新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

好天の下、皇居の乾通りを歩いてきた

2024-03-27 19:04:02 | タウンウオッチング

きょうは青空が広がって気温も上がりこれは出かけねば ということで、東京都心に行ってきました。
目的は3つありまして、

台湾観光協会東京事務所台湾の観光資料を収集
和光ビルのディスプレイ見物
皇居・乾(いぬい)通りの一般公開に参加

でした。
来週木曜日に迫った台北遠征に向けての準備の一環で、

は今週土曜日に放送されるテレビ朝日ドラマプレミアム「黄金の刻」記念ディスプレイを見てこようという算段。

そして、銀座で昼食を摂った後(小籠包美味しかった)

この記事のメイン、皇居を目指しました。

   

私が皇居・乾通りを歩くのは、2018年3月25日(記事)大嘗宮の見学も兼ねた2019年12月3日(記事)以来、3度目です。
過去2回に比べて、人出はかなり少なく、行列を作ることなく、坂下門に至りました。

暖冬だったわりには、3月に入ってから寒い日が多く、サクラ開花が遅れていることが大きいのでしょうねぇ

実際、今回とほぼ同じタイミングで出かけた2018年のときと比べても、今回は、咲いているサクラごくわずかでした。

皇居内には、様々な品種のサクラが植えられているので、早咲きの品種なら、咲いていたりするわけです。

そんな中、「私が主役よとばかりに咲き誇っていたのがツバキでした。

   

過去2回の「乾通りの一般公開」では、途中から、西桔橋(にしはねばし)から本丸に登る」乾門(いぬいもん)から退場(下城)する」2コースを選べたのですが、今回は西桔橋閉鎖されていて、乾門から退場(下城)する」一択でした。
どうしてなんだろうな…

でも、本丸にも行ってみたい人は、乾門からすぐの北桔橋(きたはねばし)を渡れば天守台の裏手に出られるわけですから問題は小さい

でもでも、西桔橋を渡って急坂を登る経験はそんなにできることではないだけに、ちょっともったいない気がしないでもありませんでした。

   

さて、終盤になって、咲いているサクラが目につくようになってきました。

ベニシダレザクラとか、

ヨウコウ(陽光)とか、

コシノヒガンザクラとか…。

この「コシノヒガンザクラ」という品種名は、コシノさんという人が発見したからというのではなく「越の国・富山に自生している彼岸桜」という意味らしいです。

と、ほとんどの人たちがを眺めているのに、一人だけしゃがみ込んで地面を見つめている少年がいました。
いったい彼は何を見ているのだろうかと思ったら、小さな小さな花が咲いていました

PictureThisで調べると、これは「オオイヌノフグリ」なる珍妙な名前を持つ「侵入生物」でした
こんな名前を付けられた植物を不憫に思うと同時に、他の人とまったく違うものに興味を持って観察するこの少年感心しました。
なんか凄い

ということで、終点・乾門から娑婆に戻りました。

ここで、この乾門について、この記事を書く過程で知ったトリビアをご披露いたしましょう

私、江戸城の「乾(北西)の方角」にあるからそういう名前なんだろうな漠然と考えていたのですが、実はこの門、江戸城時代には無かったんだそうな

こちらのサイトによれば、

この門はもともと坂下門の内側にあった「西の丸裏門(西丸裏門)」ですが、1888年(明治21年)の明治宮殿造営に際して現在の場所に移設し、黒の薬医門形式の門に改築したそうです。
皇居から見て乾(いぬい)の方角にあるため、乾門と名づけられました。

だそうな

考えてみれば、江戸城の門は数多くあるものの、「方角」の名前がついている門は「乾門」だけ

江戸城では珍しく、高麗門櫓門とで枡形を構成するつくりになっていないことは気になっていましたけれど(現在の坂下門は、明治期に高麗門や橋が取り壊され、櫓門90°向きを変えて移築されたことは知っていました)、まさかこんな事実があったなんてねぇ

   

こうして「皇居・乾通りの一般公開」を体験し終えた私は、どこに立ち寄ることも無く、竹橋駅から東西線に乗って帰路につきました。

そうそう、竹橋門跡では菜の花どわぁ っと咲いていて、ここはでした。

「ここはでした」じゃない
乾通りヤナギ新緑がきれいで、を感じさせてくれてたのでした

それにしても今年は、近年稀なほどサクラ開花が遅いですなぁ。
ここ数年は、各地の「さくら祭り」が開催される頃には葉桜だったことが多かったのに…。
私の今年の花見は、台湾遠征から帰ってきてからですな
なお、「乾通りの一般公開」はこんどの日曜日(3月31日)までですから、咲き誇る乾通りのサクラを愛でるのは無理っぽい
「サクラの時期が終わるまで一般公開を延長してくれたらいいのにという声があるかもしれませんが、警備や場内整理・案内に費やされているマンパワーは相当なもので、おいそれと延長できるものではないと実感します。

