新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

2017年3度目の関西旅行記 #2-14

2017-12-31 18:09:27 | 旅行記

久しぶりに「2017年3度目の関西旅行記」「#2-13」のつづきです。

海上自衛隊北吸桟橋には、陸上での物資の運搬に使用されていると思われる「車両」が何台も置かれていました。

」

って、俗にいう「リヤカー」です

護衛艦と違って「車籍番号」が書かれていないようで、北吸桟橋共用のものかと思いきや、

こちらのリヤカーには、しっかと「まつゆき」と書かれておりまして、

右側に写っているDD-130「まつゆき」専用リヤカーであることが示されています。
ちなみに「まつゆき」のリヤカーひっくり返っているのは、邪険に扱われているのではなく、四方にあおりがつけられているこのリヤカーの荷台雨水が溜まらないようにするためと推察いたします。

それにしても、最新鋭レーダー兵装を誇る護衛艦隊リヤカーを使っているとは思いもよりませんでした。

もっとも、Wikipediaは、リヤカー欠点2点載せておりまして、

  • 急坂に弱い(上り坂・下り坂とも)。
  • 自動車などの往来が激しい場所の移動では、機動性の違いによる交通事故や交通渋滞が懸念される。

だとか。
でも、この欠点は、使われるのが北吸桟橋の敷地内に限れば、まったく問題はありませんで、

  • 人力によれば、燃料代などの経費が掛からない修理・整備も簡便で維持費も掛からない
  • 機動性に富み、小回りが利く。普通の体格の人間であれば、荷物運搬時の牽引でも取り扱いに特段の訓練を要さない
  • 頑丈な作りのリヤカーで平坦な舗装道路上であれば、最大1トンの荷物が運搬可能である(通常のリヤカーの積載荷重は350kg)

という利点のみが生きるわけですな
そして、Wikipediaには、

「海上自衛隊護衛艦『ひゅうが』のヘリ格納庫で使われているアルミ製折りたたみ式リヤカーの写真が載っておりました

   

ところで、北吸桟橋に停泊している艦船は、同じ艦隊を構成しているのかと思ったら、ちょいと違っておりまして、主要艦に限れば、こんな風な構成になっているのだとか。

3護衛隊群 第3護衛隊 (機動運用部隊)
  DDH-181 ひゅうが、DDG-175 みょうこう、DDG-177 あたご、
  DD-188 ふゆづき

第14護衛隊 (地方配備部隊)
  DD-130 まつゆき、DD-151 あさぎり、DE-232 せんだい

第1海上補給隊
  AOE-425 ましゅ

舞鶴地方隊 舞鶴警備隊 第2ミサイル艇隊
  PG-824 はやぶさ、PG-828 うみたか

こんな感じで海上自衛隊北吸桟橋の見学を終了したのですが、、、そういえば、イージス艦みょうこう」「あたご」不在でした…。
両艦とも、日本海で任務についていたのでしょうかねえ…

   

ということで、北吸桟橋から東舞鶴駅に向けて歩き出しました。
採ったルートは、大半が歩行者専用道路になっているこちら

このルート、遊歩道ということに加えて、眺めからしてもいわくありげ

そして、古いれんが造りトンネルまであるのですから…

雰囲気からも気がついた人もいらっしゃるでしょうが、これは旧国鉄 中舞鶴線廃線跡です。
東舞鶴駅=北吸駅=中舞鶴駅3.4kmを結ぶ短い路線で、R27(丹後街道)の南側を通っていたことが、赤レンガパークで展示されていたジオラマから判ります。

もともと軍港引き込み線として敷設された路線だそうで、この辺りもいかにも舞鶴らしい…

かつては舞鶴鎮守府海軍工廠へのヒト・モノのメインルートとして活躍したものの、戦後は自動車交通の発達で利用者が減少し、1972年廃線になったとか。

それにしても、廃線跡のトンネルって風情があります

こうして東舞鶴駅前まで戻った私は、なんば行きのバスに乗るまでの時間調整かたがたイタリアン昼食を摂りました。

隣の席にシニア世代ご夫婦が座ったのですが、このお父さんが、出されたピッツァを懸命にスマホ撮影 しようとしたのですが、スマホでの撮影に慣れていないのか、たまたまご本人が不調だったのか、なかなか撮れずに苦労していました。

写真なんかよりも、早く食べないとピッツァが冷めちゃうよ、と口出ししたくてたまりませんでした

こうして東舞鶴有意義なときを過ごした私は、予定どおりやって来た高速バスに乗り込み、大阪へと向かったのでありました。

【追記】諸事情により旧国鉄 中舞鶴線のことを追記します。

Wikipediaには、

京都府舞鶴市にある舞鶴線東舞鶴駅からスイッチバックして入線し、同市の中舞鶴駅までを結ぶ路線であった。中舞鶴線の建設目的は、舞鶴鎮守府の兵員ならびに軍需資材の輸送を主な使命とし、舞鶴港線とともに国策として建設され、1919年(大正8年)に鉄道院線として営業を開始した。
戦後も特殊貨物輸送で賑わいを見せたが、その後に国道27号が整備され、輸送量は減少、国鉄も鉄道の使命は終わったものとし、1972年(昭和47年)廃止された。廃止当時の営業係数は934だった。

