新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

2018年最初の関西旅行 #3-5

2018-06-28 22:25:09 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2018年最初の関西旅行 #3-4」のつづきです。

私、正直に申し上げて、神社「お宝には興味を持てませんでした

お寺と違って歴史を感じさせる古い社殿ほとんど無いし、神像にはピンと来ないし、「神宝とされるものにもまたピンと来ない

そんな私の印象も、伊勢神宮宗像大社に参拝してビミョーに変わってきていたのですが、決定的に変えたのは、去年2月に東京国立博物館(トーハク)で観た「春日大社 千年の至宝」展でした。

一般には非公開御本殿1殿を再現して、瑠璃燈籠が下げられた展示は「観に来て良かったぁ~と思いましたし、「甲冑は大仰大鎧より、断然、戦国~安土桃山当世具足だぁ~と思っていた私にとって、精緻華麗御神宝大鎧を前に、目からウロコが落ちました

加えて、古風獅子・狛犬にも…

そんなわけで、ワクワクしながら、1年半前の参拝のときには見送った春日大社 国宝殿

結論から書きますと、当日のダイジェストにも書いたように、

正直、期待したほどのものではありませんでした

というものでした
なんとも物足りない

私が春日大社にお参りした日の5日後から、奈良国立博物館で、春日大社の「創建1250年記念特別展」と冠した「国宝 春日大社のすべて」が始まる予定でしたから、もしかすると、とっておき逸品たち 出払っていたのかもしれません

そんなタイミングの悪い中でも、やはり狛犬・獅子にはほげぇ~でした。

ところが、、、、、春日大社 国宝殿ミュージアムショップで買ってきた獅子・狛犬ポストカードを自宅でしげしげ眺めたら、、、、このポストカード、「春日大社 千年の至宝」展で買ってきたポストカードと同じモノ

展覧会に出かけては買ってきて、たまりにたまったポストカードを整理しなくちゃならなんな… と痛感 したのでありました。

つづき:2018/07/07 2018年最初の関西旅行 #3-6

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2018年最初の関西旅行 #3-4

2018-06-24 21:11:20 | 旅行記

考えてみれば、来週末金沢遠征(MISIA星空のライヴX)でして、

MISIA星空のライヴX 金沢公演のチケ

ボヤボヤしてると、またもや複数の旅行記が並行することになってしまいます。

ということで、「2018年最初の関西旅行 #3-3」のつづきです。

飛火野1年半前「Misia Candle Night」を思いだしたあと、参道に戻り、まずは春日大社御本殿へと向かいました。

それにしても参道を歩く人の外国人比率高いことといったらありません
おっと、このことは当日のダイジェストで書いていましたっけ…

さて、参道の両側には寄進された石灯籠がズラリとならんでいるのですが、なにげに2基石灯籠がペアで立っています。
それも、ペアが参道を挟んで向かい合うのではなく、参道と平行にペアが並んでいるのですよ。

これだけではなく、

「石灯籠は2基単位で寄進しなければならない」「2基は左右に並べなければならない」といった春日大社独自のしきたりがあるんでしょうか?

と、このペアは、、、

どう見てもペアですが、ビミョーに大きさが違います(右の方がデカい)
これって、ご夫婦が一緒に寄進した「夫婦(めおと)灯籠」なのでしょうかねぇ…

   

春日大社といえば、藤原氏と縁の深い神社で、

春日大社の社紋は「下り藤」。 藤は境内随所に古くから自生し、藤原氏ゆかりのということもあり、次第に定紋化されました。(春日大社HPより)

だそうです。
そして、境内にはたくさんのが植わっているそうなのですが、

藤は「つぼみ」

「つぼみ」の表示が出ていました。
の見頃は「4月下旬より5月初旬頃迄」だというのに、この日は4月9日でしたから…

本殿の回廊の内側にある「砂ずりの藤」と呼ばれるは、

一応「藤色」が判る程度の開花具合でした。

サクラが例年よりかなり早く開花して、そして盛りを過ぎた今年とはいえ、やはりの季節には早すぎました

こんな季節でしたし、時間の関係もあって、萬葉植物園は今回もパスして(まだ一度も入園したことがない)、今回の目的地の一つ「春日大社国宝殿」へと向かったのでありました。

つづき:2018/06/28 2018年最初の関西旅行 #3-5

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久しぶりの王子散策記 番外編

2018-06-19 22:23:43 | 日記・エッセイ・コラム

「久しぶりの王子散策記 #2」のつづき、というか、なんというか、番外編です。

先々週の土曜日、私が王子に繰り出したのは、「#1」で書いたように、愛車12カ月点検待ち時間つぶす、いや、有効活用するためでした。

で、きょうはこの私の愛車の話です。

私はほぼ毎日、自宅⇔職場間往復130kmほどの距離を運転しておりまして、平均すれば合計4時間弱もの間を過ごす、重要なスペースになっています。
これだけの距離を走り、長い時間を過ごすわけですから、ちょっと背伸びして安くないクルマを選んだわけですが、このクルマに乗れるのもあと1年を切りました

