昭和20年)4月、戦災で焼失した旧大手門渡櫓の屋根に飾られていた鯱です。頭部に「明暦三丁酉」と刻んであることから、明暦の大火(1657年)で消失した後、再建された際に製作されたものと推定されます。

だそうで、大きさといい、といい、駿府城二ノ丸東御門の鯱とよく似ています。
似ているといえば、名古屋城で展示されているこちらの鯱も似ています。
(ちょっとピンボケ、失礼)

尾びれが、前3つ後ろ4つに枝分かれしているところも同じ。
それもそのはず、このは、

江戸幕府御鋳物師渡辺正俊・正次親子が万治3年(1660)青銅で鋳造した鯱。江戸城の建物に飾られていたが、明治43年(1910)、旧江戸城の蓮池御門が名古屋城の正門として移築されたとき、同時に運ばれ、隅櫓の鯱として用いられた。

だとか。
江戸城大手門の鯱と同様、明暦の大火後に造られたものなんですな。

ちなみに、名古屋城天守の「金鯱(下の写真は天守の中に展示されているレプリカ)は、ヒレトゲトゲ派手で、ピンピン(?)しています。

そして、その(ホンモノの)造りも、木造の土台に金の薄板(金箔ではない)を張り付けた(打ちつけた)もので、江戸城大坂城天守の鯱もこうした造りだったようです。

   

駿府城と城下町のジオラマを見ると、駿府城巨大さがよく判ります。

それが、ガイドブックによれば、

城主が変わると、駿府に住む家臣も変わった。家康没後、家康の家臣は短期間のうちに江戸に引き揚げていった。ちなみに、家臣の引き揚げた地は駿河台(東京都千代田区神田)と呼ばれ、現在も地名として残っている。その後城主が居なくなったことで、駿府城下の武家屋敷の多くが空き屋敷になったという。
(家康⇒頼宣につづく駿府城主の)忠長改易の年(1632年)の12月松平豊前守勝政が率いる大番組(幕府の軍のひとつ)が駿府に入城し、城内の警備を行う在番と、城主の代わりに城の警備の最高責任者となる城代を兼ねた。これ以降、城主のいない駿府城は、幕府の直轄府として城代が置かれ、幕末まで江戸から赴任する役人が管理する番城となった。

だそうで、城下町経済のエンジン(消費するだけの存在)たる武士が少なくなって江戸時代の駿府は、どんな風に経済が回っていたのだろうか? と、余計なお世話ながら 心配 になってしまいます。

江戸時代初期以降の駿府(府中)は、城下町というよりは、宿場町に近かったのかもしれませんな…

というところで、巽櫓のお話は「#3-5」で。

つづき:2020/04/24 思いつきの岐阜ドライブ旅行 #3-5 

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思いつきの岐阜ドライブ旅行 #3-3

2020-04-15 15:05:18 | 旅行記

「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #3-2」のつづきです。

駿府城東御門と巽櫓内部の話の前に、時間は前後しますが、外観から始めます。

東御門は、典型的な枡形門
二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋を渡り、高麗門をくぐると、

枡形の中に入ります。

二ノ丸に入るには、右手にある櫓櫓をくぐらなければならないのですが、正面と左手から渡櫓が取り囲んで睨みをきかせます。
敵が枡形に侵入すると、十字砲火を浴びせるわけですな。

枡形を渡櫓から見下ろすと、高麗門からの入城者正面から、

また、櫓門をくぐろうとする入城者背後から、

それぞれ攻撃を加えることができるようになっています。

ふり返ってみれば、枡形門はあちこちの城で見たけれど(金沢城石川門ド迫力っつうか圧迫感が強かった…)渡櫓の中から枡形を見下ろす経験は、めったにない気がします。
下の写真は、江戸城北の丸清水門です。

   

さて、東御門の中には、いろいろな史料やジオラマが展示されていて、楽しかった
まずは、駿府城のジオラマ。こちらは、「#3-2」で書いたように、昭和中期になぜか塞がれてしまった二ノ丸御門側から天守台方向(北方向)を見た様子。

