新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

お城と温泉の四国旅行記(その11)

2013-10-30 23:23:23 | 旅行記

「お城と温泉の四国旅行記」のシリーズに戻ります。


「その10」で書いたように、松山城の散策を終えた私はホテルにチェックインし、手を洗って、一服した後、道後温泉に向かいました。
ホテルに備え付けのタオルを持っていく手もありましたが、道後温泉本館では、サービスとして「貸浴衣、お茶、せんべい、貸タオル(石けん付)」がつく「霊の湯(2階席)」にするつもりでしたので、着替えカメラサイフくらいの軽い装備でホテルを出発


そうそう、道後温泉本館料金体系はこんな風になっています。


131030_1_01 ホントに「銭湯そのままに「風呂に入るだけ」「神の湯(階下)」400円から、「貸浴衣、お茶、坊ちゃん団子、貸タオル(石けん付)」がつく「霊の湯(個室)」1500円まで、4つのコース・料金があります。
ちなみに、東京都の銭湯の料金(中学生以上)は450円(かなり高い…)だそうですから、これに比べれば「神の湯(階下)」400円安い
伝統の道後温泉が400円で、水道水を湧かした東京の銭湯が450円…。う~む…ですな。


で、もって、旅行者たる私の場合、一人旅ゆえ「個室」まではいらないものの、ここはプチ贅沢に上から2番目の「霊の湯(2階席)」を選ぼうと思い立ちました(大げさ…)。
これなら、「霊(たま)の湯」「神の湯」の2種類のお風呂に入れるし、浴衣とタオルを貸してもらえるし、石けんリンスインシャンプーも使えるし、そして、皇室専用の湯殿「又新殿(ゆうしんでん)」を見学できるし、1200円リーズナブルな料金だろうと思った次第です。


   


さて、私が泊まったホテル最寄りの西堀端電停から道後温泉駅まで、市内電車でわずか15分
こんなに近くて良いのか? と思うほどの距離でした。


131030_1_02


なんともかわいらしい道後温泉駅の駅前には、なんともキッチュ名物(らしい)のカラクリ時計と、


131030_1_03 その筋向かいには、脚の曲線が印象的な石灯籠


131030_1_04 このタイプの石灯籠は、金刀比羅宮で見ましたなぁ
こちらの記事では、


「たこ足」というか、子ども向けのSFもどきに登場する「宇宙人」というか…。


と書きましたが、「四国風の石灯籠」ってヤツなのでしょうか?


131030_1_05 さてさて、道後温泉駅から、いかにも温泉場っつうか、いかにも観光地といった風情の土産物屋のならぶアーケード街をしばし歩くと、これまで写真で見るだけだった道後温泉本館が見えてきました。


ところが、、、、、


131030_1_06 なんじゃこりゃーの人混み


と、、、、中途半端ではありますが、きょうはここまで
いろいろ事情がありまして…


つづき:2013/11/01 お城と温泉の四国旅行記(その12)

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「お城と温泉の四国旅行記」シリーズの途中ですが…

2013-10-29 22:01:05 | タウンウオッチング

「お城と温泉の四国旅行記」シリーズの途中ですが、ここで臨時ニュースをお伝えします。


今夜7時25分頃、横浜市青葉区国道246号線を走行中だった私のクルマオドメーターが、「88888」を表示しました。


131029_1_01私のクルマ累積走行距離が、みごとに「8」が5つ並んだゾロ目、88,888kmに到達しました


「77,777km」を記録したのは今年6月末でしたから(当日の記事はこちら)、ちょうど4ヶ月11,111kmを走ったことになります。


この期間中、帰省ドライブ(往復約1,100km)を挟んでいますから、極めて順調な「4ヶ月で1万km」ペースと言えるでしょう。

次のメモリアルとなる「99,999km」「100,000km」には、来年2月末~3月初めに到達することになる見込みです。


それにしても、新車を買って3年間でわずか7,700kmしか走らなかったというのに、コンスタントに1年間で3万kmも走ることになるとは、感慨深いものがあります


今のお気に入りのクルマ、手放すまでに、いったい何km走ることになるのでしょうか?
もっとも、今現在、代替えの予定はございません


   


この記念すべき(?)瞬間が、きょうの帰宅時にやって来ることは事前に判っていましたので、きょうは愛用のデジカメを持って出勤しました。
ケータイのカメラでは不安でしたから。

案の上、「77,777km」のときとは違って、今回はクルマを停止させるシチュエーションではありませんでしたから、デジカメを持っていってのは正解でした


んでもって、こちら信号待ちの際に撮った前に停まったトラックの写真です。


131029_1_02


ナンバープレートの一部が見えません


以前も、ナンバープレートを読み取れないトラックを見かけたことがありました(こちらケータイで撮った写真)。


131029_1_03


こんな架装って、合法なんですか?

