新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

2018年最初の関西旅行 #2-8

2018-05-29 23:36:43 | 旅行記

「2018年最初の関西旅行 #2-7」のつづきは、ようやく大阪城天守閣に入ります。

私が大阪城天守閣に入場するのは、2010年7月(記事はこちら)以来ですから、8年ぶり
8年前も外国人観光客ワンサカいた記憶がありますが、今回は8年前よりずっとずっと大勢の観光客(それも半分くらいが外国人観光客?)が大阪城天守閣に集まっていました。

まずは券売所から長蛇の列ですもの
私は、「#2-4」に書きましたように、大阪歴史博物館大阪城天守閣との共通入場券を持っていましたから、この券売所の列ショートカットして大阪城天守閣へと向かいました。

が、ここでまた行列

行列嫌いの私(こんな記事もあった…)としては、しかも、大阪城天守閣初めてではない私としてはかなり萎えたのですが、この行列はエレベーターにつながるものなのだそうで、階段を昇ることを厭わない私(階段>行列です)は、エレベーターにつながる行列を尻目にスタスタと大阪城天守閣入場し、階段を昇り始めました

ところで、この大阪城天守閣、一般的には「観光施設」のイメージかもしれませんが、実は貴重史料収集・研究・保管・展示する「博物館」です。

例えば、

重要文化財「大坂夏の陣屏風」とか、かの富士山の陣羽織を初めとする陣羽織コレクションとか、大阪城天守閣収蔵品なかなかなものです。

それなのに、大阪城天守閣内部の展示を観ると、やはり「観光施設」の様相濃い

別に観光施設低級で、博物館高級だといっているわけではなくて、ここでしか現物を観られない という展示が少ない感じなんですよ、大阪城天守閣は (日本画とか、甲冑を含む衣類とかは常設展示が苦手なんですよね…)

加えて、観客を含む全体の雰囲気が、展示をじっくり鑑賞or観察するのに適しているとは思えないんですな
とにかく騒々しい

でも、大阪城天守閣の場合、仕方ないと思いますよ、「観光施設」的な性格付けは…。
なんてったって「大阪城天守閣」なんですから…。

そんなわけで、私も、展示「そぞろ見」程度で、ひたすら上層へ階段を昇り最上階から景色を眺めました。

まずは、「#2-2」でも登場した二上山が見える南東方向。

やはり高いですなぁ~

つづいては、通天閣あべのハルカスが見える方向。

そして、「もうすぐ行くからね大阪城ホール

そして最後は、大阪城天守装飾

黒漆が映えますなぁ~

こうして大阪城天守閣からの眺めを楽しんだ私は、階段を使って地上に降り立ちました。

こうしてふり返ると、特別な展示がない限り、大阪城天守閣最大の「売り」は、やはり最上層からの眺めなのかもしれませんな。

でも、いつかは大阪城天守閣が誇る「陣羽織コレクション」「大坂夏の陣屏風」で拝見したいものです。

ということで、散々引っ張ったわりには至極あっさりと、大阪城天守閣の見聞録おしまいです。

でも、大阪城見聞録はまだまだつづきます

つづき:2018/06/01 2018年最初の関西旅行 #2-9

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2018年最初の関西旅行 #2-7

2018-05-28 21:44:37 | 旅行記

「2018年最初の関西旅行 #2-6」のつづきなんですが、きょうはこぢんまりと…。

「#2-6」で書いた発掘現場隣りミライザ大阪城大阪城天守閣の間に挟まれるように、なまこ壁の建物が立っています。

この建物は「金蔵(きんぞう)」という名前で、その名のとおり、

江戸時代、幕府の金貨、銀貨を保管したもので、幕府直営の金庫としての役割を果たした。「かねぐら」「かなぐら」とも読む。

だそうです。
見た目、新しそうに見えますが、

宝暦元年(1751)、この場所から南に延びていた長屋状の建物を切断・改造して築造され、以来、北西側に以前からあった金蔵を「元御金蔵【もとごきんぞう】」この金蔵を「新御金蔵【しんごきんぞう】」と呼んだ。

というわけで、元をたどれば築270年になろうかという古い建物でして、重要文化財に指定されています。

残念ながら内部を拝見することはできませんでしたが

高さは約5.8m、面積は93.11㎡で内部は大小2室からなり、手前の大きな部屋には通常の出納用、奥の小さな部屋には非常用の金銀を置いた。
構造は防災と防犯に特に工夫がこらされ、床下はすべて石敷き、入口は二重の土戸と鉄格子、床下の通気口にも鉄格子がはめられている。

だそうです。
こんな大坂城の中心部本丸の、しかも天守の隣りにあるような場所に泥棒が忍び込んでくるとは考えづらいのですが、身内の幕府関係者をも信用していなかったということなのかもしれません。

ということで、「#2-8」久しぶり大阪城天守閣の見聞録です。

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2018年最初の関西旅行 #2-6

2018-05-27 11:32:22 | 旅行記

「2018年最初の関西旅行 #2-5」のつづきも大阪城本丸編です。

ミライザ大阪城の写真を撮っていたら、

外国人の若い女性観光客(南アジア系?)から声をかけられました。
なんだろ? と思ったら、自分たちも写真を撮りたいからどいてくれということらしい。
何分間も立ち止まっていたわけでもないのに、なんなんだ?

