新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

秋の上野は芸術の秋 (その4)

2016-10-31 21:34:01 | 美術館・博物館・アート

「秋の上野は芸術の秋 (その3)」のつづきです。

東京藝術大学大学美術館を出た私は、ハナミズキ赤い実をつけている東京国立博物館(トーハク)へ。

トーハクでは、恒例の「秋の庭園開放」が始まっていますが、まだまだ見頃じゃないし、特別展「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」は今月初めに拝見したし(今になってブログに書いていないことに気づいた)、特別展「禅―心をかたちに―」は、私の東京国立博物館パスポートではもう特別展を観られないし、

で、今回は常設展「総合文化展」、それも本館平成館1階のみ観てきました。

ところが、それでもめちゃくちゃ楽しかったのですから、さすがはトーハクです。

まず、これまで何度も拝見したはずの仏像なのに、、、、

法隆寺大宝蔵院で拝見していたく気に入った「木造観音菩薩立像(九面観音菩薩像)」こちらの記事をご参照方)にそっくり

説明板によれば、この仏像は「十一面観音菩薩立像」で、

稀少材である白檀という香木を用い、着衣や装身具にいたるまで全身を一木から彫出す、檀像を代表する優品。緻密な彫刻とインド風の顔立ちに特色があり、中国から請来されたとみられるが、日本における檀像表現の手本ともなった。明治まで奈良県多武峰(とうのみね)談山神社に伝来した。

だそうですから、まさしく法隆寺「木造観音菩薩立像(九面観音菩薩像)」と似た由来です。
でも、残念ながら、全体のバランスの点でも、お顔も、法隆寺「木造観音菩薩立像(九面観音菩薩像)」の方が「優品」だと思いました

   

次におわぁ となったのは、金吾こと小早川秀秋所用と伝えられる陣羽織です。

これまでも何度か拝見していまして、NHK大河ドラマ「真田丸」(私、ハマってます)で、金吾さんがこの陣羽織を着用しているシーンに、私は妙に盛り上がったりしておりました。
できることなら、「真田丸」「関ヶ原の戦い」辺りで、この陣羽織を展示してほしかった…

ところで、背中部分に大胆にあしらわれた2本の鎌、そのストラップ用の穴(?)が、、、

です虫食いらしきは見逃してくださいませ

ここでちょいと横道に逸れます。

小早川秀秋の呼び名というか別名というか「金吾」って何でしょ?

調べると、Wikipediaによれば、

日本における衛門府の唐名。「執金吾」の略。

で、摂政or関白を辞めた人を指す「太閤」とか、中納言の別名「黄門」なんかと同じような官職名なんですな。そして、かの小早川秀秋の場合、彼が「左衛門督(さえもんのかみ)だったから「金吾」と呼ばれたそうな。
そしてそして、左衛門督=金吾というのは左衛門府長官で、左衛門府の次官「左衛門佐(さえもんのすけ)、つまり真田信繁(幸村)官職です。
あくまでも形式とはいえ、小早川秀秋真田信繁(幸村)直属の上司だったんですな。

   

お次の眼福琳派

まずは俵屋宗雪「秋草図屏風」です。

緩やかな曲線で画面を上下に区切るの表現が、いかにも宗達の後継者っぽい。
説明板には、

緑を薄塗りした金地の野辺に、萩、薄、女郎花、芙蓉など咲き乱れる秋の草花。地面の起伏と草花の布置とが協調して波状の動きを作り、澄んだ秋の大気が吹き抜ける。宗雪は、あの俵屋宗達後継者であり、はじめ京都で活躍し、後に加賀金沢で前田家に仕えた。

とありました。
いい作品です

琳派「秋草図屏風」、とくれば、こちらの作品を放っておく手はありません

酒井抱一「秋草図屏風」です。

二曲一双の屏風なんですが、完全平面状態で展示されています。
奇妙な展示方法ですな。
でも、この展示方法を考えた学芸員さんのお気持ちはよく判るつもりです。

普通二曲一双の屏風、は、左隻・右隻それぞれ、真ん中を凹ませるようにして立てますが、もともとこの作品は、真ん中を出っぱらせるように立てなきゃならなかったのです。
というのも、この酒井抱一「秋草図屏風」は、かの尾形光琳の「風神雷神図屏風」に描かれていたのですよ

こちらのサイトの解説によれば、

「雷神図」の裏には驟雨(しゅうう)にうたれて生気を戻した夏草と、にわかに増水した川の流れを、「風神図」に対しては強風にあおられる秋草と舞い上がる蔦(つた)の紅葉を描く。
抱一(1761~1828)は諸派の画風を遍歴したあげく光琳の絵画に傾倒し、琳派の伝統を江戸の地に定着、開花させた。がその作風には彼の得意とした俳諧の感覚に通じる風雅な趣が支配的で、琳派伝統の「たらし込み」の手法も抒情的な草花表現にもっぱら活用されている。この図は銀地の上に可憐な草花を描いた抱一らしい優美な作品であるが、一方、色の濃淡の変化を避けて明快な色彩効果をねらっている点に注目したい。抒情性と装飾表現の自然な統合を目指した、おそらく抱一画の到達点を示す一作ということができる。