と書かれていまして、この「東舞鶴駅からスイッチバックして入線」がよく判らない…
昔(1917年発行)の地図を見ると、

東舞鶴駅(旧・新米鶴駅)から西舞鶴駅方向に向かって400~500m進んだ地点でスイッチバックしたと考えられるのですが、わずか3駅、3.4kmしかない路線にしてはかなりムダの多いルートに見えます。急カーブになったとしても、東舞鶴駅から直接軍港・海軍工廠方面に向かうようにすればよかったのに…
もっとも、東舞鶴駅に停車する必要のない貨物列車の場合は、このルートが合理的ではありますな

そんなことを考えたあと、終点中舞鶴駅と唯一の途中駅・北吸駅(旧・東門駅)がどこにあったのか調べてみました。

まずは舞鶴市役所最寄り」だったという北吸駅はといいますと、あれま、上に載せた案内地図「現在地」と表示されている辺り、まさしくその下に載せた写真を撮った辺りだったそうな。とても駅があったとは思えない「狭さ」ですが、「1面1線」のホームしかない駅(JR相模線・厚木駅みたいな感じか?)だったそうですから、こんなものかもしれません

一方、終点の中舞鶴駅は、赤レンガパークにあったジオラマを見ると、

こちらも「1面1線」だったそうですが、側線がいくつもあって駅っぽい雰囲気が漂っています。
そして、その位置はといいますと、私が「東郷邸」を見学(記事はこちら)するべくR27から右折した「中総合会館前」交差点の付近だったそうです。

私が撮った写真では、奥に見える歩道橋の辺り。

「SLがあるなぁ」程度にしか思わなかったのが残念です。もっと予習しておけば良かった…

と反省の弁を以て追記を終了します。(2018/01/01 07:57)

つづき:2018/01/01 2017年3度目の関西旅行記 #2-15

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2017年の美術館・博物館めぐりの振り返り

2017-12-30 19:04:57 | 美術館・博物館・アート

きのうの「3か月に一度」のお約束「いつも赤信号な交差点」シリーズにつづいて、きょうは「年に一度」、そして基本的に毎年12月30日のお約束「美術館・博物館めぐりの振り返り」です。

毎年、TOP 10と、そのなかからTOP 3を選んでいますが、今年は例年以上に楽しかった展覧会が多くて選考に悩みました
例年ならTOP 3に入ってもおかしくないような展覧会がTOP 10どまりだったり、TOP 10に入ってよかった展覧会が選外になったりしています。

そんなところを念頭に置いて、まずはTOP 3 (順不同)

ミュシャ展 @国立新美術館

気がつくと、ミュシャ展の見聞録をブログに書いていなかった もので、この場でさらっと書いておきます。
ミュシャといえば、ポスターがメインだと思っていた私の目からウロコガバリと落ちました
パリを舞台にしたミュシャのポスター装飾アートでの商業的な成功は、「スラヴ叙事詩」を描くための準備に過ぎなかったのではなかろうか? とまで思ったりして。
故郷に戻り、「スラヴ叙事詩」に仕上げたときのミュシャはさぞかし幸せだったのだろうな、と心がじんわりと熱くなりました
スラヴ叙事詩の全作品を東京の美術館で直に観られるなんて、これは今年の一大事だぞ と大興奮でした。
観に行こうと思いつつ、気がついたら終わってたなんて方、申しわけないながら、断言させていただきます。一生の不覚でしたぞ

歌麿大作 深川の雪と吉原の花
        @岡田美術館[記事]

喜多川歌麿の巨大肉筆画「深川の雪」約70年ぶりに発見されて岡田美術館に収蔵されたというニュースを聞いて以降、いつか現物を拝見したいと思っていたところ、「深川の雪」を含む雪月花三部作のうち「吉原の花」が日本に里帰りして、門外不出フリーア美術館所蔵の「品川の月」高精細複製画と共に展示されるというので、はるばると箱根まで観に行きました。(Misia Candle Night河口湖公演への日帰り遠征ついでではあったのだけれど…)
3幅の巨大な、華やかかつ優美な作品を見入っていると、江戸時代にタイムスリップした気分…。
私の中で歌麿は、お気に入りの鈴木春信歌川広重葛飾北斎東洲斎写楽よりもちょいと斜め下に置かれていたのですが、この3幅をしげしげと拝見して私の歌麿に対する見方が赤丸急上昇(古い表現)したのでありました。

運慶展 @東京国立博物館[記事]