で、ちょいとムッとしながら、ミライザ大阪城の中へ…。

あやぁ~、イイ

大階段って、どうしてこんなに胸をときめかせてくれるんでしょ

ミライザ大阪城の2~3Fの階段

灯具がオシャレですなぁ。
ただ、建物の制約なんだろうけれど、配線がむき出しになっているのが残念…。
でも、これはこれで古いものを再生して使っている感じが出てるという意味で良いのかもしれません。

このとき、時刻は12:40で、腹が減っていたのですが、2階のレストランは予約満席3階のレストラン貸し切りだそうで、残念でございました

車寄せステキです

1階部分も内装こそ2階・3階と同様シックな佇まいですが、入っているお店はいかにも観光地の売店っぽくて、庶民的でした。っつうか、ちょっと建物とはアンマッチかも…

ミライザ大阪城レストランを利用できなかった私は、とりあえず1階豚まんを買い、外に出て、大阪城ホールを眺めながら食しましたとさ。

この場所は、ミライザ大阪城大阪城天守閣に挟まれた地点で、接するようにして、建設現場のように養生壁で囲まれたモノがありました。

その隙間から中を覗いてみますと、って、こそこそと覗かなくても見られるようになっていまして

建設現場っつうか崖崩れの復旧工事みたいです。

場所をGoogle Mapで示すと、こんな具合で、現在の天守閣の南東側、金蔵の東の地点です。

ここは大坂城の発掘現場で、豊臣時代の石垣が出現した場所だそうな。

この発掘現場の養生壁には発掘調査に関する説明パネルがズラリと並んでいまして、これが面白い

現在見られる大坂城の石垣や櫓などの遺構は、徳川幕府が豊臣期の大坂城を破壊して、土に埋めその上に築いたことはよく知られるようになりましたが、こんな図で見たのは初めてでした。

上の図では、現在の大阪城天守閣に位置にあった徳川期の天守と、豊臣期の天守を並べて示していますが、これは当然の話で、徳川期の天守は、豊臣期の天守台利用して建てられたのではなく違う場所に建てられた というのですよ。

それでは豊臣期の天守はどこにあったのか… ですが、徳川期の天守(=現在の天守閣)の北東側、台地の北東隅にあったのだそうな

左の図で、豊臣期の天守徳川期の天守位置関係がよく判ると思いますし、そして、下の図では、豊臣期天守周辺の「土地利用」が判ります。

現在、天守閣の東側は空撮だと「空き地」になっているように見えますが(「遷宮」用地っぽくも見える)、地下には水道の貯水池・配水池が埋まっています。
この地域は上町台地の北端で、大阪市内では標高の高い場所ですから、配水場には最適地なんでしょ。でも、貯水池・配水池をつくったとき、大量出土品が出現したと思うんだけど、それはどうなった?

と思ったら、こちらのサイトによれば、この配水池は「明治28(1895)年に竣工した大阪最古の配水池」だそうで、

図面を見ると配水池は地下に掘りこんだ施設ではありませんので、徳川期の大坂城も豊臣時代の大坂城も配水池の下にしっかりと残っていると考えられます。

だそうな。
よかった、よかった…
でも、配水池の下を発掘するのは難しいよなぁ~

もう一つ疑問。
それは、現在の配水池のある場所は、徳川期にはどう使われていたのだろうか? ということ。

この疑問も、説明パネルが引用していた19世紀前半頃大坂城を描いていると考えられる「浪華城全図」で解消

なんと、江戸時代も空き地だった、というオチ
この図では天守天守台しか無い状態で描かれていますが、徳川期の天守は、

1665年(寛文5年)には落雷によって天守を焼失し、、以降は天守を持たない城であった。(Wikipediaより)

だそうです。
ちなみに、同じく「天守を持たない城」江戸城が最後に天守を失ったのは明暦3年(1657)明暦の大火(=振袖火事)でしたから、幕府が本拠地より優先して大坂城の天守を再建することはあり得なかったのでしょう。

