新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

帰省の途中で平安時代にタイムトリップ #3

2024-05-29 19:51:38 | 旅行記

「帰省の途中で平安時代にタイムトリップ #2」のつづきです。

平安時代貴族の屋敷といえば「寝殿造」です。
写真は、国立歴史民俗博物館で見た藤原道長の邸宅「東三条殿」の復元模型。

なんとも広大なお屋敷です。
なんでも2町(≒220m)四方だそうですから、二条城(東三条殿のすぐ西)二の丸御殿&庭園くらいの感じ。
もともと室町時代以前の建物が中心部にはあまり残っていない京都ですから、現存する寝殿造の建物は皆無だそうでですから、「平安時代の寝殿造の様式を再現した日本唯一の建造物」を標榜する「えさし藤原の郷」伽羅御所(きゃらのごしょ)貴重な存在です。

「伽羅御所」というのは、

奥州藤原氏の最盛期を築いた三代目・秀衡公の館を再現しました。
平安時代の寝殿造の様式で、寝殿を中心に東・北・西の対屋が渡殿(廊下)で結ばれ、家臣たちのいる侍廊、蔵人所・料理所・玄関にあたる中門あどとも繋がれています。寝殿は主人の住居であり、公的な行事の場でもありました。

だそうで、本物は平泉にあったのだそうな。

寝殿の正面にあるの向こうに、京都・宇治の平等院鳳凰堂(訪問記)とよく似たお堂のミニチュアみたいなのがありました。

どうしてここに平等院鳳凰堂が? と思ったら、

庭園の屋には、京都・宇治の平等院鳳凰堂を模して建立したと言われる無量光院が造られています。実際には400m離れた位置に建てられていたので、ここでは距離感をもたせて4分の1の大きさになっています。

ですって。
なるほど…
無量光院は、藤原氏三代秀衡によって建立された寺院で、宇治平等院鳳凰堂を模して建立された阿弥陀堂と、その周囲を取り巻く池を中心に伽藍が構成されていた」そうです。ただ、ご本家よりも大きかったらしい。
ただ、方角が違うような…

さてさて、寝殿造には棟と棟をつなぐ渡り廊下が必須ですが、廊下や橋がいい風情を漂わせていました。

そしてメインの寝殿には、知ってたけれど、壁が無い

京都の夏には涼しく良さげですが、平泉の冬寒いだろうに…

は、御簾几帳屏風(その名のとおり、元は風除けの調度品)で居住空間を囲んだそうですが、暖房器具といえば火鉢程度だろうし、蔀戸を下ろせば室内は真っ暗だろうし、部屋を閉め切れば一酸化炭素中毒の恐れもあるしなんとも辛い季節だったろうなと推察されます。

   

「東の対」では、藤原秀衡・泰衡親子と源義経とのご対面シーンが再現されていました。

秀衡公の背後の屏風は、内裏・紫宸殿(訪問記)を飾っている賢聖障子(けんじょうのしょうじ)(記事)を意識したものなのかな?
そして、お三方がお召し上がり中の食事を作る料理所も再現されていました。

当時の貴族の食事1日に2回だったそうで(相撲取りみたい)

米を主食に、副食は山菜やキノコ、魚介類、木の実、野菜類、キジやイノシシの干肉など。生ものは干したり、塩漬けや味噌漬けにして保存されました。調味料は四種器と呼ぶ酢・酒・塩・醤(ひしお:現在のもろみのこと)で、これらの食べ物をつけたり、かけたりして用いました。

とな。
そして、主食のは、

蒸した強飯(こわいい)、水で柔らかく炊いた姫飯(ひめいい)、それになどがありました。

だそうです。

それにしても、この伽羅御殿、もともと誰かのお屋敷だった建物をに手を入れてテーマパークとして公開しているのではなく、「新築したものなのに、作り込みが素晴らしい

東京・丸の内/大手町に何棟かある「旧建物の外観のイメージを残してみましたという姑息さ皆無で、本気度100%です
だからこそ、ドラマや映画のロケ地として重宝されているのでしょうねぇ

いやぁ、お見事 と唸りながら、伽羅御所をあとにしました。

で、あとになって判明したのは、寝殿を正面から撮った写真1枚も無かったこと
いやぁ~、失態です
まぁ、また行けばいいや とも思います。なにせ、別邸からならクルマで2時間で行けますから

