新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #3-3

2017-10-31 22:40:42 | 旅行記

きのう、今年3度目の関西旅行から帰ってきて、このブログの旅行記3本並立の状況になりました。
しかもそのうち2本関西旅行記だというややこしさ

ここしばらく、複数の旅行記交互に書いてきたのですが、ここにきて、7月の関西旅行記先週末の関西旅行記を混在させるのは、私の頭が混乱しそうです。

そんなわけで、まず、7月の関西旅行記をひたすら書いて完結させ、その後、5月の南東北ドライブ旅行記先週末の関西旅行記交互に書いていこうと思います。
もっとも、南東北ドライブ旅行記は、既に終盤にさしかかっているのですけど…

   

ということで、「暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #3-2」のつづきです。

京都御所参観の入口、清所門を入り、入場ストラップを受け取り、ちょっと南に進むと、地味目だった清所門とは打って変わって絢爛豪華がありました。

宜秋門(ぎしゅうもん)です。
皇族や限られた公卿だけが通れる門だったそうで、緻密な細工の金具もさることながら、この檜皮葺ぶ厚さはなんでしょ

どれだけ贅沢檜皮を使っているんだろか と唖然とするばかりです、、、、、と、順番は前後しますが、このカラクリが、実物大の模型で説明されていました。

なんとなんと、見えるところだけ分厚く檜皮を重ねて、いわば、盛っていたんですな
黙っていたら、ほとんどの人は気づかないだろうに、宮内庁ったら、無粋な…

   

さて、時間をちょっとさかのぼって宜秋門付近に戻りますと、なんとも… 唐破風が威風堂々とした入口がありました。

儀式や天皇との対面のために参内したものを迎える玄関である。公卿・殿上人など、限られた者だけが使用した。

という「御車寄(おくるまよせ)」だそうで、だだっ広い

ここから右(南)につながる建物「諸大夫(しょだいぶ)の間」で、

参内した者の控えの間である。格の高い順に「虎の間」、「鶴の間」、「桜の間」襖の絵にちなんで呼ばれる。右に行くほど格が高く、身分に応じて部屋が決まっていた。部屋の角は畳縁の色の違いなどにも反映されている。虎の間・鶴の間を使用する者は御車寄から参入するが、桜の間を使用する者については、左の沓脱石から参入した。

という説明があり、さらに、丁寧な図入りの説明板

「へぇ~」と感心していると、さらに、部屋の名前の由来となっている襖絵の作者の名前も掲示されていました。

隣で参観していた見知らぬおばさま曰く、

岸岱ですって。知らないわよねぇ~」

なんですとぉ~
岸岱画伯をご存じないのかぁ~

吠えたくなった私ですが、私とて、「岸岱」画伯の作品をで拝見するのは、これが3回目で、大きなことは言えないのですが…

でも、ここで、3年前に金刀比羅宮の奥書院「群蝶図」を拝見して超特大の衝撃を受けた(こちらをご参照方) 岸岱の名前を見るとは予想外極みでした。

さっそく岸岱の筆になる「虎図」を拝見したのですが、、

ガラスの反射がキツくてよく見えませんでした

う~む… と唸ったものの、京都御所の参観は始まったばかりです。 

つづき:2017/11/02 暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #3-4

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2017年3度目の関西旅行 3日目ダイジェスト

2017-10-30 22:05:54 | 旅行記

「2017年3度目の関西旅行 2日目ダイジェスト」のつづき、2泊3日関西旅行最終日のダイジェストは、きょうの旅程から始めます。

ホテル⇒徒歩大阪上本町駅近鉄奈良線近鉄奈良駅⇒徒歩興福寺⇒徒歩奈良国立博物館(正倉院展)⇒徒歩東大寺(南大門正倉院正倉戒壇堂大仏殿)⇒徒歩東向商店街⇒徒歩猿沢池近鉄奈良駅近鉄京都線京都駅東海道新幹線東京駅上野東京ライン赤羽駅埼京線最寄り駅⇒徒歩⇒自宅

台風一過の晴天 とはならなくて、曇り空肌寒い天候の奈良でしたが、歩き回るには絶好の気温でした。

で、きょうの一番のお目当ては、この旅行メインだった興福寺

仮講堂で開催中の「天平乾漆群像展」を観たかったんです

今年7月に「MISIA SUMMER SOUL JAZZ」関西遠征したときにでも行こうと思っていたものの、「MISIA SUMMER SOUL JAZZ 2017が近づいてきた」で書きましたように、ちょうど前期と後期の端境期 がっかり だったことから、満を持して今回の関西旅行を計画したわけなんですな。

そんなことから、近鉄奈良駅で荷物をコインロッカー押し込んだ(JRのコインロッカーより二回りくらい小さい)私は、落慶間近中金堂日陰になっている仮講堂へ向かいました。

