新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

1泊2日で青森市にドライブ旅行 【ダイジェスト 2日目編】

2024-05-25 18:33:26 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「1泊2日で青森市にドライブ旅行 【ダイジェスト 初日編】」のつづきです。

2日目(5/23)も前日につづいて良い天気
前夜、せっかく青森市に来たのだから、中心部にも行ってみようかな、と考えた末、この日の目的に急遽加えた「ねぶたの家 ワ・ラッセ」に向けてホテルを出発したのは、9:00ちょい過ぎでした。
私には青森市の土地鑑が皆無ですが、「ワ・ラッセ」青森駅の隣ですから、ナビに頼りつつも、案内標識だけでも行ける算段です。

そして、道で彷徨うことなく、9:30前には「ワ・ラッセ」の駐車場に入れました。
なお、駐車場有料ですが、「ワ・ラッセ」の窓口で入場済みの観覧券を見せれば、1時間無料になることは、事前に調べておりました

駐車場はに面していて、青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸が目の前です。

私は青函連絡船3度利用しましたが、私は八甲田丸には乗ったことがあるのかな 中学校の修学旅行の往路で乗ったのは津軽丸だということは、写真アルバムで確認できました。
と、埠頭に停泊してた大型客船は、、、

コロナ禍の序盤で乗客の集団感染が話題となったダイヤモンド・プリンセス
この船を見るのは、2016年Blue Note JAZZ FESTIVAL in JAPAN (MISIAとクロタク Gr.との初共演)赤レンガ倉庫に行ったとき以来

のっけから盛り上がった私でしたが、ここにはではなく「ねぶた」を観に来たわけでして、さっそく「ワ・ラッセ」に入館しました。

始めにパネルでねぶたの歴史なんぞをさらっとお勉強
ねぶたのルーツが「坂上田村麻呂」にあると聞いたことがありましたが、現在では否定的な流れだそうで、「民俗行事『眠り流し』が発展」説が有力のようです。

全国各地の農山漁村で七夕の日を中心に行われていた「眠り流し」の行事が発展したものとする説。
その始まりを民俗行事に求めた考え方ですが、初期のねぶたが「七夕祭」や「ねぶた流し」と呼ばれていたこともあり、有力な起源説と考えられています。「眠り流し」とは、仕事の進行を妨げる「眠気」を追い払う行事で、「ねぶた」は「眠り流し」がなまった語であるとも言われています。

だとか。
そうか、秋田の竿燈まつりとほとんど同じだ 
私の祖父は、「竿燈」とは呼ばずに「ねぶり流し」と呼んでいましたっけ…

なお、竿燈まつりと七夕との関係については、こちらの記事をご参照方。直接的な関係はなく、単に時期(旧暦)が近かったということらしいです

さて、私にとって初めて見るねぶた実物

大きい そして立体感が凄い

そして、360°それぞれの角度から違った場面を見られるというのが面白い

「ワ・ラッセ」の展示で初めて知ったのは、大型ねぶたそれぞれが大型発電機を搭載していて、電球や蛍光灯を光らせているということでした。
っつうか、光源その電源なんて考えもしたことがありませんでした

昔はろうそくを使用し、ねぶたに光を入れていたが、現在では800~1000個の電球や蛍光灯を取り付けています。
この電源になるのが発電機です。重さは約1.3tもあり、ねぶた本体と合わせると約4tにもなります。

だそうな。

う~む、楽しかった

   

次の目的地は「八甲田山雪中行軍遭難資料館」です。
泊まったホテルからは八甲田がよく見えました。

もと来た道を引き返すようにクルマを走らせていると、クルマの積算走行距離「キリ番」に近づいてきました。
今のクルマにしてからは「キリ番」を撮影することはしていなかったのですが、今回は撮影のチャンスですので、残り1kmを切ったところで、脇道に入り、いつでもクルマを駐めることができるようにしました。
そして、その時がやって来ました

55555km

納車(2019/6/1) から約5年でこの日を迎えました

さて、泊まったホテルの前の交差点を左折し(ルートにムダがある)15分ほど走ると、八甲田山雪中行軍遭難資料館に到着しました。

なかなか端正な建物です。
中の展示を見て察するに、遭難した歩兵第5聯隊の建物を模しているようです。

この資料館は、幸畑(こうばた)墓苑の中にあって、資料館の裏には、幸畑陸軍墓地があり、雪中行軍で亡くなった将兵の墓が並んでいました。

そちらはあとでお参りするとして、まずは資料館を見学しました。
資料館に入ると、、

後藤房之助伍長の像(レプリカ)です。
後藤伍長が仮死状態で発見され、蘇生後の証言から捜索活動が活発化したのだとか。この像についてはWikipediaをご参照くださいませ。

この遭難事件は新田次郎「八甲田山死の彷徨」を原作とした映画「八甲田山」(なぜか創価学会が製作に加わっている)でよく知られていますが、210名の行軍参加者のうち199名が命を落とすという、航空事故や海難事故以外にはありえない事故です。
しかも、朝に兵営を出発して(もちろん徒歩)その日のうちに遭難してしまったというのですから…

現代とは比べものにならない貧弱な防寒着で、足は「唐辛子と一緒に油紙で包んでわら靴」というもの。
コンパスと地図を頼りに、通信手段もなく、遭難2日目には青森市で「最低気温 -12.3℃、最高気温 -8℃、最大風速14.3m/秒」を記録するような極寒のタイミングで演習(行軍)を実施するなんて…

第5聯隊のトップが責任を問われて当然だと思うのですが(津川聯隊長は進退伺いを出している)、そのまま留任し、さらに、事件の1年後には中佐から大佐に昇格までしているという…。どういうこと?

資料館の裏にある陸軍墓地に立ち寄ってみました。

正面に大隊長の山口少佐以下士官10名の墓標があり、下士官以下189名の墓標が左右に分かれ、向かい合うように整然とならんでいました。

墓標の大きさは、階級によって区分されているようでした
まぁねぇ~

   

やるせない気持ちを抱えた状態でクルマに戻り、秋田を目指しました。
またまた来た道を引き返し、以下のルートで次の目的地大館市に行きました。

幸畑墓苑⇒青森中央IC⇒青森道⇒青森JCT⇒東北道⇒小坂JCT⇒秋田道⇒大館北IC⇒R7

大館で高速道を降りた目的はこちらです。

秋田犬会館です。
この日は木曜日だったため、くろべえ・銀ちゃんはお休みで、「本日は秋田犬は不在です。『秋田犬の里』で会えます」と貼り紙がありました。
今にして思えば、大館駅前にある秋田犬の里に行って、青ガエルと再会すれば良かったかな? と、ちょっと後悔

秋田犬会館3F秋田犬博物室を見学。

秋田犬の毛皮はほんっと大きくて、「毛色の変わったクマです」と言われたら信じてしまいそう

ヘレン・ケラー贈呈された秋田犬と一緒に写っている写真があったのですが、この「海外に渡った最初の秋田犬」神風号(1937年に渡米して2か月に病死)の兄・剣山号は、秋田犬というよりシェパードに近い顔立ちをしていました。
昔、秋田犬狩猟犬としてだけでなく、闘犬としても飼われていたそうで、強い犬をつくるべく、シェパードなど外来を含む大型犬と交配されていたとか。
現在では厳密に血統管理されていますが、この剣山号は、シェパードの血が濃く出たのかもしれませんな

ということで、どこかで昼食を、と思ったのですが、なかなかクルマを駐めて食事できるところがありません。
ようやく見つけたファミレス普通のランチをいただきました。

さて、次に行こうと考えていた伊勢堂岱遺跡をどうする???
この日に旧友たちと約束していた飲み会を考慮すると、あまり時間に余裕はありません
結局、ファミレスのレジでのちょっとしたこと伊勢堂岱遺跡に行く意欲が完全に途切れてしまい、そのまま別邸に帰りました。

伊勢堂岱遺跡秋田犬の里はまた次の機会に です。

以上、「1泊2日で青森市にドライブ旅行【ダイジェスト】」でした。

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1泊2日で青森市にドライブ旅行 【ダイジェスト 初日編】

2024-05-24 19:26:14 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「帰省の途中で平安時代にタイムトリップ」シリーズの途中ですが、一昨日&昨日決行した青森へのドライブ小旅行のダイジェストです。

