新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

私はアラビアのことを何も知らなかった(後編)

2018-02-27 22:58:29 | 旅行記/日記・エッセイ・コラム

「私はアラビアのことを何も知らなかった(中編)」のつづきです。

そもそも観る気のなかった「アラビアの道-サウジアラビア王国の至宝」展ですから、予習なんてしていなかったわけで、まさかこんなものが展示されているとは思いもよりませんでした

説明板には、

「カァバ神殿の扉」とあります

カァバ神殿といえば、メッカ(現在の発音・表記では「マッカ」)にある、イスラム教の聖地の中の聖地ともいうべき神殿です

そのカァバ神殿で、17世紀前半(日本では江戸時代初期)から1930年代までの300年間に渡って実際に神殿に据えられていたという現物ですって

イスラム教徒の人たちだって観たことがない人がほとんどだろうというのに、異教徒の私が現物を拝見して、写真まで撮ってしまうなんて、ホント良いのか? とまで思ってしまいます。
でも、こんな機会なんてそうそうあるとは思えないわけで、角度を変えてもう1枚

このは、「オスマン朝時代・1635または1636年」のもので、

オスマーン朝スルターンのムラト4世が寄進した扉。

だとか。
Wikipediaによるとこの寄進者のムラト4世は、

頭脳明晰、勇敢で非常に信仰深く、煙草と酒とコーヒーを禁止し、夜に出かけることも禁止した。

だそうで、煙草コーヒー禁止(「夜に出かけること」の禁止はさほど影響はない)とは、私にはまっっったく合わない王様だったみたいです

さて、カァバ神殿といえば、

とてつもなく大勢の巡礼者の中心に鎮座する黒いほぼ直方体の「物体(建物には見えない)」なんですが、神殿自体は

建物は大理石の基盤の上にたつ石造モルタル造り

だそうですから、建物本体は白いはず。
実は、神殿は「キスワ」という黒い布で覆われていて、そのキスワは毎年巡礼月(イスラム暦は完全に月の満ち欠けに一致させているため、1年は約354日で、巡礼月は太陽暦のカレンダーとは毎年ズレていく)に新調されるのだとか。

そのキスワ1992年製のものの一部が展示されていました。

金糸で書かれた(刺繍された?)アラビア文字が、間近で観ると超立体的

やはりこれは文字の範疇を超えていますよ

というわけで、私はカァバ神殿扉の現物と、キスワの現物を拝見できて、たまたま観た「アラビアの道-サウジアラビア王国の至宝」展にいたく感激したのでありました。

拾いもの、、、と言っては失礼ですけど、ほんと、予想外に興味深い展覧会でした。

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私はアラビアのことを何も知らなかった(中編)

2018-02-26 23:27:33 | 美術館・博物館・アート

「私はアラビアのことを何も知らなかった(前編)」のつづきです。

前編で、

アラビアと聞くと、砂漠石油ラクダナツメヤシお金持ちの王族、、、となんとも貧弱なイメージしか持ち合わせない私なのですが、

と書きましたが、このうち、ラクダ王族関連の展示がありました
まずはラクダ

それぞれBC2世紀~AD2世紀BC3世紀~AD3世紀と、幅のある時代のものなんですが、やはりアラビアラクダとは切って離せないのでしょうねぇ。
どれもかなり素朴な作品です。
一方で、AD1世紀~AD3世紀頃の作品だというこちらの「ヘラクレス」ラクダたちとは正反対写実的です。というか、いかにもギリシア風

おっと、早くも話がズレたので、「王族関連の展示」に戻しますと、

サウジアラビア王国「建国の父」アブドゥルアジーズ王の上衣だそうで、いかにも王様お召し物っぽいですな。
ただ、材質が「絹」とか「カシミヤ」といった高級素材ではなく、「木綿」だというのは、かなり意外でした。

でも、アブドゥルアジーズ王クルアーン(コーラン)は、「いかにも豪華なもの。

そうそう、「アラビアと聞くと」から、イスラム教と、あの奇妙アラビア文字が抜けていました。

上に載せたのは、オスマントルコがアラビアの主要地域を支配していた頃、16~17世紀のクルアーンだそうですが、およそ文字に見えない文字だということに加えて、右から左へという書き方、「ホント、変だと思ってしまいます。

でも、考えてみれば、日本語だって、

上の写真は、トーハクの本館に展示されていた千姫「消息(=手紙)」なんですが、これもまた文字とは思えません。左下に小さく書かれている署名「せん」だって、知らないと読めませんぞ。
しかも、縦書き横書き兼用であることに加えて、横書きするときは、左から右に書いたり、右から左に書いたり…