というのも、2年に、「3年リースの再リースなし」という条件でこのクルマを買ったからです。
リース車というものは、年1万km程度を上限に、それを超える走行分追加料金が必要となるケースが多いと聞きますが、この契約では走行距離に制限はありません

これは私のような使い方にとってはLucky きわまりない

なにせ、乗り始めて2年ちょっとだというのに、けさの通勤時、

けさ、職場に着いたときのオドメーター

走行距離が6万kmを超えました
つまり、年3万kmのペースで着々と走行距離が積み上がっております。
前述のとおり、リース料の追加は気にしなくて済むものの、厄介なのはタイヤ

リース契約が終わるまでのあと1年間3万kmを現在のタイヤで走りきれるかどうかがビミョーなんですな。

ちなみに先代の愛車は3組のタイヤで16万5千km走りました(所要時間は8年半)
最初の交換は4万km走行時で、このときは残り溝はあったものの、サイドウォールの劣化が酷くて交換
2回目の交換は、最初の交換から2年2カ月かけて7万km走った時点でした。

こんな過去をふり返りつつ、今回の点検時タイヤの残り溝は、、、

4mm

う~~んんんん、ビミョー

普通に考えれば、ここでタイヤを交換して、あと1年間、気持ち良く走るのがBESTなんでしょうけれど、タイヤが高い
今回、「勝手に見積もり」してもらったところでは、現在と同じランフラットタイヤに替えると16万5千円 、同サイズの普通のタイヤでも15万5千円ですって
これは自動車ディーラー価格ですから、市場価格より高めなのでしょうけれど、それにしても…

んぐぐぐぐ… 迷う

と、ここでセコいアイデアが浮かびました

それは、

  1. 新しいタイヤ(B)を買って、今のクルマ(a)に履き替える
  2. 古いタイヤ(A)を手許に残す
  3. 来年、同じタイヤサイズ &  ホイールサイズの新車(b)に買い替える
  4. 今のクルマ(a)を返却する前に、古いタイヤ(A)に履き替える
  5. クルマ(a)で1年使ったタイヤ(B)を手許に残す
  6. 新車(b)がライン装着していたタイヤ(C)が減ったら、手許のタイヤ(B)に履き替える
  7. タイヤ(C)を処分する

というもの。
この方法は、あのバカでかいタイヤ(A) 4本を1年間保管しておかなければならないこと、あのバカでかいタイヤ(B) 4本を2年間保管しておかなければならないこと、いちいちタイヤを交換するのが面倒くさい、といった難点があります。

私の場合、2年・6万kmタイヤの替え時と割り切るべきなんだろうかな…

ただ言えるのは、十数万円かけて交換したタイヤをほんの数ヶ月使っただけで、リースアップしたクルマと一緒にリース会社に引き渡すことだけは避けたい ということ。

あと数週間、熟慮します。

【追記】きょう、「外出&直帰」早い時刻に自宅近くまで帰ってきたもので、行きつけのカー用品店に寄って、タイヤ交換を見積もってもらいました。
最初の見積もりは、、、、
上の方で、自動車ディーラーでの「勝手見積もり」16万5千円で、

これは自動車ディーラー価格ですから、市場価格より高めなのでしょうけれど、

と書きましたが、それよりも高い
う~む… です。
自動車ディーラーでは、「キャンペーン価格です」と言っていましたが、ホントに出血価格 だったみたい。

で、私は正直に「自動車ディーラーの方が安い」と伝えたところ、ここでまた考慮時間に突入

そして提示された価格は、16万2千円強

ほんの3千円程度の違いですけど、がんばってくれていると理解して、このカー用品店での購入&交換を決断しました。

それにしても、腕時計もそうですが、高価なモノって、メンテナンスコストがかかる…
やはり「分相応」ってのが大事 かも…

ちなみに交換作業は、来週末は私が金沢遠征なので、その次の週末の予定です。(2018/06/22 21:25)

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祝 記事2900本!

2018-06-15 21:32:15 | 日記・エッセイ・コラム

きのうの記事「2018年最初の関西旅行 #3-3」は、このブログ通算2900本目の記事でしたので、「お約束」このシリーズです。

いつものように総括表から始めます。

100本目
200本目
300本目
400本目
500本目
09/04/05
09/06/19
09/09/02
09/11/16
10/01/29
73日間
74日間
73日間
74日間
73日間
  花見に行ってきました
イントゥザライト、出走!
「火の鳥」第1・4巻を持ち帰った
エゾシカの寿司!?
J.D.サリンジャーの訃報
600本目
700本目
800本目
900本目
1000本目
10/04/24
10/07/23
10/10/16
11/01/16
11/04/17
85日間
89日間
83日間
90日間
91日間
  あれ? 「のだめ24巻」がきょう届く?
「空頭」って?
大宮を出発
アールデコの楽園であ~る
さすがに北海道は寒いぞ
1100本目
1200本目
1300本目
1400本目
1500本目
11/08/05
11/12/11
12/03/28
12/07/22
12/11/26
108日間
126日間
107日間
114日間
124日間
  頼朝さんはかっこよかった!(その4:完結編)
これから帰ります
今日の通勤"も"往復とも散々…
フェルメールの2点の「真珠」が上野に来訪中(その6)
予定を変更して…
1600本目
1700本目
1800本目