そして、今いる、東御門&巽櫓から西方向を見た様子。

それにしても、よくぞこれだけの規模の本丸の石垣破壊して本丸堀埋めたものだと思います。
どれだけ労力お金を費やして真っ平ら にしたんだろ
なんとももったいないことを…

そして、そして、大天守小天守の模型

天守台の縁に隅櫓と渡櫓を巡らして、その内側巨大天守があるという構造
こんなの見たことがありません

ガイドブック「見て 歩いて なるほど! 『駿府城』まるわかり」によれば、

駿府城天守工事は、最高責任者である大工頭を中井大和守正清作事奉行小堀政一(遠州)が担当しており、駿府城築城の直後から着工される名古屋城天守同じ担当であることからも、名古屋城と天守の構造が近かったことが想像される。
駿府城天守について、「当代記」、「慶長日記」、「増補慶長日記」、「武徳編年集成」、「御天守御注文」などに記録がある。これらすべてに共通して書かれている内容から駿府城天守のおおよその構造は浮かび上がってくる。その一方で、各階の大きさなどに違いがあり、高さに関する記述も無いなど、記録に不受運な点も多い。また、駿府城の天守の外観を描いた絵図もいくつか知られているが、描かれた天守の形は絵図によって異なっており、実際はどのような形であったのか特定することが難しい

だそうです。

また、

慶長12(1607)年12月、城内からの出火が燃え広がり、本丸のほとんどが焼失した。建築中だっっと思われる天守もこの時焼失している。その後すぐ、復旧工事を開始している。慶長13(1608)年3月に本丸御殿が完成し、同年8月には天守上棟が行われた。
しかし、城主が不在になり警備に当たる少数の武士がいるだけとなった駿府城は、荒れ果てる一方だったという。寛永12(1635)年、城下(茶町)で火災が燃え広がって駿府城にも引火し、天守、御殿、櫓などが焼失した。東照大権現(家康)が住んだ城という威光もあって、幕府はすぐに修復に取り掛かり、寛永15(1638)年に御殿、櫓、城門等が再建されたが、天守は再建されなかった

とな。
そういえば江戸城の天守は、家康の入府以降、「慶長度(1607年)、元和度(1623年)、寛永度(1638年)と3度築かれて(Wikipedia)います。そして、寛永の天守明暦の大火(1657年)で焼失して以降は再建されずに現在に至っています。
こうしてみると、駿府城2つの天守の存在期間0年・27年江戸城の3つの天守の存在期間16年・15年・19年と、なんとも短い
こうして考えると、慶長17(1612)年の竣工から空襲(1945年)で焼失するまでの330年間にわたってその姿を保った名古屋城の天守は、よほど運がよかったのでしょうねぇ…

駿府城は、前記の2度の火災だけでなく、宝永地震(1707年)で石垣や建物の3分の1が倒壊し、安政地震(1854年)ほとんどの建物や天守台を含めた石垣が倒壊するなど、大災害にも見舞われたのだとか。
最後の駿府城主だった徳川忠長改易された1632年以降、駿府城主おかれず、江戸から派遣された幕府の役人が駿府城を管理していたのだそうで、また、安政期ともなれば、幕府は内憂外患多忙きわまりなく、ただの空き城だった駿府城の本格的な復旧工事には手が回らなかったことが想像に難くありません
そして、それから10年ちょっと明治維新ですから、明治初年の駿府城は、かなりの荒廃ぶりだったのでしょうなぁ

そう考えると、駿府城跡を管理することになった静岡市が、駿府城の再興ではなく、用途変更(陸軍への献納)するべく、更地化を選択したのも、まっとうな判断だったのかもしれません。

