新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

スーパーブルーブラッドムーンをめでる

2018-01-31 23:54:11 | 日記・エッセイ・コラム

きょうは「2017年3度目の関西旅行記 #3-5」のつづきをアップしようと、実際、書き始めていたのですけれど、今夜は3年ぶり皆既月食、それも、月に二度目の満月=ブルームーンで、かつ、デカいスーパームーンNASAが名づけるところ、「Super Blue Blood Moon」略して「SBBM」(「MFBSとちょいと似てる)だそうで、こちらを優先します。

天気予報では、今夜の首都圏は曇りで、の合間からが見えるかもしれない」というこころもとない状況でしたが、帰りのクルマからはきれいなスーパームーンが見えっぱなしで、ちょっと期待しておりました。

で、帰宅してつけていたNHKの「ニュースウオッチ9」の様子が映ったのですが、なんだか左下がかかっている感じ…
実際はどうなんだろうか? とベランダからを見上げると、の左下はがかかっているのではなく、欠けていました

2018/1/31  21:10の月

そして、上の写真を撮った21:10から15分近く経つと、

既に半分以上が欠けていました。
そして、皆既月食状態に入って間もない21:51には、

映画の一シーンにでもありそう。

この辺りまでは「ブラッドムーン」の気配はなかったのですが、21:55になると、

暗い側(左側)赤みを帯びてきていまして、何の情報もなくこんなを見たら、「終末が近づいている~なんてパニクる人がでてきそうですな。

この後、どんどん「ブラッドムーン」らしくなってきて、

22:35には、暗いし、赤いし、で、

かなり不気味でした。
この眺めBGMを乗せるとすれば、やはり、ホルストの「惑星」から「火星」のあのリズム、ダダダダン ダン ダダンダダダダン ダン ダダダン …がピッタリではなかろうかと…

今夜のSBBMを観て思ったのは、こんな現象を計算して予測できてしまうことが凄い ということと、ってやはり球形なんだな という、なんとも小学生レベルのことでございました。

で、最新時点の月はといいますと、

雲でちょっとかすんでいますが、色はいつもの「冬の月」で、リバウンド中でした。

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2017年3度目の関西旅行記 #3-6

2018-01-30 23:08:42 | 旅行記

「2017年3度目の関西旅行記 #3-5」のつづきです。

今回の関西旅行では、といってももう3カ月前のことですが… 久しぶりに東大寺大仏殿にお参りしようかと思っていました。

でも、考えてみれば、正倉院正倉の建物を観られる機会というのは、平日正倉院展開催中に限られているわけで、勤め人たる私にとってはかなり貴重なチャンスです。

というわけで、7年ぶり正倉院正倉を拝見することにして、まずは大仏殿後回し…。

奈良国立博物館から徒歩15分ほどで正倉院に到着しました。

一般の観覧者は、この門ではなく、右手の東大寺講堂跡とはす向かいの入口から構内に入ります。
そして、、、、ひやぁ~、お久しぶり

7年前に初めて正倉院正倉を観たとき(記事はこちら)も思いましたが、やはりデカい

正倉院正倉

ついつい、正面に3つあるの大きさから建物全体の大きさを想像してしまうところですが、そもそもこのデカくて、したがって、建物全体デカい

いただいたリーフレットによれば、

間口約33m、奥行約9m、床下約2.7m、総高約14m

だそうですから、の高さは3m以上あるわけで、ホント、巨大な倉庫です。

ここで正倉院正倉の構造を調べますと、

倉は三倉に仕切られ、北(正面向かって右)から順に北倉、中倉、南倉と呼ばれています。北倉と南倉は、大きな三角材(校木=あぜぎ)を井桁に組み上げた校倉造りで、中倉は、北倉の南壁と南倉の北壁を利用して南北の壁とし、東西両面は厚い板をはめて壁とした板倉造りです。また各層とも東側の中央に入口があり、内部は二階造りとなっています。

だそうです。

内部が二階になっていることは、知らない人が多いかもしれませんな。
内部も直に拝見したいとは思うのですが、こればかりはなかなか難しそう

貴重なお宝1250年以上も守り続けてきた正倉院正倉、見た目は、派手さ皆無で、ひたすら質実剛健 というか実用本位というかなんですけれど、それはそれで実に魅力的な外観でもあります。

私が正倉院正倉を拝見していたとき、回りにいた観光客のほどんどが中国語を話していました。
中国の人たちの目から正倉院正倉どのように見えるか興味津々です。
なんでも現代の中国には、明・清時代の建物や文物は残っているものの、それ以前のもの、とりわけ唐代のものはほとんどなく、の時代を偲ぶのならば日本の奈良や京都を観光するのが一番だといわれているらしい…。

そうした意味でも、正倉院正倉貴重な建物だと思います。

つづき:2018/02/03 2017年3度目の関西旅行記 #3-7

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2017年3度目の関西旅行記 #3-5

2018-01-29 23:28:49 | 旅行記/美術館・博物館・アート

長らく間が空きましたが、「2017年3度目の関西旅行記 #3-4」のつづき、「第69回 正倉院展」のお話です。

第69回 正倉院展私、これまでに、正倉院宝物のいくつかを、正倉院虫干しの時期に合わせて東下して東京国立博物館の特別展で「特別展示」されていたもの拝見したことはありましたが、恒例の奈良国立博物館(奈良博)での「正倉院展」を見物したのはこれが初めてでした。

