新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #2-1

2022-04-26 19:26:36 | 旅行記/ニュース

「1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #1-2」のつづき、2日目の旅行記です。

朝、目覚めて、カーテンを上げると、

おぉ 大雪山「天使のはしご」
朝日を浴びる大雪山神々しい

さて、2日目は、夕方までに宿泊先の札幌のホテルにチェックインすれば良いというスケジュールで、一応、旭川13:00発⇒札幌14:25着特急 ライラック24号に乗ることを想定しつつ、さて、どこに行く?

1年半前に行った旭山動物園冬開園(~4月9日)⇒夏開園(4月29日~)端境休園だし、旭川市博物館常設展のみだし…
ネットで旭川市内の博物館・美術館を検索するとヒットした北海道立旭川美術館は、これまた企画展の端境期4月22日(金)まで休館中

そこで行き着いたのが、「中原悌二郎記念 旭川市彫刻美術館」でした。

正直、「中原悌二郎って誰?」でしたが、この美術館の建物が、1902年旧旭川偕行社として建てられたものだと知って、俄然、興味が湧いてきました。
市の中心部からはちょいと離れているものの、旭川駅前から路線バスに乗っていけるようで、よし、これで決まり

   

ホテルをチェックアウトし、荷物を旭川駅のコインロッカーに入れ、札幌までの自由席特急券を買い、バス停に行くと、、、ありゃま、バスの本数が少ない 次のバスまで30分以上も空いてる…
でも、ここでタクシーを使わない(今年1月の京都遠征でタクシーに乗ったのは例外記事)のが「私の流儀」でして、バスの発車時刻まで、旭川駅周辺をブラブラと散歩しました。
で、駅ナカのコンビニ(JR北海道はセブンイレブン)で買ったお茶が、
沖縄名物(?)「さんぴん茶」
まさか北海道さんぴん茶を買えるとは思わなかったさぁ~

なお、旭川駅前から旭川市彫刻美術館最寄りの春光園 までは、旭川電気軌道バス5番・80番・522番系統で行けます。
各系統とも、土日祝日だと、1時間に1本程度ですが、等間隔で運行されているわけではありませんので、ご注意

さて、30分間をどう過ごすか、ですが、一服しながら考えようと、旭川駅の喫煙ルームに行くと、コロナ禍の影響を受けて閉鎖 されていました

1年半前にこの喫煙ルームを使ったとき、ルーム内で「コロナなんて、札幌だけの話だ」と一人語りしているジサマがいて、危ねぇな と思ったものでしたっけ
そして、この北海道旅行後、旭川でもコロナ感染拡大が顕著だったわけでして、あの危機感ゼロジサマは、他の人にさきがけて感染したのではなかろうかと思ったのでした。

実は、現在、旭川市ではまたぞろ新型コロナの感染者数が激増中

なんだか、私が旭川に行くと、その後、感染が拡大するというパターンが繰り返されている感じですな

でも、私は新型コロナウイルス(COVID 19)感染症には罹患したことが無いし、今回はワクチン3回接種した上で出かけていますので、

私のせいではない と主張いたします

それにしても、COVID-19はいつになったら矛を収めるんでしょ

昨夜視た「映像の世紀 バタフライエフェクト」では、約100年前に世界中で推計5億人が感染した「スペインかぜ」は、約3年間を要して人類が集団免疫を得ることで収束したと言っていましたが、それまでに5千万人とも1億人以上ともいわれる死者を出したとな…
2019年12月中国・武漢で最初にCOVID-19が確認されてから2年4カ月日経のサイトによれば、現時点での世界全体累計感染者は約5億1千万人死者は622万人だとか。

   

路線バスを待った話からどんどん逸れてしまいました

約30分間ボンヤリと過ごした後、10:09発のバスに乗って出発

往復とも同じルートで、地図にルートを書き込むとこんな感じ。

旭川駅前⇔春光園前の距離は約6kmで、所要時間は20分強でした。
これで運賃220円だなんて、かなり安い
これがわがふるさとのバスだと、約3kmの距離で運賃310円もするのは、どうしたことだ

それはともかく、旭川駅前を出発してほんの数分市役所前を通過しまして、前夜「MISIA星空のライヴ ACROSS THE UNIVERSE」旭川公演のことを思い出したりして

ということで、COVID-19関連の寄り道があったため、まだ「中村悌二郎記念 旭川市彫刻美術館」に到着できていませんが、きょうはここまで。

つづき:2022/04/27 1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #2-2 

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ベルリンの壁崩壊から30周年

2019-11-09 19:16:13 | 旅行記/ニュース

きょう、2019年11月9日は、かのベルリンの壁が崩壊してから30周年記念日です。

上の写真は、13年前2006年10月「出張」という名の物見遊山に出かけたベルリンで撮影した、「ベルリンの壁跡」

東西両ドイツが成立したあとも行き来が自由だった東西ベルリンの境界に「壁」がつくられたのは 1961年8月のこと。
それから28年以上にわたって西ベルリンを取り囲み、東西両陣営を隔てる壁として象徴的だった「ベルリンの壁(Berliner Mauer)」は、その崩壊も「東西対立」終わりの始まりとなって、旧ソビエト陣営体制変更へとつながる大きな出来事でしたっけ…