1900本目
2000本目
13/03/25
13/07/31
13/12/14

14/04/01
14/08/11
119日間
126日間
134日間

107日間
130日間
  MISIA星空のライヴVII 東京2days(ネタバレ大あり)
相変わらずコメントスパムがやって来る
MISIA 星空のライヴVII 秋田公演は実質的に「アレックス追悼公演」でした
きょうにうってつけのニュースを発見
徒然煙草@「徒然草」展 (後編)
2100本目
2200本目
2300本目
2400本目
2500本目
14/12/31
15/06/04
15/11/22
16/04/17
16/10/10
140日間
156日間
166日間
145日間
173日間
  MISIAのプレイリストをつくってみた
名古屋旅行記(その17)
今年二度目の関西旅行記(その12)高野山編⑤
FY16も埼玉県立近代美術館の展示は絶好調 (前編)
Misia Candle Night 奈良遠征旅行記(初日・その5
2600本目
2700本目
2800本目
2900本目
17/02/18
17/07/30
17/12/17
18/06/14
128日間
162日間
137日間
177日間
  「カッコイイ!」の連発だったカッサンドル展
東京藝大のコレクション 第1期
2017年3度目の関西旅行記 #2-10
2018年最初の関西旅行 #3-3

2801本目から2900本目までの100本書くのに要した期間は177日間と、過去最長記録更新してしまいました(これまでの最長記録は2401~2500本目の173日間)

ネタがなくて書けないわけではなく、書く時間がないものでこんな状況となっているわけですが不思議なのは、このブログへのアクセス数、それも日々の「訪問者数」がジワジワと増え続けていること。
gooがどんなカウントしているのかよく判りませんけど、このデータが、私にとってブログを書くモチベーションになっていることは間違いありません

不思議ついでにいえば、今年3月の記事「なぜこの記事が?」で、古い記事へのアクセスが、その理由が判らないけれど多いことを書きましたが、この傾向が相変わらず続いています。

きのう一日の記事別アクセス数上位を見ますと、

と、最新の記事「2018年最初の関西旅行 #3-3」1位トップページ3位と、一応、面目を保っているものの、その他は「『まる・さんかく・しかく』は禅の真髄か? (前編)」を始めとして、古い記事だらけ…
ほんと、不思議です

   

さて、一つ前のキリ番記事「祝 記事2800本!」で、

少なくとも3位にはランクアップするはずです。

と書いた「MISIA」ジャンルの記事の数がどうなったのかといいますと、

予想通り3位ランクアップしました

でも、上に居続ける「旅行」「美術・博物館・アート」との差は広がる一方です。
でもでも、これもまた、

自分らしい 日々の証(あかし)

かと思うわけで…

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2018年最初の関西旅行 #3-3

2018-06-14 22:20:06 | 旅行記

「2018年最初の関西旅行 #3-2」のつづきです。

約30分間にわたって興福寺国宝館蠱惑的仏さま&仁王さん&邪鬼を愛でてリフレッシュした私は、「また来るからねぇ~」と、次なる目的地へ…。

次に興福寺に出かけるのはいつかな…? と、考えてみたら、今年12月15日「MISIA星空のライヴX」大阪公演@フェスティバルホールに遠征する予定がありますので、このときかな?

12月なら、再興なった中金堂にもお参りできますな
今から楽しみです。

   

で、もうちょいと築地塀手入れをした方がよさそうな興福寺本坊の脇を通って、、、、

前回、初めて観た正倉院展でいたく感激した奈良国立博物館は、特別展の狭間だったことからパスして興福寺国宝館と並ぶ今回の奈良散策の目玉春日大社国宝殿へ…。

と、その前に、参道からちょいと逸れて飛火野を歩いて、1年半前「Misia Candle Night」の思い出にひたりました

おやまぁ、結婚写真を撮っているカップル

たまたまきょうの日経電子版「結婚写真はロケ撮影、高くても2人の世界残したい」という記事(有料会員限定だとか)が載っていました。
「ロケ撮影1回13万7千円」ってのは高いなぁ~ と思ったら、