で、お宝の数々を、ガラスケース越しながら、現物を拝見すると、出てくるのははぁ~ というため息のみ。

作品によっては劣化が明らかなものもありましたが、1250年以上昔のものが、これほどまでに見事保存され、伝えられた事実に胸が熱くなりました

お宝の中には、

これまで足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武、織田信長、明治天皇らが切り取っている。

という香木蘭奢待とか(土岐頼武って誰だよ)、明治天皇「自分のものしてしまった「水龍剣」(現在はトーハクが所蔵)

水龍剣 @トーハク

なんぞもありますが(「水龍剣」を拝見したときの記事)、そういうのは例外で、カケラしか残っていないのも含めて、大事に大事に保管されていたというのですから、正倉院は、人類史上でも稀な「タイムカプセル」ではないかとまで思ったわけで…

   

「第69回 正倉院展」で展示されていたものをすべて書いていたら、いつまで経ってもの旅行記が終わりませんので、3点だけ紹介しておきます。
それも、ちょっとなのを…

まずは、こちら

ただの竹笊にしか見えませんな。
しかも、ちょっと歪んでいますし…

でもこれは天平勝宝4(752)年大仏開眼会に使われたことが確実だという由緒正しき「花籠(けこ)」というもの。
「花籠」とは、図録を引用しますと、

花籠とは法会の際に行われる散華供養のための花を盛る蓋のない籠状の容器。僧侶の数に合わせて多数が調えられたと考えられ、宝庫には現在竹の薄板を編んで作られた円形の花籠が都合566口伝わっている。

だそうです。
たかが竹カゴ、されど大仏開眼会の花籠であります

次はもっと意味不明(?)で、、、、

焼き損ないせんべいみたいですな。

これは、せんべいではなく、「臈蜜(ろうみつ)」というモノだそうで、

臈蜜とは、今日「蜜蠟」と称されるもので、ミツバチの巣を加熱、圧搾して採取された蝋である。(中略)
臈蜜は、中国古代の薬物書「神農本草経」に記載があり、下痢に効能があるとされるが、内服薬用としては極めて用途が限られ、今日は外用薬や化粧品の基材として用いられることが多い。古代には薬用以外にも鋳造艶出し臈纈など工藝等の用途に重宝されており、宝庫に備蓄が多いのもそうした需要に応じたものかと想像される。

だとか。
さらに、

調査の結果、宝庫の臈蜜はトウヨウミツバチによって生産されたものであることが有力となり、セイヨウミツバチの生息する西域以西ではなく、トウヨウミツバチの分布する中国など東アジアからもたらされたものである可能性が指摘されている。

だそうで、調べるとどんどんいろんな事がわかってくるものですなぁ。

最後は楽器です。

見た感じのまま「尺八」でして、天平の時代から尺八があったこと自体驚きなんですが、もっと驚いたのは、この尺八の名称「玉尺八(ぎょくのしゃくはち)」から想像がつくとおり、

本品は象牙色を帯びた白色を呈する尺八で、かつては葉蝋石とみられていたが、近年の材質調査では大理石製と鑑定されている。尺八は本来竹製であるが、本品は大理石を用いながら三節の竹管を忠実に模している。表面に縦の削り痕を残しているのも、竹の表皮を意識した表現といえよう。

ですって
大理石製の尺八だなんて
しかも、聖武天皇愛用の尺八ですと

いやはや、凄い、凄い…。

ちなみに、

尺八は、唐の2代皇帝・太宗(在位626~649)の時に楽人の呂才が創製したとされる縦笛。長短12本で1組をなしていたと考えられており、その名は基準の音律となるものの管長が、唐小尺で1尺8寸であることに由来するという。当時は指孔を前面5個、背面を1個として、今日の尺八が前面を4個とするのとは異なった。

だそうです。

この記事ではちょっと変わったお宝pick upしましたが、「いかにもお宝」美しい作品もたくさん展示されていました。

毎年とはいえ、2週間ほどしか開催されない「正倉院展」、仕事を引退して、かつ、余裕があれば毎年行ってみたいものだと思いましたです。

つづき:2018/01/29 2017年3度目の関西旅行記 #3-6

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寒い中、久しぶりの丸の内へ

2018-01-27 23:36:28 | タウンウオッチング

きのうの朝、起きたとき、寒いな とは思いましたが、まさかさいたま市観測史上最低-9.8℃を記録しているとは思いもよりませんでした

-9.8℃といったら、私の実家(秋田市)でも経験したことのない低さです。
-8℃くらいなら経験したことがあって、その時は水道凍って風呂に入れなくなったりとかて、朝に仏さんにあげたお茶が昼には凍ったりと、なかなかなものだったのですが、それよりも低い温度とは…。
もっとも、木造の実家と違って、断熱性にすこぶる優れた鉄筋コンクリートの建物に住んでいますから、その辺は大丈夫ってことなんでしょ。

