新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

夢空間

2014-07-30 23:36:28 | MISIA

きょう、帰宅すると届いていた某クレジットカードの会報、ページをめくっていくと、、、

おぉっ

140730_1_01 Misia Candle Nightの広告ではありませんか

一昨日、こちらの記事Misia Candle Nightのことを書いたと思ったら、翌日(きのう)、某ミュージシャンネタバレになりますので心してクリックしてくだされ)が

今日からMISIAキャンドルナイトのリハーサル開始♪  メチャいい感じ!
楽しみ!

とつぶやいて、うおぉっ盛り上がったと思ったら、さらに追い撃ちをかけるように、きょうはこの広告

まっさらの状態「あなた色に染まりますの状態)で河口湖に行けるのか、かなり不安はありますけれど、チャレンジするつもりです

と宣言したというのに、その気持ちが揺らいでしまうではありませんか
(もう一部で決壊してます

さらにさらに、MISIA official informationでは、

今年で3回目となる「Misia Candle Night」開催まで、いよいよ10日となった本日、WEBにてSPOT映像を公開致しました。
http://youtu.be/6CoN5y78cnA
是非、ご覧下さい。

ですって

う~む、、、、楽しみデス…

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祝11万km

2014-07-29 22:31:47 | 日記・エッセイ・コラム

私の愛車の走行距離が10万kmの大台に乗ってから(記事はこちら)約4ヶ月経ち、淡々と距離を積み重ねた愛車は、今夜の帰り道に11万kmを超えました。

140729_1_01

次なる「節目」は、「111,111km」
残り約1,100kmですから、夏休みに入って早々には到達する見込みです。

いくら調子良好の愛車(車聆7年ちょっと)とはいえ、さすがに222,222kmは無理でしょうから(あと4年かかる…)、その後の「節目」「123,456km」のみと思われます。
今年末~来年初めにやって来るであろうその時を逃さないよう、心しておくことにします。

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あと2週間で、、、

2014-07-28 22:54:23 | MISIA

通勤・帰宅の道路、4月以降、3月の渋滞がウソのように、行きも帰りもユルユル状態だったのですが、今週からは、いよいよ「夏休みモードに入ってきたようです。

首都高速「やや混み」になっているし、港北パーキングエリアには親子連れが目につくし、帰りは、東名高速上り「大和トンネル渋滞」が発生しているし、一般道もそこそこの混み方になっています。
あと2週間渋滞暑さに耐えなければなりませんな。

というわけで、私はあと2週間9日間+1日の夏休みです

ということは、あと2週間で、

140728_1_01

Misia Candle Nightが始まります

ところが私、いろいろ検討した結果、Finalの河口湖2daysのみの参加です。
それまでの香川・さぬき市(8/9)札幌(8/23)長崎(8/30)ネタバレを見ずに過ごして、まっさらの状態「あなた色に染まりますの状態)で河口湖に行けるのか、かなり不安はありますけれど、チャレンジするつもりです

まったく予期していなかった「つづき」:2014/07/30 夢空間

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紀伊半島旅行記(その33:最終回)

2014-07-27 09:46:16 | 旅行記

「紀伊半島旅行記(その32:奈良⑧)」のつづきは、いよいよ2か月以上も書き続けてきた紀伊半島旅行記最終回です。

東大寺を後にした私は、「定番メニュー」興福寺国宝館を拝観しました(下の写真は東金堂五重塔)。

140727_1_01

毎年訪れている国宝館、何度拝見しても素晴らしい作品の数々で、見飽きるどころか、定期的に拝見しないと禁断症状が現れそう

ただこの日は小学校低学年の団体さんが来場していてけっこう賑やか ゴールデンウィーク真っ最中とはいっても、カレンダー上は「平日」だったんですよね。

   