まぁ、こんな年もありますよ

【追記】私の愛読書鳥瞰イラストでよみがえる歴史の舞台に載っている江戸時代の江戸城のイラストを見たら、現在の乾門がある場所には、確かに門は無く、代わって「上覧所」という建物がありました。

千代田区のサイトによれば、

この場所には主に将軍が物事を見物する「上覧所」と呼ばれる施設がありました。旗本たちが日ごろの武芸鍛錬の成果を将軍に披露したり、「天下祭」と呼ばれる山王社(現在の日枝神社)と神田明神(神田神社)の祭礼行列もここに立ち寄りました。

だそうです。(2024/03/28 21:00) 

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ウン十年ぶりの竿燈を楽しんだ #3:完結編

2022-08-14 14:45:08 | タウンウオッチング

「ウン十年ぶりの竿燈を楽しんだ #2」のつづきです。

ウン十年ぶりの竿燈を楽しんだのは良いけれど、帰りの足がバスだと1時間電車だと1時間40分も待たなければならないという、地方都市にありがちな事態に至った私は、すぐに歩いて帰る決心をしました。
幸い、暑くなかったですし…。

夜風に吹かれつつ、後ろからかすかに聞こえる祭り囃子を聞きながら歩くというのもまた乙なもの
しかも、歩いているうちに暗闇に目が慣れ、星空も楽しめるというなかなかな徒歩きでした。
さすがに天の川見えませんでしたが、さそり座とかはくちょう座とかカシオペアとか北斗七星とか北極星とか土星に加えて、七夕のヒロインとヒーローベガとアルタイルまで見えました

ただ、竿燈会場から別邸まで歩くのに、ほぼ1時間かかってしまったというのは誤算でした
自転車で行けばよかったのかな…

   

ところで、時間をさかのぼって、竿燈の演技が終了し、竿燈会の演者の皆さんが観客を「お見送り」をしているときのこと。

私は竿燈大通りの北側の歩道から地下道を通って南側の歩道に移り、帰路につこうとしていたとき、自衛隊の竿燈会が目にとまりました。

自衛隊竿燈会の竿燈の提灯はシンプルな日の丸で、それは想定内だったのですが(昔からそうだった記憶あり)

太鼓を載せた車両が、まさに自衛隊の車両そのものだったことにビックリ
別邸に帰ってから調べると、1 1/2tトラック (通称:1トン半)」というものらしい。
そして、撮った写真をトリミングして、Tweetしました。

このTweetは妙にウケて6日夜にはいいね500を超えて、私自身、「うそぉ~って感じ。
ところが、これで終わらず、リツイートする人が出てくると、いいね飛躍的に伸びていき7日朝にはいいね2000を突破

ようやくいいね伸びは収まりましたが、この記事を書いている時点では、

いいね6,206リツイート1,976、そして「このツイートがTwitterで表示された回数」だというインプレッション数74万 となっています。

私がTwitterを始めて8年半弱になりますが、私史上空前絶後前代未聞の状況になって、あわわ… って感じです。

いくらなんでも、もう落ち着いたことでしょう…

   

3年ぶりとなった今年の秋田竿燈まつりは、8月7日朝「御幣流し」を以て終了しました。

この「御幣流し」は、竿燈の先端に取り付けられていた御幣を川に流すことで、街中の邪気や睡魔を払うという、竿燈まつりでは「眠り流し」以来の重要な儀式です。

私はテレビのニュースで見たのですが、小雨が降る中、各竿燈会の代表者たちが刈穂橋に集まり、御幣の一部を入れた封筒を旭川に投げ入れていました。
この封筒はハガキ大くらいの小さなもので、あのサイズでは、紙垂・麻・お札からなる御幣を1本でさえ入れることはできないでしょう。

ところで、この御幣流しが行われるのは、どうして刈穂橋なのだろうか? という疑問が涌きます。
というのも、竿燈大通りの東端は、同じ旭川に架かる二丁目橋ですから、そこから御幣流しをしてもよさそうなのに、そこから何本も下流刈穂橋というのが不思議なのです。

想像するに、羽州街道が秋田(久保田)の外町(旭川の右岸以西の町人町)に入るのが刈穂橋だからではなかろうか。
ちなみに、久保田藩の参勤交代ルートは、その手前の登町から羽州街道を離れて北上し、旭川の左岸側を通ります。
竿燈まつりが、外町のお祭りで、刈穂橋西詰からその北西側は、町内竿燈会の密集地でもありますし…。

ところが、こちらのサイトによると、御幣流しが刈穂橋で行われるようになったのは古い話ではなく、少なくとも1980年代までは、旧雄物川(秋田運河)に架かる新川橋で行われていたらしい。

う~む… です。

なぜに新川橋??
海に近いから??