私、鎌倉時代の彫刻大好きでありまして、常々「鎌倉時代は日本美術史のルネサンス」と思っていまして、さしずめ運慶ミケランジェロみたいな存在でしょうか、、なんてことを考えるのは私だけではないようです。運慶250年も早い(古い)のですが…
私、運慶および一派の作品は、奈良・興福寺を中心に(運慶展「冠」「興福寺中金堂再建記念特別展」)、あちこち何点も何度も拝見してそのたびに感服しておりまして、この展覧会では、お気に入りの作品たちに再会できました。
再会できた作品も、初見の作品も、個々の作品として素晴らしいし、それらが一堂に会すること自体も素晴らしかった 展示方法も良かったですし…。
「史上最大の運慶展」のキャッチコピーを裏切らない、見事な展覧会でした。

   

「次点」の展覧会は以下の7展(順不同)です。

カッサンドル・ポスター展 @埼玉県立近代美術館(MOMAS)[記事]
川原慶賀の植物図譜 @MOMAS[記事]
遠藤利克展 @MOMAS
藝「大」コレクション @東京藝術大学大学美術館[記事]
フランス人間国宝展 @東京国立博物館[記事]
北斎とジャポニスム @国立西洋美術館[記事]
太陽の塔 1967-2018 @岡本太郎記念館[記事]

この7展のうち、遠藤利克展のことは記事にしていないし、川原慶賀の植物図譜藝「大」コレクション のことは中途半端で放置していてあれまぁ~ なもので、ここで「一部撮影 だった遠藤利克展の様子をちょいと載せます。

2Fのエレベーター前に、「空洞説-円い沼」どーん

巨大さもさることながら、炭化した木の表面が妙になまめかしいし、のように刳り込まれた底に溜まった(?) タールが匂って、ただならぬ風情を漂わせていました。

また、館中央の吹き抜けに、マンズー「枢機卿」に見つめられるように置かれた「空洞説-薬療師の舟」は、「何が起こったのか?」「これから何が起こるのか?」と、心を波立たせます。

マストのように屹立するの根元を観ると、、、

に浮いています (柱は天井から吊されています)
この柱から連想したのは、建物を支えるのではなく、床下に届かない高さで地面に埋まっている「心御柱(しんのみはしら)」

両者は上下逆ですが、俗人が立ち入ってはならない 空気を漂わせるところは似ているかと…

昨年はTOP102つの特別展が入ったMOMASでしたが、今年は3展が入りまして、相変わらず着眼点の良い、かつ、内容の充実した特別展を企画し続けています。
MOMASでは来年1月16日から「版画の景色 現代版画センターの軌跡」(リンク先は現在「準備中」)が開催予定で、MOMASときたら、フライヤー3種類用意しているなど、これまた相変わらずです。

   

惜しくもTOP 10に入れなかった展覧会は以下のとおり。
例年だったら楽々TOP 10に入ってもおかしくないような展覧会がいくつも入っています。

 並河靖之七宝展 @東京都庭園美術館[記事]
 藤森照信展@水戸芸術館現代美術ギャラリー
 東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展 @茨城県近代美術館
 日本のポスター芸術 @うらわ美術館[記事]
 米美知子「森に流れる時間」中村征夫「美ら海きらめく」
      @フォトギャラリーブルーホール

 DEPARDON / TOKYO 1964-2016 @CHANEL NEXUS HALL [記事]
阿修羅 天平乾漆群像展 @興福寺
 南方熊楠 100年早かった智の人 @国立科学博物館

奈良国立博物館で開催されている恒例の「正倉院展」に、私は初めて行くことができまして、「正倉院御物」凄まじさはもちろん、日本文化の歴史の重みを感じて、噂に聞く「正倉院展」とはこんな展覧会なのだと体感して、できることなら毎年行きたい と思いました。

毎年、出陳物を入れ替え開催されている「正倉院展」、今年は例年に比べてどうだったのか比較のしようがありませんので、敢えてTOP 10 選考対象外としました。

ということで、2017年の美術館・博物館めぐりの振り返りはおしまいです。

来年もステキな展覧会をたくさん観ることができるといいな。

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いつも赤信号な交差点 2017年4Q

2017-12-29 21:37:00 | タウンウオッチング

きのうから年末年始休暇に突入した私、きょう、実家に帰省してきました。

きょう・明日が帰省ピークだそうですけど、新幹線の指定席をとっていましたらから、ピークだろうがあまり関係ないこともなくて大宮駅駅弁を買おうとしたら、全然種類が少なくて、選択の余地があまりありませんでした。

   

さて、3か月に一度「恒例」「いつも信号な交差点」シリーズ2017年第4四半期(4Q)編を書きます。

まずは、職場からの帰り道信号で停められた交差点のランキングです。渋滞(信号2回待ち以上)は分子・分母の両方から除いています。

( )は前期:2017年3Q(7~9月)、[ ]は前年同期:2016年10~12月の順位です。

「赤信号」ランキング

上位3交差点は、常連というか「御三家」が揃ったのですが、90%超えが当たり前の「難関のはずなのに(例えば2017年3Qは揃って90%台でした)、今期は揃いも揃って80%台にとどまりました。

