新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

思いつきの岐阜ドライブ旅行 #2-3

2020-03-31 12:46:34 | 旅行記

「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #2-2」のつづきです。

比叡山延暦寺東塔(とうどう)エリアの参観、大講堂の次は、いよいよ根本中堂です。

いつでも誰でも突ける「開運の鐘」(有料:一突き50円)素通りして、案内に沿って根本中堂へと向かったのですが、道は予想に反して下り坂

比叡山延暦寺本堂ともいうべき根本中堂は、エリアの中でも一番高いところにあると、根拠もなく思っていたもので、意外でした。

この参道を下り、さて、根本中堂 


と思ったら、更に下る

そういえば、高野山に行ったとき、弘法大師(空海)の御廟のある「奥之院」は、その名前からして、山のまた山の奥かと思ったら、ずっと平地で、あれっ と思ったのでしたっけ(訪問記こちら)
もっとも、高野山にしろ、比叡山にしろ、伽藍に行くまでが大変ですけど

それはともかく、初めてやってきた比叡山延暦寺根本中堂は、素屋根で覆われていました

伝教大師1200年大遠忌にあたり、「昭和の大改修」以来約60年ぶりの「平成の大改修」を発願いたしました。本堂及び廻廊の屋根葺替、全体の塗装や彩色の修理を中心に、10年間をかけての修理を執行中です。

だそうで、落慶2026年3月の予定だとか。

養生壁には、何枚かの説明パネルが設置されていまして、その中で、「根本中堂の変遷とその見どころ」というパネルに興味津々でした。

このパネルによると、根本中堂始まりは、

 788年(延暦7)年
 伝教大師最澄により「一乗止観院」創建

だそうで、一乗止観院は、最澄が自ら刻んだ薬師如来像を安置する中堂と、その右に、同じく自作した文殊像をまつる小堂を、左には典籍を納める経堂を建てたのだとか。
その地が、まさに現在根本中堂が立っている場所なんですって。

大寺院にもかかわらず、その総本堂が、権威を誇るのではなく、他の建物よりも低い位置にひっそりとあるのは、その生い立ち由来なのかもしれませんな…

下の図は、「根本中堂の変遷とその見どころ」から抜き出した一乗止観院です。

それから約100年後

887年(仁和3年) 九間四面の大堂に改修 (智証大師円珍の時代)
6年をかけて行われた改修では、三堂を合わせて九間の一つのお堂とする試みがされており、孫庇(まごひさし)が加えられました。一つの根本中堂のように、一つの大屋根のお堂の中に、三つのお堂が入るような構造となりました。

それから更に約100年後

980年(天元3年)
谷を埋め立て現在と同規模の十一間の大堂に改修し、廻廊や中門を新造(慈恵大師良源の時代)

現在のお堂は、

1642年(寛永19年) 徳川三代将軍家光の命で現在の根本中堂が完成。
8年をかけての大工事は江戸初期を代表する建築物となりました。

だそうです。
家光は、大叔父・織田信長がしでかした比叡山焼討(1571年)の尻拭いをしたと言えるかもしれませんが、比叡山焼討のお話はまた後ほど。

また、根本中堂内部のお話は#2-4で書きます。

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思いつきの岐阜ドライブ旅行 #2-2

2020-03-29 16:02:26 | 旅行記

「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #2-1のつづきです。

比叡山ドライブウェイは、ときおり対向車がやって来るくらいで、私の前を走るクルマも後ろを走るクルマもなく、マイペースでつづら折りの道をスイスイと登れました。
そして、小さなトンネルを抜けると駐車場に到着

平日で、しかもこんな天気もあってか、駐車場ガラガラでした。

さっそく比叡山延暦寺にお参りしましょ。

石碑には「登叡成佛」って彫ってあるのでしょうか?

それを確認することなく、参拝入口で拝観料をお支払いしますと、1000円と、ちょい高め

でも、拝観券をよく見ると、

本券で比叡山延暦寺(東塔・西塔・横川の各地域)の諸堂をご参拝いただけます。

だそうです。
ここで比叡山延暦寺マップを見てみましょう。

比叡山延暦寺は、観光地山頂を除くと、東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)3つのエリアで構成(?)されています。
この3つのエリアの参観ができるというのであれば、1000円安いかも…

それはともかく、なぜ「東塔」が「とうどう」で、「西塔」が「さいとう」なんでしょ? とか、
「横川」というと、「横川の恵心僧都の妹」が頭に浮かんでくるんだけど何だっけ? とかいろいろ考えながら、比叡山延暦寺に関わる高僧のパネルが並ぶ参道を歩きました。

帰宅してから調べてみたものの、「とうう」「さいう」の理由は判りませんでした
また、「横川の恵心僧都の妹」は、十訓抄にあるこちらのお話でした。
ちなみに「恵心僧都」というのは、比叡山延暦寺の横川で修行して「往生要集を著し、浄土宗派の基礎を成したと言われる源信さまのこと。そして「僧都(そうづ)」というのはお坊さんの官職の一つだとか。