【追記】きょう、NHK「いいね!光源氏くん し~ずん2」(録画してある)を視たら、第1回の冒頭(沙織の夢)が、ガッツリ「えさし藤原の郷」伽羅御殿でのロケ・シーンだった (2024/05/30 21:31) 

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1泊2日で青森市にドライブ旅行 【ダイジェスト 2日目編】

2024-05-25 18:33:26 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「1泊2日で青森市にドライブ旅行 【ダイジェスト 初日編】」のつづきです。

2日目(5/23)も前日につづいて良い天気
前夜、せっかく青森市に来たのだから、中心部にも行ってみようかな、と考えた末、この日の目的に急遽加えた「ねぶたの家 ワ・ラッセ」に向けてホテルを出発したのは、9:00ちょい過ぎでした。
私には青森市の土地鑑が皆無ですが、「ワ・ラッセ」青森駅の隣ですから、ナビに頼りつつも、案内標識だけでも行ける算段です。

そして、道で彷徨うことなく、9:30前には「ワ・ラッセ」の駐車場に入れました。
なお、駐車場有料ですが、「ワ・ラッセ」の窓口で入場済みの観覧券を見せれば、1時間無料になることは、事前に調べておりました

駐車場はに面していて、青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸が目の前です。

私は青函連絡船3度利用しましたが、私は八甲田丸には乗ったことがあるのかな 中学校の修学旅行の往路で乗ったのは津軽丸だということは、写真アルバムで確認できました。
と、埠頭に停泊してた大型客船は、、、

コロナ禍の序盤で乗客の集団感染が話題となったダイヤモンド・プリンセス
この船を見るのは、2016年Blue Note JAZZ FESTIVAL in JAPAN (MISIAとクロタク Gr.との初共演)赤レンガ倉庫に行ったとき以来

のっけから盛り上がった私でしたが、ここにはではなく「ねぶた」を観に来たわけでして、さっそく「ワ・ラッセ」に入館しました。

始めにパネルでねぶたの歴史なんぞをさらっとお勉強
ねぶたのルーツが「坂上田村麻呂」にあると聞いたことがありましたが、現在では否定的な流れだそうで、「民俗行事『眠り流し』が発展」説が有力のようです。

全国各地の農山漁村で七夕の日を中心に行われていた「眠り流し」の行事が発展したものとする説。
その始まりを民俗行事に求めた考え方ですが、初期のねぶたが「七夕祭」や「ねぶた流し」と呼ばれていたこともあり、有力な起源説と考えられています。「眠り流し」とは、仕事の進行を妨げる「眠気」を追い払う行事で、「ねぶた」は「眠り流し」がなまった語であるとも言われています。

だとか。
そうか、秋田の竿燈まつりとほとんど同じだ 
私の祖父は、「竿燈」とは呼ばずに「ねぶり流し」と呼んでいましたっけ…

なお、竿燈まつりと七夕との関係については、こちらの記事をご参照方。直接的な関係はなく、単に時期(旧暦)が近かったということらしいです

さて、私にとって初めて見るねぶた実物

大きい そして立体感が凄い

そして、360°それぞれの角度から違った場面を見られるというのが面白い

「ワ・ラッセ」の展示で初めて知ったのは、大型ねぶたそれぞれが大型発電機を搭載していて、電球や蛍光灯を光らせているということでした。
っつうか、光源その電源なんて考えもしたことがありませんでした

昔はろうそくを使用し、ねぶたに光を入れていたが、現在では800~1000個の電球や蛍光灯を取り付けています。
この電源になるのが発電機です。重さは約1.3tもあり、ねぶた本体と合わせると約4tにもなります。

だそうな。

う~む、楽しかった

   

次の目的地は「八甲田山雪中行軍遭難資料館」です。
泊まったホテルからは八甲田がよく見えました。

もと来た道を引き返すようにクルマを走らせていると、クルマの積算走行距離「キリ番」に近づいてきました。
今のクルマにしてからは「キリ番」を撮影することはしていなかったのですが、今回は撮影のチャンスですので、残り1kmを切ったところで、脇道に入り、いつでもクルマを駐めることができるようにしました。
そして、その時がやって来ました

