新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

コロナウィルスにも負けず出かけてきた #2

2020-02-28 22:03:52 | 美術館・博物館・アート

この記事は、「コロナウィルスにも負けず出かけてきた #1」つづきではありませんで、きのうに引き続いてお出かけしてきたきょうのお話です。

「#1」書いている最中に、東京国立博物館(トーハク)が、新型コロナウイルス対応として、きのう(27日)から臨時休館に突入したことを知り、さらに、東京国立近代美術館(MOMAT)も、同様に29日から臨時休館するということを知りました。

このMOMAT臨時休館のニュースは、かなりの衝撃でした。

というのも、MOMAT工芸館は、3月8日までの予定で開催されている「所蔵作品展『パッション20 今みておきたい工芸の想い』」を最後に、その機能を金沢に移転させることになっていたからです。
旧・近衛師団司令部庁舎の建物での展示が終了することは、私も知っていまして、「所蔵作品展『パッション20 今みておきたい工芸の想い』」には絶対に行くつもりでした。それが、急遽きょう2月28日が最終日になってしまうなんて…

ということで、「MOMAT工芸館 最後の日」に行ってきました

きょうの行程と、北の丸公園内のルートは下記と下図のとおりです。

自宅⇒徒歩最寄り駅埼京線池袋駅山手線高田馬場駅(昼食)東西線竹橋駅⇒徒歩MOMAT工芸館⇒徒歩(北の丸公園)⇒徒歩九段下駅半蔵門線永田町駅有楽町線池袋駅埼京線最寄り駅⇒徒歩⇒自宅

MOMAT工芸館に着くと、平日だというのに、大勢の人たちがいて、そして、工芸館の建物の写真を撮っていました。
そりゃそうですよね…

私も、ひとしきり建物の外観を鑑賞しました。

この建物は、明治43年(1910)に、近衛師団司令部庁舎として建てられたもので、MOMATのHPから転記しますと、

昭和47(1972)年10月に外壁、玄関および階段ホールが重要文化財に指定されました。翌年から保存活用工事が行われ、内側に新たに鉄筋コンクリートの構造体を設け、煉瓦壁体はあたかも外装タイルのように扱っています。屋根は震災後の桟瓦葺から建設当初のスレート葺きに復元されました。中央の階段回りとホールの部分は、当時の姿を残しているといわれています。東側に設置された和室も含め展示室は、東京国立近代美術館本館の設計者である谷口吉郎によって設計されました。

だそうで、所有者は「独立行政法人国立美術館」になっているようです。
ここでも出てきた美術館建築の第一人者・谷口吉郎さん
谷口さん金沢の出身で、金沢には、谷口さんの住居跡に、谷口さんのご子息で、現在の美術館建設の第一人者、谷口吉生さんの設計による「金沢建築館」が建てられています。
MOMAT工芸館機能が、この谷口さんが設計した展示室から、ふるさとの金沢に移転することになろうとはねぇ~
まさか、「谷口さんつながり」ってことは無いよな…

   

というところで入館し、チケットを購入

歴博(記事)と同様、JAF会員割引があって、こちらは一般:250円⇒200円ちょっとだけ得しました

MOMATでありがちな立派な無料リーフレットをいただき、

展示室のある2階に上がると、ここでも、写真を撮る人多し…

それはともかく、「所蔵作品展『パッション20 今みておきたい工芸の想い』」を観覧したんですが、感想を大ざっぱに言えば、

前半は、最高
和服(染織)がとにかくステキ
鈴木長吉さんはさすが
 後半は、私の好みじゃない

でございました。

詳細は後日書くとして工芸(Crafts)が、絵画や彫刻など(Fine Arts)と区分(≒一段下の扱いを)されていることって、だよなぁ~ と思いました。
考えようによっては、絵画や彫刻のように観るだけでなく、実際に生活で使える点で、工芸の方が上に扱われてもおかしくない、とまで思ったりして…

   

MOMAT工芸館の外に出ると、ぐる~っと建物を一周

床下換気口の意匠が「五芒星✯」だなんて、やはり元・日本陸軍の建物ですなぁ…

外壁中央階段のみの「どんがら重要文化財」とは言え、やはりステキな建物です

「MOMAT工芸館」としては「さらば。」ですが、

「独立行政法人国立美術館」(=MOMAT)が所有するこの建物、今後はどのように活用されるのか、楽しみでもあります
MOMAT本館からちょっと離れているのは難点ですが…

   

「オリンピック前に開館」するという金沢の「国立工芸館」

どうしたことか、こちらも、旧陸軍の施設、第九師団司令部庁舎金沢偕行社(こちらのサイトをご参照方)だというのは、意図したことなのか、MOMAT工芸館の「面影」を残す工夫なのか、どちらなんでしょ

それはさておいて、金沢の「国立工芸館」には行きたい
MISIAがたびたび公演する「本多の森ホール」すぐ近くですし、遠からぬ時期に出かけそうな気がしています。

いや、このあと、オリンピックに向けて改修工事の続く日本武道館至近から約10ヶ月ぶり(「MISIA平成武道館」以来)に見て

「行くぜ、金沢強く思ったのでありました。

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コロナウィルスにも負けず出かけてきた #1

2020-02-27 21:04:46 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

現在、国宝に指定されている文化財は、今月1日現在、全部で1,117件あって(原典)、都道府県別では、1位:東京都 281件、2位:京都府 234件、3位 奈良県 203件と、この3都府県がトロイカ体制(古いことば…)を築いていて、4位以下は、4位:大阪府 62件、5位:滋賀県 56件、6位:和歌山県 36件と水をあけられています。
東京都1位なのは、収蔵品・寄託品合わせて144件(2019年3月31日現在)も国宝を抱えている東京国立博物館(トーハク)の存在がデカい