だとか。
そして、

琳派の系譜を象徴的に表すこの記念的な両面屏風も、画面の損傷から守るべく、近年表裏を分離してそれぞれの一双屏風に改められた

というわけですが、いつか、光琳の「風神雷神図屏風」抱一の「秋草図屏風」背中合わせに展示して、かつての有様を想像できるようにしていただけたら嬉しいんだけど…

光琳の「風神雷神図屏風」、その「本歌」である宗達「風神雷神図屏風」との「共演」は何度も実現していることですし、こちらも是非

   

お次は、豪華刺繍が目に鮮やかな「小袖」

説明板には、

武家女性の小袖。腰上は、菊・桔梗・芒と虫籠の模様で『源氏物語』「野分」を、腰下は藤をのせた檜扇が描かれており「藤裏葉」を主題としている。野蚕から取れる天蚕糸と呼ばれる山繭系で縞経をして織り上げ、縮緬を染めると縞模様ができる。

とあって、かなり難しいのですが、それよりも何よりも私の目を点にしたのは、この小袖の名称

いいですかぁ~、行きますよぉ~。

紫萌黄染分山繭縮緬地流水草木屋形虫籠模様
むらさき もえぎ そめわけ やままゆ ちりめんじ りゅうすい そうもく やかた むしかご もよう

英語だと、

Stream, flowering plant, house, and insect cage design on purple and yellowish-green tussah silk chirimen crepe ground

ですって
いやぁ~、、覚えきれない…
もっとも、見たまんまではありますが…

ちなみに「小袖」の英訳は、

Kosode (Garment with small wrist openings)

だそうです。「袖の開きの小さな服」ですから、これまたそのまんまです。

それにしても、金吾さんの陣羽織を除けば、みんな秋づくしで、それでいてほとんど常連の私を惹き付けるんですから、やはり凄いなぁ、トーハク平常展(総合文化展) と驚くのですが(観覧料は大人:620円)、実は、このあと、さらに驚きの展示

そのお話は「その5」で。

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好天に誘われて江戸東京たてもの園(最終回)

2016-10-30 08:03:49 | 美術館・博物館・アート

「好天に誘われて江戸東京たてもの園(その5)」のつづきは、「その5」で予告したように、子宝湯、、、、とその前に、子宝湯のすぐ手前にある万徳旅館から始めます。

この建物が、江戸東京たてもの園(たてもの園)で初公開されたのは、「その4」で書いた「大和屋本店」と同じく2011年
したがいまして、今回8年ぶりたてもの園訪問となった私にとっては「初見」です。

万徳旅館は、

青梅市西分町青梅街道沿いにあった旅館である。建てられたのは江戸時代末期から明治時代初期と推定される。構造は、木造2階建て、屋根の形は切妻である。(略)
万徳旅館は、内部の造作や、建具まわりに大きな改造が少なく、古い状態のままで平成5年頃まで営業を続けていた古くは御嶽講の参拝者に利用され、最近は富山の薬売りなどの商人宿として使われていた。
建物は、創建近い姿に、室内では旅館として営業していた1950年(昭和25)ころの様子を復元している。

だそうですが、それはそうと、中に入りましょう。

と、、、、万徳旅館の内部を撮った写真が1枚もない
わたし的にはイマイチだった、ということなのでしょうなぁ。
正面(通り側)からの眺めは、良い佇まいなんですけど…

ま、次回たてもの園に行ったときには、もうちょいとじっくり拝見することにいたします。

   

それでは、「たてもの園のともいうべき子宝湯

日本人がいかにお風呂愛しているかを示している偉容だと思います。
唐破風嫌いの私でも、この眺めにはしみじみしてしまいます。

子宝湯1929年(昭和4)足立区千住元町に建てられた。施主は石川県七尾市出身の小林東右衛門という人だった。この小林氏は、千住の子宝湯のほかに、町屋と西新井にも同名の子宝湯を建築して、全部で5軒の銭湯を経営していた。当時1軒の銭湯を建てる相場は2万円程度だったが、千住の子宝湯の建築に際しては4~5万円を費やし、しかもわざわざ気に入った大工を郷里の石川県から連れてきたという。入口の唐破風の下にある「七福神の宝船」の彫刻だけでも二階屋が建つほどの経費がかけられたと伝えられる。
戦後に小林氏は銭湯の経営を縮小していった。その際、平岡氏は小林氏から千住の子宝湯を買い取り、1988年11月の廃業に至るまで営業を続けていた。

この「彫刻だけでも二階屋が建つほどの経費がかけられたと伝えられる」という「七福神の宝船」がこちら。

なぜにここまで凝る? ですよね。

基本的に、明るいうちに入る風呂って格別なものですが、これほど天井の高い風呂だと、さぞかし気持ち良いんでしょうなぁ

そして、浴槽深ぁ~い (小さなあんよがちら見え)