考えてみれば、「ベルリンの壁」が存在していた期間よりも、無くなってからの期間の方が長くなってしまったわけで、時間がどんどん進んでいるのだなぁ、私も歳をとるわけだ… と妙な感慨に耽ってしまいます。

ところで、今もそうだと思うのですが、13年前のベルリンには、壁の一部保存されていました。

ニーダーキルヒナー通り沿いのこちら(ゲシュタポ本部跡らしい)は、「野外博物館的」に保存されていました。

そして、「壁」が取り除かれたところにも、その痕跡が残されていました。

ベルリンの壁が壊された後この通りが作られたのか、もともとあった通りを横切るようにベルリンの壁が築かれたのか判りませんが、ここに壁があったなんて、なんだか信じがたい気分でした。

ちなみに、ベルリンの象徴ともいうべきものだったブランデンブルク門は、

その両側東ベルリンだった由。

まるっきり話が変わりますが、このベルリンの街気持ち良さはどうしたことでしょ?

電柱や電線がないことが効いているよなぁ~。

電柱なぎ倒されて、電力や道路の復旧に手間取った台風15号暴風被害で、電線の地中化防災上有効ではなかろうかという意見があり、一方で、地震その他で地中のライフラインが損傷を受けた場合には、逆に復旧に時間と金がかかるという意見があり、どちらが良いのか判らないのではありますが、少なくとも、視覚的には、今の日本の風景には電線は邪魔と、私は思っております。

あ~、またベルリンに行きたい

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首里城炎上のニュースにことばを失う

2019-10-31 21:42:30 | 旅行記/ニュース

けさ、いつものように5:30起きて、いつものようにネットニュースを見ると…、

え" 首里城燃えている

を見ているのかと思いましたが、私は確かに起きていました

   

私、沖縄に旅行したのは、2012年のGW(旅行記)から始まって、MISIA 星空のライヴⅦ -15th Celebration-絡みだった2013年9月(旅行記)、そして、世界遺産劇場 MISIA Candle Night at OKINAWA絡みだった2014年11月(旅行記)の3

2012年の旅行のとき、首里城に行き、

守礼門 (2012)

本殿外からも、

内からもしげしげと見物しました。

この旅行の最終日、の中、首里城近くのホテルから斎場御嶽方面にレンタカーを走らせたとき、首里城北側を挟んで見上げる首里城素晴らしい眺めに、あ" あ" あ" となったのですが、クルマを運転していて駐める場所が判らなかったし、が降っているしで、そのまま走り抜けました。

そして、2013年の沖縄旅行のときは、首里城正殿には入りませんでしたが、2012年にしっかりと観ることのできなかった、池(龍潭池)越しの首里城を目に焼き付けました。

この眺めが、けさは…

これですもの… (産経新聞のサイトより拝借)

そして、正殿は完全に燃え尽きました

来年の春にでも、久しぶりに沖縄に出かけてみようかな? と思っていたのに…

私のような、沖縄3回しか行ったことのないやまとんちゅでもこれだけショックを受けているのですから、沖縄の方たちにとっては、どれだけ辛い出来事なのか…

今回焼失した建物は、恐らく、あちらこちらからの支援も受けて、再建されるものと信じていますが、あの鮮やかな建物群が一日も早く蘇ることを願っています。

ちなみに、最後に載せた写真は、沖縄戦大激戦地となった「慶良間チージ(シュガーローフ)」跡から2014年に撮った首里城方向の写真です。

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台風19号から避難した3連休 (前編)

2019-10-14 21:13:29 | 旅行記/ニュース

体育の日(10月14日)絡みの3連休、私は、京都国立博物館10月12日に開幕する「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」展を観に行くべく、新幹線ホテル予約し、展覧会の前売りチケット購入済みでした。

流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美 

「佐竹本三十六歌仙絵」についてこのブログで何度となく触れてきた私(例えばこちら)としましては、前期・後期2回京都まで遠征して観てこようと思っていました。

そんな楽しみな遠征が近づいてきたところで出現したのが、超大型猛烈台風19号でした。
当初の予想では、10月12~13日首都圏を直撃するらしい厄介な台風で、鉄道各社は計画運休を検討するといいます。
さて、どうしようか…