また、通勤に使う道は、木曜日にはほとんどがなくなって、こちらも大丈夫 なんですが、歩道にはカチンコチン氷結している箇所があって、結構危ない
雪国生まれの私の場合、自宅前の道路に、他の場所より多く雪が残っているのは恥ずかしいことで、せめて人並みに除雪せねば雪かきに精を出すところですが、そんなメンタリティは、首都圏、とりわけ集合住宅、とりわけ賃貸の集合住宅の場合は乏しいのかもしれませんな

きょう、近所を歩くと、一部の歩道だけでなく、車道もところどころ完全に氷結している箇所があって危ないったらありゃしない

どうしてさいたま市が金曜日の朝にあれほどまでに冷え込んだのかについて、TVでの解説によれば、木曜夜~金曜朝にかけてさいたま市はほとんど無風だったため、冷たい密度の濃い空気が地表近くに滞留してしまったからなのだとか。

それにしても、-9.8℃を記録した場所はどこなんでしょ?

県庁所在地にもかかわらず、気象台のないさいたま市の観測地点は、荒川にほど近い自然豊か(そうな)場所にあるアメダスでした。

私の住む街は、タワーマンションがボコボコ立っていて、ビル風のきつい地区ですから、アメダス観測地点ほどは冷えなかったのではなかろうか

   

こんな寒さの中、私は久しぶりに丸の内まで出かけてきました。

目的は、東京ステーションギャラリー「鉄道絵画発→ピカソ行き コレクションのドア、ひらきます」展を観ることと、東京駅丸の内口の駅前広場を見物すること。

久しぶりの東京ステーションギャラリーは、美術館として相変わらず魅力的でしたし、

東京ステーションギャラリーコレクション展「コレクションのドア、ひらきます」展もなかなか楽しかったのですが(一部の作品を除いて写真撮影可)、展覧会の話は後日に廻して、きょうは東京駅の駅前広場のことを書きます。

私は2007年7月~2011年3月4年弱の間、丸の内勤務地でして、丸の内、とりわけ丸の内北口については土地鑑があると思っていましたが、見慣れない銅像が目に止まりました。

この銅像、前からあったかな?  の銅像なんだろ? と思って、近くに行ってみますと、

台座には、「正二位勲一等子爵井上勝君像」とあります。
なかなか写実的な像だけど、いったい「井上勝」さんって誰? と裏に廻ると、説明板があったのですが、、、、

読めない… っつうか、理解できない…

それでもむりやり推察すれば、おおよそ、

彼は明治初年から鉄道事業に専念し、その事業経営の礎づくりに尽力したが、明治43年夏、訪問先の欧州で客死した。
ここに有志が集まり、彼の像を東京駅前に設置し、その業績を永く伝えるものである。
大正3年11月建立

といった内容っぽい。
さらに、この説明板の下に彫られていところによれば、

大正 3年11月 建立
昭和34年10月 再建
昭和38年 4月 移設
平成29年12月 移設

とありまして、この場所に移ってきたのはつい先月のことらしい。

ここで「井上勝」さんの銅像のことを調べてみると、「『鉄道の父』帰ってきた 丸の内駅広場に 新橋-横浜工事責任者 井上勝の銅像」と題する東京新聞の記事がみつかりました。
ちょっと転記します。

新装なった丸の内駅前広場に、東京駅のシンボル10年ぶりに帰ってきた。明治政府の鉄道庁長官を務め、「鉄道の父」と呼ばれた井上勝の銅像。工事のため撤去され、「お蔵入り」となっていたのを嘆いていたゆかりの人たちは、「井上あっての東京駅」と復活を喜び合った。(中略)
本体の高さ約3メートル、台座部分は約5メートル。足せば約8メートルになるこの像は、二代目だ。1914年の東京駅開業に合わせて建てられた初代は、戦時中の金属供出で撤去された。その後、井上の没後50年を記念して59年に再建された。「東洋のロダン」と呼ばれた彫刻家朝倉文夫が手掛けた。
工事のため撤去されていた時期もあったが、87年からは駅正面から皇居を向いて立っていた。2007年、東京駅舎を創建当時に復元する工事が始まり、再び撤去。12年に復元工事が完了しても像が戻らなかったため、心配する声が広がっていた。井上の出身地の山口県萩市はJR側に、像を早く再設置するよう要請した。
戻ってきた像は、駅前広場の北西端で「丸の内オアゾ」と「新丸の内ビル」に近い場所に移された。歩行者の流れを妨げないで銅像の近くに行けることや、初代の像が立っていた場所に近いことなどが理由という。

なるほど~
「2007年に撤去された」のなら、私が知らないのも道理です。
なんだか安心しました

一安心したところで、東京駅の駅前広場

広ぉ~い

そして、青空の下、れんがの赤茶、花崗岩の、そして、スレートのが映えています

こんなに日当たりが良いのに、東京駅前にもが残っているんだなぁ、

と思いながら駅舎をしげしげと眺めているうち、中央玄関の上に目が点…

私の視線の先には、てっぺんの飾り

これは一体、何の意匠なんでしょ?