私、津軽地方へは、何度か出かけたことがありましたが(直近では22年11月の弘前までの日帰りドライブ:記事)青森市の土を踏んだのは、青函連絡船JR(当時は国鉄)乗り換え3回(つまり1往復半)だけで、青森駅の構内で完結していました。
今回の帰省中に行ってみようかな、という気持ちで「外泊セット」を持っての帰省だったのですが、後押ししてくれたのは、たまたま某旅行サイトから今月のみ有効のポイント 1,000円分を貰えたこと。
よし これを使って青森市まで行ってこよう ということにしました。

日程は、秋田市のゴミ収集カレンダーとにらめっこした結果、月1度(本宅では毎週なのに…)でなかなかタイミングが合わなかった金属類・水銀含有物(蛍光管など)の収集日の5月22日に出発して、旧友たちとの飲み会が予定されている翌23日の夕方までに帰ってくることにしました。
週間天気予報によると、天候も上々そうで、ホテルも無事に予約できました。

当初のもくろみでは、メインテーマ「縄文」と「犬」に据え、

【初日】別邸⇒秋田道・東北道⇒三内丸山遺跡 & 青森県立美術館⇒ホテル
【2日目】ホテル⇒八甲田山雪中行軍資料館⇒東北道・秋田道⇒秋田犬会館伊勢堂岱遺跡⇒秋田道⇒別邸

というものでしたが、現地での思いつきや時間的な制約から、【2日目】

ホテル⇒ねぶたの家 ワ・ラッセ八甲田山雪中行軍資料館⇒東北道・秋田道⇒秋田犬会館⇒秋田道⇒別邸

に変更し、伊勢堂岱遺跡「また今度ということにしました。

   

初日の朝、8:30頃に別邸を出発し、秋田中央ICまでの通り道にある吉野家で朝食を と駐車場にクルマを駐めたものの、その店の営業時間は9:00から
出鼻をくじかれた感じ で、空腹のまま秋田道に乗りました

秋田道の秋田南IC以北は基本的に片側1車線(たまぁ~に追越車線がある)で、制限速度は70~80km/hで、しかも、2度もペースカー(パトカー)に先導されることになり、なんとも低燃費ドライブです。
1年半前に弘前に行ったときから秋田道のミッシングリンクが減ったものの、二ツ井白神IC~蟹沢IC6kmほどは未開通
でも、全通は遠くなさそうな印象を持ちました。

で、蟹沢ICから再び秋田道に乗り、ちょいと走ると、「道の駅 大館能代空港」の案内標識があり、レストランのマークも載っています。大館能代空港ICからすぐらしいので、乗ったばかりの秋田道を大館能代空港ICで降りて遅い朝食を摂ることにしました。この辺りは無料区間なので、気軽に乗ったり降りたりできます。
そして、案内標識にしたがって走っていくと、そこは大館能代空港駐車場 「道の駅」らしきものはありません

駐車場2周して判ったのは、大館能代空港の駐車場とターミナルビルがそのまま「道の駅 大館能代空港」なのだということでした。

あとになって大館能代空港のHPで知ったところによれば、

空港自体が道の駅となっているのは、他には石川県にある「道の駅 のと里山空港」のみ。

だとか。
のと里山空港といえば、あの地震で大変な所だよな…

で、私はレストランで、秋田の県北(比内地鶏)県南(稲庭うどん、いぶりがっこ)名産がコラボした「比内地鶏うどん」を食しました。

食事後、再び秋田道にのり、小坂JCTから東北道に合流し、ようやく片側2車線区間(ただしここから有料)に入りました。

津軽平野の沿線の眺めは、果樹園が広がり、沿道ではニセアカシア白い花を咲かせ、なんとも和みました

津軽SAで窓拭き休憩をとり、併せて、フォトスポットで岩木山をパチリ

津軽SAから約20分東北道の終点青森ICに到着しました。
これで私は、通算で、東北道の全線(約680km)を走ったことになります
と思ったら、小坂IC~小坂JCT6.4km未走破

それはさておき、青森ICの長い取付道路から一般道に降りてから、ほんの3分で最初の目的地の三内丸山遺跡に到着しました

青空が広がり、カッコーやウグイスの声が響く中、散策を楽しみました

それにしても、重機のない時代(今から5,900~4,200年前)にどうやってこんな巨大構造物を建てたんでしょ

こんなに太い栗の木を切るだけでも大変だろうに、直径・深さとも約2mのを掘るのも、柱を立てるのも、とんでもない労力と知恵が必要だったのでしょうな…

大型竪穴建物の内部この大型の建物の他にも、中小の竪穴建物が復元されていて、それぞれの形がなんともホンワカしていて楽しいのなんのって

ところで、私が小中高生だった頃には、登呂遺跡のような弥生時代の遺跡は習いましたが、縄文時代のことは、もっぱら土器や土偶のことしか習わなかったような気がします。大湯環状列石のことは習った記憶がありますが、それは例外中の例外でした。
この三内丸山遺跡の場合、なにせ発掘調査が行われたのが1992年だそうで、そりゃ若い頃に習うはずはありません

おっと、この記事は「ダイジェスト」ですから、先を急がねば

ということで、三内丸山遺跡の次のお目当ては、青森県立美術館、それも、「あおもり犬」です。

青森県立美術館は、三内丸山遺跡のすぐお隣、というか、ここも遺跡エリア内でした

上の写真は、「あおもり犬」の展示場に向かう途中にあった「トチの実の加工場」だそうな。

で、「あおもり犬」
展示場までは、案内矢印に従って(館内の展示室では案内図が配布されてました)、階段を下り、歩き、階段を上り、歩き、階段を下りて、ようやく到着です。

ひやぁ

「あおもり犬」は、観覧券無しでも観られるようになっていまして、観覧券を買って、展示室内からガラス越しに観るとこんな感じ。
こちらもなかなかです

青森県立美術館にはもう一点、観覧券無しで観られる奈良美智さんの作品がありまして、それは、八角堂内にいる「Miss Forest / 森の子」

これまた奈良美智さんらしく、とっても cute

この作品は、2016年に青森県立美術館の開館10周年を記念して制作されたものとか。

館内にも奈良美智さんの作品がたっぷり展示されていますし、弘前市出身奈良美智さんと青森県立美術館との良好な関係がうかがえます。

思い起こせば、宮城県美術館には佐藤忠良の、岩手県立美術館には萬鉄五郎、松本竣介、舟越保武のコレクションが充実しています。郷土出身の芸術家への敬意が感じられるのですが、それに引き換え、わが故郷の県立美術館ときたら… と、うんざりする私です

青森県立美術館には、いろいろと感服するところがありましたので、その辺のことは本編で書きたいと思っています。

というところで、「ダイジェスト 初日編」はここまで。

つづき:2024/05/25 1泊2日で青森市にドライブ旅行 【ダイジェスト 2日目編】 

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泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-5 【完結編】

2024-03-12 19:07:25 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-4」のつづきです。

「新潟市歴史博物館みなとぴあ」本館を見学する前に、河岸のベンチに座ってひと休み。

朱鷺メッセHPのトップ画像は、ここから眺めた景色なんですな
ここから朱鷺メッセは、それこそ「目と鼻の先」ですが(冬期休業中だったウォーターシャトルなら約4分)、歩いて行こうとすると、のあるところまでぐるっと遠回りしなければなりませんので、20分以上はかかりそうです。
でも、まだ13:30でしたから、ゆっくりと本館を見学できそうだ と、のんびりと河辺の景色を楽しみました。

   

さて、みなとぴあ本館を見学

立派な建物です。
なにやら由緒ありそうな建物ですが、どこにも説明が無い
ミュージアムショップで購入したみなとぴあ総合ガイドブックに書かれていました。

博物館本館は、1911(明治44)年に西堀通6番町(現在のNEXT21所在地)に建てられた2代目の新潟市役所庁舎デザインを用いています。2代目庁舎は、道路に面してL字型の2階建ての建物でした。博物館本館はL字の内側に展示・収蔵する3階建ての部分を付けています。

だそうです。
「L字の内側に展示・収蔵する3階建ての部分を付けています」とありますが、上手に背の高い部分を組み合わせているものだから、正面から見ると、なんの違和感もありません
別の角度から見るとこんな具合です。

