新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

撮りためた写真を整理・加工中

2016-01-31 16:22:04 | 日記・エッセイ・コラム

去年の半ば過ぎ、使っている2台のPC(基本据置&モバイル)共に、HDD残量が僅少になってしまいました。いや、モバイルPCの方は、SSDの残量が僅少になってしまいました。

原因は撮りためた写真でした。

旅行その他でバカバカと撮ってきた写真は、丸ごと外付けHDDオリジナルとして保存する他、撮影ミス「念のためもう一枚」で撮ったものを除いて2台のPCにも保存していました。

 ところが、PCのディスク容量が大きくなった一方で、写真のサイズもでかくなり、例えば、去年、高野山で撮ってきたこちらの写真の場合、

ブログ用にリサイズしたものは「950×642pixel」で287KBですが、オリジナルはといいますと、

「4592×3064pxcel」で7MBあります。
1旅行分のフォルダともなると、撮影枚数の多かった高野山を含む去年の10月の関西遠征のときなんぞは、6GBにもなってしまいます。

これじゃとてもPCHDDSSDがいくら大きくてもすぐに満杯必至なわけでして、オリジナルは外付けHDDに保存しつつ、PCにはリサイズした小さなファイルを貯めることにしました。

こうして、数ヶ月前からセコセコと時間を見つけてはリサイズ作業を継続中です。

フリーソフトの「かんたん画像サイズ変更」は、その名のとおり操作が簡単で重宝しているのですが、問題がありまして、縦長サイズと横長サイズの写真をまとめてサイズ変更すると、全部同じ縦横比にされてしまいます。
縦長だった写真が、上下に押しつぶされて横長になってしまうのですよ

そこで、写真をプロポーションで分類して、そのグループごとに変換作業をしておりますです。

それと、作業を進めながら気づいたことは、タイムスタンプ消えたり書き替えられている写真が少なからず存在していること
っつうか、「かんたん画像サイズ変更」でリサイズすると、全部「撮影日時」が消えてしまいます
いや、もっと正確に書けば、撮影日時が残っている写真も、全部「撮影日時」が消えてしまいます

例えば、2011年、東日本大震災直後に決行した京都旅行でのこの写真、

撮影日時:撮影日の指定
作成日時:2016/01/31 8:20
更新日時:2016/01/31 8:20

になっています
オリジナルには、

撮影日時:2011/03/19 13:40
作成日時:2011/03/19 13:40
更新日時:2011/03/19 13:40

と、しっかりと撮影日時のタイムスタンプが残っています。

う~む、、、、、タイムスタンプを調べるならオリジナルを見ればそれで足りるわけですが、なんとも気分はよろしくない…

ブログ掲載用の写真リサイズしていのにいつも使っている「Digital Image Pro」(販売終了)だと、

このように撮影日時はそのままで、加工作業のタイムスタンプが「作成日時」として記録に残るのですが、まだまだ膨大な巨大写真をリサイズしなければならないことを思えば、撮影日時のタイムスタンプは諦めましょうかねぇ…

今の作業が完了して、その後、暇なときにオリジナルを参考にして手入力するかな…。

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半年前の信州旅行記(その18)善光寺編 最終回

2016-01-30 10:58:31 | 旅行記

「半年前の信州旅行記(その17)善光寺編⑨」のつづきです。

「牛に引かれて善光寺参り」というフレーズがあります。

私も聞いたことがありましたが、意味が判らず、それでいて、意味を調べる気にもならず、片方の耳から入ってそのまま反対側の耳から抜けて行っておりました。

善光寺本堂裏には、こんなものがありまして、

ここまできて、ようやく善光寺との関係に興味が湧いてきました。

善光寺のHPに、「牛に引かれて善光寺参り」の詳しいお話が載っていますが、結構長い文なので、こちらから引用しますと、

思いがけず他人に連れられて、ある場所へ出掛けること。また、他人の誘いや思いがけない偶然で、よい方面に導かれることのたとえ。

だそうです。
なるほど、、、そういう意味でしたか…
私の場合、MISIAに引かれて○○○参り」と言い換える方がよろしいようですな
MISIA絡みの遠征ついでにあちこちを訪ねて 楽しんでいますからねぇ

で、上に載せた写真は、森永乳業寄進(?)した「乳牛親子像」だそうで、お母さんが「善子さん」、仔牛が「光子さん」だとか。

善光寺のサイト「乳牛親子像」の由来を見ようとすると、、、、写真とキャプション一致していません

経蔵前に設けられた一対の石柱で、「南無阿弥陀仏」の六字名号が刻まれています。石柱の中央にはめ込まれた輪廻車を回すと、極楽往生できるといわれています。

って、輪廻塔の説明ですな
「乳牛親子像」の正しい「説明」は、

樹脂で作られた乳牛の親子「善子さん」と「光子さん」の像です。「牛にひかれて善光寺参り」に登場する雄牛とは異なりますが、微笑ましい姿で広く親しまれています。

です。
でも、この説明じゃ「由来」は判りませんぞ
仕方ないので、先に進みます

   