ところが、建造物 271件の所在地を見ると、1位:奈良県 64件、2位:京都府 51件、3位:滋賀県 22件、4位:兵庫県 11件と、やはり畿内が上位を占めていて(大阪府は5件9位)東京都はというと、たったの2件。しかも2009年までは、東村山市正福寺地蔵堂しかありませんでした。

そんな、数少ない東京都内の国宝建造物の一つを、きょう、見学してきました

まずはきょうの行程から。

自宅⇒徒歩最寄り駅埼京線恵比寿駅日比谷線六本木駅⇒徒歩六本木ヒルズ(大宮エリー個展「大自然の動物たち〜ハートのレオナ原画展とともに〜」)⇒EXシアター六本木前路線バス渋谷駅前⇒徒歩昼食Bunkamura ザ・ミュージアム (永遠のソール・ライター)⇒徒歩渋谷駅銀座線赤坂見附駅丸ノ内線四ッ谷駅⇒徒歩迎賓館赤坂離宮(迎賓館赤坂離宮特別展~1964年東京オリンピックがつくられた場所~(歴史と写真展))⇒徒歩四ッ谷駅中央線新宿駅埼京線最寄り駅⇒徒歩⇒自宅

ということで、私が見学した「東京都内の国宝建造物の一つ」というのは、迎賓館赤坂離宮でした

「永遠のソール・ライター」展3月8日まで、「迎賓館赤坂離宮特別展~1964年東京オリンピックがつくられた場所~(歴史と写真展)」3月10日まで、「大自然の動物たち〜ハートのレオナ原画展とともに〜」3月1日までと、いずれも会期末迫っていることに加えて、このご時世ですから、いつ繰り上げ千穐楽になっても不思議ではありませんので、ドタバタ3か所をハシゴしてきた次第です。
もちろんマスクを着用して、更に予備のマスクも持って…

と、先週金曜日に観てきたトーハク「出雲と大和」展(記事はこちら)が、3月8日まで1週間以上の会期を残して、きのうで終わってる…
危なかった…

   

それはさておき、まずは、六本木ヒルズ A/Dギャラリー「大自然の動物たち〜ハートのレオナ原画展とともに〜」

ちょいと会場を探し回って、ようやく看板を見つけた と思ったら、が閉じてる 
一瞬、マズい予感が頭をよぎりましたが、会場の入口にあるミュージアムショップの品揃えが面白くて(こちらの記事で登場したマムアンちゃんのグッズがあった)、しばらくウインドウショッピングを楽しんでいると、あれ 開いた
まさか12:00開場とは思わなんだ
予習ほとんどしていないんだから、もう…、困ったもんだ…

さて、大宮エリーさんの作品は、新丸ビルでのパネル展でも拝見しましたが(記事はこちら)、やはり原画違うなぁ~

どれもこれもお持ち帰りしたい作品ばかり
パネル展のときには、こんな感覚は無かったからなぁ…

で、一番はこれかなぁ~

いや、これイイ

おっと、もしかして、こちらが、

MISIAが、「このバオバブじゃないと言ってボツにした作品かな?

MISIAからのも飾られていました。

こうして「大自然の動物たち〜ハートのレオナ原画展とともに〜」を楽しんだあと、さて、六本木から四ッ谷まで行くにはどういうルートがあるのだろうか? と考えましたが、地下鉄の乗り継ぎが思いつきません
そこで、スマホで路線検索すると、バス乗り継ぎが推奨されていて、どうもピンと来ない…

それなら、めちゃくちゃ頻繁に走っている新橋⇒渋谷路線バ(就職間もない頃、毎日地下鉄で通っていた新橋~渋谷の区間を、「地上も見たいと、バスで帰ったことがありました)に乗って渋谷に行けば、そこからはうまく渋谷⇒四ッ谷⇒帰宅の移動ができるではないか と思い至りました

そうした結果、上に載せた行程になったわけでして…。

EXシアター六本木前(バス停)に向かって歩いて行くと、おっと、渋谷行きのバス行っちゃった

と思ったら、またもや、渋谷行きのバス行っちゃった

やはり、新橋⇒渋谷の路線バスは、めちゃくちゃ頻繁に走っているのです

そして、2本続けざまに通り過ぎたばかりだというのに、すぐに後続がやって来て、私は待ち時間無し渋谷行きのバスに乗ることができたのでありました。

つづき:2020/03/01 コロナウィルスにも負けず出かけてきた #3
寄り道:2020/02/28 コロナウィルスにも負けず出かけてきた #2 

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MISIA星空のライヴ Across The Universe が楽しみだ

2020-02-26 20:39:49 | MISIA

1週間ほど前、MISIAの次のツアー「MISIA星空のライヴ Across The Universe」のスケジュールが発表されました。(公式発表)

CLUB MSA限定6月18日大宮公演(8年半ぶりの地元)から12月20日佐賀公演までの4642公演と、なかなかな本数ではありますが、東京で7公演も組まれている一方で、大阪と名古屋(札幌&仙台も) それぞれ2公演福岡1公演、そして、神奈川では埼玉も 1公演も無い (もちろん群馬無い)など、どう考えても来年の追加公演「後出し」される気配が濃厚です。

それでも、発表された4642公演のうち、どこに行こうかと考え込んでいるMISIAファンは多いことでしょう。

かくいう私も、検討中でございまして、その検討材料として、カレンダーをつくりました。
ずらずらっと開催日と会場が並んだリストよりも、カレンダーにプロットした方が、遠征を検討するのには頭に入りやすいわけで…

