新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

山形・郡山遠征ダイジェスト

2022-02-21 20:01:34 | MISIA/旅行記

北京オリンピックが閉幕し、さぁ、ブログを書くぞ気合いを入れているところです。
書きたい「シリーズもの」たまりまくっておりますが、まずは、昨日&一昨日に決行した山形・郡山遠征ダイジェストを書きます。

今回の山形・郡山遠征では、目的のメインはもちろん「MISIA星空のライヴ」でしたが、もう一つのお楽しみが、山形市内での建物見物でした。

「トランヴェール」2021年6月号これというのも、去年6月の仙台遠征(秋田の別邸⇔仙台)のとき(記事)に新幹線の車内で手に取った「トランヴェール」が、山形・福島の擬洋風建築を特集していたのが発端。
私は、この手の建物大好物ですから、「トランヴェール」をしっかと別邸に持ち帰り、さらに帰省Uターンの際には別邸から本宅と持ち帰って、コレクションに加えております。
この号の表紙に使われている旧済生館本館(山形市郷土館)には絶対に行ってみたいと思っていて、さらに記事を読むと、山形県旧県庁舎(山形県郷土館「文翔館」)もかなり魅力的

まずはこの2つの建物は外せない という決心を胸に、山形市に乗り込んだ私は、新幹線の車両からかなり歩いた末に山形駅の改札を抜け、

山形駅構内の立体図

まずは資料収集のため、観光案内所に行きました。
すると、観光地としてのイメージが薄い山形市だというのに、観光パンフレット案内地図のたぐいが豊富に揃っていました
やまがた-建物-時代絵巻しかも、「ここで逢ったが百年目的だったのが、「やまがた- 建物- 時代絵巻」と題するスタンプ帳というかリーフレットでした。

これは、「切り絵絵巻にスタンプを押しながら 歴史的建物をめぐる」というスタンプラリーで、8ヵ所スタンプポイントには、旧済生館本館(山形市郷土館)山形県旧県庁舎(山形県郷土館「文翔館」)も含まれています。
これぞまさしく「渡りに舟です。

私は、初日「MISIA星空のライヴ」終了後に山形在住の旧友と会う約束にしていて、2日目山形市観光をした後に郡山に移動するつもりでしたので、山形公演は1st Stge郡山公演は2nd Stageのチケットを入手していました。
そんなことから、郡山への新幹線は山形を15:46発と、余裕はたっぷりあります
山形に到着するまでは、下手したら、観光が早々に終わってしまい、家電量販店かどこかでオリンピック観戦になるかもしれないと危惧したり…だったのですが、その心配はなさそうです

入手した資料をバッグに入れ、それをホテルに預けて、いざ、「MISIA星空のライヴ」

やまぎん県民ホール

   

ここで2日間の旅程を書いておきます。

【初日:2月19日(土)】
自宅⇒徒歩最寄り駅埼京線大宮駅山形新幹線山形駅⇒徒歩⇒やまぎん県民ホール(MISIA星空のライヴ)⇒徒歩ホテル旧友と飲み会ホテル
【2日目:2月20日(日)】
ホテル山形駅(コインロッカー)⇒徒歩スタンプラリー (八日町⇒十日町⇒七日町⇒旧寺町⇒文翔館⇒霞城公園⇒霞城セントラル)⇒山形駅山形新幹線郡山駅⇒徒歩けんしん郡山文化センター(MISIA星空のライヴ)⇒徒歩郡山駅東北新幹線大宮駅埼京線最寄り駅⇒徒歩⇒自宅

郡山では、「MISIA星空のライヴ」の会場のけんしん郡山文化センターとの間を徒歩で往復しただけで、観光は皆無でした。
そして、山形では2日目の朝9:40頃から、昼食も摂らず(カフェ休憩1回) 14:30まで取り組んだ(?) スタンプラリー観光のすべてでした。

昼食を摂る時間も惜しんで熱中したわけではありませんで、たまたまお昼時に歩いていたのが官庁街近くだったので、食事できる場所がなかったのですよ。日曜日でしたし…。

ところで、私にとって山形市は、通過するだけを除けば、高校生のとき、部活の東北大会以来です。そのときは、宿泊先と会場の旧山形県民会館との間を貸し切りバスで移動しただけですから、土地鑑皆無
扇状地であることも、2年前に飛行機から眺めて初めて知ったくらいのものです。

