新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

南九州旅行記(その2:水前寺公園の巻②)

2011-05-31 23:17:08 | 旅行記

南九州旅行記(その1:水前寺公園の巻①)」のつづきです。

時間は前後しますが、水前寺成趣園に入るとすぐにこちらの建物、というか、何というか、要するに電話ボックスが目に止まりました。

110531_1_01_2

説明板によりますと、

九州第1号の公衆電話

この公衆電話ボックスは、明治34年2月熊本郵便電信局坪井支局(現在、熊本南千反畑郵便局)の前に、九州最初に設置したものです。当時は、公衆電話を「自働電話」と呼んでいました。
九州の電話自動化完了の年と第30回電信電話記念日を記念して、当時のボックスを復元しました。
みなさまの公衆電話としてご愛用ください。
       昭和54年10月23日

 

だそうで、電話ボックスとして現役です。
でも、なぜ水前寺成趣園の中に移設したのでしょうか?
その辺りは謎です

   

私、生で歌舞伎を観たことはありますが、は小学校か中学校の授業で教育映画を見ただけです。そして、ひたすら退屈…という嘆かわしい記憶しか残っていません。
今にして思えば、子どもたちを見せるのは、よほどの偶然が起こらない限り、能に対するマイナスのイメージを子どもたちに植えつけるだけではないかとは思っています。
それなりの人生経験を積んで、下地ができてからを観たら、かなり受け止め方は違うのではなかろうかと…。

私の場合、かなり残念なことになってしまったようです。

さて、水前寺成趣園の芝生の中に、能楽堂(能楽殿)がありました。

110531_1_02

この能楽殿では、毎年8月の第一土曜日に全国で「5番目の古い歴史と実績」を持つ薪能が行われるそうです。

いつか、薪能を、いや、とりあえずは日中の、それも屋内の能楽堂でもいいですから、というものを生で鑑賞してみたいものです。

もしかすると私、いや、恐らく能舞台を見たのはこの時が初めてです。

110531_1_03

能舞台の周りにはめられたガラス戸がかなりホコリまみれだったのが残念です…

でもって、能楽殿を裏から見ると、

110531_1_04

普通の住宅のようでした。エアコン完備だし…。

   

水前寺成趣園の中で一番古いものといえば、何と言ってもこの建物でしょう

110531_1_05

別角度から観ると、、、

110531_1_06

さらに反対側から内部を観ると、、、

110531_1_07

この直線 日本です

この建物は「古今伝授の間(こきんでんじゅのま)」と呼ばれるもので、おごそかな文体の「由来書き」によれば、

110531_1_08

この萱葺の古風な建物を古今伝授之間と申します 今から凡そ四百年程前 京都御所の中に建っていました 後陽成天皇の皇弟 桂宮智仁親王の書院を兼ねた茶室でございます
この部屋で細川家初代の細川幽斎公が桂宮智仁親王に「古今和歌集の解説の奥儀」を伝授された由緒深い建物でございます
後に桂宮家に於て此の建物を永く保存せんが為に その御領地山城国乙訓郡開田村(現京都府長岡京市)に在る長岡天満宮の境内に移し 長岡茶屋と申されました
その後 明治初年に之を縁故ある細川家に賜り大正元年に水前寺公園正面の現在の地に昔の型通り 移築されました

だそうです。
桂宮智仁親王といえば、かの桂離宮の基礎をつくった(?)お方。
だからというわけではなく、良いです…

110531_1_09

掛け軸の位置が高すぎる気がしないでもありませんけど…

水前寺成趣園のHPに「この建物から見る成趣園の風景が最も良いとされている」という「風景」がこちら。

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2枚の写真を不細工につなげて申しわけありません m(_ _)m

と、この時、視線に飛び込んできたのは、、、

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私の傍らの木からぷら~んとぶら下がっていた

見ているとこの虫、へにゃへにゃと体を動かしながら、どうやら木の枝まで登ろうとしているようです。

110531_1_12

風がそよぐたびに、大きく揺られながらも、は懸命に自分の糸を登っていきます。

そしてついには、虫は無事に木の枝にたどり着いたのでありました。

めでたしめでたし…

妙なところで妙に満足した私は、水前寺成趣園を後にして、この案内図を頼りに次の目的地に向かいました。

110531_1_13 その話は、また次回

つづき:2011/06/11 南九州旅行記
                (その3:水前寺公園の巻③)

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南九州旅行記(その1:水前寺公園の巻①)