よく判りませぬ

   

判らなくなりましたので話題を変えましょ

コロナ禍で行われた竿燈まつり、桟敷席をコロナ禍前よりかなり減らしたそうですが、まつりを見物する側には大きな影響はないわけで、それよりも重要な「対策」は、「声出し禁止」でした。

竿燈まつりでは、竿燈会関係者だけでなく、観客も「どっこいしょ~、どっこいしょと差し手に掛け声をかけるのがならわしなのですが、今年は禁止
代わりに、主催者側が、拡声器「どっこいしょ~、どっこいしょの掛け声を流していましたが、これは味気なかった…。

ま、仕方のないことでありますけど

コンサートでもスポーツ観戦でも竿燈まつりでも、声を出せる日が早く来るよう願ってやみません。

でも、竿燈のお囃子には胸を躍らせました

竿燈の差し手もそうですが、お囃子(太鼓2名、笛1名)も、演者が巧みに入れ替わって、シームレスに繋いでいきます。
まるでDJプレイみたいです。

竿燈まつりとか、土崎港曳山まつり(母の実家の街のお祭り)のようなお囃子を幼少の頃から聴いて育った人間にとっては、仙台の七夕まつり物足りなかったことといったらありませんでした

と、土崎港曳山まつりをググっていたら、こちらの動画を見つけました。

これって、母の実家すぐ前ではありませんか

土崎港曳山まつりは、お囃子もさることながら、車輪の軋む音とか、潤滑油の臭いなんかも魅力的でした
難点は、夜の戻り山では酔っ払いだらけってことかな?

   

ところで、私は一度も竿燈をやったことがありません

こればかりは、町内竿燈のある町で生まれるか、小さな頃にそんな町に引っ越すか、県内の大学に進学するか、職場竿燈のある企業・団体に就職するしかないのです

それでも、私が生まれ育った町でもお祭りはありまして、そのお祭り、鹿島祭りは現在も行われているようです。
こちらのサイトで出てくる「肝煎町」が私の町です。

私のところとは違う地域(新屋)のものとはいえ、国立歴史民俗博物館鹿島船を観たときは感激しましたっけねぇ

台車に乗せた鹿島船を引っ張り、お昼の休憩で、町内のお宅でカレーライスを食べたことを思い出しました。

話を竿燈まつりに戻しますと、1週間前の予報では、竿燈まつりの期間は雨が降りまくるはずだったのに、初日午前中の豪雨から奇跡的に天候が回復し、結局は4夜とも良い天気に恵まれたというのは、さぞかし竿燈会の皆さんの日頃の行いが良いのでしょうねえ

ということで、学生時代以来の竿燈まつり、たった1日だけでしたが堪能いたしました

来年も観たいゾ

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ウン十年ぶりの竿燈を楽しんだ #2

2022-08-13 18:27:51 | タウンウオッチング

遅まきながら、「ウン十年ぶりの竿燈を楽しんだ #1」のつづき、3年ぶりに開催された秋田竿燈まつり 3日目(8月5日)夜竿燈のお話です。

昼竿燈から戻った私は、1時間ほど別邸でくつろいだ後、既に汗にまみれた服を着替え、16:40頃、再度出撃しました。
昼は路線バスを使いましたが、時刻表を睨みながらの検討の末、今度は20分を要して最寄りのJRの駅まで歩き電車で街に向かいました。

秋田駅に着くと、改札口が長蛇の列
何事かと思ったら、乗ってきた電車は秋田駅から2つ目の新屋駅始発で、新屋駅も途中の羽後牛島駅も昼間以外は無人駅のため、定期券以外の人は秋田駅で精算する必要があるという
ちなみに、秋田エリアでSuicaが使えるようになるのは来春以降とのこと (新幹線eチケットは現在も使える)

そんなわけで、5分以上を費やして改札口を抜け、徒歩竿燈会場に到着するとちょうど竿燈を一斉に立ち上げるタイミングでした。

そして、すぐに、竿燈会会長の合図で、竿燈の演技が始まりました

せっかくのウン十年ぶりの竿燈ですから、近くで観ないと と、歩道橋を渡って、会場の竿燈大通りへ…。
歩道橋ではずらっと大勢の人が並んで進んでいて、代々木の第一体育館でライヴが終わったあとの周りの歩道橋みたいな状況でした。
そして、二丁目橋を渡ると、間近に竿燈を見上げることができました

手前の2本の竿燈のうち、左は下米町一丁目、右は寺町二区のもの。
空には半月が浮かんでいました。
月齢から想像がつくとおり、この日、8月5日は、旧暦だと7月8日
2009年の記事「七夕と『たなばた』」で書いたように、竿燈まつり仙台の七夕まつり青森のねぶたと同様、「七夕」のお祭りです。

竿燈起源についてWikipediaをみると、

合歓木に願い事を書いた短冊を下げ、それを手に練り歩き川へ流して真夏の邪気や睡魔を払う「眠り流し」が原型とされている。眠り流し自体は江戸時代以前より行なわれており、宝暦年間には現在の原型があったとされ、五穀豊穣や無病息災、技芸上達を願って、旧暦7月7日にあわせて行われる七夕行事とともに、旧暦7月15日のお盆を迎え入れるための一連の行事として現在の形になったとも言われている。