この後、もちいどのセンター街で遅い昼食を摂ったあと、元興寺を探しながら(「その28」をご参照方)ならまちを散策しました。

140727_1_02

奈良の旧市街地は京都・金沢と並び、太平洋戦争の戦災をまぬがれ、古き良き日本人の生活風景を残す、全国でも希少な町です。
その歴史は奈良時代(710年~)に平城京の外京として整備されたことに始まります。794年の平安京遷都の後、平城京の多くは風化しましたが、外京は国家鎮護の仏教寺院を多く有していたため、町を維持することができました。
その旧市街地の南側4分の1程度が、元興寺の旧境内を中心とした「ならまち」界隈です。
江戸中期には猿沢池界隈が「お伊勢参り」の宿場町として栄え、明治~昭和時代には奈良の商業の中心地となります。しかし戦後になると、近鉄奈良駅周辺の発展とともに地域は徐々に落ち着いていきます。 
閑静な住宅地に変貌した1980年代に、当時の20代の若者が中心となって「まちづくり」が始まり、現在の訪客の絶えない町に至ります。

だそうで、確かに多くの観光客が散策していました。
でも、伊勢神宮内宮門前のおはらい町・おかげ横丁(訪問記はこちら)のようなギラギラした雰囲気はなく、生活感漂う落ち着いた感じ心地良い

140727_1_03

次に奈良に行くときは、ガイドMAPをダウンロードするとか、しっかりと準備して、ならまちを再訪したいと考えています。

   

私が関西に出かける場合、往路は飛行機、帰路は新幹線を使うことがほとんどなんですが、今回はマイレージ特典を利用したもので、帰りも当然飛行機でした。
奈良から大阪空港へは、リムジンバスを利用しました。乗り換え無しだし、速いし、楽ちん

バスの中で、PCを立ちあげて、ケータイから送ったブログの記事に追記していると、気分的にはあっという間大阪空港に到着しました

ここからは、何事もなくすんなりと帰宅できるはず、、、、だったのですが、帰宅後に書いた記事にあるとおり、

かなり大きなアクシデントが発生

したのですよ

飛行機が離陸して、「シートベル着用のサインが消えたのを確認した私は、機内に持ち込んで「前の座席の下」に押し込んでいたバッグからPCを取り出そうとしました。
ところが、

PCが無い

あれ? バッグを「前の座席の下」に押し込むときにPCが出ちゃったかな? と思って座席の下を探しても、、

PCは無い

リムジンバスの中でPCを使ったわけですから、ホテルに忘れてきたハズはないし、確かに手荷物検査のときにはPCをバッグから取りだして別のトレイに乗っけてX線装置を通したし…、、、、ん? もしかして、この時にPCを回収し損ねた?
思い出そうとしても、金属探知機のゲートをくぐってから、飛行機の中でPCを探すまでの間にPCの記憶はまったくありません

やはり手荷物検査場に忘れてきた可能性が高そうです

CAさんに相談すると、「大阪空港の管理事務所に問い合わせるべし」と、電話番号を教えてくれました。
羽田空港に到着して、ケータイの電源を入れる手間もまどろっこしく感じながら、さっそく大阪空港の管理事務所に電話すると、忘れ物としてPCは届いていないこと、手荷物検査場~搭乗口での遺失物ならば空港管理事務所ではなく航空会社が管理していること、既に航空会社の管理事務所の営業時間を過ぎているので、明日以降に問い合わせて欲しいことを伝えられました。

こんな経緯があって、当日の記事に、

それが片付くまでは(旅行記は)「おあずけ」です。あしからず…。

と書いた次第です。

   

