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新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

福岡遠征2025 #3-3

2025-06-26 11:25:13 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「福岡遠征2025 #3-2」のつづきです。

まだまだ尾を引く太宰府天満宮仮殿でありまして、

無料配布リーフレット「筑紫路 ロマンの散歩道 だざいふ」(よくできてます)から転記しますと、

令和5年(2023) 5月から約3年間という御本殿大改修期間に限り、御神霊(おみたま)が御本殿からお遷りになる場所として、建築家・藤本壮介氏の設計で、御本殿前に特別な「仮殿」が建てられております。
御祭神 菅原道真公を慕い京より一夜にして梅が飛んできたという飛梅伝説に着想を得て、豊かな自然が御本殿の前に飛翔し、仮殿としての佇まいを作り上げることをコンセプトに、藤本壮介氏によって設計されました。

とのこと。
まさしくコンセプトそのまま「仮殿」生きています
竣工すれば「おしまい」ではなく、屋根の上の草木が、季節を写し、約3年間という短期間ながら、草木成長する変化を楽しめるのですから。

ちなみに、藤本壮介さんは、大阪・関西万博会場デザインプロデューサーで、かの大屋根リングを設計した、今をときめく建築家です。

太宰府天満宮宝物殿では、

「藤本壮介展 太宰府天満宮仮殿の軌跡」が開催中で、私としては興味津々だったのですが、

この日は「月曜日」ということで、宝物殿休館日にあたっていました
ちなみに、元旦開館している希有な博物館、九州国立博物館休館日でした。

もし、この日、九州国立博物館に行けていれば(常設展は東博の「友の会」会員証を使って無料で観られた)、5月だけ東京・奈良・京都・九州の4国立博物館すべてに行くという「快挙(?)」達成だったのに…

まぁ、九博「また今度で済みますが、「藤本壮介展」の方は、会期が8月末までだそうで、こちらを観る機会はほとんど無さそうです。
もし私が8月16日に長崎で開催される「MISIA CANDLE NIGHT 2025 LIGHT OF PEACE – 80th Year –に行くのだったら、その帰りにでも立ち寄る策もありましたけれど、このタイミングは「お盆帰省の最中なのです

でも、「捨てる神あれば拾う神あり」で、この記事を書いている途中、森美術館「藤本壮介の建築」展が開催されることを知りました。

会期は7月2日(水)~11月9日(日)となかなか長いし、会期中無休だそうなので、これは行かねば
ただ、会期が長いと「そのうちに…」となって、気づくと終わってた という経験もありますので、これだけは注意しておきましょ

   

宝物殿近くの参道沿いに、麒麟(うそ)の銅像が立っています。

麒麟の方は、某ビールのラベルのようなリアル(想像上の霊獣に「リアル」はないとは思う) な感じですが、「鷽」の方は、

斬新というか原初的というか、リアルとはほど遠い造形です。

この鷽像が造られ、寄進されたのはいつなのかというと、台座に刻まれていた文字によると、

 嘉永五年 壬子二月吉日

とな。
「嘉永5年」は、西暦だと1852年で、明治天皇の生年にして、ペリー来航の前年にあたります。
まさしく「幕末の始まり」ですが、そういう時期にこんなにデフォルメされた鷽像が造られたなんて、なんか凄い

いや、もしかしてこの像のモデルは小鳥のウソではなく、「鷽かえ神事」に使われる木彫りの鷽かも… うん、そっちの可能性が高いな…

   

絵馬殿の前で「猿回しが行われていました。
宝物殿九博お休み「手持ち無沙汰」になった私は、しばし「猿まわし」を見物しました。

私が「猿まわし」を見物するのは、2023年2月湯島天神にお参りしたとき以来のこと。
あのときの「猿まわし」(楽しかった)と比べると、お猿さんの芸は未熟(見るからに子猿)だし、おじさんしゃべりもあまり面白くなく、かなり見劣りするものでした
それでも、タダ見は失礼なので、おひねり500円だけザルに入れました。
湯島天神のときは快く1000円を拠出したんだけどねぇ…

この時点で時刻は11:30
福岡空港に向かうにはまだ余裕ありすぎます
さて、どうする? と考えた時に思い出したのは、太宰府に来る途中、バスの車窓から見えた気になる建物でした。

よし、そこに行ってみよう

となったところで「#3-4」につづきます。

2025/06/27 福岡遠征2025 #3-4 

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大阪・奈良・京都のハシゴ旅 #3-4 [完結編]

2025-06-14 12:22:50 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「大阪・奈良・京都のハシゴ旅 #3-3」のつづきも「日本、美のるつぼ-異文化交流の軌跡-」展@京都国立博物館(京博)の見聞録です。

気がつけば、私が「大阪・奈良・京都のハシゴ旅」に出かけたのは5月14-16日だったわけで、早くも1か月が経とうとしています。
早いなぁと思う反面、そのあと、宮城と福岡に遠征して、MISIAのNew Album「LOVE NEVER DIES」を買って、日本武道館 3 daysに行って、自宅ではブログ記事のWord化&ハードコピーに精を出し、さらにブログ記事を書きまくってきたわけですから、かなり濃い1か月でもあったという気もしています

それはさておき「美のるつぼ」展の振り返りです。

「美のるつぼ」展の構成(章立て)は、こんな風になっていました。

プロローグ 万国博覧会と日本美術
第1部 東アジアの日本美術
トピック 誤解 改造 MOTTAINAI
第2部 世界と出会う、日本美術
エピローグ 異文化を越えるのは、誰?

なんだかエピローグ「誤解 改造 MOTTAINAI」が異彩を放っていますが、「#3-3」で書いた「獅子・狛犬」はこのコーナーに展示されていたものです。
そして、「MOTTAINAI」の極みだと思ったのが、「唐物茄子茶入 付藻茄子」(中国・南宋~元時代 13~14世紀) でした。
この「付藻茄子」は茶器として最上級「大名物」に格付けされた茶入で、こちらで書いたように、

足利将軍家山名豊重[中略]松永久秀織田信長豊臣秀吉有馬則頼豊臣秀頼徳川家康藤重藤元今村長資岩崎彌之助岩﨑小彌太静嘉堂

と蒼々たる面々の手を経ただけでなく、本能寺の変焼かれ(経緯は不明ながら救出)、大坂夏の陣では粉々になったものの、大坂城の焼け跡から探し出した破片を藤重親子がつなぎ合わせて復原したといういわくつきの茶入です。
私にとっては2年半ぶりの再会でした。

また、「五彩蓮華花紋呼継茶碗 銘 家光公」という茶碗は、

複数の茶碗の破片を繋ぎ合わせて一碗に仕上げた五彩の赤絵茶碗

です。名称にある「呼継」というのが、こちらにあるように「欠けた部分に別の器の破片を組み合わせる」手法です。

このコーナーには、こちらで書いた、

足利義政がこの茶碗を所持していた時、ひび割れてしまい、「これと同じのを注文したい」と中国に送ったところ、「こんな名品は今の明(みん)にはない」と、鎹(かすがい)で止めて送り返されてきたと伝えられる南宋時代(13世紀)の名品「青磁茶碗 銘 馬蝗絆 (ばこうはん)