世界標準からすれば、日本語も相当「変」な部類に入ると思います。

それはともかく、アラビアの文字の変遷も面白かった…

左の写真はBC5~BC4世紀頃の「古代南アラビア文字による墓碑」だそうですけど、現代のアラビア文字とは全然違っていて、ギリシア文字に近い感じ。

そして、上に載せた2~3世紀頃の「古代南アラビア文字による奉献碑文」は、紀元前の古代南アラビア文字とも現代のアラビア文字ともまるで違います

一方で、203年(3世紀)「ナバテア文字による墓碑」は、現代のアラビア文字のイメージに近い。

こうして見てくると、時間の流れが文字を変えたのではなく、異なる文化を持った人々の勢力争いの結果が現代のアラビア文字につながっているのではないかという気がしてきます

と、ようやく現代のアラビア文字に近づいたところできょうはおしまい

できれば前編&後編で書き終えたかったのですが、3部構成にします。

つづき:2018/02/27 私はアラビアのことを何も知らなかった(後編)

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私はアラビアのことを何も知らなかった(前編)

2018-02-25 19:10:17 | 美術館・博物館・アート

きのう、東京国立博物館(トーハク)に行ってきました。

お目当ては、咲いているであろうウメを眺めることと、特別展「仁和寺と御室派のみほとけ ― 天平と真言密教の名宝 ―」を観ることだったのですが、11時半頃トーハクに着くと、入り口前には仁和寺展は「入場待ち30分だという掲示が

あれまぁ~ これほど仁和寺展が人気を博しているとは思いもよりませんでした

しかも、ウメの方も、、、

まだ3分咲き程度で、香り弱い
それでも、2羽メジロ大好きウメの蜜の味を楽しんでおりました。

現在、トーハク表慶館では「アラビアの道-サウジアラビア王国の至宝」が開催中です(3月18日まで)
この展覧会が開催されていることは知っていましたが、勝手にサウード王家が所有するキンキラキンお宝が展示されているものと思い込み、食指が動きませんでした。

ところが、「アラビアの道」展総合文化展のチケットで鑑賞できる(トーハクのメンバーズプレミアムパスを持っている私は追加料金無し)ことを知って、観るだけ観ようか、という事にしました。現金なものです

で、表慶館の入口左にはアラブ(ベドウィン)のテントが設置されていまして、まずはこちらを拝見

映画「アラビアのロレンス」を想い出しますなぁ

このテントを拝見して驚いたのは、分厚い絨毯のようなもので作られているということ。
と昼の寒暖差極端砂漠で使うテントですから断熱性を重視した材質なんでしょうね。

表慶館に入ると、写真撮影OKとの表示がありました。もちろん三脚を使ったりフラッシュを光らせるダメですけど。
へぇ~、特別展で撮影可なんて珍しい… と思ったら、表慶館のロビーに展示されていたのは、「サウード王家のキンキラキンお宝ではなく、、

BC3500~BC2500年頃の「人形石柱(ひとがたせきちゅう)」だそうで、トーハクの平成館1階の考古展示室に常設展示されている「石人」と似た感じ。

でも、「石人」AD6世紀頃のものなのに対して、こちらはBC3500~BC2500年頃ですからとてつもなく古い

アラビアと聞くと、砂漠石油ラクダナツメヤシお金持ちの王族、、、となんとも貧弱なイメージしか持ち合わせない私なのですが、説明板を読んでえ" って感じ。

旧石器時代のアラビア半島には、現在とはまったく異なる景観が広がっていた。近年のサウジアラビアにおける古環境調査は、この200万年ほどの期間に湿潤な時期が数回あったことを明らかにしている。広い草原のいたるところに湖や河川があり、さまざまな動物が群れている-アフリカを出てアジアへの第一歩を踏み出した人類を迎えたのは、このような「緑のアラビア」であった。(中略)
農耕定住社会が成立すると、次に、その周辺を行き来して遊牧や狩猟を営む人びとが出現する。アラビア半島のステップ地帯では、新石器時代にこうした人びとが拡散していった。広大なサウジアラビアの各地で、矢尻などをともなう新石器時代の遺跡が確認されている。