でも、JR東海10月10日(木) 16:00に発表したところによると、

台風19号の接近に伴い、東京駅~新大阪駅間で昼前から通常よりも列車の本数を減らしての運転や運転を取りやめる予定です。

だそうで、12日(土)の朝8:00台京都に向けて東海道新幹線に乗る予定の私にとっては、ギリギリセーフっぽい

期待を抱いたのですが、翌11日(金)10:00になると、

東海道新幹線は、台風の進路が西寄りになり、12日(土)朝から東海道新幹線管内が暴風域に入る予報となったことを踏まえ、東京~名古屋間で初列車より終日運休いたします。

という発表が…

13~14日の1泊2日に短縮してでも、関西遠征を決行しようかとも思いましたが、12日(土)昼頃から計画運休するというJR運転再開が、13日(日)の午後頃になるという発表と考え合わせると、台風が去った後に出発しても、関西にいられるのは丸1日程度しかなさそうです

ここで私は決心しました

関西旅行中止して、2泊3日プチ帰省しよう と。

台風19号直撃ほぼ確実で、3連休中日の昼過ぎまで電車止まってしまう首都圏に留まっているよりも、秋田の別邸(実家)に帰ってしまう方が有意義では無かろうか と思い至り ました。

そして、12日(土)の朝の、計画運休前秋田新幹線に乗って、帰省

別邸(実家)で、TVニュースを観て、こりゃ予報どおりの酷い台風だ… 特に多摩川付近は大変だ などと思いながら、台風秋田にも近づきつつあるなか、就寝

   

翌朝、いつもどおりに5時台に起床。

そういえば、本宅(さいたま)辺りはどうだったんだろ と思い当たり、さいたま市HPを見ると、、、、

私のtweet

え" 「警戒レベル4 直ちに避難」ですって

私の本宅(マンション)荒川から結構離れているし(そのわりに標高は低い)、自室は2階なので、部屋は大丈夫だろうけれど、立駐地下に駐まっているクルマは大丈夫か

結局、荒川は氾濫することなく、本宅クルマ無事だったんですが、まさか、ホントに「避難」のプチ帰省になってしまうとは…

地球温暖化の影響があるのかないのかよく判りませんが、自然災害がどんどんエキセントリックになっているのは確かなようです。

いつ、どんな自然災害が起こっても対応可能なように、準備を怠ってはならない のだと、痛感した3連休でした。 

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嗚呼、ノートルダム大聖堂

2019-04-16 21:03:28 | 旅行記/ニュース

驚きました。

まさかパリのノートルダム大聖堂火災が起こるとは…。
そして、尖塔が焼け落ち、屋根2/3が焼け落ちるとは…。

着工1163年(日本ではまだ平安時代)で、竣工1225年(北条政子没年)ですから、700年近くパリ中心シテ島に鎮座していたノートルダム大聖堂ですから、パリ市民喪失感たるや想像に絶します…

私、12年半前欧州出張(ほとんど観光)でパリに行ったとき、ノートルダム大聖堂にも行ってきました。

もっぱらTVや雑誌で見かけるノートルダム大聖堂は、左に載せた私の記念写真同様に正面からの眺めが多くて、今回の火災で焼け落ちた尖塔は、「え? 尖塔があったの?」と思う方が多いかと思いますが、裏側から眺めると、しっかりとそびえ立っておりました。

それにしても不思議だったのは、石造りだと思っていたノートルダム大聖堂が、火事で焼けたという事実。

ニュースによれば、ノートルダム大聖堂は、基本的には石造りながら、柱や屋根には木材が使われていて、防火にはかなり気を使っていたのだとか。

でも、やはり、内部を観ても、やはり石造りっぽい…

ね、でしょ?
もう1枚、祭壇方面の写真を見ても、木材が使われている風には見えない…

と、ここで思い出した「私の1枚」

「ようこそ」ならぬ「よこそう」が気になってしようがなかった正面入口に掲げられたバナーの写真。

このバナーは、見紛うことのない、木製の扉に釘付けされていました

パッと見、完全石造り なのですが、木材もしっかりと使われていたのですな。

ところで、この火災天井裏付近から出火して、当時、ノートルダム大聖堂修復工事の真っ最中だったとか。

ここで思い出すのは、やはり修復工事中失火壁画が焼け落ちた 法隆寺金堂火事(1949年)です。
法隆寺金堂にしても、今回のノートルダム大聖堂にしても、モノがモノだけに、細心の注意を払って作業をしていたことでしょうけれど、失われたものの大きさときたら…