それにしても、参拝客いなぁ~い

私以外の参拝客は、周りを見渡して2~3組くらいのもので、ほとんど独り占め状態です。

まずは、大講堂を参観

この建物は、説明板によると、

大講堂【重文】
天台座主第一世義真和尚の建立によるもので、僧侶が学問研鑽のため論議する道場です。
ことに、慈恵大師が始修され、4年目ごとに行われる比叡山の古儀「法華大会広学竪義」は、一人前の天台僧になる為の重要な儀式、階梯として現在につづいています。
現在の建物は、昭和31年の旧堂焼失後、山麓坂本にあったものを移築したもので、堂内には叡山で研修された各宗派の御開山の尊像が安置されています。

だそうですが、調べたところ、こちらのサイトによると、

現在の大講堂は東照宮の本地堂として1634年(寛永11)山麓に建立された讃仏堂を、1963年(昭和38)に前堂の跡に移建したものである。平面規模は正面の柱間数7間で22.74m、側面6間で18.02m、一重、屋根は入母屋造銅板葺(いりもやづくりどうばんぶき)で、和様を基調として長押(なげし)をめぐらし蔀戸(しとみど)を多用しているが、妻飾(つまかざり)は二重虹梁大瓶束(こうりょうたいへいづか)で一部に桟唐戸(さんからど)をもちいるなど、禅宗様式もはいっている。内部はすべて床を張り、前から3間を外陣、その奥を内陣とし、胎臓界の大日如来像を中心に十一面観音像弥勒菩薩像を脇侍とし、桓武天皇、聖徳太子、天台大師、最澄のほか、比叡山で修学後一宗一派を開いた僧などの木彫像や画像が数多く安置されている。県指定文化財。(成瀬弘明)」とあります。

だそうです。

大講堂の中に入って、御本尊大日如来にお参りしたあと、須弥壇の左右に並ぶ、比叡山延暦寺で修行し、その後、宗派を開いた御祖師さまたちにもお参りしました。
各宗派がお納めしたしたという御祖師さまは、

法然(浄土宗), 親鸞(浄土真宗), 良忍(融通念仏宗), 真盛(天台真盛宗), 一遍(時宗)

日蓮(日蓮宗), 道元(曹洞宗), 栄西(臨済宗), 円珍(天台寺門宗)

と、蒼々たる御面々です。
向かって左側(上段に列記)が浄土・念仏系の諸宗派、右側(下段)が禅・天台・法華系と分けられているのが面白いですねぇ。

そして、伝教大師(最澄)が比叡山に庵を開いて(785年)から400年以上経った鎌倉時代に、まさしく一斉にいわゆる「鎌倉仏教」が生まれたというのも興味深い史実です

最澄の教え「照千一隅」そのままに、各御祖師さまたちが、それぞれの場所・やり方一隅を照らし始めたということなのでしょう。

ところで、「照一隅」「照一隅」かという議論があるようです。
最澄が天台宗の修行規定として著した「山家学生式」の冒頭、

国宝何物 宝道心也 有道心人為国宝
故古人言 径寸十枚 非是国宝
照千一隅 是即国宝

の一節なんですが、比叡山延暦寺公式な読み下しでは、「照一隅」説で、

国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり、道心ある人を名づけて国宝となす、故に古人の曰く、径寸十枚これを国宝にあらず、一隅を照らす、これ即ち国宝なり

となっています。
でも、最澄直筆を見ると、上に載せた石碑そのまま(って、石碑が最澄の自筆を拡大して彫ったものだと思う)

で、どう見ても「于」ではなく「千」と書かれていますよねぇ~

これ以上難しいことを考えても、所詮トーシローの私には荷が重いので、話題を変えまして、もう一つの重要な最澄の教えのキーワード、「忘巳利他 慈悲之極」のこと。
「巳(おのれ)を忘れて他を利するは慈悲の極み」という言葉を、品不足になっているものを必要以上に買いだめしたり、オークションサイトに高値で出品する餓鬼もどきたちに捧げたいと思いますな。

つづき:2020/03/31 「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #2-3」 

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思いつきの岐阜ドライブ旅行 #2-1

2020-03-26 23:08:51 | 旅行記

「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-7」のつづき、旅行2日目編のスタートです。

今回の旅行2日目は、もともと博物館明治村再訪するつもりにしていました。
だからこその岐阜での連泊だったのですが、その予約が完了した翌日になって博物館明治村から3月2~13日の「閉村」(結局、20日から再開)が発表されてあ~れ~ となってしまいました。
しかも、せっかく丸一日観光にあてられる貴重な日だというのに、天気予報では一日中雨だそうで、さて、どうしましょ
暖冬のおかげ(?)でのない白川郷まで行ってみようか? それとも行ったことのない比叡山まで行ってみようか? 信長つながりで安土城跡に行ってみようか? なんて考えがまとまらないまま、朝食を食べにホテルのレストランへ行きました。

私が泊まったホテルの朝食は、通常ならばビュッフェスタイルなのですが、新型コロナウイルス対策ということで、盛り切りのプレートサービスでした。もちろん、ご飯と味噌汁はお替わり自由ですし、納豆やゆで卵、飲み物はフリー。

で、私の朝食がやってきたのですが、、、、

お~い、おばちゃん 配膳はそこまでかい
おばちゃんの行動を観察すると、このおばちゃんは、一つの作業の最後のちょい手前で、もう次の作業視線と気持ちが行っている風…
決して感じは悪くないおばちゃんなんだけど、いくら忙しくても、やはり一つ一つの作業を最後までやり遂げて欲しいよねぇ

