新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

2017年3度目の関西旅行記 #1-5

2017-11-30 23:47:23 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2017年3度目の関西旅行記 #1-4」のつづきです。

私が舞鶴市立赤れんが博物館を訪れたとき、「灯台記念日」企画展というものが開催されていました。

この企画展は、

我が国における西洋技術を用いた灯台の建設は、明治元年(1868年)観音埼灯台(神奈川県横須賀市)に始まりました。その起工日である11月1日「灯台記念日」と定めており、今年で149周年を迎えます。
第八管区海上保安本部では、舞鶴市の協力を得て舞鶴市立赤れんが博物館において、灯台記念日企画展を開催します。同企画展では、実際に灯台で使用されていたレンガのほか、灯台の光源等の変遷、全国各地の灯台写真パネルなどを展示します。

というものなんですが、どうして灯台竣工日ではなく起工日「記念日」になったのか不思議な気がします。

それはともかく、この展示の中で激しく萌え上がったのが、「全国各地の灯台写真パネル」の中に入道埼灯台のものがあったこと

入道埼灯台

男鹿半島の先端、入道崎にあるこの灯台には一度だけ登ったことがあります。
小学生だった頃だと記憶していますが、母方の親戚一同で男鹿に遊びに行き、白黒の灯台の中の階段をぐ~るぐ~ると登りましたっけ…

入道埼灯台に登ったのはこの一度きりですが、入道崎には家族ドライブほかで何度も行きました。
サザエの壺焼きを食べるのが楽しみ楽しみで…

想い出してみれば、中学1年春の遠足で行ったのが最後かな…

来年の夏休みに帰省したときに久しぶりに母と入道崎に行ってみようか…

ところで、ここまで、「入道灯台」「入道書き分けていることにお気づきでしょうか?
正式
には、灯台の名前だと「入道灯台」だし、地名だと「入道なのですよ
海上保安庁のサイトが書かれていました。

「埼」「崎」のことですが、海図では海洋に突出した陸地の突端部の名称としての(Saki)は、おおむね土へんの「埼」を用いています。例えば、東京湾付近では地図帳などには野島崎・観音崎・剱崎と「山へん」で記載されていますが、海図には「土へん」で野島埼・観音埼・剱埼と図載しています。
土へんの「埼」は、陸地(平地)が水部へ突出したところを表現し、山へんの「崎」は本来の意味として山の様子のけわしいことを言い、山脚の突出した所を示しており、平野の中に突出した山地の鼻等を言う意味なので、海洋情報部では漢字の意味からも地形が判る土へんの「埼」を採用しています。
なお、「みさき」の地形を表わす名称には「埼」のほかに「岬」、「碕」、「角」、「鼻」があり、まれに「岬」を(Saki)と読む場合もあります。
海洋情報部は、明治時代の海軍水路部のころから、土へんの「埼」を海図に採用してきました。これは、埼、崎、岬で地形の意味を表現するために使い分けをして、海図の使用者である航海者が地名から地形が判断できるようにしていました。たとえば、野島埼は、「野島」が地名を表現し、「埼」がそこの地形を表現していると考えると判り易いと思います。
国土地理院では、前身の陸軍陸地測量部山へんの「崎」を使用していた経緯があるので、引き続き使用しています。

ここで大きな疑問が…。
海無し県埼玉県は、どうして「陸地(平地)が水部へ突出したところ」を意味する「埼」の字を使っているのでしょうか

この考察は別の機会に取っておきます。

赤れんが博物館での企画展には、灯台のペーパークラフトも展示されていたのですが、これはこちらのサイトからダウンロードできます。
私は入道埼灯台を作ってみようかな…

つづき:2017/12/01 2017年3度目の関西旅行記 #1-6

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2017年3度目の関西旅行記 #1-4

2017-11-29 23:40:51 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2017年3度目の関西旅行記 番外編」のつづきです。

「#1-3」につづいて舞鶴市立赤れんが博物館見聞録なのですが、その館内は、スナップ撮影のみ可能で、展示品撮影は不可でしたので、ほとんど写真はございませんのであしからず。

古今東西れんがれんが造りについて展示されている1階での見ものは、ホフマン窯の一部を再現したコーナーでした。
ホフマン窯というのは、れんが焼成するための窯(炉)で、近代化産業遺産にも、埼玉県深谷市残っているものとかが指定されていることは知っていましたが、その構造とかについては、ほとんど白紙状態だった私、この展示でしっかりと理解することができました。

ホフマン窯のことを簡単に説明しようとすれば、Wikipediaの記述を若干入れ換えるのが一番かと思うわけで、

[間仕切りできるようにした]窯を環状(円形、楕円形等)に配置して、焼成前の(生の)煉瓦を入れて焼きあげ、熱が下がってから煉瓦を取り出し、また生の煉瓦を入れ…といった工程を連続して煉瓦を製造できるようにしたものである。
窯の内部に生の煉瓦を積み重ね、上部からコークスを入れて焼成する。一つの区画で焼き上がると、また次の区画に火を移して焼成を繰り返してゆく。こうした連続工程により煉瓦の大量生産ができるようになった。