があってもよかったんじゃないかと思ったりして…

一方、「第2部」で展示されていた尾形乾山「色絵氷裂文角皿」も、「呼継」に見えますが、こちらは、

中国・清時代によく用いられた氷裂文の意匠を取り入れ、多彩な彩色を施した角皿

だそうな。
「呼継」ではなく、彩色でモザイク状にしているわけで、なんとも現代的でオシャレな角皿です

   

この展覧会で唯一撮影可だったのが、「出たぁ~だったこちらでした。

「十八羅漢坐像のうち羅怙羅尊者像」(笵道生作、1664年、萬福寺)です。

「羅怙羅(らごら)尊者」は、こちらで書いたようにお釈迦さまの一人息子で、

彼の顔は釈尊に似ておらずかなり不細工だったようです。
そんな噂を聞いた羅睺羅は「顔は不細工でも私の心は仏である」と言って胸を開けて見せたという。

という「ひやぁ~なエピソード(?)をお持ちの「尊者」

こんなインパクトありまくりの像が唯一「撮影可」だなんて

でも、この像が「禅―心をかたちに―」展@東京国立博物館に出陳されたとき、フォトスポットになっていたのが、この「羅怙羅尊者像」顔ハメパネルだったことに比べればまだマシかも…

この顔ハメパネルは、私が実際に見た中では、EXPO'70パビリオン(万博記念公園内)の「太陽の塔」(記事)、韮山反射炉(記事)と並ぶ珍品顔ハメパネル」TOP 3です

腹を割って見せていたのが「羅怙羅尊者」なら、顔を割って見せていたのが「宝誌和尚立像」(平安時代・12世紀、西往寺)でした。

日経の記事(写真あり)を引用しますと、

中国の南北朝時代に活躍した伝説の僧、宝誌和尚(418~514年)の姿をあらわしたものである。
仏教を崇拝したことでよくしられる梁の武帝が、画家に命じてその肖像を描かせようとしたところ、みずから顔を裂いて下から観音の姿をあらわし、それが自在に変化したので、ついに画家は描くことができなかったというエピソードにもとづいている。

だそうで、画家たちが描けなかったのは、宝誌和尚の顔が自在に変化したからなのか、単にビビってしまったのか、どちらなんでしょうか?

   

最後は、ボストン美術館から何度目かの里帰りを果たした「吉備大臣入唐絵巻」(平安時代 12世紀後半)。

この絵巻は「ボストン美術館 日本美術の至宝」(私は東博と大阪市立美術館で2度観た)の図録によれば「複数の画家の手になる工房による制作である可能性が高く」だそうで、その内容は、

遣唐使として唐へ渡った奈良時代の学者・吉備真備(695-775)が、唐で客死した阿倍仲麻呂の霊(幽鬼)の助けを借り、唐人から出される難題に不思議な力で立ち向かうという「吉備大臣入唐絵巻」
単なる吉備大臣の冒険譚としてだけでなく、日本に「囲碁」をはじめとする唐の優れた文化が伝わった所以を説く物語になっている。

というもの。
この絵巻の大きな魅力は、破天荒なストーリーだけでなく、描かれている人物「ほとんどマンガ」であることです。
もう楽しいったらありゃしない

   

ということで、約2時間「美のるつぼ」展を見終え、これでこの「大阪・奈良・京都のハシゴ旅」満願成就です

このあとは、路線バスに乗って京都駅前に戻り、地下街でカレイの塩焼きのランチを食べ(見た目はちょっと貧相だけれど 美味しかった)、

そして予約済みの新幹線に乗って(新しいスマホで改札口を無事に通過)帰宅しました。

大いに肝を冷やし、かつ大きな出費を伴う大トラブルに見舞われた旅行になりましたが、だからこそ記憶に残ることになりそうです。

「めでたしめでたし…」ではなく、あんまりめでたくなし、あんまりめでたくなし…

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大阪・奈良・京都のハシゴ旅 #3-3

2025-06-14 06:17:28 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「大阪・奈良・京都のハシゴ旅 #3-2」のつづきです。

「#3-2」を書いているとき、京都国立博物館(京博)「日本、美のるつぼ-異文化交流の軌跡-」展のサイトへのリンクを貼ろうとしたら、「相互割引」という記述が目に止まりました。

これによると、「超 国宝」展@奈良国立博物館か「日本国宝展」@大阪市立美術館のチケット(半券も可)を京博のチケット販売窓口で見せると、100円引き当日券を買えるというもの。(もちろん、逆パターンもOK)
ただし、

公式オンラインチケットや各プレイガイドでは、相互割引を適用したチケットは販売しておりません。

だそうで、私の場合、東京国立博物館の友の会会員証を使って京博の当日券を200円引きで購入することを断念して、オンラインチケットを買ってしまった前日の段階で OUT でした

今週末、この3展のいずれかに行かれる方は頭にとどめておいてもイイかも…。
但し、当日券売場の行列凄いよ、K.I.T。

   

さて、私は、愛用のバッグに必ず入れているものがありまして、それは、超軽量折り畳み傘、メモ帳、ペンケースの3点。そして、ペンケースの中には、3色ボールペン、小さな定規、キャップ付きの鉛筆、鉛筆削りを入れています。
だいたいどこの博物館・美術館でも、館内で使える筆記具は鉛筆に限定されているもので、館内撮影禁止の場合は、鉛筆出品目録メモ帳にちょこちょこっとメモしています。

このブログを書くにあたって、京博でのメモを見たら、字がメロメロで読めない
しかも、どの作品についてのメモなのかも、パッと見、判らない

それでも、メモ出品目録とをじっくりと見比べたところ、大半はなんとか判別することができました

ということで、このメモを元に、「美のるつぼ」展の振り返りをつづけます。

   

メモの最初は、京博が所蔵する鎌倉時代の「獅子・狛犬」の説明文でした。
なんとも「獅子・狛犬」が好きなもので…

開口する獅子と、頭上に角を有し閉口する狛犬の一対である。
獅子と狛犬の組み合わせは日本独自のもので、本来、狛犬は中国の空想上の霊獣・(じ)の姿であったという。
仏教では仏前に守護獣として獅子一対を配するが、獅子・狛犬もその影響を受けて左右対称の獅子の姿であらわされるようになった。

だそうです。
へぇ~ でした。「兕」なんて初めて聞きました
写真が少なくて寂しいので、昔、日光東照宮で観た徳川家康公の墓所を鎮護する獅子・狛犬の写真を載せておきます。

 お次のメモは、現代で言えばパイプ椅子のように折りたたみができる椅子、「木彫交椅」(17世紀のオランダ製)についてのもの。

教会にはまだ常設のベンチがなかった頃、裕福な人々はこうした椅子使用人に持たせて通った

これまた「へぇ~です。
そして、こうした輸入品をベースに日本国内で作られた「交椅」(花唐草蒔絵螺鈿交椅:右の写真)が、いかにも輸入品っぽく良くできているのが、日本だなぁと思うわけで…

また、その後の日本の「加工貿易」に繋がったのではないかと思ったのが「草花蒔絵漆皮楯」でした。

オランダ東インド会社の記述によれば、装飾前の皮盾を日本に送り、漆塗りと蒔絵を施した高級品で、大ヒットした。

だそうです。
「皮の盾」と聞くと、「ドラゴンクエスト」安い武器を思い出してしまう私です

   