BC6000年頃矢尻が展示されていまして、狩猟していたんでしょうねぇ。

「人形石板」につづいてこちらの作品もおぉ

「土偶」ならぬ砂岩でできた「石偶」でして、

女性を表している。
表面に赤色顔料が残る。

だそうで、これまた土偶に似ている。
そして、BC3500~BC2500年頃のものだそうですから、日本でいえば縄文時代晩期遮光器土偶の時代ですな。

偶ではなく偶」のトレンドはお椀の類も同様で、日本(縄文時代)なら当然のように土器のところ、

石製容器(BC2400~BC2500年頃)だそうです。
それにしてもきれいに磨いたものですなぁ。

そういえば、日本って、を細工した彫刻作品ってありませんよね。
せいぜい、石灯籠とか板碑とか五輪塔とか、彫刻作品と呼べるか怪しい石垣くらいのものです。
どうしてなんでしょ?
日本では幕末期になるまでほとんどレンガが使われなかった(こちらの記事をご参照方)理由と相通じるものがあるのかもしれませんが、真相は不明です

   

この記事の初めの方で、この展覧会が「サウード王家所蔵のキンキラキンお宝が展示されていると勘違いしたことを書きましたが、それはこの展覧会のタイトルの後半、「サウジアラビア王国の至宝」に惑わされたためです。
でも、メインタイトルは「アラビアの道」

王国の栄華、その知られざるルーツを辿る。

という惹句が掲げられたフライヤーの裏面から引用しますと、

古代より交易路が張り巡らされ、人々と諸文明が行き交ったアラビア半島。その躍動的な歴史と文化を示すサウジアラビア王国の至宝を日本で初めて公開します。

現在、アラビア半島の1/3は、岩と砂しかないルブアルハリ砂漠が占めていて、Wikipediaによれば、

ベドウィンでさえ、その辺縁を移動するにすぎない。

というハンパない「交通の難所になっているわけですが、そんなアラビア半島には、かつては「交易路が張り巡らされ」、現在はイスラム諸国から「巡礼の道」が通じているんですな。

展覧会の半分くらい観たところで、私は「アラビアのことを全然知らなかった…」痛感しました。

後半も初めて目にする「世界」が繰りひろげられたのですが、そのお話は「つづき」で。

つづき:2018/02/26 「私はアラビアのことを何も知らなかった(中編)」

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祝 MISIAデビュー20周年!

2018-02-21 22:49:47 | MISIA

きょう、2月21日MISIA(当時は“Misia”)の1st Single CD「つつみ込むように…」が発売されてからちょうど20年目、MISIAの(公式)デビュー記念日です。

いやぁ~、めでたい

衝撃のデビューから20年を経過してなお、「日本を代表するシンガー」と冠される存在であり続けていることは、ほんっと、喜ばしいことです

そんな「20th Anniversary」を記念して、私のMISIA絡み「初をふり返ってみます。

   

まず、初めてMISIAの歌声を聴いたのは、デビュー当時のFMラジオでした。
当時の私は、目覚ましも、通勤電車の中でもFMラジオ、それもJ-WAVE(大槻りこさんの「singing clock」とかジョン・カビラさんの「TOKIO TODAY」)を愛聴していまして、その頃のJ-WAVEでは、「つつみ込むように…」パワープレイされていました。
そんなわけで、何度もMISIAの歌声をFMラジオで聴きまして、「Misiaってなかなかイイぞとは思ったのですが、CDを買うとか、ライヴに行くところまでは行かなかったのでした。

   

初めてMISIAのお姿を拝見したのは、銀座のスナックのカラオケ画面でした。
職場の飲み会の2次会だったか、「ご接待」の2次会だったか忘れましたが、そのお店でスナックのお姉様が、カラオケでMisiaの「陽のあたる場所」を歌ってくれたのですが、そのカラオケ画面が「陽のあたる場所」のMVだったようで、別のお姉様曰く、「あっ、Misia本人だ
そっか、Misiaって、こんなお姉ちゃんなんだ…と思ったものでした

   

初めてMISIAにハマったのは、1998年11月29日のこと。
この日、私は友人たちと東京競馬場ジャパンカップを観に行くことにしていまして、東京競馬場に向かうべく乗った武蔵野線の電車の中でFMラジオ(J-WAVE)を聴いていました。
そこで流れてきたのは、この年、J-WAVE「ウインター・キャンペーン・ソング」だったか「クリスマス・キャンペーン・ソング」だかでパワープレイしていた「THE GLORY DAY」
それまでも何度も聴いた曲なんですが、この電車の中で聴いた「THE GLORY DAY」は私の心をわしづかみしてしまいました
なんてきれいな歌声 なんて深い歌声
イヤホンを通したMISIAの歌声は、私一人のためだけに歌ってくれているような、、、もう最高 でした。
これがきっかけで、私はどっぷりMISIAにハマることになったわけですが、この「できごと」の後に控えていた、この日のメインイベント「ジャパンカップ」の結果はどうだったかといいますと、当時の「競馬日記から引用しますと、、