関係者にとっては、悔やんでも悔やみきれないだろうな…

再び立ち上がれ、ノートルダム大聖堂 です。

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なぜか想い出したタクシーの運転手さん

2018-03-09 22:52:14 | 旅行記/ニュース

鹿児島と宮崎の県境にある霧島連山新燃岳7年ぶり爆発的噴火を続けています。

NHKのニュースサイトから引用すれば、

9日午後4時ごろ、爆発的な噴火が発生して、噴煙が一連の噴火で最も高い3200メートルに達しました。また、9日昼前には、溶岩が火口からわずかに流出し、北西側の斜面をゆっくりと流れ下っているのが確認され、気象庁は、噴火警戒レベル「3」を継続し、大きな噴石や火砕流に警戒するよう呼びかけています。

だそうで、被害が出ないことを願うばかりです。

今回の新燃岳噴火のニュースを最初に聞いて想い出したのは、7年前宮崎で乗ったタクシー運転手さんのことです。
きょうはそのことをちょいと書きたいと思います。

東日本大震災「現在進行中」だった2011年ゴールデンウィーク、私は、かねてから予定していた3泊4日南九州旅行を決行しました。

初日・4月29日の夜に熊本空港から九州に入ってその日は熊本のホテルで寝るだけ
(記事はこちら)

2日目熊本市内を観光して(旅行記はこちら)、

その日の夜の九州新幹線鹿児島に移動。
3日目はほぼ1日を使って知覧を観光(この日の旅行記はこちら)。

最終日は、黄砂に包まれた鹿児島市内を観光(城山仙巌園せごどん終焉の地鶴丸城趾)した後(旅行記はこちら)、

JR宮崎に移動して宮崎空港から飛行機で帰還、というスケジュールでした。

上の写真は、去年5月6年ぶり鹿児島に出かけた(Misia Candle Night in 鹿児島・仙巌園への遠征)帰りの飛行機から見えた宮崎空港なんですが、それはともかく、なぜ鹿児島空港からではなく、わざわざ宮崎まで移動して帰ってきたのかといいますと、単に「全都道府県踏破」先に進めたかった というだけのこと。

もそっと書きますと、ホントは宮崎県内観光したかった のですが、事前に調べたところ、ゴルフをしない私にとって、宮崎県は観光地としての魅力に乏しい
観光スポットがないわけではないけれど、点在していて、社会人が貴重な休暇を使って観光するには効率が悪すぎる という結論に至った次第です。

さてさて、何を書こうとしたんだっけ… となってしまいますな。

私は、鹿児島中央駅から日豊本線(鹿児島本線ではありません重実さん)を走る特急・きりしま宮崎に移動し、南宮崎駅からタクシーに乗って宮崎空港に向かいました。

タクシーの運転手さんは、人の良さそうな初老の方でして、ふと、「新燃岳の噴火は大変だったそうですね?と話しかけました。

2011年1月に始まった前回の新燃岳の噴火は、この頃には小康状態になっていましたし、なによりも、世の中の関心は東日本大震災に向いていましたので、私は聞きかじった昔話のようなことを切り出したつもりだったのですが…。

運転手さんは、待ってました とばかりに、いろいろ話してくださいました。

ところが、、、、、運転手さんが何を話してくださっているのか、さっっっぱり判らないぃ~~

「日本語」を聞いてこれほど意味を理解できなかったのは、学生のときに津軽旅行で乗った五能線の車内で耳にした地元の方々津軽弁以来のことでした。
もっとも、この体験は、「津軽弁は青森弁よりずっと秋田弁に近い」と考えていた当時の私にとって衝撃的なものでありました。

で、薩摩藩は、藩内に潜入した幕府の隠密をあぶり出すのに、薩摩弁を有効に活用したという話を聞いたことがありましたが(宮崎県南西部も薩摩藩領)、確かにこれは使える と思ったしだいです。

なんだか収拾がつかなくなったので、加えてNHKで再放送している「眩(くらら) -北斎の娘-」に見入ってしまったので(Blu-rayに落としてるんだけど)、きょうはこれまで

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2016年師走の仙台旅行記(その7)

2016-12-15 23:22:53 | 旅行記/ニュース

例年になく、というよりも、これほど私がハマったのは初めてではないかと思われるNHK大河ドラマ「真田丸」、いよいよ今度の日曜日に最終回を迎えます
来年の大河ドラマは、「おんな城主 直虎」だそうで、

タイトルどおり、

戦国時代、後に徳川四天王の一人に数えられ彦根藩の藩祖となった井伊直政を育てた、遠州井伊谷の女領主・井伊直虎を主人公とした物語。(Wikipedia)

だそうです。
その「おんな城主」井伊直虎について、驚きのニュースが飛び込んできました。 

「『おんな城主直虎」は男だった?』 大河主人公に新史料」と題する朝日新聞 DIGITALの記事によると、

「女城主」として知られ、来年のNHK大河ドラマの主人公にも決まっている戦国時代の遠江(とおとうみ、静岡県西部)井伊谷(いいのや)城主、井伊直虎(なおとら)。その「直虎」を名乗ったのは女性ではなく、いとこにあたる別の男性だった可能性を示す史料が新たに確認された14日、井伊家の史料を収集する井伊美術館(京都市東山区)が発表した。

ですと (井伊美術館のリリース)

井伊直虎女? 男? はたまたオカマ? 