下の図がその「MISIAカレンダー 2020」で、クリックすると、PDFが開くようにしました。

※日程変更に伴い(佐賀⇔熊本)、差し替えました。(2020/03/14)

こうしてみると、「1週間に2~3公演」基本にしてスケジュールが組まれていることが判ります

このカレンダーと、自分のスケジュールを見比べて、どこに遠征するか考える…

現時点で私が遠征するつもりになっているのは、10月29-30日旭川⇒札幌と、11月26~29日の盛岡⇒仙台の二つ「クラスターです。
あと、2011年3月雪辱として、9月27日の京都公演にも行きたいな…

あ、首都圏河口湖は、(行けないことが明らかな数公演を除いて) 外せません

ちなみに、壁掛けカレンダー用に作ってある中小2種類特製シール

まだカレンダーには貼っておりません

っつうか、思惑どおりにチケットをとれるのかな…

それともう一つ…。

上に、行けないことが明らかな数公演を除いてと書いた「行けない」理由の一つには東京オリンピックライヴ観戦があります。
私、開会式 (7月24日)にも申し込んだものの、当然爆敗でございますが、そこに我らが姫が登場するのか否か、気になるなぁ…

いろいろと希望が叶うよう、ちょっと精進しなくてはならんなぁ~ と思うわけで…

【追記】記事をアップしたと思ったら、衝撃のメールが来てた

諸般の事情により6月中の公演開催は中止とさせて頂く事を決定いたしました。
変更に伴い、ツアー初日となる7月3日(金)の公演はFC限定公演とさせて頂きます。

6月の公演を楽しみにされていたファンの皆さまへ、心よりお詫び申し上げます。
何卒ご理解を賜りますようお願い申し上げます。

ですって
「諸般の事情」って、新型コロナウィルスなのかなぁ…
現時点で「私の地元」大宮公演消えた (2020/02/26 20:48) 

【追記2】ちょこちょこ修正しました (2020/02/26 21:24, 2020/02/27 10:13) 

【追記3】日程変更が発表されましたので、「MISIAカレンダー 2020」を修正しました (2020/03/14 14:00) 

つづきのようなもの:2020/06/04 MISIA星空のライヴ Across The Universeは8月に開幕? 

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国立歴史民俗博物館のジオラマが楽しい

2020-02-25 18:18:40 | 美術館・博物館・アート

きのう、佐倉国立歴史民俗博物館(歴博)に出かけてきました。

考えてみれば、2週間も帰省したこともあって、クルマ3週間近く動かしていません。ヘタしたらバッテリー上がってしまう
どこかにドライブしよ
ということで、約10年ぶりになる歴博(前回の探訪記)に行ってきた次第です。

戸田東ICから外環道に乗って、初めて三郷以西まで行き、高谷JCTから東関東自動車道に入り、途中、

私のTweet

火災現場の近くを通り過ぎ、四街道ICで一般道に降り、トータル約77km1時間10分で走りきって、歴博に到着(写真は帰り際に撮ったもの)

入館前に、一応、閉館時刻を確認すると、冬期間ということで「16:30だそうで、約7時間もあります。
これなら余裕ですな…

そして、観覧券を買おうとすると、おっと、JAF会員割引があるじゃございませんか 団体料金で観られる
スマホアプリで電子会員証を窓口の職員さんに見せると、

「350円になります」

って、え" 一般料金600円350円ですって
こんなに団体料金の割引率の大きな施設ってほかにありますか
もちろん、Lucky でございます。

   

さて、歴博の展示物は複製が多くて、美術鑑賞には不向きですが、日本史日本各地の風習を勉強するには、とにかく情報が多くて、日本史の史料集3Dで目の前に展開される感じです。

そんなわけで、この記事では、歴博でしか見られない巨大かつ精巧ジオラマたちを中心に据えたいと思います。

まずは沖ノ島

10年前にも観て感嘆し、その後(2017年)沖ノ島世界文化遺産に指定されてからは、マスコミにも取り上げられることが増えて、TV番組宗像大社(記事はこちら)や九州国立博物館(記事はこちら)で紹介ビデオを観ては、このジオラマの写真を改めてじっくり観たりしておりました。

沖ノ島は、Wikipediaから引用すれば、

島は全域が宗像大社の私有地であるため、まず大前提として宗像大社の許可が無ければ(公権力の行使を除いては)島に上陸、立ち入ることはできない。(中略)
特別な立入許可に関しては、地元青年団(玄海未来塾など)による清掃奉仕宗像系神社(厳島神社や弁財天)の神主・禰宜引率による正式参拝、政財界の有力者が代表を務める参詣団、灯台と携帯電話アンテナの保守点検や文化財・自然保全状況の確認作業員など、必要な場合の工事関係者等が事前に許可を得て上陸が認められる。(中略)
以上の場合いずれも女人禁制は守られている。

と、おいそれと上陸できない正真正銘の聖地ですから、このジオラマを眺めて想像を膨らますしかありませんが、土地鑑があったり、実際に行ったことのある地域・場所のジオラマを観ると、別の意味で萌え上がります。

例えば、多賀城復元ジオラマとか、

中世の海路を示した瀬戸内海のジオラマとか、

あぁ、行ったなぁ、ここ…

なんて思ったりして。
そして、2014年のMisia Candle Nightさぬき公演(記事)の会場となった大串自然公園

場所をジオラマ上で探してみました。

   

地図で見るのと、ジオラマで見るのはかなり様相が違っていて、どうしてがこの地点を通っているのかがよくわかります。

こちらは平安京で、

こちらは鎌倉

どちらも三方をに囲まれていますけれど、都市としての広さは比べようもありませんな。
鎌倉が、150年間という短い間ながら、日本の政治の中心だったというのが、ちょっと信じがたい感じです。
どう考えても、発展性のない場所ですものね…