と書かれています。
わたしの祖父は、「竿燈」とは呼ばずに「ねぶり流し」と言っていましたっけ…

それはともかく、二丁目橋付近はスゴい人で、場所を変えるべく山王交差点方向へ歩き出したのですが、歩道は「右側通行」で、私がいる竿燈大通りの北側の歩道だと、立ち止まって竿燈を観ることは難しいことに気づきました。
そこで、会場の東端まで引き返して、南側の歩道に移動しました。

すると、予想どおり、西に歩きながら「この竿燈をじっくり観たい」と思えば、ちょっと車道側に身を寄せれば、歩く人の邪魔にはなりません

で、赤い将棋の駒白抜き「馬」は、向馬口労町(むかいばくろうまち)の町紋です。

小さい子たちもがんばっていました
一番小さな竿燈は「幼若」とよばれるもので、これでも長さは5m重さは5kgもあります(スタンダードサイズの「大若」は長さ12m、重さ50kg)

いくつか提灯の火が消えていますが、これは何度か竿燈が倒れた証
めったにありませんが、垂直に落下させると、竿の底が地面に当たった衝撃で、ロウソクが全消しになったりします

そうこうしているうちに、最初の「移動」
各町内・団体が時計回りに移動します。
つまり、これまで観た竿燈がやって来るわけで、このタイミングで、私はさらに西側に移動しました。

そして、第2ラウンド

今年の出竿団体は、町内竿燈が38町内学校・職場・企業竿燈が26団体だとか。
学校・職場・企業竿燈の提灯の図柄は校章やロゴマークがほとんどで、町内竿燈は、町紋が描かれた提灯の竿燈と、スポンサー企業のロゴマークの提灯の竿燈が混在しています(写真の馬口労町のスポンサーはJTB)
そりゃ、旧町名の狭い区域(例えば、私が入学した小学校の学区内には10近い出竿町内がある)で竿燈を出すのには住民からの寄付だけで賄うのは難しいですから…。そして、スポンサー企業の社員さんも、その町内の人たちに交じって竿燈を差せます。

そんな中で見つけた、初めて見る竿燈がこちらでした。

なにやらかわいらしい提灯です

日赤の竿燈らしいのですが、この図柄は何?
と、帰宅してから調べるとこちらのサイトに行き当たり、提灯に描かれているのは日赤のキャラクター「ハートラちゃん」なのだと判りました。
それと共に、日本赤十字社秋田県支部、秋田赤十字病院、秋田県赤十字血液センター、秋田赤十字乳児院、日本赤十字秋田看護大学・短期大学で組織する日赤竿燈会は、2020年から参加する予定だったものの、コロナ禍竿燈まつりが中止になってしまい、ようやく今年、初参加したというのですから、私が初めて観るのも当然です

一方、こちらは昔も観た記憶があります。
JR東日本は、JRマークではなく、秋田鉄道管理局時代からの「動輪マーク」を使っていました

2度目「移動」が終わり、最終ラウンド

スゲぇ と思ったのが、昼竿燈(妙技会)では見られない「口」で支える演技でした。

継竹を含めれば60kgはある竿燈をで支えるって、どんな顎の持ち主なんだ ですが、それだけではなく、ある人は口で竿燈を差しつつ、左右の手にそれどれ傘を差してるし、ある人は一番下の継竹に電飾を施しているしと、良い意味で外連味たっぷりでした。
あわわ と驚きながら写真を撮ったのですが、私の動揺のせいで、どちらの写真もピンボケ & ブレまくりで、載せることはできませぬ

一方、これは前途有望だ と思ったのが、
八日町小若 (2番目に小さな竿燈)でした。
継竹を何本も足して、こんなに長くして差しています
おそらく差し手は中学生だと思いますけれど、きっと良い差し手になることでしょう…

さて、私は、じわりじわりと西方向に位置を変えて行き、会場西端山王十字路から、北側の歩道に入りました。
そして、ここからどこまで東に進めるか と思ったところで、まつり3日目の竿燈がお開きになりました。

なんとも1時間があっという間でした。人混みの中、ほぼ歩き続けていたというのに、疲れなんぞありません
暑からず寒からずという好天だったのもあるでしょう。

で、会場を2/3周して判ったのは、東端の二丁目橋西端の山王十字路辺りは観客がとても多いものの、真ん中辺りではゆったりと観られるということでした。

今年の竿燈まつり4日間を通しての人出は、コロナ禍前に比べてかなり少なかったそうですが、次回観に行くときには、今回のように二丁目橋側から会場に入るのではなく、真ん中辺りから竿燈大通りに入るようにするつもりです。

で、竿燈大通りから川反通りに入り、三丁目橋を渡ったとき、時刻は20:40でした。
このタイミングだと、次のバス (終バス)21:40次の電車は更に遅くて22:27 (21時台に羽越本線の上り無い)

