新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

静岡までMISIAを聴きにドライブ遠征 (2日目・前編)

2022-12-23 19:58:01 | 旅行記

「静岡までMISIAを聴きにドライブ遠征 (初日・MISIA編)」のつづきです。

今回の静岡遠征では、「全国旅行支援」を使いました。もともとホテルを予約したのは「全国旅行支援」が一旦終了したあとのことで、貯まっていたポイントを使ってお安く泊まるつもりでした。
ところが、「全国旅行支援」が再開され、計算してみると、ポイントを使わず「全国旅行支援」を使えば、支払い済みの金額に数百円プラスするだけでホテルに泊まれて、しかも地域クーポン 3,000円分をいただけることが判り、すぐに予約変更した次第です。

で、地域クーポンを入手してみると、これを有効に使えるのか? と考えてしまうわけで、さっさと帰宅するのではなく、静岡県内で、地域クーポンを使って豪華な昼食を楽しむしかなかろう という結論に達しました。
そして、午前中の予定を検討しつつ、昼食メニューを考えるうちに思い出したのは、かつて、職場の人たちとウナギを食べに沼津だか三島までいったことでした。
当時の職場の先輩が富士市内勤務の経験者で、その先輩が何度か行ったことがあってお薦め ということで行ったのですが、そうだ、ウナギだ 地域クーポンにちょい足しするだけで豪華うな重にありつける
昼食前に、ちょいと気になっていた伊豆の国市大河ドラマ館に行けば、時間も有効に使える と、いうことで、トントン拍子に予定が決まりました。

   

そして、9:30頃にホテルをチェックアウト と、外に出たら、青空は広がっているものの寒い クルマの外気温表示は、前夜と同じ 2℃でした

掛川ICから東名高速(上り)に乗って、最初の休憩由比PA
出発して45しか走っていませんが、お茶を買うことと、富士山めでるのが目的の休憩です。

おぉ~富士山

次第に大きくなっていく中央道(上り)からの富士山の眺めも捨てがたいのですが、ずっとド~ン富士山が見える東名高速からの眺めもイイ
東名リフレッシュ工事によるスローダウンも、景色が良いと「これまた妙」なわけで、富士川SA手前では、「腰だめ」写真を撮ってしまいました

   

沼津IC東名から伊豆縦貫道に入り、大場・函南ICで高架下に降り、さらにR136南下しました。
それにしても、伊豆市伊豆の国市が隣り合わせにあるって、なんとも
調べると、両市は、2004年、2005年に相次いで成立していて、

伊豆市:修善寺町・土肥町・天城湯ケ島町・中伊豆町が合併
伊豆の国市:伊豆長岡町、大仁町、韮山町が合併

なのだとか。
先に成立した伊豆市「おいしい市名」を取ってしまったって感じでしょうか

さて、「鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館」伊豆箱根鉄道駿豆線韮山駅至近の韮山時代劇場にあることは事前に調査済みだったのですが(だからナビに目的地としてセットできた)、この「韮山」という地名が引っ掛かっていました。何かで聞いた気がするけれど、どうして記憶に欠片だけ残っていたのか判りませんでした。
それが、道路沿いの案内標識を見て思い出しました
そうだ、韮山反射炉があるところだ

日本史に、幕末、幕府がつくった製鉄施設として出てきましたっけ
写真では見たことがありましたが、こんなところにありましたぁ~

ここで好奇心ムズムズした私は、ナビの目的地は韮山時代劇場のままにして、案内標識に従って韮山反射炉に行ってみることにしました。それほど遠くないところのようですし…。
反射炉といえば、鹿児島・仙厳園薩摩藩の作った反射炉の遺構(土台)を見たことがあったっけ… (記事) 

と思い出しながらクルマを走らせました。

そして、さほど時間もかからずに、広い駐車場を備えた韮山反射炉に到着

この顔ハメパネル無理があると思う

考えてみれば私、幕末、幕府や雄藩反射炉というものをつくって大砲を鋳造した、ということくらいしか知りません
そもそも、反射炉にはどんな機能があって、なぜわざわざ火(熱)を直接ではなく「反射」させるのか、ほぼ知りません
さらに、どうして幕府伊豆の山中最新設備を作ったのかも不思議です。
ということで、「韮山反射炉ガイダンスセンター」でちょいと勉強してみることにしました。

さっそく、製鉄技術の歴史のパネルがありました。
でも、化学からっきしの私にはなかなか難しい。
鉄鉱石、銑鉄、鋳鉄、鋼鉄…う~ん判らん

でも超簡単に書けば、石見(島根)や南部(岩手)から運んできた鋳物鉄を溶かす施設(溶解炉)ということらしい。

ではなぜ「反射炉」かといえば、その炉の構造にあります。

リーフレットから転記しますと、

反射炉は、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパで発達した金属を溶かして大砲などを鋳造するための溶解炉で、内部の天井がドーム状になった炉体部と、煉瓦積みの高い煙突からなる。
石炭などを燃料として発生させた熱や炎を炉内の天井で反射し、一点に集中させることにより、鋳物鉄を溶かすことが可能な千数百度の高温を実現する。このような、熱や炎を反射する仕組みから、反射炉と呼ばれたのである。

だそうです。
また、反射炉には、石炭に含まれる不純物が熔解中のと直接接触しないため、内部に入り込むのを抑えるという利点もあるらしい。

次に、「どうして韮山に?」は簡単で、幕府に西洋砲術の導入、鉄製大砲の生産を含む海防政策を進言したのが、天領だった伊豆国代官だった江川英龍で、代官所が韮山にあったから…。

この江川英龍という人はかなりの人物で、文武書画を修め、お台場(品川台場)築造するは、海外の文献をもとに反射炉の研究をするは、さらには「国防上の観点から、パンの効用に日本で初めて着目して兵糧パン(堅パンに近いもの)を焼いた(Wikipedia) とか。
世襲代官としては異例の出世を遂げて、勘定奉行任命直前まで行ったのだそうです。

なお、リーフレットによると、

反射炉は、当初伊豆下田港に近い加茂郡本郷村(現下田市)で着工し、基礎工事などが行われていた。しかし、安政元年(1854) 3月、下田に入港していたペリー艦隊の水兵が敷地内に侵入する事件が起きたため、急きょ韮山の地に建設地を変更することとなった。
下田での建設のために用意されていた煉瓦や石材は韮山に運ばれ、改めて利用された。

そうな。

ガイダンスセンターでの紹介映像を視て、「へぇ~と思ったのは、大砲の製造方法でした。
反射炉で溶解した鉄を鋳型に流し込むまでは良しとして()、成形された砲身を水力を使って回転させて内側をくり抜いたのだそうです
始めからパイプ状に鋳造したら良さそうなものなのに、と考えるのは素人の浅はかさなのでしょうか
調べてみると(なかなか見つけられなかった)大砲小銃も、金属塊鍛錬した後、穴をくり抜く方法で作られているようです(猟銃の作り方)
やはり火縄銃(過去記事)とはわけが違います。

現在は反射炉が残されているだけですが、往時は、

砲身の鋳造から試射までが可能な「大砲製造工場」だったのだそうです。

最後に、竣工当時の模型を眺めて、

さぁ、いよいよ韮山反射炉を直接拝見します

ふぅ~~ ここまで書くのにかなり苦労した…

つづき:2022/12/28 静岡までMISIAを聴きにドライブ遠征 (2日目・後編)

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