まだ大阪城天守閣にたどり着きませんが、きょうはこれまで

つづき:2018/05/28 2018年最初の関西旅行 #2-7

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2018年最初の関西旅行 #2-5

2018-05-26 10:32:15 | 旅行記

「2018年最初の関西旅行 #2-4」のつづきは、大阪城本丸の散策です。

本丸へは正面入口ともいうべき桜門から入りました。

ちなみに「桜門会」は、今話題某マンモス大学同窓会らしい…

それはともかく、桜門の説明板によると、

本丸の正門にあたる。徳川幕府による大坂城再築工事が行われていた寛永3年(1626)に創建されたが、慶応4年(=明治元年、1868)に起きた明治維新の大火によって焼失し、明治20年(1887)に陸軍が再建し現在に至る。(中略) 桜門の名称は豊臣秀吉が築いた大坂城以来のもので、当時二の丸に桜の馬場とよばれる場所があったことから、門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられる。ただし豊臣時代の大坂城は、徳川幕府再築の今の大坂城とは地形や構造が大きく異なり、桜門を含む本丸への入口現在よりも西にあり、入る方向も違っていた

だとか。
そんなわけで、高麗門はあっても多門櫓はなくなっている桜門ですが、多門櫓がなくなったおかげ(?)で、高麗門を通して天守が見えてなかなかの眺めです。

この眺めに加えて、桜門見どころとしては、巨石があります。

蛸石

大坂城随一の大きさ(表面積:約36畳敷=59.43㎡、重量:約108tと推定)を誇る蛸石です。
「蛸石という名は、 石の表面左端に酸化第二鉄による茶色い蛸の頭形のシミがあることから名付けられたものかと考えられている」だそうですけれど、タコの頭に見えるかなぁ~
この蛸石の左側の壁面には、巨石No.3 (表面積:約33畳敷=53.85㎡)「振袖石」もあるのですが、そちらの写真はございません

   

大阪城本丸には二つ大きな建物が立っています。
一つは言わずとしれた

大阪城天守閣で、もう一つは、ヨーロッパの古城然としたこちら

去年の秋にオープンした複合施設「ミライザ大阪城」です。
去年1月のLOVE BEBEOP遠征で大阪城本丸に来たときには、

リニューアル工事真っ最中でした。
その時の旅行記に書きましたように、この建物は昭和6年(1931)陸軍第四師団司令部として建てられたもの。
ミライザ大阪城のリーフレットから転記しますと、

この建物は、昭和天皇の即位を記念して、昭和6年(1931)市民の寄付により当時の金額にして150万円が集められ、大阪城天守閣の再建大阪城公園の新設とあわせて、第四師団司令部として建設されたものです。

というわけで、現在の(Wikipediaによれば「地上で現存する世界最古の鉄骨鉄筋コンクリート造建物」らしい)大阪城天守閣と一緒に建てられたものだとか。

この「昭和6年(1931)」という年に竣工した建築物には今も使われているものとか、記憶に残るものとかたくさんありまして、例えば、すったもんだの末(こちらの記事をご参照)に外観の一部が残された旧東京中央郵便局、今はなき警視庁旧本部庁舎、今も現役御茶の水橋国立科学博物館日本館、松屋浅草、さらにはニューヨークのエンパイア・ステート・ビルまで
なんとも壮麗な年のように思えますが、1931年といえば昭和恐慌真っ最中の時代でして、バブルの中で着手された建築物が続々と竣工したということっぽいです

ところで、ミライザ大阪城の傍らにある「大阪城公園内に残る戦争の傷あと」と題するちょいと古い説明板(約20年前に立てられたもの)が読ませてくれました

長くなりますが転記します。

先の戦争において我が国は、アジア・太平洋地域の人々に対し大きな災禍と苦痛をもたらしたことを忘れてはなりません。大阪においても8次にわたる大空襲を含む50回を超える空襲を受け、まちは一面の廃墟となりました。
ここ、大阪城公園も幾多の空襲により、1トン爆弾による大阪城天守閣の石垣のずれ(天守閣東北隅)や機銃掃射による石垣の弾痕のあと(天守閣の北・山里曲輪付近の石垣)をはじめ、空襲によると思われる石垣のずれなど数多くの戦争の傷あとを残しています。
当時、公園内には軍事施設が多数あり、第四師団司令部として使われた庁舎は、軍事施設として大阪市内で現存している最も規模の大きな建物です。
また、公園東側一帯に広がっていた大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)は、面積1.18平方キロの我が国最大の兵器工場であり、戦争末期には大阪本廠を含めた全工場で一般工員のほかに動員学徒・女子挺身隊・一般徴用工員など64,000人が働いていました。その中には、当時の植民地支配の下で強制連行などにより集められた1,300人以上とも言われる朝鮮青年も含まれていました。
大阪陸軍造兵廠は、1945年(昭和20年)8月14日の強烈な爆撃により壊滅し、今では科学分析場として利用された施設(元自衛隊大阪地方連絡部)など一部を残すのみとなっており、本館があった場所には多目的利用ができるホールとして「大阪城ホール」が建ち、診療所があった場所には、大阪府・大阪市が共同で世界の平和と繁栄に積極的に貢献する施設として設立した「大阪国際平和センター(ピースおおさか)」があります。
戦後50周年にあたり、戦争の悲惨さを語り継ぎ、国籍・民族・文化等の違いを超えた相互理解と有効を深め、世界平和を心から願う気持ちを込め、ここに銘板を設置します。