さて、どうする

その顛末と、落ち穂拾い「#3」で書きます。

つづき:2022/08/14 ウン十年ぶりの竿燈を楽しんだ #3:完結編

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ウン十年ぶりの竿燈を楽しんだ #1

2022-08-08 23:11:34 | タウンウオッチング

きのう(8月7日)朝の「御幣流し」を以てつつがなく終了した秋田竿燈まつりのお話です。

竿燈まつりは、毎年8月3~6日(旧暦の七夕)に開催されていて、就職して以降ずっとお盆ウィーク夏休みだった私は、この時期に帰省することができませんでした。無理ではないにしろ、夏休み直前に年休は取りづらいですから…
仕事を辞めたらぜぇ~ったいに竿燈まつりを観るぞ と思っていたのに、折悪しく、2020年・2021年コロナ禍中止

そして、今年は3年ぶりに竿燈まつりが開催されると知り、期待に胸をふくらませて8月4日に帰省してきました。

「期待に胸をふくらませて」と書きましたが、天気予報では、8月5日は晴れそうなものの、他の3日はいずれも
そして初日8月3日は、東北北部災害級大雨に見舞われて、秋田市午前中は雨が降っていたらしい。せっかくの3年ぶりの竿燈なのに… と思っていたら、昼から天候が回復し、初日は無事に開催されたというニュースを見て一安心

8月4日の帰省ドライブは、郡山付近から宮城県北部までずっと本格的な雨降りで、岩手県に入ると小雨になり、岩手・秋田県境ではで、そして、横手付近からは良い天気
秋田道の横手IC⇒大曲IC事故で通行止めというアクシデントはあったものの、昼前別邸に到着しました。

2週間半ぶりの別邸で一息入れた後、さて、竿燈2日目に出撃しようか? と思ったりして。
でも、2時起き7時間半のドライブを終えたあとですので、無理はせず、当初予定どおり、翌3日目に出撃することにして、この夜は早々に就寝したのでありました。

   

竿燈まつり 3日目の8月5日、別邸で昼食を摂ったのち、昼竿燈(妙技会)を観るべく、バスに乗って街の中心部に向けて出発

と、停留所でバスを待っている間、竿燈のお囃子が聞こえてきます。
どこからだろ??? と思いつつ、やって来たバスに乗り、ちょいと進むと、バス停から100mほどの場所で、地元の竿燈会竿燈を上げていました
ウン十年ぶり竿燈は、ほんの数秒間しか観られませんでした

そして、銀行を2行を巡ってヤボ用を済ませたのち、昼竿燈(妙技会)会場のエリアなかいちへ。

近づくと、竿燈のお囃子ドンドコ響いてきて、気持ちが高ぶります
そりゃぁねぇ、ものごころ着く頃から、年に数日とはいえ、耳にしてきて大好きだったお囃子ですから…

竿燈妙技会妙技会会場に到着

ふぉ~~

「エリアなかいち」での妙技会に出場しているのは、囃子方「大若」とよばれる、普通というかフルサイズの竿燈の差し手で、大若の基本的なサイズは高さ12m、重さ50kg
それに継竹をたして、どんどん高くなっていきます。

妙技会は、流し(バトンタッチ)、平手、額、肩、腰の基本技5人ひとくみで、その技の完成度を競うコンテストです。

今回、無料のパンフレットが配布されていて、それを読んで驚いたのは、差し手は利き腕一本を使うことが求められていること (両手を使うと減点)
地味に思える「流し」は、利き腕で竿をつかみ、それを滑らせて、次の差し手に継竹を足させて引き継ぐわけで、腕力だけでなく握力が求められます。
継竹1本につき3点、花笠5点、5点、「いさみ人形」と呼ばれる飾りが5点、それぞれ加算されます。
左の鐵砲町の竿燈の写真で、本体のすぐ下に見えるのが「いさみ人形(鐵砲町のシンボルのキツネ=与次郎稲荷)」で、その下にがあります。

継竹を何本も足して竿燈が高くなると、しなるしなる

八日町の竿燈は、このあとのせいかバランスのせいか、更にしなって、そして継竹はポッキリと折れてしまったのでありました

一方、囃子方も妙技会がありまして、太鼓2人・笛1人で、「流し囃子」「本囃子」で競います。

ウン十年ぶりの竿燈で一番驚いたのは、どの町内・団体も、囃子方の半分以上が女性だったことでした。

50kg以上もの重さのある竿燈を差すことは、女性には難しいようで、差し手に女性は皆無でしたが、太鼓も笛も女性が多かった

   

ところで、竿燈の演者(差し手&囃子方)おそろいの衣装を着ています。
背に町紋や団体のシンボルを染め抜き豆絞りの袖先半纏(地色はor藍)に、豆絞りの鉢巻白い半栲衣(はんたこ=短パン)、履き物は足袋に雪駄か地下足袋という竿燈ファッションなんですよねぇ~。