みなとぴあ本館では、常設展に加えて、企画展「1964 -歓喜・悲嘆・奮励の366日ー」が開催中でした。

<span style="font-family: arial, helvetica, sans-serif; color: #0000ff;">1964年といえば、私にとっては「東京オリンピック」「阪神タイガースのリーグ優勝」の年のイメージでしたが、新潟にとっては、「国体と地震」の年だったんですねぇ。

企画展の展示は、「新潟国体」関係から始まります。

この年の国体(今年の冬季大会から名称が「国民体育大会(国体)」「国民スポーツ大会(国スポ)」と変更されたらしい) は、東京オリンピックとの兼ね合いから、秋季大会を春に前倒しして、6月6~11日に開催されたそうで、夏期大会(水泳)は地震のため中止とな。

展示されている当時の資料を見ると、国体開催を控えた地元は、今では想像できないほど盛り上がっていたことが察せられます。
そして、ほぼ新潟県内全域にわたって競技が行われ、全国から選手たちが参集するわけですから、当然ながらホテルや旅館ではまかないきれるはずはなく、民泊が当たり前だったようです。
そして、選手を受け入れた家庭には、推奨される食事のメニューやレシピが提供されていたなんて、まったく知らなかったし、考えにも及びませんでした

そして、春季大会がお開きになって、その余韻を味わう間もなく発生したのが「新潟地震」

新潟地震では、秋田でもかなり揺れたらしく(秋田市で当時基準の震度4)は、仕事で狭い路地をバイクで走っているときに新潟地震に遭遇して、「両側の家が倒れてくるんじゃないかと肝を冷やした」と語っていたことを思い出します。

地震の規模の割には亡くなった方26名だったものの、石油コンビナート数日間にわたって炎上する、約1か月前に開通したばかりの昭和大橋落橋する鉄筋コンクリートのアパートがゆっくりと横倒しになる、地面から水が吹き上がる、、とかなり衝撃的な映像・画像が残されています。

2017年7月に放送された「ブラタモリ」の新潟回のサブタイトルは「新潟は“砂”の町!?」でした。
新潟は信濃川阿賀野川の河口にできた町で、信濃川左岸の古くからの町は、信濃川の中州の上に作られたのだそうで、大きな地震が起これば「液状化」が起こっても不思議ではありません。
大震災のたびに発生する液状化現象、この現象が初めて脚光を浴びたのが新潟地震のときだったと聞いたことがあります。
こればかりは、住み始めたあとではどうしようもなく、液状化が起こりそうにない土地を選ぶしかなさそうです。

   

そんなことを考えながら企画展を見終えた私は、常設展示も観ました。

常設展示では、「水」と新潟の人々の営みとのかかわりを展示している。

とあるのですが、私にはどうもピンと来ませんでした
「ガイドブックをペラペラめくっても、「こんな展示があったっけ?」と、ほとんど頭に残っていないのです。

どうしてなんだろうな…

なお、写真・動画撮影は、「常設展示室内は、三脚・ストロボの使用がなければ可能です」らしいのですが、私は一枚も写真を撮っておりません。
これまた、どうしてなんだろうな…

このように、「う~む…という感じでみなとぴあ本館を出た私は、「旧新潟税関事務所」の真ん中の通路を抜けて、そして、みなとぴあの敷地から出ました。

「旧新潟税関事務所」1971年に復原工事を行ったあと、1972年から2003年3月まで「新潟市郷土資料館」として使われていたそうです。
その頃はもっと明るい照明が使われていたんでしょうね

で、みなとぴあ柵沿いに歩いていると、あれま ウメが咲いてる

そっかぁ~、新潟のウメのシーズンは今頃なのか…
秋田より1か月以上早い…

   

みなとぴあから朱鷺メッセへ行くには柳都大橋を渡ることになるのですが、クルマだとぐるっと大回りしないと柳都大橋を渡れませんし、朱鷺メッセへも大回りが必要です。
ですが、川岸から歩行者通路まで昇る歩行者用階段があることは遠征前に確認していましたので、まずは柳都大橋のたもとへ…。

そして、みなとぴあから徒歩約15分柳都大橋の歩道に到着しました。

一瞬、この橋の名前になっている「柳都」新潟の異名なのかな? と思いましたが、ここまでの「街巡り」を振り返れば、新潟の町にはかつてが巡らされていたことを実感して、川べりに植えられがちの木といえば、そう、「柳」 と思い至りました。
この記事を書くために調べたところ、こちらのページにこんな説明を見つけました。

新潟にはかつてはがはりめぐされ、その堀端の柳の下を座敷に向かう芸妓が通るという美しい風景がみられました。
今では堀は埋め立てられ柳が残るばかりですが、この風情ある町にふさわしい呼び名が残っています。それが「柳都」です。

やはり

こうして、ほぼ予定どおりの時刻に、朱鷺メッセに到着しました。

朱鷺メッセでの「MISIA星空のライヴXII Starry Night Fantasy」新潟公演 2日目のことは「#M」で書きましたので省略します

   

私が朱鷺メッセに到着したときには傘を差そうかどうか迷うほどの小雨でしたが、ライヴが終わったときには本降りになっていました。
でも、もう本宅に帰るだけですから、ぜんぜん問題はありません。
逆に、よくぞ保ってくれたと、空に感謝です

朱鷺メッセからは、新潟駅行きのシャトルバスに乗って新潟駅へ。
前日は座れた(のんびりと一服したりしたから?) のですが、2日目立ったまま 一日中たぁ~っぷりと歩いて、ライヴではしゃいだこともあって、けっこうしんどかった

指定席を取っていた新幹線には余裕で乗れるタイミングで新潟駅に到着した私は、まずは南口の外にある(勝手知ったる)喫煙所一服 したあと、駅弁とビールを買い、コインロッカーからバッグを取り出して、新幹線に乗車
と、ミー友さんと同じ車両でした たまにあるんですよ、こういうこと…

車内アナウンスでは、「指定席は完売」とのことでしたが、新幹線は乗車率15%程度のスカスカ状態で発車しました。
さっそく、前日の昼前に大宮駅で買ったものの食べそびれていた消費期限切れ「国技館やきとり」で一杯

そして弁当を食べたのち、デザートとして「さわ山」さんの大福桜餅をいただきました。かなり変形していたけれど、美味しかった

各駅停車の新幹線は、各駅で主にスキー場帰りの人たちを乗せ、やがて満席

そして定刻に大宮駅に到着し、私は埼京線に乗り換えて、無事に帰宅したのでした。
めでたしめでたし…。

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泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-4

2024-03-11 21:19:08 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-3」のつづきです。

「新潟市歴史博物館みなとぴあ」(以下、みなとぴあ) は、旅行前から行くつもりだった数少ない場所の一つで、前日も、朱鷺メッセから信濃川対岸みなとぴあを眺めて、「あす行くぞと心に誓っていました(大げさ)

そして、到着しました

みなとぴあは、本館「旧新潟税関庁舎」とその付帯施設(石庫荷揚げ場)旧第四銀行住吉町支店3つの建物で構成されています。

この3つの建物はどれも魅力的
もっとも古い「旧新潟税関事務所」は、明治2(1869)年に建てられた擬洋風建築で、国の重要文化財
昭和41(1966)年まで税関として使われ、昭和46(1971)年に竣工当時の姿に復原された由。

切妻の屋根の上に塔屋が乗っかっている姿は、入母屋の屋根の上に塔屋が乗っかっている函館奉行所と似た感じです。

新潟市のサイトによると、

幕末の安政5(1858)年徳川幕府はアメリカ・オランダ・イギリス・ロシア・フランスの五か国と修好通商条約を結び、新潟・横浜・函館・長崎・神戸の五港を開港することにしました。新潟港日本海側最大の港町であること、幕府領であることなどが理由で開港地に選ばれました。
しかし、開港が実現しないまま幕府は倒れ、明治新政府が新潟港を開港したのは明治元年11月19日(西暦1869年1月1日)のことでした。

んん? 新潟が幕府領??

確か、信濃川左岸の新潟町は長岡藩、右岸の、現在の新潟駅の北側にある沼垂(ぬったり)町は新発田藩だったはずじゃ…?