大学1年の頃には毎日のように下宿近くの銭湯に通い、就職して住まいだった頃は、寮の風呂がお休み週末には寮近くの銭湯に通ったものでしたっけ…

ちなみに、寮住まいだった頃に通った銭湯は、今、ほとんど毎夜渋滞に悩まされている「環八の杉並区間」すぐ近くにありました。
今も営業しているのかな…

話を子宝湯に戻して、 脱衣所イイ

男湯の脱衣所は小さな庭に面していて、

例えば、真夏の夕方か夜、一風呂浴びて、コーヒー牛乳か何かを飲みながら、この縁側に出て夜風を浴びる、、、なんて、イイ風情ですなぁ~

銭湯に限らず、現代の旅館・ホテルの大浴場でも、脱衣所には体重計「お約束」ですが、子宝湯・女湯の脱衣所には、こんな体重計がありました。

普通の体重計と、赤ちゃん用の体重計。

台座には、

 お静かにお計り下さい。
  日本橋湯

と書かれています。
この「日本橋湯」が、東京の日本橋にあった銭湯なのか、去年廃業した大阪の「日本橋湯」(にっぽんばしゆ)なのかは判りませぬ

それはそうと、赤ちゃん用の体重計の目盛りを見ると、

標準体重らしきポイントが年齢別・男女別に印されています。

「月齢」アラビア数字で、「年齢」漢数字で示しているようです。

何人のお母さんたちが、わが子の体重をこれで量って一喜一憂したんでしょうねぇ…。

ほんわかしたところで、たてもの園探訪記はおしまいです。

おっと、書き忘れるところでした

東ゾーン駄菓子やさんに、場違いなものを発見しました。

それは、こののれん

「秋田弁」のれんです
Topico秋田駅の駅ビル)の土産物屋さんならともかく、ここは東京・小金井市にある「江戸東京たてもの園」ですぞ なぜに「秋田土産」が?????

最後の最後までワンダーランドだったたてもの園でした。

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秋の上野は芸術の秋 (その3)

2016-10-29 16:49:01 | 美術館・博物館・アート

「秋の上野は芸術の秋 (その2)」のつづきも、東京藝術大学大学美術館で開催中(明日まで)の「驚きの明治工藝」展のお話の最終回

この展覧会のキャッチフレーズ、「すごい びっくり かわいいから「かわいい」系を中心に紹介します。

まずは、このタヌキ

着物を着たタヌキ妙なポーズをとっています。
私が想像するに、妙齢の女性に化けて人間の男性を欺そうとしていたタヌキが、いいところまで行きかけたところで正体がばれあ~れ~ となったシーンではなかろうかと…

この大島如雲「狸置物」(銅・鋳造)は、「お持ち帰りしたい」作品の一つでした。

次は、木製の「亀根付」(左一山)。

根付ですから、小さな作品で、長さ5cm、高さ2.2cmしかありませんが、リアルです。
木彫りでここまで細かな細工を施すとは…、見事

亀好きの彫刻家・左一山面目躍如といったところでしょうか。

次は、ウサギ

という素材を使いながら、ウサギ柔らかさが感じられて、ナデナデしたい気持ちになってしまいます。

この作品「兎」を造ったのは、山田宗美(1871~1916)という鍛金家で、NHK「超絶 凄ワザ!」で、その作品「ウサギ置物」再現が試みられました。

明治時代、アメリカの万国博覧会で一等賞を獲得、世界を驚嘆させた日本の芸術家がいた。鍛金家、山田宗美一枚の鉄板をたたき自在に変形させ、まるで生き物のような造形美を生み出した。しかし、その技法の詳細は今も謎で、最新技術でも再現は不可能とされる。そこで研究者と芸術家の異色タッグで幻の技法解明に挑む。美術史に残る巨人の技に挑んだ2か月間のドキュメント…再現なるか?

だったのですが、結局、再現できなかった という落ちでした。
番組では、一枚の鉄板からピンと立った耳を持つウサギを造ったという「超絶技巧」に焦点を絞っていましたが、そんな「超絶技巧」を知らなくても、山田宗美の作品は、十分に伝わってくるものをもっています。

説明パネルによれば、

山田宗美は若い頃、粘土が柔らかいうちは自由に成形できるように、鉄も熟した時は同じだとして、炭素の含有量が少ない柔らかい鉄に熱を加えた瞬間、内側から金槌で打ち出し、それを再び外側からも打って細く絞るという独自のアイデアを思いつきました。
造形のために観察する時間を惜しまず、鼠の自然の生態を探るために何日も物置で筵(むしろ)をかぶって過ごしたり、上野動物園で連日ライオンを観察し声をかけられても気づかないほど熱中したり、観察する動物で自宅の庭は動物園のようでした。

だとか。
単なる「技巧」の人じゃないんですな。
こちらの「古獣文壺」(部分)も、素材感獣の文様とがいい味をだしています

この「湯沸」(+)もいいなぁ~

この展覧会で一番の「掘り出し物」山田宗美の作品群だったかもしれません。

コレクターの宗培安さんも、相当山田宗美お好きなんだろうな…

次は、明治期の陶芸界の巨匠宮川香山「色絵金彩鴛鴦置物」(白磁・色絵)

華やか可愛らしくてハイソサエティの皆様には、結婚祝い贈りものとしてピッタリでしょうなぁ。

   

ところで、「明治工藝」といえばスルーできない七宝ですが、この展覧会の展示作品はイマイチでした。七宝界に並び立つ、並河靖之涛川惣助「Wナミカワ」の作品も展示されていたものの、これまで拝見した両氏の作品としては物足りない…。

   

最後に紹介するのは、昭和に入ってからの作品、宮本理三郎「柄杓蛙」です。

柄杓の柄にたたずむ小さなアオガエルかわいい
アップしますと、

ジャンプする寸前のようです。
緊張感がありますぞ

ところで、この作品の素材は「木」と記されています。
ということは、にしか見えない柄杓木彫りってことですか?