結婚情報誌「ゼクシィ」の「結婚トレンド調査2017 首都圏」によると、ロケ撮影の費用は平均で13.7万円とスタジオ撮影より1万円高かった

ですって。
1万円の差なら、ロケ撮影もありでしょ
もっとも、

業者やプランによっては2倍以上の差がつくことも珍しくない。

だそうで…。
約10年前台湾遠征のとき、中正記念堂結婚写真を撮るカップルを見かけて、へぇ~と思ったものですが、

日本でもこんなシーンに出くわす機会が増えるかもしれませんな。

あ" そういえば、今週末「MISIA星空のライヴX」台湾公演だ~

私は2週間後金沢公演から「MISIA星空のライヴX」に参戦しますので、台湾遠征される方々には、くれぐれもネタバレ自重していただきたい と思っております。

つづき:2018/6/24 2018年最初の関西旅行 #3-4

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久しぶりの王子散策記 #2

2018-06-13 22:02:52 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

「久しぶりの王子散策記 #1」のつづきもお札と切手の博物館の見聞録で、「#1」で予告した「地域通貨」のお話です。

日本最初の「紙幣」「地域通貨」だったというのは知る人ぞ知ることでして、説明板によれば、

1600年ごろ、日本で最初のお札である「山田羽書(はがき)」が登場する。伊勢神宮の門前町である山田で、商人たちが小額銀貨の預かり手形を発行し、これが貨幣の代わりに流通するようになったのである。

この「山田羽書」のことは2年前に放送されたブラタモリ「伊勢神宮 ~人はなぜ伊勢を目指す?~」に出てきましたっけ…

「山田羽書」のことは知らなくても、「藩札」なら「知ってるぞという人は多いんじゃないでしょうか?
上の説明板に載っている「出羽窪田銀」の現物(日本銀行貨幣博物館蔵)は展示されていませんでしたが、

同じ秋田藩(久保田藩)発行の藩札現物が展示されていました

さて、この「藩札(はんさつ)というのは、もう一度説明板から転記しますと、

江戸幕府は、金銀銅貨の「三貨」を発行し、全国的な幣制を整えた。しかし、地方では幕府発行の貨幣が不足した。そこで諸藩は、貨幣不足を緩和し、さらに藩の財政赤字を補塡するため、領内流通藩札を発行するようになった。現存する最古の藩札は寛文元(1661)年に越前福井藩が発行したものである。
藩札は、乱発されて価値が下洛することもあったが、価値さえ安定していれば金属貨幣より軽量で便利であり、江戸時代を通して全国の藩で発行されるようになった、明治4(1871)年に藩札の通用が停止されたときには、244藩(全国の藩の約8割)が藩札を発行していた。

だそうです。
正貨と交換できるという信用力と、による強制力によって、紙っぺらが藩内限定で貨幣として流通していたというわけですな

さて、時代は明治に変わり、明治政府「太政官札」という政府紙幣を発行しました。
ところが、Wikipediaによれば、

当初、国民紙幣に不慣れであったこと、また政府の信用強固では無かった為、流通は困難をきわめ太政官札100両を以て金貨40両に交換するほどであった。このため政府は、太政官札を額面以下で正貨と交換することを禁止したり、租税および諸上納に太政官札を使うように命じたり、諸藩に石高貸付を命じるなどの方法を講じた。これらの政策や二分金の贋物が多かった事などから、信用が増加したために流通するようになったが、今度は太政官札の偽札が流通し始め、真贋の区別が難しくなったため、流通は再び滞るようになった。

だとか。
この辺りの「事情」についてお札と切手の博物館の説明板では、

太政官札は、政府の依頼を受けた民間の職人によって、幕末期以来の技術で製造された。そのため偽造抵抗力が低く偽札が出回ったため、政府は近代的な印刷技術によるお札の製造を外国に依頼した。

だそうです。
発行元の信用だけでなく、紙幣そのものの信用(真贋)もまた、紙幣には重要だということですな。

そして、発行されたのが、ドイツで印刷された「明治通宝」と呼ばれる紙幣。

「日本風」というよりも「東洋好み」といった雰囲気が外国でデザイン&印刷されたことを伝えているようです。

ところで、太政官札明治通宝も、正貨との交換を保証しない「不換紙幣」でして、ひたすら「政府の信用」で流通させようとしています。

ところが、Wikipediaから引用すると、

当時は金本位制が国際的な流れで日本でも兌換紙幣(本位貨幣と交換が保障されている紙幣)を発行する必要性があった。明治政府は金本位制度の確立を民間に任せることとし、1872年(明治5年)に国立銀行条例(民間資本で発券銀行を設立し兌換紙幣の発行を義務付けるというもの)を制定した。これにより4行の国立銀行が設立され、1873年(明治6年)から兌換紙幣としての国立銀行紙幣が発行された。

ということで発行された兌換紙幣もまた外国製

券面をよく見ると、

「この銀紙幣を持参した者には、いつ何時であっても、2円をお渡しします」

といった文言があるのが兌換紙幣たる由縁です。

ちなみに、これら兌換紙幣を発行した「国立銀行」「国立」とうたっていますが、現在の「国立」とは意味が違っていまして、実質的に「私立銀行」です。
例えば、国立銀行として最初に設立された「第一国立銀行」は、「三井組」「小野組」を母体としたもので、第一銀行帝国銀行第一銀行第一勧業銀行みずほ銀行と現在につながっています。
みずほ銀行の金融機関コードが「0001」なのはこんな由来によるわけで…。

ここで疑問が湧き上がりませんか?