この傾向は信号+渋滞」でも一緒で、

赤信号+渋滞

90%を超える交差点は一つもありませんでした

   

ところで、①「信号」②「信号+渋滞」のランキングを見比べて、①よりも②の方がランクが上な交差点というのは渋滞の多かった交差点で、逆に②よりも①の方がランクが上の交差点は渋滞が少なかった交差点ということになるわけですが、前者としては「環八神明通り」「高井戸西交番前」が、後者としては「観蔵院入口」が代表的なところになります。
ということで、③「渋滞」ランキングを見てみましょう。

渋滞ランキング

ベスト10というかワースト10環八区間7つも入っていますなぁ…

環八の最悪渋滞頻発区間しかも、この7交差点は、芦花公園前=名無し(ヴィクトリア)=中の橋=高井戸西交番前=名無し(リハウス)=人見街道=環八神明通り=南荻窪一丁目南と、連続した区間なんですな。

このボトルネックになっているのは、「南荻窪一丁目南」の一つ先、「川南」交差点と、そのちょい手前で3車線から2車線に減る地点だと思っているのですが、その元凶「川南」渋滞ランキングに入っていないというのがまた、「川南」の性格の悪さが表れているようで…

ちなみに、環八のこの区間が激しく渋滞しているときは、首都高も同様に渋滞しているケースが多いようで、酷いときには、首都高3号線上りから中央環状線外回りにつながる大橋JCTらせんの途中から詰まっていて、そこから板橋JCTまで延々とトロトロと走らざるを得なかったことも何度かあって懲りました

首都高に迂回したり、山手通りに迂回するよりは、高井戸陸橋の手前から側道に入り、高井戸東一丁目⇒甲州街道(R20)⇒大原のルートで環七に迂回するのがまだマシなような気がしています。

   

そうそう③渋滞ランキングで、前期2017年3Qには9位に入っていた観蔵院入口(笹目通り)が、今回は圏外に去りました。というか、2017年4Qには観蔵院入口での渋滞経験は皆無でした

別に観蔵院入口付近で改良工事が行われたわけではありませんで、今年4Qでもしょっちゅう渋滞が発生しておりました。それなのになぜ?、、、なんですが、その謎解きの前に、R246区間(東名入口~瀬田)環八区間(瀬田~観蔵院入口)笹目通り区間(観蔵院入口~笹目)走破時間を見てみます。

走破時間比較

こうしてみると、今年の4Qなかなか走れていたんですな。
前記のとおり、「赤信号」率「赤信号+渋滞」率低めだったのですが、その結果として、走破時間去年の4Qと比較すれば「スムーズ」だった(そんなイメージはないけど…)ことが示されています。

それと、上の表で目につくのは、今年4Q笹目通り区間の標本数の少なさ(n=19)ではないでしょうか。

実は、観蔵院入口混んでいる、または混んでいそうだと思ったときは、井荻トンネルの右側車線を走り続け、笹目通りではなく環八をそのまま走り続けることが多かったのですよ。

井荻トンネル⇒(環八)⇒練馬北町陸橋手前⇒(ショートカット)⇒川越街道(R254)⇒北町⇒新大宮BP(R17)⇒笹目⇒…

という迂回ルート(下の地図では赤い線)を積極的にとりました。

青線:笹目通りルート、赤線:迂回ルード

その結果、観蔵院入口渋滞に嵌まることが一度もなかった という次第です。 

笹目通りルート8kmなのに対して、この迂回ルート10kmと距離は伸びるのですが、所要時間は、空いているときの笹目通りには敵わないものの、やや混み状態の笹目通りルートとは、ほとんど同じですし…。