これまた凄いなぁ

あ~、面白かった

この記事の冒頭にも書きましたが、「驚きの明治工藝」展は明日千穐楽です。
興味をもたれた方はお見逃しなきよう

つづき:2016/10/31 秋の上野は芸術の秋 (その4)

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Misia Candle Night 奈良遠征旅行記(2日目・その5)

2016-10-29 08:18:11 | 旅行記

「Misia Candle Night 奈良遠征旅行記(2日目・その4)」のつづきです。

東大寺法華堂にお参りし、東大寺絵馬堂茶屋うどんを食べて、二月堂を見上げてから、丘を下り始めました。

ちょいと進むと、反り返った屋根が印象的な鐘楼
鐘楼立派なら、

梵鐘立派

説明板によれば、どちらも国宝で、梵鐘は奈良時代鐘楼は鎌倉時代のものだとか。
転記しますと、

この梵鐘天平勝宝4年(752)大仏鋳造のときに造顕され、雄大な金銅の梵鐘で日本名鐘の一つである。ことに竜頭と鐘座には天平の文様があざやかに残っている。
この鐘楼は和様、唐様の天竺様式を混ぜて、承元年間(1206~1210) 大勧進栄西膳師により建てられた。斗栱には独特の様式があり音響を分散さすために板壁等を用いず屋根は音をこもらすために大きく構成されている。
  別記
 建物の総高 13.000m
 梵鐘の総高 3.853m、直径 2.708m、重量 26.364t
但し、梵鐘は竜頭部の破損により一般に鳴らすことをやめ、東大寺の法会と毎日午後8時、大晦日 除夜に打ち鳴らすことになっている。

だそうです。

「天平の文様があざやかに残っている」という梵鐘の「竜頭と鐘座」を観てみると、鐘座は(説明板には「撞座」ではなく「鐘座」と書かれています)簡単に拝見できますが、

竜頭はよく見えません

でも、Wikipediaに、

奈良時代から平安時代前期の鐘では、2つの撞座を結ぶ線と龍頭の長軸線とは原則として直交している。すなわち、鐘の揺れる方向と龍頭の長軸線とは直交する。これに対し、平安時代後期以降の鐘においては龍頭の取り付き方が変化しており、2つの撞座を結ぶ線と龍頭の長軸線とは原則として同一方向である。すなわち、鐘の揺れる方向と龍頭の長軸線とは一致している(若干の例外はある)。

とある竜頭と鐘座の向きは確認できました

一方、「斗栱(ときょう)には独特の様式があり」はよく判らない…
ただ、三角の切り込みが模様のように入っているのが珍しいですな。

ところで、この鐘楼大勧進(プロデューサー)がかの栄西とは知りませんでした。っつうか、栄西といえば、臨済宗を日本に伝えたことで有名な禅僧のはず。
それが、どうして東大寺大勧進に?

南都焼討からの復興の大功労者・重源亡き後、復興の総仕上げ当代一の名僧・栄西に託すしかない、というパトロンたちの意向が反映されたものかもしれません。

この鐘楼の斜向かいに、小さいながらも、上品お堂が建っていました。

重源をお奉りする「俊乗堂」です。

この俊乗堂は、大仏殿江戸再興の大勧進公慶上人が、鎌倉復興の大勧進重源上人の遺徳を讃えて建立されたもので、堂内中央には国宝「重源上人坐像」が安置されている。俊乗房重源は、保安2年(1121)京都に生まれ、13歳で醍醐寺に入って密教を学び、仁安2年(1167)入宋して翌年帰国。治承4年(1180)平重衡による南都焼き打ちで伽藍の殆どが焼失したが、60歳で造東大寺司の大勧進職に任ぜられた重源は、十数年の歳月をかけて東大寺の再興を成し遂げられた
再興にあたって、大仏様(だいぶつよう)とよぶ宋風建築様式を取り入れ、再興の功により大和尚(だいかしょう)の号を受け、建永元年(1206)86歳で入滅された。

とあります。

俊乗堂に安置されている「重源上人坐像」は、6年前に東京国立博物館で開催された「東大寺大仏-天平の至宝-」展で拝見しまして、こちらに書いたように、

鎌倉時代に造られたというこの坐像、ちょっと反則…と言いたいほど、私の心に入り込んできました。超写実的な造形もそうだし、こうした坐像を造ろうとした後輩たち、そして、それを大事に受け継いできた東大寺の人々、浸みます…

といたく感動いたしました。
重源上人坐像は、

毎年7月5日俊乗忌12月16日良弁忌に参拝することができます。但し、法要終了後(時間制限あり)で有料(東日本大震災支援募金に充当)です。

だそうですから、機会がありましたら、ぜひ鑑賞&お参りくださいまし。

また、開山堂に安置されている「良弁上人坐像」は毎年12月16日に、勧進所内の公慶堂に安置されている「公慶上人坐像」毎年4月12日と10月5日「秘仏開扉」されているようですので、こちらも是非 ホント、浸みるお姿ですぞ