というところで「#3-4」につづきます。

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思いつきの岐阜ドライブ旅行 #3-2

2020-04-14 16:02:58 | 旅行記

「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #3-1」のつづきです。

駿府城といえば、「徳川家康が隠居していたお城で、ドデカい天守があったらしい」くらいしか思いつかない私が、駿府城公園に到着しました。

ほぼ正方形の駿府城公園を囲むのが内堀で、その外側に立ち並ぶ官公庁や学校や王教施設などを囲むように外堀があるように見えますが、もと本丸&二の丸だった公園の内側には、かつてもう一つの堀があって、内側から順番に、本丸堀(内堀)二ノ丸堀(中堀)三ノ丸堀(外堀)と呼ぶらしい。

それはそうと、三河(岡崎)で生まれ、江戸に幕府を開いた家康が、その隠居の地に駿府を選んだのはどうしてなんだろ? と考えながら、二之丸橋を渡って、二ノ丸跡に入城しました。

上に載せた公園入口は、門の跡っぽく見えますが、昭和の中頃に造られたものらしくて、もともとの二ノ丸御門(二ノ丸大手門)は、この入口と公園の南東角にある坤櫓(下の写真)との中間点近くにあったそうです。

ガイドブックによると二ノ丸御門は、

門は昭和32年に埋められ、約70m東側に現在の駿府城公園の入口となる新たな出入口が設けられた。

のだそうで、どうしてわざわざ門を石で埋め入口を変えたんでしょ?

と、ここで説明板。

一部を抜粋しますと、

今から約650年前の室町時代、今川範国駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められていました。九代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永禄3年(1560) 今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568) 武田氏により駿府を追われました。
徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582) に追放した後、同13年(1585) には駿府城の築城を開始し、浜松城から移りました。しかし徳川家康は、天正18年(1590) 豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長10年(1605)に将軍職を息子秀忠に譲り、同12年(1607)には大御所として三たび駿府城に入りました。この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。

だそうです。
家康は、1549~1560年、1586~1590年、1607~1616年と、74年の生涯のうち24年間駿府住まいだったんですな。ちなみに、江戸を本拠地にしていたのは17年間、浜松は16年間で、家康にとって駿府は一番長く住んだ地だということになります。
現代でいえば、家康は、小学校入学から高校卒業までの時期に駿府に住んでいたわけで、そんなことも、NHK「歴史秘話ヒストリア」で紹介されていた「気候が温暖で、富士山もよく見える」だけでなく、駿府で隠居生活を送ろうと考えた理由の一つかもしれません。
もっとも、家康のことですから、まだ大大名だった豊臣氏に睨みを利かす(大坂の陣は1614-15年) 意味合いもあったのでしょう

駿府城公園には、石垣と堀の一部は江戸時代の面影を残しているものの、当時からの門や建物まったく無く

平成になってからは、江戸時代中頃の絵図や記録を基に、東御門や巽櫓、坤櫓などが再建され、往時の駿府城の雰囲気を感じることできるようになった。

だそうです。

櫓や門は明治時代に入って、取り壊されたそうなのですが、酷い話だと思うのは、明治29(1896)年の陸軍歩兵第34聯隊駐屯にあたって、天守台壊し、あろうことか、その石垣などで内堀埋めてしまったという「暴挙」
陸軍の要求(要請)だったのか、より広い平地が欲しいだろうと静岡市が忖度したのか判りませんが、それにしても無粋…

その天守台跡のことは後日書くとしまして、二ノ丸の南東角にある巽櫓へ…

と、小さな(のようなもの)石垣がありました。

これは、発掘された本丸堀とその石垣なのだとか。

説明板によると、

本丸堀は、駿府城の三重堀の一番内側の堀で本丸を取り囲んでいます。幅約23~30mで深さは江戸時代には約5mありました。石垣は荒割して石を積み上げ、隙間に小さな石を詰めていく「打ち込みはぎ」と呼ばれる積み方です。角の部分は「算木積み」という積み方で横長の石を互い違いに積んで崩れにくくしています。