調べると、天保年間(1834~1844年)に発覚した唐物抜荷事件(中国産品密輸事件)をきっかけとして、天保14(1943)年に、幕府が新潟町を長岡藩から上知(=没収)して天領(=幕府直轄地)にしたのだそうな。

ところで、新潟町が長岡藩領だった頃、長岡藩は新潟に町奉行を置いていて、かの河井継之助のご先祖様たちの何人かが、新潟町奉行を務めていたとか。
長岡藩の重要な金づるだった新潟町が、薩摩藩(新潟の商人たち)がしでかした抜荷事件をきっかけに幕府に取り上げられ、そして北越戦争では薩摩・長州の新幕府軍激戦を繰り広げるとは、さぞかし河井継之助薩摩うらみ骨髄に入って亡くなったんだろうな、と思います

かなり寄り道してしまいました

「旧新潟関税事務所」の北側には、石庫(=保税倉庫)がありました。

石庫も関税事務所(旧称:運上所)と同じ1869年に建てられたものの、老朽化のため、1963年に解体され、現在の建物は1982年に復原されたのだそうな。

なおMISIAサポーターにとって「聖地」のひとつ横浜赤レンガ倉庫「保税倉庫」。こちらは、時代は下って、2号館が19071号館は1908年の竣工です。
下のジオラマ(国立歴史民俗博物館蔵)でいえば、右上が2号館左下が1号館(関東大震災で半壊して、東半分だけ残存)です。

   

お次は「旧第四銀行住吉町支店」

この支店名、、、、そう、「#2-3」に載せたこの写真を撮った場所、私が背にしていた「第四北越銀行住吉町支店」先代の建物です

みなとぴあにある「旧第四(だいし)銀行住吉町支店」の建物は、建物内の説明板によると、

第四銀行住吉町支店は、1926(大正15)年に開設され、この建物は1927(昭和2)年に新築された。
同支店が建てられた住吉町周辺は米穀株式取引所を中心に卸商や有力な商店が軒を連ね、新潟の商業・金融業の中心地になっていた。地の利を得て発展した住吉町支店は、東京・新発田支店に並ぶ大支店となった。

だそうで、国道7号線の建設(拡幅?)計画のため、2002(平成14)年から翌年にかけて、みなとぴあ移築復原したのだとか。
この建物がかつて立っていた場所は、今、現在はセブンイレブン 新潟住吉町店になっているみたいです。

Googleマッププロットしてみますと、こんな具合。

AみなとぴあB旧第四銀行住吉町支店跡地C現・第四北越銀行住吉町支店です。
ということは、みなとぴあ復原された建物は、オリジナルからほぼ180°回転しているんですな

で、旧第四銀行住吉町支店の中に入り、説明板を読んだあと、旧営業室に入ると、思わず「ふおぅ~と声を漏らしてしまいました

天井が高ぁ~い

もう1

最近の銀行建築では、空間をこんなに贅沢に使うことは無さそうですが、昔は、預金者安心感・信頼感を与えるためにも、こんな風にしたんだろうなと思います。

でも、ふるさとの「秋田市立赤れんが郷土館」(旧「旧秋田銀行」本店)の方がもっと…とか思ったりして (訪問記)

まぁ、あちらは統合前とはいえ「本店」ですし…

話を新潟に戻しまして…

元の建物の筐体の鉄筋コンクリートから、それに貼られたタイル木彫を引っ剥がして、新しい筐体に貼りつけるのは大変だったろうな…

2階に上がると、「不思議な空間」がありました

金庫があるのは銀行として当然としても、「謎」なのはこちら

和室です
しかも、2間つづき

建物の外観からは想像できないのに加えて、どうして銀行の支店和室があるんでしょ???
どう使うことを想定して和室を作ったんだ???

私の乏しい想像力では、行員さんのサークル活動(お茶とか生花とか)に使うか、行員さんたちの宴会(仕出しを利用)くらいしか思いつかないんですけど
もしかすると、みなとぴあでの時間貸し用に、和室に改装したのか??

よく判らないまま、「#2-5」につづきます。
こんどこそ「完結編」の予定

つづき:2024/03/12 泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-5 【完結編】

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泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #1-2

2024-02-29 19:14:38 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #1-1」のつづきは、朱鷺メッセにある新潟県立万代島美術館で観た「JUNKO KOSHINO コシノジュンコ 原点から現点」のこと。

私は朱鷺メッセに着くと、既に「MISIA星空のライヴXII」にやって来た人でごった返すエスプラナード(歩廊)アトリウムには目もくれず、まずは万代島ビル 5Fにある万代島美術館に向かいました。

この展覧会には、もともと行く気満々で、1月中に前売り電子チケットを購入しておりました。
そして、会期直前になって、MISIAの「X」公式アカウントからMISIAの衣装も展示されるという情報が流れて、ますます気分が高まったという次第。

それにしても、どうして新潟でコシノジュンコ展?? という疑問が…

この疑問は展覧会の冒頭の展示で解消されました。
コシノジュンコさんと新潟県見附市(長岡市と三条市に挟まれた市)が、30年以上も交流を続けてきたのですと。

見附市のHPから引用しますと、

1990年には国と県の補助事業として、見附ニット工業協同組合新商品開発事業に関する業務委託契約を締結し、1996年までの期間、市内での講演会や企業別訪問指導、デザインコンテストを開催するなど、見附ニット業界の産地力強化に貢献してきました。
他にも、同氏は見附市のコミュニケーションマークや、市立成人病センター病院(現市立病院) のユニフォームデザインを担当した他、市内の小中学校を会場としたファッションショー「見附コレクション」(91年、93年、96年)を実施。1997年から2002年にかけては市の「まちづくりアドバイザー」として、小中学生を対象としたTシャツデザインコンテストを毎年開催するなど、見附ニットの普及やまちづくりに深く寄与していただきました。

だそうです。
会場には、「見附コレクション」の写真や資料なども展示されていました。

   

展覧会の本編は、コシノジュンコさんが高校生の時に描いたというヌードデッサンでスタート
モデルはどうしたんだろ…などとつまらないことを考えつつ振り向くと、コシノジュンコさんの大々出世作が展示されていました。

1960年にコシノジュンコさんが史上最年少「装苑賞」を受賞したコートです。

インバネスコートケープ部分がそのまま身頃に繋がっているような面白いデザインです。
そして、目を惹くブルーモヘアっぽいモコモコの生地と、大きな4つのボタンキュート

1950年代後半~60年代前半の装苑賞受賞作品を見ると、当時、このような大きなボタンが流行っていたみたいですな

お次は、大阪万博ホステス(今でいうコンパニオン)」の制服。

当時29歳だったコシノジュンコさんは、左からタカラ・ビューティリオン館ペプシ館生活産業館を担当。

タカラ・ビューティリオン館のユニフォームの「裏地を見てのデザインは「羽織(羽裏)」的な発想なのでしょうか?
2015年春に東京国立近代美術館で開催された「大阪万博 1970 デザイン プロジェクト」展 (観に行きました) の図録に、コシノジュンコさんのコラムが載っていまして、これが面白い

生活産業館のコンパニオンのために私がデザインしたのは超ミニのワンピースに、大きなネクタイ、足には「地下足袋風ロングブーツ」という個性的なルック。
ところがこの「地下足袋風」に問題が勃発。コンパニオンの親御さんたちから、うちの子にそんな地下足袋なんて履かせられないとクレームが入ったことから、こんな若い人にデザインを任せていいものか、問題になったそうです。(当時は良家の子女がコンパニオンに抜擢されることが多かったのです。)
そこで月星ゴムさんにお願いして《ティッパレートシューズ》(実際親指は分かれていないのですが、そんな風に見えるストレッチロングブーツです。)と、名前をつけました。とはいえ、このブーツ、今でもウケるんじゃないかしら。

足元を拡大してみましょう。

バックの写真の方がより「地下足袋」っぽく見えます

   

'70年代のGSなどアイドルグループの衣装の話はすっ飛ばしまして資生堂とのお仕事が、コシノジュンコさんも資生堂も、さすが でした。
なかでも「わおっと思ったのが、こちら「資生堂ベネフィーク」の広告群。

いずれも、モノクローム大きな写真をメインにすえて、右下に商品のカラー写真チロッと載っているデザインで、なんともキャッチー、かつ、カッコイイ
なお、この広告群、モデルは「伝説のスーパーモデル」山口小夜子さん、アートディレクションは天野幾雄さんだそうです。

   

お次の「対極」は、大阪万博のペプシ館のユニフォームの流れを汲んでいるかもしれないのですが、のコントラストが強烈です。

この漆器がモチーフになっているんですな。

なお、私、コシノジュンコさんデザインの小鉢を愛用しています。

この小鉢は、かつて、ニューヨークの近代美術館(MoMA)のミュージアムショップでも取り扱われていたと聞いたことがあります。

   