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好天に誘われて江戸東京たてもの園(その5)

2016-10-28 23:21:19 | 美術館・博物館・アート

「好天に誘われて江戸東京たてもの園(その4)」のつづきです。

今回の江戸東京たてもの園(以下、たてもの園)に出かけて、自分用のお土産として、これまでこのシリーズで何度も引用したガイドブック「江戸東京たてもの園 解説本 収蔵建造物のくらしと建築」450ページ弱もある分厚い「新 江戸東京たてもの園物語」を買ってきました。

「江戸東京たてもの園 解説本 収蔵建造物のくらしと建築」300円という手頃な価格と、資料性の高さからすんなりと購入する気になったのですが、「新 江戸東京たてもの園物語」の方は2500円ということで、ちょっと考えました
でも、チラリと立ち読みすると、あとがきに、

実は本書の前身ともいえる『江戸東京たてもの園物語』も、やはり(たてもの園と)スタジオジブリとの協力により、1995年に刊行されている。そこに掲載された建物は、当時は開園直後だったこともあり、現在の半分ほどであった。この本は大好評を博したが、残念ながら現在は絶版となっている。
公開している建物が倍増したたてもの園としては、新規建物を含めた新たな「たてもの園のものがたり」があったら良いと希望していた。そうした思いが通じ、再びスタジオジブリの協力により出版する本書は、とくにたてもの園と大変ゆかりの深い、建築史家・藤森照信氏が解説を引き受けていただいており、たいへん読み応えのある内容となっている。

とあるように、スタジオジブリ藤森照信さんの、私にしてみれば最強タッグのこの本、買って損はなかろうと判断して購入しました。

そして、帰宅してから「新 江戸東京たてもの園物語」を読んでみると、あれまぁ~驚きぎゃぁ~感涙するほどの中味の濃さ楽しさ

しかもこの本スタジオジブリのサイトによれば、

江戸東京たてもの園のミュージアムショップにて販売。
※一般書店では販売していません。

ですと
まさか、たてもの園でしか買えない本だったとは…
たてもの園にお出かけの節は、この本を買うのをお忘れなく

この本には藤森さんと宮崎駿さんの対談も載っていて、その中にこんな一節があります。

藤森 江戸東京たてもの園で、宮崎さんが一番好きな建物はなんですか?
宮崎 文房具屋さん(武居三省堂)があるでしょう。隣に花屋(花市生花店)があって、あのあたりの角で人の絶えた夕暮れ時に立っていたら、なにかぞわっと身体に込み上げてくるものがありました。

この「あのあたりの角」が、まさしく「新 江戸東京たてもの園物語」表紙に描かれています。
角度は違いますが、リアルあのあたりの角」がこちら。

 

 右から「花市生花店」「武居三省堂(さんしょうどう)店蔵風に新築された「たべもの処『蔵』」でして、真ん中の「武居三省堂」の中を覗いてみましょうか。

と、その前に「解説本」から武居三省堂について引用しましょ。

武居三省堂は、昭和初期の神田須田町に建てられた店舗併用住宅で、「看板建築」といわれる形式の建物である。筆・墨・硯等の文具の卸売業を営み、店の創業は明治に遡る。

だそうで、こちらが武居三省堂の店内です。

やら墨・墨汁やらがびっしり
と、この壁面を埋め尽くす引き出し

これを観て思い出したのがこちら

映画「千と千尋の神隠し」で、釜爺薬草を収納していた引き出しにそっくり

と、思ったら、Wikipediaに、

釜爺の仕事場にあった薬草箱は江戸東京たてもの園武居三省堂(文具屋)内部の引出しがモデルになっている。

とありました。
確かに…

ついでにWikipediaから転記すれば、

2000年3月17日には、江戸東京たてもの園でロケハンが行われた。江戸東京たてもの園は、企画当初から作品の舞台とされていた場所である。油屋のデザインについて、モデルとなった特定の温泉宿などは存在しない。ただし、江戸東京たてもの園の子宝湯は宮崎お気に入りの建物で、特に千鳥破風の屋根に加えて玄関の上に唐破風(別の屋根の形式)を重ねる趣向、および内部の格天井に描かれた富士山のタイル絵などの「無駄な装飾性」に魅了されたという。また、ジブリの社員旅行で訪れたことのある道後温泉本館も参考にされた。

とある「子宝湯」のことは「その6」で書きます。

つづき:2016/10/30 好天に誘われて江戸東京たてもの園(最終回)

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秋の上野は芸術の秋 (その2)

2016-10-26 22:45:28 | 美術館・博物館・アート

「秋の上野は芸術の秋 (その1)」のつづきも、東京藝術大学大学美術館で開催中の「驚きの明治工藝」展のお話です。

と、その前に、つい先日流れたこちらのニュース

ドイツ南部ミュンヘンの競売会社ヘルマン・ヒストリカで24日、日本の骨董品計約300点の競売があり、明治時代のコイの金属製工芸品「自在置物」17万ユーロ(約1900万円)、江戸時代のかぶとが5万8千ユーロで落札された。
競売に掛けられたのは、ミュンヘンの実業家ルドルフ・オット氏が第2次大戦後、40年以上にわたり日本などで買い集めたコレクション。刀や甲冑のほか、仏像などの芸術品や書物も収集していた。

