「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #2-2」のつづきです。
比叡山延暦寺の東塔(とうどう)エリアの参観、大講堂の次は、いよいよ根本中堂です。
いつでも誰でも突ける「開運の鐘」(有料:一突き50円
)は素通りして、案内に沿って根本中堂へと向かったのですが、道は予想に反して下り坂
比叡山延暦寺の本堂ともいうべき根本中堂は、エリアの中でも一番高いところにあると、根拠もなく思っていたもので、意外でした。
この参道を下り、さて、根本中堂
そういえば、高野山に行ったとき、弘法大師(空海)の御廟のある「奥之院」は、その名前からして、山のまた山の奥かと思ったら、ずっと平地で、あれっ と思ったのでしたっけ(訪問記
はこちら)。
もっとも、高野山にしろ、比叡山にしろ、伽藍に行くまでが大変ですけど
それはともかく、初めてやってきた比叡山延暦寺根本中堂は、素屋根で覆われていました
伝教大師1200年大遠忌にあたり、「昭和の大改修」以来約60年ぶりの「平成の大改修」を発願いたしました。本堂及び廻廊の屋根葺替、全体の塗装や彩色の修理を中心に、10年間をかけての修理を執行中です。
だそうで、落慶は2026年3月の予定だとか。
養生壁には、何枚かの説明パネルが設置されていまして、その中で、「根本中堂の変遷とその見どころ」というパネルに興味津々
でした。
このパネルによると、根本中堂の始まりは、
788年(延暦7)年
伝教大師最澄により「一乗止観院」創建
だそうで、一乗止観院は、最澄が自ら刻んだ薬師如来像を安置する中堂と、その右に、同じく自作した文殊像をまつる小堂を、左には典籍を納める経堂を建てたのだとか。
その地が、まさに現在根本中堂が立っている場所なんですって。
大寺院にもかかわらず、その総本堂が、権威を誇るのではなく、他の建物よりも低い位置にひっそりとあるのは、その生い立ち由来なのかもしれませんな…
下の図は、「根本中堂の変遷とその見どころ」から抜き出した一乗止観院です。
それから約100年後、
887年(仁和3年) 九間四面の大堂に改修 (智証大師円珍の時代)
6年をかけて行われた改修では、三堂を合わせて九間の一つのお堂とする試みがされており、孫庇(まごひさし)が加えられました。一つの根本中堂のように、一つの大屋根のお堂の中に、三つのお堂が入るような構造となりました。
それから更に約100年後、
980年(天元3年)
谷を埋め立て現在と同規模の十一間の大堂に改修し、廻廊や中門を新造(慈恵大師良源の時代)
現在のお堂は、
1642年(寛永19年) 徳川三代将軍家光の命で現在の根本中堂が完成。
8年をかけての大工事は江戸初期を代表する建築物となりました。
だそうです。
家光は、大叔父・織田信長がしでかした比叡山焼討(1571年)の尻拭いをしたと言えるかもしれませんが、比叡山焼討のお話はまた後ほど。
また、根本中堂の内部のお話は「#2-4」で書きます。