そうそう、「ジオラマ」というよりも、城の縄張りを示した展示で、こちらがありました。

沖縄の中城城です。
ここにも2014年「Misia Candle Night at Okinawa」(訪問記)で行きました…
風邪っぴきで大変だったなぁ…

   

ここまで、「マクロ」的なジオラマを書いてきましたが、「ミクロ」的なジオラマも楽しかった

歴博が所蔵する「洛中洛外図屏風(歴博甲本)」を元にしたという、1525~1535年頃京の様子が再現されています。

また、江戸のジオラマといえば、江戸東京博物館のものが見事ですが、歴博のジオラマ張るものでした。

江戸橋広小路の様子(東から西を眺める)で、右手前に江戸橋があって、(日本橋川)をさかのぼると日本橋がチラ見えしています。
角度を変えて南西から北東を眺めると、

今はなき紅葉川沿いに、舟が何艘も係留されています。

この付近の現在の地図を見ると、

日本橋川紅葉川が合流する地点には、首都高速江戸橋JCTが作られて、かつての川の流れは、クルマの流れに変わってしまっています。

   

お次は、

なんのへんてつもないけれど、どことなく懐かしさを覚える風景です。
説明板によると、滋賀県長浜市高月町西物部という集落の「昭和50年代後半の初夏のある日を再現したもの」だそうで、私が幼いころ遊びに行った祖母の実家辺りもこんな感じだったような気がします

こんどは、なくなってしまった村

「田子倉ダムとかつての集落」と題されたこのジオラマ、

福島県の只見川上流の田子倉ダムは、1959年(昭和34)年に一部運転が開始され、集落は水底に沈んだ。急峻な山々に囲まれた田子倉では、11月には雪が降りはじめ、山々の雪は5月まで残る。その豊富な雪解け水と、岩盤を主として砂がダムに積もることが少ないという地質がダムの建設に適していた。

そうです。このジオラマを見ると、ダムが貯える水の量巨大さに圧倒されます。
去年、どこかのダムで、降雨量が少なくて貯水量が減って、水底に沈んだ集落が姿を見せたというニュースを見ましたが、ダム建設のため故郷を捨てるのも辛いでしょうけれど、再び姿を現した故郷を見るのもまた切ないのだろうな…

というところで、歴博探訪記「ジオラマ編」はおしまいです。

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2020年最初の関西旅行記 #4-6 [完結編]

2020-02-23 15:11:49 | 旅行記

「2020年最初の関西旅行記 #4-5」のつづきは、1月25~28日に決行した関西旅行記完結編です。

養源院を出た私は、蓮華王院南大門に向かいました。

途中、蓮華王院三十三間堂正門とおぼしき朱塗りの門の前を通り、

と、左手にちょっと変わった門がありました。

いわゆる「竜宮門」という様式で、入口の正面に「旧御陵正門」と刻まれた石柱が立っています。
傍らの説明板によれば、

法住寺
天台宗の寺で、永祚元年(989)右大臣藤原為光が、その夫人と娘・忯子(花山天皇女御)の菩提を弔うため建てた。当時は、北は七条通、南は八条通、東は東山山麓、西は大和大路に及ぶ広大な地域を占めていた。しかし、のち火災にかかり荒廃した。
保元3年(1158) 後白河天皇は、法住寺の地を院の御所と定められ、上皇となって住まわれた。その後、当寺の寺域内に蓮華王院(三十三間堂を本堂とする)や長講堂を造営された。
明治維新後、後白河天皇陵が宮内庁所管となったので、御陵と寺域を別にして大興徳院と改め、渋谷(しぶたに)より親鸞上人自作の阿弥陀如来像と自刻彫像(そば喰い木像))を移したが昭和30年に法住寺の旧号に復した

とあります。
つまり、「#4-3」で書いた「法住寺殿(ほうじゅうじでん)法住寺ここで、石柱の「旧御陵正門」御陵とは後白河天皇陵のことでした。
後白河天皇陵後回しにして、まずは蓮華王院南大門

豊臣秀頼方広寺大仏殿の門として建てただけあって、立派な門です。

門の西側には、筋塀「太閤塀」三十三間堂の南の壁として現役でした。

太閤塀の軒丸瓦には豊臣家の「五七桐紋」がくっきりです。

蓮華王院南大門は、国の重要文化財に指定されているのですが、一方通行ながら普通乗用車とライトバンは通れるようになっています

東京・芝大門クルマが通れますが、こちらは、「昭和12年に東京市が市民の寄付を募って従来の意匠のまま高さを1.5倍の5.25mにし、コンクリート造りで改築したもの(Wikipedia)ですから問題はないでしょ。

最後に門の下から旧参道を眺めて七条通に戻りました。

そうだそうだ、後白河天皇陵にお参りしていきましょ

上に転記した法住寺の説明板にあったように、後白河天皇陵は、その敷地管理法住寺から宮内庁に移されていて、お役所(宮内庁)のワーキングアワーしか参観できなくなっていました。

法住寺の伽藍を迂回するように、5本の定規筋に挟まれた参道を歩いて行くと、天皇陵ではお馴染みの案内板があり、

そして、お馴染みの柵と門がありました。

他の天皇陵と違うのは、鳥居無いこと。
その辺りは、「法住寺陵(ほうじゅうじのみささぎ)」という陵墓名と共に、宮内庁が気を使ったのでしょう

ちなみに、法住寺軒丸瓦鬼瓦は、「十六菊紋」でした。

   