上に名前が登場した「輪廻塔」、私は拝見することができませんでした。
というのも、経蔵修理中で、「輪廻塔」はその囲いの内側でした

この工事の「囲い」には、経蔵説明図が描かれていて、例えば、屋根の上の「火焔宝珠」については実物大かつしっかりした説明が書かれていました

説明を転記しますと、

「宝珠」とは元来は「宝の玉」という意味で、方形の屋根の最頂部に設けられる伝統的建造物における建築的装飾の総称です。
塔状の建物の頂部には「相輪」と呼ばれるリング状の金物を重ね合わせた装飾が設けられることも多いですが、これに対して「宝珠」は比較的高さの低い建物に多く取り付けられています。
善光寺経蔵の「宝珠」は玉の形に加え、火焔状にデザインされた装飾金具が付加されています。これは建物を火災や水難から護る意味があるとされています。

だそうです。

きっと「日本最大の宝珠」は、「巨大なタマネギ」とも呼ばれるこちらだろうな…

話を善光寺・経蔵に戻しまして、経蔵の中には、

八角の輪蔵があり、その中には仏教経典を網羅した『一切経』が収められています。輪蔵に付属している腕木を押し回すことでこの『一切経』を全て読んだことと同じ功徳が得られるといわれています。

だそうです。
一切経を収めた「回転式書架」は、三井寺(訪問記はこちら)で現物を拝見したことがありましたし(写真も撮ったのですが、ボケボケでお見せできませぬ)、高野山壇上伽藍には、かつては建物自体が回転したという「六角経蔵」もありましたっけ…

「輪蔵」を廻すだけで一切経を全部読んだことと同じ功徳が得られるなんて、なんともお手軽ですこと
お坊さんがお経を上げながら、経本南京玉すだれのように、両手でバラバラとはためかすようような所作をすることがありますが、これも、経本をバラバラとはためかすことで、そのお経を読んだことにするらしい。

この手の「お手軽」としては、「この日にお参りすれば、数万日お参りしたのと同じ功徳が得られる」という「二万五千日」とか「四万六千日」なんて例もありまして、俗人にとってはありがたいことであります。

   

本堂の北西に、堂々とした三重塔が立っていました。

これは、「日本忠霊殿」という建物で、

戊辰戦争から第二次世界大戦までの戦争で亡くなった、約240万柱の英霊を祀る仏式霊廟です。明治39年(1906年)に創建され、昭和45年(1970年)に現在の姿に改築されました。

というわけで、靖国神社仏教版といったところでしょうか?

ちなみに、日本忠霊殿前の六角灯籠は、松下幸之助さんが寄進したものだそうです。

日本忠霊殿1階には、「善光寺ゆかりの宝物を展示」する善光寺史料館が併設されていましたが、今回は時間の関係でパスいたしました。

善光寺史料館では、経蔵の工事期間中、一切経を展示しているようで、今にして思えば、拝観してくれば良かったかもしれない気がしないでもありません

   

こうして、約1時間にわたって善光寺境内を歩き回った後、長野駅へと戻りました。
なんとも慌ただしいのですが、1日善光寺松本市を観光してしまおうという強行軍なもので…

復路はバスに乗ろうかとも思ったのですが、急にソバを食べたくなったもので、ソバ屋を探しつつ徒歩長野駅に向かうことにしました。

ところが、時刻まだ10:00 営業中ソバ屋が見つかりません

結局、ソバにありつくことなく、長野駅に到着してしまいました

あ~あ…と思いかけたとき、駅前に営業中ソバ屋さんを発見

やったぁ~ざるそばをいただきました

朝食を食べてから3時間ほどしか経っていないのですが、ソバは別腹 です

で、ざるそばが出てきて驚きました

ワサビがない

仕方ないので七味唐辛子で食べました。

この「しきたり」、長野では一般的なのか? と調べると、案の上、長野(市)では七味唐辛子で盛りそばを食べるようです

私はこの「しきたり」を知らず、つゆ七味唐辛子を入れて食べましたが(やはりワサビが恋しかった…)、ソバに直接七味唐辛子をかけて食べればよかったかな・・・

それでも、長野市ソバを食べられてよかった、よかった…

ほんの2時間ちょっと長野市訪問ではありましたけれど、大満足でございました

つづき:2016/02/02 半年前の信州旅行記(その19)松本編①

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半年前の信州旅行記(その17)善光寺編⑨

2016-01-28 22:33:37 | 旅行記

「半年前の信州旅行記(その16)善光寺編⑧」のつづきでは、善光寺本堂の裏手に回ってみましょう。

その16」でトピックスにした御開帳のシンボル「回向柱」、その用材は毎回「松代町」から寄進されているのだとか。
そして、江戸時代は、その「松代」に本拠を置く松代藩善光寺を含む現在の長野市一帯を管轄していたらしい。