ほんとに何も知らない場所だったわけですから、このスタンプラリー勉強になりました

そして思ったのは、

古い建物が残っている
郷土史料の展示が充実している
道が広い
山形城がやたらと広い

ということ。わがふるさとは足元にも及びませぬ…
同じ「出羽国」で、隣り合った県の県庁所在地どうしなのに、どうしてこうも違う?? とくに

さらに「う~む…と思うのは、旧山形県民会館からやまぎん県民ホールへの継承と、旧秋田県民会館からあきた芸術劇場ミルハスへボッカリと開いた空白…。
山形は旧県民会館とは別の場所やまぎん県民ホールを建てたことから、ほとんど空白期間なしで継承したのに対して、秋田は旧県民会館と同じ場所に新ホールを作ったものだから、約4年間に渡って秋田市には1200人以上を収容できるホールが無い(旧県民会館のキャパは約1,800人)という情けない状況になってしまいました。
そんなわけで、今年9にグランドオープンするあきた芸術劇場ミルハス(大ホールのキャパは約2,000人)に期待するところがデカい私です。

   

愚痴るのはこの辺りにしときまして、「MISIA星空のライヴ」山形・郡山公演のことも少し書いておきましょう。

MISIA星空のライヴ

どちらも、声出し禁止ながら、熱くて厚い拍手が印象的なライヴでした。
MISIA絶好調で、とくに山形公演過去最高クラス絶好調 でした。
(「絶好調」で思い出す元プロ野球選手の中畑清さんは郡山市からほど近い矢吹町のご出身)
MC
の方も、話したいことが多すぎる~ といった感じで、紅白歌合戦での「肌のツヤ」の話とか、オリンピックの話とか、デビュー24周年の話とか、語りまくり
今週金曜日(2月25日)放送のNHK「ドキュメント72時間」ナレーションを担当することすら告知しないとは…

というところでダイジェストはおしまい
いつになるか判りませんが 本編は必ず書きますので、お楽しみに~

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約1年ぶりの関西旅行記 #3-5

2022-02-07 15:49:16 | 旅行記

久しぶりに「約1年ぶりの関西旅行記 #3-4」のつづきです。

飛鳥大仏から路線バスに乗って、石舞台 で降りると、なかなかの賑わいです。
飛鳥寺もそうでしたが、石舞台古墳のある国営飛鳥歴史公園 石舞台地区も、かなり賑わっていました。みんなクルマでやって来るんですな
石舞台古墳を見物する前に、昼食を摂ることにしました。

レストハウスのようなところに行ってみると、レストランお休みで、喫茶メニューのみとのこと。でも、まちなかの喫茶店のような軽食は摂れるということで、何年かぶりに「ナポリタン・スパゲティ」を食しました。
味も価格も、「可もなく不可もなし」って感じで、観光地という場所を考慮すれば、「良心的」と言えるでしょう

ということで、石舞台古墳の見学です。
入場料300円のところ、スマホに入れてあるJAFのデジタル会員証を係員さんにお見せして、団体料金の250円で入場

奈良県教育委員会による説明板を転記します。

この古墳は、封土(もりつち)の上部がなくなり、玄室の天井石と側壁の上方が露出していて、天井石が平たいので、古くから石舞台古墳の名で親しまれています。
古墳は、昭和8年、10年に京都大学と奈良県が共同で発掘調査を行った。
玄室の長さは約7.6m、幅約3.5m、羨道の長さは約11.5m、幅約2.2mで、玄室底部から羨道中央部を南に通る排水溝がある。
現在封土基部は方形で、外斜面に自然石の貼石がある。一辺の長さは約55m、その外の隍(からぼり)の幅は隍底で約6~7.6mで、北方の幅は約6.5mである。その外側に上幅約5mの外堤があり、内外斜面にも下方部に貼石をする。封土は、方形・上円下方形とも考えられているが、現在なおはっきりしないが、巨大な石材を架構した雄大さは、日本古墳の中でも群を抜いた後期古墳である。

この説明で注目するべきは、「封土基部は方形」ということ、「外斜面に自然石の貼石がある」こと、そして、この古墳が誰を葬ったものなのか記述がないことかと思います。

最後の注目点は後に廻して、外観から紹介していきましょう。

石舞台古墳の写真といえば、

こんな感じのものが多くて、平地の上に巨石が組まれているように見えます。
ですが、説明にあったように、この巨石は、約50m四方の「封土基部」の上に露出しています。
南南東側から見ると、

こんな具合。
外斜面に自然石の貼石があるも判ります。
このからぼりを含めた「封土基部」を見ただけでも、石舞台古墳デカさが感じられますが、圧巻は、やはり古墳中心部の石室(羨道と玄室)でしょう。
石室の中に入る前に、封土がなくなり、露出した外側を拝見