2011-05-30 22:10:24 | 旅行記

いまさら、とは思いつつ、ゴールデンウィークの前半(4/29夜~5/2)に決行した3泊4日の南九州旅行の旅行記を始めます。

3泊4日」とはいいながら、思い立つのが遅かったため、熊本に向かう飛行機は遅い便しかとれなかったもので、4月29日の記事「二十数年ぶりの南九州旅行を決行中(初日)」に書いたように、初日は、熊本空港に着いて、リムジンバスで熊本市内に入って、あとはホテルで寝るだけでした。

そんなわけで、2日目の4月30日から旅行記を始めます。

   

旅行2日目の行程は、4月30日の記事「二十数年ぶりの南九州旅行を決行中(2日目)」に書きましたように、

ホテル(チェックアウト)⇒徒歩熊本駅(荷物をコインロッカーに投入)⇒市電無料)⇒水前寺公園電停徒歩
水前寺成趣園徒歩ジェーンズ邸・日赤記念館⇒夏目漱石旧居
徒歩市立体育館前電停市電無料)⇒通町筋電停徒歩
⇒昼食徒歩花畑公園徒歩熊本城徒歩
熊本県立美術館本館永青文庫展示室徒歩旧細川刑部邸
熊本城周遊バス熊本駅⇒駅ナカで夕食新幹線鹿児島中央駅
徒歩⇒ホテル

というものでした。

ほぼ1日を費やして熊本市内を動き回ったつもりですが、要は、水前寺公園熊本城周辺しか行っていません。
ドタバタと旅行の準備をする中で、熊本での探訪先はこの2カ所しか思いつきませんでした…

さて、通称:水前寺公園、正式名称:水前寺成趣園は見事な大名庭園でありました。

最近はアフロでCMに出演(こちらの記事こちらのサイトをご参照方)されている水前寺清子さんという歌手がいらっしゃいまして(んにゃ…知る人ぞ知る)、彼女の芸名が、彼女の故郷にある水前寺公園から採られていることは知っていましたが、水前寺公園についての私の知識はここまで。
漠然と、「水前寺というお寺があるのだろう」と思っていました。

んで、水前寺成趣園へ向かう「参道(なのでしょうな)」の入口に着くと、

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おぉ、EVタクシー
それはどうでもよろしくて、視線を右に160°ほどずらすと、、、、

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鳥居
鳥居というものは神社の入口に立ってるのが普通で、鳥居をくぐって進んだ真正面にお寺があるケースというものは相当に稀なはずです。

そして、入場料400円を支払って水前寺公園、もとい、水前寺成趣園に入り、説明板を読んでようやく判りました

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細川忠利は、肥後入国に従ってきた豊前羅漢寺の僧玄宅のために寛永9年(1632)、今の成趣園に水前寺を建立しました。その後綱利の時、寺を近隣に移し玄宅寺と呼び、その跡地に庭園を築き、お茶屋を設けました。これが今の水前寺成趣園です。年中絶えることのない清水の庭園は東海道五十三次をかたどったものと言われ、桃山式回遊庭園の代表的なものです。

ですと。やはり「水前寺」というお寺があったんですな。今はありませんけど…。

さて、あまり拝見したことのない大名庭園というもの、天気もほどほどでがきれいで、そして開放感にあふれていました。

110530_1_04

ただ、開放感にあふれすぎていて、現代の建物が否応もなく背景になってしまうのが残念…

110530_1_05

さて、参道にあった鳥居はこの神社「出水(いずみ)神社」のものでした。

110530_1_06

明治11年(1878年)創建といいますから、かなり若い神社です。
水前寺成趣園のHPから沿革を転載しますと、

明治10年西南の役で、熊本の城下は焼野ヶ原となりました。旧藩主を敬い慕っていた旧藩士たちは、藩主の御霊を祀り御恩に報い、御恩徳によって、戦いで荒んだ人心を安定させ、熊本の町を発展させようとの願望から崇敬者相集い、細川家に関係の深い水前寺成趣園の地を選びここに社殿を創建し、細川藤孝公ほか3柱を斎鎮しました。後に歴代の藩主10柱及び忠興公室ガラシャ夫人が合祀されました。

とな。

110530_1_07 園内には肥後細川藩の初代藩主の忠利公(お寺の水前寺を建立した方)の銅像と、忠利公のおじいさん藤孝公(幽斎)の銅像が並んで立っていました。
揮毫は細川宗家の現当主・細川護熙さんです。

系図ではこのお二人の間に入る忠興公はどうした?

そんな不思議さよりももっと不思議だったのが、この銅像の裏手にある流鏑馬場(というのか?)脇の並木でした。

110530_1_08 なぜに揃いも揃ってこんな妙な形に育っているのでしょうか?