仕方ねぇなぁ とトレイを手元に引き寄せて朝食を開始。
そして、食べながら、この日の行動を検討しました。

そして、白川郷行って帰るだけになってしまいそうですし、の中を安土城跡に登るのは大変そうだし…ということで、比叡山に出かけることにしました。さらに、帰りには彦根城も見物しようと…

朝食を終えて自室に戻り、彦根城のHPを見ると、新型コロナウイルス対策としてひこにゃんお出ましは無いものの、お城自体は見物できそうです。

よし、これだ

と、9:00にホテルを出発しました。
この日の行程は、当日のダイジェストに書いたとおりです。

   

天気予報どおり、前日の好天とは打って変わって岐阜市内はどんよりと曇り名神高速では、ときおり土砂降り状態で、ほぼ全線、ヘッドライト&フォグランプを点けて走行しました。

大津IC一般道に降りることにしていたのですが、大津SAに立ち寄ってからでもICゲートを通過できるらしいので、大津SAでトイレ休憩

せっかくなので、展望デッキから琵琶湖を眺めてみました。

う~む、、、比叡山の頂上付近は雲の中ですなぁ…

で、大津ICを出て、大津市内へ…。

大津に来るのは、2009年12月(記事)、2011年3月(記事) 以来、3度目で、クルマで来たのは初めてです。
打出浜交差点「びわ湖ホール⇒」の案内看板を見たときは懐かしさがこみ上げました、が、ここではびわ湖ホールとは反対側左折

そして市街地を抜けて、県道558号線をしばらく走り、柳が崎交差点を左折。
JR湖西線京阪石山坂本線の二つの踏切を渡ると、近江神宮前の丁字路を右折して、

すぐに左折すると、いよいよ山道っぽくなってきました。

というところで、諸事情を勘案して「#2-2」につづきます。

つづき:2020/03/29 思いつきの岐阜ドライブ旅行 #2-2 

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思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-7

2020-03-25 21:03:18 | 旅行記

「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-6」のつづき、岐阜編の最終回です。

織田信長居館跡の見学を終えた私は、しばし岐阜公園を散策

と、冠木門

説明板によると、

現在の岐阜公園の平地部分には「政庁」と呼ばれる公的な施設があったと考えられています。ここより上の段は巨石列で区画された城主の居館がありました。(中略)
現在は市内のロータリークラブから贈られた冠木門がありますが、当時の入口板垣退助像があるあたりであったようです。

だそうです。
どうして、「当時の入口」じゃないところ冠木門を建ててしまったのでしょ
どうせ建てるなら、史実に忠実であってほしいものですな

そして、こちらが、「当時の入口」あったらしい辺り。

それにしても、どうしてここに板垣退助像があるのでしょうか?

実は、板垣退助暴漢に襲われ「板垣死すとも自由は死せず」言ったとか言わないとかされる、襲撃事件の起こった場所がこの辺りなのだとか。

立像の傍らには、

「自由党總理 板垣退助君遭難地」と彫られた石碑もありました。

野にあって自由民権運動を主導していた板垣退助が襲われたのは岐阜でしたか…
事件があったことは、下に載せた錦絵が教科書に載っていたりして知っていましたが、岐阜(現在の岐阜公園にあった中教院という施設)で起こったとは知りませんでした。
っつうか、気にしたこともありませんでした

ここで改めて上に載せた「板垣君遭難之圖」、よくよく見ると、ちょっと…。
私は、漠然と、絵の右端目をつぶって苦しそうな様子の人物が、襲われて負傷した板垣退助だと思っていたのですが、この時代の錦絵に付きものの「名札」には「本多正直」とあって、板垣はというと、黒紋付を着て「ええい、引っ立てぃとでも言っていそうな堂々たる人物とな
刃渡り27cmの短刀で斬りかかられ、「命に別状は無いが、左胸、右胸に各1ヶ所、右手に2ヶ所、左手に2ヶ所、左頬に1ヶ所の、計7ヶ所に傷」を負って出血もしていたはずなのに、ピンピンしています。
更に「変」なのは、板垣が着用している紋付に描かれている「紋」です。
どう見ても、板垣のかつてのボス土佐藩主家・山内氏「丸に土佐柏」ですよねぇ。

板垣であれば、乾家「榧(かや)之内十文字」か、ご先祖・板垣家「花菱」紋のはずなのに…

そういえば、土佐藩の初代藩主は山内一豊ですが、岐阜公園には「山内一豊・千代婚礼の地モニュメント」なるものがあるそうです。私は見逃しましたけど…

   

さて、私の旅行には博物館・美術館巡りが恒例になっているのですが、このご時世、多くの施設が新型コロナウイルス対策として閉館しているのはなんとも残念
ところが、岐阜城天守と同様、岐阜市歴史博物館開館していました
しかも、私が岐阜を訪れたときは、企画展「ちょっと昔の道具たち」(3月15日で終了)「麒麟がくる 岐阜 大河ドラマ館」二本立てでした

ところが、岐阜市歴史博物館閉館時刻は17:00で、16:30には入場〆切なんですが、この時点で16:15を過ぎておりまして、とてものんびり見物することなんぞ叶わないタイミングでした。

そこは潔く岐阜市歴史博物館の見物は断念しまして、駐車場に戻りました。

   