   

この前振りがどのように展開するかは後ほどのお楽しみということで、「2016年師走の仙台旅行記(その6)」のつづきです。

志波彦神社・鹽竈神社の参拝を終えた私は、本塩釜駅getしたガイドマップを頼りに、次の目的地に向かいました。

「しおナビ」と私のルート

いかにも歴史のありそうな道を歩いて行くと、この建物イイ

いわくありげな、そして、小ぎれいな木造3階建ての建物です。

案の上、説明板が設置されていまして、それによれば、

ゑびや旅館
この建物は塩竃に現存する明治初期の貴重な町屋建築である。
慶応2年(1867) 2月6日、このあたり(塩竃中心部5町)は大火に襲われ、死者20名(一説に36名)焼失家屋337戸もの被害を出した。この建物はその復興のさなか、江戸時代から当地で旅館を営んでいた海老藤蔵によって建てられた。(中略)
明治9年(1876) 6月28日、 明治天皇による東北御巡幸の一行が塩竃を訪れた。その夜、明治天皇勝画楼に宿泊され、随行の右大臣岩倉具視は遊佐寿助(遊佐一貫堂)方に、そして参議大隈重信ら22名は、ゑびや旅館に宿泊したことが分かっている。

と、確かに由緒ある建物だったようです。
その後、この建物は、旅館兼料亭を経て、

昭和10年(1935) 頃、この建物は松田家が借り受けて(後に購入) 1階西側を茶舗松亀園とし、東側はパチンコ屋回転焼屋、さらには写真屋(光陽堂)、時計屋(長浜屋)に沈滞し、上階は家族らの住まいとした。

と変遷があって、そして、

平成23年3月11日の東日本大震災の津波により、松亀園は1階床上まで浸水した。その後、この建物は被災家屋として一時は解体が決まっていたが、当NPO(NPOみなとしほがま)や市民有志らの働きかけによって、塩竃の歴史を今日に伝える貴重な遺産として保存活用されることとなったものである。

だそうです。

旧ゑびや旅館は、現在、コミュニティーカフェ「はれま」「塩竃まちかど博物館」として活用されていますが、カフェに立ち寄るには空腹感本格的過ぎて、外観を眺めるだけにとどめました。

そして、旧ゑびや旅館のすぐ近くに私の目的地がありました。

その名も、

「御釜神社」です

この神社は、拝殿がなく小さな本殿があるだけで、

さもない神社に見えますが、由来書には、

塩竃市名発祥の地
日本製塩起源の地

と書かれていまして、かの松尾芭蕉も参拝したのだとか。

「その4」で、鹽竈神社の由来について、

当神社は、武甕槌神経津主神2神が鹽土老爺神案内により陸奥国を鎮定して当地に祀られたのが始まりとされる。鹽土老爺神は、当地に留まって人々に塩づくりを教え広めたと伝えられる。

と転記しましたが、この御釜神社鹽土老爺神をお祀りしていて(鹽竈神社末社の扱い)、その塩づくりのための釜4基も祀られています。

そして、「塩竃」地名・市名の由来になっているのが、この御釜なんだとか。

ホント、小さな神社ですが、塩竃市・塩竃市民にとっては大事な神社なんでしょうねぇ。

そうそう、この石灯籠がおもしろかった

火袋を貫いているのはクジラですか?

この石灯籠は新しそうでしたが、仙台藩領名物と呼びたいお猿さんのような獅子・狛犬はかなり古そう
残念ながら製作年代を知る手がかりはありませんでしたが…

それにしても、人気(ひとけ)がない

いくら平日でも、参拝客が私一人とは…

他に参拝者がいれば、御釜を拝見したかったのですが(初穂料 100円だとか)、神社の人を呼び出して御釜を見せていただくのに気が引けてしまいました

う~む、、腹減った…。

いつもよりも早い時間ながら、松島に行く前に、塩竃昼食を摂ろう と心に決めて、本塩釜駅に向かった私でございましたとさ。

つづき:2016/12/19 2016年師走の仙台旅行記(その8)

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Misia Candle Night 奈良遠征旅行記(3日目・その2)