一方、竿燈の方は、先端に八幡秋田神社から授与された御幣をなびかせ、町内竿燈の提灯の場合、1段目2個が表:七夕、裏:町名2段目4個と3~8段目の各6個と9段目4個の表には町紋が描かれています。
2~9段目の提灯の裏は、「若」という一文字が多いものの、さまざま。
上に載せた鐵砲町の場合、表の町紋が「鐵」の一文字で、裏は「与次郎稲荷」です。

そうそう、八日町の半纏の背中の「八日町」の文字ふるふるで面白かった

この日の妙技会(予選2日目)は、15:30でお開き。
逆光で観る昼竿燈もまた乙なものでした。

ここで久しぶりにババヘラを食べました。

このババヘラ形はバラっぽいけれど、色合いはお堀で咲いているっぽかった。

千秋公園のお堀の蓮

さて、時刻は15:40、夜の竿燈本番まで2時間弱あります。
ちょいと迷った結果、ちょうどバスが来ることだし、一旦、別邸に戻ることにしたのでした。

夜の竿燈については「#2」につづきます。

つづき:2022/08/13 ウン十年ぶりの竿燈を楽しんだ #2

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深谷までドライブ #4(最終回) 建物編

2021-04-09 21:18:48 | タウンウオッチング

「深谷までドライブ #3 石碑編」のつづきは、建物編です。

訪問した順番に紹介しましょうか。

まずは、「旧渋沢邸 中の家(なかんち)」

リーフレットによれば、

屋根に「煙出し」と呼ばれる天窓のある典型的な養蚕農家の形を残している。

だそうで、このあと訪れた「尾高惇忠生家」も同様に「煙出し」のある様式でした。
「おかいこさま」が飼われていた屋根裏の通気と採光を考慮した設計かとおもわれます。
養蚕は日本各地で行われたわけですが、それぞれの地域毎に、「通気と採光」を目的とした屋根の設えに特徴があるようで、今後の旅行の際には注目したいと思います。

さて、明治期前半の建築と聞くとおりの佇まいを見せている「中の家」主屋の周囲を時計回りに巡ると、

 width=

おりゃ? この主屋の写真を改めて眺めると、2階の屋根の鬼瓦には家紋の「丸に違い柏」「煙出し」の鬼瓦には商標の「ちぎり」(「#2 紋編」をご参照方) が描かれていました。

生活と家業とに区切りをつけるとか、そんな意味があったのでしょうか?
知らんけど…

そんなことを考えながら、土蔵Ⅲをしばし眺めて

主屋の裏手に出ると、、、、、あれ

正面から見るのとぜんぜん違う
現代の農家だと言われればそのまま信じそうな感じです。

栄一が東京を拠点に生活していることから、中の家当主は、栄一の妹・てい(貞)の婿・市郎(才三郎)が務め、その跡は次男・治太郎が、これまた東京を拠点に生活した長男・元治に代わって引き継いでいます。

また、リーフレットによると、

昭和60(1985)年からは「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され、多くの外国人留学生が学んだ。平成12(2000)年、同法人の解散に伴い深谷市に帰属した。

つまり、現在のような「史跡」扱いになったのは20年ほど前のことで、それまでは普通に使われていたわけですから、「現代の農家」のような風情をたたえているのもむべなるかなですな

   

次は諏訪神社です。

諏訪神社は、本殿拝殿が完全に別棟になっていて、また、籬に囲われているわけでもありませんので、

本殿をしっかりと拝見することができました。

本殿の篇額栄一の揮毫でした。

この本殿は、「諏訪神社修繕記念碑」によれば、

現在の本殿は、明治40(1907)年9月に竣工したもので、郷土の偉人澁澤榮一翁と当時の血洗島村民が費用を折半して造営されました。

だそうで、栄一と村民の折半というところがイイです。
村の鎮守の本殿の造営に、神社の崇敬者が懐具合に応じて費用を出し合うというのは、自然だし、村民にとっては、「自分たちの神社」という感覚を持てるでしょう。

ところが、これだけで話は終わらないところが爽快なところで、「#3 石碑編」で書いたように、大正5(1916)年に、村人が栄一喜寿を祝して獅子舞を披露したところ、意気に感じた栄一は、拝殿を新築して寄進したのだとか。

何ともカッコいい

諏訪神社社務所は、地域の集会所を兼ねていて、その名も「血洗島ふれあい会館」
「血洗島」「ふれあい」のことばの響きがなんとも…です
あ"、写真は撮っておりません

   

次は「渋沢栄一記念館」

栄一の祥月命日である平成7(1995)年11月11日に開館しました。資料室には栄一ゆかりの遺墨や写真などが展示されています。

という、深谷市威信をかけたような威風堂々の記念館でした。
展示は、諏訪神社の獅子舞に使われる獅子頭とか、米国からやってきた「青い目の人形」(めちゃかわいかった)とか、興味をそそられるものもありましたが、もうちょいと整理した方が、観る側にとってはありがたい気がしました。
どことなく、時代的に行ったり来たりする感がありましたので…