「第一国立銀行」の設立に関わった三井財閥(三井グループ)メインバンク「第一国立銀行」の流れを汲むみずほ銀行ではなく三井住友FGなのか ということ。

これは、三井財閥が、小野組やら渋沢栄一やらも経営に関わる第一国立銀行(1873年営業開始)とは別に、「自分たちの銀行」として「三井銀行」を設立(1876年)したから

私、大学では経済学部で日本経済史のゼミに所属していたのですが、ゼミの教授の忘れられないことばが、「就職したら、ぜひ、社史を読んでください」というものです。
この影響があるのかないのかよく判りませんけど企業の歴史って、ホント、面白いと思っています

なんだか方向性判らなくなってしまいましたので、きょうはこれまで

番外編:2018/06/19 久しぶりの王子散策記 番外編
つづき:2018/07/16 久しぶりの王子散策記 #3

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2018年最初の関西旅行 #3-2

2018-06-10 18:25:24 | 旅行記

「2018年最初の関西旅行 #3-1」のつづき、奈良編です。

近鉄奈良駅を出た私は、東向(ひがしむき)商店街を通り、左折して坂道を登り興福寺北円堂の南側から興福寺エリアに入りました。

ここまでの私のルートマップは、、、、かつてこれほどシンプルなルートマップがあったことか

東向商店街から興福寺に向かうルートには2通りありまして、この日、私がとったルートと、もうちょい東向商店街を進んで、高速餅つきで有名な中谷堂のある三条通りを左折して猿沢池の畔から石段を登って南円堂の前に出るルートです。

私が左折した交差点からもうちょい三条通り寄りの左側にかなぁ~り魅力的建物が立っています。

親愛幼稚園です。

この幼稚園、日本聖公会系、つまりキリスト教系(イングランド国教会系)の幼稚園なんですが、その建物は純和風
とにかくイイ感じの建物なのですが、私の写真コレクションには愛育幼稚園写真ありません
そこは幼稚園ですから、通りすがりの人間がカメラを向けるのは、あらぬ疑いを持たれる恐れがあるわけで…

この親愛幼稚園園舎と、その設立母体であるところの奈良基督教会礼拝堂は、

園舎は当初は教会の信徒会館として計画されて1929年完成。礼拝堂は翌1930年に完成、献堂聖別式が行われ、同時に親愛幼稚園が始まりました。当時、この教会の信徒であった宮大工、大木吉太郎さんが、それまでの寺社修復の経験を基に細部にまで思いを凝らし、精魂傾けて設計・施工されたのがわたしたちの礼拝堂と園舎です。以来88年の間、多くの方々の労苦と祈りによって大切にまもられて今日に至っています。

という経緯を経て、重要文化財の指定を受けています。

「クリスチャンの宮大工」というのはアリか? とも思いますが、大木棟梁公私しっかりと区分されていたのでしょう。

この建物群は、「宮大工によって造られた教会」として、3年前に放送されたブラタモリ「奈良~奈良発展の秘密は“段差”にあり」でしっかりと紹介されていました。

もちろん、この回録画はしっかりと保存しております
っつうか、録画に失敗した回を除いて、「ブラタモリ」はしっかりと保存しております。

   

さて、今回の奈良行きの一番の目的は、今年1月にリニューアルオープンした興福寺国宝館を拝見することだったのですが、その前に、西金堂跡の八重桜を愛でて、

落慶法要半年後に迫った中金堂の前を通り、

五重塔

軒の深い五重塔の写真を撮るときは、これくらいの曇り具合がちょうどイイ感じ

さて、久しぶり興福寺国宝館、っても2016年9月以来、1年半ぶりなんですけど…

リニューアルオープンした興福寺国宝館は、、あれま、出入口左右入れ替わっている

全体の配置は変わっていないようですけど、そして、半年ぶり仏さん八部衆十大弟子龍燈鬼・天燈鬼金剛力士ほかの皆さんですが、廻り方がになるだけで、結構印象が変わるものですなぁ