というもの。
この「連続」というのがキモで、生のれんがを積み重ねる⇒上部からコークスを入れて焼成する(隣の窯生のれんがを積み重ねる)⇒冷ます(隣の窯焼成する)⇒窯からできあがったれんがを取り出す(隣の窯のれんがを冷ますそのまた隣の窯生れんがを積み重ねる)⇒・・・、というわけで、真上からみれば、各工程が環状の窯グルグル廻り続けて、れんが連続的に製造される、というものだそうな。

ここで想い出したのは、ブラタモリ「#89 洞爺湖」の回。
昭和新山(中学校の修学旅行で見学しました)が赤いのは、火山の熱で焼かれて「天然の赤れんが」になったから、という説明は、からウロコから消しゴム的な驚きでした。

   

赤れんが博物館2階は、日本各地のれんがの説明と、れんが積み体験コーナーで、これが面白かった

私、れんが積みの方法のメインストリームとして、イギリス積みフランス積み2大勢力があって、この他、小口積みなんてのもあることは、知っていました(こちらの記事をご参照方)。
「2大勢力」見た目がこんな感じであることも含めて…。

 具体例を挙げますと、東京駅丸の内駅舎「構造れんが」は基本的にイギリス積みで、

赤れんが博物館(旧・舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫)フランス積みです。

この見た目は、どんな風にれんがを積むと現れるのかを、実際にれんがを模した積み木を積み上げることで体験できました。

二つの積み方を真上から見ると、こんな風になっているのだとか。

この2種類の積み方とか、アーチの仕組み(こちらで書いた「楣式建築」とは対極の建築法かも)を、積み木を使って体験的に勉強できるのは、赤れんがファンの私としては得がたい体験でした。

ただ、この積み木で遊ぶと、カチャカチャとかなり耳障り…(とりわけ他人がやっていると…)。
この辺は一工夫が必要かと思われました。

赤れんが博物館の話は、もうちょいと続けます。 

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毎週火曜日(一部を除く)は「MISIAの日」

2017-11-28 22:47:34 | MISIA

NHK FM「MISIA 星空のラジオ」は、毎週火曜日の放送ですが、なぜか毎月最終火曜日はお休みですから、きょう11月28日はお休み、、、なんだけど、きょうに限っては「MISIAの日」

なんたって、CD「君のそばにいるよ」と、Blu-ray Disc「MISIA SOUL JAZZ SESSION」が届いたんですから

きょう帰宅すればこの2枚のディスク宅配BOXに入っていることが判っていましたので、帰りのクルマでは、「MISIA 星空のラジオ」を録音⇒CD-Rにダビング⇒愛車のHDDにダビングしていた「君のそばにいるよ」2聴いた後に削除しました。
もちろん、明日の通勤時CDからクルマのHDDにダビングするためです。

で、帰宅するなり、予定どおり 宅配BOXから届いていた「荷物」を取りだし、封を開けました

おぉ、特典A5サイズのクリアファイル、もったいなくて使えない
基本的に、MISIAのグッズ日常使いしている私ですが、このクリアファイルは使わずにどこかに飾っておきたい気分です。

   

さて、まずはCD「君のそばにいるよ」PCにセットしてHDDiTunesに落として、そして、iPod Touchに入れました。
このiPod Touchは、今年2月に私が遅いスマホ・デビューしてから「なんちゃってiPhone」(こちらの記事をご参照方)の役目を終え、そして6月にクルマを買い替えてからは、もっぱらクルマのコンソールボックスの中でクルマのオーディオ・ストレージと化しているのですが、旅行のときにはクルマから取りだして連れて行ったりしています。

それはともかく、以上の作業を終えたあと、初めて自宅のリビングのオーディオセットCD版「君のそばにいるよ」視聴しました。

 

やはり、FMから録音したものより、ずっと音がイイ と再認識しながら、ずっと気になっていた「君のそばにいるよ」作詞・作曲者Check

作詞は当然のようにMISIAで、そして作曲者として、

Ichiro SUEZAWA / Mayu WAKISAKA

とクレジットされていました。

土曜日「MISIA SOUL JAZZ SESSION」の先行上映会&トークショーの際、

MISIAが、映画「鋼の錬金術師」主題歌を依頼されたとき、BOSSの意見で、DEEPNESSの編曲をお願いしたICHIさんが良い」、となった、といったことを話していました。この時点では、ICHIさん編曲を担当したのか、作曲も担当したのか判らなかったのですが、作曲と編曲の両方を担当されていたんですな。

ところで、もうお一方作曲者としてクレジットされている「Mayu WAKISAKA」って誰? と思って調べると、そのまんまMayu Wakisakaさんでした
このWakisakaさん京大法学部&大阪市立大法科大学院中退というなんとも輝かしい学歴の持ち主なんですなぁ

そうした情報はともかく、ホント、「君のそばにいるよ」は何度聴いてもイイ曲です。
あまり食指が動かなかった 映画「鋼の錬金術師」観に行こうかと思うくらい…

ただ、DJ EMMAさんのRemixイマイチかな…

   