私の故郷の海岸沿いにある防風林・砂防林は、冬の強烈な季節風を受けて斜めに育っているのですが、こんな街中で木の形が変わるような強風が吹くとは思えません。
がぶつかってきたらクッションになるように、あえて矯正したのでしょうか?
なんとも不思議な並木でした。

   

上の方で紹介した水前寺成趣園の説明板では、

年中絶えることのない清水の庭園は東海道五十三次をかたどったものと言われ

とありましたが、どこ東海道五十三次どこをかたどったものかさっぱり判りませんでした。
せいぜい、この築山富士山なのだろうな、、、くらいのもの…

110530_1_09

もうちょいと細かな説明があれば…と思いました。
でも、それは無粋かも…

   

水前寺成趣園には、阿蘇からやって来た湧き水でできた(つくった?)大きながありまして、きれいな水の中ではたくさんのが泳いでいました。

や、どこにでもいるだけでなく、っぽい鳥もいるし、

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そして、何よりも、たぁ~~っくさんいました

うぐぁ~と、伸びをしているようなのとか、

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あんたら、何をしてるんだ」的な2匹とか、

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二日酔いっぽいのとか、

110530_1_13

レツゴー三匹なのとか、

110530_1_14

いったい何匹の亀が棲息しているのでしょうか

っつうことで、「水前寺公園の巻」はまだ続きます。

つづき:2011/05/31 南九州旅行記(その2:水前寺公園の巻②)

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MISIAのSOUL QUESTツアーはまだまだ続く

2011-05-29 09:16:59 | MISIA

もはや旧聞に属する話になってしまいましたが、THE TOUR OF MISIA JAPAN SOULQUESTの10~12月のスケジュールが発表されています。
詳しくは公式HPをご覧いただくとして、来月末の東北シリーズ(山形・盛岡・八戸)の後、3か月のインターバルを挟んで、

10/09 (日) & 10 (祝) 大阪[中之島]
10/16 (日) 浜松
10/21 (金) & 22 (土) 東京[渋谷]
10/27 (木)
10/28 (金) 岐阜
11/05 (土) 府中
11/11 (金) さいたま[大宮]
11/20 (日)
11/22 (火) 福井
11/23 (祝) 金沢
12/16 (金) 旭川
12/18 (日) 札幌
12/23 (祝) 熊本
12/24 (土) 鹿児島

というスケジュールになっています。

約4年ぶり(2008年1月以来)のさいたま開催が予定されています 半休をとってでも行くぞ
発表された16公演のうち、いくつ行けることになるのでしょうか?
カレンダーとスケジュール帳を見つめて、じっくりと考えます。

で、その検討に欠かせない(?)グッズを作りました。
2月6日の記事「MISIAのSOUL QUESTツアーに向けて」で書いた手帳(ミニ6穴)用のツアー・スケジュール表カレンダー用シールです。
こちらがスケジュール表で、

110529_1_2

こちらが、壁掛けカレンダー用のシール。こっちは2月の記事に載せたものと見た目が同じですな

110529_1_3 16公演分ですから、シールが4枚余ってしまう…
そこで、「絶対に行くぞ」という思いを込めて、大阪・東京・府中・大宮の4公演分は、「参戦バージョン」(単に都市名のフォントが黄色)でも作りました

110529_1_4

できることなら、MISIAの森ついでに金沢とか、黄砂のない桜島こちらをご参照)ついでに鹿児島とかにも行きたいところです。

ところで、今回発表されたツアースケジュールにも、仙台はありませんでした
もしかしてMISIAのSOUL QUESTは来年も続くのでしょうか?
そうであれば、是非、震災で大きな被害が出た宮城県 と、福島県(余震が落ち着けばいわき辺りで)、茨城県千葉県でも開催して、「心の栄養」を届けて欲しい
福島・茨城はMISIAデビューの年・1998年にライヴが開催されただけだし、千葉はゲネプロが2回と東京ディズニーシーにゲスト出演しただけです(狭義では「生MISIA空白県」)。
まだ「生MISIA空白県」(栃木・群馬・島根・徳島・高知・佐賀)が残っていますけれど、個人的には、とりあえずこちらを優先して欲しいデス。

   

ここで、先週までのセットリストを。110529_1_1_2

上の画像をクリックすると、PDFが開くはずです

   

ところで、ようやく昨日の午後、注文していた「明日への言葉 ~1/100のメッセージ~が届きました

明日への言葉 ~1/100のメッセージ~ 明日への言葉 ~1/100のメッセージ~
価格:¥ 1,800(税込)
発売日:2011-05-26

100枚の写真と100のショートメッセージで構成されたフォト&メッセージブック」という触れ込みのこの本、まだ斜め読みの段階ですが、改めて思うのは、ライヴでのMISIAのMCは思いつきを語ったり、人から聞いたり本で読んだことを受け売りで紹介しているのではなく、自分の体験をベースにずっと考えて続けていることを自分のことばで語っているのだなということ。
本の冒頭にある「MISIA's Starting Message」には、取り立てて新しい話は出てきません。でも、だからこそ、MISIAがブレることなく音楽・アフリカ・生物多様性といったコトを常に考え、そして、取り組んでいることが伝わってきます。