途中、岐阜公園の入口にある「騎馬像」をしげしげと見物

この場所にある騎馬像となれば、そりゃ織田信長の騎馬像だろうな…
と思ったら、案の上、この騎馬像のタイトルは「若き日の信長公」像でした。

そして、作者は、、、この作風、観たことがあるな…

と思ったら、案の上、長崎の平和祈念像の作者・北村西望の作品でした。

上にリンクを貼ったWikipediaによれば、国会議事堂中央広間(一度だけ見学したことがあります)にある板垣退助像も、北村さんの作品とか
繋がってますなぁ~

ちなみに岐阜公園の板垣退助像の作者は、板垣退助先生顕彰会サイトによると、柴田佳石さんだそうです。
もうひとつ、ちなみにいえば、私、北村西望さんによる直径10cmはあろうかという、立派な金属製の印池を所有しております。ほとんど使っておりませんが…

こうして「若き日の信長公」像鑑賞したのち、駐車場に戻り、名鉄岐阜駅に近いホテルへクルマを走らせました。

   

ホテルにチェックインすると、まず、ブログにこの日のダイジェストを書いて、そして、夕食を摂ろうとJR岐阜駅界隈を彷徨

新型コロナウイルスのせいなのか、20:30過ぎという時間のせいなのか、はたまた、岐阜がこういう街なのか判りませんけれど、

という状況でございました。

こうして岐阜ドライブ初日終わったわけですが、さて、2日目はどうしましょ

考えがまとまらないまま、風呂に入り、そして眠りについたのでありました。

つづき:2020/03/26 思いつきの岐阜ドライブ旅行 #2-1 

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思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-6

2020-03-24 09:51:27 | 旅行記

「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-5のつづきです。

金華山ロープウェーで麓(ふもと)に下りた私は、ロープウェイ山麓駅の裏手(南側)にある織田信長居館跡を見物しました。

金華山上にあるお城は、生活の場としては不便きわまりないわけで、公式HPから引用すると、

岐阜城の歴代城主の館は、金華山の西麓にある槻谷(けやきだに)にあります。発掘調査の成果から、この地形は斎藤氏三代の頃に造られ、織田信長公が大規模に改修をし、関ヶ原の合戦前哨戦まで使われていたことがわかってきました。
 現在、岐阜公園内で見られる地形は、織田信長によって造られたもので、槻谷(けやきだに)を流れる谷川の両側に段々地形を造り、建物や庭園を配しています。

だそうな。

まずは、「館の入口」エリア。

段々になっていて、平山城の縄張りのミニチュアみたいですな。
金華山から槻谷を下る谷川沿いに「造成」されたところですから、小さな扇状地みたいな感じです。

上に載せた写真で、斜面がシートで覆われた区画が見えますが、これが「C地区」と呼ばれる、宮殿のあった場所で、そこまではなだらかな石段を登って行きます。

その途中、「庭園跡」という場所がありまして、

説明板によれば、

居館には庭園がいくつも造られました。巨石列と石垣で区画されたこの池もその一つで、発掘調査では景石(けいせき)の他、池底を飾った色鮮やかな石、多くの金箔瓦が確認されています。瓦の出土状況から、庭園の上部に金箔瓦を葺いた建物があったとみられます。

だそうです。
そして、「居館の中枢部」と考えられるという「C地区」

現在は、「ただ平らな場所」以外の何ものでもありませんな…
復元図(下図)と示されている地点なのですが、当時を偲ぶよすがはございませんでした。

ここから更に谷を登ったところは「B地区」で、2~4階建ての建物茶室庭園があったらしいのですが、ここから先には入れませんでした。

ところで、岐阜公園ランドマークになっているのが、三重塔です。

ここにお寺がある(あった)わけではなく、

この三重塔は、大正天皇の即位を祝う、御大典記念事業として企画され、市民から寄付を募り、大正6年に岐阜市が建立したものです。
塔の考案は、日本建築史学の創始者と言われ、明治神宮や築地本願寺などを設計し、建築界で初めて文化勲章を受章した伊東忠太氏です。
場所の選定は、岐阜市にゆかりのある日本画家の川合玉堂氏が行ったといわれています。

だそうでな。
ここでも出てきましたなぁ、伊東忠太先生

それはさておき(素っ気ない…)「C地区」から三重塔に向かって、谷川に架かる朱塗りの橋を渡ると、

「A地区」です。

「#1-4 [番外編]」で書いた「ブラタモリ #92 岐阜」によれば、「A地区」元庭園で、褶曲したチャート露頭が流れ落ちるという眺めメインに据えたものだったそうな

復元図によると、織田信長居館は、空中回廊のような超立体的な建物群だったらしいけど、復元図だけではイメージするのが難しくて模型があったらいいいのに…と思いました (VR映像はあるらしい)

ということで織田信長居館跡の見物おしまいにして、エリア外に出ました。
そこからの先のお話は「#1-7」で書きます。

つづき:2020/03/25 思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-7 

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思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-5

2020-03-21 17:10:22 | 旅行記

ちょいと間が開きましたが、「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-4」のつづきです。

岐阜城天守の中は、他の復興天守と同様、博物館っぽい展示になっていまして、まず最初にあったパネルがこちら。

稲葉山城を手中に収めた織田信長が町に名づけたという「岐阜」由来が説明されています。

それによると、まず「岐」

中国の故事 「周の文王が岐山から起こり、天下を定める」に倣ったもの。

とあって、文王については、

文王(ぶんのう) (BC1152年~BC1056年)
中国の周朝の始祖。周の創始者である武王の父にあたる。
商(殷)に仕えて、三公の地位にあり、仁政を行って民に慕われた。後世、聖王として崇められ、為政者の手本となった。