1996年(平成8年) 3月
大阪府/大阪市

目くじらを立てたくなる人もいるに違いない文ですが、近代の大阪城公園の歴史がよく判ります。

戦後無法地帯となった「造兵廠跡」の話は、梁石日の「夜を賭けて」で読みましたっけなぁ…

上の案内板に64,000人が働いていました」とありますが、造兵廠は、確かにそれくらいのとんでもなく大勢の人たちが働いていても不思議ではない広さだったようです。

大阪ビジネスパークとか大阪城ホールの周辺には、そんな「造兵廠」があったことを想像できる気配は皆無で、このあと、京橋口に向かう途中で出くわした旧・「科学分析場」にのみその痕跡を見ることができましたが、その話はもっとあとに書きます。

つづき:2018/05/27 2018年最初の関西旅行 #2-6

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「平日休み」ならではのアクティビティ (後編)

2018-05-23 22:29:29 | タウンウオッチング

「『平日休み』ならではのアクティビティ(前編)」のつづき、きのうの上野動物園の見聞録の後編です。

私の「ジャイアントパンダ母子観覧整理券で指定された12:10が近づいてきて、私は西園から東園へ移動し、東園でちょっとだけ時間調整…のつもりだったのですが、東園で、この日、最cuteだった動物に出会いました。

オグロプレーリードッグです。

プレーリードッグといえば、巣穴の入口に築いたの上に立ち上がって、周りに外敵がいないか観察する習性を持っていると聞いていましたけど、フツーに二本足で立ち上がるんですな。
そして、二本足で立ち上がって「索敵するだけでなく、立ち上がった状態で、両手(両前足)を使って食事するとは知りませんでした。

しかも、子どもまで大人と同じポーズお食事してるし

反則的cuteさです
でも、よくよく見ると、子どもでも目つきキツい

   

そうこうするうちに、私のパンダ母子との面会指定時間になり、パンダ舎前の行列に並びました。

パンダ舎の入口にあるモザイク画

どうしてパンダひっくり返っているんでしょ…
まぁ、それもパンダらしいといえなくもないわけで…。

さて、パンダ母子の観覧スポット4か所あって、各スポットでそれぞれ30秒間観覧すると、先に進んで30秒観覧、、、〆て2分間見られることになるようです。

で、最初のスポットから見えたシャンシャンがこちら

木のてっぺんで、、、、、寝てる…

ありゃぁ~、睡眠タイムでしたか…
一方のママパンダシンシンは、のそりのそりと歩いて櫓(?)の下に入ると、

お食事を開始しました。

30秒後に移動した第2スポットでも、次の第3スポットでも、、

シャンシャンは、やはり、寝てる…(そりゃそうだろ)
そして、最後第4スポットでも、

やはり寝てる

というわけで、私はシャンシャン寝姿しか拝見できませんでした。

まぁ、パンダは、寝てるか、食べてるか、寝てるか、食べてるか、遊んでるかなわけで(アドベンチャーワールド「浜」一族を観て実感:記事はこちら)、こんな状況に遭遇するのは確率的に不自然ではありません

それにしてもシャンシャン、こんなところで寝るのか

柱の頂上寝るなんて、寝相が悪いと落っこちてしまうだろうに
よほど自分の寝相の良さに自信がないと、こんな場所では寝られませんぞ。
ママパンダシンシンは、そんな愛娘のことなんか、ちっとも気にしていない風情でササをバリバリ食べてるし…(シンシンは写真の右下にいます)

2分間はあっという間に過ぎて、私はパンダ舎へ…。

というわけで、肝心のシャンシャン寝姿しか観られなかったわけですが、それでも楽しい上野動物園でございましたとさ。

私が初めてシャンシャンに会ってきたこの日の夜のNHKニュースで、シャンシャンが初めて母乳以外の食べ物(リンゴ)を完食したという話を放送していました。
母乳だけであそこまで大きく育つなんて、改めて、母は偉大なり と思いました。
めでたし、めでたし。

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「平日休み」ならではのアクティビティ (前編)