55555km

納車(2019/6/1) から約5年でこの日を迎えました

さて、泊まったホテルの前の交差点を左折し(ルートにムダがある)15分ほど走ると、八甲田山雪中行軍遭難資料館に到着しました。

なかなか端正な建物です。
中の展示を見て察するに、遭難した歩兵第5聯隊の建物を模しているようです。

この資料館は、幸畑(こうばた)墓苑の中にあって、資料館の裏には、幸畑陸軍墓地があり、雪中行軍で亡くなった将兵の墓が並んでいました。

そちらはあとでお参りするとして、まずは資料館を見学しました。
資料館に入ると、、

後藤房之助伍長の像(レプリカ)です。
後藤伍長が仮死状態で発見され、蘇生後の証言から捜索活動が活発化したのだとか。この像についてはWikipediaをご参照くださいませ。

この遭難事件は新田次郎「八甲田山死の彷徨」を原作とした映画「八甲田山」(なぜか創価学会が製作に加わっている)でよく知られていますが、210名の行軍参加者のうち199名が命を落とすという、航空事故や海難事故以外にはありえない事故です。
しかも、朝に兵営を出発して(もちろん徒歩)その日のうちに遭難してしまったというのですから…

現代とは比べものにならない貧弱な防寒着で、足は「唐辛子と一緒に油紙で包んでわら靴」というもの。
コンパスと地図を頼りに、通信手段もなく、遭難2日目には青森市で「最低気温 -12.3℃、最高気温 -8℃、最大風速14.3m/秒」を記録するような極寒のタイミングで演習(行軍)を実施するなんて…

第5聯隊のトップが責任を問われて当然だと思うのですが(津川聯隊長は進退伺いを出している)、そのまま留任し、さらに、事件の1年後には中佐から大佐に昇格までしているという…。どういうこと?

資料館の裏にある陸軍墓地に立ち寄ってみました。

正面に大隊長の山口少佐以下士官10名の墓標があり、下士官以下189名の墓標が左右に分かれ、向かい合うように整然とならんでいました。

墓標の大きさは、階級によって区分されているようでした
まぁねぇ~

   

やるせない気持ちを抱えた状態でクルマに戻り、秋田を目指しました。
またまた来た道を引き返し、以下のルートで次の目的地大館市に行きました。

幸畑墓苑⇒青森中央IC⇒青森道⇒青森JCT⇒東北道⇒小坂JCT⇒秋田道⇒大館北IC⇒R7

大館で高速道を降りた目的はこちらです。

秋田犬会館です。
この日は木曜日だったため、くろべえ・銀ちゃんはお休みで、「本日は秋田犬は不在です。『秋田犬の里』で会えます」と貼り紙がありました。
今にして思えば、大館駅前にある秋田犬の里に行って、青ガエルと再会すれば良かったかな? と、ちょっと後悔

秋田犬会館3F秋田犬博物室を見学。

秋田犬の毛皮はほんっと大きくて、「毛色の変わったクマです」と言われたら信じてしまいそう

ヘレン・ケラー贈呈された秋田犬と一緒に写っている写真があったのですが、この「海外に渡った最初の秋田犬」神風号(1937年に渡米して2か月に病死)の兄・剣山号は、秋田犬というよりシェパードに近い顔立ちをしていました。
昔、秋田犬狩猟犬としてだけでなく、闘犬としても飼われていたそうで、強い犬をつくるべく、シェパードなど外来を含む大型犬と交配されていたとか。
現在では厳密に血統管理されていますが、この剣山号は、シェパードの血が濃く出たのかもしれませんな

ということで、どこかで昼食を、と思ったのですが、なかなかクルマを駐めて食事できるところがありません。
ようやく見つけたファミレス普通のランチをいただきました。

さて、次に行こうと考えていた伊勢堂岱遺跡をどうする???
この日に旧友たちと約束していた飲み会を考慮すると、あまり時間に余裕はありません
結局、ファミレスのレジでのちょっとしたこと伊勢堂岱遺跡に行く意欲が完全に途切れてしまい、そのまま別邸に帰りました。

伊勢堂岱遺跡秋田犬の里はまた次の機会に です。

以上、「1泊2日で青森市にドライブ旅行【ダイジェスト】」でした。

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1泊2日で青森市にドライブ旅行 【ダイジェスト 初日編】

2024-05-24 19:26:14 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「帰省の途中で平安時代にタイムトリップ」シリーズの途中ですが、一昨日&昨日決行した青森へのドライブ小旅行のダイジェストです。