JABIA(日本自動車車体工業会)国交省に聞いてみたい気がします


つづき:2014/03/21 年度末渋滞が酷い上に・・・

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お城と温泉の四国旅行記(その10)

2013-10-28 21:46:57 | 旅行記

「お城と温泉の四国旅行記(その9)」のつづきは、松山城本丸の心臓部「本壇」から始めます。
「本壇」というのは(私は初めて聞きました)、Wikipediaには、

天守丸
本丸の内にある天守を持つ曲輪、連立式天守や、連結式天守等の形式によって隔てられてできた曲輪。本丸をこの名称で呼ぶ場合もある。城によっては、天守郭や天守曲輪また本壇ということもある

とあります。

131028_2_02松山城本壇は、右図のように、本丸の北端にあって、大天守・小天守・南隅櫓・北隅櫓を頂点とした四角形を中心として構成されています。

本壇の構造は下図のとおりで、

131028_2_01_2

本丸を北に進み、本壇に到達して一安心、と思いきや一ノ門二ノ門三ノ門、そして筋鉄門(すじがねもん)を抜けると、ようやく「天守広場」に到着します。

順を追って写真を載せましょう。

まず、一ノ門

131028_2_03

次に二ノ門

131028_2_04

更に三ノ門

131028_2_05

そして、くまモン…、

131028_2_06_2

じゃなくて…筋鉄門

131028_2_07

こうして、ようやく天守広場に到着

131028_2_08

そして、本壇の内部に侵入いたしました。

北隅櫓から見えた「輝く海」の、なんとキレイなこと

131028_2_09

大天守からは広島の山並みまで見えました。

131028_2_10

お察しのとおり、かなぁ~り満足して、帰路につきました。

と、本壇の北東隅にある天神櫓の説明板に目が吸い寄せられました。
曰く、

本壇東北の隅に位置し、艮櫓・艮門および小筒櫓を防衛する。またこの櫓には松平家の先祖である菅原道真(天満天神)の像を安置し、城の安全を祈ったので、この名がある。

とな、

私の事前準備乏しさが明白になってしまうのですが、この説明を読んで、私は松山城「艮櫓・艮門」があることを知りました

こうなったら、当然のようにをこの目で見なければ気が収まりません

そして、当日の記事「松山といえば…」で書いたように、「艮櫓・艮門」しげしげと見物したのでした。
ちょうど3年前の2009年11月末から2011年末まで、足かけ3年にわたって、NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」を放映しました(私は全編を予約録画して、ブルーレイディスクで保存しています)。
そのポスターにも使われた秋山兄弟・正岡子規の3ショットがこちら

131028_2_11_2

松山城大天守を背景にしたこのスチル写真は、「艮櫓・艮門」で撮られたらしいのですよ。
秋山真之本木雅弘が腰掛けている石垣は、下の写真の右側に写っている木の柵の辺りかと思います。

131028_2_12

事前にこの情報を知っていれば(知ったのは当日の夜でした)、同じアングルで大天守の写真を撮ったのに…
惜しいことをしました…

それでも、このときは至極満足して、再びリフトをつかって城山を下山し、チェックインするべくホテルへ向かったのでした。

   

131028_2_13松山城山ロープウェイ東雲口駅(正式名称です)に、「天守の大棟を飾っていたもの」という(しゃちほこ)が展示されていました。

131028_2_14_2をしげしげと眺めるのはこれが初めてだったのですが、もしかして「阿吽」?

説明板によれば、

この鯱は天守の大棟を飾っていたもので、口を開けた阿形(左)は南棟に、口を結んだ吽形(右)は北棟に置かれていた。
製作時期は、阿形は「大正乙丑四月作之」の刻印から1925年4月、吽形は不明だが、風化の度合いから阿形より更に遡る可能性がある。

だそうで、意外に新しい のは別として、「阿吽」のペアだったとは、初めて知りました
これは、私としては大きな収穫です

またもや至極満足した私でございました。

んで、ホテルで一休みした後、道後温泉に向かいます。

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お城と温泉の四国旅行記(その9)

2013-10-27 16:52:19 | 旅行記

「お城と温泉の四国旅行記(その8)」のつづきは、いよいよ松山城に登城します。

131028_1_01

東雲口から城山の8合目(長者ヶ平:ちょうじゃがなる・・・読めない)まで、ロープウェイとリフトで行き来できるようになっていて、料金は同額(片道260円、往復500円)。
所要時間リフトの約6分に対してロープウェイは約3分と、ロープウェイが速いのですが、いつでも乗れるリフトに対してロープウェイは10分間隔の運転ですから、タイミングによってはリフトの方が先着したりします。

131028_1_02 天気が良かったことから、私は迷わずリフトを選択しました。

やはり、気持ちよかったぁ~
大天守青空に映えています

131028_1_03長者ヶ平の茶屋で、私の旅行での定番ソフトクリームを食していると、なんとも人なつこい雀が、周りの人たちからコーンを分けてもらっていました。

131028_1_04

   

天守に向かって歩き始めると、ほどなくこの表示板が。

131028_1_05 「石垣を登らないでください」とありますが、そもそも、こんなに急峻石垣を登ろうとする人なんかいるのだろうか?