最後に、ほとんど上位不動オールタイム「いつも信号な交差点」ランキング(n=980)を載せて本日の記事は完結です。

オールタイム「いつも赤信号な交差点」

つづきのようなもの:2018/04/02 いつも赤信号な交差点 2018年1Q

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【お知らせ】数日、ブログの更新をお休みします

2017-12-24 20:57:19 | 日記・エッセイ・コラム

タイトルのとおりで、数日、ブログの更新をお休みします。

年末を控えて、なにやかにやと忙しいもので…。

遅くとも12月28日(木)には再開の予定です。

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2017年3度目の関西旅行記 #2-13

2017-12-21 22:47:32 | 旅行記

「2017年3度目の関西旅行記 #2-12」のつづきです。

海上自衛隊舞鶴地方隊に在籍している艦艇・哨戒機は、いただいたリーフレットによればのとおりなんですが、入口から一番近いところにいたは、

ちょっと古風護衛艦「せんだい」でして、リーフレットには艦名が載っていません

それはさておいて…。

Wikipediaによれば、「せんだい」去年の6月呉から舞鶴へ転籍されたそうで、単にリーフレットの版が古かっただけのようです。

この「せんだい」の兵装をちょいと見ますと、まず艦体の中央付近にあったのが、いかにも「ミサイルが入っています」といった風情の発射装置でした。

見た感じ、対空ミサイル対艦ミサイルっぽいのですが、これは対潜ミサイル「アスロック」の発射装置(ランチャー)。
Wikipediaから転記すれば、、、

アスロックの弾体は短魚雷(あるいは核爆雷)の後方に飛翔用ロケットを取り付けた構造となっており、発射後、約マッハ1の速度で目標方向へ放物線状に飛翔する。目標の手前空中でロケットモーター部分が切り離され、短魚雷に接続されたパラシュートで減速落下しつつ海面に着水、パラシュートはその衝撃で切り離される。その後、短魚雷は目標を自動追尾し攻撃する。空中を飛翔するため、同型の魚雷を魚雷発射管から発射し水中を航走させるのに比べて射程距離が大きく伸び、到達時間も短縮される。射程距離は約4,000-12,000ヤード。

要するに、自動追尾型の魚雷を目標物近くの海域までロケットで飛ばすんですって。
海上自衛隊自慢の対潜哨戒技術と組み合わせれば、相手方の潜水艦には脅威以外の何ものではないのでしょうなあ。

このアスロックのやや後方にあったのがこちら

水道管か何かを斜めに立てかけたようなものが4本と、艦体と平行に、葉巻状のものが見えます。

 「立てかけたパイプ」のようなものは対艦ミサイル「ハープーン」の発射装置で、「葉巻状のもの」魚雷発射管だそうな。

この対艦ミサイル発射装置は、どことなく長閑(のどか)な雰囲気をかもし出していて兵器には見えないのですが、ミサイル艇うみたか(右)」「はやぶさ(左)」に搭載された様子は、艦が小さいことと(基準排水量:200t)「はやぶさ」架台しか搭載されていないことから、どことなく工事現場に向かう途中のトラックっぽい…

この「うみたか」「はやぶさ」の艦尾にはこんなのがついていました。

排水口ならぬ推進装置3つ

主機関はアメリカのゼネラル・エレクトリック社が開発し、石川島播磨重工がライセンス生産しているLM500-G07ガスタービンエンジン(出力5,400馬力)を3基搭載している。各エンジンは船体に並列に並べられ、それぞれ一基のウォータージェット推進のノズルに接続されている。
LM500-G07エンジンはミサイル艇1号型に搭載されているものと同型であるが出力が400馬力向上している。最大速力は44ノットに達する。ウォータージェット推進器としては、1号型では荏原製作所300CDW型が採用されたのに対して、本型では三菱重工業のMWJ-900Aとされている。

ですって
「44ノット」って、約80km/hですよ
こんな高速船に追いかけられたらたまったものじゃないだろうけれど、追いかける方だって、こんなスピードで海上を疾走したら、乗組員たまったもじゃないのではなかろうか?
舌を噛まないよう「会話禁止だったりして…

一方で、「はやぶさ」の甲板にあった、

ミサイル装てん中 火気厳禁

の注意書きにになぜか和んだりして…
また、こちらは

コンサートなんかで使われるキラキラテープ発射装置」みたいです

でも、このから発射されるのは、もちろんキラキラテープではなく、デコイだそうです。
もっとも、「デコイ」って、見た目、キラキラテープ を細かくちぎったものみたいなものじゃなかろうか… であれば、キラキラテープ発射装置」だと言えないこともなかったりして…。

つづき:2017/12/31 2017年3度目の関西旅行記 #2-14

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2017年3度目の関西旅行記 #2-12

2017-12-20 22:42:41 | 旅行記

「2017年3度目の関西旅行記 #2-11」のつづきも海上自衛隊舞鶴地方隊北吸桟橋のお話です。

ヘリコプター搭載型護衛艦(DDH)「ひゅうが」の東側に停泊していたのは、補給艦「ましゅう」でした。

デカい「ひゅうが」(全長:197m、基準排水量:13,950t)にもまして「ましゅう」(全長:221m、基準排水量:13,500t)デカい

そして、より「のぺぇ~としていました。

とても地味な船なのですが、

それは補給艦ですから、地味なのは当然といえば当然のこと…、なんですが、前日夕潮台公園から見えた「ましゅう」「満艦飾」モードでした。

ところが、この日の「ましゅう」「満艦飾」モードとはほど遠い地味ぃ~な存在でした。
「#1-6」で書いたように、前日(10月28日)は、通常なら一般公開されているはずの土曜日ながら、北吸桟橋「都合により」公開されていなかったわけで、それなのに、「満艦飾」モードとは、どういうことなのでしょうか?
賓客要人が視察に来ていたのでしょうかねぇ…

   

「ひゅうが」同様、「ましゅう」くらい大きな船になると岸壁から見える範囲も狭まるわけですが、

クレーンっぽいものがあったり、燃料ホースらしきものがあったりして、そこはやはり補給艦らしい
外からは見えないものの、「ましゅう」病院船としての機能も持っていて、Wikipediaによれば、病床46床もあるんですって

でも、病人や怪我人をどうやって「ましゅう」に収容するんでしょ?