どことなく、昭和の時代、トイレから伸びていた脱臭筒(というのか?)の先端についていたファン(風を受けて回って、臭気を排出する)を連想させるんですけど…
ベンチレーターでも、「風を受けて回る」構造にはなっていないよなぁ~
う~む、、、判らない…

と、落ちない話になったところで、きょうはおしまいです。

この装飾について情報をお持ちでしたらご教示いただければ幸いです。 

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疾風怒濤の一週間

2018-01-26 23:01:56 | 日記・エッセイ・コラム

ちょっと範囲を広げれば、先週土曜日「半日休出」で始まった1週間がついに終わりましたぁ~~

年明けから続いている大小さまざまな仕事多忙さに加えて、今週はなんといっても寒さですよねぇ…仕事通勤パワー大部分を費やした感じで、ブログの更新にまで力を割くことができませんでした

そんな1週間を乗り切った安堵感に浸りつつ、久しぶりのブログ更新では今週の通勤をふり返ります。

   

月曜日(1/23)は、降雪予報のもと、始めから「通勤はクルマ、帰宅は電車というつもりで出勤しました。予報どおり午後からが積もりだしたのは想定内でしたが、そのペースの早さにはちょっとビックリ。 それでも会社の帰宅指示に素直にしたがって 定時前に仕事を切り上げて、

勤務先⇒バス 徒歩最寄り駅小田急線新宿駅埼京線⇒自宅最寄り駅⇒徒歩自宅

で、通常よりも5割ほど余計時間はかかったものの、大きなトラブルなしで帰宅できました。逆に、帰宅して見たTVニュースTwitterで、入場規制が行われた駅とかバスやタクシー乗車待ちの話を見聞きして、「大きなトラブルなし」どころかLucky だったなと思った次第。

ただ、自宅の駐車場の雪の積もり具合はハンパなくて

こりゃ、今週中はクルマ通勤はあきらめるしかないかな…覚悟したのでありました。うちの駐車場はマンション北側にあって、早めに除雪しないと、雪がカチンコチンに凍ってしまって クルマの出し入れができなくなってしまうのですよ

   

火曜日(1/24)は、当然ながら電車で出勤。JR小田急ほぼ順調に動いていまして、勤務先最寄り駅まではほぼ順調に行けましたが、勤務先最寄り駅からのバスを待つ人が長蛇の列をなしていまして、ここでちょいと時間を要してしまいました。

「この日も寒いという天気予報に反して、日中は結構暖かくて昼休みに勤務先の駐車場で一泊した愛車視察 したところ、車体の上のはすっかり融けていましたこれならクルマで帰れるかな? と思ったものの、自宅駐車場を使える保証がありませんので、この日も電車で帰宅。

そして、恐る恐る自宅の駐車場の状況を見ると…

あれまぁ 除雪されてる除雪してくれたのは管理人さん? それとも住人の方?いずれにしても感謝感激です

   

水曜日(1/17)は、電車で出勤し、クルマで帰ってきました。この時点では首都高速の大部分の路線が通行止めで、私の通勤にとっては重大な障害になっていたのですが、翌日は外出先に電車で直行する予定でしたので、この時点では問題なしでした。

   

木曜日(1/25)は、外出先の武蔵小杉まで電車で出動当初の予定では、

自宅⇒徒歩自宅最寄り駅埼京線池袋駅湘南新宿ライン武蔵小杉駅

と、乗り換え1回楽々通勤のはずでした。

ところが、埼京線の電車赤羽駅に着くちょいと前に、横須賀線東戸塚駅人身事故があり、湘南新宿ライン止まっているという情報が入ってきましたこの情報をもとに、

赤羽駅上野東京ライン川崎駅南武線武蔵小杉駅

というルートに変更して、赤羽駅埼京線から降り、上野東京ラインのホームに行ったときに新たな情報

南武線車両点検だか故障だかで止まっているんですとなんだよぉ~、一緒にアナウンスできないのか? とぼやきながら考えを巡らせて、

赤羽駅埼京線池袋駅副都心線・東横線武蔵小杉駅

というルートに再変更して、再び埼京線のホームに戻りましたこの「埼京線ホーム⇒上野東京ラインホーム⇒埼京線ホーム」の移動が、時間と体力のムダになってしまった

こんな二転三転のできごとを克服しながら、武蔵小杉の外出先に遅刻せずにたどりつけました

   

きょう(1/26)、通常の通勤に戻り、クルマで往復する…つもりだったのですが、1/25夜の段階で、普段、私が通勤に使う首都高速5号線は、依然として通行止めとな

木曜日夜の道路交通情報時々迂回ルートとして使う「板橋区前野町⇒東新町⇒川越街道⇒環7⇒要町通り⇒首都高・西池袋ランプ」もあるけれど、首都高速の閉鎖のせいで川越街道激混みという話を聞いていましたので、もし1/26の朝になっても首都高速5号線の通行止めが続いていたら電車で出勤しよう ということで、、寝ました

   