もう最高~ これほど見事に第一本線で決まるなんて…。大声張り上げて上位2頭(とりわけ①エアグルーヴ)を応援できたし、現場での買い足しもうまくいったし、文句なし、である。

というわけで、1998年11月29日は、我が人生の中でも「珠玉の一日のひとつになったのでありました。

   

初めての生MISIAは、こちらで書いたように、2001年7月7日「THE TOUR OF MELONNPANDA 2001」でした。

初の「生MISIA」のチケット

この夜を「#1」として、私のMISIAライヴへの参加は144回を数えました。
その中にはMISIA不調な時もありましたけれど、「不世出」とまでは断言できなくとも、間違いなく希有なシンガーMISIAのパフォーマンスを「生」で体験できる幸せをつくづくと感じています。

きょうから「21年目」が始まりました。
今後のなお一層のMISIAのご活躍に期待しています。

ただ、まだ今年の7月7日のライブ河口湖のチケットを入手できていないというのが気がかりではあります

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今年も埼玉県立近代美術館は楽しい (中編)

2018-02-18 19:56:10 | 美術館・博物館・アート

始まる前はピョンチャン・オリンピックには興味がわかないナ…なんて思っていたのに、始まってみれば、自宅にいる限りはオリンピック中継夢中になっている私です。

とりわけ、カーリングに完全にハマってしまいました。しかも困ったことに、カーリングは1試合3時間近く続くし、また、日程も、日本チーム(男女2チーム)がそれぞれ1日に2試合もやったりするものだから、中継が始まると出かけられないし、野球なんかと違って、音声だけ聞いたらサッパリ

そんなわけで、ブログ書きは、その影響をもろに蒙って更新頻度がガタ減りしているわけですが、今夜は「今年も埼玉県立近代美術館は楽しい (前編)」のつづきを書きます

埼玉県立近代美術館(MOMAS)の常設展「MOMASコレクション」は、

セレクション:ルノワールとかピカソとか
とう・かたる - 人と美術の出会いの中で
小特集:小村雪岱のイラストレーション

3部構成。
このうち、「セレクション:ルノワールとかピカソとか」MOMASの所蔵作品の「目玉的な作品の展示で、「お久しぶり~」なんて感じ。

   

「とう・かたる」も、「お久しぶり~」な作品ばかりなんですけど、今回は、各作品に「このあとどうなると思いますか?」といった2つの質問が示されていまして、その質問にどう回答しようか? と考えながら観ると、何度も拝見した作品でも、違う一面が見えてくる感じがして面白かった

そんな中で、初めて観たようなこちらの作品が響きました

藤原吉志子「棘のある家」藤原吉志子《棘のある家》です。

この作品を観ていたら、MISIA「Little Rose」を思い出しちゃったんだよねぇ。

 居もしない敵や寒い夜 風吹く日を怖がる君に
 笑顔の宝箱をあげる だから僕を信じてみて

ってヤツ。
この作品のすぐ隣に展示されていたのは、木村直道さん(大好き)「スクラプチュア-」《栄光への脱出》でした。

木村直道「栄光への脱出」上の方のかたまりは、何度観ても、「お尻」にしか見えないよなぁ。

それにしても、ちょっとした質問を投げかけられることで、美術鑑賞が受動的なものから能動的なものに変わるのだということを実感した展示でありました。

   

最後の「小特集:小村雪岱のイラストレーション」は、川越市立美術館で開催中の「小村雪岱『雪岱調』のできるまで」(記事はこちら)にシンクロした展示。
「小村雪岱『雪岱調』ができるまで」を観たら、MOMASのこちらの展示を観て、ようやく完結するって感じですぞ。「小村雪岱『雪岱調』ができるまで」を観たのにMOMASの小特集を観なかったら、「片見月」みたいなもので、縁起が悪いと思います

せっかくの休日ですけど、今夜はこれまで。

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今年も埼玉県立近代美術館は楽しい (前編)

2018-02-13 23:47:57 | 美術館・博物館・アート

一昨日、今年初めて埼玉県立近代美術館(MOMAS)に行ってきました。

現在、MOMASでは企画展「版画の景色 -現代版画センターの軌跡-」が開催中で、私のお目当てもこの企画展だったのですが、この展覧会はもちろん、MOMASコレクション(常設展)も、MOMASご自慢「今日座れる椅子」も、そして、MOMASのある北浦和公園ぜぇ~んぶ楽しくて、いやはや、さすが でございました