だそうで、写真をもう一枚。

さて、券売所で共通券を購入して、まずは東御門と巽櫓の内部を見学

東御門櫓門2階から入っていきます。
なお、東御門を通って駿府城公園に入るのは無料です。

リーフレットを転記しますと、

東御門は、駿府城二ノ丸の東に位置する主要な出入口でした。この門は二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南及び西の多門櫓で構成される枡形門です。(中略)
東御門の前が安藤帯刀の屋敷であったことから「帯刀前御門」、また、台所奉行であった松下浄慶にちなんで「浄慶御門」とも呼ばれ、主に重臣たちの出入口として利用されました。
慶長年間に築かれた東御門は寛永12年(1635)に天守閣、本丸御殿、巽櫓など共に焼失し、寛永15年に再建されました。

だそうで、現在の建物は、東御門が1996年に、巽櫓は1989年に復元されたものだそうな。

ということで、東御門(渡櫓、多門櫓)巽櫓の中の見聞録は「#3-3」で。

つづき:2020/04/15 思いつきの岐阜ドライブ旅行 #3-3 

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思いつきの岐阜ドライブ旅行 #3-1

2020-04-13 16:05:23 | 旅行記

「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #2-7」のつづき、3月9~11日に決行したドライブ旅行の旅行記最終日(3月11日)編のスタートです。

   

前日と打って変わった好天の下、朝 9:00岐阜のホテルを出発して帰途につきました。

せっかく中部地方まで来て、どこにも寄らずに帰るのはもったいないので、今回は静岡市に立ち寄って、駿府城跡を見物することにしました。
私が静岡市を訪れたのは、友人の結婚式、業務出張、そして、去年の由比(記事はこちら)と、3度ありますが、静岡市のマチナカを観光したことはありませんで、この機会に、駿府城跡を観てやろう と考えた次第です。

岐阜から静岡市までのルートは、当日のダイジェストに書いたように、往路で使おうと思いながらも道を間違えて迂回することになってしまった「標準ルート」(下図の青い線)を採りました。

ところが、名神高速を快調に走っていると、情報板には「春日井IC⇒名古屋IC 工事渋滞」の表示が出ています。
そして、春日井ICを過ぎると予告どおり渋滞に嵌まり、小牧JCT~春日井IC片側3車線だったのが、1車線にまで絞られて、守山PA付近まで一列になってしずしずと進むことになってしまいました。

守山PAを通り過ぎて思ったのは、私が走っている上り線よりも、反対車線の下り線の渋滞の方がキツそうだということ。
そして、もしかすると、往路に道を間違えた私は、遠回りで、名古屋高速まで走って割高かもしれないけれど、結果オーライだったかもしれない…と思い始めました。

実は、NEXCO中日本は、迂回ルートを使っても通行料が割高にならないよう、料金調整をしてくれていまして、後日、ETC走行履歴を見ると、しっかりと「料金調整=割引」されておりました

   

豊田JCTから新東名に入ると、往路のときと同様にあちこちで工事が行われていて、愛知・静岡の県境辺りでちょっとした渋滞に嵌まりましたが、それでも、まぁ順調にクルマを走らせ、11:45頃新静岡IC一般道に降りました。

そして、15分ほどで、すんなりと駿府城公園に到着したのですが、、、、駿府城公園には公営の駐車場ない
公園を一周して探してもない

結局、県庁近くの時間貸し駐車場にクルマを駐め、いざ、駿府城址観光を開始

時刻は12:10で、昼食どきだったのですが、まさに平日のお昼休みの時間帯でしたので、昼食は後回しにして、駿府城公園に向かいました。

静岡県庁の本館は、帝冠様式で、それでも愛知県庁名古屋市役所ほどエグくなくて(こちらの記事をご参照方)、なかなかがあります

と、が無くて判りづらいのですが、半旗が掲揚されています

そう、この日は3月11日東日本大震災の発生からちょうど9年目の当日です。
「3.11」の当日「観光」している自分に後ろめたさを感じながら、歩を進める私でございました。