きょうは平日ですから、行列なんかできていないよな… という予測どおり、行列は皆無で、あっさりと入堂できました

この「天平乾漆群像展」や、続いて拝見した東金堂の感想は旅行記本編で書くとして、さて、これからどうしようか、と思案…

当初の計画では、この週末から奈良国立博物館で始まったばかりの正倉院展を観るか、久しぶりに大仏殿を拝観するか、状況に応じて考えることにしていました。
そして、Twitter「正倉院展」をキーワードにして検索すると…、あれま 入場待ちはほとんどない とな

それなら、生まれて初めて正倉院展を拝見しよう と、興福寺本坊前を通って、

奈良博へ…

入場待ち用に設えられたテントがあるのですが、確かに行列はありません

そして、

ワオ

さすがに館内混んでいましたけれど、それでもちょっと我慢すれば最前列からお宝を愛でることができる状況でした。

そして、あまり積極的に観たいとは思っていなかった正倉院展でしたが、、、、良かった…。
ほんと、良かった

1300年前お宝が、こんなに素晴らしいこと、そして、そのお宝が1300年の時を超えて現代に伝えられていることに感動いたしました

正倉院展を拝見した後、大量のお宝を守り続けてきた正倉院正倉を久しぶりに拝見して、

戒壇堂四天王像を拝見して、

これまたかなぁ~り久しぶり大仏様を拝観して、

と、限られた時間を極めて有意義に使って奈良満喫

そして、帰りの新幹線から見えた富士山は、

極めて充実した今回の関西旅行シメとしてふさわしい気がしました。

脚にかすかに感じられる筋肉痛(3日間の歩行数は合計約6万歩)さえも心地良いのですから、この満足度たるや…。

これまた長ぁ~い旅行記本編になりそうです。

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2017年3度目の関西旅行 2日目ダイジェスト

2017-10-29 22:54:22 | 旅行記

「2017年3度目の関西旅行 初日ダイジェスト」のつづきでございまして、私は大阪に来ております。

まずはきょうの旅程から。

ホテル(舞鶴)⇒徒歩東舞鶴駅前路線バス市役所前⇒徒歩赤れんがパーク⇒徒歩旧鎮守府長官官邸⇒徒歩海軍記念館海上自衛隊舞鶴地方隊北吸桟橋⇒徒歩(北吸トンネル)東舞鶴駅前高速バスなんば(OCAT)⇒徒歩大阪難波駅近鉄線大阪上本町駅⇒徒歩ホテル⇒徒歩大阪上本町駅近鉄線鶴橋駅JR大阪環状線天王寺駅⇒徒歩あべのハルカス(美術館&展望台)⇒徒歩天王寺駅JR大阪環状線鶴橋駅近鉄線大阪上本町駅夕食⇒徒歩⇒ホテル

四国・紀伊半島の南を通過中だった台風22号の影響で、ひたすらが降り続くあいにくの天候でしたが、行きたかった&観たかったところはすべてクリアでき、私としては満足です。

ラッキーだったのは、通常なら毎月第一日曜日しか一般公開されていない旧舞鶴鎮守府長官官邸(通称:東郷邸)が、

※10月28日29日は日本遺産WEEKにつき見学可能日とします

だとかで、見学できたこと。

ただ、毎週土日祝日に一般公開されている北吸桟橋海軍記念館は、きのう28日(土)「都合により見学できません」でして、きょう見に行くしかなかったという事情がありました。

もう一つ難問がありました。
私は、13:00東舞鶴駅前を発車する高速バス大阪に向かう予定しておりまして、早め早めに見学しておきたかったところ、海上自衛隊の3施設の見学ができるのは10:00から。

なんとか効率的に見学する方法はないものだろうか… と考えて、そして、調べた結果、こんな作戦を練りました。

東舞鶴駅前 9:10発路線バス赤れんがパークに行って見物し、その後、東舞鶴駅から最も遠い場所にある東郷邸に行く。東郷邸の見学後、東舞鶴駅に戻るように、海軍記念館北吸桟橋を見学する、というもの。

この作戦は大成功で、赤れんがパークから東郷邸へ歩く途中、北吸桟橋の入口前を通ったのですが、この時点では10:00になっておらず、門前には見学時間を待つ行列ができていました。

そして、東舞鶴駅前に戻ったのは12:10で、余裕を持って昼食を摂ることができました。

良かった、良かった、、と高速バスに乗り込んだのですが、降りしきるのせいで、ズボンの裾から、靴下&靴、さらにはブルゾンとシャツの右袖グッショグショで、気持ち悪いと行ったらありませんでした。