そして、今、Blu-ray「MISIA SOUL JAZZ SESSION」再生しながらこの記事を書いているのですが、ほ~~~んと、このLIVE、いい

しかも、これまで何度も何度も視聴したWOWOWからの録画と比べて、音質圧倒的イイ

これからしばらくはヘビロテが続きそうです。

そうそう、上に載せた「MISIA SOUL JAZZ SESSION」の先行上映会&トークショー写真「昼の部」のもののようです。
らしき人物が写っていますので…

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平日の上野で美術館・博物館をハシゴ #4 [完結編]

2017-11-27 22:35:00 | 美術館・博物館・アート

「平日の上野で美術館・博物館をハシゴ #3」のつづきです。

先週金曜日、平日休みを利用して、東京都美術館「ゴッホ展」東京国立博物館(トーハク)「運慶展」ハシゴをもくろんだ私でしたが、予想外の「運慶展」混み方に夢は崩れ去りました

それでも、トーハク総合文化展(平常展)を十分に楽しめましたので、その見聞録を書くことにします。

まずは河鍋暁斎の大作「地獄極楽図」(表装もすげぇ~)。

説明板を転記します。

奪衣婆(だつえば)に衣服を剥がされた亡者(右上)が閻魔大王の前で審判を下され(中央)、さまざまな責め苦を受けながら地蔵に救われる光景(左上)が描かれている。
暁斎は、はじめ浮世絵を学び、狩野派の画風をも習得して、とくに風刺画や戯画に個性を発揮している。

なわけで、こちらなんか、ほとんど「戯画」なんですけど、苦しそう

そして、この絵で一番怖いと思ったのはこちら。

「お前が生前にしでかしたことを見てみろというわけで、こんな「地獄図」を見せられた子どもは、これがトラウマになって「良い子になりますとなるんじゃなかろうか。

   

お次は、5幅の掛け軸、円山応挙「波濤図」です。

良く見ると、もともとは襖絵だったことが判りますが、それよりも注目するべきは、の描き方です。

100年後に葛飾北斎が描いた「神奈川沖浪裏」波の先端を髣髴とさせる描き方です。日本の絵師って、瞬間を捉える眼力が伝統的に強力だったのかもしれませんな。
それはともかく、隣に展示されていた同じく応挙の「秋冬山水図屏風」から応挙の署名と落款を…。

 width=

 應擧寫

とあります。「応挙ではなく「応挙なんだなぁ…なんて妙なことに感じ入っていたところ、別の部屋に展示されていた酒井抱一「四季花鳥図鑑」の署名も、

 文化戊寅晩春 抱一暉眞

とありました。
ちなみに「暉眞」抱一(あざな)で、に「文化戊寅」というのは、文化年間戊寅(つちのえ とら)ですから、文化15年、西暦1818年です。

「四季花鳥図鑑」は、いかにも抱一らしい、鮮やかたおやか素晴らしい作品だったのですが、うまく写真が撮れなかったもので、この署名&落款だけにとどめます
今回の展示は12月17日までですので、是非、でご覧くださいませ。

   

最後は、私の大好きなこちら

歌川広重「名所江戸百景 浅草田圃酉の町詣」です。

この作品は、吉原遊郭の一室で、お女郎の愛猫が、浅草の田んぼのあぜ道を鷲神社の参拝に向かう人びとを眺めているシーンを描いたもので、夕焼けに浮かぶ富士山やねぐらに帰るたちとか、なんとも叙情にあふれた佳品です。

ちなみにこちらの署名は、

廣重

でした。

実はこの日、JR上野駅中央改札を抜けた私の目に最初に入ったのは、酉の市巨大垂れ幕でした。

そっかぁ~、酉の市の季節なんだ…

なんて思っていたものですから、トーハクでのこの作品の展示は、まさしく「旬」
さすがは膨大コレクション&寄託品を誇るトーハクならではの粋な展示ですよねぇ~。

ということで、初志は貫徹できなかったものの、それなりに楽しめ上野でのハシゴでしたとさ。
めでたし、めでたし…。

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平日の上野で美術館・博物館をハシゴ #3

2017-11-26 14:49:42 | 美術館・博物館・アート

「平日の上野で美術館・博物館をハシゴ #2」のつづきです。

日本を愛してくれたファン・ゴッホ、彼の死後、今度は大勢の日本人が彼を敬愛することになります。
彼の終焉の地となったオーヴェールは、彼の死を看取り、彼の売れ残りの大量の作品を引き取った医師ポール=フェルディナン・ガシェの子息が住んでいたことから、「ファン・ゴッホの聖地」となり、「巡礼者」が訪れたのだとか。

《ガシェ医師の肖像》《オーヴェールの教会》など代表作を含む20点あまりの貴重なコレクションは、後に8点が国家の所蔵となり、現在はオルセー美術館の至宝となっています。ただ、当時はパリで見ることのできたファン・ゴッホ作品はわずかであり、彼の作品と足跡に触れることを求めた日本人たちは、オーヴェールをファン・ゴッホ巡礼の地と定めることになります。 