そうそう、新装なった興福寺国宝館は、リーフレットを用意していました。

A6サイズ縦折りした細長い判型で、ハンドブックとしてほどよい大きさ&形だと思います

しかも、その内容も、興福寺の誇るお宝について個別の解説が載っていて、かなり良いデキかと思いますぞ
例えば、阿修羅像を含む八部衆像の解説ページはこんな具合。

どうでもいい話ですけど、八部衆の中では年長組っつうか、おっさんっぽい 畢婆迦羅(ひばから)さん、

どうしてもカピバラと呼んでしまいそうで、ホント、申しわけない

つづき:2018/06/14 2018年最初の関西旅行 #3-3

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久しぶりの王子散策記 #1

2018-06-09 22:48:58 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

きょう、12ヶ月点検を受けに、板橋にある自動車ディーラーにクルマを持ち込みました。
所要時間は2時間程度だろうと予想して、その間、何をして過ごそうか と考えていました。
過去をふり返れば、ディーラーの近場でブランチを摂ったり、散策したり、近くの図書館ブログを書いたり、赤羽でブラブラしたり、赤羽からさらに足を伸ばしたりもしたのですが、今回は、久しぶりに王子を歩いてみようかと思いました。
ただ、約2時間(実際、ディーラーからもそんな見込みを伝えられた)だと、歩く範囲は限定する必要があるな… そんなことを考えながら、赤羽駅のプラットフォームで京浜東北線(南行)を待っていると、電話が…

ディーラーからの電話でして、「2時間程度とお伝えしたが、ナビの地図更新もあるので、4~5時間かかるですと

きょうは、特段、午後の予定を組んでいませんでしたから、王子散策の時間が増えた と、プラス思考で受け取り、王子駅へ…。

約6年ぶり王子散策(前回の散策記)ルートマップはこちら。

大ざっぱに書くと、

王子駅⇒お札と切手の博物館⇒装束稲荷神社⇒王子稲荷神社⇒昼食⇒王子神社⇒音無親水公園⇒飛鳥山公園⇒紙の博物館⇒王子駅

と、結構狭い範囲を歩いたのですが、それでも所要時間は3時間半と、なかなかなもの。
きょうは、日差しがあって、かなり暑かったのですが、それでも日陰の多いコースで、梅雨とは思えない快適な散策でした。

まずは、王子駅前からほど近い国立印刷局王子工場にあるお札と切手の博物館へ。

この博物館、見た目は郵便局っぽい。

独立行政法人 国立印刷局広報活動の一環という位置づけなのか、入館無料なのですが、それにしては、印刷、さらには、電子マネーが普及しつつあるとはいえ、日常生活には欠かせない「紙幣」の歴史やその意味なんぞも、まとめて知ることができるかなり密度の濃い展示をしています。

お札の原版を彫る道具なんてのは想像の範囲内ですが、1手彫りの原版を元に、印刷用の原版コピーを正確に複製しているなんて、あまり知られていない話かと思います。

切手印紙はもちろん、お札も、印刷用原版は、1回の印刷で複数枚の切手・印紙・お札を刷れるように、同じ画像が並んでいるわけで、

当然ながら、これらはすべて「同一」でなければマズい
ところが、かつてはこれら複数の画像を、1枚の原版手彫りしていたんですと

すると、どうなるかといえば、例えばこちらの日本最初の切手「竜文切手」の場合、

当時は版面の複製技術がなかったため、1シート40面分すべてが手彫りであった。反面は2版作成されたため、全部で80種のバラエティがある計算となる。特に1版目と2版目の違いは顕著である。
この製版法は、品質が均一でないため偽造品との区別が難しく、印刷効率も悪かった。

だとか。
19.5mm四方の小さな版面を、80枚分、寸分違わない画像を手彫りするなんて、到底無理 ってヤツですよ

ちなみに現在の切手は、偽造による影響の大きさと、製作の手間・コストを秤にかけた結果、オフセット印刷が主流になっているそうです。

   

ところで、今、日本国内で使われているリアルマネーには、造幣局が製造して政府が発行している硬貨と、国立印刷局が製造して日本銀行が発行しているお札(紙幣)2種類あります。
このうち硬貨はあくまでも「補助貨幣」の扱い(1回の決済で同一額面の硬貨は21枚以上だと受け取りを拒否できる)で、あくまでもメインお札=日本銀行券です。
単なる印刷物のお札が、その券面に印刷されている金額の価値を持つ紙であるということは、日本銀行がそう決めているから、つまり、日本銀行の「信用」が人々の間に浸透しているからなんですな。

その昔、貨幣は、といった、貴金属素材そのものの価値をよりどころにして流通していました。
でも、の現物で取引するとなると、高額になると、運搬も保管も大変 ということで登場したのが、「この証文とひきかえに金や銀と引き換えます」という、一種の「手形」のようなもの。
もとをたどると、17世紀の英国で金匠が発行していた約束手形=金匠手形=ゴールドスミス・ノートというものに行き着くそうで、最初の銀行券といわれるイングランド銀行銀行券は、