そこは当然ながら後部甲板ヘリポートを持っておりまして、ヘリコプターで病人や怪我人を運び込むことができます。

物資輸送や補給もできるし、病人や怪我人手当もできる「ましゅう」災害出動でも活躍が期待できるわけでして、東日本大震災の際には「ましゅう」も出動したとのこと。

地味な艦船ではあるけれど、頼れる船なんですな、「ましゅう」は…

つづき:2017/12/21 2017年3度目の関西旅行記 #2-13

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2017年3度目の関西旅行記 #2-11

2017-12-18 23:14:23 | 旅行記

「2017年3度目の関西旅行記 #2-10」のつづきです。

「#2-11」に引き続いて海上自衛隊舞鶴地方隊北吸桟橋で見たヘリコプター搭載型護衛艦(DDH)「ひゅうが」をしげしげと拝見しましょう。

主錨が艦首の左舷先端についているのも珍しい のですけど、

艦全体が、なんか、のぺ~っ としている気がしませんか?

下に載せた戦艦大和(大和ミュージアムで観た1/10模型)の艦橋付近と比べるまでもなくシンプルというか、平面的というか…

Wikipediaから引用すれば、

艦体や上部構造物はステルス性を考慮して側面に傾斜がつけられ、表面は平滑に整形されている。

だそうで、敵方のレーダーに写らないようにするための造形なんですな。
加えて、平面型レーダー(フェーズドアレイ・レーダー)を付けやすくするという意味もあるかもしれません。

見えない遠方にいる敵と対峙する現代の軍艦にとって、「人の目を気にする」よりも「敵のレーダーを気にする」ことが必要だし、敵より先に敵の存在に気づき、その位置を特定することが大事なんでしょう。

「#2-10」に載せたこの写真

艦船の姿でもっとも目立つのは、白い物体で、その武装以上にやたらとにつきます
で、その「白い物体」のほとんどはレーダーなんですな。

今回、護衛艦を間近に観て持った印象の第一は、レーダーが多いこと、そして第二が武装が目立たないことでした。

というところで、きょうはここまで

つづき:2017/12/16 2017年3度目の関西旅行記 #2-12

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2017年3度目の関西旅行記 #2-10

2017-12-17 09:38:50 | 旅行記

「2017年3度目の関西旅行記 #2-9」のつづきです。

海上自衛隊舞鶴地方総監部の敷地内にある海軍記念館から次の目的地の北吸桟橋までは、いただいたリーフレットによれば400m離れていることになっています。

でも、総監部前の歩道橋に昇ると、ほとんど総監部向かい側北吸桟橋で、停泊中の護衛艦が見えました。

艦体の塗装色が曇天と似たような色で、自然と迷彩を施されたようになっていますな。
もっとも、自衛艦は、ステルス性能を持たせるなど、「見えない」ように心しているわけで、あり得べき佇まいなのかもしれません。

で、北吸桟橋の見学者入口にいらっしゃった「衛兵」の方も、ブルー迷彩カッパを着用されていました。
陸上自衛隊ならともかく、海上自衛隊の隊員が迷彩服を着用するのはどれだけの意味があるのでしょうかねぇ…

   

さて、入口の受付で見学証を受け取って(入場中の見学者数を把握するためのものなんでしょ)、さぁ、北吸桟橋の見学を開始

まずは、ヘリコプター搭載護衛艦(DDH)ひゅうがお尻

でかい
そして、長い

岸壁には、船が接岸するときの衝撃を和らげるため、古タイヤが吊されているものですが、このクッションがまたデカい

ところで、飛行機や自転車は馬は、左側から乗るものと相場は決まっていますが、列車と同様、「左から乗る」とは決まっていないようです。
とくにひゅうがの場合、檣楼(艦橋構造物)右舷に偏って設置されていますから、右舷から乗下鑑することにしているようです。

たまたま、ひゅうが右舷から休憩に入った(あるいは勤務明け)と思われる搭乗員の方々が下船していらっしゃのですが、みな一様に制帽を被り、紺色コート(階級章付き)を着込んでなかなか凜々しい(女性自衛官も数人)。

ここで気づいたのは、本格的なが降っていたにもかかわらず、皆さんがを差していないこと。
帽子コートも、すぐにグショグショに濡れてしまうでしょうに…

でも、考えてみれば警察官だって、雨の日を差している制服姿の警察官なんて見たことがありません。
警察官自衛官も、傘で片手をふさがれるのはあってはならない ってことなんでしょ

   

さて、このひゅうが、より大型のDDH「いずも型」と共に「ヘリ空母」と呼ばれています。

ひゅうがの場合、ヘリコプターを最大11機搭載でき、同時に3機が発着鑑できるそうで、東日本大震災(2011年)熊本地震(2016)の際には、三陸海岸沖八代海に出動して、「物資の補給基地」として活躍したのだそうな。