だそうです。

「驚きの明治工藝」展でも「自在鯉」2展示されていましたが、私にとって興味深かったのは、同じ自在置物でも、とかとかといった大物ではなく、逆に小さな「自在昆虫」でした。

クモ、カマキリ、蝶、トンボ、バッタと、ホントに動かせるのかと疑うような実物大「自在昆虫」ズラリ

クモとか、

カマキリとか、

ホント、リアルで、小さな自在置物ながら(クモは全長12cmカマキリは全長9.5cm)圧倒されました。
どうだ、まいったか という職人心意気が伝わってきます。
そして、思わず、まいりました… m(_ _)m

でも、この展覧会から一番「お持ち帰り」したかった作品は自在昆虫たちではなく、こちらでした。

竹内久一「柏木探古像」です。

柏木貸一郎(探古)を彫った高さ21cm小さな木像ながら、まるで生きているようです
ほとんど、コビトまな板(?)の上に座っていて、突然、しゃべり出しそうな感じ

そっか、仮にこの「柏木探古像」「お持ち帰り」したら、動き出すんじゃないか と落ち着かないかもしれません

それなら、代わりにこちら「お持ち帰り」しよう。

海野勝珉「背負駕籠香炉」です。
高さ14cmですから、大きさも手頃

と、またもや妄想モードに突入する私でありました。

つづき:2016/10/29 秋の上野は芸術の秋 (その3)

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Misia Candle Night 奈良遠征旅行記(2日目・その4)

2016-10-25 23:03:42 | 旅行記

「Misia Candle Night 奈良遠征旅行記(2日目・その3)」のつづきです。

奈良国立博物館 なら仏像館満喫した私が次に向かったのは東大寺でした。
この日の奈良博⇒東大寺散策ルートはこんな感じ。

敢えて南大門大仏殿を外して、法華堂(三月堂)東大寺ミュージアム戒壇堂を拝観しました。

法華堂(三月堂)は、6年前の訪問時にはまだ須弥壇(仏さんたちも)の修復工事が続いていて、こちらで書いたように、

7躰の仏さまが、幅7間ほどの狭い空間に一列に並んでいらっしゃって、それをガラス越しに拝観するというのは、やはりありがたみが薄れるというか、あっけないというか…。

という「仮公開」状態でしたし、戒壇堂一度も拝観したことがなかった

という事情からこんなルートになりました。

で、奈良公園芝生がキレイ

鹿ちゃんたちが「芝刈り」「施肥」をしてくれているおかげなんでしょうなぁ
上の写真だと、観光客鹿ちゃんたちも、まったく写っていませんが、この辺りはあまりにも日当たり良すぎたことと、観光ルートから外れていたため(恐らく)で、主要スポット日影には観光客鹿ちゃんたちも群れておりました。

そして、法華堂(三月堂)

リーフレットに、

堂内には御本尊の不空羂索観音立像を中心に合計10体の仏像が立ち並び、そのすべてが奈良時代に造られたもので国宝に指定されています。

とあるように、建物安置仏「ALL 国宝だなんて、ハンパありません。

御本尊の不空羂索観音立像を拝観するのは、もしかすると初めてかもしれません(光背東京国立博物館での「東大寺大仏-天平の至宝」展で拝見しました:記事)。

それはともかくも、1300年前の空気がそのまま封じ込められたかのようなこんな空間って、そうそうあるものではありません

はぁ~~、、、とため息をつくしかありませんでした。

ところで、リーフレットには、

法華堂(国宝)は、「東大寺要録」に天平5年(733)の創建と記され、東大寺に今残っている最古の建物として知られています。

とある一方で、

異なった建築様式の調和を特徴とする法華堂は、奈良時代創建の正堂鎌倉時代再興の礼堂を融合させた美しい姿を見せてくれます。

ともあります。

上に載せた正面は「鎌倉時代再興の礼堂」で、仏さまたちが集う須弥壇は「奈良時代創建の正堂」の中にあるんですよ。

上の写真では左側の4間四方の部分が「奈良時代創建の正堂」で、右側に続く部分が「鎌倉時代再興の礼堂」です。

いやはや、ステキ過ぎるぅ~~

ただ、残念なのは、「法華堂ファミリー」のうち、数躯の仏さま、とりわけ天平期を代表する仏像ともいえる日光菩薩・月光菩薩両像が、ご主人の不空羂索観音をここに残して、東大寺ミュージアムに引っ越していること。

そんなわけで、今回もまた東大寺ミュージアムへ足が向いたのでありました。

つづき:2016/10/29 Misia Candle Night 奈良遠征旅行記(2日目・その5)

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好天に誘われて江戸東京たてもの園(その4)