私、「松代」と聞くと、太平洋戦争末期に国の中枢の疎開先として建設された「松代大本営」が頭に浮かぶのですが、その「松代」どこにあるのか知りませんでした。っつうか、気にもしていませんでした
そこで、この機会に調べると、旧「松代町」は、1966年長野市と合併しておりまして、現在は「長野市松代町」になっておりました。

そして、江戸時代に領主だったのが、松代藩真田家
その真田家供養塔がありました。

江戸時代に善光寺の外護職を務めた松代藩の藩主、真田家の供養塔です。松代藩は善光寺を保護すると共に篤く信仰していました。境内東部には重臣らの供養塔も現存しています。

ということで、こちらがその供養塔

説明板に、「善光寺の外護職を務めた」という表記がでてきますが、「外護職」って何?
語感からして、何らかの役職っぽいのですが、私には初耳です。

そこで「外護職」ググってみたところ、ヒットしたのは、この善光寺の供養塔絡みのものがほとんど
せいぜい、「十市遠忠」なるこれまた初耳の人物に関するWikipediaの記述で、

1538年(天文7年)2月29日、大和国興福寺供目代御房へ大仏供上庄外護職を請けて忠勤を約束する。

というものくらいです。

う~む、、、、判らない・・・

判らないので先に進みます

   

世の中にはいろいろな供養塔があるもので(とりわけ上野の不忍池・弁天堂界隈供養塔銀座とも呼ぶべきスポット)、善光寺にも妙な(失礼)供養塔がありました。

「迷子郵便供養塔」とあります。
「縁起」として、

わが国における郵便物の数は年間110億通を越え米国英国についで世界第3位である
このなかに受取人に配達することも差出人に返送することもできない郵便が180万余通もある
これら郵便として使命を果たすことのできない迷子郵便を供養するため郵便創業百年にあたり前島密先生出身の地に近いここ善光寺に全国有志諸君とともにこの塔を建てる
 昭和46年4月20日
   郵政大臣 井出一太郎

と書かれていました。

でも、「郵便制度の父」とされる前島密の生誕地は新潟県上越市だし、当時の郵政大臣・井出一太郎さん(ひやぁ~、ご親族との私的な思い出が蘇るぅ~)は長野県でも群馬に近い佐久だし、どうして善光寺「迷子郵便供養塔」があるのでしょうか?

これまた判らないので先に進みます

   

次は、「花霊」と彫られた供養塔。

説明板によれば、

生け花に用いられたを供養するため、善光寺近郷の華道関係者によって昭和12年(1937年)に建立された慰霊塔です。題字は当時の善光寺大勧進管主、水尾寂暁師の御揮毫です。

とな。

生き物の供養塔はもちろん(高野山奥之院にはシロアリの供養塔までありましたっけ…:記事はこちら)、生け花に使ったとか、裁縫の針とかまで、そこに「霊」を感じて供養してしまうなんて、さすがは「八百万の神」の国、日本だと思います

ちなみに右に載せた写真(クリックすると、なぜか横倒しの拡大写真が表示されます)は、松島瑞巌寺で見かけた「鰻塚」

鰻好きの私としても「なまんだぶ…」

こうしたヒト以外の慰霊塔については、エクスキューズだという見方があるかもしれませんし、実際そうかもしれませんが、それでも、お金をかけて慰霊塔をつくる心持ちこそ、物質主義が跋扈する世の中では大事なことではなかろうかと思うわけでして…

つづき:2016/01/30 半年前の信州旅行記(その18)善光寺編 最終回

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半年前の信州旅行記(その16)善光寺編⑧

2016-01-26 23:17:02 | 旅行記

「半年前の信州旅行記(その15)善光寺編⑦」のつづきでは、善光寺本堂に参拝した後の散策のことを書きます。

私が善光寺お参りする約2か月前善光寺では7年に一度「御開帳」が行われて、大変な人出だったようです。
「その14」で触れた「ドローン事件」は、この御開帳真っ最中に発生したんでしたっけねぇ