2018-05-22 20:04:10 | タウンウオッチング

今年のゴールデンウィーク、何事もなければ10連休だったはずなんですが、私は3回休出しまして、なんとも中途半端ゴールデンウィークになってしまいました。

きょう、その代休をとりまして、平日休みならではのところに行ってきました。

なんとも眩しい日差しのなか、出かけた先は、、、、

上野動物園
そして、初めて、ジャイアントパンダシャンシャンに会ってきました

シャンシャン一般公開が始まって以降、何度も何度も上野に出かけましたが、JR上野駅の公園口から横断歩道を渡った先の東京文化会館前で動物園の関係者が掲げていたシンシン/シャンシャンの観覧整理券の配布状況を示すプラカードは、いつもいつも、

観覧整理券の配布を終了しました

でした。
これでは、土日祝日に出かけるんじゃ、開園から並ばない限り、いつまでたってもシャンシャン会えない

ということで、平日休みをとったきょう、上野動物園出撃したわけです。

私がJR上野駅を出て上野公園に足を踏み入れたのは10:00ちょい前でした(上野動物園開園9:30)

そして、初めて、「配布中」のプラカードを見ました

ところが、上野動物園の入口には入場券を買う人の列が…

この列に並ぶこと約20分、ついに入場して、シンシン/シャンシャンの観覧整理券getしましたぁ~
もしかすると、「面会」の指定時間は夕方近いかも… なんて覚悟もしていたのですが、私の指定時間は12:10~12:30と、2時間ちょっと他の動物たちを観ていれば、順番が回ってくるという時間でした
ちなみに、上野動物園では一旦退園するときに手続きすれば、当日に限って再入園が可能ですし、シンシン/シャンシャンの観覧整理券を持っていればその手続きも不要退園&再入園が可能です。ご参考まで。

そんなわけで、良すぎる天気の中(今シーズン初めてキャップをかぶって出かけたのは大正解)、去年3月以来上野動物園(前回の訪問記はこちら)を楽しみました。

まずはパパパンダリーリー

むしゃくしゃとをお召し上がりでした。

ただ、透明パネルに周りが写り込んでよく見えないな…と思っていたら、リーリーは台の上に登り場所を変えてお食事を継続してくれました。

サービス精神旺盛ですなぁ

お次はルリカケス

色がキレイなだけでなく、姿勢にも気品が感じられます。

猿山では毛づくろいシーンを観ることができました。

毛づくろいする側楽しそうだし、される側気持ち良さ極まる って感じ。

ホッキョクグマとはが合ってしまって、妙にドッキリ でしたし、

そして、スマトラトラは近すぎてビックリ

トラ腕(前足)って太いんですなぁ
イエネコ猫パンチとは桁違いのパワーを秘めていそうです

お次は、西園から、上野動物園の住民の中でも高い人気を誇る、、、

ハシビロコウ

あまりに気高くカッコイイので、角度を変えてもう1枚

このハシビロコウは、立ち姿を見るだけで、大きな鳥だと判るのですが、を広げると、ホント、デカい

こんな顔をした、こんなに大きい鳥が空を飛んでいるのを見たら、きっと怪鳥襲来 としか思えないのではなかろうか

このあと、爆睡中マヌルネコ(私、4月1日放送のダーウィンが来た!で初めてその存在を知りました)を見たり、

引っ込み思案気味のヒガシクロサイを遠くから眺めたり、カバと飼育員さんとのスキンシップ和んだするうち、

時刻12:00近くになり、シャンシャンとの面会時間が近づいてきました。

そんなわけで、私は西園を後にして東園へと戻りました。

と、「前編」はここでおしまい。
引っ張ってる感じで申しわけございませぬ。

つづき:2018/05/23 「平日休み」ならではのアクティビティ (後編)

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2018年最初の関西旅行 #2-4

2018-05-21 22:54:17 | 旅行記

「2018年最初の関西旅行 #2-3」のつづきです。

ここで今回の散策ルートを…。

青い線で示したPART 1西の丸庭園など西側赤い線で示したPART 2は中心部の本丸黄色い線で示したPART 3桃園など北側を歩き回りました。
約4時間ほど、ほとんど歩きっぱなしでございまして、この日の歩数を見ると、

 23,850歩

歩きましたなぁ~

歩数もさることながら、この折れ線グラフを見ると、ホテルを出発した朝の9時頃から、「THE SUPER TOUR OF MISIA」の会場の大阪城ホールに入る16:30頃までひたすら歩いて、そこからライヴが終わった20:00頃まで歩行を止めて(スマホの電源を落としてた)、その後、ホテルに戻ったこの日の私の動きクリアに表れているのが面白い

   