2016-11-21 23:06:25 | 旅行記/ニュース

昨夜のNHKニュース要撃的なできごとが伝えられていました。

奈良市の興福寺で国宝の仏像などに液体が付着しているのが見つかり、警察は、何者かが意図的に液体をかけたとみて、文化財保護法違反などの疑いで調べています。
20日午後2時ごろ、奈良市の興福寺「仏像などに液体がかけられている」と警察に被害の届けがありました。
警察が調べたところ、興福寺の境内にある国宝館に保管されている国宝の「華原磬」という奈良時代の楽器や、国宝「千手観音菩薩立像」の台座、それに、東金堂にある国宝の「持国天像」の台座など5点に液体が付着しているのが見つかったということです。
警察によりますと液体は無色、透明で、いずれの仏像も見学者が立ち入ることができる場所の近くにあり、20日午前9時に寺の関係者が見回ったときには異常はなかったということです。
警察は、何者かが意図的に液体をかけたとみて、文化財保護法違反などの疑いで詳しい状況や液体の成分などを調べています。

ですって

2009年以降、毎年奈良に出かけ、ほぼ毎年のように興福寺を拝観している私にとって、まさしく衝撃的な話です。

なんてことをしてくれるんだぁ~ って感じ。

液体をかけられた仏さまや仏具が無事に復旧することはもちろん、お堂に並ぶ仏さまだけでなく、「展示施設」の国宝館でも、ほとんどの仏さまがガラスケースに入れられることなく、肉眼で直に拝観できる現状が変更されることがないことを願っています。

そういえば、去年、全国の寺社や仏像のようなものがかけられるという、今回とよく似た事件が発生しました。こちらの一連の事件は、容疑者(米国在住の帰化日本人)が特定されて、には逮捕状が出ていますから、仮に彼が日本に入国しようとすれば、その場で逮捕されるはず。

 

ですから、が今回の興福寺の事件の犯人とは考えづらいのですが…
でも、逮捕状が出ていて、システムに登録されている容疑者をうかつにも出国させてしまったマヌケ出入国管理官もいることですし、再犯の可能性が皆無とは言い切れない気もします。
いずれにしても、早く犯人が捕まって欲しいぞ

   

ということで、「Misia Candle Night 奈良遠征旅行記(3日目・その1)」のつづきは、その興福寺の見聞録です。

私が興福寺を訪れたとき、「国宝特別公開2016」として、三重塔五重塔内陣が公開されていました。

当然ながら両塔の内部を拝観したのですが…、3年半前北円堂&南円堂の特別公開に比べると、インパクトは小さい…

っつうか、北円堂&南円堂インパクトデカ過ぎ 
こちらに書いたように、 北円堂外部・内部はもちろんのこと、あれほど好きじゃない外観南円堂が、内部にあれほど素晴らしい仏さまたちをお収めしていたとは…
ホント、目ウロコ極みでした。
これと比べてしまうと、申しわけない話ながら、三重塔五重塔の内部は…  でした。

でも、今回の興福寺も、国宝館に収蔵されている仏さまたち(もちろん大好き天燈鬼&龍燈鬼も)は相変わらず感動モノでしたし、しばらくご無沙汰していた東金堂仏さまたちも素晴らしかった
また、全体のプロポーション好きじゃない東金堂の建物も、よくよく観ると面白いし。

やはり奈良に出かけたら、東大寺大仏殿を差し置いても興福寺には行かねば と、改めて思いました。

「平成30年落慶予定」中金堂再建工事も順調に進んでいるようで何よりです。

落慶まであと2年楽しみです

つづき:2016/11/27 Misia Candle Night 奈良遠征旅行記(3日目・その2)

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5年前のゴールデンウィークを思い出したりして

2016-05-02 19:26:56 | 旅行記/ニュース

東日本大震災がまだ生々しい5年前のゴールデンウィーク、私は熊本・鹿児島旅行を決行しました(右の写真は私が初めて見たくまモン)。

その頃には、電力も含めた関東地方のモノ不足は落ち着いていましたが、それでも、何か理由をつけて東日本から離れてみたい気分で、当初から予定していた旅行に出かけたのでしたっけ…

この旅行は、桜島黄砂のためにまったく見ることができなかったことを除けば、とても満足できるものでした。
とりわけ、初めての熊本城は、そのスケールのデカさに度肝を抜かれました

このブログでは今回の熊本地震に関することをほとんど書いていませんでした。
まだ過酷な生活を強いられている人たちが大勢いらっしゃることに加えて、あの素晴らしかった熊本城水前寺成趣園酷いことになっていることに耐えられない感じで…

改めて5年前の旅行を思い出しながら、現状を覗いてみることにしました。

まずは、水前寺成趣園

に溢れた見事な庭園でしたが、こちらの記事によれば、

豊かな地下水で知られ「水の国」とも呼ばれる熊本。地震後、湧き水をたたえた園内の1万平方メートルの池は7割が干上がり水のあるところでも30センチほど水位が下がった。園を管理する出水神社の宮司代務者岩田徹さん(68)は「ポンプでくみ上げて足しても水が逃げていく。こんなことは初めて」と戸惑う。水が地面に吸い込まれているとみられ、湧き水も止まったが、原因は不明という。

だとか

また、この記事には。

優美な回遊式庭園が人気の熊本市中央区の名所「水前寺成趣園」(通称・水前寺公園)は、4月16日の地震でシンボルの大鳥居が崩落し、閉園が続く

とあるのですが、その崩落した大鳥居って、これですか?