単にファン・ゴッホゆかりの地を「巡礼」するというのではなく、ファン・ゴッホの作品を鑑賞する目的もあったんですな。

ということで、「ゴッホ展 巡り行く日本の夢」2は、「日本人のファン・ゴッホ巡礼」と題して、

ファン・ゴッホの死後、彼が眠るオーヴェールの地で20点ほどの作品を大切に所蔵していた医師ポール=フェルディナン・ガシェとその一家。ファン・ゴッホに強い憧れを抱いていた日本の学者や芸術家たちが後にそのガシェ家を訪れ、『芳名録』に名前を残したことがわかっています。本展では、日本初公開となるフランスの国立ギメ東洋美術館所蔵の『芳名録』を軸に、里見勝蔵佐伯祐三斎藤茂吉式場隆三郎ら当時の日本人の視点からも、“時代”と“国境”を越えたファン・ゴッホと日本を巡る夢の変遷をたどります。

というものでした。
でも、私としては退屈なコーナーでした。
よほどのファン・ゴッホのファン研究者でない限り、オーヴェールを訪れた日本人の芳名録を見ても面白いものではないのではなかろうか?

そんな中で、唯一私の気をひいたのは、

佐伯祐三が描いた「オーヴェールの教会」(鳥取県立博物館蔵)でした。
佐伯がオーヴェールを訪れたのは1924年7月1日だそうですから、佐伯がパリで住み始めてから半年ほど後のこと。
ちょうどこの頃、モーリス・ド・ブラマンクがオーヴェールに住んでいて、佐伯はヴラマンクのアトリエを訪問して自分の作品を見せたところ、「アカデミック一喝された、というのは有名な話です。
言い方にもよりますけれど、「アカデミック一喝のことばととるのは一般的ではないと思います。ただ、言われた佐伯が叱責と受け取り、画風を変化させていったというのは、重要なことかもしれません。
でも、「型」があってこそ、「型破り」ができるわけで、「型」がなければ「型無し」から抜け出ることができないのも確か。

う~む… です。

   

こうして、やや尻すぼみ的に「ゴッホ展」を見終えた私は、輝くイチョウを見上げながら一服した後、東京国立博物館(トーハク)に向かいました。

大盛況「運慶展」今週末で終わるというので、平日休みを利用して2度目の観覧をしようという魂胆です。
前回(記事はこちら)は、重源上人坐像にお逢いできませんでしたからね。
しかも、ちょっとくらい混雑していても、一部の展示を除けば、大きな仏像彫刻がメインの運慶展は十分に楽しめますし…

ところが、竹の台広場からトーハクの入口付近を眺めると、なにやら大勢の人が群れています

小学生の団体らしき集団もいますが、主に個人客みたい…。

もしや…と思ったら、トーハクの入口には、

入場までの待ち時間 約60分

の掲示が…

ちょっと…、いくら会期末とはいえ、平日ですぞ(時刻は13:30頃)。
それがこんな混雑とは…。

私はメンバーズプレミアムパスの特典の「特別展無料観覧券」を持っていっていましたので、とりあえずトーハクに入場して様子見することにしました。
そして、本館(日本ギャラリー)1階をぐるりと見物

まず、久しぶりに「木喰自身像」にご対面してニコニコし(2012年の年賀状に使わせていただきました。

そして、なかなか男前で、かつ、実存的阿弥陀如来坐像を拝見。

この阿弥陀如来像(鎌倉時代・12~13世紀)は、

静岡県裾野市の願生寺に伝来した、来迎印を結ぶ阿弥陀如来像。
たっぷりした肉付き、上げ底状に像底を刳り残す内刳りの技法などが運慶の作品に通ずる。鎌倉時代初頭に東国で活躍した運慶周辺の仏師の作とみられ、有力な節の発願にかかるものだろう。

だそうです。

そして、いつも地味資料展示室(15室)「日本建築史綱」なるものを見ました。
筆者は、かの伊東忠太

日本建築史綱この「日本建築史綱」というのは、1901年に日本で初めて編纂された公式の美術史「稿本日本帝国美術略史」用に建築について伊東忠太が執筆したもので、本稿が追補された「稿本日本帝国美術略史」1909年に再刊行されたのだとか。

この時は、写真に収めただけで、事実上通り過ぎただけに近かったのですが、このブログでは最も頻出する建築家だと思う伊東忠太さん(最新はこちら)がどんなことを書いているのか、ここでじっくりと読んでみました。

転記しますと(一部表記を今様にアレンジしました)、

凡そ木造の楣式建築にして其の尤も能く発達したものは、世界独り我が日本建築あるのみ。
是れ蓋し我が国土の木材に富みて伐れども尽きざると、其の気候が未だ曽て堅実強固なる障壁を築きて、寒暑を防ぐの必要を感ぜしめざりしに由るが如し。而して我が建築の漸く発達して今日に至りしは、自働的にあらずして、多くは隣邦の文物を取り、之を同化したるに由る。
特に仏教の影響極めて顕著なり。本邦建築術は仏教渡来に由りて、始めて光彩を発し来れ・・・

へぇ~、伊東忠太さんが木造建築について書いていること自体も驚きながら、つい先日「2017年3度目の関西旅行記 番外編」で、なぜ近代まで日本ではれんが建築が一般化しなかったのか、という設問について、

古代の日本人は、れんが耐震性の乏しさ気づいていたのではなかろうかと思います。
そして、地震が多い一方、木材豊富にある日本では、石積みれんが造りよりも、木造建築の方が合っている、木造建築の弱点である耐火性の無さ土壁で補おう、そんな考えがあったのではなかろうか…