と、その辺の話とか、大阪に着いてからの話は旅行記本編で書くことにします。

さて、明日は旅行最終日
今回の旅行のメインが待っているのですが、台風22号関東に去り好天のもの旅行を続けられそうです。

大阪では、17:30過ぎには空気が澄み渡りあべのハルカスから見事夜景を楽しめたくらいですから。

上の写真の左上を拡大しますと、、、

太陽の塔が目を光らせています

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2017年3度目の関西旅行 初日ダイジェスト

2017-10-28 19:14:13 | 旅行記/本と雑誌

2週連続台風襲来にもめげず、関西旅行を決行し、舞鶴市のホテルで和んでいます。

心配した台風22号直撃は避けられそうで、雨模様ながら、初日の観光は無事に終えられました。

例によって、きょうの旅程から書いておきます。

自宅⇒徒歩⇒最寄り駅⇒埼京線赤羽駅上野東京ライン東京駅東海道新幹線京都駅特急まいづる東舞鶴駅⇒徒歩⇒ホテル⇒徒歩⇒赤れんが博物館⇒徒歩夕潮台公園⇒徒歩⇒ホテル

あれ ずいぶんとシンプル…。
でも、きょうは移動の過程がなかなか乙なものでしたし、きょう唯一の観光スポットだったと言って良い赤れんが博物館は、予想以上に見応え十分で、至極満足しております。

詳細は旅行記本編で書くことにしまして、きょうのところは、富士山の話に留めておきましょう。

きょうは台風22号接近の影響で、に見舞われることは覚悟していました。
せっかく新幹線では富士山側の席を取っていたのに…、と思っていたのですが、新富士駅のちょいと手前で、富士山の姿を拝見することができました

チョイ欠けながら、もっと天候が良くても富士山の姿がほとんど見えないこともあることを思えば、上々です

この富士山の姿、首都圏から観るのに比べると鋭角的で、まさしく北斎が描くところの富士っぽい と思いました。

そこで、冨嶽三十六景で、この辺りからの作品はなかったのだろうか? と調べてみますと、富士山があれだけ雄大に見える場所ですから、北斎が見逃すはずもなく、見つかりました

「駿州大野新田」です。
う~む、実物よりもちょっとデフォルメしてます。
そして、宝永火口いびつな部分で隠していますな

ところで、現在の富士市は、東海道吉原宿があったところなわけで、廣重もこの付近から見た富士山を描いています。

「東海道五十三次 吉原 左富士」では、宝永火口「あばたもえくぼ」とばかりに、しっかりと描かれていますな

【追記】私が「東海道五十三次 吉原 左富士」富士山だと思っていたのは愛鷹山のようです。絵の側、木々の狭間から「左富士」が描かれているのに気づかなかったという… (2017/11/12 10:08)

きょうは、風景に期待せず、山本一生「水をガソリンに変える人 山本五十六、不覚の一瞬」電子版で読んでいたのですが、たまたま新富士駅を通り過ぎたあたりで、偶然にもこの辺りの話が出てきてビックリ

なんでも、昭和13年(1938)のこと、商法学者として著名だった高窪喜八郎さんが、政軍官財界の有力者に、電信を送り、

静岡県富士郡大淵村、現在の富士市北方の山麓にあたる。そこから油徴、原油が出る兆候が見られたのでご確認いただきたい、(1938年10月) 9日には特別列車によって希望者を現地まで送り届けます、

とご招待したところ、各界のお歴々80名ほどが現地視察に参加したのだそうな。
そもそも、火山富士山のふもとから石油が出るか? ということに加えて、この話の発端が、「霊感のある御婦人」を通じてもたらされた枚岡神社「ご神託」だというのですから、「まゆつば」極みなのですけど…

結局、高窪さんや、財界の有力者・植村澄三郎さん(経団連会長を務めた植村甲午郎さんの父親)が大金を注ぎ込んだこのプロジェクトは、当然のように失敗に終わります。
それでも、不思議なことに、この「油井」からはが出たそうなのですが、分析の結果、「精製された機械油」だったとか…。

20世紀に入ってもなお、稲わらから絹を作れる、とか、水からガソリンを作れるといった錬金術的な話や、富士山麓から石油が出るというご神託が、疑いを持たれるつつも「もしかしたら」と思われたという事実が、なんとも不思議です。

と、関西旅行とはぜんぜん関係ない話に逸れてしまったところで、初日のダイジェストは終わりにします。

ちなみに、この本によると、

富士山麓油田の遺構は、現在でもわずかながら残っている。

だそうで、行ってみたい気がしてきます。

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暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #3-2

2017-10-25 23:26:34 | 旅行記

陰陽道では、艮(うしとら)=北東の方角を、

鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角としている。(Wikipedia)

としていまして、古来、日本ではこの「鬼門」「艮」をなんとかしようと工夫してきました。

京都では比叡山延暦寺が、江戸では上野の東叡山寛永寺日光東照宮鬼の侵入を妨げる意味合いを持っていたわけでして、城や寺では、大胆にも敷地の北東端を「なくす」方法で鬼門対策を講じたりしています。