そして翌朝、航空会社の事務所の営業開始を待って、電話しました。

すると、管理事務所に私のPCが届いている由。

よかった…

結局、着払いの宅配便で自宅に送ってもらうことになり、翌日には無事にPCを回収することができました

こんなわけで、自宅帰着から2日後をもって、今回の紀伊半島旅行大団円を迎えたのでありました。
めでたし、めでたし…。

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猛暑の避難先には美術館・博物館がお薦め

2014-07-26 20:43:00 | タウンウオッチング

猛暑の続く中、久しぶりに銀座に出かけて買い物した後、北浦和駅前の埼玉県立近代美術館(MOMAS)に行ってきました。

銀座は、さすがに暑さにひるんだか、人出は少なめの感じでしたが、それよりも、スクラップ&ビルドが進行中で、かつて勤務先が銀座にあった私としては感慨ひとしお…

銀座4丁目交差点(尾張町交差点)では、サッポロ銀座ビル解体作業の真っ最中でしたし、

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松坂屋銀座店の建物が姿を消していましたし、

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数寄屋橋交差点では、銀座TSビル(私としては、テナントに旭屋書店が入っている「銀座東芝ビル」のイメージが強烈ですけど)が姿を消して、風通しが良くなっていました。

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でも、風通しも何も、とにかく暑い
こんな時には、涼しい美術館や博物館に出かけるのが一番です。
もっとも、美術館や博物館が涼しいのは、「観客のため」というよりも「展示作品のため」なんですけど…

   

ということで、有楽町駅山手線東京駅京浜東北線北浦和駅のルートで、MOMASに移動しました。

140726_2_04

MOMASでは企画展「戦後日本住宅伝説ー挑発する家・内省する家」が開催中で、これはこれでなかなか面白い企画展だったのですが、きょう一番の収穫は、常設展「MOMASコレクション」でした

2014年度第2期の「MOMASコレクション」

画家のまなざし-モーリス・ドニと見るフランス近代絵画
読みように見ること-荒川修作の絵画
リサーチ・プログラム:小村雪岱をめぐって

の3部構成。

140726_2_05 このうち荒川修作のコーナーは目新しさに乏しかったものの、「ドニ特集こちらで書いた「Misiaさん」も登場)と「雪岱特集」出色でした

とりわけ、「雪岱特集」の方は、おなじみのMOMAS収蔵作品に加えて、2009年12月~2010年2月にMOMASで開催された「小村雪岱とその時代」展(記事はこちら)をきっかけに、雪岱作品の寄贈や寄託のお話MOMASにたくさんやって来たそうで、初めて拝見する作品がたくさん展示されていました。

その中の一つが、「両国川開大花火番組」でした。

雪岱の「四季四部作(と書いていいのか?)」が、「青柳」(春)、「落葉」(秋)、「雪の朝」(冬)の3作品しか展示できないからということで、「夏」の代わりに、1936年の隅田川花火大会のプログラムが展示されていたというわけです。

ふと気がつくと、きょうは隅田川花火大会当日ではありませんか
うぉ~、奇遇

というわけで、企画展「戦後日本住宅伝説ー挑発する家・内省する家」と合わせて、いままでなかったほど長い時間を費やしたきょうもMOMASでした。

今期のMOMAS(8月31日まで)は、超お薦めです

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井桁と菱を調べてみた話

2014-07-26 10:14:54 | タウンウオッチング

先月、三井記念美術館特別展「超絶技巧! 明治工芸の粋(すい)」を観に行ったということはこちらの記事に書きましたが、その際、三井記念美術館が入居している三井本館重要文化財)をしげしげと拝見してきました。

周りにビシリとビルが建ち並んでいるものですから、その全体像を枚の写真に収めることはできませんでした

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その代わり、細部を見物

コリント式の列柱にほれぼれしたり、

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建物上部には、三井財閥事業を象徴するレリーフが飾られていることを知ったり、

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旧三井財閥の旧本丸たる威厳に感じ入ったのでありますが、その意外さに見入ってしまったのがこちら

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玄関に彫り込まれているのは、三井グループのシンボルマーク「丸に井桁三」ではなく、なぜか「隅立て四つ目結」紋です