私、津軽地方へは、何度か出かけたことがありましたが(直近では22年11月の弘前までの日帰りドライブ:記事)青森市の土を踏んだのは、青函連絡船JR(当時は国鉄)乗り換え3回(つまり1往復半)だけで、青森駅の構内で完結していました。
今回の帰省中に行ってみようかな、という気持ちで「外泊セット」を持っての帰省だったのですが、後押ししてくれたのは、たまたま某旅行サイトから今月のみ有効のポイント 1,000円分を貰えたこと。
よし これを使って青森市まで行ってこよう ということにしました。

日程は、秋田市のゴミ収集カレンダーとにらめっこした結果、月1度(本宅では毎週なのに…)でなかなかタイミングが合わなかった金属類・水銀含有物(蛍光管など)の収集日の5月22日に出発して、旧友たちとの飲み会が予定されている翌23日の夕方までに帰ってくることにしました。
週間天気予報によると、天候も上々そうで、ホテルも無事に予約できました。

当初のもくろみでは、メインテーマ「縄文」と「犬」に据え、

【初日】別邸⇒秋田道・東北道⇒三内丸山遺跡 & 青森県立美術館⇒ホテル
【2日目】ホテル⇒八甲田山雪中行軍資料館⇒東北道・秋田道⇒秋田犬会館伊勢堂岱遺跡⇒秋田道⇒別邸

というものでしたが、現地での思いつきや時間的な制約から、【2日目】

ホテル⇒ねぶたの家 ワ・ラッセ八甲田山雪中行軍資料館⇒東北道・秋田道⇒秋田犬会館⇒秋田道⇒別邸

に変更し、伊勢堂岱遺跡「また今度ということにしました。

   

初日の朝、8:30頃に別邸を出発し、秋田中央ICまでの通り道にある吉野家で朝食を と駐車場にクルマを駐めたものの、その店の営業時間は9:00から
出鼻をくじかれた感じ で、空腹のまま秋田道に乗りました

秋田道の秋田南IC以北は基本的に片側1車線(たまぁ~に追越車線がある)で、制限速度は70~80km/hで、しかも、2度もペースカー(パトカー)に先導されることになり、なんとも低燃費ドライブです。
1年半前に弘前に行ったときから秋田道のミッシングリンクが減ったものの、二ツ井白神IC~蟹沢IC6kmほどは未開通
でも、全通は遠くなさそうな印象を持ちました。

で、蟹沢ICから再び秋田道に乗り、ちょいと走ると、「道の駅 大館能代空港」の案内標識があり、レストランのマークも載っています。大館能代空港ICからすぐらしいので、乗ったばかりの秋田道を大館能代空港ICで降りて遅い朝食を摂ることにしました。この辺りは無料区間なので、気軽に乗ったり降りたりできます。
そして、案内標識にしたがって走っていくと、そこは大館能代空港駐車場 「道の駅」らしきものはありません

駐車場2周して判ったのは、大館能代空港の駐車場とターミナルビルがそのまま「道の駅 大館能代空港」なのだということでした。

あとになって大館能代空港のHPで知ったところによれば、

空港自体が道の駅となっているのは、他には石川県にある「道の駅 のと里山空港」のみ。

だとか。
のと里山空港といえば、あの地震で大変な所だよな…

で、私はレストランで、秋田の県北(比内地鶏)県南(稲庭うどん、いぶりがっこ)名産がコラボした「比内地鶏うどん」を食しました。

食事後、再び秋田道にのり、小坂JCTから東北道に合流し、ようやく片側2車線区間(ただしここから有料)に入りました。

津軽平野の沿線の眺めは、果樹園が広がり、沿道ではニセアカシア白い花を咲かせ、なんとも和みました

津軽SAで窓拭き休憩をとり、併せて、フォトスポットで岩木山をパチリ

津軽SAから約20分東北道の終点青森ICに到着しました。
これで私は、通算で、東北道の全線(約680km)を走ったことになります
と思ったら、小坂IC~小坂JCT6.4km未走破