その「御開帳」、HPによれば、

善光寺の御本尊「一光三尊(いっこうさんぞん)阿弥陀如来」は、ひとつの光背の中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が並ぶ、善光寺独特のお姿をされています。白雉5(654)年以来の秘仏であり、鎌倉時代に御本尊の御身代わりとして「前立本尊」が造られました。普段は御宝庫に安置されていますが、数え年で七年に一度の御開帳の時だけ、特別にお姿を拝むことが叶います
中央の阿弥陀如来の右手に結ばれた金糸は五色の糸にかわり、白い善の綱として、本堂前の回向柱に結ばれます。その回向柱に触れることは、前立本尊に触れるのと同じこと。ここにありがたいご縁が生まれ、その功徳ははかりしれません。

というもの。

本坊大勧進護摩堂前にはこの時にも回向柱が建てられていました。

回向柱には、「奉請結縁大聖不動明王」と書かれていますから、護摩堂に奉られている智証大師御作を伝える不動尊」と繋がっているのでしょう。

で、今年の御開帳に使われた回向柱は、役目を終えて、大勧進の裏手の「歴代回向柱納所」「移築」されていました。

 まだ「白木」でした。

この場所、「歴代回向柱納所」には、その名のとおり、過去数回の御開帳で用いられた回向柱が建てられていまして、こんな具合。

数え年で7年に一度開かれる御開帳のシンボルとして、前立御本尊と人々との架け橋となった回向柱は、御開帳終了後には経蔵裏手へ移動され、人々の思いと共に長い年月を経て土に還っていきます
現在は昭和30年(1955年)から平成27年(2015年)までの10本の回向柱があり、一番古い柱は30センチ程になっています。

だそうです。

見た目、公園の遊具にありそうに見えます

「長い年月を経て土に還っていきます」は理解できるにしても、回向柱はどのように朽ちて、このように短くなっていくのでしょうか

7年ごとに順繰りに場所を変えて立て直しているわけですから、次第に地中深く埋まっていっているわけではありませんし…

上の写真で、手前から3本目の回向柱に書かれた文字を読むと、

光明偏

とあります。
一方、今年の回向柱には、「梵字5文字+スペース」の下に「光明遍昭…」と書かれています。

ということは、先端と根元の両方が短くなっていて、特に根元の方が著しく短くなっていることが推察されますな。

私が妄想するには、

回向柱は、台風や大風にも倒されることのないように、結構深く埋められている。
風雨に晒されるうちに、柱の天辺朽ちていく
地中に埋められた部分も、地中の水分や微生物のおかげで朽ちていく
7年ごとに、代々の回向柱が掘り出される
7年後まで倒れることのないよう、腐った根元を切り落として、新しい場所に建てる。

この繰り返しで、回向柱は短くなっていく…
どないでっしゃろなぁ~

つづき:2016/01/28 半年前の信州旅行記(その17)善光寺編⑨

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半年前の信州旅行記(その15)善光寺編⑦

2016-01-24 18:41:59 | 旅行記

「半年前の信州旅行記(その14)善光寺編⑥」のつづきです。

寛延3年(1750年)に完成したという堂々たる山門(三門)をくぐると、

いよいよ善光寺本堂

TV七味唐辛子で見知った形ながら、これまたデカい

最近は数少なくなりましたが、銭湯のスタンダードなファサード「宮型造り」とよぶらしい)を連想いたします。(下の写真は江戸東京たてもの園にある旧子宝湯)。

Wikipediaによると、銭湯宮型造りは、

神社仏閣や城郭の天守を想起させる切り妻の屋根飾りに合掌組を反曲させた曲線(写真建物の上端部)は、宗教性や権威を誇るディテールであり、また、極楽浄土へいざなう入り口を示すシンボリックな側面を合わせ持っている。そこには一般在来建築とは様式が違うというだけでなく、非日常性という側面も垣間見える。当時の主な銭湯の利用客である市井の人々には「お伊勢参り」や「金毘羅山参り」、「日光東照宮参り」 など日本各地の神社仏閣への「お参り」旅行は参詣本来の目的に加えてイベントであり娯楽であったことも鑑み、人々の平凡な日常にとって宮型造りの銭湯に足を運ぶことはいつかの「お参り」にいざなう魅力的な装置としても機能した。

だとか。
そこまで深読みしますか…

   

さて、もうもう紫煙が立ち上る香炉に、私もお線香をお納めして、本堂

本堂の内部は当然の様に撮影禁止なので写真はありませんが、その広さもさることながら、天井が高い

で、内陣に進んでお参りいたしました。

ここで疑問がひとつ。

本堂の外観は、正面も全体も堂々としたシンメトリーなのに、ご本尊一光三尊阿弥陀如来が安置されている瑠璃壇は、左(西)にオフセットしています

どうしてなのでしょうか…

出雲大社が、本殿の入口も、神座も本殿の中心から右(東)にオフセット(かつ神座は本殿の正面ではなく左(西)向き)いていましたが、相通ずるものがあるのでしょうか?