音楽は人に伝えるツール。自分のメッセージというのは、今、自分が感じていることを伝えることなので、以下、自分が関心を持っていることや人に伝えたいことが音楽になっていく。だから音楽活動と、社会貢献活動は私にとってベクトルは同じなんです。それは「みんなで一緒に幸せになっていく」というベクトル上にあることだから。

染みます…

写真も、素顔のMISIAが見られるようで(撮られることを前提にした写真もあるけれど)、非常によござんす

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あきれる話ばかり…

2011-05-28 09:45:48 | ニュース

東京電力福島第一原発事故についての雑感です。

震災直後の3月12日、東電が原子炉への注水を中断したかしなかったかを巡るすったもんだが明らかになってきました。
私は原子力に関して(も)ド素人ですから、原子炉に注水することが良いことなのか悪いことなのかさっぱり判りません。
ですが、経緯だけをみると、いろいろなお偉いさんたちのいいかげんさと、ちょっと前までは一流の会社だと思われていた東電のいいかげんさだけはひしひしと感じます。

まず、ことの経緯を今朝の毎日新聞の社説からひろってみます。

「注水中断」は、東電が(5月)20日に行った会見で明らかになった。地震発生の翌3月12日午後7時4分に注水を開始、同25分に中断、午後8時20分に再開した、というもので、誰の指示によってなぜ中断したのかが、その責任問題とからめて国会で論議された。
これについて、政府側は細野豪志首相補佐官が、中断は東電の独自判断で行われたと会見(21日)、東電は、注入計画は事前にファクスで原子力安全・保安院に連絡してあったと発表(25日)した。いずれも中断を前提にした説明だった。
ところが、26日になって、東電の武藤栄副社長が会見し (1)注水は午後7時4分に始まり、同25分には本店と現場のテレビ会議を実施、「(注水に)首相の理解が得られていない」との情報を協議、注水停止で合意した (2)しかし、吉田昌郎第1原発所長は冷却を優先すべきだとの考えから注水を継続した (3)その後国会での追及や国際機関の視察もあることから訂正した、との経緯を明らかにした。24、25日に行った吉田所長からの聞き取りでわかったという。

ここで注目すべきは、①「首相の理解が得られていない」という「情報」をもとに、②本店と現場が協議して注水中止を決定したものの、③現場の長が決定に背いて注水を継続し、④その事実を本店はまったく把握していなかったということ。

まず①について、5月22日付けのasahi.comの記事によれば、

東電は(3月12日)午後3時36分に1号機の建屋が水素爆発した後、原子炉を冷やすため、発電所長の判断で午後7時4分、海水の試験注入を開始。ところが当時、官邸にいた武黒一郎・東電フェローから午後7時前後、保安院などの検討について電話連絡を受け、東電は同25分、注入をいったん止めた。武黒フェローが電話連絡をしたのは、だれかの指示を受けたものではなく、自主的判断という。

だそうですが、ウォール・ストリート・ジャーナル日本版の記事からもうちょい詳しく覗いてみると、

しだいに明らかになってきた事実を総合すれば、原子力安全委員会の斑目春樹委員長が、再臨界の可能性は「ゼロとは言えない」と言ったことによって官邸で海水注入に対する懸念が強まり、官邸に詰めていて、官邸は注水に懸念を持っていると「察した」東電の元副社長の武黒一郎氏が東電本社にその旨を伝え、東電本社はそれを現場に伝えた。
結局、官邸が注水停止を命じたわけではなかったらしい。しかし驚いたのは、武黒元副社長が東京大学工学部卒の技術畑の人だったということだ。原発技術者は、あのとき注水を停止するなど論外という点でほぼ一致している。だからこそ、国会まで誰が悪かったのかと大騒ぎをしたのに、なんと、その決断の元凶が、東電で副社長まで務めた技術者だという。

この記事に出てくる斑目委員長の「ゼロとは言えない」発言は、発電所長の「実は注水を継続していました」という告白が出るまで、私にとって最大の「あきれた」できごとでした。

斑目委員長は、5月24日に開催された衆議院の東日本大震災復興特別委員会原子力安全委員会で、

福島第1原子力発電所1号機への海水注入が一時中断された問題をめぐり「『再臨界の可能性はゼロではない』という(自らの)発言は事実上ゼロだという意味だ」と述べた。

とな(同日の日経の記事より)。

ゼロではない=事実上ゼロ」だなんて、誰がそう解釈できますか
更に、

「だいたいそういう時、口癖として『可能性はゼロではない』と言うんです」と班目委員長は打ち明ける。(同じ日経の記事より)