もっとも、ひゅうがは単なる「移動ヘリポート」であるはずもなく、当然ながら武装しています。
岸壁からミサイル垂直発射装置は見えませんでしたが、左舷艦尾「高性能20mm機関砲」はよく見えました。

この機関砲(ファランクス)、説明書きによると、

艦に向かってくる敵航空機やミサイル全自動で識別・迎撃する対空砲です。
毎分4500発という非常に速い発射速度を持ちます。また、むかって右側に装備されている赤外線カメラによる手動照準モードもあり、これを使用して昼夜・視界を問わず不審船や、テロ目的の自爆ボート等への警告射撃や攻撃も行うことができます。

だそうで、巨大な艦体に比べて頼りなげなサイズながら(上に載せた「ひゅうが」のお尻の写真をご参照方)、まさしく「高性能」です。
それにしても、毎分4500発って…

なぁ~んて素敵なBPM (MISIA「Catch the Rainbow」)

なんて浮かれている場合ではありません

でも、こんなに高速で撃ちまくったら、すぐに弾倉が空(から)になってしまうのではないかと思うわけですが、Wikipediaによれば、「携行弾数」1,550発
ということは、20秒フル発砲できない…
弾を撃ち尽くしてもゴジラの進出を阻止できなかったシン・ゴジラタバ作戦をの悪夢がよみがえる…

それはそうと、軍艦といえば、巨大な大砲をイメージしてしまう「古いタイプ」の私ですが、

現代の軍艦、っつうか、護衛艦「主砲」はこの「高性能20mm機関砲」になっているようで、結構な数の護衛艦に搭載されています。
大和型戦艦主砲口径46cmに比べるまでもないわけですが、

現代の「海戦」では、「砲」自艦の防御用兵器に特化し、攻撃用兵器ミサイルですから、これはこれで良いのでしょう

と、わけの判らない結論に至ったところで、今回はおしまいにします。

2017/12/18 2017年3度目の関西旅行記 #2-11

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2017年3度目の関西旅行記 #2-9

2017-12-14 23:04:19 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2017年3度目の関西旅行記 #2-8」のつづきです。

海軍記念館は、っつうか、舞鶴自衛隊関連施設全体で東郷平八郎色が濃かったわけでして、こんな展示までありました。

何かの帳簿なんですが、これはなんと、東郷元帥が舞鶴に住んでいた頃の所得税課税台帳

説明書きによると、

東郷中将(当時)の年収は、明治35(1902)年には4,500円だったものが、翌明治36(1903)年には、現在の価値にして5,000万円相当だという8,300円へと80%以上ジャンプアップしています。
これは、東郷中将が1903年10月に常備艦隊司令長官、さらに同年12月には第一艦隊兼連合艦隊司令長官へと「栄転したことが影響しているのでしょうか?

それにしても、当時の高級軍人って高給取りだったんですなぁ…
もっとも、

明治40年、高野五十六(山本五十六)当時少尉の年収430

だそうですから、格差デカかったということなのでしょう。

また、年収8,300円に対して所得税が166円だったということは、実効税率はたったの2%
今からするととんでもない低税率だったんですなぁ…
ここで、明治35(1902)年度の租税収入の内訳を調べてみました。
すると、こんな結果が出ました。

酒税:38.6%、地租:28.2%、関税:8.4%、所得税:4.5%…

あれまぁ~ ですよね。
ちなみに2015年度の租税収入内訳は、国・地方合計で、

所得税・個人住民税:30.6%、消費税:22.6%、法人税:19.8%、
固定資産税:8.7%、酒税:1.4%

と、激変しています。
明治期は、土地以外の資産を持って稼いでいる人たち、最近聞かなくなったいわゆる「資本家」にとってはウハウハの時代だったんろうな…。

それはともかく、個人の課税台帳晒すなんて、大丈夫?

   

東郷元帥といえば、旗鑑 三笠の艦上で日本海海戦の指揮をとる東郷大将(当時)を描いたを思い浮かべるのですが、この2種類あるって知っていましたか? (私は知りませんでした)
よく知られているのが、横須賀の三笠艦内に展示されているこちら(B図)で、

もう1枚が、こちら(A図)

どちらも東城鉦太郎画伯による作品で、この2枚を比較するパネルが展示されていました。

これによると、先に描かれた(1906年)のはに載せた作品(A図)で、このオリジナルは、

築地海軍記念館に展示中、関東大震災焼失。各方面からの熱心な要望で大正15(1926)年東城画伯が再び「三笠」に赴き再製したのがB図で、Bの原画は横須賀市・記念艦「三笠」の艦内にある。現在各方面に出ているのは大半がBの再製図である。

だそうで、記録をもとに、オリジナル(A図)再製画(B図)を比較した表が示されていまして、

これによれば、結論は、

最初に書いたAの方がBより当時の状況に近い

だそうです。

ところで、今年5月鹿児島旅行のとき、加治屋町の鹿児島中央高校の校地で「東郷平八郎誕生地」の碑と説明パネルを拝見しましたなぁ~ (記事はこちら)