131028_1_06 ところで、松山城は、大天・小天守の上層こそ「白い城」ながら、その他の櫓(下の写真は太鼓櫓)は下見板張りの「黒い城」でした。131028_1_07

お城の常として、クネクネと曲がりながら本丸を目指すと、筒井門では、アルバイトのお兄さんたちが伊予弁で歓迎してくれていました。

131028_1_08

さらに、太鼓門をくぐると、

131028_1_09

いよいよ本丸です。
急に視界が広がって、気持ちいい

131028_1_10

そして、松山城マスコットキャラクター「よしあきくん」のオブジェの地点から有料区域、大天守・小天守・櫓が連なる「本壇」に入ります。

131028_1_11 ところで、櫓や門の説明を読むと、天守を含めて本丸周辺のほとんどの構築物が、天明4年(1784年)に落雷のために焼失し、現在建っているもののほとんどは焼失直後から幕末にかけて再建されたもののようです。
例外としては、上記の再建後、昭和8年(1933年)放火されて再々建された南隅櫓筋鉄門(すじがねもん:下の写真)とか(困った例外ですが…)、昭和20年(1945年)戦災で焼失した天神櫓馬具櫓などがあるようです。

131028_1_12それにしても、良い天気

下の写真は北隅櫓からの眺め

131028_1_13そして、こちら大天守からの道後温泉方面の眺めです。

131028_1_14

城山に登る前、麓のロープウェイのりばで松山城のリーフレットをいただきました。

こちらなんですが、

131028_1_15

その日の夜、復習のためにリーフレット開いてみると、、、あれ

131028_1_15「中文版(中国語版)」ではありませんか

ショックでした…

ということで、松山城本丸探訪記はまだつづきます。

つづき:2013/10/28 お城と温泉の四国旅行記(その10) 

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お城と温泉の四国旅行記(その8)

2013-10-27 09:19:40 | 旅行記

四国旅行2日目の松山に到着してからのことは、旅行当日の記事「松山といえば…」にザッと書いたのですが、「お城と温泉の四国旅行記(その7)」のつづきとして詳細版を残しておきます。

この日、松山に到着してからの行程は以下のとおりでした。

JR松山駅⇒徒歩ホテル⇒徒歩大街道⇒徒歩松山城ロープウエイ東雲口リフト長者ヶ平⇒徒歩松山城本丸⇒徒歩長者ヶ平(ちょうじゃがなる)⇒リフト⇒松山城ロープウエイ東雲口⇒徒歩大街道電停路面電車 西堀端電停⇒徒歩ホテル⇒徒歩西堀端電停路面電車道後温泉駅⇒徒歩道後温泉本館⇒徒歩道後温泉駅路面電車大街道電停⇒徒歩夕食⇒徒歩大街道電停路面電車西堀端電停⇒徒歩ホテル

というもの。
マッピングするとこんな具合。道後温泉は図の右側(東側)に外れています

131027_1_01

徒歩電車・リフトで示したのですが、往復同じルートの部分が多くて、ちょいと判りづらいかも…
ところで、松山初日、路面電車(市内電車) 4回乗りました。運賃は1回150円なんですが、バス/市内電車1日乗り放題「1Dayチケット」というのがあって、400円予定どおり4回電車に乗れば、200円お得になると、最初に路面電車に乗ったとき、この1Dayチケットを買おうとしたのですが、売り切れとな
それでもめげず、道後温泉に出撃する際、この1Dayチケットを購入、結局50円だけ得をしました

131027_1_02

   

初めて降り立つJR松山駅、駅前の空の広さに驚きました

131027_1_03

駅の裏がすぐに、というわけではなく、街が広がっているはずなのですが、背の高い建物皆無です。駅前には日通支店があるし(貨物輸送の主力が鉄道だった頃は、私の故郷も含めて、主要な駅前には日通の支店がつきものだったらしい)、こんな風景って、ある意味新鮮かも…。

131027_1_04

さて、いつものように、チェックイン前にホテルに荷物を預けた私、松山城本丸に登城する前に昼食を摂ろうと街へ向かいました。
松山の街のことはさっぱり判りませんが、どこかしら食事する場所はあるだろうと、南堀端電停前から南に曲がり、大きな通りを松山市駅方面へ向かいました。

ところで、この松山市駅、略称が「市駅」だそうで、バスの行き先表示板にもそう書かれています(駅前にある市内電車の駅が「松山市駅前駅」っつうのも面白い)。この駅名を見て連想したのが、埼玉にある和光市駅東武東上線東京メトロ)でした。以前から、どうして「和光駅」ではなく「和光市駅」なのだろうか疑問に感じています。松山の場合は、JR松山駅があるから(しかも、かなり場所が離れている)「松山市駅」なのでしょうが、和光市の場合、「和光駅」はありませんWIkipediaにもその辺の事情は書かれていないし…。