ですと。万が一の時の担保をとることが癖になっているんですな、きっと。
可能性はゼロではない」ではなく「可能性は限りなくゼロに近い」だったら、素人の受け止め方はまるで違うでしょう。
こんな御仁、間違いはしないかもしれないけれど、一刻を争うような時のアドバイザーとしては無能デス

次に②と③。
会社の「誤った決定」に背いて注水を継続した東電福島第一原子力発電所・吉田所長の行為を巡って、賛否さまざまなようですが、「②本店と現場が協議して注水中止を決定した」が事実ならば、吉田所長も注水中止の意思決定に参加していたはずで、なぜ協議で注水継続を主張し続けなかったのかが疑問です。さらに、注水を継続したことを2か月も隠していたことも批判されて当然だと思います。
執行役員が会社の決定に面従腹背していた(東電の社外にとっては正しい行為だったようです)ことにも驚くし、加えて、副社長がぐしゃぐしゃの記者会見をしていることには開いた口がふさがりません

東京電力の武藤栄副社長は26日午後の記者会見で、福島第一原子力発電所1号機の海水注入の一時中断を見送った吉田昌郎所長の処分について、「それも含めて検討する」と述べた。
武藤副社長は、海水注入を継続したことについては「原子炉を冷やすうえで大変正しい判断をしたとしたが、「報告の在り方やその後の対処について、これで良かったか検討する必要がある」と述べた。処分の内容、時期については「慎重に考えたい」とした。
(2011年5月26日16時49分  読売新聞)

会社の決定に背く判断は「大変正しい判断」だったけれど、「報告の在り方やその後の対処について」「それ(吉田所長の処分)も含めて検討する」ですか。
会社の決定が「大変に正しくない」ことを副社長が実質的に認めるとは、、、、
なんという会社なんでしょうか、東電は…
永田町方面や霞ヶ関方面への対応で実績を積み上げた人ばかりがトップについてきた会社だけのことはあります。

内幸町(本社)と現場との間には、原子炉の圧力容器並みの遮蔽物があるようで、東電社内の風通しを良くするためにはメルトダウン並みの荒療治が必要かも。単純に国有化とか発送電分離でなんとかなるようなものではないと思われます。

なんともあきれた話ばかりで、滅入ってしまいます。

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ダービーでは内国産血統を応援したい

2011-05-27 22:41:42 | 競馬

5月25日の日経電子版に、「ダービー全馬、サンデーサイレンスの孫対決 血統の偏り鮮明 主要競馬国でも異例」という記事が載っていました。

引用しますと、

競馬の祭典、第78回日本ダービー(東京優駿、G1・芝2400メートル)は29日、東京競馬場で行われる。2008年生まれの国産馬と日本への輸入馬計7458頭の頂点を決める戦いだが、最終登録された22頭全馬が、往年の大種牡馬サンデーサイレンスの孫という異例の事態となった。
現時点で出走可能な18頭を見ると、父の父がサンデーサイレンスという馬が16頭、母の父サンデーサイレンスが2頭。賞金不足で他馬の回避待ち状態の4頭も、父の父サンデーサイレンスと母の父サンデーサイレンスが各2頭となっている。

そして、確定した出走馬18頭を見ますと、

110527_1_1

です。

最終登録された全馬がサンデーサイレンスの孫なのですから、確定した出走馬18頭すべてサンデーサイレンスの孫なのは、当然のことです。

最終的に、ディープインパクト(父:サンデーサイレンス、母:ウインドインハーヘア)産駒が4頭ステイゴールド(父:サンデーサイレンス、母:ゴールデンサッシュ)産駒とアグネスタキオン(父:サンデーサイレンス、母:アグネスフローラ)産駒が各3頭フジキセキ(父:サンデーサイレンス、母:ミルレーサー)産駒とネオユニヴァース(父:サンデーサイレンス、母:ポインテッドパス)産駒が各2頭ハーツクライ(父:サンデーサイレンス、母:アイリッシュダンス)産駒とマンハッタンカフェ(父:サンデーサイレンス、母:サトルチェンジ)産駒が各1頭、そして、母方の祖父がサンデーサイレンスである馬が2頭になりました。

こんな珍事(というよりも、以前から危惧されていたこと)は、おもしろがってばかりいるわけにはいきません。
日経の記事をもう一回引用します。

今回のダービーで表れた血統の偏りは、サンデーサイレンスを導入した社台グループ(北海道)の力が日本の競走馬生産において圧倒的に強いことが背景にある。だがこうした傾向が続けば、近親交配の可能性も高まり、国産馬同士で強い馬をつくることが難しくなる恐れもある。