「かるた」の語源はポルトガル語「carta」だそうな。
16世紀後半から江戸幕府が鎖国(=ポルトガル排除)政策を採るまでは、交流・貿易の主要な相手国だったポルトガル「カルタ」だけでなく、鉄砲とその構成技術のネジ、さらには小麦粉を使った「てんぷら」など、ポルトガル人が日本に伝えたものはなかなかなものがあります。
で、「天正カルタ蒔絵大鼓胴」という大鼓(おおつづみ)」の胴が展示されていました。
説明板曰く、

カルタ文様は、実は、博打を打つ鼓を打つにかけた調子のよい洒落なのだ

だそうな。
外国人には通じない「洒落」ですな

ここで、「おおっ?」と思う絵画に出くわしました。
それは「これは秋田蘭画だよなと思った「岩に牡丹図」で、案の上、秋田蘭画で、作者は久保田藩士田代忠国
秋田蘭画にかかわる重要人物としては、平賀源内(1728-1779)、小田野直武(1750-1780)、第8代久保田藩主佐竹義敦(曙山)(1748-1785)、佐竹北家(角館)の佐竹義躬(1749-1800)、そして、田代忠国(1757-1830)なんぞがいらっしゃいます。
「岩に牡丹図」は、田代忠国だけでなく、佐竹曙山も小田野直武も描いていますので、「秋田蘭画の定番画題」だったのかもしれません。
なお、大河ドラマ「べらぼう」に登場している朋誠堂喜三二こと平沢常富(1735-1813)も、彼らと同時代を生きていた定府(江戸藩邸常駐)の久保田藩士です。前記の何人かとは面識があったんでしょうねぇ。

この秋田蘭画なんかは、この展覧会のサブタイトルになっている「異文化交流」「美のるつぼ」から生み出したものだと思いますが、融合ではなく「混じり合ってるなぁ」と思ったのが、祇園会鯉山の飾り(見送)「アポロン像を礼拝するプリアモス王とヘガベー図」でした。
「鯉山町衆」のサイトによると、

前懸、胴懸二枚、水引二枚、見送は16世紀にベルギーのブリュッセルで製作された一枚の毛綴(タペストリー)を 裁断して用いたもので、重要文化財に指定されています。昭和57年(1982)からはタペストリーの復元新調事業が始まり、現在は復元新調品を用いて巡行に参加しています。

だそうです
1100年以上つづく伝統行事(祇園会)の山鉾の飾りに舶来ものを使う、しかもその題材はギリシア神話だというのですから、この時空を超えたスケールのデカさ
松尾芭蕉俳諧の真髄とした不易流行(いつまでも変わらない本質的なもの[不易]を大事にしつつ、新しい変化[流行]も取り入れる)極みのような気がしました。

こんなところで「#3-4」につづきます。

つづき:2025/06/14 大阪・奈良・京都のハシゴ旅 #3-4 [完結編] 

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大阪・奈良・京都のハシゴ旅 #3-2

2025-06-13 12:31:56 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「大阪・奈良・京都のハシゴ旅 #3-1」のつづきは、「日本、美のるつぼ-異文化交流の軌跡」展@京都国立博物館(京博) の見聞録です。

京都国立博物館に入場した私は、「美のるつぼ」展を観る前に、庭園内の喫煙所で一服

この近くに、見慣れない薄紫色の花を咲かせている木がありました。

銘板によると「センダン」とな

有名な格言「栴檀は双葉より芳し」センダンですな
この格言は「大成する人は幼少のときからすぐれている」という意味で、「二十歳過ぎればただの人とはまったく逆。世の中では、どちらのケースのほうが多いのでしょうか
それはともかく、センダンの花ほとんど香らないということを知りました。

「寄り道」はこの辺にしまして、京博平成知新館で開催中の「美のるつぼ」展です。

「日本国宝展」@大阪市立美術館と同じく「大阪・関西万博開催記念」と銘打ったこの「日本、美のるつぼ-異文化交流の軌跡-」展のコンセプトは、

古くから、日本列島では海を介した往来によって異文化がもたらされ、その出会いのなかでさまざまな美術品が創り出されてきました。
その作品のひとつひとつが豊かな交流の果実であり、いうなれば日本という「るつぼ」の中で多様な文化が溶け合って生まれた奇跡なのです。
本展は、弥生・古墳時代から明治期までの絵画、彫刻、書跡、工芸品など、国宝18件、重要文化財53件を含む約200件の文化財を厳選し、日本美術に秘められた異文化交流の軌跡をたどります。

というもので、フライヤーでは「オールジャンル展覧会!」とうたっています。

そして、展覧会のエピローグは、大阪・関西万博開催記念だけあって、「万国博覧会と日本美術」
これが「世界に見られた日本美術」「世界に見せたかった日本美術」二つのパートに分かれているのが、なかなか上手い

明治初年、西欧が幅を効かす国際社会に日本がデビューするにあたって、日本政府や美術界は、どんな美術品をアピールするのが効果的なのか、改めて日本の美術史を振り返って検討したんでしょうな。
そして「世界に見せたいと思った作品が、実際に西欧でウケればうれしかったのでしょうし、「え? これがウケるのか?と、目からウロコが落ちるケースもあったのでしょう。

そして、その後者の代表格「浮世絵版画」だったのだと思います。

庶民が、かけそば一杯程度の値段で入手して、手にとって鑑賞していた「浮世絵版画」「ジャポニスム」発端になり、西欧の芸術家たちに賞賛・愛玩され、さらに彼らにインスピレーションを与えることになるなんて、このことを予想していた政府関係者や美術界の重鎮たちはどれだけいたことか…。

展覧会に出品されていた浮世絵版画は、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」から神奈川沖浪裏(展覧会のメインビジュアルの一つでもある)」「凱風快晴」「山下白雨の3枚でした。
私が観た「前期」は、山口県立美術館所蔵のものだったのですが、あれほどきれいに色が残っている「冨嶽三十六景」はそうそうあるものではありません眼福でした~

一方、見せたかった日本美術」として展示されていたのが、俵屋宗達「風神雷神図屏風

この作品は、三十三間堂風神雷神像がモチーフになっているそうですが、その迫力を引き継ぎつつ、どこかしらユーモアが加えられているようで、なんともイイ

雷神:遅いぞ、風神
風神:ごめ~ん ちょっと準備にてまどってしまって…

などという会話が聞こえるようです。
それにしても、二神の間にど~ん空白が空き、メインの二神像の一部が画面からはみ出しているこの構図は、当時の西欧の人たちにとってはさぞかし衝撃的だったんだろうな

なお、これを模写(?)した尾形光琳の「風神雷神図屏風」では、風神の衣の端画面外ですが、雷神の太鼓上端まで画面内に描かれています。
この光琳版「風神雷神図屏風」裏側に描かれたのが、酒井抱一「夏秋草図屏風」で、こちらは6月3~15日の2週間だけ「美のるつぼ」展で展示されています。

きのう、東京国立博物館に出かけ、ミュージアムショップを覗いていたら、現在は別々の屏風に仕立てられている光琳版「風神雷神図屏風」と「夏秋草図屏風」を、かつてのように裏表にした「ミニ屏風」が販売されていました。
この「ミニ屏風」は、どちらをに飾ってもちゃんと屏風(ΛΛ)になるように、なかなか凝った作りになっていました。お値段は約2万円

まだ「美のるつぼ」展プロローグから出られていませんが、「#3-3」につづきます。

なお、関西の巨大特別展3展は、あさって16日(日)千穐楽です。

東博「蔦重」展「浮世絵現代」展もあさってが千穐楽ですから、この週末は、4館とも大混雑だろうな…。
行こうと思っていらっしゃる方は、あらかじめ覚悟した方がよいかと存じます。