それはさておき、青森ICの長い取付道路から一般道に降りてから、ほんの3分で最初の目的地の三内丸山遺跡に到着しました

青空が広がり、カッコーやウグイスの声が響く中、散策を楽しみました

それにしても、重機のない時代(今から5,900~4,200年前)にどうやってこんな巨大構造物を建てたんでしょ

こんなに太い栗の木を切るだけでも大変だろうに、直径・深さとも約2mのを掘るのも、柱を立てるのも、とんでもない労力と知恵が必要だったのでしょうな…

大型竪穴建物の内部この大型の建物の他にも、中小の竪穴建物が復元されていて、それぞれの形がなんともホンワカしていて楽しいのなんのって

ところで、私が小中高生だった頃には、登呂遺跡のような弥生時代の遺跡は習いましたが、縄文時代のことは、もっぱら土器や土偶のことしか習わなかったような気がします。大湯環状列石のことは習った記憶がありますが、それは例外中の例外でした。
この三内丸山遺跡の場合、なにせ発掘調査が行われたのが1992年だそうで、そりゃ若い頃に習うはずはありません

おっと、この記事は「ダイジェスト」ですから、先を急がねば

ということで、三内丸山遺跡の次のお目当ては、青森県立美術館、それも、「あおもり犬」です。

青森県立美術館は、三内丸山遺跡のすぐお隣、というか、ここも遺跡エリア内でした

上の写真は、「あおもり犬」の展示場に向かう途中にあった「トチの実の加工場」だそうな。

で、「あおもり犬」
展示場までは、案内矢印に従って(館内の展示室では案内図が配布されてました)、階段を下り、歩き、階段を上り、歩き、階段を下りて、ようやく到着です。

ひやぁ

「あおもり犬」は、観覧券無しでも観られるようになっていまして、観覧券を買って、展示室内からガラス越しに観るとこんな感じ。
こちらもなかなかです

青森県立美術館にはもう一点、観覧券無しで観られる奈良美智さんの作品がありまして、それは、八角堂内にいる「Miss Forest / 森の子」

これまた奈良美智さんらしく、とっても cute

この作品は、2016年に青森県立美術館の開館10周年を記念して制作されたものとか。

館内にも奈良美智さんの作品がたっぷり展示されていますし、弘前市出身奈良美智さんと青森県立美術館との良好な関係がうかがえます。

思い起こせば、宮城県美術館には佐藤忠良の、岩手県立美術館には萬鉄五郎、松本竣介、舟越保武のコレクションが充実しています。郷土出身の芸術家への敬意が感じられるのですが、それに引き換え、わが故郷の県立美術館ときたら… と、うんざりする私です

青森県立美術館には、いろいろと感服するところがありましたので、その辺のことは本編で書きたいと思っています。

というところで、「ダイジェスト 初日編」はここまで。

つづき:2024/05/25 1泊2日で青森市にドライブ旅行 【ダイジェスト 2日目編】 

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帰省の途中で平安時代にタイムトリップ #2

2024-05-21 16:26:17 | 旅行記

「帰省の途中で平安時代にタイムトリップ #1」のつづきです。

えさし藤原の郷は、20haの広大な敷地に厳密な時代考証のもと再現された日本初の平安時代の歴史テーマパークだというだけあって、エリアが広い

もちろん、20haの敷地内をくまなく歩き回れるわけではないけれど、自然たっぷりの中に「平安時代」が点在しています。

政庁南門を出ると、そこは「大路」

なんてことのない通りのようにも思えますが、政庁南門にあった説明板によると、

「麒麟がくる」のロケスポットだそうで、

道の真中に門を建てて京の都として使われました。戦のあとの荒廃した都や、本能寺の正門、華やかな京の市中と、美術スタッフがその都度装飾を変更しています。
足利義輝と光秀の出会いの場面や、旅芸人の一座が練り歩く場面などを撮影しました。

だとか。

別邸には近年の大河ドラマ総集編BDにダビングしてコレクションしていますので(「どうする…」は敢えて録画していない)「麒麟がくる」の総集編を超早送りで見直したら、

おぉ、確かにえさし藤原の郷の「大路」

なお、大路に面した左側の門、実際はトイレの入口です

   

さて、次は案内看板にあった「藤のトンネル」を拝見しようと、大路を真っ直ぐに進みました。

丁字路を左に曲がってすぐに右に曲がると、蓮やアヤメ、ツツジが咲くがあり、その先には城柵が見えました。

説明板によると、宮城県築館(学生時代に世論調査のアルバイトで行った思い出の町)にあったという伊治城の門。
伊治城は、こちらによると、

『続日本紀』によれば神護景雲元年(767)に設置され、律令政府による古代陸奥国経営の重要拠点の一つ

だとか。
この時代(8世紀)新潟を含む北日本にあった律令政府の拠点は「○○柵」がほとんどで、「城」と呼ばれたのは、多賀城秋田城くらいものですから、この伊治城は、陸奥国府(多賀城)の北方支所のような位置づけだったのではなかろうか