恐れ」どころか、既にそのきざしが出ています。
出走18頭のうち、曾祖父母に内国産馬がいる馬は、アグネスタキオン(母の祖母イコマエイカンが内国産)産駒のデボネアショナンパルフェノーザンリバーと、ステイゴールド(母の母ダイナサッシュが内国産)産駒のオルフェーヴルフェイトフルウォーナカヤマナイト合計6頭しかいません

まさしく、生物多様性とは逆の方向に進んでいるというわけです…

どうしたことか、ステイゴールド産駒のオルフェーヴルフェイトフルウォーは、共に母方の父がメジロマックイーンです。
こうなったら(?)、この両馬に内国産血統の継承を期待したいところです。
折も折、名門メジロ牧場が解散したばかりですし(こちらの記事をご参照方)、応援します、オルフェーヴルフェイトフルウォー

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5月25日は「『記憶』の日」かもしれない

2011-05-26 21:48:20 | MISIA

きょうのニュースで、「世界記憶遺産」という聞き慣れない言葉が流れていました。
なんでも、山本作兵衛さんという方が筑豊炭田での生活を描いた絵や文章ユネスコの「世界記憶遺産(Memory of the World)」というものに登録されたのだとか。

小学校の頃だったか、中学校の頃だったか(あやふや…)、教科書か参考書か事典で(ますますあやふや…)、炭鉱での大変な労働を描いたこの絵を見た記憶があります。

110526_1_1 私のように、この絵を教科書か参考書か事典で見たことのある人は少なくないと思います。
この絵を描いたのが、山本作兵衛さんという方なんだとか。

世界記憶遺産」がどんなものか判らないまでも、「世界の遺産」に認定されたのだろうということで、とりあえずめでたいことだと思いました。

で、「世界記憶遺産」とは何ぞや?ですが、地元紙・西日本新聞によりますと、

文書や楽譜、映画フィルムなど歴史的資料の保護を目的に、1992年にユネスコが創設。影響力や希少性などを審査し、隔年で選ぶ。登録は、フランスの人権宣言やベートーベン交響曲第9番の自筆譜、アンネの日記など、今回の45件を含め計238件。山本作兵衛の炭鉱記録画が日本初の登録となる。政府申請に限る世界遺産と違い、自治体や個人でも申請が可能。条約に基づいて登録する世界遺産と違い、登録の判断基準が不明確などとして、文部科学省は積極的に申請を行ってこなかったが、著名な資料の登録が続いたことなどから姿勢を転換。11日、藤原道長が書いた日本最古の自筆日記とされる「御堂関白記」など国宝2件を申請すると発表したばかりだった。登録後、作品の移動制限などはないが、保護に一層の責任が生じることになる。

だそうです。

これまでに200件弱が登録されていながら、日本からは今回が初めての登録ですと。
どうりで聞いたことがなかったわけです。

西日本新聞の記事にも「登録の判断基準が不明確などとして、文部科学省は積極的に申請を行ってこなかったが」と書かれている文科省の対応について、朝日新聞かなり興味深い記事を載せていました。

文科省は2004年ごろ、国宝などの中から推薦を検討したが、文化庁側から「国宝の順位付けにつながるのは良くない」との慎重論が出て、選定を見送った。
ある政府高官は「文化庁は文化財を価値付けし、秩序を作ってきた。それを荒らされたくないという意識が出た」と指摘する。

う~む…

でも、この記事では、「文科省に文化庁が横やりを入れた=邪魔をした」っぽくなっていますが、外局(文化庁)が本省(文科省)の邪魔をすることなんてあるのでしょうか?

私が邪推するに、文化庁慎重論をとなえたところ、文科省も「そりゃそうだ。無難に行きましょう」と、積極的に同調したのではなかろうか。
まぁ、その辺は私の臆測でしかないわけでして、忘れてくださいまし

そんなことよりも、ユネスコの「『世界記憶遺産』国際諮問委員会」が、山本作兵衛さんの作品群を含む45件を新たに「世界記憶遺産」として登録することを決定したのは昨日5月25日
昨日5月25日といえば、MISIAのニューシングル記憶」の発売日でした。

記憶(初回生産限定盤) 記憶(初回生産限定盤)
価格:¥ 1,300(税込)
発売日:2011-05-25
記憶
価格:¥ 1,223(税込)
発売日:2011-05-25

偶然」と簡単に片付けるのは難しいと思います。

私は声を大にして、いや、文字を大にして書きたい

5月25日は「記憶の日」だ

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きょう5月25日は「MISIAの日」のはずなんですが…

2011-05-25 21:25:52 | MISIA

きょう、2011年5月25日は、MISIAの新譜、「記憶」の発売日です

記憶(初回生産限定盤) 記憶(初回生産限定盤)
価格:¥ 1,300(税込)
発売日:2011-05-25
記憶
価格:¥ 1,223(税込)
発売日:2011-05-25

