新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

今年2度目の関西遠征記 #3-6 [完結編]

2022-04-07 19:25:05 | 旅行記/テレビ番組

「今年2度目の関西遠征記 #3-5」のつづきです。

朝ドラ「カムカムエヴリバディ」は、明日、ついに最終回を迎えるわけで、この「連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ展』」見聞録がそれより前に完結できそうでホッとしております。

「回転焼 大月」では、回転焼きの数に応じて、大きさの異なる紙袋に入れてくれていましたが、その紙袋も展示されていました。

大きな手提げの紙袋にも「回転焼 大月」のロゴが入っていて、紙袋は何種類あるのだろうと思っていましたが、このロゴゴム印でした
ゴム印なら、どんな大きさでも、無地の白い紙袋を用意すれば簡単に「大月の袋」になるし、もしかすると、ジョーさんでもゴム印を捺すお手伝いくらいはできたかもしれません

あ、こちらは 回転焼きの仕上げに使われていた「大月」焼き印

最後に、スタンプコーナーがありまして、「条映映画村」のキャラクター「カットりくん」大月のスタンプを捺しました。

が、「カットリくん」のスタンプがかなり曲がってしまった

「スタンプを回転させてどないすんねん」でして、「大きな声で『カット』とさけぶよというカットリくんに、「カァ~ットと叫ばれそうです

ところで、「条映映画村」のモデルが「東映太秦映画村」であるように、カットリくんにもモデルがいまして、それが、かちん太

恐らく「カチンコ」から名を採った旅ガラスです。

一方のカットリくんは、忍者の扮装をしたで、映画監督がシーンの最後に発する「カットと、東映とも縁のある「忍者ハットリくん」にかけているのでしょう。

なかなか巧妙「本歌取り」だと思います。

さて、以上で「カムカム展」おしまい…と思いきや、いかにも普通の掲示板のようにして、重要なポスターが掲示されていました。

右の「かわらばん」チビひなたジョーと映画村にやって来たときに赤螺親子と一緒に見たもの。ひなたが空き瓶集めで入場料を貯めてやって来たこのサイン会モモケン大月の回転焼きをプレゼントし、モモケンはひなたの質問に対する自分の答え初代モモケンのを感じるという重要なできごとになりました。
さらに書けば、空き瓶集めの過程で、ひなた吉之丞と空き瓶を取り合ってケガ⇒そのお詫びとして吉右衛門福引補助券を贈呈⇒福引きでるいラジオを引き当てる⇒るいラジオ英語講座が放送中であることを知る、と繋がっていったのでした。

そして、真ん中の「ミス条映コンテスト」のポスターは、将来が見えなくなっていた高3ひなたが、黍之丞の顔出しパネルから見つけたヤツで、コンテストに出場することで、虚無さんから「時代劇を救う者」として見いだされたんでしたな…

それにしても、こうして振り返ると、「カムカムエヴリバディ」は約半年にわたっていくつものプロットを積み上げて、それをつなぎ合わせて、ゴールを目前にしているのだなぁと感慨深い

こうして「カムカム展」を存分に楽しんで、「条映映画村」から下城しました。
そして、外にある「条映映画村MAP」「観察しました。

良く見ると、基本的には東映太秦映画村のレイアウトを踏襲しつつも、微妙に違うんですな。

さて、これにて東映太秦映画村の見物はおしまい

   

この時点で時刻は13:50で、帰りの新幹線までは約2時間
1時間ちょっと余裕がありますが、さて、どうしようか?? と考えながら太秦広隆寺駅へと歩いて行くと、神社の由緒書が目に入りました。

その名も「大酒(おおさけ)神社」で、それ名前だけでもインパクトがありますが、注目すべきは「祭神」の筆頭が「秦始皇帝」だということ

この由緒書は、極めて読みづらいのですが、いつか役立つときが来るかもしれませんので、とりあえず転記しましょ。

当社は、延喜式神名帳葛野(かどの)郡二十座の中に大酒神社 (元名)大辟(おおさけ)神社とあり、大酒明神ともいう。
「大辟」称するは秦始皇帝の神霊を仲哀天皇8年(356年)皇帝14世の孫、功満王漢土の兵乱を避け、日本朝の淳朴なる国風を尊信し始めて来朝し此地に勧請す。
これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生まれた。
(=後) の代に至り、功満王の子弓月王(ゆんずのきみ)応神天皇14年(372年)百済より127県の民衆18,670余人統率して帰化し、金銀玉帛等の宝物を献上す。又、弓月王の孫酒公(さけきみ)は、秦氏諸族を率いて蚕を養い、呉服漢織に依って絹綾錦の類を夥しく織出し朝廷に奉る。絹布宮中に満積して山の如く丘の如し。天皇御悦の余り、埋益(うずまさる)と言う意味で酒公に禹豆麻佐(うずまさ)の姓を賜う。幾多の絹綾を織出したつ呉服漢織の神霊を祀りし社が大酒神社の側にありしが明歴年中破壊に及びしを以て、当社に合祭す。
機織のみでなく、大陸及半島の先進文明を我が国に輸入するに努め、農耕、造酒、土木、管弦、工匠等産業発達に大いに功績ありし故に、其二神霊を伴せ祀り三柱となれり。
大酒の字を用いるは酒公を祀るによって此の字に改む
広隆寺建立后、寺内、桂宮院(国宝)境内に鎮守の社として祀られていたが、明治初年政令に依り神社仏閣が分離され、現在地に移し祀られる。現在広隆寺で10月10日に行われる、京都三大奇祭の一つである牛祭りは、以前、広隆寺の伽藍神であった時の当社の祭礼である。
尚、603年広隆寺建立者 秦河勝酒公の6代目の孫
又、大宝元年(701年) 子孫秦忌寸都理(いみきとり)松尾大社を創立。和銅4年(713年) 秦伊呂具(いろぐ)伏見稲荷大社を建立した。古代の葛野一帯を根拠とし、機内のみならず全国に文明文化の発達に貢献した、秦氏族の祖神である

これを読んで、「太(うずまさ)」という地名(知らなきゃ読めない)の由来とか、古代の有力渡来人一族として歴史の授業に出てきた(はた)氏」の始皇帝に繋がる家系(との伝承)だということとか、初めて知りました
また、嵐電太秦広隆寺駅の東隣りの駅の名前が「蚕ノ社(かいこのやしろ)」から採られているのも、秦氏一族の影響なんだろなと感じ入ったりして…。

なお、古代の秦氏のお話は、伏見稲荷大社の沿革で、やや易しく書かれています。

神仏分離 (また出た) の中で広隆寺から「追い出された」社殿は、かなりこぢんまりしていました。

さて、このあと、久しぶりに広隆寺に拝観しようかな、とも思いましたが、すでに東映太秦映画村満腹状態でしたので、「#3-1」書いた旅程のとおり、おとなしく、来たルートで京都駅まで戻り、しばしぼーっとした時間を過ごし、帰路についたのでした。

今年2回目の関西旅行は、訪れた「観光地」こそ少なかったものの、けっこう充実したものとなりました。
とりわけ、敢えて1泊追加しての京都での一日は大成功
あ~、楽しかった [完]

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