さて、この日の行動を計画する中で(って大げさなものではないけれど…)、約8年ぶり大阪城天守閣に昇ってみよう(8年前の記事はこちら)と思っていました。
そんなわけで、大阪歴史博物館に入場するとき、大阪歴史博物館大阪城天守閣とのセット入場券が存在すること、しかもかなり「お得なことを知り、こりゃLucky セット券を購入しました。

大阪城天守閣大阪歴史博物館(常設展)通常の入場料は、ともに600円のところ、このセット券900円ですから、「1着買うと、もう1着は半額といった紳士服販売店みたいな「お得度です。

で、そのセット券をバッグに入れて大阪城に入城した私、ここで大阪城本丸の西側にある「西の丸庭園」入ったことがないことに思い至りました。
そこで、入場料350円也をお支払いして、初めての「西の丸庭園」に入場

この入場券を見てあれ
「観桜ナイター」ですと

まだ真昼だし、サクラもとっくに盛りを過ぎているのに…です

実際、目の前に広がるのは芝生の広場と、

葉桜でした(今年はサクラ開花が早かったですから…)
こんな場所に入るのに350円を取るのか?ちょいと

この記事を書くにあたって調べると、この「西の丸庭園」の入場料は、通常期であれば200円だそうで、350円は、サクラ季節限定「観光料金だったようです。

少なからず憮然 として、西の丸庭園を歩きました。
そんなことから、更に別料金が必要だった「焔硝蔵」外から眺めるだけにとどめました。

角度を変えてもう1

ほとんど石造りといってもよい異様な建物です。

それもそのはず、この焔硝蔵(えんしょうぐら)は、

徳川幕府が、鉄砲や大砲に使用する焔硝(火薬)を保管した蔵で、現在の焔硝蔵は貞享2年(1685)に建造されたもの。焔硝蔵はそれ以前にも城内数か所にあったが、青屋口にあった土蔵造りの焔硝蔵は万治3年(1660)に落雷を受けて大爆発を起こし、また別の場所にあった半地下式の焔硝蔵も部材の腐食による建て直しがたびたびなされるなど、幕府は焔硝の有効な保管方法に苦慮していた。そうした課題を克服すべく、この焔硝蔵では耐火・耐久・防水に特に工夫がこらされ、床・壁・天井・梁をすべて花崗岩として、石壁の厚さは約2.4m、屋根の下は土で固められている。面積は約171.9㎡、高さは約5.4mで、こうした石造りの火薬庫はわが国では他に例がない。徳川時代の大坂城には、西日本における幕府の軍事拠点として、焔硝のほかにも大量の兵糧や武器・武具が備蓄されていた。

だそうで、まさしく「重要文化財にふさわしい建物なんですな。

ただ思うのは、「徳川時代の大坂城には、西日本における幕府の軍事拠点として、焔硝のほかにも大量の兵糧や武器・武具が備蓄されていた」にもかかわらず、幕末には、上洛していた徳川慶喜が、大方の大坂城に籠もって徹底抗戦するという期待や予想に反して江戸へ脱出してしまったわけで、大坂城の備蓄はさほど役に立たなかったってこと。

もっとも、幕末の大坂城に限らず、同時期の江戸城も、大坂夏の陣の大坂城も、それぞれ自慢「鉄壁の守り」を生かすことができず、近世以降で実際に攻城戦が繰りひろげられたのは会津戦争くらいのものだったのではなかろうか…
なんだか空しい

そんな憂いに満ちた思いも、乾櫓を内側から眺めたり

咲きかけのツツジを眺めたり、

盛り八重桜を観ているうちに、

だんだん気が晴れてきました
そして、極め付きは、、、、

大阪府庁

なぜか好き「プリンセス・トヨトミ」を思いだしてしまいました。

こうして大阪城西の丸庭園を歩いての感想は、、、やはり、これで350円は高い
ということでした

つづき:2018/05/26 2018年最初の関西旅行 #2-5

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2018年最初の関西旅行 #2-3

2018-05-20 11:53:33 | 旅行記

「2018年最初の関西旅行 #2-2」のつづきです。

大阪歴史博物館を楽しんだ後、大阪府警察本部の前で横断歩道を渡り、いよいよ大阪城

何度見ても、南外堀石垣の連なりがイイなぁ~

南外堀の説明板によれば、

阪城二の丸の南に位置する堀で、西が大手口、東が玉造口である。石垣の総延長は約2km堀の最大幅は約70mあり、寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築第3期工事による、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。(中略) 内側の石垣上には東から一番櫓から七番櫓まで七棟の隅櫓が建造された。櫓は明治維新の大火により四番・五番・七番を失い、さらに第二次大戦の空襲により二番・三番を失って、現在は一番櫓と六番櫓だけが残る