そして、きょう(1/26)日の出前の朝寒い… と感じながら起床し、まずは道路交通情報チェック

おおっ 首都高速5号線上り高島平から先が開通している

ということで、月曜日以来、4日ぶりクルマで出勤

いつものように、新大宮BPを避けて戸田市内を通り抜け、高島平から4日ぶり首都高速5号線~ん

復旧したばかりの首都高速5号線は、高島平から板橋JCTまでの区間、1車線をつぶして除雪工事が続行されていましたが、そもそも高島平以北からクルマは5号線に入ってこられないし、途中の中台、板橋本町ランプ閉鎖されたままだったし、で、1車線しかないのに、車列はスルスルと進み、いつも渋滞している山手トンネルも、3号線の三軒茶屋付近の上り坂ノンストップで通過できて、東名高速に乗ったぁ~

普段、高島平~東名・東京料金所の所要時間50分程度なんですが、きょうは32分

何これ? でした。

もっとも、帰りは、いつもの金曜日に輪を掛けたような渋滞で、2時間半以上かかりました

なんとも日替わり波乱万丈1週間でしたとさ。

とりあえず、めでたしめでたし。

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2017年3度目の関西旅行記 #3-4

2018-01-16 22:19:15 | 旅行記/美術館・博物館・アート

年が明けて日常生活が戻ってきたら、公私共々忙しいったらありゃしない

そんなわけでブログをなかなか更新できずにいますが、久しぶりに「2017年3度目の関西旅行記 #3-3」のつづき、奈良国立博物館(奈良博)で観た「第69回 正倉院展」のことを書きます。

何度も書きましたが、「正倉院展」を観たのはこのときが初めてで、いろいろな「正倉院展のしきたり」があることを知りました。
箇条書きにしますと、

多数の入場待ち用のテントが設置される
入場券売場やコインロッカーが館外に仮設される
観覧料が一般(当日 1,100円)と安い
2週間強の会期中、奈良博は無休
いつもは平日のみ公開されている正倉院(正倉)の外構が会期中は土日にも観られる

と、毎年開催されている「正倉院展」は、ホント特別な展覧会なんだなぁと感じ入りました。

で、私は、東京国立博物館「メンバーズプレミアムパス」特典を活用して「団体料金」1,000円で観覧券を購入し、20mくらいの入場待ちの列に並びました。

この列はスルスルと進み、表示されていたとおり、5分ほど入館

館内はそこそこ混んではいましたけれど、ほんのちょっと待てば、展示ケースに張りつくようにして観られましたから、やはり平日の観覧はお得です

   

ところで、毎年秋奈良博で一部ずつ公開されている正倉院宝物とは何ぞや です。
御存知の方も多いと思いますが、ここでちょいと解説します。
図録から転記しますと、

正倉院宝物とは東大寺の倉であった正倉院正倉に伝えられてきた9,000件ほどの宝物である。
宝物の作られた時代は大半が8世紀であり、宝物の内容は調度品、楽器、遊戯具、坐臥具、武器・武具。文房具、飲食器、仏具、文書、染織品など多岐にわたる。
古代の宝物が建物の中において良好な保存環境のもとでまとまって残されている例は、世界でも他に類を見ない。
今日、宝物は宮内庁正倉院事務所によって管理されている。

とあります。

現在も正倉院正倉築1250年を経て現存していますが、宝物は、耐震&空調環境の整った二つの宝庫に引っ越していまして、正倉院正倉空っぽの状態(のはず)です。
それでも、宝物正倉院正倉に納められていた頃と同様、天皇の命によって入口の開閉を行うという「勅封」が続けられていまして、毎年秋、勅封をといて、宝物虫干し点検調査研究が行われていまして、その期間を使ってその一部を公開するのが「正倉院展」です。
「第69回 正倉院展」で公開された宝物は58件ですから、このペースで「9,000件ほどの宝物」すべての実物を拝見するには、単純計算で155年かかる…

なんとも気の遠くなる話ですが、1200年以上も前の、それも、当時の日本最高の技術&技能を駆使して制作された宝物が現代に伝えられていること、そして、それらを実際に拝見できるというのはとんでもないことだと思います。
東大寺大仏殿講堂(正倉院正倉とは目と鼻の先)を焼き尽くした南都焼討の被害にも遭わず、よくぞ生き残ったものです

というところで、きょうはおしまい。
なかなか先に進めませんぞ。

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去年の「博物館納め」:100年早かった人のこと #1

2018-01-10 22:34:29 | 美術館・博物館・アート

このブログの「タイトルバナー」は、2006年10月の欧州出張の際に「視察した大英博物館図書室の写真です。(こちらの記事で由来を書きました)

とにかくその開架図書の数と、図書室のスケールの大きさ圧倒されながら、かのカール・マルクスとか南方熊楠この図書室に通い詰めていたんだなぁ…と感慨にふけったものでした…

で、その南方熊楠特別展国立科学博物館(科博)で開催されているというので、昨年の「美術館・博物館巡り」シメとして、12月23日に出かけてきました。
ホントのシメは、科博の後に行った東京国立博物館だったのですが、それはさておいて、科博での「南方熊楠-100年早かった智の人-」の見聞録を書きます。

以前、このブログに南方熊楠(「みなかた くまぐす」と読みます)が登場したのは、2014年のゴールデンウィークの紀伊半島旅行のときの記事1回しかありませんが、その記事に書いたように、私は、一時期、南方熊楠ハマっておりまして、まったく思いがけなく熊野「南方熊楠が三年間滞在した大阪屋旅館跡」立て札を見たときには、激しく盛り上がったものでした…