私は、旅行でお城を見物するたびに、お城の北東部分に注目してきました。
例えば、東本願寺とか、

鹿児島鶴丸城とか、

江戸城とか…

江戸城のジオラマ(北東角)@江戸博

そんな「艮の聖地」ともいうべきスポットが、京都御所北東角にあり、いよいよ、現地に足を運んだというわけです。

ということで、「暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #3-1」のつづきは、京都御所鬼門(北東)にあたるこちらから始まります。

ものの見事に北東端を欠いて鬼門を無くしています。

この場所は、「猿ヶ辻」という名前がついています。
なぜ猿? と思いきや、説明板によれば、

御所の築地塀が折れ曲がった部分の屋根裏に、一匹の木彫りの猿が見られます。烏帽子をかぶり御幣をかついだこの猿は、御所の鬼門を守る日吉山王神社の使者ですが、夜になると付近をうろつき、いたずらをしたため、金網を張って閉じ込められたといわれています。

だそうで、北東端を欠くだけでなく、守護神としてを配置して、鬼門に対して二重の対策を講じているんですよ。

で、その「木彫りの猿」も拝見しました。

写真では、いたずら防止のための金網邪魔になって御幣らしきものしか判りませんが、肉眼でも、「言われてみれば『烏帽子をかぶり御幣をかついだ』猿かもしれない」程度にしかみえませんでした

それでも、私の「艮コレクション」に、「聖地が加わって、私は満足して、いよいよ御所に入場するべく、清所門へと向かいました。

さすが京都御所だけあって、門前にあるポリスボックスまで雅(みやび)ですなぁ~

清所門から入ると、入門証のストラップを受け取り(皇居東御苑と同様、入退場者数をチェックするためでしょう)、御所の参観を開始しました。

あ、そうだ 京都御所入場無料です。

で、入場してすぐの場所に説明板がありまして、ちょいと転記します。

京都御所は、明治維新まで天皇のお住まい(古くは内裏という)でした。桓武天皇が奈良の平城京より長岡京(京都府)を経て、延暦13(794)年に平安京に都が移されたのが始まりです。
平安京南北約5.3km、東西約4.5kmの方形で、中央の朱雀大路(現在の千本通り)により左京と右京に分けられ、大小の道で碁盤の目のように区画されていました。平安京の大内裏(国家的儀式を行う施設や様々な役所があった区画)の中程に内裏がありました。内裏は火災に遭うと、貴族の邸宅などを一時的に仮の内裏とされました。これを里内裏と言います。
現在の京都御所の場所は、土御門東洞院殿といわれた里内裏の一つで、元弘元(1331)年に光厳天皇がここで即位をされて以降、明治2(1869)年に東京に移られるまでの約500年間お住まいとして使用されました。

ちょっと長めになってしまいました。
でも、初期の平安京が、東寺(教王護国寺)が京都駅の南西に位置することから察せられるように、現在の京都の中心軸より西に寄っていたにもかかわらず、現在の京都御所が中心軸上にある理由が理解しやすい気がしたもので…。

おそらく、御所左京(=洛陽)にある土御門東洞院殿「疎開」しているうちに、右京(=長安)寂れていき豊臣秀吉左京を囲むように御土居を築いたことで、京の中心軸東に移動し、「京=洛中」となったのでしょう。

それにしても、この京都御所500年間にわたって天皇の住まいあり続けたということ、さらに、現在も「御所」としての位置づけは変わっていないことに、身震いしてしまいました。

京都御所の参観は、「#3-3」以降でふり返ることといたしまして、きょうはここまで。

つづき:2017/10/31 暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #3-3

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南東北ドライブ旅行記 #3-1

2017-10-24 23:53:28 | 旅行記

「南東北ドライブ旅行記 #2-13」のつづきでして、並行して書いている7月の関西旅行記と時を同じくして、5月に決行した南東北ドライブ旅行記の、最終日3日目が始まります。

この日の旅程は当日のダイジェストをご覧いただきたいのですが、大ざっぱに言えば、米沢から一般道を東へ走って太平洋岸まで達すると、相馬ICからいわき中央ICまで常磐道南下して、東北屈指の水族館・アクアマリンふくしまを楽しんだのち、いわき勿来ICから再び常磐道に乗って、三郷JCTから外環道を経由して帰宅した、というもので、その前半のルートを地図に示すとこんな具合です。

さっさと帰ってこようと思えば、福島市から東北道に乗って南下すれば、昼時には自宅に到着できたでしょうけれど、それはあまりにももったいないですから…。

さて、飯坂温泉をかすめて(ずいぶん前に友人たちと温泉競馬で来ましたっけ…)、

福島らしく果樹園の間を抜けて、

へ…。

と、米沢から一般道を東へ走って太平洋岸まで達すると」と書きましたが、途中、無料開放されている東北中央道を通りました。
立派な(そしてガラガラ自動車専用道無料で走れるなんて…