私が見た順番は前後しますが、この他にも、朝廷と対立した安倍氏の拠点の一つで北上川をはさんで伊治城と対峙した河崎柵(一関市)とか、

安倍氏の拠点にして前九年の役(1051~1062年)安倍氏滅亡の場所となった厨川柵(盛岡市)とかも再現されていました。

さてさて、「藤のトンネル」です。

「藤原の郷」というくらいですから、やはりがないとね…

とてもきれいだし、藤の香りがかぐわしくて、大変良かったのではありますが、を愛でる観光客に負けじとたくさんの大きなたちが狂喜乱舞していて、ちょっとビクビクでした

   

厨川柵を入り、さらに奥に進んでいくと、初めて聞く「アラハバキ」(秋葉原のアナグラムではない)というものがありました。

説明板には、

アラハバキの神は、古代の神で、朝廷にとって「まつろわぬ民」であった蝦夷の神様という伝承があります。
このアラハバキは、平成5年(1993)大河ドラマ『炎立つ』で、朝廷軍と奥六郡の豪族・安倍氏の戦いの火ぶたが切られた「鬼切部の戦い」に際し、安倍貞任が自分の行く末と戦いの勝敗を占ったシーンに使われたものです。

とありますが、見た感じ、大湯環状列石(ストーンサークル)みたいだ… と思いました。
あとになって「園内散策マップ」を読んでみると、

東北でさかんに行われていた古代神信仰の霊場を、秋田県鹿角市の大湯ストーンサークルを参考に再現したものです。

ですって
やはり… です。

   

次に見たのは、奥州藤原氏のシンボルともいえるこちら。

言わずと知れた中尊寺金色堂です。

説明板には、

平泉黄金文化の象徴である金色堂を、建立当時を想定して覆堂のないかたちで再現しています。奥州の覇者となった藤原清衡公は平泉で新都建設に着手しました。その中心となったのが中尊寺で、諸堂の造営にかかった歳月は約21年に及びました。
現存する金色堂は三間四方の建物で、全体に漆が塗られその上に金箔が張られています。清衡公は戦乱で罪なくして死んだ魂を弔い、奥羽の安寧と国家の安泰を祈念するとともに、辺境と言われた地に都と同じ仏教文化を築くという願いを込めて金色堂を建立しました。

と、ありました。
今年1月、私は東京国立博物館「中尊寺金色堂」展を観て、こちらで書いたように、あらためて金色堂にお祀りされている仏像その他の素晴らしさと、奥州藤原氏の凄さ感服しまくったことを思い出していました。

なお、3か月にわたって東京出張されていた諸仏は、こちらによると、先月24日までに無事に金色堂に戻られたそうです。

この金色堂は、実際にそうであるように高台にあって、そこからの眺めは格別でした。

これほど本格的な建物群ですから、そりゃ、ドラマ・映画の製作陣は放っておけないよな…
まるでオープンセットみたいですが、もとをただせば、大河ドラマ「炎立つ」の撮影用につくられたオープンセットを引き継いだのがこのえさし藤原の郷だそうです。
えさし藤原の郷の運営主体NHKとの費用分担はどのようにしたんだろ と下世話なことを考えたりして…

金色堂から急な石段を下りた私は、眼下に見えた「平安時代の寝殿造の様式を再現した日本唯一の建造物」だという「伽羅御所」に向かいました。
その見聞録は「#3」で。

【追記】記憶違いが判明しましたので、最後のパラグラフをちょいと修正しました (2025/05/29 09:32) 

つづき:2024/05.29 帰省の途中で平安時代にタイムトリップ #3 

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帰省の途中で平安時代にタイムトリップ #1

2024-05-20 17:45:10 | 旅行記

先週の日曜日から別邸帰省中です。

私が帰省 & Uターンするときは、クルマのときも新幹線のときも、ほとんどどこにも立ち寄らず本宅⇔別邸を移動するだけです。例外は、郡山・仙台・盛岡とかでのMISIAのライヴに絡めて帰省したとき(たとえばこの記事)と、一関に1してして平泉(記事)小坂を楽しんだ時(記事)くらいのもの。

