ちょいと間が開きましたが、「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-4」のつづきです。
岐阜城天守の中は、他の復興天守と同様、博物館っぽい展示になっていまして、まず最初にあったパネルがこちら。
稲葉山城を手中に収めた織田信長が町に名づけたという「岐阜」の由来が説明されています。
それによると、まず「岐」、
中国の故事 「周の文王が岐山から起こり、天下を定める」に倣ったもの。
とあって、文王については、
文王(ぶんのう) (BC1152年~BC1056年)
中国の周朝の始祖。周の創始者である武王の父にあたる。
商(殷)に仕えて、三公の地位にあり、仁政を行って民に慕われた。後世、聖王として崇められ、為政者の手本となった。
だそうです。
そして「阜」は、
孔子の生誕地「曲阜」から、太平と学問の地になるよう願いを込めて。
とのこと。
この解釈からすれば、信長の、「太平と学問の地」岐阜の地から天下(当時の感覚では「天下=五畿内」らしい)を獲るぞ という気概を込めた地名ということになりそうです。
ちなみに、信長が、かの「天下布武」の朱印を使い始めたのは、本拠を岐阜に移した頃だそうな。
右に載せた写真は、東京国立博物館で観たホンモノの印影で(記事はこちら)、天正2年(1574)の朱印状だそうですから、まさしく信長が岐阜城の主だったときのもの。
「天下布武」の意味について、「武力で天下を獲る」と解釈しがちですが、最近の通説ではそうではなく、元ネタは中国の古書「春秋左氏伝 宣公十二年」にある下記(こちらのサイトから転記)からとられたものとか。
楚子曰 非爾所知也 夫文 止戈為武 武王克商 作頌曰 載戢干戈 載櫜弓矢 (中略) 夫武 禁暴 戢兵 保大 定功 安民 和眾 豐財 者也
「岐」の字の由来のところにも登場した周の武王が商(殷)を打ち破ることで世に平安をもたらしたこと、そして、「武」の目的が、
暴を禁じ
兵を戢(をさ)め
大を保ち
功を定め
民を安んじ
衆を和らげ
財を豊かにする
である(武の七徳)と、楚子(荘王)が語ったとされています。
天下に七徳の政治を敷く という信長の為政者としての目標を示した朱印なのだという解釈ですな。
もっとも、崇高な目標の為に信長が採った手段は、かなり苛烈なんですけど…。
その一例のなごりは、この翌日、目にすることになります。
さて、岐阜城天守最上層からの眺めは、好天にも恵まれて、最の高 でした
まずは西(酉 )の眺め
右奥に見える雪を頂いた山は伊吹山かな?
次は北東(艮 )の眺め
左奥には御嶽山、右奥には南アルプス(だと思う)
次は南西(坤 )眺め
手前の山並みは養老山地、その奥が鈴鹿山脈の最高峰・御池岳でしょうか?
最後は南(午 )眺め
眼下に濃尾平野がどばぁ~んと広がって、遠くに名古屋の街が見えます。
この眺めを楽しむうち、美濃と尾張とは、国が分かれている意味がないんじゃないか? と思えてきて、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の見方も変わってくる気がします。
そうそう、天守最上層の天井に描かれていたのは、
麒麟でした
公式HPによると、昨年末のリニューアルでこうしたみたいですな
満足のうちに天守を出ると、岐阜城資料館をちょいと見て、
ロープウェイ乗り場に急ぎました
ロープウェイは15分毎の運転なので、このタイミングを逃すと、15分なんとかしなくてはなりませぬ
と、並んでる…
これだと、ただ、行列に15分間も並んでいることになるかもしれない
そうなったら、単に乗り遅れて次の便まで時間をつぶす方がマシです
結局、私の後ろの人たちがグループだったもので、私が最終乗車者になり、時間をムダにすることなく、下山できました。
めでたしめでたし。
【追記】岐阜城を訪れた当日、私は、
とTweet したのですが、あとでこの写真をよくよく見ると、
足先が「三本爪」で、「こりゃ麒麟ではなく龍だ」となり、フェイク・トゥウィートしてしまったかぁ~ と忸怩たる思いにとらわれていました。
ところが、デジカメで撮った写真を見ると(Tweetの写真はスマホで撮りました)、本文に載せたように、足先が蹄(ひづめ)の「麒麟」(偶蹄目?) の図もありました。
どういうこと? なんですが、写真を観察した結果、天守最上層の天井は、6×5の格天井になっていて、内側の10枚に麒麟、外側の18枚に龍が描かれているみたいです。ちなみに最内側の2枚分に絵は無く、代わりに方位が示されていました。(2020/03/22 09:44)
つづき:2020/03/24 思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-6
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