それはともかく、南堀端交差点から松山市駅に向かう電車通りは、歩道にアーケードのかかる立派な通りながら、人が歩いていない…

131027_1_05シャッターを閉めた店が多くて、寂れた感じです。
食事できそうな店もなくて、営業しているのは全国チェーンのカフェくらいのもの…

大丈夫かぁ~、松山ぁ~ と叫びたい気分でした。

と、歩道にこんな石碑が立っていました。

131027_1_06 傍らの説明板には、司馬遼太郎「坂の上の雲」から

この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、ともかくもわれわれは三人の人物のあとを追わねばならない。そのうちのひとりは、俳人になった。俳句、短歌といった日本のふるい短詩型に新風を入れてその中興の祖になった正岡子規である。

という一節を載せて、さらに、

近代文学史上に大きな足跡を残した正岡子規は、慶応3(1867)年9月17日、この地に生まれ、東京根岸で35年の生涯を閉じた。子規の本名は常規(つねのり)であるが、近親者は生涯を通じて「のぼさん」と呼んだ。
生家は、東西の道路の南側にオロ垣(竹の枯れ枝)を結い、垣の内にサンゴ樹の並んだ家であったという。

と書かれていました。
この短い説明の中に重大がことが書かれていて、翌日、それが明らかになるのですが、この時の私は、そんなことを知るよしもありませんでした。

それはそうと、昼食難民になりかけた私でしたが、なんとか営業中の焼肉屋さんをみつけ、ちょっと贅沢な昼食を摂ることができました(ちなみにその時の客は私一人。日曜日の13時だというのに…)。

お腹が満ちて元気を回復した私は、松山城ロープウェイのりばに向かって歩き始めました。

途中、見かけたこちらの建物、

131027_1_07

なんとなく「日銀っぽい…と思ったところ、案の上、日本銀行松山支店でした
日銀の支店には、サインポールや看板がない代わりに立派な車寄せがあって、そして、窓が異様に小さいという印象を持っていますが、日銀松山支店もその条件に叶っておりました。
ちなみに、JR北戸田駅の近くにある日銀戸田分館(おそらく日本で最も大量現金が保管されている場所)も、巨大な建物なのにとにかく窓が小さい

<iframe src="https://local.google.co.jp/?ie=UTF8&t=m&brcurrent=3,0x6018eafef0b8e19f:0xd81aa815fae78a0a,1&ll=35.827809,139.658117&spn=0.002349,0.004281&z=17&output=embed" width="400" height="270" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"> </iframe>
大きな地図で見る

   

「松山といえば…」「街から見上げる天守はなかなか壮観として載せた松山城本丸の遠景日銀松山支店前から撮ったものですが、その天守の構造を見るには、松山中央郵便局の前の郵便ポストが役立つかもしれませんゾ

131027_1_08

   

131027_1_09 松山中央郵便局から大きなアーケード街「大街道商店街」はすぐ。
ようやく賑わいに出会えました(アーケードに吊り下げられた巨大な日章旗から日本武道館を連想しました。「MISIA 星空のライヴVII -15th Celebration- Hoshizora Symphony Orchestra」東京公演楽しみ

大街道を北に進み、電車通りを横断すると、そこからロープウェイのりばまでは、ホントに観光地っぽい雰囲気で気分が高揚します
下の写真は、初代伊予藩主で、松山城の築城に着手した加藤嘉明像。

131027_1_10 加藤嘉明は、1602年(慶長7年)築城に着手したものの、完成前の1627年(寛永4年)に会津藩へ加増転封(20万石⇒40万石)されてしまい、入れ替わって会津から松山に減移封(60万石⇒24万石)された蒲生忠知が松山城を完成させたとのこと。25年間も築城に取り組んできたのに、その完成を見ることなく松山の地を離れた加藤嘉明はどんな気持ちだったのでしょうか? 「栄転」「事業完遂」の間で、複雑だったのではなかろうかと思います。

城山の麓にたどり着いたところで、「その8」はお終いです
相変わらずはかどりませんなぁ…

つづき:2013/10/27 お城と温泉の四国旅行記(その9)

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お城と温泉の四国旅行記(その7)

2013-10-26 11:12:59 | 旅行記

「お城と温泉の四国旅行記(その6)」のつづきは、四国旅行2日目の朝から始まります。

この朝のことは、当日の記事「艮(うしとら)にこだわる」で書きましたが、高松城の「艮櫓跡」探しと、「玉藻公園の北側、水城通り(R30)を挟んだ向かい側に見えた建物の正体を探ること(近くに横断歩道がなく、ぐるりと迂回するほど時間に余裕がなかった)」を決行しました。