   

最後は、「尾高惇忠生家」です。

リーフレットによると、

この尾高惇忠生家江戸時代後期に惇忠の曾祖父磯五郎が建てたものと伝わっています。当時は「油屋」の屋号で呼ばれ、この地方の商家建物の趣を残す貴重な建物です。
この家で栄一の妻となったちよ、見立養子となった平九郎、惇忠の娘で富岡製糸場工女第一号となるゆうが育ちました。また、若き日の惇忠や栄一らがときの尊皇攘夷思想に共鳴し、高崎城乗っ取りの謀議をなしたのもこの家の二階と伝わります。

NHK大河ドラマ「青天を衝け」を視ていれば、すんなりと頭に入ってくる一族ですが、判らない方のために、リーフレットに載っていた尾高家の系図を転載しましょう。字が細かいので、PDFも視られるようにしました。

「旧渋沢邸 中の家」は、家の中に立ち入ることができませんでしたが、この「尾高惇忠生家」は、土間通り抜けることができました。

この家を建てたのは磯五郎さん(1807年没)だということは、築後210年以上は経っているということですか…

ところで、この家も、中の家みたいに、から見たら今風(いまふう)になっているのでしょうか?
そこで、土間を抜けてふり返ると、、と、その前に

レンガ造り土蔵がありました。
この土蔵に使われているレンガは、渋沢栄一が設立した日本煉瓦製造製のものだそうで、まさしく「地産地消」(工場は現在の深谷市内)でございます。

良く見ると、これはイギリス積みですな(こちらの記事をご参照方)

で、尾高惇忠生家の裏側はこんな具合でした。

おぉ、これはちょいと時代を感じます
ただ、UHFアンテナが、私を現実に引き戻したのでありました。

ということで、甚だ簡単ではありますが、これにて尾高惇忠生家の見学を終えて、帰路につきました。

旧煉瓦製造設備も見学したいところだったのですが、ホフマン輪窯保存修理工事のため、2024年頃まで公開中止だそうで、そのまま自宅に向かいました。

こうして往復約130kmのドライブ無事に終了しました。

「往復約130km」といえば、かつての私のクルマ通勤とほぼ一緒。
なんという長距離通勤をしていたのだろうかと、改めて、しみじみと感じ入った次第です。
めでたしめでたし。

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深谷までドライブ #3 石碑編

2021-04-08 18:57:27 | タウンウオッチング

「深谷までドライブ #2 紋編」のつづきです。

「旧深沢邸 中の家」の裏にはが植わっていて、その隙間から青淵公園サクラが見えました。

小川(清水川)の両岸に桜並木がつづき、その先には青淵公園と、なかなかの風情なんですが、立っていた記念碑によれば、

平成17(2005)年6月13日、深谷コミュニティセンターで開催された「緑豊かできれいなまちづくり運動推進協議会(GCC競技会)」理事会において、新しい花の名所として青淵公園に桜を植樹しようとの提案がなされました。これを受けて7月27日には渋沢栄一記念館を会場に各協力団体が参集し、「青淵公園記念植樹実行委員会」が設立されました。
(中略)
平成18年2月13日には、渋沢栄一翁生誕の日を記念し、植樹祭を行いました。翁と誕生日を同じくする八基・豊里地区の老若男女十名のご参加をいただき、関係者とともに、翁の遺徳を偲びました。植樹は平成18年3月と11月の2回に分けて行いました。全長1,320m、面積13.6ha、桜を中心に二百余本の植樹が完了し、これに加えて17基のベンチも設置しました。

かなり新しいの眺めなんですな。

   

「中の家」の敷地内東側に、3基の石碑が立っていました。

そのうち北側に並んでいる2基は、渋沢栄一の両親の慰霊碑で、向かって左側が「先妣澁澤氏招魂碑」と刻まれた、渋沢えい(ゑい)さんの、

そして、右側は「晩香澁澤翁招魂碑」と刻まれた、渋沢市郎右衛門さんの慰霊碑です。

この2基の慰霊碑の碑文を読んで、へぇ~ と思ったことが2つありました。

一つは、栄一の父・市郎右衛門さんの号が「晩香」だということ。
王子・飛鳥山旧渋沢邸(曖依村荘:あいそんそう)跡に、1945年4月空襲をくぐり抜けて現存する2棟の建物のうち、栄一が「迎賓館として使ったという瀟洒な建物「晩香廬」は、父上の号が由来だったとは知りませんでした

渋沢栄一記念財団のHPでは、

栄一自作の漢詩の一節「菊花晩節香」から命名されました。

としていますが、仮に、栄一本人がそう説明していたとして、元をたどれば「父・澁澤晩香」が頭にあったことは間違いないと思います。

と書いたものの、こちらの資料によれば、

「晩香廬」の命名の由来について、従来、「バンガロー」の字音に合わせ、渋沢が自作の漢詩「菊花晩節香」からとったとされていたが、渋沢の詩作以前に既に渋沢の父をはじめ幕末明治には「晩香」と号する例はいくつかあり、渋沢自身も個人用箋には「晩香書屋」を印していたことを指摘し、「晩香」は、陶淵明の「飲酒其五」に由来する「雛籬晩香」にちなむ