で、どんな展開の探訪記にしようか、どれから書き始めようかと、一昨日から考え続けてきました。結局、展開成り行きに任せる ことにしまして、まずは、北浦和公園にあったこちらから

しっかりとが積まれた「何か」でして、ベンチかな? と思ったものの、ベンチにしては結構高さがあるし、ベンチであれば座面にあたる場所には、その上を人が歩いたらしくてがこびりついています。

真横から見ると「石橋」のようでもあるし、この角度で見ると「芋虫」「蛇」のようでもあります。
いったい、何かだろ? と思ったら、MOMASからTweet返信をいただきました。

お話の公園の石積みベンチは期間限定設置のもので、3月には「庭」をテーマのシンポジウムもありますので、またぜひお越しください。

だそうです。
やはりベンチだったんだ…
そして、この記事を書くにあたってMOMASのHPを見ると、これは「風のカタチ」という名前のベンチで、

日本庭園協会埼玉県支部との共催で、2017年11月に石積みベンチ「風のカタチ」が設置されました。職人が伝統的な技法と現代の創意工夫を結集させて作り上げたこのベンチ、2018年3月末までの期間限定設置となります。

とな
そうかぁ~、「石橋」に見えたのも納得がいきます
でも、「ベンチ」として使ってもらうには、座面の汚れをなんとかしないと…

   

一方、MOMAS館内の「今日座れる椅子」は、どれも座るのがはばかれるような佇まい…

でも、座ってきました

最初に座ったのは、

剣持勇さんの「丸椅子/ラウンジチェア」(1960)でした。
名前のとおり、ホテルや美術館などのラウンジに似合いそうです。
二つ並んでいるところなんて、とっても cute

編んだラタンがきれいだし、座り心地も、ギシギシいうきしみ音と共に心地良かったですぞ。

次はこちらのベンチ。

一見、何の変哲もなさそうですけれど、説明板を見ると、

作者の谷口吉郎さんって、建築家のあの谷口吉郎さん?
生没年(1904~1976)からして、間違いなさそうです

東京国立博物館の建物を親子で設計した(父・吉郎東洋館子・吉生法隆寺宝物館)という希有な親子のお父さんの谷口吉郎さんは、先代の山種美術館を設計するのと一緒に、このベンチデザインしたんですな
どことなく帝国ホテル建物什器を一緒に設計したフランク・ロイド・ライトを彷彿とさせます。

それにしても、角材を間隔を置いて並べただけ(っぽい)ベンチの上に置かれた縄編み「おザブ」日本的ですねぇ~

「ベンチ」のおザブ最後は、どことなく「蟻」っぽいこちら。

説明板を見ると、アルネ・ヤコブセン「アント/モデル3101」(1952)という椅子でした

やはり「蟻」のイメージだったんだ
でも、どうせなら、6本足にすればよかったのに…

ということで、「版画の景色 -現代版画センターの軌跡-」MOMASコレクションのお話は後編で。 

【追記】「後編で」〆たつもりだったのですが、不本意ながら3部構成になってしまいました(2018/02/18 20:08)

つづき:2018/02/18 今年も埼玉県立近代美術館は楽しい (中編)

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2017年3度目の関西旅行記 #3-8

2018-02-11 09:51:11 | 旅行記

「2017年3度目の関西旅行記 #3-7」のつづきです。

東大寺戒壇堂を拝観した次は、久しぶりの大仏殿の拝観でした。

東大寺大仏殿の拝観券

「久しぶり」と書きましたが、前回、大仏殿を拝観したのはいつだったのかと思って調べてみると、あれまぁ~2012年1月末(記事はこちら)以来ですから、ほとんど6年ぶり

毎年1~2回奈良に出かけている私ですが、大仏殿とはとんとご無沙汰だったんですな。

で、やはり何から何までデカい、大仏殿

天平期の初代大仏殿に比べてプロポーションが良くないだの、唐破風が好みじゃないだの、ケチをつけている割には、やはり立派建物です、大仏殿は…。

東大寺大仏殿

そして、大仏殿の前に立っている八角灯籠は、大仏殿のサイズからして応分な大きさなのですが、間近で観ると、デカい

大仏殿前の八角灯籠

そして、もちろん、大仏様デカい

毘盧遮那仏そして、そして、四天王デカい

東大寺大仏殿の広目天ただ、大仏殿の四天王広目天(上の写真)と多聞天しかいないし(持国天増長天頭部しかない…)、存在する四天王も、なんだか頭でっかちバランスが良くない