と自分なりに書いたことと大筋で合っていることにびっくり

   

本館(日本ギャラリー)の1階と、平成館1階考古展示室を観た私は、様子見を兼ねて、本館と平成館の間にある喫煙所へ…。

と、あれまぁ~

運慶展への入場待ちの列が池を3/4周しています
そして、列最後尾の係員さんが掲げる看板によれば、入場待ち時間は相変わらず60分…。

これを以て、私は運慶展再見をあきらめました。

その運慶展きょう(26日)が千穐楽
でも、閉館時刻21:00 (入館は20:30まで)なので、まだ間に合う

つづき:2017/11/27 平日の上野で美術館・博物館をハシゴ #4 [完結編]

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平日の上野で美術館・博物館をハシゴ #2

2017-11-26 10:33:12 | 美術館・博物館・アート

「平日の上野で美術館・博物館をハシゴ #1」のつづき、「ゴッホ展 巡り行く日本の夢」の見聞録です。

聖職者になるつもりだったファン・ゴッホ、その夢が破れて、今度は画家になろうと決心したのが1880年(27歳)のとき、そして、大志をいだいて(?) 花の都・パリに出てきたのは1886年(33歳)のときだったといいますから、「中央画壇」にファン・ゴッホが加わるのは結構遅かったんですな。

古い話ですが、学校の教科書にファン・ゴッホの「馬鈴薯を食べる人たち」が載っていて、その暗さあへぇ~となった記憶があります。
また、2000年に、知人からいただいたチケット劇団民藝「炎の人」(主演は故・大滝秀治さん)を観たときも、そのひたすら暗く地べたを這いずり回るようなファン・ゴッホの描き方にあへぇ~となりました。
私がファン・ゴッホに抱く、絵具自体が輝き夜空さえもに満ちているイメージとはかなり違う。

ファン・ゴッホ「星月夜」(部分)左に載せたのは、今回出展されていない「星月夜」(1889)の部分ですが、この色遣い、このタッチこれぞファン・ゴッホ と思う私です。

さて、ファン・ゴッホがパリに出てきた1880年代末というのは、印象派爛熟期であり、また、ジャポニスム最盛期ともいってよい時期で、ファン・ゴッホはこの両者の洗礼を受けたのは必然だったのかもしれません。

ファン・ゴッホは画商サミュエル・ビングの店の屋根裏で、大量の浮世絵を観て「日本」に開眼、浮世絵を買い集めて展覧会まで開くようになります。
さらに、18882月には「日本」を求めて南仏のアルル移住してしまうのですから気合いが入っています。

でも、なぜファン・ゴッホが、アルル「日本」を見出そうとしたのかがよく判りません
萩原朔太郎ばりにじゃぽんへ行きたしと思へどもじゃぽんはあまりに遠し」ということもあるでしょうけれど、地中海性気候の南仏って、湿潤四季が明瞭日本とはかなり違う環境だとおもうのですけど…

ところが、ファン・ゴッホがアルルに到着した日は記録的な寒さで、雪景色が広がっていたのだそうな。

ファン・ゴッホの

雪の中で雪のように光った空を背景に白い山頂を見せた風景は、まるでもう日本人の画家たちが描いた冬景色のようだった

という手紙からは、「やはり俺の見立は正しかったはしゃぐ彼の様子が目に浮かぶようです
さらに、

ここではもう僕に浮世絵は必要ない。なぜなら、僕はずっとここ日本にいると思っているのだから。したがって、目を開けて目の前にあるものを描きさえすればそれでいい

とまで言い切って(書き切って)いるのですから、「おめでたいとさえ思います。

もっとも、ここまで来れば、ファン・ゴッホの頭の中に存在する「日本」現実の日本とは別のものになっていて、現実の日本はどうでも良い(1889年には大日本帝国憲法が公布され、日本は富国強兵真っ盛り)とまで思っていたのかもしれません。

舞い上がる気持ちを胸にアルルにやって来たファン・ゴッホは、同年10月には、念願だったポール・ゴーギャンとの共同生活を始めました。
もっとも、

日本の芸術家たちがお互い同士作品交換していたことにぼくは前々から心を打たれてきた。これら彼らがお互いに愛し合い、助け合っていて、彼らの間にはある種の調和が支配していたということの証拠だ。もちろん彼らはまさしく兄弟のような生活の中で暮らしたのであり、陰謀の中で生きたのではない。(……)また、日本人はごくわずかな金しか稼がず、素朴な労働者のような生活をしていたようだ。

という「誤解」あるいは「美化しすぎた日本」現実のものにするのは難しいわけで、ほんの1ヶ月で、両者の「性分の不一致」(ゴーギャンの手紙)が明らかになります。
そして、12月の「耳切り事件」(ファン・ゴッホが切り落としたのは耳たぶらしい)を契機にゴーギャンはパリに戻り、共同生活はあっさりと終了しまいました。