つづき:2025/06/14 大阪・奈良・京都のハシゴ旅 #3-3 

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大阪・奈良・京都のハシゴ旅 #3-1

2025-06-12 21:59:47 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「大阪・奈良・京都のハシゴ旅 #2-4」のつづき、今回の関西旅行の3日目(最終日)のお話です。

この日の朝奈良のホテルで目覚めた私が、まずやったことは、新しいスマホモバイルSuicaが稼働しているかを確認することでした。

すると、デポジットに「6,161円」が入っていました
でも、JR奈良駅改札を通過できるか、JR京都駅新幹線改札を通過できるか、まだ心配…。まぁ、これはそのときになってみないとね…。

ところで、私がスマホ壊す遠因になったこのホテルの「温泉(温泉にしてみれば言いがかりである)、前夜は、部屋のモニター混み具合を見たところ「なかなかすかないぁという状況が続きで、かつ、私は精神的にまいっていたもので、簡単に部屋のシャワーで済ませました。
そして、「きょうは朝風呂とモニターを見ると、「あれまぁ、昨夜よりもずっと混んでる」で、朝風呂断念しました。
よくよく私はこのホテルの温泉と相性が悪そうです

ところで、「#2-4」にも載せた、私の部屋に飾られていたこの

が書かれているのだけれど、どんな歌なんだろ? (なかなか読めない)
これを放っておく私ではありませんで、読める部分「うべもきまさじ梅の花」を頼りに調べてみました

すると、簡単に見つかりました

これは万葉集に載っている紀子鹿 (きの おしか)の歌で、

闇ならば うべも来まさじ 梅の花 咲ける月夜に 出でまさじとや

奈良県立万葉文化館の訳によれば、

闇の夜ならば、なるほどいらっしゃらないでしょう。
梅の花も美しいこんな月夜においでにならないといわれるのですか。

だそうです。

恋の歌ですなぁ~。いや、片思いの歌かな?

   

朝食は、ようやく3食目にして、奈良漬や三輪素麺など奈良らしい食事をいただきました。

そして、9:15頃にホテルをチェックアウトして、JR奈良駅へ。

そしてそして、無事にモバイルSuica改札を通過できました

9:37発のみやこ路快速に乗り、京都駅には10:21に到着しました。
帰りの新幹線京都駅 14:21発ですから、ちょうど4時間あります。
さっそく、八条口のコインロッカーに荷物を預けて、京都での行動を開始

この日のメインの目的地、京都国立博物館(京博)までは、路線バスを使うことも考えましたが、バス停には例によって行列ができていて、乗車まで「15~20分待ち」の掲示が出ていました
大嫌いな行列「15~20分も並んで、混み混みのバスに揺られるだろうことや、京博までの道が平坦だということを考えれば、歩いて行こう となりますな
歩いて20分ちょっとで行ける距離ですし、天気も良好ですし…。

テクテク歩いて行くと七条河原町の交差点で、なかなかな建物を見かけました。

「七条通り」の表示板がなければ、京都っぽくないというか日本っぽくもない
それはそうと、左右の建物2棟意匠が似ていて、もしかすると、真ん中の看板とシャッターの1階建ての建物の部分にも、同じような意匠の3階建ての建物が立っていたのかもしれませんな

さて、この辺りから「洛外」に出まして(東側の洛中・洛外の境界は鴨川ではなく、西側の境界同様に御土居のあった場所で、七条辺りだと鴨川のけっこう西)、さらに、「志ちでうおほはし(七条大橋)で鴨川を渡ります。

鴨川を渡ると、10分もかからず京博に到着しました

ありゃぁ
2日前の大阪市立美術館(記事)や前日の奈良国立博物館(記事)のような当日券を求める人たちの行列が無い

いや、いいんですけど、結果的に、私は「行列回避」のために 200円ムダに使ってしまった…

ちょっと複雑な気持ちのまま、電子チケットを提示して、京博に入場しました。

上に載せた写真は、京博明治古都館(本館)です。

私が明治古都館(本館)での展覧会を観たのは、2004年2月(21年前)、「THE TOUR OF MISIA MARS & ROSES」大阪ドーム公演への遠征の際に観た「アート・オブ・ザ・スター・ウォーズ展」最初で最後です。

これというのも、明治古都館は、「改修工事に向けた埋蔵文化財の調査などを行うため」として、2015年8月から休館中
それから10年近く経った今年のゴールデンウィーク(4月29日~5月6日)に、「特別公開」されたようですが、いつ「復帰」するのかは不明なままです。

同じ片山東熊の設計による奈良博・仏像館(1894年)や

東博・表慶館(1908年)では

こうした話を聞かないのに、1895年竣工明治古都館休館が長引いているのはなぜなんでしょうか

と、考え込んだところで「#3-2」につづきます。

つづき:2525/06/13 大阪・奈良・京都のハシゴ旅 #3-2 

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大阪・奈良・京都のハシゴ旅 #2-2

2025-06-06 13:23:47 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「大阪・奈良・京都のハシゴ旅 #2-1」のつづきは、「超 国宝 祈りのかがやき」展@奈良国立博物館(奈良博)の見聞録です。

前日の「日本国宝展」@大阪市立美術館では、最初の展示室でものの見事に「掴まれた」(記事)、この展覧会はどうなのだろうワクワクドキドキしながら会場に入りました。

すると、待っていたのは、中宮寺「菩薩半跏像」と共にこの特別展のメインビジュアルに起用されている法隆寺「観音菩薩立像(百済観音)」でした

私にとっては、2016年9月に法隆寺大宝蔵院でお目にかかって以来、約8年半ぶりに目の当たりにする百済観音は、やはり大きくて、存在感があって、そして、なんとも優しいお姿でした。

そして、百済観音をお守りするように立っているのは、いつもなら法隆寺金堂で御本尊の釈迦三尊像をお守りしている四天王のうち広目天と多聞天でした。

この四天王もまたイイのですよ
普段の「職場(定置場所)」は、金堂と大宝蔵院と違っていても、百済観音とも息ピッタリ(?)に、展示室内に静謐な雰囲気をかもし出していました。

日本最古、650年頃(飛鳥時代)に造られたと考えられているこの四天王像は、後世の、邪鬼踏みしめて辺りを威圧する感じではなく、邪鬼から「どうぞ背中にお立ちくださいとでも言われたかのように、すっくとお立ちになっていて、なんとも端正、なんともお上品

8年半前のこちらの記事に、

四天王像でまず連想するのは、東大寺戒壇堂ダイナミック威厳に満ちた四天王像ですが、650年頃(飛鳥時代)に造られた法隆寺金堂の四天王像と、760年頃(天平時代)に造られた東大寺戒壇堂の四天王像、まったくトレンドが違うのが面白い
加えて、飛鳥時代(538~650頃)天平時代(710~790年頃)の間に入る白鳳時代(650年頃~710年)も独特のトレンドを持っていて、仏教伝来から200年弱の間の日本の仏像彫刻の変遷(進化・深化)目覚ましいものがあると、常々思っている私です。

と書きましたが、この考えはまったく変わっていません

   