だそうで、石垣の角々が立っていたことを想像すると、往時(といっても江戸時代)はさぞかし壮観だったろうなと思います
下の写真は玉造口から入城した去年1月「LOVE BEBOP大阪旅行」のとき(記事はこちら)に撮った一番櫓です。

で、今回は正面玄関ともいうべき大手口から入城しました。

なんとも立派な斜路を通って向かった大手口ですが、豪勢な門全体の造りとは裏腹に、入口の高麗門は激しく狭い

そして、高麗門を抜けると広がるスペースの周りには石垣があり、城の中心部向かう左側の門(多門櫓)はいかにもお城の風情です。

お城の入口としてはお馴染みの枡形門になっていまして、攻め入ろうとする敵勢の勢いを狭い最初の門削ぎ、中に入った敵勢を周りから攻撃しようという構造です。
(下の写真は旧江戸城の大手門)

ここで高麗門をふり返ると、その構造がよく判ります。

説明板によりますと、この高麗門重要文化財に指定されているそうで、

城の正面大手(追手【おって】)といい、その入口大手口(追手口)、設けられた大手門(追手門)とよぶ。現存する大阪城の大手門は寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築工事のさいに創建された。正面左右の親柱【おやばしら】の間に屋根を乗せ、親柱それぞれの背後に立つ控柱【ひかえばしら】との間にも屋根を乗せた高麗門【こうらいもん】形式である。屋根は本瓦葺【ほんがわらぶき】で、扉や親柱を黒塗総鉄板張【くろぬりそうてついたばり】とする。開口部の幅は約5.5m、高さは約7.1m。(以下略)

だそうです。

ところで、枡形門はこの大手門だけでなく、大阪城の要所要所に設けられているのですが、だいたいどの枡形門でも、高麗門と多聞櫓(跡)に囲まれた区画(枡形)にはこれ見よがし巨石が使われています。
大手口枡形の巨石「大手見付石」は、「表面積が約29畳(47.98㎡)で城内第4位だそうです。

これ見よがしと書きましたが、まさしく、を含む来城者への威圧の目的があるのでしょうねぇ…

というところで、まだ入城する途中ですが、おしまいにして出かけることにします。

つづき:2018/05/21 2018年最初の関西旅行 #2-4

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2018年最初の関西旅行 #2-2

2018-05-16 22:59:03 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2018年最初の関西旅行 #2-1」のつづきです。

「#2-1」の最後に載せた大阪歴史博物館から眺めた難波宮跡写真の一部を拡大してみます。

<

画面の中央上、ビルの合間に見えるが二つ並んでいる山は、大和国河内国の境にある二上山です。

二上山といえば、飛鳥側からだと、二つの峰の間に日が沈む様子から聖なる山と崇められた山で、五木寛之小説「親鸞」を読んだ時、この二上山での場面がもの凄く印象深かったっけ…
そして5年前、二上山近くの當麻寺(訪問記はこちら)に行きましたっけねぇ~

この辺りの地理的関係がよく判るパネルが、大阪歴史博物館に展示されていました。

このパネル「飛鳥・奈良時代の畿内」の説明によれば、

畿内の経済と交通の大動脈は淀川・大和川水運内陸官道であり、難波京はこのルートの一大中心地に位置した。
都は奈良盆地や淀川上流域を転々と遷ったが、副都である難波はこれら諸京と常に結ばれ、飛鳥・奈良時代を通じて長く存続した。

だそうです。
なるほど…
に面していることが難波強みで、政権にとって難波は海外あるいは西国への出発点だったというわけですな。
そして、その航海の無事を祈念するのが住吉大社だったといことですか…

そういえば、私、住吉大社にはまだ一度も参拝したことがない

遠くない時期に住吉大社お参りに行きたいと思いますが、歴史的な位置づけを頭に入れた上でお参りする方が、ただのほほんとお参りするよりご利益は大きいのではなかろうかと思ったりして…

   