で、意外なことに、宮城県をかすめるんですな。

常磐道に乗ってすぐ、南相馬鹿島SAひと休み
米沢からここまで2時間かからずに来られたのですが、それはともかく、おぉ相馬らしい

私、常磐道のうち走ったことがあったのは、三郷JCT~いわきJCTのみで、いわき以北を走るのはこれが初めてでした。

初めて走るいわき以北常磐道沿線といえば、福島第一原発の事故被災地です。
6年以上を経過して、どんな状況なんだろうかという関心を持ちつつ、クルマをに走らせました。

さっそく現れたのは、

放射線量を示す掲示板です。
表示されていた0.1マイクロシーベルトという値がどの程度のものなのか、私にはまったく判りません

でも、除染物質を集めているらしきシートで覆われたモノが置かれている場所が何カ所も見えて、やはりただならぬ気配が感じられました。

浪岡双葉ICの直前では、

「国道6号 二輪車通行不可 双葉町~富岡町」というバナーと共に、

注意 ここから 帰宅困難区域

の看板が…

さらに5分ほど走った地点では、

3.5マイクロシーベルト

思わず緊張してしまいました。

いったいこの「3.5マイクロシーベルト」どんなレベルの汚染度なのかを調べてみますと、環境省のサイトによれば、

環境省では、放射性物質汚染対処特措法に基づく汚染状況重点調査地域の指定や、除染実施計画を策定する地域の要件を、毎時0.23マイクロシーベルト(μSv)以上の地域であることとしました(測定位置は地上50cm~1m)。この数値は、追加被ばく線量年間1ミリシーベルト(mSv)を、一時間あたりの放射線量に換算し、自然放射線量分を加えて算出されています。

だそうで、完全に「汚染されている」レベルです

もっとも、直ちに危険 というわけではなく、

これは、放射性物質が面的に存在し、一年を同じような放射線量の場所で過ごすことを想定した地域の面的な汚染を判断していくための要件です。

だとか。
ですから、私のようにクルマで駆け抜ける分には問題無し(だから常磐道を走れる)なわけです。
でも、この地では暮らすには問題あり で、だからこそ帰宅困難区域に指定されているんですな。

帰宅困難区域を走っていると、沿線にいくつも民家が見えて、あの家に帰りたくても帰れない人たちがいるんだなぁと思って、胸が痛くなりました 

つづき:2017/11/14 南東北ドライブ旅行記 #3-1

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暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #3-1

2017-10-23 22:33:27 | 旅行記

「暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #2-8」のつづきでして、7/15~17の関西遠征の旅行記もようやく最終日突入です。

前にも書いたと思いますが、今週末、私は2泊3日の関西旅行を敢行する予定にしていまして(1週間ズレていたら台風21号の直撃をくらっていた…)、関西旅行記2本並行して書かざるを得ないことは確実なわけで…

そんなことから、ちょっと急ぎましょう

当日のダイジェストに書きましたように、私は、朝食を終えると、

早々にホテルをチェックアウトして、京都へ…。
京都駅では、さすがに朝の9:00ちょい過ぎですから、難なく空いているコインロッカーを見つけて バッグを入れ、地下鉄烏丸線に乗って、、、、と、あれま 祝日(海の日)の朝だというのに、電車は通勤ラッシュ並みのギュウギュウ詰め

何事か? とおもったのですが、ほとんどの乗客は烏丸御池駅で下車して行きました。
あの集団は何だったんだろ… といぶかしく思いつつ、私は今出川駅で下車。

今回の京都探訪のメインの目的地は、初めて訪れる京都御所でした。
今出川駅の北側にある相国寺は何度も訪れたことがありましたけど、反対側の京都御所京都御苑は初めてです。

かつては、というか、去年の夏までは、京都御所を見学するには、春夏の特別公開に合わせて京都に行くか、事前宮内庁予約しなければならなかったのですが、

2016年7月26日から予約不要の通年一般公開に再編された。(Wikipediaより)

という大改革が行われ(京都御所に限らず、皇居も公開される機会が増えましたなぁ)、よほど運が悪くない限り、ふらっと御所に行けば参観できるようになりました。
このニュースを聞いたとき、ぜぇ~たいに行きたい と思いまして、ついにその機会が訪れたというわけです。

で、京都御苑北西にある乾御門「乾(いぬゐ)」とは「戌(いぬ)」+「亥(ゐ)」「北西」を意味します)から御苑に入りました。

ふわぁ~ なんでしょ、この開放感というか気持ち良さ

こんな場所って、そうそうあるものではありません

せっかくですから、御所を見学する前に、御苑を散策することにしました。
「艮(うしとら=北東)」に異常な(?)関心を持つ私としては、どうしても現地で拝見したい場所がありましたし…。

その「場所」へ向かう途中、不思議なものを見つけました。

この写真では大きさが判り辛いとは思いますが、高さ4~5mはあろうかという大きなものです。

これと似たモノ大阪で見たことがありました。

3年前、閉館間近だった交通科学博物館で見たSL用の給水塔です。

京都御苑の「謎の物体」給水塔っぽく見えますが、もちろん、こんなところをSLが走っていたはずもなく、いったい何?