2016-10-24 22:10:12 | 美術館・博物館・アート

「好天に誘われて江戸東京たてもの園(その3)」のつづきです。

私が前回江戸東京たてもの園を訪れてから、早くも8年の歳月が流れていて、ちょっとゾッとしているのですが、この間にたてもの園には、「その1」で紹介したデ・ラランデ邸の他、

2棟「展示」が増えていました。
その2棟東ゾーンにありまして、まずは大和屋本店(乾物屋)

この建物は、

港区白金台(4丁目)の通称目黒通り沿いにあった木造3階建ての商店である。建物は、3階の軒下に何本もの腕木が壁に取り付き出桁と呼ばれる長い横材を支える出桁造りである。(中略) 出桁造りでありながら、間口に対して背が高い看板建築の特徴をも備えた建物である。建物は、創建当初の1928年(昭和3)に復元している。(解説本より)

だそうで、「盬」の看板が目を惹きます。

この「盬」の文字で思い出すのが、私のHNの由来にもなっている徒然草

徒然草136段です。

原文は上に張ったリンク先でお読みいただくとして、内容は、

和気篤成という医師が、後宇多法皇の宴席に招かれたとき、「私は生き字引のようなもので、ここに出されている料理の素材やその効能は何でも知ってますぞ」と自慢した。そこで、六条有房内大臣が、「質問させてくだされ。『しお』という漢字は何偏でしたかの?」。篤成が土偏でございます」と返答したところ、有房は、「あんたの学識はそんなもんでっか。底が割れましたな。今夜はこの辺でお帰りなさいな」と一蹴。篤成はわらわらと退散した。

というもの。

「しお」ではなくじゃ。

ということなのですが、こりゃ、六条内府篤成ハメましたな
せめて、『しお』という漢字の(つくり)は何でしたかの?」と尋ねればよかったのに…
よほど篤成の態度が気に障ったのでしょうかねぇ…

「徒然草」が出てくれば、「煙草」も登場させないと、私の気がすみません
ということで、大和屋本店の店先の写真を載せます。

たばこ売場です。
解説本によれば、

大和屋本店では煙草も販売しており、店舗前面に煙草屋の造作が取り付けられていた。
今回取り付けられている煙草屋の造作は昭和20年代のもので、青梅市二俣尾1丁目 武田清氏よりご寄贈いただいたものである。

とのこと。

こうした「煙草屋の造作」の奥には、看板娘看板娘が座っているイメージなんですが、大和屋本店では、どちらのケースが多かったのでしょうか?
そんな妄想に突入したところで「その5」につづきます

つづき:2016/10/28
好天に誘われて江戸東京たてもの園(その5)

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秋の上野は芸術の秋 (その1)

2016-10-23 21:07:32 | 美術館・博物館・アート

書きかけのシリーズが2本あるというのに、またもや新しいシリーズを始めます。

きょう、上野に出かけてきました。
きのうのメインの目的は、

東京藝術大学大学美術館で開催中の「驚きの明治工藝」展だったのですが(来週末でおしまい)、とにかく上野公園は賑わっていました。

そして、竹の台広場に、おおっと藝祭神輿

相変わらず、さすがは藝大見事な出来映えです
上に載せた「彫刻・管楽器・ピアノ」チームの作品(反対側にがいるので、テーマは桃太郎だと思う。)を含め5基藝祭神輿が展示されていましたが、私はこちらの作品が一番のお気に入り

猪鹿蝶で、花札をモチーフにした「日本画・邦楽」チームの作品です。
裏に廻ると、「松に鶴」「小野道風にカエル」「桐に鳳凰」もありました(逆光で申しわけない)。

日本画・邦楽チームの藝祭神輿

カエルがかわいい

と、藝祭神輿見ほれるうちに、思わず東京国立博物館(東博)に入場しそうになりました

きょうは東博を後回しにして、まずは東京藝術大学大学美術館に行かねば

   

で、「驚きの明治工藝」展、私、常々明治期の工芸素晴らしさには感服しまくりでありまして、この展覧会では、ちょっとは耳に馴染んでいる作家の作品を発見して、ほぉ~ という状況でした。

展示をご紹介する前に、この展覧会についてちょいと書いておきます。

触れ込みは、公式サイトによれば、

細密、写実的な表現で近年人気の高い明治時代を中心とした日本の工芸作品。この「明治工藝」の一大コレクションが台湾にあることはあまり知られていません。しかもこれらの作品は、すべてひとりのコレクターが収集したもの。この「宋培安コレクション」から100件以上もの名品を、日本で初めてまとめて紹介します。
全長3メートルもある世界最大の龍の「自在置物」、「ビロード友禅」をはじめ、漆工、金工、彫刻など多彩な作品ひとつひとつが魅力を放つ、
 すごい! びっくり!かわいい!