昨年度までのように出勤or退勤時に気軽にCDショップに行けたのとは違って、今はクルマ通勤なもので、CDショップに行けるのは週末だけの私、当然のように「記憶(初回生産限定盤)」はネットで注文いたしました。
CDショップで買えば、フラゲもできるし、お店によってはポスターをもらえたりするのですが、致し方ありません…

   

で、きょう、帰宅すると「記憶(初回生産限定盤)」が届いていました。

正直なところ、新曲の「記憶」にはあまり良い感じを持っていませんでした。
ライヴで聴いた時も、ドラマ「遺留捜査」のエンディングを聴いた時も、あまり感じるものがない…

CDバージョンで聴いたらどうなんだろうかと、ちょっとだけ期待を持って聴いてましたが、やはり、ピンと来ません
この「記憶」にしても、外為ジャパンCMで使われている「君には嘘をつけない」にしても、なぜ、今、MISIAがこの歌を歌うのかなぜこの歌を歌うのがMISIAなのかしっくりこないのです。

また、「記憶」の場合、鷺巣詩郎さんのアレンジ凝りすぎです
大好きなTHE GLORY DAYを作曲した鷺巣さんではありますが、奇を衒いすぎだと感じる曲やアレンジが少なくない気がしていて、この「記憶」もやり過ぎだと感じています。

なんだか次のアルバムに対する期待感がしぼんでしまいそう…

でも、「記憶(初回生産限定盤)」に収録されている他の曲、「このままでTonight (with JP)」、「Can't Take My Eyes Off Of You」、「MAWARE MAWARE (Gomi's Lair Club Mix)」は大変良いデキだと思いますヨ

   

さて、明日、5月26日は、MISIAの新刊、「明日への言葉 ~1/100のメッセージ~」の発売日です

明日への言葉 ~1/100のメッセージ~ 明日への言葉 ~1/100のメッセージ~
価格:¥ 1,800(税込)
発売日:2011-05-26

きょうの落ち込みを補って余りある本であることを期待しています。
(こちらも発売日は今日だと思っていたんだけどな…、ぶつぶつ…

帰宅した段階でのステイタスは、

110525_1_1

入荷待ち」。

明日帰宅した時に届いているのでしょうか?

【追記】MISIA「記憶」のPVに、MISIAの赤ちゃんの頃の写真が使われていると、TOMJSQ 横浜2日目(ネタバレありの感想記はこちら)のMCで語られていました。
恐らく、4:37の辺りで使われている写真ではなかろうかと思います。[2011/05/26 05:52]

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これは観に行かねば!

2011-05-24 23:57:43 | 演芸・演劇

先日、加藤健一事務所から次の公演のDMが届きました。
加藤健一プロデュース100本記念と、実におめでたいタイトルを冠した次の公演は、

110524_1_1吉永仁郞・作の「滝沢家の内乱」です。

出演は、もちろんの加藤健一(カトケン)さんと、カトケンの芝居では馴染み深い加藤忍さんのお二人。

フライヤーから概要を引用しましょう。

文政十年、『南総里見八犬伝』執筆中の滝沢馬琴(加藤健一)の息子・宗伯の元に、嫁いできたお路(加藤忍)。
すぐヒステリックに喚き立てる馬琴の妻・お百と、病弱で神経質な宗伯のお陰で、滝沢家はいつもてんやわんやの内乱状態!
まともな会話ができるのは馬琴とお路だけ。二人の距離は自然に近付き……。
ある日突然、眼を患って執筆が困難になった馬琴に手を差し延べたのは、読み書きのできないお路だった。
「お前、漢字に偏と旁があるのを知っているな?」
「……?」
漢字を教えながらの口述筆記で、八犬伝は再 び動き始める……。

カトケンの二人芝居」というだけでときめくのですが、今回は「(だけ)の出演」が二人いらっしゃいまして、それが、カトケンとは長い縁&深い縁風間杜夫さんと高畑淳子さん

つかこうへい劇団でのカトケンと風間さんとの共演は観たことがない私ですが、初めて観たカトケンの芝居が高畑さんとの二人芝居「セイム・タイム・ネクストイヤー」(カルチャーショックを受けました)だった私、この芝居はぜぇっっ~~たいに観なければと心に誓っています。

7月13日~24日@本多劇場(ありゃ。きょうまで志の輔らくごだったんだ…)ですから、私は「土日出勤&平日休み」のはずで、チケットは結構簡単に取れるはず

観に行きますよぉ~

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なぜにこのタイミングで?