今回は、水沢ICでいったん東北道を降り、えさし藤原の郷(さと)に行ってきました。
「えさし藤原の郷」には以前から興味を持っていて、どこにあるのだろうかと調べたら、水沢ICから遠くないではないか と、今回の帰省ではなくても、いつかは行こうと思っていました。
それが、今回は午前中に岩手県内に入れるペースでしたし、なによりも天気「暑からず寒からず」で上々でしたので、さっそく行ってみました。

水沢ICから一般道を走ること15分ほどで、「えさし藤原の郷」に到着しました。

駐車場が広くて驚き、そして、それがかなり埋まっているのにも驚きました
NHK大河ドラマ「光る君へ」のロケで使われ、「紀行」でも紹介された影響もあるのだろうな…
しかも日曜日だったし…

さもそも、この「えさし藤原の郷」とはなんぞや? ですが、説明板を抜き書きしてしまいましょう。

歴史公園えさし藤原の郷は、平成5(1993)年7月20haの広大な敷地に厳密な時代考証のもと再現された日本初の平安時代の歴史テーマパークです。国内唯一の「寝殿造」の再現をはじめ、大小合わせて約120棟の建築物が建ち並びます。
ここ「江刺」奥州藤原氏初代清衡公の生誕の地で、清衡公が平泉に移るまで暮らし、平和都市平泉の構想を思案した地と伝えられています。清衡公の父・経清公は、亘理地方(現・宮城県亘理郡)を治めていた朝廷側の役人でしたが、岩手県の豪族「安倍氏」の娘婿となり江刺に移り住みました。江刺と奥州藤原氏の密接な関係は、この時から始まりました。(中略)
経清公・清衡公親子の偉業を顕彰し、奥州黄金文化発祥の地として「歴史公園えさし藤原の郷」は誕生しました。また、平成5年の大河ドラマ「炎立つ」のメインロケ地となったことをきっかけに、数多くのドラマや映画の撮影も行われています。
一千年の時間を超え、さあ出かけましょう、超時代旅行へ!

だそうです。

説明文にある数多くのドラマや映画の撮影も行われていますはダテではなく、入場門脇には、ここで撮影されたドラマや映画の紹介パネルがズラリ

NHK大河ドラマなんて、3作に1作はここでロケをやってるんじゃないのか という感じで、反対側には「陰陽師0」「首」の紹介パネルもありました。
さっそく、観覧料1,000円(安い)Suicaでお支払いして入場 (駐車場は無料)

まずは、「政庁北門」をくぐって

8~9世紀頃の様式で再現されたという「政庁」から。

8~9世紀の様式の政庁

「政庁」と聞いて思い出したのは、秋田城趾で見た政庁の模型と、

東北歴史博物館で見た多賀城の政庁の模型(どちらも8世紀頃)でした。

なお、秋田城多賀城も、「城」といいつつ、実質は古代の地方行政機関です。
念のため…

えさし藤原の郷「政庁」のおもしろいところは、この8~9世紀の様式「政庁」背中合わせに、平泉藤原時代の様式「政庁」が建てられていることです。

説明板によると、

平安時代後期の政庁は12世紀頃のもので、唐の影響を受けて正殿を中心に左右対称に建物が配置され、太い朱塗りの丸柱は格の高いことを示しています。檜皮葺入母屋造の正殿と脇殿は回廊で結ばれ、高床式の蔵を築地塀揚土塀(あげつちべい)で囲んでいます。
中央政権の権威を表した華麗な造りになっています。

とのこと。

築地塀は判るけど、揚土塀って何???
こちらのサイトにある「練塀」みたいなものかな???

判らないまま先にすすみますと正殿脇殿の中にはいろいろなモノが展示されていまして、楽器とか、

遊び道具とか、

そして、いかにも平安時代らしい3領の大鎧とか…。

そして、正殿の中では、「源頼義の陸奥守着任」の様子が再現されていました。

この正殿意外だったのは、天井がなく、小屋組が丸見えだったこと。

このえさし藤原の郷は「厳密な時代考証のもと再現」されたというのですから、こういう造りだったのでしょう

ところで、「光る君へ」第4回「五節の舞」は、この政庁の前庭に舞台を特設して撮影されたそうな。

と、ここまで2つの建物を見ただけだというのに、30分が経過していました。

でも、まだ12:30ちょい過ぎですから、のんびりとまいりましょう。

ということで、「#2」につづきます。

つづき: 2024/05/21 帰省の途中で平安時代にタイムトリップ #2 

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