この迫力 この質感
これはで見るに限ります
ブラタモリなら、「この石はなんだと思いますか?」という質問が出てくるところですが、Wikipediaによると花崗岩だそうです

で、石室内部に入ります。
まずは羨道

屈む必要ない十分な高さがあります。
そして、玄室

石棺副葬品を置くだけのスペースのはずなのに、なんと天井が高いことか
側壁と天井石との間はかなりスカスカで、その隙間からが入ってきて、意外なほど明るい
いま、このタイミングで大地震が発生したらマズいのではないだろうかと思ったりして…

それはともかく、さきほど、飛鳥資料館で見た高松塚古墳玄室実物大模型と比べると、

その規模の違いは歴然としています。
これほどの古墳ですから、被葬者は誰なのか? なんですが、国営飛鳥歴史公園のHPによると、

被葬者は明らかではありませんが、7世紀初頭の権力者で、大化の改新で滅ぼされた蘇我入鹿の祖父でもある蘇我馬子の墓ではないかといわれています

で、飛鳥資料館図録は、

蘇我馬子の墓とする説がある。

とさらに素っ気ない…

と、ここで、蘇我馬子ならば、自分が建立した飛鳥寺(法興寺)の境内にお墓があっても良いのではなかろうか? と考えました。
菩提寺に近いところに住んでいれば、お寺の墓地に遺骨を納めるのが普通だろ という感覚からです。
でも、考えてみれば、聖武天皇の陵東大寺にはないし、聖徳太子の墓法隆寺にはありません(聖徳太子の墓について、とても興味深い記事を見つけました:こちら)

そこで、Wikipediaの「墓」の項目をみると、柳田國男系の民俗学では、

遺体を埋葬する墓所はあったが、墓参りなどの習慣はなく、従来の日本では全く墓は重視されなかった

というし、それへの反論としても、

墓に石塔ができてきたのは仏教の影響と関係の強い近世の江戸時代あたりからであり、それ以前は遺体は燃やされずに埋葬され、石塔もなかった

とな
さらに「火葬」について調べると、

一般的には火葬の習俗はまず天皇や貴族・地方豪族などの上層階級から広がっていった、と説明されている

だそうで、

日本では平安時代以降、皇族、貴族、僧侶、浄土宗門徒などに火葬が広まった後も、土葬が広く用いられていた。仏教徒も含めて、近世までの主流は火葬よりも死体を棺桶に収めて土中に埋める土葬であった。

とか。知らなかった…
徒然草の第7段で、

あだし野の露きゆる時なく、鳥辺山の烟立ちさらでのみ住みはつるならひならば、いかにもののあはれもなからん。世はさだめなきこそいみじけれ。

とあったことから、鎌倉時代でも火葬一般的だと思っていました。

かなり話が逸れましたので、石舞台古墳に戻りまして、からぼりの外石棺がありました。

この石棺だけでも、高松塚古墳だと玄室には入らない巨大さです(高松塚古墳の棺は「漆塗の木棺」だったらしい)
傍らにある(財)明日香村観光開発公社による説明板を抜き書きしますと、

被葬者は、古代この地で最大の勢力を誇っていた大豪族の蘇我馬子の桃原墓(日本書紀巻第22 推古天皇34年 626年『大臣……桃原墓に葬る』)であるとの説が最有力視されています。
古墳の規模は、下方形墳(外隍)一辺が85m 玄室の長さ7.7m 幅3.4m 高さ4.8mで玄室南側の天井石は、約77tと推定されます。
この発掘調査では、石棺は発見できませんでしたが、石室からは平らに加工した凝灰岩の破片が見つかりました。
このような発掘調査の成果と、飛鳥時代の古墳に施されている石棺の資料を基にして石舞台古墳の石棺を復元致しました。

ということで、この石棺は現物ではなく復元したものでした。
それにしても、盗掘者は、こんな巨大な石棺を、どうして玄室から持ち出したのでしょうか?
明日香村の広報紙には、

凝灰岩製の石棺は一般的に花崗岩よりも柔らかい材質であることから盗掘で破壊される場合が多く、原型をとどめておりません。

とありますが、でも「破片」を残して、跡形もないのはどうしたことか…。
ま、「1400年の間にいろいろあった」と解釈しておきましょう

最後に、からぼりの中に見つけたというか

Googleマップでも見えます。

羨道や玄室と同様、花崗岩っぽく見えますが、これはなんでしょねぇ???

わけが判らないままに石舞台古墳の見物を終わりにして、バス停へと向かったのでした。

つづき:2022/04/09 約1年ぶりの関西旅行記 #3-6 

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