隣の展示室は、一転して、今度は

床に貼られたアルミ板(?)に反射した照明、壁や天井に揺らめく光のさざ波を造り出していて、例えようのない雰囲気が漂っていました。

このダクトのような蛇腹になった長ぁ~い袖「THE TOUR OF MISIA JAPAN SOUL QUEST」ファイナルでのダンサーさんの衣装を思い出させます

それもそのはず、この展示室にありました

「THE TOUR OF MISIA JAPAN SOUL QUEST」MISIAが着用した衣装4点が展示されていました。
が、ここから先は「#1-3」で書きます

つづき:2024/03/01 泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #1-3

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3年半ぶりの福岡旅行 #2-6

2023-04-12 18:47:54 | 旅行記/美術館・博物館・アート

そういえば、福岡旅行記2日目の途中で放りだしていた

ということで、ようやく「3年半ぶりの福岡旅行 #2-5」のつづきです

福岡市美術館の屋外展示には、ある意味お馴染みの草間彌生さんの南瓜もあるのですが、

いちばん福岡市美術館らしくて目を惹くのはこちらの作品でしょう。

「#2-5」で書いた「桜を放つ女性」インカ・ショニバレCBEによる「ウィンド・スカルプチャー (SG) II」です。

青空を背景に、アフリカン・プリント柄がなんとも心地良い

高島福岡市長インカ・ショニバレCBE連名の文章を記した銘板があって、

福岡市は古来、交流によって発展してきました。その交流は、安曇族や金印、鴻臚館、博多商人、近年ではクルーズ船と手段は変化しても、時代と共にアップデートされ、多様性を受け入れながら、都市として成長し続け、2019年、市制施行130周年を迎えました。
1979年に開館した福岡市美術館は、40年の時を経て、より開かれた美術館を目指して、多様性を受け入れながら、アートを通しての交流を生み出すために、2019年にリニューアルを行いました。交流と多様性を通じて、次のステップへと成長して行く。それが福岡市美術館の目指すFUKUOKA NEXTです。
古来、交流を象徴するのは、です。インカ・ショニバレCBEの《ウィンド・スカルプチャー (SG) II》は、この交流や多様性を表現しています。布が風にはためく形は、風を読み、風を受け、帆を張って、福岡市が次のステージへ向けて前進するイメージと重なります。
福岡市は、市制施行130周年を記念してこの作品を設置します。この作品が市民や福岡市を訪れるすべての皆様に愛される、「福岡市の顔」となることを願っています

だそうです。

ところで、インカ・ショニバレCBE「CBE」が気になりますが、これは大英帝国勲章三等勲位を持つことを示す称号。
Wikipediaによれば、

受章者は名前の後に、勲位を示す頭文字(ポスト・ノミナル・レターズ)を付すことが許される

だそうで、それは理解できますが、アーティスト名にわざわざそれを着けてるのはなぜ?
これについては、ご本人が、

やりたいのは、矛盾を表現するということだ。全然英国人らしくない私の名前に、英国の三等勲位 (CBE) という称号が付いているというのが面白いと思っている。

こちらのインタビューで語っていらっしゃいます。
やりますなぁ~

   

以上で福岡市美術館おしまい
時刻は13:30頃で、昼食を食べねば

でも、大濠公園界隈は、あまり食事できそうなところが多くはなさそうです。

そこで、とりあえずホテルに戻りがてら、中洲川端エリアで昼食を摂ることにして、こんどは地下鉄中洲川端駅まで移動しました。
そして、アーケード街をた~らた~らとホテルに向かって歩いていると、ラーメン屋さん

そうだよねぇ~、福岡に来たらラーメンを食べないとねぇ~

「長浜屋(家)」を巡って、いろいろあったことは知っていましたが、この店はあの騒動の中でどういう立ち位置の店なんだろ? まぁ、それは後で調べよう

と、食べたのですが、なんというか、可もなく不可もなしって感じ…
すぐ近くの同業他店の方の客入りが良いという事実に、なるほど…でした。

で、私が入った「長浜家」は、こちらのサイトによると、いわゆる「家2」と呼ばれる店でした。

   

遅い昼食を摂った後、ホテルの自室で小休止

そして、前日同様、呉服町から路線バスに乗ってマリンメッセ福岡A館に向かいました。
この日は間違いないバスに乗ったのですが、それでも前日同様に国際会議場・サンパレス前で降りました。トランポを見ようという趣向です。

この日は青空の下のトランポを拝見できました

このツアーで初めて「好いとっと」を、それも福岡で聴けた 福岡公演2日目の話省略しまして(「#0 MISIA編」をご参照方)終演後に飛びます

   

この日も良いライヴほっくほくのところに加えてきれいで、なんとも良い気分

福岡ポートタワーの右下金星で、右上木星です。

このあと、中洲まで歩き、遠征組の少人数でプチ・オフ会を挙行しました。
日曜夜だけあって、営業中の店がなかなか見つかりませんでしたが、全国チェーンの居酒屋で乾杯

「全国チェーン」とはいえ、地域色もあって、なかなか良かったのですが、私はとなりのグループの会話に耳を引かれました。
耳に飛び込んでくる「ことば」は、どう考えても私の故郷の方言っぽいのですよ
まさか福岡故郷の方言を耳にするとは思いもよりませんでした
老若男女のグループということは、月曜日会議 or イベントのために、秋田から前乗りしてきたグループかと想像しました。秋田から福岡まで来るのは、飛行機直行便はないので、そりゃ大変ですからねぇ

それはともかく、ライヴで声出しができて、ライヴ後には呑み会ができるようになったというのは、ほんと、うれしい

どうかこのまま COVID-19収束していきますように と、切に願ったのでありました。

と、締まったところで2日目の旅行記は完結して、3日目(最終日)につづきます。

つづき:2023/04/14 3年半ぶりの福岡旅行 #3-1 

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3年半ぶりの福岡旅行 #2-5

2023-03-25 15:10:32 | 旅行記/美術館・博物館・アート

間が空いてしまいましたが「3年半ぶりの福岡旅行 #2-4」のつづきも福岡市美術館の見聞録です。

福岡市美術館「常設展示」はなんとも盛り沢山で、「#2-4」で書いた企画展「田中千智展」のほか、「コレクションハイライト」、「九州の女性画家たち」(~3月21日)「東南アジア美術を旅する タイ、カンボジア、ミャンマー」(~4月9日)、「東光院のみほとけ」、そして「松永耳庵と同時代の美術家」(~4月2日)と、150円(JAF割引)の入館料が信じられないほどでした。
市立美術館でこんな展示を見せてくれるところって、そうそう無いと思います。

「コレクションハイライト」は、大きく2つのパートに分かれていて、一つ(2つのハイライト)は、福岡市美術館が近現代美術をコレクションするにあたっての二つの軸、「九州・西日本で展開したローカルな美術の流れと欧米中心の美術の流れ」に焦点をあてたもの。もう一つ(分かり合い、分かち合う美術)は、「多様な表現で身近な主題や感覚を掘り下げ、または社会の課題に応答する作品たち」というコンセプトなのだそうな。

「2つのハイライト」は、青木繁坂本繁二郎野見山暁治といった福岡出身の大家の作品などに対して、海外勢もシャガールデルヴォーミロダリと、相当なメンツが揃って、福岡市美術館コレクションのハイライト中のハイライトといった感じでした。
それにしても、ミロ「ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子」は、どれがどれやら… でした

「分かり合い、分かち合う美術」はちょっと散漫な感じがなきにしもあらずでしたが、これは と思う作品がいくつもありました。

まず、「え"と思ったのが、山本高之「なまはげに質問する」
この作品は、数人の子どもたちが次々と「なまはげ」に質問するというビデオ・インスタレーション(タイトルそのまま)で、まさか福岡で「なまはげ」をモチーフにした作品に出会うとは思いませんでした。

ウォーホル「エルヴィス」バスキア「無題」が向き合うように展示されていたのには、二人の関係に考えが及んで、グッと来ました。

近現代美術の展示では例外的撮影可だったのが、インカ・ショニバレCBE「桜を放つ女性」でした。

説明板を読んでへぇ~と思ったのはつぎのくだり。

本作で用いられている、ショニバレのトレードマークでもある色鮮やかな布は「アフリカンプリント」と呼ばれますが、英国やオランダで製造されたインドネシアのバティックの模倣品が19世紀末から20世紀初め頃西アフリカに輸出され、現地に受け入れられ現在の形になったという歴史があります。

アフリカンプリント欧州がアフリカに持ち込んだということは国立民族学博物館の展示で知っていましたが、そのまた根っこがインドネシアにあったとは知りませんでした

アフリカにとって「19世紀末から20世紀初め」といえば、大西洋奴隷貿易が廃止されたかと思ったら、今度は欧州諸国による植民地化が進められた時期です。また、インドネシア17世紀からWW2後までずっとオランダ(またはオランダ東インド会社)植民地(いわゆる蘭印)でしたから、アフリカンプリントは、欧州諸国をハブにした植民地間の「文化の交流」と言えるかもしれません

ただ、この色づかい、アフリカの人たちのお気に入りになって、今や「アフリカっぽい」と思われるようになったのは、結果オーライかな?