以上をもって、今回の旅行の「観光の部」お開きとして、博物館三十三間堂前から路線バスに乗って京都駅に戻りました。

そして、京都駅地下街ポルタ昼食

「京料理 万重」さんでいただいたこちらのメニューは、天ぷらふろふき大根を選べるようになっていまして、私は迷わずふろふき大根を選択

結果、1500円+taxというお値段ともども、大満足でございました

このあと、京都駅八条口「551蓬莱」で豚まんを買い、コインロッカーからバッグとビニール傘を取りだし、予約していた東海道新幹線に乗りました。

東京駅には定刻の16:23に到着

この時間帯は、夕方の帰宅ラッシュですので、東京駅から自宅最寄り駅までは楽々です
平日の移動には、この辺重要だと考えております

そして、17時ちょい過ぎに自宅に無事帰着しました。

今回の関西旅行は、いつも以上に「行き当たりばったり」でしたが、それでも、「あんなところに行くんじゃなかった…なんてスポット一つもなく、逆に何度もLucky と思ったのは、我ながら大したものだと思ったりして…

メイン「Misia Soul Jazz Big Band Orchestra Sweet & Tender」大阪 2 Daysも、初日の座席位置を除いて大満足だったし、ホント、充実した3泊4日の旅行でございました。
めでたしめでたし

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1ヶ月ぶりに東京国立博物館へ (後編)

2020-02-22 21:44:17 | 美術館・博物館・アート

「1ヶ月ぶりに東京国立博物館へ (前編)」のつづきです。

東京国立博物館(トーハク)の総合文化展(平常展)を観終わった私は、一旦、トーハクを出て、竹の台広場で開催中の「日本伝統文化フェスタ」にずらりと並ぶ食べ物屋台を物色し、牛ロース串を選択

1串800円と、ちょっとした値段でしたが、結構なボリュームで、コストパフォーマンスはそこそこあった かと思います。

   

お腹がちょっと落ち着いたところで、トーハクに戻り、特別展「出雲と大和」を観覧しました。

この展覧会は、「日本書紀成立1300年」という冠がついておりまして、

令和2年(2020)は、我が国最古の正史『日本書紀』が編纂された養老4年(720)から1300年という記念すべき年です。その冒頭に記された国譲り神話によると、出雲大社に鎮座するオオクニヌシは「幽」、すなわち人間の能力を超えた世界、いわば神々や祭祀の世界を司るとされています。一方で、天皇は大和の地において「顕」、すなわち目に見える現実世界、政治の世界を司るとされています。つまり、古代において出雲と大和はそれぞれ「幽」と「顕」を象徴する場所として、重要な役割を担っていたのです。
「幽」と「顕」を象徴する地、島根県と奈良県が当館と共同で展覧会を開催し、出雲と大和の名品を一堂に集めて、古代日本の成立やその特質に迫ります。

という開催趣旨。
その「幽」と「顕」クリアになっていなかった感じでたが、冒頭の「宇豆柱」と「心御柱」の展示は、のっけからうぉっ でした。
3本の丸太を束ねて繋げた出雲大社の柱の巨大さは、その上に円柱状に吊された布のオブジェとともに、観覧者を圧倒するものでした。
そして、

出雲大社本殿1/10模型
私にとってこの模型は、2012年11月トーハク「特別展『出雲―聖地の至宝―』」(見聞録)2008年4月出雲旅行で行った古代出雲歴史博物館(思い出しダイジェスト)以来、3度目ですが、何度観ても奇観としか言いようがありません。

上の写真は、「特別展『出雲―聖地の至宝―』」の特別企画「AR巨大心殿体感アプリ」なるもので見た「もしトーハクの前庭に出雲大社本殿が出現したら」です。

でも、本当に、高さ16丈(48m)、そこに繋がる階段が100mもある高層本殿が存在したのかは、議論が分かれるようです。
実際、模型のようなトップヘビーの建物だと、大風には弱そうですし…

さて、この展覧会で驚いたのは、古代出雲歴史博物館で拝見して圧倒された、大量銅剣・銅鐸・銅矛が、ドドドッ と展示されていたこと

本殿の模型だけでなく、銅剣・銅鐸・銅矛がひとまとめになって東京出張したら、古代出雲歴史博物館の展示が成り立たなくなるのではなかろうか

と思ったら、

古代出雲歴史博物館は、昨年11月から今年4月末までリフレッシュ休館中でした。

   

一方、「大和編」で最も「来たのは、2013年5月奈良国立博物館での特別展「當麻寺」以来のご対面となった、當麻寺持国天立像でした。

「當麻寺」展のときも、今回の「出雲と大和」展も、當麻寺の四天王は、持国天だけお出ましなのはなぜなんでしょ?

改めて左に載せた「當麻寺」展のフライヤーを観ると、フィーチャーされているのは、「當麻寺」展目玉「當麻曼荼羅」、當麻寺を象徴するような二上山夕暮れ、そして、持国天です

當麻寺四天王像は、當麻寺訪問記に、

四天王像は、乾漆像としては「日本最古「四天王像」としても法隆寺金堂のものに次ぐ古さであることに加えて、その面貌の良さが際立っていると思うのですけど…

と書いたように、お髭ステキです

それだけでなく、右手にを構えた持国天のすっくと立った姿がカッコイイったらありません

ミュージアムショップで持国天のポストカードが販売されていたのですが、実物の迫力荘厳さが感じられなくて、買うのはやめました

そういえば、當麻寺仁王様阿形像の躰内に、が住みついて、あろうことか玉眼を透してうごめく蜂が見える (口を閉じてる吽形像は無事だというのがなんとも…) なんてニュースを見ましたが、その後、どうなったんでしょう