ところが、広目天足元から仰ぎ見ると、、、

大仏殿の広目天おぉ、この迫力

大仏殿の広目天は、この角度から拝観するのが一番ですな

せっかくなので、広目天の反対側、大仏さまの左後方(北東)多聞天も、ちょっと浅い角度だけど、写真を載っけておきましょう。

大仏殿の多聞天

ところで、普通、お寺では仏さまは撮影禁止になっているものですが、この東大寺大仏殿は例外的に、三脚を使わなければ撮影可
どうしてなんでしょ
観光客にとってはありがたいのですけど…

話を大仏殿の四天王に戻しますと、御本尊の左前(南西)にいらっしゃるはずの持国天と、右前(南東)にいらっしゃるはずの増長天は、その頭部だけが大仏殿の北東隅に展示されていました。

持国天と増長天の頭部

説明板によりますと、

大仏殿の諸仏再興の最後に残った四天王像は、寛政11年(1799)広目天の御衣木(みそぎ)加持(かじ)が行われ、その後、多聞天像とともに完成したが、持国・増長の二天は素木(しらき)の頭部のみが残った。

だそうです。
どうしてこんな中途半端なことになったのでしょうかねぇ

現在の大仏殿は、Wikipediaから引用すれば、

戦国時代の永禄10年10月10日(1567年11月10日)、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した。天正元年(1573年)9月、東大寺を戦乱に巻き込むことと乱暴狼藉を働く者に対しての厳罰を通達する書状を出している。仮堂が建てられたが慶長15年(1610年)の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置された。その後の大仏の修理は元禄4年(1691年)に完成し、再建大仏殿は公慶(1648 - 1705年)の尽力や、江戸幕府将軍徳川綱吉や母の桂昌院を初め多くの人々による寄進が行われた結果、宝永6年(1709年)に完成した。

と、18世紀初めに竣工したものですが、大仏殿竣工後も、四天王ほかの再興約100年間にわたって続いていたということなのでしょう。
もしかして、四天王再興の中止は、寛政の改革緊縮財政が影響したのかも…と想像したのですが、寛政の改革1793年松平定信失脚をもって終わっていますので、この推察はハズレのようです…

ところで、大仏さまの左後ろ、多聞天像の近くの柱に、有名がが開いていまして、穴くぐりの順番待ちの列ができていました。

東大寺大仏殿の穴くぐり

くぐると無病息災のご利益があるというこの、どうして開いているのでしょうか?

公式な説明は見つかりませんでしたが、このがあるのは、大仏さまの北東、つまり私の大好き鬼門(艮=うしとら)にあたっておりまして、この穴から邪気を逃すのがその役割だという説があるようです。

そういえば、弥次さん喜多さん東海道中足栗毛で、弥次さんが大仏殿で穴くぐりにチャレンジしたものの、体が抜けなくなって 一騒動を起こす話が出てきます。
この大仏殿は東大寺の大仏殿ではなく、京都・方広寺の大仏殿でのお話。
でも、方広寺大仏殿は、Wikipediaによると、

寛政10年(1798年)の7月には大仏殿に雷が落ち、本堂・楼門が焼け、木造の大仏も灰燼に帰した。

だそうで、京都見物を描いた東海道中膝栗毛の「七編」が刊行された文化5年(1808)には、既に方広寺大仏殿はなかったはず

う~む… です。

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久しぶりの川越 後編

2018-02-08 22:33:27 | タウンウオッチング

「久しぶりの川越 中編」のつづきです。

川越市立美術館「小村雪岱 『雪岱調』のできるまで」を観終わったあと、私は駐車場に戻り、を取り出すと、川越の街に向かいました。

ホント、に帰ろうかとも思いましたが、まだ14:00をちょいとまわったくらいの時刻でしたし、雨も強く降っているわけではありませんでしたし、なにより私が貧乏性なもので…
でも、やはりを差しながらの観光は不便だし、かなり不満足でした

   

さて、この日の川越散策ルートはこんな具合でした。

「前編」で書いた郭町交差点からちょいと東(市役所方面)に行ったところに、こんな案内板がありました。

「川越城と中ノ門堀」と題するもので、引用します。

川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の家臣である太田道真・道灌父子によって築城されました。(中略)
江戸時代になると、川越城は江戸城の北の守りとして重視され、親藩・譜代の大名が藩主に任じられました。寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は城の大規模な改修を行い、川越城は近世城郭としての体裁を整えるにいたりました。中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えられます。まだ天下が治まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのです。
現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。多賀谷家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門で、屋根が入母屋、本瓦葺き1階部分は梁行15尺2寸(4.605m)、桁行30尺3寸1分(9.183m)ほどの規模でした。棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭間を備えた土塀が巡っていました。