つづき:2020/04/14 思いつきの岐阜ドライブ旅行 #3-2 

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思いつきの岐阜ドライブ旅行 #2-7

2020-04-11 14:15:41 | 旅行記

部屋の片付け没頭したり、配達された本棚がとんでもない不良品だったり、いよいよ新型コロナウイルス(COVID-19)猛威を振るったりと、なかなかブログを書く気分になれなかったのですが、気分を奮い立たせて「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #2-6」のつづきを書きます。

比叡山延暦寺の参観を早々に終えた私は、ナビの目的地彦根城をセットして、山を下りました。

てっきり、もと来た道を引き返して大津SAから名神高速に乗るのかと思ったら、南滋賀ランプから西大津BP(R161)に乗って、自動車専用道ず~ん
ほとんどトンネル区間で眺め冴えなかったものの、こんなに立派な道路無料で走れて、あっという間に京都東ICから名神高速に乗れてしまうなんて、あれまぁ でした。
地方に行くと、こうした「ホントに無料で走れるのか?」的な自動車専用道があったりするものです

それにしても、私のクルマのナビは、どうして往路と復路とで違うルートを示したんだろ…

彦根ICで下りる直前、多賀SAに立ち寄りました。
トイレ休憩というのもあったけれど、この日の夕食用に弁当を買うのが主目的でした。
前夜の岐阜駅周辺の様子からして、外食は止めておこうと思った次第で、焼き鯖すしを購入しました。

そして、本線に戻ってちょっと走ると彦根IC

下道に下りて、彦根の街をしばし走り、護国神社前の丁字路へ曲がり、次の丁字路に曲がり、そのまた次の丁字路(城下町に丁字路は付きもの)直進すると、彦根城

ひやぁ~~ 盛り上がってきたぁ~

ところが、当日のダイジェストに書いたように、

そして、彦根城趾のかなりステキ石垣を縫って駐車場にたどり着くと、「新型コロナウイルス対策として、城内の建物はすべて閉鎖しています」の看板が…

一応、事前に彦根城のHPを見て、ひこにゃんのお出ましが中止になっていることは知っていましたけれど、まさか「城内の建物はすべて閉鎖」だとは

それでいて、観覧料金駐車料金通常どおりとは、どういうこと?

それよりも、HPのトップ画面までもが通常どおりなのには腹がたちました

彦根城博物館のHPには、デカデカと、

臨時休館のお知らせが掲載されているというのに

彦根城趾の運営主体である「公益社団法人 彦根観光協会 / 彦根市観光企画課」と、彦根城博物館の運営主体の「彦根市教育委員会」との姿勢の違いがクリアになっていますな

沢口から彦根城内に入り、城壁の間を縫ってクルマを走らせたときの高揚感はどこへやら、完全に気分が萎えた

そして、まだ15:00にもなっていない時刻でしたが、岐阜に戻ることにしました。

彦根から再び名神高速に乗って通行料を払うのも癪に障る(彦根で「途中下車」したことで、比叡山から直接岐阜まで戻るより通行料金が嵩むし…)ので、下道を通ることにしました。
彦根~岐阜50kmほどの距離ですから、私のかつてのクルマ通勤の片道よりも短い
おそらく16:30までには岐阜に着くだろう という見当で、クルマを走らせました。

相変わらず何もないに近い米原駅近くでJRの線路を越えると、R8R21と、中山道を東へ…。

東海道新幹線だと、が降っていない限り、ビュン通過してしまう関ヶ原古戦場を、タラタラとクルマで走るのは、なかなか乙なもの

残念ながら、関ケ原町歴史民俗資料館は去年12月からリニューアル工事に突入して休館中だし、岐阜関ケ原古戦場記念館今年7月中旬一般公開を目指して鋭意工事中とのことで、今回は、は素通りしましたが、いつかは、関ヶ原古戦場巡りをしてみたいものですなぁ

上に載せた「関ヶ原の戦い布陣図」は、愛読書の「超ワイド&パノラマ 鳥瞰イラストでよみがえる歴史の舞台」から拝借しました。
このムック、むちゃくちゃお薦めです

前回の給油からの走行距離が700kmを超えて、このまま無給油で自宅まで走るのは、100% 不可能 なので、垂井町給油
セルフ給油なので参考値ながら、15.1km/l と、上々の燃費です。