ちょいと話がズレそうなので「出雲と大和」展に話を戻しまして、奈良・藤ノ木古墳出土という「金銅装鞍金具」が、素晴らしかった

フライヤーには「東アジア随一のきらびやかな馬具」とネームが振られていますけど、ホント、精緻金細工が見事です
これほどの工芸品をお墓に入れさせるなんて、被葬者は相当な有力者だったのでしょうなぁ…

それにしても、乗馬用のというには、かなりデカい
それと、初めて知ったのは、の前の板「前輪」はそのまま「まえわ」と読みますが、上に写真を載せた後ろの板「後輪」「しずわ」と読むこと
なぜに「しずわ」
背景がありそうですけど、それは「課題」としておきましょう。

   

「出雲と大和」展では、2か所だけ撮影可能スポットがありました。

一つは、島根・加茂岩倉遺跡39もの銅鐸がまとまって発見された状態を再現した様子で、

もう一つが、展示の一番最後にあったこちら

「法隆寺金堂壁画 複製陶板(第一号壁)」でして、

昭和24年(1949) 1月26日早朝に出火した火災によって大きく損傷した金堂壁画の複製陶板です。

だそうです。
焼け焦げた柱や梁がリアルで、焦げ臭さが感じられそう…。

どうしてこの展示が? かもしれませんが、これはどう考えても、トーハクの次の特別展「法隆寺 金堂壁画と百済観音」予告でしょう

この特別展では、百済観音こと「観音菩薩立像」23年ぶり東下されるそうですが、私の一番の興味の対象は、金堂壁画の模写

焼損前に描かれた模写のうち特に優れたものや、焼損後に再現された現在の壁画などの展示により、この壁画がかつて誇った荘厳な姿に迫ります。

だそうで、2014年3月に、なぜか仙台市博物館初めて拝見して(記事はこちら)心の底から(from the bottom of my heart) 打ち震えた鈴木空如による模写も展示されるようです。

これは絶対行かねば と心に期しております。

なんだか変な〆ですが、以上をもって、きのうのお話は完結です。

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1ヶ月ぶりに東京国立博物館へ (前編)

2020-02-21 22:16:27 | 美術館・博物館・アート

きのう、2週間ぶりに自宅に戻ってきたと思ったら、きょうは、さっそく東京国立博物館(トーハク)に出かけてきました。

お目当ては、特別展「出雲と大和」と、

もうひとつ、

まずは、この時期のトーハクお楽しみを愛でるべく、門を入って左方向、法隆寺国宝館の方へ…。
さっそく、表慶館の横で紅梅満開です

芳香が漂い、既に って感じ

藤原敏行をもじって、

  来ぬと目にはさやかに見えねども風のにぞ驚かれぬる

なんぞと唸りたくなる気分です

例によって、メジロ梅の花狂喜乱舞していて、彼らの普段のお食事を知りたくなってしまいましたとさ。

   

さて、特別展「出雲と大和」…その前に、総合文化展を観ました

きょう拝見した作品のうち、特に気になった作品を厳選して紹介させていただきます。

まずは、浄瑠璃(訪問記はこちらこちら) 伝来の十二神将立像(未神)

説明板によると、鎌倉時代(13世紀)のものだそうで、

京都・浄瑠璃寺旧蔵の十二神将像。明治時代に寺外に出て、現在、東京国立博物館に5躰、静嘉堂文庫美術館に7躰が分蔵されています。

とのこと。
像自体は、失礼ながらどうってことのないものですが、私が注目したのは、神将が着用している鎧の模様でした。

これは見紛うことなき「毘沙門亀甲文様」
後世には、江戸小紋でも定番の一つとなる「毘沙門亀甲文様」ですが(例えばこちらの記事をご参照方)、本来の「鎧」の文様として使われていました。

   

お次は、鎌倉時代末期の公卿・西園寺公衡の筆になる「不空羂索神咒経」

その最後から2行目です。

大日本國嘉元四…

と書かれています。
これを観て、私が思ったのは、「日本」という国号はいつから使われていたのだろうか? ということでした。

Wikipediaによると、

この用例(=日本)の最初の確実なものとしては、一般的には大宝元年(701年)施行の大宝律令の「明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと)」がそれとされている。(中略) また最初の徴候としては、有名な中国『隋書』大業3年(607年)「日出づる処の天子」があげられる。朝鮮半島の史書においては『三国史記』(12世紀に編纂)「新羅本紀」の文武王10年12月(671年1月)条に、「倭国、号を日本に更む。自ら言う、日出づるに近きを以て名を為す」とある。

と、結構古い歴史がありました。

   

「前編」最後は、最近、このブログで頻出している(伝)本阿弥光悦の作品、「子日蒔絵棚(ねのひまきえだな)」

説明板によれば、

天板に根引きの松、二段目に扇と夕顔、三段目に御所車と白丁を描いています。『源氏物語』の「初音」、「夕顔」、「関屋」を表した意匠です。

ですって
1週間前、「2020年最初の関西旅行記 #4-1」に書いた「根引きの松」「初音」が出てきたぁ~

ところが、私の身長では、天板に描かれているという「根引きの松」見えません

そこで、思い切り腕を上げてカメラを掲げて撮影してみました。
すると、

とんでもない構図ですが、なんとか撮れました
トーハク漆工展示室は、その性格上、かなり薄暗いので、写真撮影はなかなか難しい
もっとも、写真撮影ができるだけでもありがたいのですが…。

ということで、「後編」では、ようやく特別展「出雲と大和」のことを書きます。

つづき:2020/02/22 1ヶ月ぶりに東京国立博物館へ (後編) 