さて、この「南方熊楠-100年早かった智の人-」には、「南方熊楠生誕150周年企画展」というがついていまして、その内容は、

南方熊楠は、森羅万象を探求した「研究者」とされてきましたが、近年の研究では、むしろ広く資料を収集し、蓄積して提供しようとした「情報提供者」として評価されるようになってきました。本展覧会では、熊楠の活動のキーアイテムである日記・書簡・抜書(さまざまな文献からの筆写ノート)・菌類図譜を展示。“熊楠の頭の中をのぞく旅”に誘います。

というもの。

南方熊楠という人、むりやり肩書きをつければ、植物学者であり、かつ、民俗学者となるのでしょうけれど、私にとっては、とにかく「超人」であり「奇人」であり「変人」のイメージが強い。要するに理解できないけれど、とにかく凄い人 って感じです。

そんな「知る人ぞ知る」南方熊楠の特別展、予想以上に多くの人たちで賑わっていまして、あれまぁ でした。

と、ホンのさわりできょうはおしまいとさせていただきます。

そうそう、「南方(みなかた)」という姓から、「JIN -仁-」の主人公の南方先生を連想するのは私だけではないと思いますけど、「JIN -仁-」の原作では、南方熊楠南方先生とは無関係ではない気配が設定されているようです。

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トーハクに初もうで #1

2018-01-08 23:43:09 | 美術館・博物館・アート

きょうは祝日ながら私の「仕事始めでして、かつ、20:45頃まで仕事があったもので、帰宅が遅くなり(明日もじゃ…)、あまり時間がないのですが、きのう行ってきた東京国立博物館(トーハク)のことをちょっとだけ書きます。

トーハクでは恒例「博物館に初もうで」が開催中で、館内、「犬だらけ」だったのですが、今夜書くのは、TNM & TOPPAN ミュージアムシアターで観てきた「風神雷神図のウラ -夏秋草図に秘めた想い-」のことです。

風神雷神図のウラ -夏秋草図屏風に秘めた想い-この作品は、

風神雷神図には“ウラ”があった。
酒井抱一の最高傑作「夏秋草図屏風」に秘められた想いとは。
屏風のオモテとウラの秘密を探る。

というバーチャルリアリティ(VR)のライヴ上演なんですが、これが良くできていました
ミュージアムシアターの歴代の作品の中でも"One of the best"じゃなかろうかと思いました。

現在は、それぞれ2曲1双屏風としてトーハクが所蔵している尾形光琳「風神雷神図屏風」酒井抱一「夏秋草図屏風」は、よく知られているとおり、かつて表裏一体の作品でした。
この「表裏一体」は、実際「風神雷神図屏風」酒井抱一「夏秋草図屏風」を描いたというもので、もともとは1点の作品、光琳と抱一のコラボ作品だったわけです。

現在は2点の屏風に分割された作品を、当初の一つの屏風として観たらどうなるか、また、なぜ抱一「風神雷神図屏風」の裏に「夏秋草図屏風」を描いたのかを目の当たりにすることになりました。

この「風神雷神図のウラ -夏秋草図に秘めた想い-」を観て、身震いするほど面白かった点を箇条書きにしますと、

「夏秋草図屏風」折り方(現在の展示では両扇はそれぞれの中央部が凹むように置かれる)を逆にした様子(上から見れば"W"のよう)が観られたこと
「夏秋草図屏風」の「地」の銀箔が往時の輝きを取り戻したどう見えるかを観られたこと(草花がなんとも色鮮やか)
屏風を透かして見たらどうなるかを観られたこと
 「夏秋草図屏風」の右隻の右上に描かれている「水」川ではなく水たまりであること
「風神雷神図」を保有していた一橋徳川家からの依頼で、抱一がその裏に「夏秋草図屏風」を描いたこと

風神(右隻)の裏にはにあおられる秋草図雷神(左隻)の裏には雨に打たれた夏草が描かれていたことは知っていましたが、でその両図を透かして見たら、というのはバーチャルリアリティ作品ならではの趣向で、ホント、面白かった

「風神雷神図のウラ -夏秋草図に秘めた想い-」の上演は4月22日までと、余裕があります。
入館料のほかに500円かかりますけど、必見ですぞ

ただ残念だったのは、宗達=光琳=抱一とつづく琳派「バーチャル」な師弟関係についての説明が不足していた感じがあったこと。
でも、「琳派」の話を始めたら「尺(約30分間)収まらないのかもしれませんな。

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2017年3度目の関西旅行記 #3-3

2018-01-06 15:54:22 | 旅行記

「2017年3度目の関西旅行記 #3-2」のつづきです。

当日のダイジェストに書いたように、私は気になっていた奈良国立博物館での「正倉院展」の混雑具合を見てみようと、Twitterで検索してみました。
すると、

あれま、相当な混雑を予想していたのに、「待ち時間は10分です。館内の混雑はありません。」とは、さすがは月曜日です(正倉院展開催期間中の奈良博は休館日なし)