精神に異常を来していたファン・ゴッホ精神病院への入院・退院を繰り返しながらも制作を続け、1890年7月胸の銃創が原因で死去

この銃創が、自殺を図ったものなのか、事故なのか明らかではないらしいのですが、それにしても、南仏にやって来てから亡くなるまでわずか2年半とは…
そして、その2年半の間に描かれた作品の質・量には唖然としてしまいます。

上に載せた「オリーブ園」(1889年)なんて、良いなぁ~

ゴーギャンとの共同生活が破綻した後には、ファン・ゴッホの手紙に日本についての記述がほとんどなくなったそうですが、日本や日本美術に対する思いは残っていたようで、下に載せた「渓谷(レ・ペイルレ)」なんかは、

歌川広重「五十三次名所図会/四十九 坂の下 岩窟の観音」を彷彿させます。

この渓谷を目の当たりにしたファン・ゴッホの脳裏には、広重の作品がよみがえったんじゃなかろうか…

「日本マニア」だったファン・ゴッホは、結局、日本に来ることなく世を去ったわけですが、実際に明治初年の日本にやって来たらどんな印象を持ったのだろうか? なんて考えてしまいます。

平屋建ての木造民家が並ぶ様子や、まだ和服姿が多い通行人に「浮世絵のとおりだ」と感激するか、「文明開化」と称して外観だけ西洋化にひた走る風景や人びとのありさまに幻滅するか…

タイムスリップを扱う映画・ドラマ・小説は少なくないけれど、同時代に遙か遠い地に移動してしまう作品にはお目にかかったことがありません。
精神病院に入院中のファン・ゴッホがまどろむうち、同時代の日本に瞬時移動する作品なんて面白そう

そんなことを考えたゴッホ展「第1部 ファン・ゴッホのジャポニスム」でした。

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平日の上野で美術館・博物館をハシゴ #1

2017-11-25 20:15:35 | 美術館・博物館・アート

きのう、私は平日休みでして、平日休みの利点を生かして、週末に混んでいる展覧会を観てこようと、上野に出かけてきました。

まずは、「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」を観に東京都美術館へ。

この展覧会は、

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、パリ時代からアルル前半にかけて、浮世絵や日本に関する文献を集めるなど、日本に高い関心を寄せていました。一方で、ファン・ゴッホの死後、日本の芸術家や知識人が、この画家に憧れ、墓のあるオーヴェール=シュル=オワーズを巡礼していたことが明らかになりました。本展では、ファン・ゴッホの油彩画やデッサン約40点、同時代の画家の作品や浮世絵など約50点に加え、関連資料を通して、ファン・ゴッホと日本の相互関係を探り、その新たな魅力を紹介します。

というもので、国立西洋美術館で開催中の「北斎とジャポニスム」展(見聞録はこちら)とちょいとかぶります
というか、近年、西洋画壇日本(江戸時代)の美術品との関わりをテーマにした展覧会が多いような気がしますな。

それはそうと、「ゴッホ展」のメインビジュアルに使われている作品は、「花魁(渓斎英泉による)」で、

色遣いはともかく(少なくとも青いかんざしを観たことがありましせん)、モチーフは完全にジャポニスムです
で、そのタイトルのとおり、渓斎英泉が描いた花魁がメインのモチーフになっているのですが、その渓斎英泉「雲龍打掛の花魁」のオリジナルは、、

あれま、向き違う

オリジナルの渓斎英泉の作品を向いているのに、ファン・ゴッホの作品ではを向いています (当然、栄泉が描いたかんざし鼈甲色=飴色)。

自画像鏡面(左右逆)になるのはよくある話ながら、これは一体…
左右逆なら、襟合わせ「左前」になっているはずですが、このポーズでは判りませんな

実は、ファン・ゴッホ「手本」にしたのは栄泉オリジナルではなく、雑誌「パリ・イリュストレ」日本特集の表紙だったのだとか。

どうして、「パリ・イリュストレ」誌がオリジナルを左右反転させて使ったのでしょうか?

ものは試しとばかりに、「雲龍打掛の花魁」の向きを生かして表紙作り直してみますと、こんな具合。

これでも悪くないと思うのですが…。

いろいろと事情があってパリ・イリュストレ誌「雲龍打掛の花魁」左右反転させたのか、はたまた、単に作業者ネガの裏表を間違えただけ なのか、その辺の事情は現時点では不明でございます。
御存知の方から情報をお寄せいただければ幸いです。

ところで、渓斎英泉の「雲龍打掛の花魁」は、欧米の常識からすれば、かなり縦長の作品です。
この作品は、「大判」2枚継ぎ足したサイズで、縦横の比率は、掛け軸を見慣れた日本人にしてみれば違和感はありませんが、ファン・ゴッホ「花魁(渓斎英泉による)」で、天地VS左右ほぼ同じ幅花魁とは関係の無い草木や舟を描いたのは、極端な縦長見慣れた比率の作品に仕上げるための策略だったような気がします。
これまた真相不明ですけど…

ところで、上に載せた「パリ・イリュストレ」誌表紙の隣には、その誌面が展示されていまして、そこにあったのは、、、、あれまぁ~ の作品、こちらで書いた喜多川歌麿「台所美人」でした