上に載せた写真は、そのまた上に載せた写真にあおりを加えて調整したもので、右側の柱が傾いて見えています。申しわけない…

で、が掲示されているくらいですから、中ノ門現存していません
が、中ノ門堀の一部は残っていました。

川越城(跡)は、まったくもっての平城で、防御は大丈夫だったのか、余計なことながら心配になってしまう私ですが、説明板にあった古地図現在の地図を並べてみますと・・・、

現在はまっすぐになっている道はクキクキと折れ曲がっていますし、あちこちにがありますな。
本丸御殿の西側にある川越高校なんて、敷地内に跡があったりします。

川越高校といえば、男子シンクロナイズドスイミングで有名ですが(映画「ウォーターボーイズ」のモデルです)、その発祥は、生徒たちが校内に残っていた泳いだこと、、、、なんて事実は確認できておりません

それはさておき、中ノ門堀どんな構造で、どんな役割を担っていたのか、その詳しい説明が掲示されていました。

説明文を転記します。

中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面)から城内に攻め込んだ場合を想定して造られています。西大手門から本丸(博物館方面)を目指して侵入した敵は中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて直進できません。進撃の歩みがゆるんだところに、城兵が弓矢を射かけ鉄砲を撃ちかけるしくみでした。また、発掘調査では城の内側と外側で堀の法面(のりめん)勾配が異なることがわかりました。中ノ門堀の当初の規模は深さは約7m、幅18m東側の法面勾配は60° 西側は30°でした。つまり、城の内側では堀が壁のように切り立って、敵の行く手を阻んでいたのです。

なるほどぉ~ です。

納得した私は、川越のシンボル・時の鐘の前を通って、蔵造りの町並みを抜け…と歩いたのですが、驚いたのは、観光客の数

川越の街がこんなに賑わっているとは思いもよりませんでした

そして、あちこちから漂ってくる良い匂い
昼食を摂ってから1時間しか経っていないというのに、漂う匂い食欲が頭をもたげるとは
こんなところも、観光客を惹き付ける由縁なのかもしれませんな。

和服姿でそぞろ歩く人も結構見かけたのですが、ただ、和服を着た人たちの多くが外国語を話していたというのは…
でも、御同慶の至りです。

こうしてぐるりと川越の街を歩いて駐車場に戻りました。

雨が降っていなければもっとブログのネタを集められたのにな…とちょと残念

でも、まぁ、川越なら気が向けばひょいっと行けるわけで… (完)

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久しぶりの川越 中編

2018-02-06 21:40:24 | 美術館・博物館・アート

「久しぶりの川越 前編」のつづきも川越市立美術館で観た「小村雪岱『雪岱調』のできるまで」のお話です。

私、小村雪岱の作品が大好きでして、このブログには何度も雪岱にかかわるネタが登場してきましたし(一番の珍品こちら)、

展覧会も、2009年末~2010年初に埼玉県立近代美術館(MOMAS)で開催された「小村雪岱とその時代」(記事はこちら)とか、

2012年秋に(今はなき) ニューオータニ美術館で開催された「大正・昭和のグラフィックデザイン 小村雪岱展」(記事はこちら)を観覧しました。

また、MOMASコレクションでもMOMASが所蔵する雪岱作品を何度も拝見して、そのたびにほげぇ~ としたものです

この二つの展覧会をふり返ると、「小村雪岱とその時代」展は、雪岱画業にとどまらず、歌舞伎の美術の仕事までを網羅したまさに「雪岱のすべて」的な展覧会でしたし、「大正・昭和のグラフィックデザイン 小村雪岱展」は、の装幀に焦点を当てた展覧会だったと総括できると思います。

では、今回の「小村雪岱 『雪岱調』のできるまで」はどうかといいますと、タイトルどおり、雪岱画風の変遷に焦点を当てたものでした。
冒頭に雪岱東京美術学校(現・東京藝術大学)卒業制作の作品「春昼」が展示されていたのは象徴的でした。