   

「コレクションハイライト」で私が気に入った TOP 2 は、キーファー「メランコリア」と、カプーア「虚ろなる母」でした。
ただ、どちらも「お持ち帰り(妄想)するにはデカ過ぎます

「メランコリア」は、鉛色爆撃機
キーファーがこの作品にこんなタイトルをつけたのは、爆撃機というおぞましい飛行機「昔、こんなモノがあったなぁ…という記憶に化す未来を望んでのことかなぁと思ったりして…

そして「虚ろなる母」
この作品、おもしろい
一見、鮮やかなブルー繭状のものを半分に切ったように見えたのですが、どうやら違います。卵の殻を半分に切ったような物体です
凹んでいるはずの内側は、手前こそ外側と同じ鮮やかなブルーなのに、奥の方は暗くてまったく見えません まるで無限∞の暗闇が広がっているみたいです
上の作品タイトルに福岡市美術館のサイトへのリンクを貼って、そこで作品の小さな写真を見たり解説を読むことができますけれど、この作品こそ、現物を拝見(体感)しないことには、その凄さは判らないだろうな…
まさしく、「百聞は一見に如かず」です。

   

福岡市美術館には松永記念館室という展示室があります。
この展示室は、

戦後の電力再編事業を通して日本の発展に寄与した松永安左エ門氏(号「耳庵」)が収集した茶道具、仏教美術など重要文化財20件を含む371点のコレクション。コレクション展示室 古美術の「松永記念館室」にて展示 (1~2か月ごとにテーマを変えて展示替え)。

というもので、益田鈍翁原三渓などと並ぶ「近代数寄者」の大物、松永耳庵のコレクションを展示するコーナーです。

何度も書いているように、茶道関係に疎い私としては、「そうか、そうか…程度の感想しか持ち合わせなかったりもするのですが、耳庵のコレクションは、行きつけ(?)東京国立博物館(トーハク)でしばしば拝見しています。

きのうもトーハクで、耳庵から寄贈されたものを観てきました。

茶室「春草廬(しゅんそうろ)」です。
トーハクの説明碑によると、

江戸時代、河村瑞賢が摂津淀川工事の際に建てた休憩所で、その後大阪に移され、明治初期は原富太郎(三渓)が所蔵していた。昭和23年(1948)、松永友左エ門氏から柳瀬荘(埼玉県所沢市)とともに当館に寄贈され、昭和34年に現在の位置に移された。

だそうで、福岡市美術館にはこの春草廬の一部が再現されていました。

掛軸は尾形乾山「花籠図」、茶道具は、伝・西村道仁「茶釜(政所釜)」志野矢筈口水指 銘「末広」清厳宋渭作の茶杓 銘「茶僧」友筒黒織部筒茶碗 銘「さわらび」盛阿弥作の黒塗中棗だそうですが、やはり私には「そうか、そうかでした

この記事を書くにあたって、松永耳庵さんの別荘「柳瀬荘」はどこにあるのだろうか?と調べたら、R254(川越街道)R463(浦所バイパス)が交差する英(はなぶさ) ICのすぐ近くでした(東武東上線柳瀬川駅からはあまり近くない)。その近くは何度も通ったことがあるぞ
外観だけなら毎週木曜日のみ無料公開されているそうなので、いつか行ってみます。

それはさておき、茶道関係にはさしてときめかない私ですが、室町時代(16世紀)に描かれたという「平家公達草紙」イイなぁ となってしまう私でした。

色彩豊かな絵巻も良いけれど、墨の線で描かれる「白描画」ってのもイイものです(こちらをご参照方)

このあと、「仙厓グッズ」豊富なミュージアムショップを眺めて、そして何も買わず、館外に出ました。
やはり、これで「入館料150円安すぎるんじゃないか? と思ったところで「#2-6」につづきます。

つづき:2023/04/12 3年半ぶりの福岡旅行 #2-6 

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3年半ぶりの福岡旅行 #2-4

2023-03-16 18:09:34 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「3年半ぶりの福岡旅行 #2-3」のつづきです。

聖福寺の次は、久しぶりに福岡市美術館に行くことにしました。
福岡市美術館で開催中の特別展は、「永遠のソール・ライター」展 (3月5日で終了)。この展覧会は、2020年2月末Bunkamura ザ・ミュージアムで観ました。私が観に行ったわずか2日後に、コロナ禍で急遽打ちきりとなったんでしたなぁ (記事)
2020年の「美術館・博物館めぐりの振り返り」TOP 3に選出するほど (記事)、とても素晴らしく、大好きな展覧会でしたけど、今回はこちらをパスして、常設展を観ることと、大濠公園をのんびりと歩くことを目的に、決めました。

まずは、上呉服町の細い道を左に右にと曲がりながら明治通りを目指しました。

碁盤の目状になっている町ですので、方向を見誤る心配はありません。
と、ラッパスイセンが咲いてる

ですなぁ~

呉服町から地下鉄大濠公園まで行くつもりだったのですが、すぐ近くにバス停があって、かつ、大濠公園行きバスが近づいてくるのが見えたので、景色を楽しめる路線バスを選択しました。とくに急いでいるわけでもありませんでしたし。
ちなみに、呉服町~大濠公園を地下鉄とバスとで比べると、
 地  鉄:260円 8~9分
 路線バス:240円 30分前後
でした。

バス昭和通りを通って大濠公園に向かいます。
途中、いかにも日銀の支店っぽい建物が見えて、スマホで地図を見ると、当りぃ~

日銀の支店の建物って、大阪支店など一部を除いて、どこも似た雰囲気を醸し出しているのはなぜなのでしょうか

   

それはともかく、呉服町から30分かからずに大濠公園に到着しました。

うららかな好天大濠公園は、日曜日とあって、家族連れで賑わっていました。

池の周りを走っている人のなんと多いこと
皇居の周りと違って、ちゃんとランニングトラックが表示されているのがヨカヨカ

の~んびりと池の周りを1/3周して、福岡市美術館に到着。

私が福岡市美術館に来たのは、2005年2月以来、18年ぶり2度目
かなりの久しぶりでしたが、観覧料は当時と同じ200円というのに驚きました しかも、JAF割引を使って、私は150円で入館いたしました

そして、18年前にもっとも印象深かった福岡市美術館のコレクションに再会

中ハシ克シゲ「Nippon Cha Cha Cha」です。
小錦ぃ~
昔、MISIAのライヴ(THE TOUR OF MISIA 2002だったはず)で出かけたさいたまスーパーアリーナで、VIP席にいる小錦さんを遠目から拝見したことがあります。一般席だったら椅子が小さすぎるし、後ろの人かわいそう…なんて考えたりしましたっけ…

さて、福岡市美術館常設展は、近現代作品は基本的に撮影禁止で、古美術品と、そして私が出かけたときに開催中だった企画展「田中千智展 地平線と道」撮影可でした。

田中千智さんというアーティストは、これまで存じ上げなかったのですが、いいじゃありませんか

フライヤーを転記しますと、

田中千智(1980年生まれ)は、2005年多摩美術大学美術学部絵画学科油絵専攻卒業後、2006年より福岡を拠点に作家活動を開始しました。アクリル絵具を使ったフラットな漆黒の背景に、艶やかな油彩で前景を描くという独自の手法を開拓した田中の作品には、笑みとも怒りともとれる人物の表情、漆黒の中にきらめく風景など、相反する要素が組み合わされ、観る者に強い印象を与え、その想像力をかきたてます。