こりゃLucky と、正倉院展を初めて観覧することにして、奈良博に向かいました。
正倉院展毎年に開催されているとはいえ、集客数ハンパない と聞いていましたし、正倉院展のためだけ年休をとって奈良にやって来るまでの決心はありませんでしたから…

そんでもって、私は興福寺から奈良博に向かったのですが、いつもなら登大路園地を突っ切るところ、今回は東金堂の東側を通り、興福寺本坊前を通って奈良博へ行きました。
思い起こせば、このルートを通ったのは初めてだったかも。

そんな興福寺⇒奈良博のルートわけで、東金堂のすぐ裏手原生林のような趣きだったとは知りませんでした。

私のほかに通る人は少なく、鹿ちゃんもの~んびり…

R169を横断したところに、「正倉院展」専用敷地案内図がありました。

正倉院展は2日前始まったばかりだというのに、敷地案内図には枯れ草がこびりついていまして、恐らく前日・前々日の風雨のせいで薄汚れてしまったのでしょ

それはともかく、臨時券売所コインロッカー手荷物預かり所、さらには入場待ちテントまであったりして、奈良博の正倉院展に対する気合いが感じられました。

「正倉院展」敷地案内図

そりゃ、毎年正倉院宝物虫干しに合わせて開催されている正倉院展は、奈良博にとって最大年中行事ともいうべきものですからねぇ…

でも、この日は入場待ちテントの出番はありませんで、鹿ちゃんたちが悠然と闊歩するのみでした。

「入場待ちテント」と鹿

と、上に載せたGoogle Mapをつけたところに説明板がありました。

「春日東西両塔跡」だそうで、

春日塔跡は春日大社の一の鳥居を入った参道の左側(現在の奈良国立博物館構内)に、東西に並ぶ2基の塔跡である。神仏習合思想にもとづいて神社にも仏教の塔を建立した代表的遺構であり、両塔のありし日の偉容は多くの春日宮曼荼羅に描かれている。

ですって

さっそく「春日宮曼荼羅」を見つけてきました。

左にのせた「春日宮曼荼羅」こちらから拝借してきたもので、

本図は近年まで行われていた奈良市の中心部、南市の春日講の本尊として伝来したものである。旧箱の箱書から少なくとも慶長19年(1614)にはこの春日講本尊であったことがわかり、信仰史的にも興味深い。

だそうですが、一の鳥居上空から春日大社御蓋山を俯瞰した構図で、左下が描かれています。
東西両塔の部分を拡大しますとこんな具合

 

ここで説明板に戻りまして、

西塔(現在地より西へ約90m)は永久4年(1116)に関白藤原忠実により造営され、東塔(現在地)は鳥羽上皇の本願により保延6年(1140)に建立された。そのため西塔は「殿下の御塔」、東塔は「院の御塔」と称されていた。ところが治承4年(1180)平重衡の南都焼打にあって焼失し、相次いで再建されたものの、応永18(1411)年雷火にあって再び焼失した。その後は再建されることなく今日におよんでいる。

だそうで、「治承4年の南都焼討焼失後、再建したものの、応永18年の雷火焼失って、「#3-2」で書いた興福寺東金堂同じじゃありませんか
東大寺・興福寺の多くの伽藍を焼いたという南都焼討春日両塔焼失したというのは想像に難くありませんが、東金堂春日両塔焼失したというのはホントか? って感じです。点在する建物焼けるというイメージが沸かないのですけど…

それはともかく、こちら東塔跡です。

ところで、上に転記した「説明」の中に、

神仏習合思想にもとづいて神社にも仏教の塔を建立した代表的遺構

とありましたが、これを読んで思いだしたのが、こちらで書いた東京・上野動物園の構内にある五重塔でした。

この塔は、「旧東叡山寛永寺五重塔」という名称ですが、元をたどれば、寛永寺の五重塔として建てられたものではなく

老中土井大炊頭利勝が寛永8年(1631)今の地に上野東照宮(1627造営)の一部として五重塔を創建寄進しました。

というものでしたっけ…

話を春日東西両塔に戻せば、

両塔は、1965年(昭和40)の発掘調査によって規模や構造が明確になった。その規模は興福寺五重塔とほぼ同じであり、高さ約50m、初層の一辺長約8.6mで、東塔の初層には裳階がつけられていた。また塔の南正面には複廊を築いて楼門を設け、東、西、北の三方には一辺約100mの築地をめぐらしていた。

そうです。

ありし日には、興福寺の五重塔(730年建立)東大寺の東西両塔(753年建立)と合わせて5棟の仏塔が立っていたんだ…と思いましたが、東大寺の西塔は934年に焼失して以降は再建されずじまいでしたから、「5塔勢揃い」は史上存在しなかったことになります。

でも、753~934年3塔(興福寺、東大寺東西両塔)、934~1116年は2塔(興福寺、東大寺東塔)、1116~1140年は3塔(興福寺、東大寺東塔、春日西塔)、1140~1180年は4塔(興福寺、東大寺東塔、春日東西両塔)と、現在の奈良公園周辺には塔が複数立っていたんですなぁ。
平安時代末期の様子を観てみたい