もしこの鳥居だったら、観光客のいる昼間に地震が起こっていれば大変なことになっていたに違いありません。

また、水前寺成趣園のすぐ近くにある「1871年築の県内に現存する最古の西洋建築」だというジェーンズ邸は、こちらの記事によれば「全壊したとかで、ペシャンコの写真が載っています

「なんちゃってコロニアル様式」の建物も、

その中に展示されていた資料ペシャンコになってしまったようです。

日本赤十字社ともなったという「洋学校教師館(ジェーンズ邸)」訪問記に載せた写真をもう一度載せてみました。

   

きょう現在、熊本城界隈で立入できるのはごく限られたエリアで、基本的に「二の丸広場」のみといって良いかもしれません。

熊本城訪問記(こちら)で書いたように、熊本城には2度存亡の危機がありました。

最初は、明治政府熊本城軍事拠点を置くべく「整備したとき(右図の黄色の部分がこのとき取り壊された)、そして二度目が西南戦争が始まって間もない1877年2月19日に発生した原因不明の火災(右図の赤色の部部分、大天守、小天守、本丸御殿など本丸の中心部のほとんど焼失)で、今回の地震3度目存亡の危機なんでしょう。

右図の緑色の部分は、2度の危機を乗り越えて存続していた建物を示しているのですが、これらのうち、「北十八間櫓、東十八間櫓」は崩れ落ちて、下の熊本大神宮を押しつぶしたそうですし、「艮(うしとら)マニア」の私が大喜びした「不開門(あかずのもん)」も、

完全崩落した由。

また、隅っこの算木積み部分だけで奇跡的生きながらえている感のある飯田丸五階櫓(2005年に復元)の姿には、涙が出そう…

こんなに立派だったのにねぇ…

飯田丸五階櫓 2011年4月

史料・史跡としては大天守・小天守以上に重要な建物は、創建当時から残る宇土櫓でしょう。

この宇土櫓は、付属する長櫓(上の写真では左側に写っている廊下のような部分)は崩壊したものの、本体は踏ん張っています

いや、それどころではなく、毎日新聞のサイトに載っているこちらの写真を見ると、あることに気づきます

毎日新聞のサイトから拝借

手前の大天守の屋根が、瓦が崩落して地肌がむき出しになっている一方で、奥の宇土櫓の屋根は無傷に見えます

鉄筋コンクリート造天守よりも、400年前に建てられた木造宇土櫓の方が地震に強かったということ?

   

西日本新聞「熊本城修復、いばらの道 期間10年超、費用最大200億円か」と題する記事によれば、

広島大の三浦正幸教授(城郭史)は、修復には10年以上修復費は天守閣を含めれば200億円以上、天守閣を除いても20億~30億円かかるとみる。日本財団がすでに30億円を寄付する方針を表明するなど修復へ向けた動きが出始めている。
大西一史熊本市長は、23日に市内で安倍晋三首相との会談時に「熊本城を修理していくことが、県民が元気になるになる」と修復の重要性を強調した。

だとか。

文化とか科学(基礎研究)に税金が使われることになると、「他にやるべきことがある 先に福祉だ青筋を立てる方々がいらっしゃるものですが、そんなもんじゃないでしょ。
市長がおっしゃるように、直接的な支援よりも「元気になるがあったりもするものだと思います。

熊本城の修復は、熊本街づくりの恩人たるせいしょこさんこと加藤清正公への恩返しだと考える熊本市民・熊本県民も多いのではないでしょうか?

右の写真は、先日、東京国立博物館で拝見した「片鎌槍」
説明板によると、

十文字槍の片側の枝を短くしたような形で、片鎌槍と呼ばれる。加藤清正の所用で、息女瑶林院が紀州徳川頼宣に輿入れをした際に持参した。朝鮮の役で虎退治をした時。片側の枝を折られたのを研磨してこの形になったと伝わるが、実際は当初からこの形である。

だそうです。

それはさておき、熊本市では、

熊本城は、平成28年熊本地震により甚大な被害を受けました。また、災害発生直後から、国内外から熊本城の修復再建に向けた励ましや支援のお申し出が多数寄せられております。
そこで、熊本市では、皆様からのご支援を募るための口座を開設しました。皆様からの温かいご支援をお願いいたします。