この「超 国宝 祈りのかがやき」展は、以下の章立てです。

第1章 奈良の大寺
第2章 奈良博誕生
第3章 釈迦を慕う
第4章 華麗なる仏の世界
第5章 神々の至宝
第6章 写経の美と名僧の墨跡
第7章 未来への祈り

このように、ほぼすべてが仏さま or/and 神さまにまつわる展示で、いかにも「奈良博の国宝展」だな と思いました。

そして、明治初年の廃仏毀釈の中、法隆寺が皇室に献納して現在は東京国立博物館法隆寺宝物館で収蔵・展示されているお宝たちの一部(竜首水瓶鴟尾形柄香炉伎楽面 呉公など)が、奈良に里帰りしているのが、なんだかほほえましい

奈良博の所蔵・収蔵品は別として、大好き天燈鬼・龍燈鬼立像(後ろから筋肉隆々の御御足プリケツを拝見するチャンス) は奈良博のお隣にある興福寺から「散歩してきたみたいなものですが(東大寺手向山八幡宮春日大社「散歩の範囲)、一番遠くから奈良にやって来たのは、岩手・中尊寺「金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅」「中尊寺金色堂堂内具」などのお宝でしょう。
経文宝塔を描いてしまうという「金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅」はもちろん、装飾経なんぞを観ると、発願者の祈りの気持ちが伝わってくる気がします。
なお、「装飾経といえば…」「平家納経」は、前日、日本国宝展@大阪市立美術館で拝見しました

この展覧会で展示されている「お宝の中で一番古いモノは、上に載せたフライヤーの内側(縦開きです)の中央でドーン としている石上神宮「七支刀」でした。
教科書でも見た「七支刀」、そもそも、いつ・どこで造られたものなのか、「諸説あり」のようですが、この展覧会では「古墳時代・4世紀」とされていました。
それにしても、この変な鉄剣(失礼)は、どうやって造られたのでしょうか?
これまた「諸説あり」で、過去の復元制作では鍛造(飴細工のように地金に切り込みを入れて叩いて成形した?)と鋳造(これは楽そう)と、2種類の手法が用いられたらしい。

この展覧会で残念だったのは、大好き慶派の彫刻少なかったことでした。
でも、久しぶりに「重源上人坐像」にお目にかかれたのはうれしかった
この彫刻は、興福寺北円堂の無著・世親立像(今年東京国立博物館にお出ましになる)や、前日に「日本国宝展」で拝見した「鑑真和上坐像」(これは奈良時代の作品)と共に、実存した人物の肖像彫刻として日本が世界に誇れる彫像だと思っています

私は、この展覧会をみたあと立ち寄ったグッズ売場で、買ったのはポストカード2枚だけでした。
しかも、同じ仏像前面と背面のポストカード

この京都・宝菩提院願徳寺「菩薩半跏像(伝如意輪観音)」は、初めて拝見したと思うのですが、その美しさ呆然としました

ちょっと厳しめとしたお顔だち魅力的ですが、なんといっても、これまで見たこともないような衣紋の表現素晴らしさ (裏側に回っても拝見できる展示方法も Good Job)
この展覧会で一番の掘り出し物 といっても過言はないと思います
まさしく「有終の美」の仏さまでした。

こうして、再会あり初お目見えありで、満足のうちに展覧会場から退場したのでありました。

つづき:2025/06/10 大阪・奈良・京都のハシゴ旅 #2-3

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大阪・奈良・京都のハシゴ旅 #2-1

2025-06-04 21:47:22 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「大阪・奈良・京都のハシゴ旅 #1-5」のつづきは旅行2日目のスタートです。

この日は、10:00ちょい前近鉄上本町駅を発車する特急のチケットを買っていましたので、朝食をゆっくりと食べ、

 width=

自室でのんびりしたあと、ホテルをチェックアウトしてに向かい、予定どおりの近鉄特急に乗車しました。

そして、近鉄奈良駅には定刻の10:24に到着。

今回の奈良でのホテルはJR奈良駅の近くでしたので、キャリーバッグをゴロゴロ引いて三条通りを下り、まずはホテルに荷物を預けました。
そして、身軽になった私は、JR奈良駅前から路線バスに乗って、いざ奈良国立博物館(奈良博)へ

のはずだったのですが、奈良公園方面に向かう路線バスの停留所には長蛇の列

いくら行列嫌いの私でも、だらだら坂を上って奈良博まで行こうととは思わないわけで、この行列に加わることにしました
そして、このバス乗り場に行ってみると、並んでいるのは、ほとんどが外国人
こんな外国人比率の高い行列に加わったのは、私の人生で日本国内では初めてかもしれません。
そして、やって来たバスには乗れたものの、当然ながら座れませんでした。

それにしても、京都もそうですが、この路線バス普段使いしている地元の人たちにとって、外国人観光客の多さは迷惑なんだろな…
バスは混むし、バスの乗降にやたらと時間がかかるし…

そんなことを考えならバスに乗っているうちに、奈良博に到着しました。
が、ここにも行列

前日の大阪市立美術館当日券を買おうとする人たちの行列を見て、薄々予想していましたが、やはりそうでしたか…

そして、行列の最後尾についてから約20分を要して、ようやく当日券(東京国立博物館の友の会会員証の威力で200円引き)を購入できました。

ここで私は考えました。
翌日京都国立博物館(京博)でもこの会員証を使って「200円引き」で観るか、それとも、行列を避けるべく、定価のオンラインチケットを買うか…

時間は前後しますが、「超 国宝」展を観て、昼食を摂った後、奈良公園バスターミナル喫煙所(ようやく見つけた喫煙スポット)で一服しながら、スマホを使って「日本、美のるつぼ」展 @京博のオンラインチケットを購入しました。
「行列に並ぶくらいなら、200円差なんて…」ということです

さて、時と場所を戻します。

こうして、ようやく「超 国宝 祈りのかがやき」展に入場できました。

ところで、この「超 国宝」という展覧会のタイトルは、どういう意味なんでしょ

フライヤーからその主旨を引用しましょ。

奈良国立博物館(奈良博)は明治28年(1895)年4月29日に開館(当寺は帝国奈良博物館)して以来、令和7年(2025)をもって130周年を迎えます。これを記念し、このたび奈良国立博物館としては初の本格的国宝展を開催します。
その名も「超 国宝-祈りのかがやき-」。「国宝」は、私たちの歴史、文化を代表する国民の宝であることは広く知られています。「超 国宝」という言葉には、そうしたとびきりの優れた宝という意味とともに、時代を超える先人たちから伝えられた祈りや、この国の文化を継承する人々の心もまた、かけがえのない宝であるという思いを込めました。
130年にわたる歴史を超え、国宝を生みだした先人たちの思いを超えて、文化の灯を次の時代につなぐため、奈良博が踏み出す新たな一歩をご覧ください。

なるほど

「宝形有るお宝だけではなく、「先人たちから伝えられた祈り」「文化を継承する人々の心」もそうだ、という意味を込めているんですな
「国宝」そのもの「国宝」を実際に制作した人々だけでなく、それを発注した人の「思い=祈りの心」、時を超えて「国宝」を維持・修繕してきた人たちにも敬意を表して、、、ということですか…