 驚きがいっぱいの展覧会です。

というもの。
台湾の個人コレクター所蔵品展だというわけです。
いったい、どんなコレクションなんでしょ
うれしいことに、さんのご厚意により(だと思う)、一部の作品を除き、撮影可 と来た

前置きが長くなりましたが、展覧会の冒頭から、、、、

宗義作の自在龍が宙を舞う

…なんだけど、、、、ちぃと軽すぎないか?
しかも、この自在龍デカことはデカいけれど、去年「ダブル・インパクト」展で観た高石重森作の「竜自在」見劣るし、東博所蔵の明珍宗察作の「自在龍置物」とは比べるべくもない…って感じこちらの記事をご参照方)

と、のっけからnegativeになってしまったんですが、このあと、盛り返しますので…
ほとんど「前置き」のみで申しわけございませぬ。

つづき:2016/10/26 秋の上野は芸術の秋 (その2)

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Misia Candle Night 奈良遠征旅行記(2日目・その3)

2016-10-23 10:00:25 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「Misia Candle Night 奈良遠征旅行記(2日目・その2)」のつづきも、奈良国立博物館 なら仏像館の見聞録です。

きょう最初に紹介するのは、この日のなら仏像館で最もインパクトのあった、大阪・金剛寺「隆三世明王(ごうざんぜみょうおう)坐像」です。

とにかくデカい そしてリアル
こんな顔で睨まれたら怖い

当日のメモは、

 巨大 かつ 鮮やか かつ 異形
 光背の火焔が左にたなびく
 台座は積み木くずし

左の写真(「なら仏像館 名品図録」には載っていないので、某所から拝借)では、「積み木くずし」と表現した台座がちょっとしか写っていないのが残念

この像は、鎌倉時代天福2年(1234)の作だとか。
本拠地の金剛寺「平成大修理」のため、一時的に奈良博で展示されているようで、本来は、金剛寺金堂で、御本尊・大日如来の右脇侍として、バディ不動明王坐像と共にお務めを果たしているのだとか。
ちなみに、三躯とも伽藍の修理に併せて修復に出されて、奈良博の工房文化財保存修理所)で修理を終えた隆三世明王坐像だけが奈良博で展示されている由。

とにかくデカい坐像ですが、こちら金剛寺金堂での鎮座状況を拝見しますと、不動明王坐像も同じ大きさで、大日如来坐像はさらにデカい

「平成大修理」が終わったら、ぜひ現地にお三方をお参りに行きたいものです。

   

ちょっと鎌倉時代の仏像を続けまして、次は、この日ので一番心穏やかになったこちら。

滋賀・長命寺「地蔵菩薩立像」です。

私のメモは、

 厳しさがありながら静けさを漂わせる
 ★★★ (←最高点)

とありまして、図録によれば、

台座裏の墨書銘から、興福・東大・薬師寺の大仏師を自称する栄快法橋が建長6年(1254)に制作したことがわかる。(中略) 金銅製の錫杖や、水晶製の宝珠、蓮茎をかたどった支柱の光背も当初のもの

とのこと。
大仏師を自称」ってどういう意味なんでしょ…

   

次は、一番楽しかったこちら。

室生寺十二神将立像のうち「未神」で、

ダンスするかのよう

とメモりました。

一般的に十二神将立像は、12神それぞれが個性豊かに造られたものが多くて、どのユニット楽しいのですが、この室生寺の未神(鎌倉時代・13C)は、夢見てステップを踏んでいるかのようなポーズが傑出している気がします。
図録を引用しますと、

十二神将と十二支との合体は、日本では平安時代後期から認められるが、この群像の場合、頭上に標識として十二支獣を表すのみならず、本画の表情にも十二支獣のイメージが投影されている点は新しい傾向である。

だそうで、図録の隣のページ、東大寺十二神将立像の解説にある「本来は無関係な十二神将と十二支」という記述ともども、へぇ~ です。

   

次は、一番「目からウロコ」だった、京都・海住山寺(かいじゅうせんじ)の「四天王立像」(鎌倉時代・13C)

何が「目からウロコ」かって、

持国・増長・広目・多聞天の順に、緑・赤・白・青の身色に塗り分けられる点や、持物、体勢などから、鎌倉時代に復興された東大寺大仏殿に安置されていた四天王像の図像に合致する作例と知られる。(図録より)

と、

 色がわかって貴重~ (私のメモ)

なわけですよ
増長天い顔は許容範囲だけど、多聞天い顔と持国天の顔は怖いゾ

   

なら仏像館最後に紹介するのは、一番Lovelyだったこちら。

時代を一気に遡って、飛鳥時代(7C)菩薩立像(奈良・金竜寺)で、私のメモには、

あれぇ~ かわいい 足短い
飛鳥仏! 思わず ほほえむ

とありまして、ホント、可愛らしい

そんなわけで、お顔ズームアップ

図録を引用しますと、

寺伝に観音菩薩という。像の幹部から台座の大半までクスの一材から造る。(中略) 足の短い幼児体型で、顔も童子のそれを彷彿とさせ、飛鳥時代(白鳳期)に類型をみる童形仏の一例。法隆寺に伝来した六観音像と作風が酷似し、同じ工房の制作と考えられる。現在の彩色は光背とともに鎌倉時代中頃に補われたもので、彩色の下層に漆箔が見える箇所があり、当時は金色燦然と輝く像であった。

だそうです。
私としては、金ピカよりもこの古色が渋い今の菩薩立像の方が好みだな

ということで、一番「お持ち帰りしたい」仏像だった菩薩立像を以て、なら仏像館の見聞録をお開きとさせていただきます。

つづき:2016/10/25 Misia Candle Night 奈良遠征旅行記(2日目・その4)

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