よく判りませんので、先にすすみます

善光寺の名物、いわば体験型アトラクション(失礼)「お戒壇めぐり」というものがあります。

お戒壇巡りは、御本尊の安置される瑠璃壇下の真っ暗な回廊を通り、中ほどに懸かる極楽の錠前を探り当てて、秘仏の御本尊と結縁する道場です。右手で腰の高さの壁を伝ってお進みください。

だそうで、私もやってみました。
すると、これが面白い

一方通行の真っ暗闇の廊下を手探りで進むだけなんですが、あれほどの暗闇はそうそう体験できるものではありません

他の人の足音がする中、ただ自分の右手の感触だけを頼りに、そして、必ずここから出られるという確信のもとで、まったく光のない空間をソロソロと歩くことは、いろいろ考えさせられることがあり、素晴らしい体験でございました。
いや、きれい事を言っているのではなく、私の本心です

無事に「極楽の錠前を探り当てることもでき、秘仏の御本尊と結縁できましたので、よかった、よかった

   

善光寺本堂は、入母屋切妻屋根「妻」側(三角に見える側)が正面(妻入り)です。
またまた登場「出雲大社本殿」「妻入り」ですが、お寺の場合、「妻入り」は、客殿や庫裏を除けば珍しい気がします。

ところが、善光寺本堂をちょっと斜めから見ますと、

本堂の南側(入口側)北側(内陣側)とで、棟が直交しています。

説明板から引用しますと、

本尊を祀る仏堂に、参拝者のための礼堂(らいどう)が繋がった特殊な形をしており、棟の形鐘を撞くT字型の道具・撞木(しゅもく)に似ていることから「撞木造り」と呼ばれます。

だそうで、神社でいえば、本殿と拝殿がくっついた形になっていて、本殿(仏堂)が「平入り」拝殿(礼堂)が「妻入り」になっていると解釈すればよいのかもしれません。

この善光寺本堂は、

皇極天皇元年(642年)の創建以来十数回の火災に遭っており、現在の建物は宝永4年(1707年)の再建です。間口は約24m、奥行は約54m、高さは約26mあり、江戸中期を代表する仏教建築として国宝に指定されています。

だそうです。

   

ところで、善光寺の縁起は、

『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇13(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇三年(642年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました

というもので、長ぁ~い歴史を誇っています。
善光寺寺紋は、「立葵」で、

同じく「立葵」を家紋にしている徳川譜代本多氏を連想します
「御開山」本田善光さんと本多氏とは関係があるのだろうか? と調べてみましたが、本田善光さんは飛鳥時代の人であるのに対して、本多氏は、

藤原氏北家兼通流の二条家綱(家満)の後裔と自称した右馬允秀豊豊後本多郷を領したことから本多氏と称したことから始まるという。南北朝時代に助定の代に足利尊氏に従い、戦功で尾張横根郡と粟飯原郡の地頭となり、室町幕府の奉行衆も兼ねた後に三河に移住したのが定説とする。(Wikipedia)

だそうですから、あまり関係はなさそうです。

ちなみに「家紋」が使われ始めたのは平安時代のようですから、善光寺「本田(本多)」にあやかって「立葵」を寺紋にしたと考えるのが自然でしょう。
ただ、この説だと、本多氏がを家紋にしたとすると、

右馬允秀豊以来、古くから三河に土着した松平家(徳川家)と同じく賀茂神社を司る賀茂氏の系統である。(Wikipedia)

だそうですから、「神仏習合」状態になってしまいます。
もっとも、明治時代までの日本では「神仏習合」当たり前ですからねぇ

ということで、

家に帰るまでが遠足です

といいますが、私の場合は、

ブログに書くまでが旅行です

って感じでございます。

つづき:2016/01/26 半年前の信州旅行記(その16)善光寺編⑧

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半年前の信州旅行記(その14)善光寺編⑥

2016-01-23 23:48:38 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「半年前の信州旅行記(その13)善光寺編⑤」のつづきは、「その13」の最後に載せた「米原雲海彫刻展」フライヤーからスタート

高村光雲と共に善光寺仁王門仁王様他の彫刻を彫ったという米原雲海、お名前は初耳ながら、この彫刻、見たことがあるような気がしました。

どう見ても、こちらの記事で書いた、東京国立博物館(トーハク)で屋外展示されている「種痘医祖善那君像」ですよね。
ちなみに「善那」と書いて「ジェンナー」と読みます。