とても共感できます。

一方で、これが「奈良国立博物館としては初の本格的国宝展」だというのには驚きました

ちょっと意外な気がする一方で、たしかに、「奈良博=正倉院展」のイメージが強いし、他には奈良の寺社をフィーチャーした特別展を開催している感じです。

奈良博の常設展ともいえる「仏像館」もかなり見応えがあるんですけどね…。

さて、奈良博渾身「超 国宝」展はいかに

というところで「#2-2」につづきます

つづき:2025/06/06 大阪・奈良・京都のハシゴ旅 #2-2 

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大阪・奈良・京都のハシゴ旅 #1-2

2025-05-31 18:02:21 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「大阪・奈良・京都のハシゴ旅 #1-1」のつづきです。

一昨日、この「#1-2」を書いていて、記事の終盤、「日本国宝展」の展示についてあれこれと復習がてら調べて、さぁ、いよいよ完成だ と思った時、ついついマウスの「戻る」ボタンを押してしまい、書きかけの記事が消えました

ブログサイトの「自動バックアップ機能」で、記事の前半は復活しましたが、一番労力を使った部分は消滅したままで、そこを書き直す気力が薄れてしまいました それでも、なんとか体裁を繕って「#1-1」をアップした次第です

そんなわけで、気を取り直して、「日本国宝展」の見聞録を書きます。

   

「大阪・関西万博開催記念 大阪市立美術館リニューアル記念」と銘打った「日本国宝展」、フライヤーには、

教科書で見た、あの国宝が一堂に!
大阪・関西万博が開催される令和7年(2025)春、大阪市立美術館は昭和11年(1936)の開館後初めて二年以上に及ぶ全面改修を経て、リニューアルオープンを迎えます。この二つの事業を記念し、大阪で初、また公立館としても初となる国宝展を開催します。
何百年あるいは何千年もの時を越えて今に伝わる、日本文化の結晶とも言うべき国宝。本展ではこの類い稀なる宝を通じて日本の美の歴史を辿り、併せて大阪ゆかりの国宝もまとめてご紹介します。また、今に守り伝えてきた先人の想いとたゆまぬ努力を継ぐべく、文化財を未来へ伝えていくことの意義についてもお示しします。「国宝」という至宝との<出会い>が、国や地域を超えた日本文化への理解につながることを期待しています。
展示されるのは約130件の国宝のみ(*参考出品を除く)。大阪ではかつてない規模かつ贅沢な構成で、日本の美の真髄に迫ります

と、どやぁ~ という感じが伝わってきます。

そして最初の展示室「日本美術の巨匠たち」へ…。

最初っから凄い

円山応挙「雪松図屏風」に、長谷川等伯「楓図」、伊藤若冲「動植彩絵」から「芦雁図」「群鶏図」「秋塘群雀図」の3幅、岩佐又兵衛「洛中洛外図屏風(舟木本)」など、まさに どやぁ~ でした

久しぶりに京の喧噪が伝わってくるような「洛中洛外図屏風(舟木本)」を間近に観て単眼鏡を持ってこなかったことを後悔 でも、細かい所を観るなら、うちには「京都―洛中洛外図と障壁画の美」(2013年10~11月@東京国立博物館)の立派な図録がありますから…

面白いと思ったのは、「動植彩絵」のうち展示されていたのが、雁が1羽の「芦雁図」鶏が12羽の「群鶏図」雀が70羽以上の「秋塘群雀図」と、どれもが描かれている作品だったこと。お馴染みの「群鶏図」もさることながら、の実に殺到する雀たちがなんともかわいらしい しかも1羽だけ白いっつうのが(吉祥を意味しているとか…)、オシャレでもあります。

なお、名前を挙げた4作品のうち、6月1日まで展示されている「楓図」を除き、みんな東京の自宅(?)に戻られています。
代わって、「唐獅子図屏風」や、雪舟「天橋立図」「慧可断臂図」「山水長巻」などが展示されているらしい。
「唐獅子図屏風」を初めて観る人は、あのデカさにのけぞるだろうな…

それにしても、見事な「掴み」だったと思います。

最初にこんなクライマックスがあって、あとは尻すぼみになるんじゃないかとちょっと心配でしたが、いやいや、これでもか とばかりに名品が惜しげもなくくりだされます。

薬師寺の聖観音菩薩立像(見聞録)興福寺華原磬などは、今回のように出張中でない限り、薬師寺東院堂興福寺国宝館で簡単にお目にかかれますが、鑑真和上坐像 (私は2年ぶりの再会)とか、東京国立博物館所蔵の「孔雀明王像」なんて、なっかなか拝見することはできません (右の写真は、「孔雀明王像」の高精細レプリカ@東京国立博物館)

また、如拙「瓢鮎図」は、今年1月に妙心寺模本を拝見したものの(記事)、現物とは15年ぶりの再会でした。

   

美術館・博物館の企画展は、通常、撮影禁止ですが、それでも、「フォトスポットを設けていることが増えてきていまして、この「日本国宝展」でも、1点だけ「撮影可でした。
それが、薬師寺東塔の水煙

この水煙は、2009~2020年にかけて行われた薬師寺東塔解体修理を期に引退したもの。
ですから、1300年の長きにわたって、東塔のてっぺんで風雨に耐えてきた現物です。
見た目は時を超えて見事なものですが、劣化しているということで、引退されたそうです。

水煙は、精巧に鋳造された4枚の水煙十字型に組み合わされていて、その1枚の重さは100kgあるんですと

水煙の上に二つのアンティチョーク状のものが見えますが、下が「竜車」、上が「宝珠」というものだとか。

現在の薬師寺東塔に取り付けられている相輪は、最上部の水煙・竜車・宝珠のほか、その下の九輪の一部が新調されたと聞きます。

つまり、新しい東塔の相輪には、1300年前のもの新品とが共存しているのですが、素人目で見上げるのでは、その違いが判りません
こちらのサイトを読むと、その「再現」の奥深さ、技術たるや…

   

この展覧会の出品目録を眺めると、出品作品の所蔵・収蔵者は、実に多様なことが判ります。
やはり東京国立博物館が所蔵・収蔵している作品が多いのですが、同時期にかなりの規模・内容の特別展を開催中の京都国立博物館奈良国立博物館からやってきた作品も少なくないのには驚きました。
きっと、開催準備の中で、大阪市立博物館京博奈良博の3者に東博が加わって会議と調整を繰り返して、「日本国宝展」、「超国宝」展、「日本、美のるつぼ」展の出品作品を決めたのだろうなと想像に難くありません。

なお、雪舟天橋立図」は、5月27日~6月8日に大阪市立美術館で展示されたあと京都に戻り、6月10~15日には京博で展示されますし、如拙「瓢鮎図」は4月26日~5月18日に大阪市立美術館、5月27日~6月15日には京博で展示されるという、売れっ子タレントのような「掛け持ち出品」です。

こうして私は、約1時間半にわたって「日本国宝展」を楽しんだのでした。

つづき:2025/06/01 大阪・奈良・京都のハシゴ旅 #1-3 

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あれほど賑やかな仙台は初めてだった旅行記 #2-2

2025-05-22 22:38:36 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「あれほど賑やかな仙台は初めてだった旅行記 #2-1」のつづきです。

東北大学史料館に行ってみようと思ったきっかけは、仙台に向かう新幹線の中で読んだ車内誌「トランヴェール」5月号だったことは、「#1」で書いたとおりです。「トランヴェール」を読んだのがきっかけで出かけたといえば、山形市の旧済生館本館(山形市郷土館)山形県旧県庁舎(山形県郷土館「文翔館」)なんぞがありました(記事:ダイジェストのみ)。