三井グループ目結紋とはどんな関係なんだろうかと思ったら、なんのことはない、三井家の家紋「隅立て四つ目結紋」でした。

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三井グループ、というか、越後屋呉服店「丸に井桁三」を使い始めた経緯は、上の画像を拝借した「三井広報委員会」のサイトによれば、

もともと三井家は、近江源氏佐々木一族の六角氏幕下に属する武家の出。そのため、三井家の家紋も佐々木氏と同じ「四ツ目結(むすび)」であった。
高利の祖父三井高安が伊勢に移り住み、その子の高俊(高利の父)が商人となって松阪で酒屋の商売を始めたとき、この武家紋の「四ツ目結」を暖簾に用いた。高利も、越後屋呉服店の開店時には「四ツ目結」を引き継いだが、その武家紋を改めようというのである。
旧習を重んじる時代にあって、新たな店章を創始するなどは重大事であった。店の使用人全員が異議なくこれを受け入れるためには、店章そのものに権威や確固たる意義も必要であった。なおかつ、将来にわたる三井家の大きな理想と抱負を店章に表すには何がふさわしいのか、高利はその考案に苦心したことだろう。
伝承によれば、その思いはやがて母殊法の夢想となって現れたといわれる。実のところ「丸に井桁三」は、決して三井の二字を平凡に図形化したような着想ではない
丸は天井桁は地三文字は人を表し、これらにより天・地・人の三才を示すという、すこぶる深遠な意味合いが含まれているのである。

だそうです。
まことに「深遠」だと思います。

   

ところで、「紀伊半島旅行記」最終回を差し置いて、思い出したように「三井家の紋」について書き出したのには訳がありまして、録画していたNHKスペシャル「中継 京都 祇園祭 千年の謎」を観たから、そして、その中に、「隅立て四つ目結」紋付きを着た三井高利さん小倉久寛さんの白塗りと京言葉(?)うさんくさかったが登場したからなのです。

へぇ~、さすがはNHK

と思いました。

一方、去年、高島(上陸記こちら)で観た岩崎弥太郎さんの銅像は、岩崎家の家紋「三階菱」ではなく、三菱グループのシンボルマーク「スリーダイヤ」のついた紋付を着ていましたっけ…

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三井・三菱と来れば、住友グループも採り上げておかねば気が済みません

ところが、住友の場合は、若干バランスは違うものの、住友家の家紋「井桁」がほぼそのまま「菱井桁として商標に使われているようです。

でも、「三井⇒井桁」「三菱⇒菱」は容易に結びつきますが、どうして「住友⇒(菱)井桁」なんでしょうか?

住友グループ広報委員会のサイトによれば、

住友の商標である「菱井桁」は、住友の屋号「泉屋」に由来する。泉という字は、『孟子』によると、「原泉混混として昼夜を舎めず。科に盈ちて而る後に進み、四海に放る。本有る者は是の如しとあるように、清冽な水が昼夜をわかたず滾々と湧き出てつきない意味があった。また、お金のことを「貨泉」あるいは「泉貨」と称したので、商人にとって泉の象徴でもある「井桁」は、非常に縁起のよい商標として一般的に用いられてきた。

だとか。

この由来を知れば、京都・鹿ヶ谷と東京・六本木にある「泉屋博古館(読みはせんおくはくこかんという美術館(東京が分館)が「住友系」だということがすんなり理解できますな…

   

ところで私、住友グループ各社は同じ形の「菱井桁」を商標・社章に使いながらも、で差別化を図っていることは知っていましたが、

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三井グループ微妙に形の異なる「丸に井桁三」を使い分けているとは知りませんでした

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「社章の色から住友グループの社名当てクイズ」とか「社章から三井グループの社名当てクイズ」とか、ごく一部の人にはウケるかも…

というか、この記事そのものも、「ごく一部の人」以外にはさっぱりなんだろうな…。むちゃくちゃ間がかった記事なんだけど…

コメント (2)
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紀伊半島旅行記(その32:奈良⑧)