確かに、教えてもらわなければ雪岱の作品と思えませんな。
その後の作風と全然違います

でも、展示全体としては、新鮮味には乏しい気がしないでもなかったりして…

でもでも、「なんとも雪岱」な作品に再会できたのはうれしいったらありませんでした。

映画「犬神家の人々」連想してしまったこちらの作品とか、

降りしきるとゴシャゴシャ動くが頭の中でアニメの一シーンとして動き出すようなこちらの作品とか、

存在しないが聞こえるような(まさにSound of Silence)こちらの作品とか、

小村雪岱「青柳」もう、まさしく眼福

図録の表紙もイイし…。

「小村雪岱『雪岱調』のできるまで」の図録

やはり好きだなぁ~小村雪岱

そうそう、雪岱が表紙画を担当した雑誌「婦人之友」 昭和7年(1932)6月号の表紙に書かれたリードに、思わず

「婦人之友」昭和7年6月号「子供よ太れ」だなんて、現代では考えられませんぞ

   

「雪岱調」という話に戻れば、雪岱大好評を得たという新聞の連載小説の挿絵(「おせん」も「お傳地獄」もこの範疇)の凄いところって、ベタ黒の、いわばデジタル的諧調の無いモノクロームで、ここまで情感を描き出す技量と感性だと思いました。

当時の印刷技術を念頭に置いた「職人的な仕事」なのだろうな、K.I.T

この「小村雪岱『雪岱調』のできるまで」を通じて、より多くの人に小村雪岱をという画家を知っていただけたらうれしいぞ

    

「小村雪岱『雪岱調』のできるまで」を鑑賞後、久しぶりに川越の街を観光しようと思ったのですが、思いがけなく、
うっそぉ~ でした。

でも、せっかく川越まで来たんだし、ちょいとでもそぞろ歩きしないともったいない ということで、駐車場に戻り、購入した図録クルマに乗せて、代わりに、いつも積んでいる長い傘を取りだして街の中心部に向かいました。

折り畳み傘は持っていたのですけれど、図録は持ち歩くには重いし、すぐ近くに長い傘があるわけですから…。

ということで、川越の街を歩いた話は後編(完結編)で書くことにします。

つづき:2018/02/08 久しぶりの川越 後編

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久しぶりの川越 前編

2018-02-04 21:39:15 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

久しぶりに川越に行ってきました。

お目当ては、川越市立美術館で開催中の「小村雪岱 『雪岱調』のできるまで」を観ることでして、先々週のの影響(クルマで出勤したり電車で出勤したり)で、クルマのガソリン残量がたっぷりでしたから、クルマで…。
川越市立美術館には、美術館博物館川越城本丸御殿共用の無料駐車場がありますし

この駐車場は過去2~3回使ったことがありまして、そのいずれのときもすんなり駐められたので高をくくっていたのですが、きょうは満車の表示が

クルマの中で、NHKのど自慢を観ながら15分ほど待って、駐車場に入れました。

駐車場にクルマを駐めて、「小村雪岱」展より先に、まずは、川越市立博物館ティーラウンジかなり遅いブランチを摂りました。
お腹がほどよく満たされたところで、いざ、「小村雪岱」展

この「小村雪岱 『雪岱調』のできるまで」展は、フライヤーから引用しますと、

当館の開館15周年を記念し、川越に生まれ、装釘・舞台装置・挿絵など他分野で才能を発揮した小村雪岱(1887-1940)の展覧会を開催します。

とあるように小村雪岱川越出身の画家でして、加えて、この展覧会の「冠」には「生誕130年」というのがついています。
こんな「キリ」が重なると、川越市立美術館としては何があっても「小村雪岱展」開催しないわけにはいかないでしょうなぁ…

「『キリ』が重なる」ついでに書けば、展覧会の最後に小村雪岱の年譜が掲げられていまして、それによれば、小村雪岱が生まれたのは「川越市郭町」という場所なんだとか。
「川越市郭町」ってどの辺なんだろ… と思いつつ、川越市立美術館を出て、川越の街の中心部を散策しようと歩いていますと、川越市立美術館とは目と鼻の先の交差点に掲げられていた地点名の標識には、、、、

あれま 「川越市郭町」って、川越城本丸のすぐ近くだったったんだ

さらに自宅に帰って、買ってきた図録を読みますと、

生誕地は郭町600番地と記す文献が多いが、郭町に600番地は見当たらない。雪岱と東京美術学校の同窓生で卒業後も交際のあった久保提多「商業高校敷地の西隣」とする。商業高校の敷地には現在当館が建つ

ですと
こりゃ、川越市立美術館小村雪岱さんを大事にしないとならないですよねぇ

と、かなり小編になってしまいましたが、きょうはこれまで。

つづき:2018/02/06 久しぶりの川越 中編

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