   

さて、舞鶴地方総監部大講堂(旧海軍機関学校大講堂)は、

なんとなく学校の体育館のようでした。
でも、この建物は「#2-7」で書いたように、

昭和8(1933)年、海軍機関学校の当時の関係者が、昭和天皇の行幸のため約3カ月の突貫工事で建設したものです。

なわけで、その行幸時の写真が展示されていました。

この講堂のステージ中央に立つのは、いかにも昭和天皇(当時32歳)だ

こんな風にして海軍記念館の見物を終えた私は、再びの中に歩き出したのでありました。

つづき:2017/12/17 2017年3度目の関西旅行記 #2-10

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2017年3度目の関西旅行記 #2-8

2017-12-13 23:31:32 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2017年3度目の関西旅行記 #2-7」のつづきは海軍記念館のお話。

「#2-7」で書いたように、この建物は「旧海軍機関学校の大講堂」として建てられたもので、講堂部分「舞鶴地方総監部大講堂」として使われています。

というか、

海軍記念館は、旧海軍の史実と伝統を後世に伝えるとともに、隊員の教育に資することを目的として、昭和39(1964)年 舞鶴地方総監部大講堂(旧海軍機関学校大講堂、昭和8(1933)年建築)の一部に設置されたもので、貴重な記念品、資料等200余点が展示されています。

と、厳密に言えば、大講堂の入口付近「海軍記念館」になっていました。

で、この海軍記念館(大講堂)に入ると、真正面を飾るのが、

旭日旗「海軍大将 東郷平八郎胸像」でした。

この旭日旗、説明板によれば、

この日章旗(ママ)は、日本海軍が建造した最初の飛行艇母艦「秋津洲」(4650t)のものです。
「秋津洲」は、昭和17年4月29日に完成し、第11航空艦隊とともに、ソロモン方面で活用した。
昭和19年9月フィリピンコロン湾にて米軍機の攻撃により、沈没した。その際、乗組員が持ち出したものです。

だそうで、Wikipedia「秋津洲」写真が載っていました。

艦尾の旭日旗(軍艦旗)この旗なんでしょうか…
どのくらいの頻度で軍艦旗新調したのか判らないのですけど…

それはそうと「秋津洲」、何でしょ、この迷彩
こんな迷彩をした軍艦なんて見たことがないのですが、Wikipediaに記述がありました。

秋津洲が施していた特異な迷彩塗装は、本艦の初代艦長黛治夫大佐の影響であった。第一次ソロモン海戦後のラバウルで、第八艦隊参謀長大西新蔵少将が本艦の迷彩の事を「厚化粧みたいにゴテゴテ塗ってきたな」と指摘した時には「攻撃力がないから、昆虫のように保護色にしたんですよ」と黛艦長は説明している。

だそうですが、結局は沈められた…

さて、海軍記念館の展示のこと。

まずはこちら。

木製の「棒」に、螺鈿で、

 皇国興廃在此一戦
 各員一層奮励努力

と、日露戦争の日本海海戦の際、Z旗が意味してた東郷元帥の訓示が象嵌されているこの「訓示棒」なるもの、いったい何に使ったんでしょ?
かの悪名高い「海軍精神注入棒」のように「ケツバット」として使うには、小さすぎる気がしますけど。

お次は、英国海軍に範を取ったという大日本帝国海軍らしいこちらの調度品

銀製らしい食器、砂糖壺です。

てっぺんにとともに「さかみ」と刻まれていて、実際に存在したのか知らないけれど「戦艦 相模」の備品かな? と一瞬思ったのですが、当時のしきたりにそって右から読めば「みかさ」…。

そう、日露戦争の日本海海戦で、東郷大将(当時)が司令長官として座乗した戦艦 三笠の備品でした。

ちなみに、「戦艦 相模」実在していまして、なんと、もともとはロシア海軍軍艦で、日露戦争の際に旅順港日本陸軍の攻撃を受けて沈没、終戦後、日本海軍が引き揚げて「相模」と命名してわがものになったのだとか。
その後の「相模」の艦歴もかなりドラマチック(舞鶴にも縁がある)なので、ぜひWikipediaをご覧くださいませ。

で、砂糖壺の展示、ちょっと視野を広げれば、、、、

軍艦 三笠カトラリーだと説明されていました…

軍艦 三笠は、私が横須賀市民だった頃に実物を見学しました。

さほど大きな船じゃないのに、その内部には、ハイソサエティ(将官)と、ケツバット(映画「男たちの大和/YAMATO(この作品も舞鶴ロケがあった)で中村獅童演じる内田二等兵層ぶち切れていましたっけ)しごかれる兵隊と、まさに天国と地獄が共存していたのでしょうねぇ

つづき:2017/12/14 2017年3度目の関西旅行記 #2-9

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