2014-07-21 22:13:27 | 旅行記

「紀伊半島旅行記(その31:奈良⑦)のつづきは、国分寺・国分尼寺のお話です。

東大寺大和国国分寺であると同時に、全国に置かれた国分寺の筆頭たる総国分寺だったわけですが、その対となる総国分尼寺だったのが、この日最初に訪問した法華寺でした。

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「『東大寺と対』なら西大寺だろと考えてしまうわけですが(西大寺訪問記はこちら)、西大寺の創建は聖武天皇&光明皇后の娘、孝謙上皇の発願によるもので、微妙に世代がズレます。
一方、総国分尼寺たる法華滅罪之寺こと法華寺は、寺の前に掲げられた「法華滅罪寺縁起略」と題する縁起書きによれば、

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抑も当寺は人皇第45代聖武天皇の御后光明皇后の御創立にして天皇東大寺を建立し給い総国分寺として男僧の仏法修行の道場と定められしに倣わせ給い茲に女人修行の根本道場を建て皇祖の御菩提と国家平安を祈念せられ天平勝宝5年奈良朝皇居のほとりに七堂伽藍を造営し給い行基菩薩を戒師として御落飾遊ばされ自ら則真と号し給いて当寺に御坐しまし専ら比丘尼の仏法修行道場と成し之れを総国分尼寺と定め給えり時に天皇行幸あらせられ宸筆紺帋金泥の法華経を納め給う因りて寺号を法華滅罪之寺と名付けられしも後世法華寺と略号するに至りしなり

140721_1_01 だそうです。旧字や旧仮名遣いを直してもなお読みづらい説明ですが、要は、聖武天皇が東大寺を創建して総国分寺として男僧の修行道場としたのにならって、光明皇后がこの地に伽藍を建て、尼僧の修行道場として総国分尼寺に定めた、というもの。
ちなみに右の画像は、「木簡形一日フリー乗車券」の特典としていただいた林屋拓蓊「光明皇后『御影』」のポストカードです。

2010年の光明皇后千二百五十年大遠忌を機に作家生命を賭して光明皇后の絵姿を製作、奉納した縦160センチ横85センチの掛軸。慈悲深い光明皇后を聡明利発、情操斈識豊かな天平美人として想い描いたもので岩絵具原色豊かな平成の名画として法華寺に所蔵され永く後世に引き継がれる「御影」です。

だそうな。

この地には「その28:奈良④」で書いたように、光明皇后の父・藤原不比等の邸宅があったそうで、法華寺でいただいたリーフレットに載っていた「天平時代の法華寺領」の地図を見ると、

140721_1_04

コナベ古墳(右上に並ぶ二つの前方後円墳のうち左。以前、こちらの記事に登場しました)の南の一角がそれに該当するようです。

ところで海龍王寺法華寺のある区画の南東角は、城下町のように丁字路が組み合わさっています。
南北に通る旧東二坊大路と、東西に通る旧一条大路(東の突き当たりは東大寺転害門)が、法華寺前で錯綜しているのです。

本来ならば、一条大路法華寺を突っ切って、平城宮の門に至るべきなんでしょうけれど、どうしてこんな町割になっているのでしょうか…

   

さて、法華寺 

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端正な寄棟造の本堂は、淀殿の寄進で建てられたものとか。
ご本尊の十一面観音菩薩立像国宝)は、期間を区切って公開されていまして、私は拝見することができませんでした。
今年は、これまで3月20日~4月7日と6月5日~10日の2回公開されていて、あと10月25日~11月10に「阿弥陀三尊・童子像国宝)」と併せて公開されるようです。

境内ではが咲き誇っていました。こちらギョリュウバイ(御柳梅)