とのこと。
冒頭に展示されていた「きょう、世界のどこか」からほぇ~って感じ。

美しい夜景なんだけれど、寂しさを感じます。
こちらの「漂う」(右)と「浮かぶ」(左) もそう。

日本画に金碧障壁画というジャンルがありますが、背景金箔漆黒に変えて、前景現代を持ってきた風があります。

この「ここにいると決めた」にも惹かれるなぁ

そういえば、フライヤーに使われている「地平線と道」は、どことなくMISIA「希望のうた」(詞:矢野顕子) の冒頭、

歩いて 歩いて 街のはずれまで来た
昨日はもう 思い出にしてきた

が頭に流れてきます

とってもキャッチーながら、観ているとストーリーが浮かぶ作品ばかりなんですが、いろんなの表紙を飾っていたんですな

それどころか、「きょう、世界のどこか」が、お気に入りの作家のお一人、沢木耕太郎さんの波の音が消えるまでに使われていたとは
沢木さんのノンフィクションは追っかけてきたつもりの私ですが、小説だから無視してた作品じゃぁ~

そこはかとなく自己嫌悪に落ち込む私でありました

この「田中千智展」は、「第1回 ホワイトウォールプロジェクト」として開催されたもの。

福岡市美術館では、2019年リニューアル時に誕生したホワイトウォール(約3.14m×13m)を舞台とした、新たな企画展「ホワイトウォールプロジェクト」を実施します。これは3年に1度、気鋭のアーティスト1組に、壁面を用いた新作を依頼し、あわせて隣接する展示室(近現代美術室 B)において、当該アーティストの個展を開催するものです。

というわけで、今年1月に完成したという「第1段階」を鑑賞できました。

作品のタイトルは「生きている壁画」で、

壁画は2023年1月に第1段階が完成しました。この後、2024年1月、2025年1月と1年ごとに加筆をおこない、画面が変化していきます。(壁画の展示は2025年12月末まで)

だそうですから、2025年末までに、少なくとももう2回福岡市美術館に来なくては

上に載せた「生きている壁画」の写真、右端が通りすがりの人隠れてしまいましたので、その部分を載せておきます。

正面を見つめるのとなりで体育座りしているのはずきんちゃん」ならぬ「青ずきんちゃん」でしょうか

福岡市美術館での見聞録は「#2-5」につづきます。

【追記】NHK福岡「生きている壁画」の制作の様子を取材していたんですねぇ。そのWeb記事こちら(2023/03/19 10:27) 

つづき:2023/03/25 3年半ぶりの福岡旅行 #2-5 

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今年も最初の遠征先は関西 #3-1

2023-02-23 21:37:58 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「今年も最初の遠征先は関西 #2-4」のつづきです。

旅行記をサボっている間に、次の福岡遠征あさってに迫っていて、こりゃイカン

というわけで、関西旅行3日目(最終日)のこと。
この日(1月29日)は、「MISIA THE GREAT HOPE」大阪公演最終日だったのですが、私はパスして、京都を観光して、自宅に帰ってきました。
旅程は「ダイジェスト」に書きましたので省略しまして、ホテルで朝食を摂ったのち、新大阪駅からJR京都線に乗って、いざ、京都へ

この日はニッポン放送「三宅裕司のサンデーヒットパラダイス」MISIA特集だというので、車中、radikoで聴いていたら、体感、あっという間に京都駅に到着しました。
まずは荷物をコインロッカーに入れて(一時期のような「コインロッカー難民」になることはなくなった感じ)11:00からの予約をしていた京都市京セラ美術館に向かいました。

ここでちょっとしたアクシデント。
今回、私は京都駅から地下鉄を乗り継いで岡崎公園まで行こうと考えていたのですが(去年1月に体験済みのルート:記事)、かなりぼ~っとしていて、なぜか市バスに乗ってしまいました。
バスでは運良く座れましたが、ギッチギチに混んでいて、乗客の乗り降りに時間がかかるし、ルート自体がクネクネしていて、なかなかなものでした

それでも11時ちょい過ぎ平安神宮大鳥居をくぐって京都市京セラ美術館に到着できました。

この美術館に来るのは12年ぶり4回目
この12年の間に大きく変貌を遂げていました (2020年5月下旬にリニューアルオープンしたらしい)

以前は、道路と同じ高さの1階入口から入館したはずですが、美術館の前が掘り下げられ、サンクンガーデンのような場所に新しい入口が作られていました

   

それはそうと、私お目当ての「 アンディ・ウォーホル・キョウト/ANDY WARHAL KYOTO」の会場、「新館 東山キューブ」ってのは何? どこ?
ロームシアター京都の隣に美術館の別館がありますが、それとは別で、本館の裏手に「東山キューブ」はありました。

この展覧会は、

ウォーホルは、1956年の世界旅行中に初めて来日し、京都を訪れました。本展では、京都とウォーホルの関係に目を向け、そのゆかりを示す貴重なスケッチなどを展示し、若き日のウォーホルの心を捉えた京都の姿に思いを馳せます。アメリカ・ピッツバーグのアンディ・ウォーホル美術館の所蔵作品のみで構成される日本初の展覧会であり、約200点+映像15作の展示作品のうち、100点以上が日本初公開作品となる本展に是非ご期待ください。

というのもので、巡回展は無し 
だからこそ行きたかったんだよね

で、珍しいことに、写真撮影可でした ただし、カメラはNGで、スマホはOK
どうしてなんだろね?

さっそく最晩年(1986)の自画像をパチリ…。

迷彩柄がなんか新鮮です。

説明板によると、

ウォーホルは、胆嚢炎の手術後の合併症がもとで早すぎる死を迎える9か月ほど前に、スケールの大きな自画像シリーズに着手している。無表情でこちらを見つめるその顔に、鑑賞者や批評家の多くは、「死を忘れることなかれ(メメント・モリ)の警句を見て取った。どの自画像でもトリミングされた頭部がキャンバスの中心に据えられ、逆立った髪の毛が光輪のごとく描かれている。縦横2m近いモニュメンタルな作品では、漆黒を背景に暗い色調や無彩色が使われ、陰鬱で幽霊のような雰囲気を漂わせている。

とあります。
迷彩柄が使われたこちらの作品(自由の女神)も素敵でした。

へぇ~と驚いたのは、ウォーホル来日したときに貯めこんだコレクションでした。

タイプされた旅程表やら、航空会社の荷物用のタグやら、ホテル備え付けのリーフレット・絵はがき・便箋やら、あちこちのリーフレットやらが、たっぷりと保存されているんです

図録によると、

壮大なコンセプチュアル・アートともいえるウォーホルの「タイム・カプセル」は、画一的ユニットにして自由形式の作品だ。すなわち、610個の段ボール箱にウォーホルが収納した多彩な品々であり、それらはおおむね資料的な側面が強い。1974年のスタジオ移転の際、荷造り目的で考案された「タイム・カプセル」にウォーホルは夢中になり、1987年に本人が亡くなるまで、日々、儀式のように続けられた。各「タイム・カプセル (CT)」には、手紙、写真、出版物、レコード、衣服、食品、薬品、玩具、骨董品、チケットの半券、ウォーホルや他のアーティストによる小作品など、平均して500点以上の品々が収められている。

だとか。
旅行中にgetしたいろいろなモノをコレクションしている我が身にも照らし合わせたのですが、平均500点以上×610箱ですから、比べものになりません

   

この展覧会のメインビジュアルに採用されている作品は、「三つのマリリン」です。

なんとなくお馴染みっぽい作品なのですが、日本初公開なのだそうです。
「いかにもウォーホル」ですし、きっと出版物やTVその他で観たんでしょうねぇ。
なお、作品名のオリジナルは、「Three Marilyns「Marilyn」が複数形になっています