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2020年最初の関西旅行記 #4-5

2020-02-19 23:13:55 | 旅行記

「2020年最初の関西旅行記 #4-4」のつづきです。

「#3-4」平等院養林庵書院のことを書き、その最後に、

この「伏見城の戦い」と伏見城の遺構は、この翌日、ひょんなことから「再見」することになる のですが、この時は、そんなことは知るよしもなかった私でした。

と書きましたが、その「『伏見城の戦い』と伏見城の遺構」というのが、この、立て札に誘われてふらっと参観した養源院でした。

養源院は、淀殿が創建して(1594年)間もなく焼失し、淀殿の妹・崇源院が再建(1621年)したことは「#4-4」に書きましたが、その際、伏見城の遺構を使って再建したのが養源院の本堂なのだそうな。
そして、「伏見城の戦い」で籠城戦の末、自刃した鳥居元忠以下徳川方で染まった床板が、養源院本堂の廊下の天井に使われているのだそうです。

見た感じ、茶色の天井のところどころが濃い茶色になっていて、説明で「あそこが足、あそこが頭」と聞くと、言われてみればそう見えないこともない

鳥居元忠13歳の頃、徳川家康松平竹千代だった頃から仕えていたといいますから、元忠50年来の付き合いのある家康にとっては、喪失感は相当なものだったことかと思われます
でも、養源院が、血天井を伴って再建されたのは、家康が亡くなってから5年後のこと…。
崇源院(江)にとっての養源院は、父・浅井長政のほか、姉・淀殿(茶々)甥・豊臣秀頼菩提を弔う場所であるはずなのに、どうしてそこに、関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城の戦い「西軍」に攻められて没した徳川家家臣で染まった伏見城の床板を使ったのでしょうか?

忠臣・鳥居元忠を弔いたいという家康強い意思(遺志)があったのか、それを引き継いだ崇源院の夫・秀忠の意思があったのか…

そのあたり、よく判りません、っつうか、崇源院のメンタリティを理解できませんが、ただ、崇源院にとっての関ヶ原の戦いは、大坂の陣とは違って、徳川家 vs 豊臣家の戦いではなかったのだろうと思います。

   

「伏見城の遺構」という点だけでなく、もうひとつ、前日に外観だけを眺めた平等院養林庵書院との接点がありました。

養源院で購入した小冊子「養源院と障壁画」にはサブタイトルがついています。

「養源院と障壁画 宗達・狩野派・昭乗」とあります。

この「昭乗」というのは、養林庵書院篇額を揮毫した松花堂昭乗のことです。
「松花堂弁当」にその名を残す松花堂昭乗は、本阿弥光悦近衛信尹と共に「寛永の三筆」と称えられる能書家だっただけでなく、アート全般に能力を発揮した坊さんだったようで、養源院には、昭乗の描いた杉戸絵もありました

なんとも、ズラズラと繋がっていくものです…

さらに、この2週間後には、「秋田で美術館をハシゴ」で書いたように、帰省先の秋田で、

百穂は、京都・養源院で見た俵屋宗達の杉戸絵に触発され、一度描いてみたいと思っていた。その念願がかない、近衛文麿の依頼で描いたのが、この杉戸絵である。

という平福百穂の杉戸絵「るり鳥」を拝見することになるのですから

この秋田での「邂逅」知るよしもなく養源院の拝観を終えると、

時刻は既に12:30

帰りの新幹線まで2時間を切っておりまして、この時点で蓮華王院三十三間堂の拝観は「また後日」ということにして、それでも、蓮華王院南大門だけは観ておこうと決めたのでした。

つづき:2020/02/23 2020年最初の関西旅行記 #4-6 [完結編] 

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「御即位記念地図1万分1地形図『東京中心部』」を飾った

2020-02-18 19:07:50 | 日記・エッセイ・コラム

こちらの記事に書いた「御即位記念地図1万分1地形図『東京中心部』」

これをパネルに入れて、今はガバァと空いている別邸の自室の壁に飾ったら、イイ感じかもしれない… と、迷わず購入(税込 1,379円)しました。

だったのですが、四六判(しろくばん:1091mm×788mm)という、印刷物としては特殊なサイズなためか、既製品のフレーム(額)が見つかりませんでした。
もうちょいデカいA0 (1189mm×841mm)とかB0 (1414mm×1000mm)なら普通に買えるのですが…

結局、高くつくことにはなるけれど、このサイズでフレームを特注することに決め、某社に発注しました。

構想から1カ月発注から1週間強を要して、ついに本日、届きました

そして、悪戦苦闘しながら、フレームに地図を収め、そして、ベッド脇の壁に掲出

おぉ、イイじゃありませんか

そう、そう、去年11月末竣工した新国立競技場は、この地図ではどうなっているかといいますと、

点線&グレーひしゃげたドーナツ状のものが描かれ、

国立競技場(建設中)

と素っ気ない…

この地図は「令和元年5月現在」だそうで、このタイミングなら、新国立競技場はその偉容を露わにしていたはずなのにね…

制作者の国土地理院に取材したこちらのサイトの記事によると、国土地理院基本図情報部基本図課長の藤本一彦さん曰く、

最新の状態をアップデートしていくスマホの地図に対し、紙の地図は『東京が令和元年、どんな状態だったのか』という記録を残す役割がある

だそうです。
しかもこの「御即位記念地図1万分1地形図『東京中心部』」は、ただの紙の地図ではなく、「天皇陛下御即位時の首都・東京の姿を地図として後世に残す」ことを目的としているわけで、今上天皇陛下即位礼正殿の儀が行われた2019年10月22日時点で竣工していなかった新国立競技場が「建設中」と表記されるのは当然のことかもしれません。