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そしてこちらグレビレア・アルピナ

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古刹の境内に外国原産、それも、オーストラリア/ニュージーランド原産の花が咲いているなんて、ちょっと変わった趣向です。
法華寺オセアニアとの関係…、気になります

それはさておき、本堂と同じく桃山時代の建築になる建物があと二つありました。
南大門と、

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鐘楼堂は、どちらも重要文化財

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一方、池の中に立つ護摩堂かなり新しそうですな…

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と、思ったら、護摩堂「平成17年落慶」だとか。
どうりで…

それにしても、上に載せた写真には人が写っていません

参詣客が皆無だったわけではありませんけれど、海龍王寺にしても法華寺にしても、参詣客は少なくて、心静かに参観することができました。
このあたり、いかにも奈良だなぁ~ と思います。
こんな雰囲気に惹かれて、毎年奈良に出かけてしまうのかも知れません。

ということで、次はようやく「紀伊半島旅行記」最終回(の予定)です

つづき:2014/07/27 紀伊半島旅行記(その33:最終回)

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紀伊半島旅行記(その31:奈良⑦)

2014-07-20 09:52:54 | 旅行記

「紀伊半島旅行記(その30:奈良⑥)」のつづきです。

140720_1_01 私が奈良の街を歩き回ったのは5月2日でした。
この日の朝の散歩で見かけた市の広報板には、

5月2日 東大寺 聖武祭

というポスターが貼られていて、聖武祭って何だろな?」と思っていました。

正式には「聖武天皇祭」というもので、聖武天皇ご命日に合わせて、その遺徳を偲ぶ法要のようです。
もっとも、東大寺のHPには、聖武天皇のご命日云々の直接的な話は書かれていません。恐らく、「5月2日」旧暦「天平勝宝8年5月2日」だからなのでしょう。

聖武天皇祭では練り行列なんぞも行われたようですが、私はそんなことをつゆ知らず、マイペースで東大寺の境内を散策しました
その東大寺の境内は、(ばん)が掲げられて、なんだか華やいだ雰囲気

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でも鹿ちゃんは、「我関せず」とばかりにまどろんでいらっしゃいました。

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私、この日が「聖武天皇祭」だと奈良に来て知ったくらいですから、まったく期待も何もしていなかったのですが、「聖武天皇祭」特典として、通常は非公開「天皇殿」を拝観することができました

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こりゃLucky

天皇殿は、南大門を入ってすぐ右手、寺務所の区域内にあるのですが、こんなところに聖武天皇をお奉りする建物があるとは知りませんでした

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普段はしっかりと扉が閉められて目立たない存在なんでしょうけれど(気にしたこともなかった…)、この日はの紋章が染め抜かれた紫の幕で目立ちまくり

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門を入ると、すぐ右手にあるのが、国宝「本坊経庫」

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正倉院正倉でもおなじみ(?)の校倉造の「倉庫」です。
東大寺が創建された際に、大仏殿の裏手に貯蔵庫として建てられ、江戸時代に現在の場所に移築されたものらしい。
これで、私は東大寺の国宝建造物コンプです

さて、この日のメイン、天皇殿五色幕おめかししていました。

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この五色幕、遠目だと「染められたただの布」ですが、よくよく見ると牡丹唐草文様が織り込まれていてかなり美しい

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んでもって、天皇殿の内部は、寝殿造りっぽいっつうか、神社みたいでした。「拝殿」の奥から廊下で「本殿」に繋がっているみたいで…

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横から見ると、ホント、神社みたいでしょ?