彦根から岐阜まで、渋滞フリーで走ることができ、ホテルには16:15頃に帰着しました。
この日の走行距離は302kmでございました。

コンビニで缶ビールチーカマを購入すると、ホテルの自室で、この日のダイジェストを書き始め、そうこうしているうちに日が暮れていったのでありました。

ということで、2日目編(滋賀編)完結でございます。

つづき:2020/04/13 思いつきの岐阜ドライブ旅行 #3-1 

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本宅の片付けを決行中

2020-04-07 14:31:07 | 日記・エッセイ・コラム

2週連続の外出自粛要請が出た先週末、私は、懸案だった部屋の片付けにようやく着手しました。

まず、金曜日と土曜日は、空き段ボールと本棚に入りきらない本・雑誌雑貨足の踏み場もほとんどない状態だった「物置 兼 書庫」整理と掃除没頭しました。

「没頭」といいながら、懐かしいモノが出てくると、その手がしばし止まるわけで…

それでも気を取り直して、捨てるモノを、雑誌・紙類、金属類、その他に分別しながら、そして、掃除機とハンディモップを駆使しつつ(もちろんマスクを着用)、部屋の「奥地」へと進んで行きました。
今や過去の遺物となってしまったPC関係のモノ、例えば、モデムカード(SCSIカード)ZIPドライブCDドライブなんかが出てきてどうして今まで捨てずにいたのだろうか? と疑問に思ったりして…

そして、とんでもない状況 になっていたカーテン洗濯
ときおり立ち入る程度にしか使っていなかった部屋だったもので、考えてみれば、自宅に入居して以来初めてのカーテンの洗濯

凄かった… いや、酷かった…

でも、考えてみればこの部屋、マンションの外廊下に面しているとは言え、中が見えない模様ガラスが使われているし、普段使っていないのですから、カーテンすら不要かも知れないな…(もともとレースのカーテンのみ)

こうして土曜日中に、「物置 兼 書庫」の片付けは、とりあえず終了しました。

でも、2本のスライド式本棚も、以前住んでいたアパートから持ってきたスチール本棚は完全にオーバーフロー (書棚をスライドできない)

2本のスライド本棚

寝室の文庫本用ラック満杯だし、

展覧会の図録など美術関連書一時避難用コンテナ満杯だし、

寝室の出窓にまで本浸食中だし…。

これから片付ける和室とリビングにも、まだまだ本・雑誌埋もれているはずで、どう考えても、これまた懸案になっていた本棚の購入も、1本追加するだけなく、スチール本棚(幅80cm×高155cm)より大型への買い換えも必要っぽい…

実は、たびたび蔵書を持ち帰っていた別邸(実家) (親に呆れられていた)似たような状況です
本宅と別邸を合わせれば、恐らく3,000冊はあるのではなかろうか…

懸案がたくさんあるなぁ

   

日曜日は、寝室整理&掃除を決行しました。

手つかずだった、元勤務先から持ち帰った身の回り品(文房具[これが多種多様&大量]やメモの類)を、「捨てる or とっておく」に分別して、あちこちに散らばっている読みかけの本発掘 し、そして、ハンディモップと掃除機で積もったホコリを取り除き、シメは、こちらもカーテンを洗濯

寝室の片付け&掃除は、「物置 兼 書庫」に比べてではありましたけど、最大の難関と思われる和室リビングが残っています。

非常事態宣言が発出されれば、行楽はもちろん、別邸への帰省自粛しなければならないわけで(大宮ナンバーのクルマふるさとの街を走ったら、白い目で見られそう…)引きこもりかたがた、和室とリビング片付け&掃除に勤しむことにします。

つづきのようなもの:2020/04/23
     近況報告:自粛生活でもブログを更新できなかったわけ(後編)
  

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