調べてみますと、私の見立てどおり、この物体は給水塔でして、散水車給水するための設備だったのだそうな。

でも、京都御苑は、緑地帯を除けば、すべて玉砂利で覆われていて(歩くと疲れる)、撒水する必要はあまりなさそうなんですけど…

この給水塔の近くに、私がどうしても拝見したかった場所があったのですが、その話は「#3-2」に廻すことに致しまして、その前に、御所築地塀の細部を拝見。

かなり凝った造りになっていますなぁ~

御所「北門」たる「朔平門」立派

「朔平門」細部を見ますと、

飾り金具の芸の細かさ圧倒されるわけですが、

やはり、「菊」だらけなのは、さすがに御所です。

というところで、きょうはおしまい

つづき:2017/10/25 暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #3-2

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南東北ドライブ旅行記 #2-13

2017-10-22 11:03:13 | 旅行記

「南東北ドライブ旅行記 #2-12」のつづきです。

米沢城趾を見物したあと、私は「米沢上杉まつり」には目もくれず、駐車場からクルマを出して、米沢駅の東側にあるホテルにチェックインしました。

そして、この日入手した資料を整理したあと、ドライブ3日目のコースを検討し(この後に及んでまだ決まっていない…)、そして、夕食をどこで食べようかとネットでお店を調査しました。
せっかく米沢牛の本場に来ているのですから、米沢牛を食べようと、ホテルから歩いて行けるところを重点的に探しました。
どの店もお値段が…

そして見つけたレストランへ出発

と、その前に、ホテルの駐車場で、ここまでの走行距離・時間写メモ

走行距離が482.5kmで、走行時間は8時間53分
初日328.5kmで走行時間が4時間49分でしたから、2日目約4時間で約155km走ったことになります。
「約4時間で約155km」だけを見れば、いつもの通勤ドライブとさして変わらない…

さて、19:00を過ぎると辺りは真っ暗
米沢駅からすぐの場所だというのに、ひとけはないし、灯りも乏しくて、いかにも現代の地方都市の現実って感じ…

もっとも、新幹線停車駅米沢駅から徒歩数分の場所に、巨大な工場があるのですから、ワーキング・アワーを過ぎれば真っ暗になるのも仕方ないかもしれません。

この「巨大な工場」というのが、NECパーソナルコンピュータの本拠地:米沢事業場です。
「NEC」の名を冠しているからにはLaVie(かつて私も2代にわたって使っていました)を造っているのかと思いきや、LAVIE(いつの間にやらスペルが変わっていた)造ってはいるのですが、ThinkPadも造っているらしい

この辺りの事情をちょっと書きますと、かつてこの工場はNEC本体の工場で、LaVieなどPCを造っていました。
ところが、よく言われる「PCのコモディティ化が進むと、日本のPCメーカーは次々と国内生産を止め台湾を始めとする海外メーカー生産委託する動きが顕著になりました。
NECも、2011年7月に、レノボとの合弁会社 Lenovo NEC Holding B.V.を設立して、その100%子会社としてNECパーソナルコンピュータを設立、NECPC事業をそっくり引き継がせた、という次第。

一方、ThinkPadは、IBM質実剛健PCだったわけですが、こちらも、IBM2005年にレノボPC事業を譲渡して、いまやThinkPadは「レノボ」の商品名になっています。
ちなみに、IBMThinkPad開発拠点が、日本IBM大和事業所だったことは「知る人ぞ知る話で、私はほぼ毎日、その日本IBM大和事業所の跡の近くを通って帰宅しています。
そして、元日本IBM大和事業所(レノボジャパン大和事業所)閉鎖された後、ThinkPadの開発拠点は横浜のみなとみらいに移ったのですが、この開発拠点は伝説の地・大和の名を採って「レノボ・ジャパン横浜事業所大和研究室」と命名されたそうな。

そして、Wikipediaから引用しますと、

2012年11月5日、「ThinkPad」20周年を記念して中国で生産されているThinkPadの一部を、山形県米沢市にあるNECパーソナルコンピュータ米沢事業所で受注生産することを発表した。今後は日本での販売分を国内生産に切り替えていく予定を発表し、2015年2月発売の「X1 Carbon」「X250」からカスタマイズモデルに関しては米沢生産に切り替わった。

だそうです。

PCの世界では、以前からHPとかPanasonic「国内生産」を売りにしていましたが、レノボもこの動きに乗ったようですな。
日本の経済にもよい話だと思います。
製造業の日本回帰の背景には、開発と製造とのコミュニケーションの容易さとか、製造現場の解決力の高さとかに加えて、こちらの朝日新聞の記事によれば、