それにしても、南都焼討の主犯、平重衡の責任は重い

と、なかなか正倉院展の話に入れませんが、それは帰省から戻ってから書きます(あと40分ほどUターン新幹線の発車時刻)。

つづき:2018/01/16 2017年3度目の関西旅行記 #3-4

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2017年3度目の関西旅行記 #3-2

2018-01-05 19:02:17 | 旅行記

「2017年3度目の関西旅行記 #3-1」のつづきも興福寺のお話。

仮講堂での「阿修羅 天平乾漆群像展」を拝観したあとは、東金堂を拝観しました。

興福寺に行くと(≒奈良に行くと)欠かさず国宝館を見学する私ですが、東金堂の内部拝観は3回に1度くらいで、頻度は高くありません。それでも今回東金堂を拝観したのは、国宝館が耐震工事中閉館だったこともありますが(国宝館は今年1月1日リニューアルオープン)、東金堂でスペシャルなことがあったから。

それは、

いつもなら国宝館に安置されている「仏頭」が、国宝館の工事期間中、かつてセンターを張っていた東金堂鎮座(頭部だけだけど…)していたのですよ。

左に載せた看板には、

80年ぶりの還座、
600年ぶりの日光・月光菩薩との再会

と、主婦向け情報番組のもののような惹句が踊っていました。

ここで、ちょっと長くなりますが「80年ぶり」「600年ぶり」の意味を書いておきます。

現在、東金堂のご本尊は薬師三尊像ですが、メインの薬師如来坐像室町時代に造られたもので、脇侍日光・月光菩薩立像は一気に白鳳時代に遡るとう古い時代に造られたものです。
一方の「仏頭」は、かつて日光・月光菩薩と共に、東金堂ご本尊だったもので、さらに元を辿れば、蘇我倉山田石川麻呂の発願によって7世紀半ばに創建された山田寺講堂のご本尊だったものらしい。

その山田寺講堂のご本尊薬師三尊像が興福寺にやってきた経緯というのが、かなり生臭いものでして、治承4年12月(1181年1月)に発生した平重衡による「南都焼討」のため、

三基の塔の他、金堂・講堂・北円堂・南円堂など38の施設を焼いたと言われている

という大損害を蒙ったんですな(東大寺大仏殿など中心部の伽藍を焼失)。
そして、その7年後の文治3年(1187)、寺の復興にもえる興福寺の坊さんたちは、あろうことか

山田寺に押し入り、山田寺講堂本尊の薬師三尊像を強奪して、興福寺東金堂の本尊に据えた。(Wikipediaより)

という次第。
山田寺を建てた蘇我倉山田石川麻呂といえば、645年に発生した蘇我馬子(石川麻呂の従兄弟)を殺害するクーデタ(乙巳の変)中大兄皇子中臣(藤原)鎌足と共に実行グループの一人でした。
そんな藤原氏にとってはご先祖の「盟友」が建てたお寺から藤原氏の氏寺(興福寺)の僧がご本尊を強奪するなんて、そんなのあり? です。

もっとも、その後石川麻呂は、大化5年(649)、謀反の嫌疑をかけられて山田寺自殺したのですが、Wikipediaによれば、

この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされている。

だそうで、大化の改新の間に、三者の間に何があったのか判りませんけれど、既に「盟友」ではなくなっていたようです。
でも、であればなおのこと、ご本尊の強奪だなんて、そこまでするか でもあります

さて、山田寺からの「本尊強奪」から約220年経った応永18年(1411)東金堂落雷のために焼け落ち日光・月光菩薩立像救出されたものの、薬師如来像はかろうじて頭部だけが残る悲惨な状況になってしまいます。
この山田寺の薬師如来像の替わりとして新たに造られたが現在の薬師如来坐像なわけです。
こうして、それまで750年もの間連れ添ってきた「仏頭」日光・月光菩薩お別れしたのが約600年前だったという次第。

このあと、焼け残った仏頭行方不明になっていたのですが、今から80年前1937年になって、なんと、東金堂薬師如来坐像台座の中から発見されたのだそうな
つまり、山田寺由来の仏頭は、実は520年間もの間、東金堂内にとどまり続け、後継薬師如来坐像に下で息をひそめていたというわけです。

この仏頭は、螺髪(らほつ)は無くなって地蔵菩薩のような「坊主頭」になっているし、左耳焼損しているし、そもそも頭しかないのですが、良いお顔立ちをされていまして、私のお気に入りの仏さまのお一人です。
7年半前の記事につづいて、内容的にもかなりダブりながら仏頭のことをながながと書いたのにはそんな単純な理由があるからでした…

それはともかく、お堂代替わりしたけれど、600年ぶり東金堂内参拝者の目に触れる場所に陳列された仏頭満足げでいらっしゃるように拝見いたしました。

   

ところで、構想から27年立柱式から18年の時を経て、いよいよ今年10月中金堂落慶します(興福寺のサイト)。

養生シートの一部が取り払われている(まさか風で飛ばされたってことは無いと思う)様子に期待感高まります。

興福寺では、中金堂前の中門回廊基壇が整備中のほか、今後、南大門北円堂回廊再建が計画されている由。
私が生きている間にどこまで往時伽藍が復元されるんでしょうかねぇ…

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