改めて、2010年8月の自分の記事を読むと、トーハクのサイトからの引用で、

高村光雲の弟子、米原雲海の作品です。

と書いてあるではありませんか

それを「初耳」だなんて…

いかんなぁ~

   

で、善光寺仁王門に話を戻しまして、私が「その13」に、

東京・浅草寺の仁王門にもわらじがあったっけ

と書いたことにつきまして、私の写真コレクションゴソゴソ(そんな音はしません)探すと、、見つかりました

正確には、「宝蔵門(仁王門)」と呼ぶらしいのですが、その門の裏側に巨大わらじが奉納されていました。

デカい です。

浅草寺デカわらじは、

高さ 4.5m・幅 1.5m、重さ 500kg、藁 2,500kg使用。山形県村山市有志より平成20年(2008)10月奉納[昭和16年(1941)の初回以来、7回目]
わらじは仁王様のお力を表し、「この様な大きなわらじを履くものがこの寺を守っているのか」と驚いて魔が去っていくといわれている。

だそうです。

なるほど 浅草寺のデカわらじの意味は判りました。
では、普通サイズのわらじが奉納されている善光寺のわらじにはどんな意味が込められているのでしょうか?

公式見解は見つかりませんでして、通説としては、「仁王様の力強さにあやかって、健脚を祈願するというものだそうですが、もしかすると、小便小僧を着せてあげるように、裸足の仁王様「こんなわらじで恐縮ですが、よろしければお履きください」という「笠地蔵」的な思いが込められているのかもしれませんナ。その可能性は低いけど…

さて、仁王門をくぐると、おみやげ屋さんが軒を連ねる仲見世通りで、前方には、これまた巨大山門(三門)

さぁ、いよいよ本堂が近づいてきた

と思ったら、山門(三門)の手前にこんな立て看板がありました。

善光寺では 御参拝される皆様の祈りの場である善光寺境内において ドローンをはじめとするリモコン操作による 無人飛行機の持込・操縦・飛行・撮影等を行うことを固くお断りいたします。
信州 善光寺

だそうです。

そうかそうか、一連のドローン騒動の中でももっとも象徴的なできごとは善光寺で起こったのでしたっけ

あのクソガキノエルくん、最近はおとなしくしているのだろうか?

例によってなかなか先に進めませんが、今夜はここまで。

つづき:2016/01/24 半年前の信州旅行記(その15)善光寺編⑦

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半年前の信州旅行記(その13)善光寺編⑤

2016-01-21 23:35:21 | 旅行記

「半年前の信州旅行記(その12)善光寺編④」のつづきなんですが、「その12」で

いよいよ or ようやく 善光寺に突入 です。

書いたものの、その前にちょっとだけ寄り道

私が善光寺の仁王門前に到着した時刻は9:00でした。
まだまだお店が開く時刻ではなく、ここまでは、善光寺表参道が一時的に「シャッター通り」化していたのですが、ようやく稼働中のお店を見つけました

職人さんがせっせと蕎麦を打っていました。
そうだよねぇ~、長野といったら、蕎麦名物ですものねぇ~

でも、私が上田のホテル薄いトースト4~5枚も食べてから2時間ほどしか経っていないわけで、まだ食欲はございませんでした。
っつうか、まだ営業している気配はございませんでした

   

で、やって来ました、定額山善光寺

立派仁王門です

傍らの、なかなかステキな説明板によりますと、

現在の仁王門は、当県山形村永田兵太郎を始めとする全国信徒の篤志により、大正7年(1918年)に再建されました。間口約13m、奥行約7m、高さ約14m、屋根は銅瓦葺です。
仁王像および背面の三宝荒神像・三面大黒天像は、近代彫刻の巨匠高村光雲米原雲海の合作です。「定額山(じょうがくざん)の額は伏見宮貞愛(さだなる)親王の御筆によるものです。