組み立てを担う約6ートルのライン。客の注文ごとに異なるCPU(中央演算処理装置)やメモリーなど、頭脳部を支える部品を3、4人の作業員が組み付ける。月産約10万台。うち8割が、1回の注文数10台未満という多品種少量生産だ。

と、「コモディティ化」とは正反対「カスタム化」の要望があるようです。

   

なかなか夕食の話に行き着きませんな

といいますのも、「米沢牛を食すゾと勇んで臨んだ米沢牛夕食、、、ハズレ だったんです

飲み物代込みで7,000円も出した米沢牛のステーキ定食だったのですが、なんとも悲しい食味で、あれだと2,000円くらいコストパフォーマンスしかない感じ…
3年前に神戸で食した神戸牛(ランチでも7,000円弱だったけど)のや満足度とは比べものになりませんでした。

そして、代金キャッシュでお支払いして(クレカは不可でした)、トボトボとホテルへ戻りました。

途中見かけた、かつてはNEC米沢事業場の社宅だったっぽい廃墟のような集合住宅寒々しかった…。
たった一度の食事だけで、米沢牛引導を渡すのはどうかとは思いますが、今後数年間は、米沢牛への偏見が残りそうです。

つづき:2017/10/24 南東北ドライブ旅行記 #3-1

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暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #2-8

2017-10-21 23:08:52 | 旅行記

「暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #2-7」のつづきです。

特別公開中だった東大寺俊乗堂「俊乗房重源上人坐像」を拝見いたしました。

当然ながら堂内は撮影禁止でして、写真はありませんが、「俊乗房重源上人坐像」は、ホント、心に響く坐像です。唐招提寺鑑真和上坐像双璧をなす肖像彫刻の大傑作だと思います

モデルになったご本人を慕う後輩・弟子の思いと、それを形にした仏師の技と心がこもっているんですなぁ~。

もう一度、東京国立博物館での「運慶展」に出かけて、この「俊乗房重源上人坐像」で拝見しようか、迷っている私です。

   

しみじみしながら俊乗堂を出た私は、もう一つの特別公開中の建物、大湯屋に向かいました。

と、ここで東大寺の境内図をご覧いただきましょう。

さすがは国家プロジェクトとして創建された東大寺だけに、とにかく境内が広い

上に載せた境内図でも、東大寺から宮内庁に管理が移っているとはいえ、正倉院(見聞録はこちら)が欠けた状態になっているし、私お気に入り転害門(見聞録はこちら)が完全に枠から外れている状態です

しかも、広いだけでなく、起伏にも富んでおりまして、南大門大仏殿「レベル1」だとすれば、俊乗堂鐘楼のある場所が一段高い「レベル2」三月堂(法華堂)手向山八幡宮がさらに高い「レベル3」、そして、二月堂は一番高い「レベル4」にあります。

そして、特別公開されていた大湯屋は、俊乗堂の脇から北に下った場所、言い換えれば「レベル1.5」の場所にありました。

私が2010年夏東大寺を訪れて、正倉院正倉二月堂三月堂を拝観したときは、大仏殿の北にある講堂跡近くから、「二月堂裏参道」を登っていきましたので、大湯屋の近くを通ったのですが、大湯屋のことは存在すらも知りませんでした。

さて、石段を降りたからには、また登らなければならないのか… なんてことを考えながら「レベル2」から「レベル1.5」に降りると、大湯屋がありました。

この大湯屋について、リーフレットから転記します。

治承4年の炎上の後、重源上人によって再建され、延応元年(1239)に改修、更に応永15年(1408)には大改修を受けている。
内部は3区分され、前面を前室、中央を浴室とし、その後壁に接して風呂屋形が造られている。その中には重源の命で、鋳物師(いもじ)の草部是助(くさかべこれすけ)が建久8年(1197)年に造った大きな鉄製の湯船(重要文化財)が据えられている。また、後面は土間で釜場となっている。

で、この「大きな鉄製の湯船」というのは確かにデカかった

日経の記事によれば、

内部に残る直径約2メートル、高さ約80センチの「鉄湯船」には、鎌倉時代の建久8年(1197年)の年号が刻まれている。湯を入れてかけ湯をしたり、蒸気で体のあかを落としたりしたとみられ、いつまで使われたかは不明という。

だそうで、「湯船」といいつつも、お湯を張って、その中にドブンと浸かったわけではなさそうです。

そうこうしているうちに時間は過ぎ、私は、メインの目的であるところの「MISIA SUMMER SOUL JAZZ」FIANALに備えて、東大寺大仏殿・春日大社前⇒路線バス⇒JR奈良駅⇒大和路快速⇒大阪駅⇒JR京都線⇒新大阪駅⇒徒歩⇒ホテルのルートでホテルに戻り、シャワーを浴びてサッパリしたのでありました。
この夜のライヴのことは、当日のダイジェストをご参照くださいませ。

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名古屋にSOUL JAZZ旅行 #2-7 (完結編)

2017-10-19 23:02:43 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「名古屋にSOUL JAZZ旅行 #2-6」のつづきは、いよいよ今年7月初めに決行した名古屋遠征の旅行記の完結編です。

「#2-3」で、

つまり、初期の自動車は、「人を運ぶ機械」ではなく「人が動くための機械」だったということでしょうか?