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「拝殿」は三方が蔀戸(しとみど)になっていて、夏には心地良い風が吹き抜けそうです。

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というわけで、天皇殿は、東大寺の境内ではかなり異色の存在だと思った次第です。

140720_1_13 結構満足して、そして、南大門を通って、次の目的地へと向かいました。

何度観てもデカいなぁ、金剛力士像

140720_1_14 そういえば、今秋から20年振り金剛力士像修理が行われるとか。こちらの記事によれば、修理期間中は拝観できないそうですから、お出かけにあたっては注意が必要ですゾ。

【追記】天皇殿は、そもそも東照宮として建てられたものらしいです。神社っぽいのも宜(むべ)なるかな… (2014/07/21 22:23)

つづき:2014/07/21 紀伊半島旅行記(その32:奈良⑧)

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紀伊半島旅行記(その30:奈良⑥)

2014-07-19 17:50:24 | 旅行記

あちこちに寄り道して、いくつかのシリーズが同時並行的に進行中でありますが、「紀伊半島旅行記(その29:奈良⑤)」のつづきを書きます。

奈良県立美術館「アメリカ現代美術の巨匠達」を楽しんだ後、私は当日の記事「4泊5日の紀伊半島旅行終了」で書いたように、東大寺・転害門を観に行きました。

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門の名前は「転害門(てがいもん)」ですが、町の名前は「手貝町」なんですな。地域の名に「害」の字を使うのをためらったのでしょうか?

さて、転害門の門前には、上の写真に写っていますけれど、観光案内所がありまして、ちょっと立ち寄ってみました。さっそく観光ボランティアのおじさんが、待ってましたとばかりに、転害門の中に東大寺の鎮守・手向山八幡宮御神輿を鎮座させるための台座石が設置されていること、その関係で、転害門にはお寺には珍しいしめ縄が張られていることなんぞを説明してくださいました。
大変ありがたかったのではありますけれど、この観光案内所の建物が、

昭和15年に南都銀行手貝支店として建築されました。近代建築家である岩崎平太郎氏により設計され、町家の形態を遺した近代建築として貴重なものです。

という由緒あるものであることはお話ししてくれず、この記事を書くために「裏を取る」作業で初めて知った次第です。
当日は、あまりにこぎれいな建物なもので、そんな歴史を持っていたなんて気づきませんでした 知っていたら、もっと写真を撮ってきたのに…

それはともかく、転害門、、、いい

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説明板を転記しますと、

轉害門 国宝 奈良時代
轉害門は、もと平城京左京一条大路に西面して建立され、佐保路門ともよばれた。
中世の修理を受けているが、東大寺伽藍における天平時代の唯一の遺構で、その雄大な姿は創建時の建築を想像させるに十分である。
この門は当寺鎮守八幡宮(手向山八幡宮)の祭礼が行われて遷座の場所となり重要視されてきた。
基壇中央には、神輿安置の小礎四個が据えられ、天井も格天井に改められ、現今も川上町の有志により大注連が中央の二注に懸けられている。
京街道に面していたために、平安時代末期から民家が建並び、中世以降には東大寺郷のひとつである轉害郷(手貝郷)が生まれ、江戸時代には旅宿として発展した。
 三間一戸八脚門
 切妻造
 本瓦葺
 門の高さ10.635メートル(基壇の高さを除く)

とのこと。
こちら「大注連」で、

140719_1_03

こちら「神輿安置の小礎」です。

140719_1_04 「いかにも天平端正な建物なのに、柱には節だらけの木材が使われていて、細部は結構ワイルド

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こんなに魅力的な転害門だというのに、周辺はエアポケットのように観光客がいません

近くにあるこれまた天平期の建物、正倉院宮内庁の管理下になければ国宝指定確実 【追記】諸事情 によって1997年に国宝指定されていました)が常時公開されていれば、もっと賑わうのでしょうけれど、こちらで書いたように、正倉院正倉平日のみの公開ですし、そもそも、現在、正倉院正倉は大修理の真っ最中で、ますます拝見する機会は限られています。っつうか、工事現場の公開は既に終わり、今年11月(予定)に竣工して公開再開を待つ段階に入っています。
でも、おかげで、ホント、もったいないくらい、ぽつり一人で転害門をしげしげと鑑賞いたしました。