だそうです。

その仁王様しげしげと拝見

おぉ~

この仁王様を拝見して頭に浮かんだこと3つ

東大寺南大門の金剛力士像と同様、鳥よけの網が、写真撮影の邪魔
東大寺南大門の金剛力士像がお手本なんだろな
東京・浅草寺の仁王門にもわらじがあったっけ

は見てのとおりなんでパスしまして東大寺南大門金剛力士像を彷彿とさせる点につきまして…。

筋骨隆々でありまして、だけを見ても、ムキムキ極み

近代彫刻の巨匠高村光雲米原雲海」は、ぜぇっっったい運慶&快慶を意識して、この仁王様を創ったんだろうなと推察します

ところで、高村光雲といえば、まさしく近代彫刻の巨匠であることは私も存じ上げておりまして、「仏師」としても、高野山壇上伽藍金堂ご本尊をも造られています。

ところが、米原雲海さんというお名前は初耳です

そこで、ちょいとググってたどり着いたサイトがこちら

安来市加納美術館のサイトに掲げられていた「新安来市発足10周年記念事業『米原雲海彫刻展』」のポスターorフライヤーのこの像

と、思わせぶりに、きょうはここまで

つづき:2016/01/23 半年前の信州旅行記(その14)善光寺編⑥

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半年前の信州旅行記(その12)善光寺編④

2016-01-18 23:43:43 | 旅行記

「半年前の信州旅行記(その11)善光寺編③」のつづきです。

善光寺表参道「建物ウオッチングを再開する前に、表参道沿いで見かけたこちら

去年の初もうでの際、浦和調神社の近くで見かけて(こちらの記事)、

伊勢以外でこのしめ飾りを見たのは初めて です

と書いた「蘇民将来子孫家」しめ飾りこちらの記事をご参照方)ではありませんか
宗教都市(門前町)長野でこのしめ飾りを目にするとは思いませんでした。

   

さて、この西澤書店イイし、

その真向かいの善光寺郵便局イイ

この善光寺郵便局の建物は、どうやら「五明館」という旅館だったようで、その後、レストランとして営業していた時期もあったというサイトを見つけました。
ただし、それを裏付ける情報が見つからなくて、ホントにそうなのかは確認できていません

「かつて旅館だった建物」はこの他にもありまして、善光寺表参道で観られるステキな建物白眉ともいえそうなこちらなんてどうでしょうか

ファサードには、

と、右から左篆書体で、

御本陳藤屋旅館

とあって、入口のガラスにも、

HOTEL FUJITA
御本陳 藤屋旅館

と書かれています。

公式サイトによれば、

江戸時代に産声をあげたこの「御本陳藤屋」は、古くは加賀百万石・前田家藩主が常宿とし、近代に入ってからも、有栖川宮、伊藤博文、福沢諭吉、高村光雲、乃木希典など、目の肥えた各界の著名人、地元の名士を魅了するものでした。

そして、

大正14年(1925年)、国宝・善光寺仁王門の再生建築に指名された、越前宮大工・師田庄左衛門の手によって大正ロマンティシズムが薫る和魂洋才の館に生まれ変わりました。
華麗な意匠が感嘆を誘うアールデコの様式美。
一歩館内に入れば、数奇屋造りと大正ロマンが融合したクラシカルな趣の空間が広がり、四季を伝える日本庭園が、心に安寧をもたらす・・・。
西洋建築の美で人々の憧憬を集め、白壁土蔵造りの街並みの中でひときわモダンなランドマークとして愛され続けた”御本陳”

だったのですが、現在は旅館ではなく、レストラン・結婚式場「THE FUJIYA GOHONJIN」として営業中です。

新幹線高速道路の開通などで都会からの時間距離が縮まると、地方都市では支店・営業所が少なくなり、代わってビジネスホテルが増えるものです
さらにが、時間距離が縮まると、今度は日帰りビジネスパーソン/旅行客が増えてホテル・旅館業厳しくなるということでしょうか…

さらにいえば、私の故郷では、結婚式場が減って葬祭場が増える傾向にあります。

まったくもってう~む… です。

といった感慨を胸に歩を進めますと、 善光寺の仁王門目前です

ということで、「その13」では、いよいよ or ようやく 善光寺突入 です。

つづき:2016/01/21 半年前の信州旅行記(その13)善光寺編⑤

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半年前の信州旅行記(その11)善光寺編③

2016-01-17 22:33:37 | 旅行記

「半年前の信州旅行記(その10)善光寺編②」のつづきは、未だ善光寺表参道からです。

だいぶ善光寺に近づいてきたのですが、私の建物ウオッチングはますます盛り上がりました

この「中澤時計本店」イイです

帰ってから調べると、この建物は国の登録有形文化財に指定されていました

こちらのサイトによりますと、

現在の建物は大正13年の市区改正による善光寺門前、中央通りの拡幅に際して建て替えられた。その後、1階店舗部分については何度か改修されたが、住宅部分にはほとんど手が加えられていない。角地に位置し、善光寺に向けた北西面を隅切りとしている。
構造形式は木造二階建て、寄棟造平入り、銅板葺きで建築面積は158㎡で登録部分は1階153㎡、2階138㎡。通りに面した外壁は、同じ大門町にある登録文化財「藤屋旅館」と同じく、鉄筋コンクリートの洗出仕上げで、木造二階建てとしては各階高が非常に高く周辺に類を見ない造りになっており、細部意匠はセセッションの流れを汲む。
設計は長野市嘱託建築技師の本田政蔵、施工は大工棟梁・池田市郎で、当時の最先端の建築様式を取り入れた、施主、設計者、大工、洗出職人たちの意気込みが感じられる建物である。

だそうです。
ところで、「洗出仕上げ」って何? 「洗出職人」って何?