「いかにもウォーホル」といえば、こちらとか、

「ダブル・エルヴィス」なんかもそうですな。

そしてこちらは、シルベスター・スタローンアレサ・フランクリン、そして坂本龍一と、多くの人が知っている方々の肖像です。

一方、ちょっと意外で、ひょえ~と思ったのは、「ハンマーと鎌」シリーズでした。

「ハンマーと鎌」といえば、言わずと知れた赤旗と並ぶ共産党のシンボル。

ハンマーと鎌ウォーホルに政治的な意図があったのかと思いきや、説明板によると、

「ハンマーと鎌」シリーズが制作されたのは、1976年のイタリア旅行の後である。旅行中、公共の場で目にする落書きといえば、旧ソビエト連邦の国旗に取り入れられたこのシンボルだった。共産主義体制下で、ハンマーと鎌は、工場労働者と農民の団結を意味していた。第二次世界大戦後、民主主義国となったイタリアの街で見られたこのシンボルの落書きは、政治的というよりポップなものとしてウォーホルの目に映ったようだ。アメリカに帰国後、ウォーホルはアシスタントのロニー・カトロンに頼んで、このシンボルの写真を探し始める。本や雑誌に載っていた写真はどれも、ソ連の国旗にあったような平板なシルエットで、ウォーホルが求めるイメージではなかった。カトロンは、近所の雑貨屋で似たようなハンマーと鎌を購入し、それらをさまざまに配置して写真に収めた。ウォーホルは、カトロンの写真を使って、この絵画シリーズを制作したのである。

ですって

僕のことを知りたければ表面だけ見ればいい
裏側には何もないから

と語ったウォホールですものねぇ。
でも、「ハンマーと鎌」ポップかなぁ

   

最後に紹介するのは、縦約3m×横約10mもの超大作「最後の晩餐」です。

ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」をモチーフにした作品なんですが、なんでバイク? 「699って何?  「THE BIG C」とは?

 「THE BIG C」「C」「Christ」のことかと思ったら、説明板では

新聞の見出し「ビッグC:がん治療に効く心構え」から取られたもので、ウォーホル自身の死に対する恐怖が示唆されているだけでなく、イエス・キリストに対する遊び心のある呼び名でもあるのだろう。

だとか。
NHK 日曜美術館では「当時「A Cancer」と呼ばれたエイズを意味している」としてましたけど、いろんな見方があるものですな

   

しっかりと展覧会を楽しんで館外に出ると、雪化粧した比叡山が見えました。

この時点で時刻は12:00ちょい前。
15:00ちょい過ぎの座席指定している新幹線までは約3時間あります。さて、どうしよう…

しばし考えた結果、これまで2度にわたって見送った東福寺に行ってみることにしました。
岡崎公園からなら、三条駅から京阪電車乗り換えなしで行けます

というところで「#3-2」に続きます。

つづき:2023/02/24 今年も最初の遠征先は関西 #3-2 

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今年も最初の遠征先は関西 #2-2

2023-02-08 22:41:18 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「今年も最初の遠征先は関西 #2-1」のつづきです。

さぁ、「太陽の塔」内部観覧の目玉ともいうべき「生命の樹」です。

なんとも岡本太郎造形です

リーフレットを引用しますと、

太陽の塔の胎内には、地下から上へ上へと伸びる前代未聞のオブジェがそびえています。岡本太郎が構想した高さ41メートルにおよぶ巨大造形<生命の樹>です。天空に伸びる1本の樹体に、単細胞生物からクロマニョン人まで、生物進化をたどる33種もの“いきもの”がびっしりと貼りつく独創的なインスタレーションで、世界にも類がありません。
万博当時、テーマ館は地下展示「過去:根源の世界」からはじまり、このドラマティックな空間体験へと誘われました。地下空間からアプローチしてきた観客たちは、エスカレーターを乗り継ぎながら、始原のときから営々とつづく“生命のものがたり”を間近に見ていったわけです。

です。
万博当時は、最初の部分だけ階段を上り、そこから4基のエスカレーターを乗り継いで、右腕の中のエスカレーター大屋根に出るというルートで、所要時間はたった5分だったそうですが、現在は、エスカレーターは重量軽減のため取り外され、高さ30メートルまで、5つの階段 (145段)で登りながら鑑賞し、別の階段(避難階段のようにほぼひたすら下るだけ)で地上に降りるようになっています。でも自分のペースで上れる階段ですから、万博当時とは比べものにならないほどゆっくり生命の樹を鑑賞できました。

2010年7月に秋田市立千秋美術館で観た「岡本太郎展 太陽の塔への道」には、生命の樹復元模型と、

太陽の塔内部の復元模型が展示されていて、

なんとなく雰囲気をイメージしていた私です。

ですが、やはり現物、というか実物大の復元を目の当たりにすると、ビリビリするような刺激が伝わってきました

太陽の塔は、とんでもない外観をしていますが、内部もまたとんでもない

ちょっと先を急ぎすぎました

写真撮影可1階で、思いっきり写真を撮りました。
まずは、生命の樹の根元、「原生類時代」

ネバネバしてそうなポリプとか、のようなウミユリとか、サルバドール・ダリワイングラスを設計したらこうなりそうなべんもう虫とか、なんとなくMISIA「希望のうた」のMVを連想してしまいます。
見上げるとクラゲもいるし…

撮影禁止になる階段の一歩目の前に、最上部を見上げてみようと思いましたが、カメラではうまくとらえられませんでした

「岡本太郎展 太陽の塔への道」で観たカットモデルだと、

腕の上から首元(?)まで、こんなラジエーターみたいな構造になっているらしいのですが、下から見上げると、ふにふにした層がどこまでも上に連なっている感じ
なんとなく日本武道館天井とも似た雰囲気でもありました。

こんなところで、カメラをバッグにしまい、階段を昇り始めました。

生命の樹は、下から「原生類時代」⇒「三葉虫時代」⇒「魚類時代」⇒「両生類時代」⇒「はちゅう類時代」⇒「哺乳類時代」と、現在に近づいてきます。

もう一度、リーフレットから引用します。

<生命の樹>は下から上に向かって原生類から哺乳類へと進化していきます。しかし、アメーバは下等で人間が最上級、と訴えているわけではありません。表しているのは、根源から未来に向かってふきあげる「生命のエネルギー」です。<生命の樹>は単純な「生物進化模型」ではないのです。

そうだろうねぇ 大阪万博のテーマ「人類の進歩と調和」に、「人類は進歩なんかしていないとイチャモンをつけたというあの岡本太郎ですから、「生物進化模型」なんて創るはずもありません

それにしても、1960年代末期の日本はなんというとんでもないものを創ったんでしょ
発想した岡本太郎凄いけれど、そのアイデアを認めて、ヒト・モノ・カネをつぎ込んだ国・事務局凄い

そのエネルギーは、現代の観覧者たちにも伝わっているようで、階段を上っている最中も、見終わって地上に降りてからも、みんなニコニコでした。

見学エリアの最上部まで行くと、大屋根へのエスカレーター(右腕)と避難階段(左腕)が設けられていた両腕の内側を見られました。
これがまた、ときめかせてくれました

この空間を、エスカレーターに乗って、未来を象徴する大屋根に移動したなんて、万博の来場者はさぞかしワクワクしただろうな…

その太陽の塔腕の内部こちらのサイトからちょいと写真を拝借します

この「日本文化情報発信サイト IHCSA Cafe」の記事には驚く話が多いのですが、中でも極めつきは、

最終的に地面から腕の下までを大きな1階とみなして、地下1階・地上2階建ての「準耐火建築物」とした。

という話
あれが「地下1階・地上2階」ですと

というわけで、階段を下り、ミュージアムショップで「岡本太郎傑作選」という、太陽の塔を含む岡本太郎6作品のどれかが入っているという、いわばガチャガチャ(880円)を買って、外に出ました。

そして、見上げると…、

ずいぶん階段を上って下りた気がしていたのですが、あそこ(腕の位置)までしか上っていない

ちょっとショックでした

でも、次の行動を考えながら、ベンチに腰掛け、「太陽の塔…、太陽の塔…念じながら「岡本太郎傑作選」のパッケージを開けると、

やったぁ~ 

太陽の塔です

おそらく、「6作品のどれか」でも、場所柄、「太陽の塔」比率が高いんでしょうな
なにはともあれ、これはうれしい

さて、太陽の塔の内部観覧に要したのは30分弱で、まだ正午にもなっていません。
朝食をしっかりと摂ったこともあって、まだおなかもすいていません
さぁ、どうしましょか…

そういえば、EXPO'70 パビリオン国立民族学博物館は何度か見学したけれど、大阪日本民芸館には一度も行ったことがない…。
よし、大阪日本民芸館を見学しよう と決め、ベンチから立ち上がりました。

というところで、「#2-3」につづきます。

つづき:2023/02/11 今年も最初の遠征先は関西 #2-3 

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