大首絵でもない、名所図会でもない、この私の大好きな作品が130年前フランスの雑誌見開き(ほぼ原寸大)で紹介されていたなんて です。

のっけから見入ってしまって、先に進めない状況に陥ってしまいましたので、きょうはここまでにしておきます。
1週間以内完結させるつもりですので、しばしお付き合いくださいませ。

つづき:2017/11/26 平日の上野で美術館・博物館をハシゴ #2

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2017年3度目の関西旅行記 番外編

2017-11-24 08:49:35 | 旅行記/日記・エッセイ・コラム

「2017年3度目の関西旅行記 #1-3」つづきのようなものなのですが、「#1-3」

日本赤れんがについては、「#1-4」以降で、、、となるかどうか…

と書いた手前、ちょいと日本のれんがについて調べてみました。
でも、何千年にもわたって世界各地で使われていたれんがが、なぜ日本では幕末まで一般化しなかったのか? という疑問は結局解決できず

明治維新期には「文明開化」象徴としても日本中にボコボコと建てられたれんが造りの建物ですが、関東大震災耐震性の乏しさが露呈したことで、れんがでの新築が激減したのだとか。

東京駅丸の内駅舎と共に関東大震災に耐えた貴重な建物、横浜の赤レンガ倉庫は(1号館は半壊して、それで、2号館[下の写真]より短いらしい)、

Wikipediaによれば、

2号倉庫はレンガとレンガの間に鉄を入れる補強が施されていたことで、1923年(大正12年)に発生した関東大震災でも、被害は1号倉庫の約30%損壊にとどまった。 

だそうです。

それはともかく、古代の日本人は、れんが耐震性の乏しさ気づいていたのではなかろうかと思います。
そして、地震が多い一方、木材豊富にある日本では、石積みれんが造りよりも、木造建築の方が合っている、木造建築の弱点である耐火性の無さ土壁で補おう、そんな考えがあったのではなかろうか…

建築好きとはいえ、しょせん素人の私ですから、その程度の考察しかできませぬ

   

私が舞鶴赤れんが倉庫群が存在することを知ったきっかけは、旧海軍が建てた12棟のれんが造りの倉庫群が、2007年に経済産業省(METI)が選定した「近代化産業遺産」に含まれていたことでした。
そして、METIからいただいた近代化産業遺産リーフレットを眺めて、いつか舞鶴に行きたい と思い始めてから10年 経ち、ようやく舞鶴に行った、という次第です。

その舞鶴は、赤れんが博物館でいただいた「舞鶴の赤煉瓦建造物マップ」によると、

舞鶴市には1901年(明治34)の、海軍舞鶴鎮守府の開庁に伴い、旧海軍が建設したものを中心に多くの赤煉瓦建造物が現存し、「赤煉瓦のまち」とも言われています。(中略) 小さな煉瓦遺構なども含めますとその数は120件以上にものぼり、全国屈指の赤煉瓦の残存件数といえます。

だそうで、地図を見るとこんな具合。

すごいですなぁ~

これだけ古いれんが建造物が残っていれば、観光客に見せるだけではつまらないわけで、舞鶴市は舞鶴フィルムコミッションをつくり、映画・TVロケ誘致にも励んでいます。

撮影隊がロケで落とすお金地元が潤うし、映画やTVで興味を持った人たちが舞鶴にやって来る…ということをもくろんでいるわけですな。

そんな活動の中で撮影された主な作品として、観光リーフレットでは、男たちの大和/YAMATO(2005)」「日本のいちばん長い日(2015)」「海賊とよばれた男(2016)」などが紹介されています(3本とも観た)

さらに、きょう、この記事を書くべくWikipediaを見たら、「近年のロケ例」一番下に、

ですって

 

「ハガレン」「レン」って、れんがにもかけている? ってことはないでしょ

今のところ、映画「鋼の錬金術師」映画館に観に行くつもりは希薄ですが、ちょっとは食指が動きだしたかもしれませぬ。

ということで、「#1-4」では旅行記本編に戻ります。

つづき:2017/11/30 2017年3度目の関西旅行記 #1-4

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2017年3度目の関西旅行記 #1-3

2017-11-23 18:22:34 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2017年3度目の関西旅行記 #1-2」のつづきは、舞鶴の探訪記のスタートです。

この旅行の計画を立て始めた頃、初日だけで舞鶴の観光を終えて、2日目は早い時間に大阪に移動しようかとも思いました。
でも、既に日が短くなっていて、初日だけだと、舞鶴を観光する時間が3時間もないし、2日目のなんば行きの高速バスも、13:00発の1本前だと8:00発 になってしまうわけで、結局、初日の後半2日目の前半舞鶴観光に当てることにしました。

そして、初日の舞鶴観光のルートを地図に落とすとこんな具合でした。

舞鶴初日のルートマップ

最初の観光スポット「赤れんが博物館」へ向かって東舞鶴駅からの「三条通り」を歩いてまず気づいたのは、舞鶴メインストリート地方都市ではお約束「シャッター通り」だということ。

「テナント募集」「貸店舗」のポスターが掲げられた空っぽの店舗閉じられたシャッターが続いています。
そして、人通りも少ない…。
こりゃ辛いな…

そんなことを思いながら歩くこと約20分赤れんが博物館に到着しました。

この博物館、

日露戦争開戦(明治37年2月:1904年)が迫る明治36(1905)年7月に完成した舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫が、第二次大戦後長く放置されていたのを保存・活用し、平成5(1993)年11月赤れんが博物館としてオープンさせました。