この「建物」の正体を明らかにする前に、朝日に映える「高松城北之丸月見櫓(続櫓)、水手御門、渡櫓」の写真を載せておきましょう。

131026_1_01

さて、問題の「建物」、近くから観ると、なぁ~んかのぺぇ~としています。

131026_1_02 普通ならば、家紋や火除けの巴紋の類がついているはずの無装飾…

131026_1_03実はこの「建物」鐘楼でした。

説明板を転記しますと、

報時鐘

この鐘は松平家初代藩主頼重公(原文ママ)が承応2年(1653年)城下の人々に時を知らせるため大判30枚を加えて大阪で鋳させたもので最初外堀の西南稲田外江の邸(現在西内町四鉄病院)に近い外堀土手に鐘楼を設けた。
その後一番町(現在錦町1丁目)に移され明治33年(1900年)に四番丁小学校校庭に再建され昭和3年1月市庁舎のサイレン設置まで当市の名物として市民に懐かしい響きを伝えていた。
昭和8年6月四番丁小学校講堂改築に伴い松平家に返納され玉藻公園内に置かれていた。
当市は明治23年2月15日に市制を施行し昭和55年市政施行90周年を迎えこれを記念してここに建立したものです。

だそうです。
説明板が建てられた「昭和58年」(1983年)からの時の流れ「四鉄病院」があった場所は高松北警察署になっている)は仕方ないにしても、基本的に「鐘」の説明で、現在の鐘楼がオリジナルに基づいて再建されたものなのか、はたまた月見櫓のイメージで設計・建立されたものなのか、まったく説明がありません。
また、肝心の「報時鐘」の現物を観ることもできず、ちょっと当て外れでした…

でも、そのあと、艮櫓跡をしっかりと観られましたから、朝の散歩どっしり収穫があったと思っています。

131026_1_04

   

高松発9:40の特急いしづち9号に乗って松山へ出発

131026_1_05

窓から眺める瀬戸内海が、とにかくキレイ

131026_1_06

上の写真多度津付近で撮ったもので、特徴的な形の高見島が写っています。
そして下の写真は、あと5分ほどで松山駅到着という地点(松山市柳原?)で撮ったものです。

131026_1_07

「エメラルド・グリーンの海」ってヤツですよ
眼福でした

車中のほとんどの時間、「艮(うしとら)にこだわる」の追記に励んでいたもので、ずっと景色に見ほれていたわけではなかったのですが、こちらの風景に目を惹かれました。

131026_1_08

小島に神社があって、陸地から長い橋が伸びています。
こんな神社、見たことがありません

帰ってから調べると、この神社は「津嶋神社」という神社で、かなり変わった神社のようです。
というのも、津嶋神社のHPによると、

江戸時代から子供の健康と成長の守り神として信仰が厚く、日本全国から家族連れの参拝者が多く訪れます。
特に毎年8月4、5日の夏季例大祭の参拝者は、のべ10万人を超えます。
奇岩が連なる島の周囲 津嶋神社のある島は、沖合い250mに浮かぶ周囲132mの小島で、ウバメガシが島の岩にしっかりと根をおろし、生い茂り、島の周囲は季節風や波に洗われ奇岩が連なっています。
そんな小島に、素盞鳴命(すさのおのみこと)を祀る本殿、幣殿、拝殿、神饌殿、社務所、守札授与所がありますが、この島へ渡れるのは年に一度、前述した夏季例大祭の時だけです。

だそうな
そして、最寄り駅になるJR津島ノ宮駅は、津嶋神社の夏季例大祭のときだけ営業する「日本一営業日数の少ない駅(Wikipediaより)」なんだとか

今年の夏季例大祭のときの朝日新聞DIGITALの記事によれば(リンク切れ御免)、

子どもの神様として知られる津嶋神社(香川県三豊市三野町大見)で4、5の両日、夏季大祭があった。「日本一営業期間の短い駅」とされる臨時駅のJR津島ノ宮駅もこの2日間のみ開かれ、親子連れや鉄道ファンでにぎわった。
津嶋神社の本殿と拝殿は、海岸から245メートルの橋を渡った先の小島にある。橋は普段は橋桁のみで、祭りの時だけ板をわたされる。
JR津島ノ宮駅は、この祭りに合わせて1915(大正4)年に出来た。ホームがカーブしているため、大きく傾いた列車とホームの間に数十センチの隙間と段差ができる。4日は23人の駅員が集まり、子どもを抱きかかえて乗り降りさせていた。2日間で約5500人が駅を利用した。

ですって

橋は普段は橋桁のみで、祭りの時だけ板をわたされる。

というのもスゴいですな。恐らく「侵入者防止策なのでしょう。
また、「ホームがカーブしているため、大きく傾いた列車とホームの間に数十センチの隙間と段差ができる。4日は23人の駅員が集まり、子どもを抱きかかえて乗り降りさせていた」というのは、「子どもの神様」らしくて、よい話だと思います。

そんなこんなで、高松から松山まで2時間30分の列車の旅、私にとってはあっという間でした。

つづき:2013/10/27 お城と温泉の四国旅行記(その8)

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お城と温泉の四国旅行記(その6)

2013-10-25 23:13:31 | 旅行記

「お城と温泉の四国旅行記(その5)」のつづきは、「MISIA 星空のライヴVII -15th Celebration-」高松公演(記事はこちら)の終了後から始まります。