この魅惑的な建物は、

1924年東北帝国大学附属図書館の閲覧室として建てられた、ネオ・ルネッサンス様式の建物。図書館が川内地区に移転した後の1986年に往時の雰囲気を残したまま改修され、東北大学の歴史資料を保存公開する一般公開施設「東北大学史料館」となりました。2011年の東日本大震災で損壊を受けましたが、その後耐震補強を兼ねた復旧工事等を経て現在に至っています。

だそうで、法的な位置づけとしては内閣総理大臣の指定を受けた「国立公文書館等」というものだとか。
そんな施設ですから、「東北大学の歴史公文書や関係者の個人資料など」「東北大学や他大学の歴史に関する参考文献」を、教職員・学生以外の一般人でも閲覧できるのだそうですが、私の興味の対象はもちろんこちらではなく、2階の「展示」です。

入口でカウンター(数取器)をポチッと押して入館し、旧閲覧室だという2階の展示フロアへ上がりました。

おぉ、時代物だけあって雰囲気があります

「大学アーカイブスとは何か」みたいな展示を眺めたあと、「魯迅記念展示室」へ。

魯迅こと周樹人は、1902年、20歳のときに官費留学生として来日、東京の留学生向けの学校で2年間学んだのち、1922年9月仙台医学専門学校(東北大医学部の前身)に入学、その1年半後「医学より文学だ退学し、東京に移り住んだのだとか。

この超略歴で私がへぇ~と思ったのは、仙台医専が「9月入学」だったことと、魯迅が仙台にいたのは1年半に過ぎなかったことでした。

魯迅が途中で編入したわけではなく、展示パネルによれば、

1904年(明治37) 9月12日、明治37年度の入学式が片平キャンパスで行われ、周樹人は医学生としての生活をスタートする。同級生は前年度からの落第生を含めて145人。翌日からは授業が開始された。

とありますから、新学期は9月からだったようです。

だから、魯迅の入学願は(下の写真は復元資料)「6月1日」付けなんですな。

また、面白いと思ったのは、魯迅の「学業履歴書」(これも復元資料)。

本国の学校(江南陸師学堂)の入学・卒業は清国の元号(光緒)、日本の学校(弘文学院)の入学・卒業は日本の元号を使っています。
そりゃそうだろうと思いつつも、「光緒27年っていつ?」混乱しそうです
なお、光緒27年=1901年=明治34年です。

私が魯迅に興味が無いこともあって、展示はお隣の常設展示「歴史のなかの東北大学」の方が面白かった

まず、真ん中の通路をふさぐように展示されていたボート

ボート

なんでも、1960年ローマオリンピックのボート競技(エイト)に、東北大クルーが出場したんですと
ボートといえば、私のかつての所属部署の部長が東大ボート部OBだったな…

また、こんなのもありました。

大きな金庫みたいなのですが、その中がちょっと変わっていて、なんと、御簾(みす)が下がっています。

これは「御真影奉安庫」

天皇の写真などを収める戸棚で、戦前は尊厳なものとして特別の扱いが要求され、火災等に際しては写真を移し避難するための器具も用意されていた。
戦後に事務局の1室に人知れず保管され、昭和40年(1965)に受け入れられた。

全国の学校に「奉安殿」という祠のようなものがあったと聞きますが、こういった金庫型のものもあったんですねぇ

ドラマや映画で、戦前の学校が描かれることがありますが、現在の6-3-3制とは違っていて、なかなか理解が難しかったりします
そんな戦前の学制を説明したこちらのパネルが判りやすかった

これを見てまたまた私が「へぇ~」と思ったのは、男女それぞれに「師範学校」「高等師範学校」があったこと。

文科省のHPによると、

明治19年4月10日「師範学校令」が公布された。(中略)
師範学校令は (中略) 師範学校を高等・尋常の二つに分け、高等師範学校は文部大臣の管理に属して東京に一か所設置することとし、尋常師範学校は府県に各一か所設置し、地方税でその経費を支弁するものとした。また尋常師範学校の卒業生は、公立小学校長および教員に任ずべきもの高等師範学校の卒業生は尋常師範学校の校長および教員に任ずべきものと定め、ただし時宜によっては各種の学校長および教員に任ずることができるとし、それぞれ卒業後の服務の義務を負わせ、かつ在学中の学資を支給することとした。

要は、尋常師範学校を出ただけでは小学校の先生にしかなれないということのようです。

ところで、上に載せたパネルを見て、「戦前に旧制高校卒業生以外も帝国大学に行けたのか?」と思われるかもしれませんが、そこには、1913年に帝国大学として最初に女子学生の入学を認めた「門戸開放」政策の東北(帝国)大学のドヤ顔が見え隠れします

ここからは「珍品」
とは言ってもあまり珍しくなさそうですが、こちら。

モンロー計算機 年未詳
1914年に世界で初めてキーボード式計算機を発売した、米国モンロー計算機社の製品。天文学教室(昭和9年発足)の旧蔵。

現代の常識からすればかなりデカい計算機ですが、それでも初期のワープロ(机みたいなデカさ)よりはそうとう小さい

お次は、花魁の高下駄よりも高さがありそう下駄

これは、

尚志会応援団の高下駄
応援団長のみが履くことができる高下駄。対部ボートレースなどの行事では弊衣破帽バンカラスタイルにこれを履いた団長が、応援パレードで市中を歩…(読み取れず)

だそうな。
「尚志会」というのは、こちらの東北大学史料館紀要によれば

二高(現在の東北大につながる旧制二高)における校友会は、1893年(明治26) 5月に結成され、初代校長の吉村寅太郎によって命名された(出典は孟子)。構成員は教職員と生徒、さらには卒業生が加わり、単なる親睦を超えて、二校精神の継承が図られた。

だそうです。
ここで「尚志会」でググると、広島大学のOB会「一般社団法人 尚志会」がヒットするのですが、そちらの「沿革」にはこうあります。

尚志会は、明治35年(1902)に開校された広島高等師範学校の卒業生をもって創設され、明治41年(1908)初代の北条時敬校長によって、「尚志会」 と命名され、その後、昭和4年(1929) 社団法人として認可され今日に至っている。

この北条時敬さん、広島高等師範学校の校長を務めたあと、1913年から東北帝国大学総長に就任していらっしゃいます。
北条さんは仙台に赴任して、「あちゃぁ~、かぶってた鳥肌を立てたんじゃなかろうか

下の写真は旧制二高の校章(蜂章)です。

こんなところで東北大学史料館の見学は終了。
まぁ、そこそこ面白かったけれど、せっかくの東北大OB唯一のノーベル賞受賞者田中耕一さんをもっとアピールするべきなんじゃないかと思ったし、同じ東北大の「博物館」としては、2016年12月に見学した東北大学総合学術博物館(訪問記)の方が楽しかったな…。

あ、そうだ
私がここに来ようと思ったきっかけとなった「トランヴェール」も展示されていました
「5月は土日も開館」というのは、「トランヴェール」が関係しているのか??