というもので、要するに、海軍の魚雷庫(魚形水雷=魚雷)だった建物で、

当館は鋼材(スティール)で全体を支える一方で壁は通常のれんが建物よりはるかに薄くなっている「カーテンウォール式鉄骨れんが造り」であり、この方式の建築物としては日本最古級とされます。

だそうです。

建物の内側にむき出しの鉄骨は、リニューアルの際に耐震補強したものだと思ったのですが、もともと鉄骨造りだったんですな(館内の展示品は撮影不可ですが、スナップ撮影)。
ちなみに、関東大震災(1923年)にもびくともしなかった東京駅丸の内駅舎(1914年竣工)は、鉄筋れんが造りです。

そんな「どんがら」に関する知識は持っていた私ながら赤れんが博物館の展示内容については「白紙」の状態で見学を開始しました。

すると、なんとなんと、メソポタミア/エジプト/インダス、さらにローマといった古代文明れんがの展示から始まります

さらには、万里の長城を始めとする中国れんがも…

舞鶴市立赤れんが博物館は現在世界42ヵ国のれんが約1800点を収蔵し、そのうち約300点を展示しています。

だそうで、そういえば、門のアーチには、

World Brick Museum

とありましたっけ…

   

ところで、赤れんが博物館の展示は、1階「世界のれんが」「古代のれんが」「ホフマン窯コーナー」、そして2階「舞鶴市とれんが」「日本のれんがのあゆみ」となっています。

そういえば、紀元前数千年前から世界各地で焼かれていたれんがですが、同じ焼き物「瓦」を除けば、日本では寺社や宮殿の基壇や床材として「塼(せん)」が使われたくらいで、壁面ほかに使われている建物は、明治以降の建物しか見たことがない気がします。

赤れんが博物館ガイドブックによれば(これまでの引用もこちらから)、

6世紀末飛鳥寺建設のため百済から瓦博士が来訪、れんが(塼)の製造技術も伝えられましたが、その使用は寺院の基礎や床などに限られていました
西洋式の赤れんがについては、平戸のオランダ商館(17世紀初め)に使用されたもの(台湾製と推測)が最初でした。幕末にはオランダ人の指導でれんがが生産され始めました

だそうで、平城宮跡で、基壇に使われていたを拝見しましたっけ… (このときの見聞録)

どうして日本では幕末~明治初期以降まで赤れんが建材として一般化しなかったのでしょうかねぇ~

日本赤れんがについては、「#1-4」以降で、、、となるかどうか…

つづき:2017/11/24 2017年3度目の関西旅行記 番外編

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2017年3度目の関西旅行記 #1-2

2017-11-21 23:22:27 | 旅行記

「2017年3度目の関西旅行記 #1-1」のつづきです。

私が京都⇒東舞鶴間を移動するのに使った「特急 まいづる5号」は、JR西日本の車両ではなく、京都丹後鉄道「丹後の海」が使われていました。

この車両は、「北近畿タンゴ鉄道KTR8000形気動車」を、かの水戸岡鋭治さんのデザインでリニューアルしたものだそうで、車内は、

いかにも水戸岡さんのデザインらしい、Woodyなものでした。
こんなステキな車両1時間半ほどの在来線の旅というのは、なかなかのものでした。

ただ、もうちょいときれいにしていただけたら、桂川の眺めをもっと満喫できたのではなかろうかと思うわけで…

ところで、京都駅で買った駅弁は、「松茸ごはんと京のおばんざい」というものでして、色合いがかなり地味…。

しかも、私の食事としては、極端に動物性タンパク質少ないものだったのですが、車窓から風景を眺めながらのんびりと駅弁を味わうのはめったにない体験でした。

そうそう、京都駅で駅弁と一緒に買ってきた「お~い お茶」、ラベルを見ると、「郷土料理百選」として紹介されていたのは、わが故郷・秋田が誇る「稲庭うどん」でした

こんなことでも、「やはり良いリズムだ… と思った次第です。

で、食事が済んだところで、ちょっと「丹後の海」観察しました。

まず、洗面所の入口には縄のれん

この列車は在来線ですから、結構揺れます
でも、その揺れのおかげで、縄のれん良い動きを見せてくれていました。

また、運転席客席を隔てるガラスには、

組子の装飾が組み込まれていまして、いかにも「和」

これは外国人旅行者の方々にも受ける だろうなぁ。

客室Woodyな色遣いと、トイレや洗面所などデッキ濃紺の色遣いの対比もかなりイケて いました。

そうこうするうちに、「特急 まいづる5号」は、定刻の14:02東舞鶴駅に到着しました。

私としては、もっと「丹後の海」に乗っていたいような気分…

さて、私は、駅前の喫煙所で一服 した後、例によって、駅前に予約していたホテルに行って荷物を預け、身軽になったところで、舞鶴観光を開始しました。

初日の舞鶴観光のお話は「#1-3」で書くことにします。

つづき:2017/11/23 2017年3度目の関西旅行記 #1-3

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