私がサンポートホール高松をあとにして向かったのは、ホテルでもなければ、夕食でもなく、夕方までさんざっぱら歩き回った玉藻公園(高松城趾)でした。

131025_1_01

これというのは、日中、玉藻公園でこちらを見たから…。

131025_1_02  「夜感、無料」

と、ちぃと痛いキャッチコピーの下にこんな風に書かれています。

131025_1_0311月4日までの毎日の17:30~21:00玉藻公園が無料開放されるのだそうで、イベントとして、「披雲閣ライトアップ&ミスト」「石あかりロード」が行われているらしい

披雲閣というのは、三の丸にあるお屋敷風の建物で、現地にあった案内板によれば、

重要文化財 披雲閣(旧松平家高松別邸)
松平藩時代にも、この地に披雲閣
(ひうんかく)と呼ばれる広大な建物(現在の披雲閣の約二倍)があり、藩の政庁および藩主の住居として使われていましたが、明治時代に老朽化のため取り壊されました。その後、松平家第12代当主で貴族院議員も務められた松平賴壽氏により、3年の歳月と当時のお金で15万円余りの巨費を投じて現在の披雲閣が大正6年(1917年)に完成しました。この豪壮な和風建築には142畳敷の大書院をはじめ、槙の間・蘇鉄の間など雅趣を生かした各部屋があり、波の間には昭和天皇、皇后両陛下がご宿泊になられたこともあります。
昭和29年(1954年)に城趾とともに高松市に譲渡されて、現在は会議・茶会・生花展などの会場として利用され、広く市民に親しまれています。

というものだそうな。
日中観た披雲閣はこちら。

131025_1_04

「松平家」だけに、獅子口には「三ツ葉葵」ご紋

131025_1_05

これらが、ライトアップされて、ミストされるとどうなるのでしょうか?

   

一方、二ノ丸跡「石あかりロード」というのは、昼間に観たところこんな具合。

131025_1_06

芝生の上に、点々と石づくりのオブジェが置かれていました。

こんなの(オニノコ)とか、

131025_1_07

こんなの(スト~ンマス)とか…。

131025_1_08

これらの作品が、にはどのようになるのでしょうか
3年前に奈良で楽しんだ「全国 光とあかり祭 in 奈良」(記事はこちら)みたいな感じでしょうか?

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結構期待を抱いて再訪した玉藻公園、まずは「石あかりロード」…。

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ん? なんだかパッとしません

「オニノコ」はこんな感じですし、

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「スト~ンマス」はこんな感じ…

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期待していた割には…と思ってしまいます。

当然ながら光を通しませんから、光を通す和紙に比べてライティングは難しそうです。

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一方、「披雲閣ライトアップ&ミスト」はどうだったかといいますと、ライトアップも、

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ミストも、

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131025_1_16ちょっと…でした。

無料夜の玉藻公園を散策できたのは良かったとしても、イベントは、「石あかりロード」「披雲閣ライトアップ&ミスト」も、改善の余地が相当ありそうな気がしたのでありました。

つづき:2013/10/26 お城と温泉の四国旅行記(その7)

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「Back In Love Again」は再点火スイッチか?

2013-10-24 22:28:59 | MISIA

タイトルのとおりMISIAネタですが、ある意味、「お城と温泉の四国旅行記(その5)」のつづきのようなものです。(ネタバレがあります)

玉藻公園(高松城趾)を歩き回った後、ホテルCheck In
こちらの記事を書くために頭を酷使しながら、身体の方はしばし疲れを癒した後、ホテルから目と鼻の先にある「MISIA星空のライヴVII -15th Celebration-」高松公演の会場、サンポートホール高松出撃しました。

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今回の席は、久しぶりに、MISIAはもちろん、バンドメンバー、コーラスの皆さん全員を視界に捉えられて、しかも、かなり前という絶好のものでした
マイク&PAを通した爆音(相変わらずです…)の陰から、MISIAの生声が聞こえてくるような、そんな席

だったのですが、肝心のMISIAは、絶好調 ではありませんでした

ライヴ序盤はそこそこでしたが、中盤の「恋は終わらないずっと」は、これまで聴いた中で一番デキが良くなかった気がするほど、キツい感じ…
つづく「忘れない日々」「逢いたくていま」も、う~む…でした。

ところが、次の「Back In Love Again」様相が一変
そこからラストまで、充分に聴かせてくれました

どこかのライヴでも、調子が悪そうだったMISIAが、「Back In Love Again」を境に一変したことがありました。
どういう仕組みなのかよく判りませんが、「Back In Love Again」にはMISIA再点火する不思議な力が秘められているような気がします。

これまで「MISIA星空のライヴVII -15th Celebration-」ツアーでは、沖縄2日目熊本公演だけで「Back In Love Again」セットリストから漏れているのですが、こんな理由から、今後のライヴでは欠かさず歌って欲しいと願っている私です。

そうそう、かなりのお気に入りになった「Daisy」高松公演で聴くことができなかったのが残念でした。

   