あと、「こちらのサイトの記事」には、なぜ縮尺が地形図としては一般的な2万5千分の1ではなく1万分の1なのか、なぜ東京スカイツリー入れなかったのか

など、なかなか面白い情報が載っています。

ところで、この地図をぼぉ~っ と眺めると、

東京の中心部には、ところどころに広大緑地があることがわかります。

皇居別格として、明治神宮&代々木公園とか、赤坂御用地とか、新宿御苑とか、浜離宮恩賜庭園とか…(恩賜上野公園はその大部分がこの地図の埒外)

これらは、江戸幕府の御用地(皇居、浜離宮恩賜公園)、野原(明治神宮&代々木公園)、大名屋敷(赤坂御用地:紀州徳川家上屋敷、新宿御苑:高遠藩邸)と出自(?)は様々ながら、代々木公園(元練兵場:私の叔父が徴兵中に事故死した地 その前は大名/旗本らの下屋敷)を除いて、皇室の所有(管理)を経ていることが共通点になっています。

それにしても、現在の東京には、前記の緑地だけでなく、掘割なども併せて「江戸」面影が残っているところがホント、面白い

結構なお金がかかったけれど、フレームを誂えて良かったと思っています。

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2020年最初の関西旅行記 #4-4

2020-02-18 13:52:26 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2020年最初の関西旅行記 #4-3」のつづきです。

私、蓮華王院三十三間堂後白河院の発願で建てられたこと、その地域を呑み込むように、豊臣秀吉方広寺大仏殿を建てたことは知っていましたが、「#4-2」で書いた法住寺殿のことや、これから参観しようとしている養源院のことは、まったく知りませんでした

養源院は通りから引っ込んだ場所に、ひとけもなく、ひっそりと佇んでいました。

伯父・織田信長に滅ぼされた父・浅井長政(戒名:養源院天英宗清)の菩提を弔うため、豊臣家・淀殿が創建し(1594年)、まもなく焼失した後、淀殿の妹の徳川家・崇源院ことが再建(1621年)した養源院、寺院幕の三つ葉葵が鮮やかです。

養源院の拝観は、数名のグループが、お寺さんの説明を聞きながら巡る方式なのですが、私が玄関に入ったときは、だ~れもいない状況でした。
と、思ったら、3~4名女性グループがやってきて、その方たちと一緒に、養源院を案内していただけることになりました。

まず玄関に面して、さっそく、

出たぁ~ 俵屋宗達の杉戸絵「唐獅子図」です

あぁ、これかぁ~ TVで観たことがあります
この作品は、養源院の杉戸絵だったのか

と、不勉強ゆえ 思いがけない出会いでした

そして、鶯張りの廊下を歩くと、突き当たりにあったのが、

出たぁ~ 俵屋宗達の杉戸絵「白象図」です

そして、ふり返ると、玄関に面した杉戸のこちら側、つまり「唐獅子図」の裏側は、これまた俵屋宗達の、

杉戸絵「波と麒麟図」
描かれている動物は、麒麟ではなく「水犀(すいさい)という霊獣らしい(甲羅を背負っている)のですが、波と麒麟の組み合わせは、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で、紋所にちなんだが描かれた板絵を背景に座る斎藤利政(道三)と、その前に控える明智十兵衛(光秀)を連想します…

それはさておき、縦181cm×横125cm×2枚の杉戸いっぱいに描かれている白象、唐獅子、麒麟、どれもまったく写実的ではないけれど、その迫力たるや

そして、白象と麒麟の右側、唐獅子の左側の板戸は「上から下へ、反対側は「下から上への構図にしてあるなんて、さすが宗達 で、デザイン性に溢れています。

上の杉戸絵の画像は、小冊子「養源院と障壁画 宗達・狩野派・昭乗」から拝借したものなんですが、この小冊子によると、崇源院(江)が養源院を再建した際、障壁画は幕府御用絵師集団だった狩野派に発注されたものの(そりゃ崇源院は2代将軍秀忠御台所[みだいどころ=正室]ですから…)狩野派はあちこちからの注文に追われて、遅々として作業が進まない
ここで「養源院と障壁画」から引用しますと、

そのことに危機感をもった開山・成伯(浅井長政の従弟で比叡山の僧)は、崇源院を通じて浅井家ゆかりの尾形光琳の祖父や桃山時代の大文化人だった本阿弥光悦を動かし、絵師として評価の高まっていた俵屋宗達に残りの障壁画を依頼しました。それまで大きな障壁画を制作したことのなかった宗達とその工房の人たちは、狩野派とは異なる大胆な試みをし、「松図」や杉戸絵「白象図」「唐獅子図」「犀図」などを完成させました。

だそうです。「犀図」というのは「波と麒麟図」のことでしょうな
また、この解説文の中にでてくる「尾形光琳の祖父」というのは、恐らく尾形宗伯で、その本阿弥光悦の姉だといいますから、「尾形光琳の祖父」と本阿弥光悦とは、甥=伯父の関係になります。

   

ちょっとここで狩野派の「松」宗達の「松」を見比べてみましょ。

まず、狩野派による二条城二の丸御殿大広間四の間「松鷹図」

一方の、養源院にある宗達の「松図」

どちらも大画面いっぱいが枝を伸ばしている重厚感たっぷりの作品ですけど、宗達の「松図」は、重厚感がありつつも、松の葉の群れ「流れ」というか「リズム」を生みだしていて、矛盾があるけど、軽快感も併せもっている感じです。

どちらが好み? と聞かれれば、そりゃ琳派好きの私ですから、宗達の「松図」に軍配を上げます

というところで、一息 入れます。

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