こちらのサイトの説明によれば、

洗い出しというのは日本に昔からある伝統左官工法の一つです。
種石を混ぜ込んだモルタルを敷き、まだ硬化しないうちに表面のモルタル分を洗い流し、砂利を表面に浮き出させた仕上げのことをいいます。

だそうです。
なるほど… イメージが沸きます。

が、「中澤時計本店」の建物については、そこまでよく見てなかった
ぬかりました…

予習不足していたことがバレたところで、

左の「柏輿紙店(柏与ビジネスセンター)」も、右の「忍者大門」も、どちらも良い味を出しておりました

   

善光寺までもうすぐ! の大きな交差点は、

大門交差点

「大門交差点」
「おおもん」ではなくて、「だいもん」ですよ。お間違いなく

この交差点にある銀行の建物がまたいい

八十二銀行大門町支店だそうですが、

現在の建物は平成9年新築。大正13年以来営業していた旧店舗を再現した、レトロ調の建物は、善光寺表参道の街並みに調和しながらも、ひときわ存在感を放っています。表参道では、善光寺に最も間近にある銀行です。

ですって

なるほど…
東京銀行協会悪夢のような建物とは雲泥の差ですな

いかん
眠い

ということで、善光寺表参道のお話はまだつづきます。

つづき:2016/01/18 半年前の信州旅行記(その12)善光寺編④

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半年前の信州旅行記(その10)善光寺編②

2016-01-16 23:39:52 | 旅行記

ちょっと一息入ったところで、「半年前の信州旅行記(その9)善光寺編①」のつづきです。

事前の調査がかなりいい加減だったこともあって、長野駅から善光寺につづく表参道(中央通り)「歩き」は、思いがけなく楽しいものでした。
いやいや、善光寺に着く前から、長野市にやって来て良かった と思うほどでしたゾ
何が楽しいって、表参道の両側の建物魅力満載でした

それも、特定の時代の建物が並んでいるのではなく、江戸時代の名残を感じる建物もあれば、明治文明開化っぽい建物やら、大正・昭和レトロっぽい建物やらと、まるで建物のテーマパークみたい
「その9」で書いた映画館「長野松竹相生座・ロキシー1・2」序の口って感じでした。

まずは、擬古的劇場「北野文芸座」

歌舞伎座をかわいらしくした感じですナ。

と思ったら、北野文芸座のHPには

日本伝統芸能の振興と地域文化の昂揚を願い、善光寺の表参道に北野文芸座は建築されました。東京の歌舞伎座風の外観に、日本瓦を使用した大屋根。そして、曲線が美しい「唐破風」と呼ばれる、銅板葺きの屋根を備えています。尾上梅幸丈の貴重な助言を得て完成した、北野文芸座。「役者の息吹きを、肌で感じることのできる」大劇場にはない魅力を持った劇場として、舞台芸術の醍醐味を満喫いただけるでしょう。

とあるし、Wikipediaには、

善光寺表参道(中央通り)に面し、歌舞伎座風の外観を持つ。伝統演劇のみならず音楽や各種公演にも用いられる。

とあるわけで、なるほどねぇ であります。

ちなみに、「北野」は、スキー部で有名な長野県の建設会社「北野建設」「北野」だそうです。

    

次はこちらの眺め。

江戸~明治初期の雰囲気の建物と、大正浪漫的な建物が並んでいるこの眺めは、川越を思い出させてくれました。

「笹本商店」の後ろにマンションが写っていますが、このマンションも地域に溶け込もうとする意気込みが感じられる造りになっているのがよろしゅうございますなぁ

   

次は、創業明治3年という文房具老舗「蔦友」さん。

壁面のT U T A T O M O」の字体(とりわけ文字の間隔)がレトロいいなぁ

創業明治37年伊東屋よりも長い歴史を誇っていらっしゃる
看板も渋い

 この写真を撮った時刻は、まだ8:49
営業しているお店がほとんどない という時間帯でありました。
ただ、クルマの通りも少なくて表参道を何度も横断して、右を観たり左を観たり好き勝手できたのはLuckyでした。

う~む、、、、どうもPC調子がよろしくない

加えて、眠いので、きょうはここまで

つづき:2016/01/17 半年前の信州旅行記(その11)善光寺編③

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