ちょっとこここから端折ります
7年前同様に楽しみましたということだけ書いて、1階のこちらのお話に飛びます。

大阪歴史博物館の外からも見える場所に展示されていたのは「タイムカプセル」でした。
長くなりますが、説明板転記します。

昭和45年(1970)、大阪の千里丘陵で日本万国博覧会が開催された。この博覧会は、6400万人を超える入場者を集めた万国博覧会史上最大の催しとなった。
そのなかで、毎日新聞社と松下電器産業により、タイム・カプセルEXPO'70の製作・埋設が企画された。このタイム・カプセルは、現代日本の文化を未来に伝えるためのもので、現代を代表する品物2098点が収納されている。万国博期間中に松下館で展示され、昭和46年(1971)3月、大阪城天守閣前に埋められた。
タイム・カプセルは、全く同一の1号機2号機が埋設されている。1号機は5000年後の西暦6970年に開封される計画になっている。2号機は、30年後の西暦2000年にかまず開封され、点検などを行ったのち再埋設されて、その後100年ごとに開封・再埋設を繰り返す計画になっている。2号機は、平成12年(2000)に初開封された。
タイム・カプセルEXPO'70は、特殊ステンレス鋼でつくられた内径1mのボール型の容器で、重量は1.74トンある。内部には、2098点の品物が収納されている。これらは、当時の科学技術の水準を示す「自然科学分野」の資料742点、人々の日常生活を示す「社会分野」の資料742点、美術や音楽などに関する「芸術分野」の資料592点、その他の資料78点から構成されている。
ここに展示しているタイム・カプセルは、万国博当時つくられてものの1つで、埋設されずに大阪市立博物館に展示されていたものである。

壮大プロジェクトです

でも、5000年後までこのプロジェクトの存在を伝えることはできるのでしょうか?
また、100年ごと2号機を掘り出して、開封して、再埋設する費用はどうするのでしょうか?
そんな下卑た疑問が涌いてきます。

ところで、私の実家には、このタイムカプセルの模型(今でいうフィギュアの類)が数種類ありました。
私の親が「ナショナル・ショップ」に勤めたいた縁で、タイムカプセルの模型たちが我が家にやってきていて、私の記憶にも刷り込まれたという次第です。
そして、タイムカプセル大阪城天守閣前に埋められていることも知っていたはずなんですが、、、、、、何度か大阪城天守まで行ったものの、タイムカプセルがどの地点に埋められいるのかを私は知らない

この事実は、けっこう衝撃的でした。

というわけで、突然、この日午前中で一番の目標は、タイムカプセル埋設地点を探すことになりました

と、かなり意気込んだ割には、タイムカプセルの埋設地点簡単に見つかりました。
その地点がこちら。

天守真ん前、しかも至近の場所に、説明板と共に、その埋設地点はありました

でも、そのスポットは、、、、

大勢の外国人旅行者たちにとって、絶好休憩スポットになっておりましたです…

そこ、座るところじゃないんですけど…

つづき:2018/05/20 2018年最初の関西旅行 #2-3

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2018年最初の関西旅行 #2-1

2018-05-15 22:30:43 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2018年最初の関西旅行 #1-9」のつづきは、4月7~9日の2泊3日の旅、「2018年最初の関西旅行」2日目を始めます。

この旅行、当初から、初日万博記念公園3日目(最終日)興福寺に行く と決めていたものの、2日目はまったく白紙で、初日の夜から2日目の朝まで、ずっとどこに行こうかと考えていました。

前日の「THE SUPER TOUR OF MISIA」初日には開演ギリギリに自席についたことから、2日目余裕をもって大阪城ホールに行きたいし… と考えた結果、大阪城周辺をじっくりと散策&見物することにしました。

そしてブログ初日のダイジェスト(後編)をアップしたのち、早々にホテルを出発して大阪城公園を目指しました。

2日目の行程を、2日目のダイジェストから再掲しますと、こんな具合。

ホテル⇒徒歩新大阪駅御堂筋線本町駅中央線谷町四丁目駅⇒徒歩大阪歴史博物館⇒徒歩大阪城公園⇒徒歩大阪城ホール⇒徒歩大阪城公園⇒徒歩大阪城ホール(THE SUPER TOUR OF MISIA)⇒徒歩大阪城公園駅大阪環状線大阪駅JR京都線新大阪駅⇒徒歩ホテル

ほんと狭い範囲をウロウロと歩き回ったわけですが、それはそれで楽しかった

で、最初に訪れたのは7年ぶり2度目大阪歴史博物館でした。

前回の訪問(記事はこちら)の印象そのままに、ホント、楽しい博物館で、江戸東京博物館へのライバル心が感じられる展示でした。
難点を挙げれば、大阪城眺め素晴らしい エスカレーターの踊り場のガラスが、反射がキツくて 上手く写真を撮れないことくらいでしょうか…

(このポイントには来場者に立ち止まって欲しくない、という博物館側の思いの表れか?)

それはともかく、歴史の長さでは、江戸・東京は、到底、大阪にはかなわないわけで…

なにせ、大阪歴史博物館大阪城のすぐ隣り(同じ上町台地上)の難波都(宮殿)が置かれたのは7世紀のことで、徳川家康江戸幕府を開く17世紀初めまでは「東の僻地」だった江戸とは約1000年時間差があるのですから。

というところできょうはおしまいにします。
いつまで続くんだろ、旅行記2日目

つづき:2018/05/16 2018年最初の関西旅行 #2-2

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