だそうです。
そして「阜」は、

孔子の生誕地「曲阜」から、太平と学問の地になるよう願いを込めて。

とのこと。
この解釈からすれば、信長の、「太平と学問の地」岐阜の地から天下(当時の感覚では「天下=五畿内」らしい)を獲るぞ という気概を込めた地名ということになりそうです。

ちなみに、信長が、かの「天下布武」朱印を使い始めたのは、本拠を岐阜に移した頃だそうな。
右に載せた写真は、東京国立博物館で観たホンモノの印影で(記事はこちら)天正2年(1574)の朱印状だそうですから、まさしく信長が岐阜城の主だったときのもの。

「天下布武」の意味について、「武力で天下を獲る」と解釈しがちですが、最近の通説ではそうではなく、元ネタは中国の古書春秋左氏伝 宣公十二年」にある下記(こちらのサイトから転記)からとられたものとか。

楚子曰 非爾所知也 夫文 止戈為武 武王克商 作頌曰 載戢干戈 載櫜弓矢 (中略) 夫武 禁暴 戢兵 保大 定功 安民 和眾 豐財 者也

「岐」の字の由来のところにも登場した周の武王商(殷)を打ち破ることで世に平安をもたらしたこと、そして、「武」の目的が、

暴を禁じ
兵を戢(をさ)め
大を保ち
功を定め
民を安んじ
衆を和らげ
財を豊かにする

である(武の七徳)と、楚子(荘王)が語ったとされています。
天下に七徳の政治を敷く という信長為政者としての目標を示した朱印なのだという解釈ですな。
もっとも、崇高な目標の為に信長が採った手段は、かなり苛烈なんですけど…。
その一例のなごりは、この翌日、目にすることになります。

   

さて、岐阜城天守最上層からの眺めは、好天にも恵まれて最の高 でした
まずは西(酉 )の眺め

右奥に見えるを頂いた山は伊吹山かな?
次は北東(艮 )の眺め

左奥には御嶽山、右奥には南アルプス(だと思う)
次は南西(坤 )眺め

手前の山並みは養老山地、その奥が鈴鹿山脈の最高峰・御池岳でしょうか?
最後は(午 )眺め

眼下に濃尾平野どばぁ~んと広がって、遠くに名古屋の街が見えます。
この眺めを楽しむうち、美濃尾張とは、国が分かれている意味がないんじゃないか? と思えてきて、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」見方も変わってくる気がします。

そうそう、天守最上層天井に描かれていたのは、

麒麟でした
公式HPによると、昨年末リニューアルでこうしたみたいですな

満足のうちに天守を出ると、岐阜城資料館をちょいと見て、

ロープウェイ乗り場に急ぎました
ロープウェイ15分毎の運転なので、このタイミングを逃すと、15分なんとかしなくてはなりませぬ

と、並んでる…

これだと、ただ、行列15分間並んでいることになるかもしれない
そうなったら、単に乗り遅れ次の便まで時間をつぶす方がマシです

結局、私の後ろの人たちがグループだったもので、私が最終乗車者になり、時間をムダにすることなく、下山できました。

めでたしめでたし。

【追記】岐阜城を訪れた当日、私は、

Tweet したのですが、あとでこの写真をよくよく見ると、

足先が「三本爪」で、「こりゃ麒麟ではなくとなり、フェイク・トゥウィートしてしまったかぁ~忸怩たる思いにとらわれていました。

ところが、デジカメで撮った写真を見ると(Tweetの写真はスマホで撮りました)、本文に載せたように、足先が(ひづめ)「麒麟」(偶蹄目?) の図もありました。
どういうこと? なんですが、写真を観察した結果、天守最上層の天井は、6×5の格天井になっていて、内側の10枚に麒麟、外側の18枚にが描かれているみたいです。ちなみに最内側の2枚分に絵は無く、代わりに方位が示されていました。(2020/03/22 09:44) 

つづき:2020/03/24 思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-6 

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4月下旬~5月中旬の陽気だそうで…

2020-03-19 21:00:19 | タウンウオッチング/日記

秋田の別邸に帰省してみると、予想どおり寒くて、ずっと石油ファンヒーターのお世話になっていたのですが、きょうは暖かいったらなんのって (4月下旬~5月中旬並みだったとか)

好天に誘われて、久しぶりに洗濯物に干しました。

干す作業を終えたあと、を散策(…っていうほどのものではない)すると、あちこちに「春」がやって来ていました。

今のところ、が咲いているのは、三分咲きといったところのアセビだけですが、

アセビ

地面からは、チューリップとか、スノーフレーク葉っぱが顔を出していて、

スノーフレーク

に帰省したとき(ゴールデンウィーク頃を予定)には、咲き誇っていることでしょう
下の写真は、昨年のゴールデンウィークに帰省したときに撮った スノーフレークです。楽しみぃ~

スノーフレーク(2019年5月)

このときに満開で、ほわぁ~ となったドウダンツツジは、

ドウダンツツジ (2019年5月)

まだ茶色で、枯れ木の風情です

ドウダンツツジ (2020年3月19日)