131024_1_02ところで、次に私が参戦する予定の「MISIA星空のライヴVII -15th Celebration-」は、12月13日の私の地元・秋田公演なのですが、それに先立って(11月13日)、同じ秋田県で能代公演が予定されています。

ツアーの後期公演のチケットが発売されてからしばらくたっての追加で、チケットがずっと「絶賛販売中だったもので、満席になるのか心配していました(「だったらお前が行けよでしょうけれど、週のど真ん中の平日というのでは遠征は無理です…)。

そもそも、能代ってのは集客がキツいのではないかと思っていました。同じ秋田県内でも、横手とか大曲なら、岩手・山形・宮城といった近県からの遠征組も読めるでしょうけれど、能代ってのは、秋田市から結構離れているし、弘前・青森からも遠いですから…

なんで能代「MISIA星空のライヴVII -15th Celebration-」の開催池に選んだのでしょうかねぇ…
能代からほど近い白神山地今年12月で、ユネスコ世界遺産に登録されて20周年を迎えることと関係があるのでしょうか?(関係ありそうだな…

なんて考えていたら、無事にチケットが完売 したようです

余計な心配をしていたようで…
失礼しました

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お城と温泉の四国旅行記(その5)

2013-10-23 23:29:52 | 旅行記

さて、「お城と温泉の四国旅行記」シリーズに戻りまして、「その4」のつづきです。

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お城中心部と言えば、本丸の天守または御殿と相場が決まっているものですが、高松城の場合、天守台は残っていますが、天守は残っていません。
江戸城(記事はこちら)や二条城(記事はこちら)と同じパターンですな。
でも火事で焼け落ちた後、再建されなかった江戸城二条城と違って、高松城の場合、

生駒時代の天守から、松平時代の寛文9年(1669年)頃に三層五階に建て替えられ、瀬戸内海にその威容を誇っていましたが明治17年(1884年)老朽化により取り壊された

だそうな(公式サイトから転記)。
明治時代に入っても残っていたものですから、数は少ないものの、写真も伝えられています。

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この天守ちょっと変わった形をしています。

陳列館に展示されている復元模型がこちら

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一層目が石垣からはみ出しているし、最上層が尻すぼみになっています(唐造:からづくりというものらしい)。
現在、天守の復元を目指して、石垣の積み直しまで進んでいました。

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登れるものなら登ってみよう ということで、登りましたよ
「マジソン郡の橋」を彷彿とさせる「鞘橋(さやばし)」を渡って、

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天守台に到着
パイプで補強&補助された石段を昇ると、

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ちょっと勝手が違います…
現地の説明板によれば、

石垣修理工事に伴い、天守台の発掘調査を実施しました。調査の結果、天守が建てられていた当時の地下1階の基礎構造がほぼ明らかになるという大きな成果をあげました。
天守の地下1階は東西13.6m、南北12.2mの空間の中に、「田」の字状に52個の礎石が並べられ、さらに礎石で区切られた4箇所の区画中央にはそれぞれ掘立柱が建てられていました。礎石には土台の痕跡が残っており、そこから地下1階が当時の寸法で東西六間、南北五間であることが判明しました。この寸法は『小神野筆帖(おがのひっちょう)』という文献に記された内容と合致しており、文献の記載が性格であることが判明しました。

だそうで、その様子はこんな具合でした。

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石段を昇るとほぼ真っ平らだった江戸城(下の写真)や二条城の天守台とは、随分違います

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かなりマニアックな世界に突入しそうですので、高松城の天守台からの眺めを載せておきましょう。

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天守の最上層から眺めたら、瀬戸内海の島々まで見渡せたのでしょうなぁ…

   

そうそう、以前(こちらの記事)、

調べたところによると、関ヶ原の合戦を境として、壁を漆喰で塗り固めた「白い城」(姫路城、高知城、彦根城、弘前城など)が幅を利かせるようになりますが、それ以前または豊臣系の武将が建てたお城は「黒い城」(熊本城、松江城、広島城、松本城など)が主流なのだとか。

と書きましたが、この高松城の場合はどうだったのでしょうか?
Wikipediaによれば、

創建時の天守は下見板張りの黒い外観であったが、寛文11年(1671年)の松平氏による大改修の際に、白漆喰総塗籠の天守に改築されたと見られている。

だそうで、いかにも…といった感じです。

というわけで、書き尽くせないのではありますが、この日の玉藻公園(高松城趾)探訪記はこの辺にしておきましょう。

つづきのようなもの:2013/10/24 「Back In Love Again」は再点火スイッチか? 