2011-05-23 22:17:47 | MISIA

きょう、asahi.comを眺めていると、こちらが目に止まりました。

110523_1_1

MISIA推奨のナイロビバッグ」ですと
THE TOUR OF MISIA DISCOTHEQUE ASIAの会場やWebで販売されていたあのナイロビバッグが再発売か?と思って記事を読んでみると(リンク切れご容赦)、

[掲載] JICA's World 2009年11月号

ですと
ずいぶん前のJICAの広報誌に載った記事ではありませんか(こちらからJICAのサイトに掲載されているPDFがご覧いただけるはず)。

110523_1_2

記事は、JICA's World掲載当時のまま、

世界に一つしかないナイロビバッグ。アフリカが気になるあなた、ぜひ一つ持ってみては。

なんて載せていますけれど、ナイロビバッグの販売は、とっくの昔に終わっているのでは?
その下に、

本コラムは、独立行政法人国際協力機構(JICA)の広報誌「JICA's World」に掲載されたものです。記事内容は掲載時のものです。記事の無断転用を禁じます。

とエクスキューズしているものの、大丈夫なんだろうか?

まだ入手できるものと信じ込んでmudefに連絡をとる人がでてきて、そして、結局買うことができなくて、何だよ! なんてことにならなければ良いのですが…

後日談:2011/06/16 ナイロビバッグ第二弾!

コメント (2)
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いったいいつの話だ?の京都旅行記(その14:完結編)

2011-05-22 23:43:01 | 旅行記

いったいいつの話だ?の京都旅行記(その13)」のつづき、3月19~21日に決行した京都旅行の旅行記の最終回は、三条大橋から始まります。

110522_1_1

三条大橋といえば、東海道の終点(起点?)。
五条大橋義経・弁慶なら、三条大橋弥次さん喜多さんでしょう(高山彦九郎の銅像もあるらしい)。
昔の人はこんな軽装で旅行していたんですねぇ。京都駅のコインロッカーに入れてある私の荷物を考えれば、信じられない荷物の少なさです。
基本的に歩くしかなかったわけですから多くの荷物を持って出かけることはできないでしょうけれど、着替えとかどうしたのでしょうか?

   

さて、三条大橋から、京都駅に向かう地下鉄に乗った四条駅までの散策マップはこちら。

110522_1_2

高瀬川沿いに木屋町通を南に進むと、土佐藩邸跡の碑があります。

110522_1_3

碑の傍らに京都市が立てた説明板を引用しましょう。

高瀬川を渡った西側、河原町通に至る間の元立誠小学校の辺りには、江戸時代、土佐藩(現在の高知県)の藩邸があった。当時は高瀬川に面しても門が開かれ、高瀬川には土佐橋が架かっていた。
藩邸が初めて置かれたのは江戸時代で、元禄3年(1690)には、京都藩邸の守るべき法律が詳しく定められている。藩邸は藩の京都連絡事務所で、留守居役が詰め、町人の御用掛を指定して、各種の連絡事務に当たった。
土佐藩は、薩摩(現在の鹿児島県)、長州(現在の山口県)と並んで幕末政局の主導権を握った雄藩で、武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎らの志士が活躍した。藩邸は、土佐藩の活躍の京都における根拠地であった。
なお、この西側に鎮座する土佐稲荷・岬神社は、もと藩邸に鎮守社として祀られたもので、同社に参詣する町人のために藩邸内の通り抜けが許されていた。

説明に出てくる「元立誠小学校」がかなりイイ建物でした。

110522_1_4

もう一枚。

110522_1_5

建物は良いのですが、この辺りは京都きっての「夜の街」。
風紀上はどうなんだろうか…と思ってしまいます。
それはともかくも、元立誠小学校の界隈には記念碑の類も多い。
例えば元小学校の玄関前の角倉了以の記念碑とか、

110522_1_6

日本映画発祥の地」の説明板とか、

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この人だれ?」的な「本間精一郎遭難之地」の石碑とか、

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いろいろとありますが、この界隈で一番人気の「碑」は、河原町通のコンビニの前にあるこちらでしょう。

110522_1_9_2坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地」の碑です。

碑はコンビニの前に立っていますが、暗殺事件の現場となった醤油屋さん近江屋は、この碑の南側(写真では左側)にあったそうです。

110522_1_10

 

ということは、この宝飾店近江屋跡にあたるのでしょうか?
う~む…、時の流れを感じます…

   

この後、四条河原町交差点から四条通に入り、四条烏丸で地下鉄に乗り、京都駅に向かいました。

そして、「京都旅行ダイジェスト(3日目:最終日)」で書いたように、伊勢丹の「デパ地下」で油揚げ豆腐を買い、帰宅の途についたのでありました。

めでたし めでたし…

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