でも、枝の先端にはビッシリとついていますので、しっかと生きています

それにしても、水やり施肥な~んにもしていないというのに、木や草花って、けなげなものです

   

今回の帰省は、お彼岸の墓参りがメインの目的です。
明日・お彼岸の中日墓参りするつもりだったのですが、天気予報によれば、

秋田の天気予報

明日は、寒冷前線が太平洋側に抜けて「西高東低」の気圧配置になり、「春の嵐に見舞われるのだそうですので

明日、3月20日は「春の嵐」

予定を変更して、きょう墓参りに行ってきました。

バスでマチナカに出て、寺町へ…

お墓をかけ、をあげ、灯明(ローソク)線香に火をつけ、そしてお参り…。

淡々ルーティンをこなして完了

さて、これからどうしようか…
特段、買物の用事はないし… (きのう、はるばるホームセンターまで歩いて行き買物を済ませました)

と、脈絡もなく信号機の写真を撮りました。

信号機秋田市内の信号機は、ほぼ100%縦型です。
が積もりづらくするために縦型になっているのですが、信号機の主流がLEDになると、新たな特徴が加わりました。

妙な形クリアカバーがついているのです。
一昨年8月に撮ったこちらの写真の方が判りやすいかな?

秋田市内の信号機かつての電球タイプだと、吹雪で表面に着雪しても、電球の熱雪が融けたのだそうですが、LEDだとを出しませんので(その分、消費電力は少ない)、放っておくと信号が見えなくなってしまいます
そこで、路上から見上げる角度着雪・積雪しないよう、こんな形のクリアカバーをつけているのかと思われます

フラットタイプの信号機(2018年8月)もっとも、クリアカバーをつけず、その分、下向きの角度にしたタイプの信号機もあります。

どのように使い分けているのでしょうかねぇ
季節風風向き(北西の風)と関係あるのかなぁ…

ところで、きょうの朝食は、9時ちょい過ぎに、トースト & 特製ツナスプレッド & ハム & 牛乳を摂りました。
それから2時間半ほどしか経っていないというのに、腹が減ってきました
冷蔵庫には、昼食用として、ソース焼きそば肉うどんの材料が揃っていましたが、せっかく川反(かわばた)界隈まで来ているのだから と、を食べることにしました。

実は、去年春のお彼岸の帰りにも、を食べよう と思い立ち、「秋田でといえば横田屋」横田屋さんへ足を運びました。
ところが、この日は団体予約が入っていて、断念

そして、きょうはどうだろうかドキドキしながら行ってみると、、、
入れましたぁ~

すぐにカウンター席に着くことができました

まだ11:30ちょい過ぎだというのに、店内(すくなくとも1F)は、ほぼ満席

川反「夜の街」ですから、ランチを食べられる店がほとんど無い とはいえ、鰻の専門店昼間からほぼ満席 とは…
もっとも、横田屋さんの営業時間11:00~14:00ランチタイムのみ で、出前のみの営業です。(お隣の姉妹店「横田屋まさ」夜のみの営業)

注文してからしばらく経って(「鰻屋では待たされるのが当たり前」と、かの丸谷才一さんが書いていらっしゃいました)鰻重(竹)がやって来ました

横田屋の「鰻重(竹)」

見るから旨そうですが、実際、旨かった

これほど、外側:パリッパリ & 内側:とろっとろ を食べたことが、これまであったかなぁ…
これ(お新香&肝吸い付き)2,900円は、納得 & 満足 でございました

   

さ、帰ろ となったわけですが、田舎町の常として、バスの本数が少ない

手帳に記録してある帰りのバス便の時刻を調べると、、、ありゃま、バスちょっと前秋田駅西口を発車したばかり
こりゃ、乗れないだろうな… と思ったら、案の上、バス停まで50mの地点で、乗りたかったバス追い抜かれました

次のバスまでは20分もあります

じゃ、どこかで時間をつぶすか… とはなりません歩いて帰ることにしました

結論から書きますと、別邸まで、約45分 歩きました

正直、疲れました

でも、収穫はこちら

散当石 @秋田市南通築地「散当石」と刻まれた小さな石柱です。

これは、沖縄お馴染み石敢當(いしがんとう:記事はこちら)」異種

沖縄では丁字路の突き当たりでよく見かける石敢當が、なぜか秋田市内多く存在していることを私は以前から知っていまして、5年前正月の帰省時探索を試みましたが、失敗した過去(記事はこちら)がありました。

それから苦節5年、ついににすることができました

更に、もっぱらタクシー自分のクルマ通過するだけだった三叉路にある石敢當至近から観察しました。

でも、あれ

石敢當(と聞く) @秋田市南通宮田文字が刻まれている面には、ゴミの集積場べったりと接近して設置されていて、文字が読めません

この三叉路には、長い間、「石造り風」元・理髪店廃屋が立っていまして、ずっとずっと気になっていたのですが、近くに、ちょいとクルマを駐められるような場所はなく、また、気軽に歩くには遠すぎるし、路線バスのルートから外れているしで、ようやく、きょう、観察できたのですが…。残念です

   

さらにもう一つ、きょうになって初めて知った ことがありました

私の母校(中学校)近くの斜面にある墓地近くを歩いていたところ、そのお墓に刻まれている術語反応しました。

ある一角のお墓群に刻まれていたのは、●●家奥津城」の文字

「奥津城」って何だ? 