旅行記のつづき:2013/10/25 お城と温泉の四国旅行記(その6)

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京都でも見ることができない京都。(後編)

2013-10-22 23:37:12 | 美術館・博物館・アート

「京都でも見ることができない京都。(前編)」のつづきは、前編で書き漏らしたお話から始めます。

131022_1_01 前編の最後に紹介した「賢聖障子絵(けんじょうのそうじえ)」について、特別展「京都―洛中洛外図と障壁画の美」の公式サイトではこのように説明しています。

今に伝わるこの作品は、当時、宮廷の絵所預(絵師の長)も務めていた狩野孝信(1571-1618)が、慶長期に建てられた紫宸殿のために、永徳亡き後、狩野一門を統率する絵師として、最も格式ある画題に腕を揮ったもので、力強い筆線と彫りの深い顔の表現が特徴的です。寛永18年(1641)、仁和寺に下賜された紫宸殿に設えられていた現存最古の賢聖障子絵です。

作者の狩野孝信は、父の永徳、息子の探幽に比べて、知名度で劣っていらっしゃいますが、京・大坂と江戸の双方に狩野派を伝えた、美術史的には重要な役割を果たした方のようですが、それよりも、ハッとするのは、この記述です。

寛永18年(1641)、仁和寺に下賜された紫宸殿に設えられていた現存最古の賢聖障子絵です。

「仁和寺に下賜された紫宸殿」といえば、今年のゴールデンウィークに現地を訪れた、仁和寺金堂のことです(記事はこちら

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なるほど、、、紫宸殿とセットで「賢聖障子絵」が下賜されたというわけですな

   

今年のゴールデンウィークでの関西旅行では、予想以上に二条城魅入られた私ですが(記事はこちら)、洛中洛外図屏風と共に「京都―洛中洛外図と障壁画の美」展の目玉のひとつが、

二条城からは、大規模な修復を終えたばかりの二の丸御殿 黒書院一の間、二の間の豪華絢爛な障壁画。全六十九面と重要文化財「松鷹図」を出展。二条城の空間がかつてない規模で再現展示されます。

というもの。
こちらで書いたように、二条城では、

障壁画を保存するために、現在、二つの事業に取り組んでいます。その一つは、障壁画の模写を制作し、順次御殿内の原画と模写画をはめ替える「模写事業」です。(中略)
二つめの取組として、平成14年度から国の補助を受けて本格的な障壁画修理保存事業に着手しています。重要文化財だけで1000面近くある障壁画修理には膨大な時間が掛かりますが、貴重な文化遺産を近代に伝えるために着実に事業を継続し、修理を終えた障壁画をより良い環境で観覧者の皆様にご覧いただけるよう今後も努力してまいります。

で、修復を終えた障壁画は、「展示・収蔵館」で、「柱や梁に囲まれた状態で障壁画を鑑賞」できるようになっているのですが、同じ手法を使いつつ、更にスケールアップされて、「二の丸御殿 黒書院一の間、二の間」の障壁画が展示されていました。

極力、床と天井を見ないようにして、自分の目線の高さでぐるりと見渡し、自分が二条城の二の丸御殿にいることを想像するのは、なかなか楽しい体験でした。

   

この展覧会でもっとも感慨深かったのは、龍安寺 方丈襖絵の展示だった気がしています。

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展示されていたのは、室中の間「群仙図襖(6面のうち4面)」と「列子図襖」上間南の間の「琴棋書画図襖」の東側4面、同じく北側4面、そして西側4面のうち2面でした。

このうち、「群仙図襖」と、「琴棋書画図襖」の西側2面は龍安寺所蔵ですが(下の写真は2011年3月の京都旅行の際に龍安寺で撮りました)、

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「列子図襖」と「琴棋書画図襖」の東側4面はNYCメトロポリタン美術館から(下は、私が約20年前に撮ったMETの写真)、

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琴棋書画図襖」の北側4面はシアトル美術館からの出張です。

もともと、京都の龍安寺の方丈を飾っていた襖絵が、なんで米国にある…?

展覧会の公式HPによると、

龍安寺の方丈は、寛政9年(1797)の火災で焼失したため、慶長2年(1606)に織田信包(信長の弟)によって建立された塔頭、西源院の方丈が移築されたものです。その室内を飾る襖絵は、狩野一門の手によるもので、桃山絵画の特徴が色濃くあらわれた力強い人物画を中心としたものでした。
それらの襖絵は明治の廃仏毀釈の波に飲まれて、九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門の手に渡り、昭和8年(1933)に大阪城築城350年を記念した展覧会で一般公開された後、昭和26、27年ころに所在がわからなくなりました
この絵はフロリダのコレクターがハワイで購入し、1989年にメトロポリタン美術館へ寄贈したもので、もとは龍安寺の方丈の中央の部屋(室中の間)を飾っていたことがわかっています。

だそうな。
また出ました、廃仏毀釈
ホント、日本の美術史(宗教史も?)において、明治初年の廃仏毀釈痛恨のムーブメントだと思います

できることなら、もともとあった龍安寺の方丈で展示・公開できれば最高なのでしょうけれど、外国の美術館の所蔵品を陽の光に曝すことは絶対に不可能でしょうからねぇ…

   

展示品数こそ少ないものの、この「京都―洛中洛外図と障壁画の美」展はなかなかのものだと思います、ホント

本気で、後期(11月6日~12月1日)もう一度観に行こうかなとさえ思っています。

お薦めです

再訪記:2013/11/10 ひたすら東博を歩き回った一日(後編)

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