ちなみに、Wikipediaには天平期の「代表的な仏教建築」として、?唐招提寺金堂・講堂、②唐招提寺経蔵・宝庫、③薬師寺東塔、④東大寺法華堂(三月堂)・転害門、⑤正倉院宝庫、⑥法隆寺東院夢殿、⑦栄山寺八角堂が挙げられていまして、私、栄山寺八角堂を拝見すればコンプです(でも、なかなか難しそう…

それはともかく、じゃ、次に行こうか、、、と思ったところで、転害門の内側、すぐ北にある建物が目に止まりました。

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「鉄筋コンクリート瓦葺き」っぽいこの建物、何かといいますと、

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「奈良市立鼓阪(つざか)小学校」です

「鼓阪小学校のあゆみによれば、140年を超える歴史を持つ学校ですが、

昭42. 7 新校舎ができあがる。

とありますから、やはり「鉄筋コンクリート瓦葺き」なのでしょう。
でも、場所が場所ですから、こうした意匠の学校って良いモノです

思い起こせば、太宰府市中学校の校門とか、

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京都の本願寺中央幼稚園とか(記事はこちら)、

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大阪市立愛珠幼稚園とか(記事はこちら)、

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日本各地で歴史的あるいは地域の歴史を象徴するような学校建築を観たものでしたっけ…
こうした学舎(まなびや)に通学できる(通学できた)子どもたちがうらやましいゾ

でも、でも、鼓阪小学校の場合は、場所が場所ですから、「いかにも悩みもあるようですが…。

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この後、私は大仏池の西側を通って東大寺ミュージアムへと向かいました。

140719_1_11 東大寺ミュージアムは、そりゃ素晴らしい仏さまや仏具が展示されていましたが、改めて書くような目新しいものはありませんでした。
それよりも、たまたま「お日柄もよろしく…」で、めったに拝見できないものを拝見させていただくことになったのですが、その話は「その31・奈良⑦」で書くことにします。

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なんてステキなジャポニスム (前編)

2014-07-15 23:26:26 | 美術館・博物館・アート

一昨日の日曜日、いつもの帰宅路を逆にたどって、世田谷美術館に行ってきました。

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後ろに見える煙突は、元祖「いつも赤信号な交差点」(最新の記事はこちら)の名前の由来になっている世田谷清掃工場のものです。

140715_1_04 それはともかく、今、世田谷美術館では「ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展」が開催中です。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、西洋では浮世絵をはじめとする日本美術が大流行します。その大胆な構図と色使い、独特の装飾模様は西洋の美意識に根本的な変革をもたらし、ジャポニスムという現象が生まれました。
本展は、初期ジャポニスムを代表するクロード・モネの大作《ラ・ジャポネーズ》をはじめ、ボストン美術館の所蔵品より厳選された絵画、版画、素描、写真、工芸など約150点を紹介します。西洋の芸術家たちが日本の浮世絵や工芸と出会い、何を学び取り入れ、新たな美を創造したのか、さまざまな角度から検証していきます。

というこの展覧会、予想以上に楽しいものでした
前もって、こちらで予習して行ったのもよかったのかな…

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目玉の「ラ・ジャポネーズ」は、ホント、華やかでとにかくステキ

緋色が鮮やかだし、着物の柄(がら)の武士像が、まるで押し絵のようにモリモリと沸きたってくるし、とりわけ着物の刺繍に使われている金糸が輝きまくっています
そして、「どぉ?」と微笑むカミーユさん(モネの奥さん)かわいらしい

会場の出口に、実物大(=カミーユさんの等身大)の顔ハメがありまして、

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カミーユに挑戦!

あなたも小顔美人

なんて挑発的な看板が立っておりました。
そして、チラ見しておりますと、「カミーユに挑戦」するのは、相当な自信と覚悟が必要だと思いました
カミーユさんはかなりの小顔ですぞ

と、きょうはホンのイントロダクションということでご容赦を

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