で、「#2-3」につづきます。これを完結編にするつもりです。

つづき:2025/05/23 あれほど賑やかな仙台は初めてだった旅行記 #2-3 (完結編)

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今年最初の関西旅行記 #2-6

2025-02-07 17:01:35 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「今年最初の関西旅行記 #2-5」のつづきは、大阪市立東洋陶磁美術館見聞録の完結編です。

「#2-5」に載せた特別展「中国陶磁・至宝の競艶」フライヤーに使われているカラフルな壺、その名前が「緑地粉彩八吉祥文瓶(りょくじ ふんさい はちきっしょうもん へい)と長い

緑地粉彩八吉祥文瓶
清時代・乾隆 (1736-1795)/景徳鎮窯
上海博物館
パステルカラーの緑地に、粉彩によるカラフルな色合いで「八吉祥」と呼ばれるチベット仏教の八宝文や花文などが描かれている。この独特な瓶は清朝の宮廷で崇拝されたチベット仏教の儀礼用とされている。

映画「ラストエンペラー」で、幼い溥儀紫禁城に入城するときと西太后が崩御したとき、大勢のチベット僧が登場します。満州族が建てた清王朝とチベット仏教との関係が良く判らず、Why??? となりましたが、清王朝とチベット仏教とは縁が深かったんですな
それでも、なぜ地理的に遠く離れたチベット仏教? です。
調べたところ、こちらのサイト鳥取大学の柳(ユウ)教授がこんな風に述べていらっしゃいます。

モンゴルはチベット仏教を信じていたので、その最高位にあるダライ・ラマをめぐる諸問題の発生はモンゴルの介入を招き、清朝にとって統合を危うくする大問題だったのです。
多民族国家であるでは、漢民族の皇帝としてだけでなく同時に満州人の首長であり、モンゴル族の「汗(かん)と呼ばれる最高位であり、チベット仏教の保護者である「大施主(だいせしゅ)」でもあるという顔を同時に持っている必要がありました。これによって多民族国家である清という巨大な国を統合できたのです。中でも清帝国をまとめるために重要だったのが、チベット仏教です。チベットとモンゴルに影響を及ぼすために、清朝皇帝はダライ・ラマと同列に位置していなければなりませんでした。

なるほど、モンゴル対策か…
でも、満州よりもっと遠いモンゴルチベット仏教が崇拝されたのはなぜなんでしょ?
これまた調べたら、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のサイトによると、

13世紀の中頃、チベットはモンゴル帝国の襲来を受け、軍事的には屈服せざるを得なかった。ところが、宗教面ではモンゴル人をチベット仏教に帰依させる結果となり、チベットはやがて独立を回復することができた。

ですと。
もしも、元寇で日本が屈服してたら、日本にもチベット仏教が広まっていたかもしれませんな

話が壮大に逸れてしまいました

話を元に戻しまして、「緑地粉彩八吉祥文瓶」よりもっと長い名前の作品がありました。
「松石緑釉剔刻蕃蓮唐草文瓶」(しょうせきりょくゆう てきこく ばんれん からくさもん へい)という名前で、一度では覚えきれません

松石緑釉剔刻蕃蓮唐草文瓶
清時代・乾隆 (1736-1795)/景徳鎮窯
上海博物館
松石緑釉は、酸化銅を着色剤として低火度で白磁に二次焼成する色釉で、雍正年間に誕生し、乾隆年間に流行した。
青緑色の釉色トルコ石(緑松石)に似ることから名づけられた。
石の質感や模様を磁器で再現しようとした乾隆官窯の技術の高さをうかがわせる。

この瓶、私には磁器には見えずプラスチックを成形したかのように見えます。
かなり不自然に感じてしまうなぁ

   

「#2-4」に、小さな、野々村仁清「色絵 結文形 香合」尾形乾山「銹絵染付 羊歯文 香合」を載せましたが、上海博物館所蔵品にもこれらに負けず劣らず小さな作品がありました。

どちらも(いんごう)、つまり朱肉入れで、直径は約7cm

左が、「豇豆紅釉印盒 (こうとう こうゆう いんごう)

豇豆紅釉印盒 清時代・康熙 (1662-1722)/景徳鎮窯
上海博物館
康熙年間、景徳鎮官窯では酸化銅を主成分とした多彩な紅釉磁器がつくられた。
なかでも鮮麗な紅色を特色とする「豇豆紅釉」(欧米では“peach bloom”(桃花紅)とも呼ばれる)は、焼成の難易度が高く、希少である。

そして、右が一級文物「蘋果緑釉印盒 (ひんかりょくゆう いんごう)

蘋果緑釉印盒 清時代・康熙 (1662-1722)/景徳鎮窯
上海博物館 一級文物
本作は「豇豆紅釉」が窯の中での窯変により「蘋果緑(青りんごの緑)」と呼ばれる淡い緑色に変じた奇跡の一点である。清末の陳瀏「陶雅」で、蘋果緑の印盒一つが「値千金と記している。

どちらもとてつもなくきれいな色をしていますが、「蘋果緑釉印盒」「豇豆紅釉」を焼こうとしていたのに、「偶然こうなった」んですかぁ
「ふじ」リンゴの木に、なぜか「王林」の実がなったようなものですか? (かなり違う)
冗談はさておき、全体は淡い緑色なのに、左上部分だけ赤いのには、こんな背景があったんですな

   

最後に登場いただくのは、小さな作品ということで、高さ:65.5cm、胴径:56.5cmと、一番デカい作品です。

青花雲龍文壺 明時代・正統 (1436-1449)/景徳鎮窯
上海博物館
胴部に五爪の龍二体火焔宝珠が描かれた大壺。類似の陶片が景徳鎮珠山の御窯遺址から大量に出土している。
正統年間に青花の「龍缸」(龍文の大壺)が焼成されたが、きわめて大型のためうまくいかなかったとの記録がある。
本作は正統官窯を代表する現存最大の完成作例

いかにも中国陶磁 の佇まいです

でも、こんな大壺何に使ったんでしょ?
まさか「五爪の龍」が描かれた壺を、水や穀物の貯蔵、ましてや傘立てに使ったとは考えられず、「置物」くらいしか用途が思いつきません

ということで、大阪市立東洋陶芸美術館の見物を終えました。

陶磁器には疎い私ですが、かなり楽しめました
美術館自体、施設として立派でよくできていましたし…。

満足しながら館外に出た私は、「X」にこんなポストをしました。

こんな立派な美術館ですから、建設費は相当だったのだろう と思った次第ですが、ブログを書くうちに知ったところによると、建設費 18億円は、「#2-3」で書いた住友グループから大阪市の文化振興基金寄付された152億円運用利息でまかなったのだとか
最近上昇傾向にあるとはいえ、今のような低金利では到底不可能な話です

   

さて、時刻はほぼ正午昼食どきです。

昼食は久しぶりの新世界辺りで摂ることにして、そこまで堺筋線で行くべく、北浜駅まで歩きました。

大阪市立東洋陶芸美術館のお隣にある「こども本の森 中之島」は、建築家の安藤忠雄さんが寄付したんだったなぁ

それにしても、大阪府立中之島図書館住友吉左衛門友純(春翠)さんの、大阪市中央公会堂岩本栄之助さんの、大阪市立東洋陶芸美術館の主要コレクションは住友グループの、そして子ども本の森 中之島安藤忠雄さんの寄付で建てられたというのは、その4棟中之島で並んで立っていることと併せて凄いことだと思います。
江戸時代の町民パワー近現代の市民パワー大阪(大坂)の底力を感じます。

これを渡れば北浜、という難波橋もなかなか魅力的でした。
その話は「#2-7」で…。

つづき:2025/02/08 今年最初の関西旅行記 #2-7

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