さっそく、はしたないながらも「歩きスマホ」で検索すると、「奥津城」「おくつき」と読んで、

神道式の墓石に刻まれる文字 (Wikipediaより)

ですと
神道式のお墓が、形は仏式と同じであることは知っていましたが、こんな違いがあるとは…

この墓地の存在は、現在の別邸に引っ越して間もなく知り、その近くを通ったのは数知れず という馴染みの場所だったのですが、きょうになってこんな「初歩的」なことを知るとは…

歩いてこそ気づくことってあるものですなぁ…

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思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-4 [番外編]

2020-03-17 16:41:32 | 旅行記/テレビ番組

きのうの記事「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-4」番外編です。

秋田の別邸帰省しています。
きのう、新幹線で帰ってきたのですが、今回の帰省用というか、帰省中のブログ書きの参考用に、BDレコーダーに録画済みの「ブラタモリ」「#92 岐阜(17/12/2放送)」「#143 比叡山(19/9/21放送)」「#144 比叡山の修行(19/9/28)」BDに落として持ってきました。

私、「ブラタモリ」は、結構、リアタイで視ているはずなんですが、「#92 岐阜」視た記憶が無くて、きのう、別邸で視てみました。

岐阜城チャート露頭を観たり、その「由来」を読んだりするうち、なんだかブラタモリみたい… なんて思っていたら、「ブラタモリ #92 岐阜 ~岐阜は 信長が夢見た“平和の都” !?~」前1/3は、まさしく、「金華山=チャートの山」の話に終始しているではありませんか
しかも、番組で最初に出てくるチャートの地層「#1-4」写真を載せた、山頂部の喫煙所近くの場所だし、「褶曲(しゅうきょく)」愛でるのは、山麓の織田信長居館跡滝のところだし…

私の岐阜城観光は、「なんだかブラタモリみたい… 」どころか、完全に「ブラタモリ」後追いですよ
しかも、放送2年半もあとに…

やはり、出かける前に、予習として「ブラタモリ」見ておくべきだったなぁ~と、反省しきりでございます。

上の写真は、天守の手前で見えた石垣なんですが、この石垣が、天守手前の低くなっていた地点に土を盛り石垣を築いてなだらかな通路に変えた跡だなんて、現地じゃ思いもつきませんでしたよ…

また、の際には、天守に立て籠もっても、麓を制圧されれば孤立するだけという戦いには不向きの城(「#1-2」で書いたように、関ヶ原の戦い直前の「岐阜城の戦い」では、1日で落城した) を、なぜ信長が造ったのか不思議だったのですが、「ブラタモリ」で解説されていたように、岐阜城示威接待のための施設だったと考えれば合点がいきます

   

今回の岐阜観光は、岐阜公園のみ2時間半程度のスポット観光でしたけど、「ブラタモリ」を視たら、もう一日岐阜市内をのんびりと歩いて川原町の街並みとか、

織田塚なんぞを、

見物すれば良かったかな… と思ったりして…

もっとも、翌日は、そもそも観光に不向きの天気だったのではありますが…

やはり、観光の予習には「ブラタモリ」欠かせない と思うわけでございます。

旅行記本編に戻る:2020/03/21 思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-5 

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思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-4

2020-03-15 11:28:09 | 旅行記

「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-3」のつづきです。

金華山ロープウェーに乗って約4分山頂駅に到着しました。
ロープウエー車内もそうでしたが、山頂駅付近も、平日とは思えない観光客の数です子どもたちも多い
新型コロナウイルス対策で学校休校になり、外の空気を吸える場所や機会は限られていますからねぇ

で、山頂駅前にあるリス村には見向きもせず、私は天守を目指しました。

と、見事な地層 というか 露頭

説明板によると、

金華山の大部分はチャートという硬い岩石からできており、岐阜城の石垣や巨石、庭園などにも使われています。
チャートは放散虫という珪酸質の硬い殻を持ったプランクトンの殻が海底に堆積してできた岩石です。2億年以上前赤道付近の南半球でできたものがプレートの移動によって運ばれました。地層が大きく曲がりくねっている(褶曲している)のは、プレートによって運ばれてきたチャートが大陸にくっつく際に強い力を受けたためです。

ですって

「2億年以上前にできたものが赤道付近の南半球からプレート移動で運ばれた」とは、なんというスケールの大きな話なんだろ

説明板にあった「地層が大きく曲がりくねっている(褶曲している)」露頭は、山麓の滝で見ることができました。

まさしくヘアピンカーブです

「伝 一ノ門跡」の説明板近くから下を見下ろすと、

かなりの急斜面です。
よじ登れないことはないけれど、城攻めで甲冑姿でここまで登ってくるのは大変だろうな…

と、次に現れたのは、

「伝 馬場跡」の説明板
転記しますと、

「一ノ門」から続くこの通路は、江戸時代の絵図や記録に「馬場」と記されています。享保2年(1717)、ここを訪れた朝日文左衛門は、一ノ門を「大下馬ともいう」と記しており、降りた馬をここに繋いでいたとも考えられます。

だそうです。
ここまでで登れるってこと

ちなみに、岐阜城天守への主な登山路には、現在4ルートあります。

そして、それぞれの距離と所要時間、難易度はこんな具合らしい。

「家族向き」とされる「七曲り登山道」は、別の資料では(大手道)と書かれていることからすれば、この「七曲がり登山道」(一番南側のルート)が登城メインルートで、ここからだと乗馬して登れたのかもしれません