として、「熊本城災害復旧支援金」を募集しています。
私もわずかながら寄付いたしました。
ご興味をお持ちの方は、熊本市のこちらのサイトをご参照くださいませ。

それにしても、早く地震が収まって欲しいものです。

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半年前の信州旅行記(その25)松本編⑦

2016-02-16 23:02:23 | 旅行記/ニュース

きょう一番のうれしいニュースは、、

松本から世界へ、壮大な夢 小澤さん受賞

 「松本から世界に音楽を発信する」という地元と育んできた壮大な夢が実を結んだ―。指揮者の小澤征爾さん(80)が、2013年8月のサイトウ・キネン・フェスティバル(SKF)松本で指揮した「こどもと魔法」を収めたアルバムが第58回グラミー賞最優秀オペラ録音部門を受賞した。「世界のオザワ」と称され、幾度となくグラミー賞にノミネートされた小澤さんが80歳を迎えて初めて受賞した快挙に16日、松本市などのフェス関係者や出演者らには喜びと祝福の声が広がった。
(信毎webより)

でしょう

ラヴェル:歌劇「こどもと魔法」
モーリス・ラヴェル,小澤征爾,サイトウ・キネン・オーケストラ,イザベル・レナード,アナ・クリスティ,ジャン=ポール・フシェクール,ポール・ゲ,マリー・ルノルマン,イヴォンヌ・ネフ,エリオット・マドア
ユニバーサル ミュージック

まことにめでたいことで、私のきょうの帰りBGMは、小澤さん指揮による、

ベートーヴェン:交響曲第4番&第7番
小澤征爾,ベートーヴェン,水戸室内管弦楽団,安芸晶子,会田莉凡,植村太郎,小栗まち絵,川崎洋介,久保田巧,木嶋真優,佐分利恭子
ユニバーサル ミュージック

でした。

さらに、グラミー賞受賞を記念して、、、、というわけではなく、「半年前の信州旅行記(その24)松本編⑥」のつづきです

国宝 松本城天守

松本城築城(第1期築城)した石川康長さん(現代人の名前にもありそう…)、調べると、康長さんはもともと徳川家康の重臣だった石川数正さん(これまた現代人の名前にもありそう…)の嫡男だったそうで、Wikipediaによれば、

小牧・長久手の戦い後の天正13年(1585年)11月13日、数正は突如として家康の下から出奔し、当時家康の宿敵であった羽柴秀吉のもとへ降った。この出奔には諸説あり、未だに定説はない。
秀吉は数正を家臣として迎え、和泉に8万石を与えた。天正18年(1590年)、家康が関東に加増移封されると、その後を受けて信濃松本10万石に加増移封された。数正が文禄2年(1593年)に死去した後、その遺領は嫡男・石川康長が8万石(石川氏の家督も同時に継いでいる)、次男の石川康勝が1万5000石、3男の石川康次が5000石とそれぞれ分割して継いだ。数正・康長父子は松本城を近世城郭に改め、城下町の建設に務めた。だが数正没後、跡を継いだ康長はその築城のために過酷な賦役を民衆に課したと伝わっている。

だとか。
さらに、

康長兄弟は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与したため、戦後に家康から所領を安堵された。慶長15年(1610年)に家中で騒動が発生する。筆頭家老の渡辺金内と若手実力者の伴三左衛門との間で、藩政の主導権をめぐって対立したのである。この裏にはかつて数正に煮え湯を飲まされた家康がいたらしい。家康は、あわよくば家中騒動を理由に松本藩を取り潰す気だったのであろう。しかし、康長の縁戚であった大久保長安(長安の長男の妻が康長の娘)がこれを助けた。長安はかつて康長の後見人でもあった宿老・秋山治助をこの内紛に介入させて、三左衛門を石川氏の中枢から駆逐することで、無難に騒動を終結に導いたのである。慶長18年(1613年)4月、大久保長安が亡くなり、長安の死後に起こった大久保長安事件において、康長兄弟は長安と縁戚であるという理由(取り潰しの表向きの理由は領地隠匿罪)から改易されてしまった。他に改易の理由として分限をわきまえずに城普請を行なったことが付け加えられている。他にも家康の意趣返し、福島正則と同じ外様大名外しともされる。

とな。
徳川から離れたり近づいたりと浮遊した石川氏、一旦、家康に受け入れられたように見えつつも、やはり出奔を根に持たれていたんでしょうなぁ。

石川氏改易の後の松本藩は、明治維新までの間に、小笠原⇒戸田⇒松平⇒堀田⇒水野⇒(幕府直轄)⇒戸田と、めまぐるしく藩主が代わっています。
そして、石高は、立派なお城を誇る松本藩にしてはささやか6~10万石
お隣の松代藩が、真田信之以降、ずっと真田氏が治めていたのとは対称的です。

う~む、、、、です。

と、MISIA星空のラジオが始まったので、今夜はここまで

【追記】松本城主(松本藩主)の流れを修正しました。(2016/02/20 09:13)

つづき:2016/02/19 半年前の信州旅行記(その26)松本編⑧

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