1694年に設立されたイングランド銀行が最初に発行したお札は、金匠手形の影響を受けた手書きの手形形式だった。

そうで、下の写真は1936年に発行されたイングランド銀行5ポンドの銀行券ですが、

18世紀前半、印刷されて額面が固定した形式になり、このとき採用されたイングランド銀行券のデザインは、1956年まで約200年間変更されなかった

だそうです。
18世紀半ばから約200年間ずっと同じデザインだったというのはすごい話です
18世紀半ばといえば、日本では江戸時代ですぞ

この頃の日本では、大判・小判やその他、「正貨」として取引が行われていたわけですが、「正貨」以外の、今でいう「地域貨幣」も流通していました。

その辺の話は「#2」で書くことにします。

つづき:2018/06/13 久しぶりの王子散策記 #2

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2018年最初の関西旅行 #3-1

2018-06-05 22:29:51 | 旅行記

「2018年最初の関西旅行 #2-11」のつづきは、2泊3日関西旅行最終日の旅行記です。

まずは、当日のダイジェストに載せたこの日の旅程最終版(ダイジェスト新幹線の車中で書いたもので、途中で終わっています)から。

ホテル⇒徒歩新大阪駅御堂筋線なんば駅⇒徒歩大阪難波駅近鉄奈良線近鉄奈良駅⇒徒歩興福寺⇒徒歩春日大社路線バス近鉄奈良駅前⇒徒歩餅飯殿センター街⇒徒歩近鉄奈良駅近鉄京都線京都駅東海道新幹線東京駅上野東京ライン赤羽駅埼京線自宅最寄り駅⇒徒歩自宅

で、旅行記本編を書くにあたり、ダイジェストを読み返してみたら、自分でいうのもなんですが、新幹線の中で書いてアップしたにしては、過不足無く、かなり良く書けています

そんな妙なプレッシャーをちょっと感じつつ最終日旅行記本編を書き始めることにします。

   

この日、4月9日は、かつての女友達誕生日…それは関係ない 平日の月曜日でして、この旅行の2番目の目的にしていた興福寺国宝館を訪れるべく大阪から奈良すんなり移動できるか? というのが課題になっていました。

荷物を引きずって移動することで通勤・通学の人たち邪魔したくなかったですし、去年11月の関西旅行のとき、大阪⇒奈良の移動に使った近鉄電車座れなかったという苦い現実がありましたから…

そこで、今回は、奈良での活動時間短くなること覚悟で、9:30ちょい過ぎと、私としてはかなり遅い時間に新大阪のホテルチェックアウトして行動を開始しました。

そんな策を弄した効果があったのか、、

当日朝の「Tweet」

という次第で、

そうそう、奈良での話を書く前に、大阪の地下鉄のことを書いておかなくちゃ

かつての大阪市営地下鉄(大阪市交通局)は、今年3月末をもって廃止されて、4月1日、つまり私の関西旅行の1週間ほど前から、その事業が「大阪市高速電気軌道株式会社(略称:Osaka Metoro)」に引き継がれていました。

実際に地下鉄を利用したところ、以前と変わった感じなかったのですが、「Osaka Metro」ロゴマークイイ

Osaka Metroのロゴマーク

「Metro」「M」をモチーフにしているんですが、シンプルかつ爽やかで、そして美しい

「大阪の地下鉄は料金が高い」「乗り換えが不便(乗り換えホームが遠い) 」といった私の先入観を払拭するのは難しいでしょうけれど(御堂筋線各駅立体感あふれるプラットフォームお気に入り)、「民営化」されてどんな風に変われるのか、期待しております

   

さて、10:30頃近鉄奈良駅に到着した私は、コインロッカーに荷物を入れ、帰りの近鉄奈良⇒京都特急券を購入したのち、地上に出ました

というところで、「#3-1」おしまいです。

遅い夕食を食べて、NHK FM「MISIA星空のラジオ」に備えなくては

つづき:2018/06/10 2018年最初の関西旅行 #3-2

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2018年最初の関西旅行 #2-11

2018-06-04 22:33:05 | 旅行記

「2018年最初の関西旅行 #2-10」のつづきです。

大阪城外堀を越えて内側に入る「口」は、北東から時計回りで、「青屋口」「玉造口」「大手口」「京橋口」4つあります。

あれだけ広い本丸・二の丸・西の丸に入る「口」が4つしかないというのは、意外な気がしますな。
で、今回の「第3部」にして初めて京橋口から入城しました。

説明板によれば、

大坂城の西北の出入口。北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」が架けられていることから「京橋口」あるいは「京口」と呼ばれた。戦前までは江戸時代以来の京橋門が残り、枡形には大手口と同様に多聞櫓もあって、大阪城の名所となっていたが、昭和20年(1945)の空襲によって全焼した

だそうで、高麗門多門櫓なく石垣が残るだけです。

でも、ここには大坂城No2巨石があります

でかぁ~い
まさしく「これ見よがしの巨石」です。

「肥後石」と呼ばれるこの巨石、その+主要な城郭の石垣ということからすれば、当然の様に城普請の名手として誉れ高い加藤清正公が思い浮かぶところですが、、、、

京橋口枡形の内、京橋口を入って正面に見えるのが、表面積が畳約33畳敷(54.17㎡)にもなる城内第2の巨石「肥後石」である。
築城の名手加藤肥後守清正が運んできたと伝えられてきたが、実際は徳川幕府による大坂城再築時に、この区画の石垣築造を担当した備前岡山藩主池田忠雄によって運ばれた。