一方、難易度最高「馬の背登山道」の最上部にあった説明板には、

「馬の背登山道下山口」の説明板

赤く大きな文字で、

途中断崖や難所が多く、大変危険です。
体力に自信のない方は通行を控えてください。

と、説明というよりは警告です

さて、堀切(切通)を過ぎ、

二ノ門を過ぎると、いよいよ天守が見えてきました

岐阜城は、斎藤道三1540年頃に築いた稲葉山城を、織田信長1567年に奪取すると、その縄張りを壊し、新たに岐阜城として築いたもの。
「#1-2」で書いた1600年の「関ヶ原合戦の前哨戦=岐阜城の戦い」落城すると、翌年には廃城となり、天守・櫓・石垣等加納城に移されて、ただの山になってしまったのだそうな。

そして、廃城から300年以上経った1910年に復興天守完成したものの、1943年に焼失したものの()、1956年には寄付を元に現在の「鉄筋コンクリート建築で3層4階建ての復興天守」完成 という歴史を持っています。

加納城に移された旧天守残っていない中、現在の復興天守が、オリジナルの様相どれだけ残しているのか不明ですが、金華山の山頂に天守があるのと無いのとでは、全然違うでしょう。とりわけ岐阜市民にとっては…

上の写真は、この後、天守の中で拝見した「現在の建物(模擬天守や展望レストラン、ロープウェイなど)をそのまま残して1600年岐阜城廃城時の石垣を全て出した様子を再現した」というちょっと変わった模型です。

それはともかく、入場料200円をお支払いして、いよいよ天守に入場

なんですが天守の内部天守最上層からの眺めなどは「#1-5」で書くことにいたします。

番外編:2020/03/17 思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-4 [番外編] 
つづき:2020/03/21 思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-5 

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思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-3

2020-03-14 19:14:53 | 旅行記

「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-2」のつづきです。

とりあえず、読んでいただく上のご参考に供すべく、金華山ロープウェーのリーフレットから岐阜公園マップを載せます。

ロープウェー山麓駅では、斎藤道三二頭波紋と、織田信長木瓜(織田瓜)がお出迎えしてくれました。

そして、駅に入ると、、

おぉ木瓜(もっこう)ならぬモックン、いや斎藤道三公がいらっしゃる

それにしても、これほどリアル「像」は、そうそう無いと思います。
こっそり、本木さん本人が入れ替わっても、なかなか気づかれないと思いますぞ

で、ロープウェーのチケット(往復 1,100円)を購入し、発車時刻(15分毎) までちょっと時間がありましたので、改札までの通路にあったパネル展示を拝見しました。

パネル展示は、稲葉山城・岐阜城に関わる諸武将に関するもので、まず私の目を惹いたのは、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で初めてみた気のする斎藤道三家紋「二頭波(にとうなみ)紋」についての説明でした。

転記しますと、

波紋は、波の進退する様子が用兵の術に適っているとして武家の家紋に用いられるようになります。「二頭波」は、斎藤道三公が水の在り方に人生の道理を、波の動きに兵法の極意を見出し、晩年に自ら発案して用いたものです。
右に3つ、左に2つある波しぶきは、世の中には割り切れるものと割り切れないものがあるという理(ことわり)を表しているといわれます。

だそうです。
もともと二代にわたって、主君の姓:長井⇒斎藤を名乗った道三にとっては、斎藤家の家紋:撫子紋には愛着なんて無かったのでしょうな
そんな二頭波紋も、子の義龍と孫の龍興二代半姿を消したというのは、「ただ春の夜の夢のごとし」ですなぁ…

もう一つ、へぇ~と思ったのが、こちらのパネルでした。

「国盗り絵巻の背景と人物相関図」と題されたこのパネルの地図を見ると、尾張織田信秀心細さを理解できる気がします。
その領国の狭さに加えて、三河~遠江~駿河の今川氏北の斎藤氏に挟まれているのですから。
これを見ると、織田家が嫡男・信長の正室に斎藤道三の娘(帰蝶=濃姫)を迎え、北近江浅井氏お市の方を嫁がせた戦略が理解できそうな気がします

ちょいと話が逸れますが、3月4日の記事「コロナウィルスにも負けず出かけてきた #6」に登場した土岐善麿さんは、美濃守護・土岐氏の流れを汲む方のようです。

で、ロープウエーの改札近くのコインロッカーには、「岐阜ゆかりの武将」家紋が描かれておりましたが、こういう趣向は、けっこう、あちこちで見かけますな。

そして、ロープウェー乗車して、一気に金華山を登りました

いやぁ~、良い眺めです

にもかかわらず、ロープウェーの中では、ガイドのお嬢さんが一所懸命に説明しているというのに、そしてそれを聞いている乗客もいるというのに、デカい声で世間話し続けるオヤヂがいて鬱陶しかった

あんたは何回このロープウェーに乗ったのか知らないけれど、他の観光客やガイドさんにも、ちぃったぁ気を使えです。
さすがに口に出して言いはしませんでしたけど、こんな社会性を失ったオヤヂにはなりたくありませんな

と、ロープウェーで登った金華山上でのお話「#1-4」につづきます。

つづき:2020/03/15 思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-4 

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