と書きましたが、もちろん、自動車は、「人(もの)を運ぶ機械」でもあり、「人が動くための機械」でもあるわけで、トヨタ博物館の探訪記の最後はこの観点から強引にまとめてしまいたいと思います。

まずは「人を運ぶ機械」としてのクルマから始めますと、究極の「人を運ぶ」クルマといえば、やはりバスでしょ。

「トヨタ ボンネットバス FB80型」[1963]だそうで、クラシックカー以上にレトロですなぁ。
現代のバスは、車体の後部にエンジンを積むリアエンジン車が主流ですが、これほど車体の前部を大きく占めていたエンジンを、車体の後部に積んでしまおうという発想は凄いものだと思ってしまいます。

ちなみに、競走馬などを運ぶ馬運車は、一見バスを改造したクルマみたいですけれど、運転席の下にエンジンを積むキャブオーバータイプで、トラックを改造したものといえる車種です。

次は、ある人 を運ぶための専用車

「パッカード トゥエルヴ [ルーズヴェルト大統領専用車]」[1939]です。
米国の国鳥・ハクトウワシを象ったフードマスコットも輝いていました。

また、「装甲車並み」だという防弾ガラスはいかにも厚そうです。

でも、ボディガラス強化しても、オープンカーだというのは、「頭隠して尻隠さず」だと思うんですけれど…
実際、ケネディ大統領暗殺されたときに乗っていたクルマはオープンカーでしたよね。

一方、こちらのクルマは、異様に小さくて運転しづらそうではあるけれど、乗っけてもらう人は安心かもしれません。

このクルマは、「イスパノ・スイザ K6」[1935]で、

フランスの高級車メーカー、イスパノ・スイザの最終モデル。佐賀の鍋島家13代当主、直泰侯がシャシーを輸入し、自らデザインしたボディを日本の職人が製作架装した珍しい車。(長浜市 鍋島直晶様より寄贈)

だそうです。
乗用車の分野でも、シャシーメーカーコーチビルダーが分離していたカスタムメイドの時代のクルマなんですな。

   

片や究極「人が動くためのクルマ」レースカーでしょう。

フレンチブルーも鮮やかなこのクルマは、「ブガッティ タイプ35B」[1926]で、

その独創性と美学で芸術的な設計を残したエットーレ・ブガッティの代表作。量産レーシングカーとして大成功を収めた。ホイールやシャシーなど構造的にも興味深い一台。

だそうですが、このクルマではないけれど(年代が10年ほど違う)、私はこちらで書いたジャック=アンリ・ラルティーグ作品(写真)を連想してしまいます

Automobile Delage, grand prix de I'A.C.F., Le Tréport, 26 juin 1912

また、ジャーマン・シルバー「メルセデスベンツ 300 SL クーペ」[1955]は、

映画「死刑台のエレベーター」を思い出させます

また、この遊園地の乗り物(昔想像した「未来の乗り物」っぽい)のような「メッサーシュミットKR200」[1955]も、「人が動くためのクルマ」ですな。

さらに、「ダットサン フェアレディ SP310型」[1963]とか、

「ホンダ S500 AS280型」[1964]も、「人が動くためのクルマ」ですよね。

ところでこの「ホンダ S500」は、「オートバイで成功したホンダ最初の乗用車なんですよ
きょう、ホンダのスーパーカブ生産累計が1億台を超えた というニュースが流れていました。
「ホンダ S500」は、ホンダが、通産省(現・経産省)「ご指導にもめげず、四輪車に進出したエポックメイキングなクルマだと聞いたことがありましたが、かつてはこれほど尖っていたホンダ、今はちょっと丸くなっていると思うのは私だけでしょうか?

という感じでトヨタ博物館の話を書き続けていたら、際限がなさそうですので、この辺でおしまいにします。

展示車の何台かの下に置かれていたトレイのこととか、ラリックによるフードマスコットの話とか、書き足りない気もするのですが、その辺りは、トヨタ博物館を再訪するときの宿題にしておきましょう。

こんな風にトヨタ博物館満喫した私は、名古屋市に戻り、昼食を摂ったのち(コストパフォーマンスの高いステーキを食べました)、1泊2日の短い名古屋遠征を終えて(ちょいと「MISIA SUMMER SOUL JAZZ」2日目後ろ髪を引かれつつ)帰宅したのでありました。(完)

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