だそうな。

冷静に考えれば、清正大坂の陣(1614年 & 1615年)に先立つ1611年亡くなっていますし、徳川幕府は、大坂の陣の前後を通じて豊臣期の大坂城徹底的破壊&埋設して、新たな大坂城を築いたわけで、京橋口だけ豊臣期の石垣が残っているとは考えづらい

それにつけてもかわいそうなのは、この「肥後石」を据え付けた池田忠雄公です。
お手柄を他人に持って行かれた気分かも…
でも、清正公がズルをしたわけではありませんから、忠雄公としては、清正公に負けない実績を積み重ね名声を得るしかない ということなんでしょ。

それはともかく、私はこれで大阪城外堀4つの門コンプできました

   

石垣しか残っていない京橋口の枡形を抜けると、、、、

なぜか阿形獅子

神社があるわけでもないのにどうして獅子がいる?
しかも、ちょいと見慣れない風情の獅子で、なんとなくよだれを垂らしているみたいです

獅子・狛犬にひとかたならぬ関心を寄せている私(たとえばこちらの記事をご参照方)としては、かなりの違和感を覚えたわけですが、傍らに石碑がありました。

中日友好萬古長青
 謹贈 大阪市
 中華人民共和国大使館

と刻まれています。
さらに、説明板もありました。

転記しますと、

こま犬
この一対の「こま犬」は中国・時代の文化遺産で、それぞれ高さ3m、重さ約2.9tある。日中戦争の最中に日本へ運ばれ、当時陸軍第四師団司令部のあった大阪城内に置かれた。戦後も長らく山里口枡形の東付近に置かれていたが、昭和59年(1984)、中国政府により改めて大阪市に寄贈されることとなり、現在の場所に移された。以来この「こま犬」は、両国人民の友好関係を促進し、友誼を深める象徴になっている。脇に建立された記念碑には、変わらぬ中日友好への願いを表した「中日友好 萬古長青」の文字が刻まれており、これは当時の宋之光中華人民共和国駐日本特命全権大使の筆になる。

だとか…。

「両国人民の友好関係を促進し、友誼を深める象徴になっている」と書かれてはいますけど、結構、ドロドロした、いわく付き「こま犬」のようで…

というか、これは「こま犬(狛犬)」ではなく「獅子」だと思うんですけど…

それはともかく、この付近から眺める大阪城天守、かなり見栄えがしました

内堀沿いに、大阪城天守を眺めながら歩き、私はこの日2度目青屋門を通って大阪城ホール方面へ…。

この青屋門大坂城の鬼門・艮(うしとら=北東)にあたる門なのですが、

青屋口は大阪城二の丸の北に位置する出入口で、青屋門はその枡形の内側に建つ。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620)ごろと考えられ、明治維新の大火によって被災し、その後陸軍によって改築されたものの、昭和20年(1945)の空襲で再び大破した。昭和44年(1969)、大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門である。
現状は上部に櫓を乗せる独立した櫓門だが、江戸時代には上部の櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く延びていた。枡形とは敵の侵入を防ぐための四角い区画のことで、青屋口の枡形は、二の丸の他の各口とは異なり外側に突き出す出枡形だった。さらにその外側は水堀となっていて、橋が架かっていた。この橋は押し出し引き入れ自在のいわゆる算盤橋で、非常時以外は引き入れたままになっていた。
「青屋」の名については、戦国時代この地にあった大坂(石山)本願寺の寺内町「青屋町」に由来すると考えられている。

だそうです。

非常時以外には使われなかったというのがキモでしょうな
青屋門と同様、鬼門であるにある熊本城不開門(あかずのもん)が、

「死人や不浄物の搬出時にだけ用いられていた」のと相通じるものがあると思うわけで…
ちなみに熊本城の不開門は、2年前の地震完全崩落してしまった由

   

さて、私が青屋門から外堀の外に出たのは15:30頃大阪城ホールでの「THE SUPER TOUR OF MISIA」の開場まで30分の段階でした。

このまま大阪城ホールに入る(列に並ぶ)にはまだ早すぎたわけでして、私は、JO-TERRACE OSAKAで、遅い昼食早い夕食を摂りました。
「#2-6」で書いたように、まともな昼食を摂れず、豚まん1回目の青屋口イカ焼きを食べただけでしたから

そして、MISIAの曲の流れるレストランで食事をした私は、いよいよ「THE SUPER TOUR OF MISIA」2日目出撃

この日のLIVEについては、当日のダイジェスト「THE SUPER TOUR OF MISIAをふり返る」シリーズで書きましたので、関西旅行記2日目編はここで完結とさせていただきます。

つづき:2018/06/05 2018年最初の関西旅行 #3-1

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