という研究があるらしい…
でも、「陶淵明の『飲酒其五』に由来する『雛籬晩香』」とはどういうことなんだろ 「雛籬晩香」の4文字のうち「飲酒其五」に登場するのは「籬」だけなんだけど…

それはおいといて、もうひとつの「へぇ~ と思ったこと」は、父・市郎右衛門は明治4年11月、母・えいは明治7年1月に亡くなって、共に血洗島「中の家」近くの墓に葬られたものの、栄一が、後に自分が眠ることになる谷中霊園渋沢家墓所内に、この慰霊碑を建てたということ。
自分の近くに両親の霊を感じていたかったんでしょうねぇ。
ちなみに、撰文は、市郎右衛門碑が市郎右衛門の甥にあたる「あにい」尾高惇忠、えい碑が栄一自身、はいずれも巌谷修です。

さて、「中の家」敷地内に立つもうひとつの石碑は、

「澁澤平九郎追懐碑」です。

渋沢平九郎とは、旧姓・尾高栄一にとって従兄弟であり、妻・千代の実弟(=栄一の義弟)であり、養子でもある人物。
このあと訪れた「尾高惇忠生家」(平九郎の生家でもある)の駐車場に立っていた説明パネルに、平九郎の写真が載っていまして、これがまた、、、、

一部で話題になっているとおり、かなりのイケメン

それはともかく、この「追懐碑」の栄一による碑文の最後の方の読み下し文を転記します。

今ここに丁巳(大正6年:1917(没後) 50年の命日に(平九郎)の遺墨を改めて広げてみると、追懐の情が止められなくなり、平九郎の書いたものを探し出し、その書いたものをまねて石に刻み、もってその志を見(あらわ)すものである。

没後50年を経て、平九郎の小さかった頃のことや、既に亡くなった平九郎のきょうだいたち(惇忠, 長七郎, 千代)のことなんかも思い出して、こみ上げるものがあったんだろうな…

この平九郎さんの慰霊碑も、ご両親の慰霊碑と同様に、谷中霊園の渋沢家墓所内に建てられたものだそうで、説明板によると、

渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。

だそうです。
確かに、ご両親のお墓にも近い「中の家」にある方が、これらの石碑を見てもらえる機会が増えて、栄一の意思にも沿うのではないでしょうか。

   

諏訪神社には、渋沢家(中の家) 累代当主を称える碑のほか、「澁澤青淵翁喜寿碑」がありました。

渋沢栄一喜寿(77歳)をお祝いする碑です。

題額は、徳川慶久公爵

徳川慶久さんは、栄一のかつての主君徳川慶喜七男で、徳川(慶喜)公爵家の2代目です。

そういえば、東京・日本橋の橋銘板は、徳川慶喜さんの筆によるものでした。

「澁澤青淵翁喜寿碑」に話を戻しまして、撰文は、渋沢栄一著「徳川慶喜公伝」ゴーストライターと言われる萩野由之博士
文中から印象的な部分を紹介しておきましょう。旧字は新字に改めます。

翁は嚮(さき)八基小学校の新築と其維持法とに就きて多くの援助を与へ、一村の子弟をして就学の便を得しめたり。
村社諏訪神社は翁が幼少の時境内にて遊戯し、祭日には村の若者と共にさゝらなど舞ひたる事あれば、村に帰れば先づ社に詣づるを例とし社殿の修理にも巨資を捐てゝ父老を奨励したり。今年は翁の喜寿に当りたれば、翁を迎へて彼のさゝらを催しゝに、翁は記念として拝殿を造りて寄進したり。

文中「さゝら」とあるのは獅子舞のことでしょうか?

また、「翁は記念として拝殿を造りて寄進したり」とありますが、その辺りは、つづきの「#4 建物編」で書くことにします。

つづき:2021/04/09 深谷までドライブ #4(最終回) 建物編 

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深谷までドライブ #2 紋編

2021-04-06 10:45:38 | タウンウオッチング

「深谷までドライブ #1 『中の家(なかんち)』まで編」のつづきです。

「旧渋沢邸 中の家」「土蔵IV」は、1階が奥座敷、2階が宝蔵として使われていたそうですが、私の目は屋根の鬼瓦Lock On

奥の鬼瓦には渋沢家の家紋「丸に違い柏」が描かれていて、手前には別の紋が描かれています。
この「別の紋」は、「澁澤」の名を冠した数少ない企業、澁澤倉庫のトレードマークに使われているはずなんですが、この「別の紋」と渋沢家とはどんな関係があるのだろうか?

帰宅してから、澁澤倉庫のHPを見ると、答えがありました。

澁澤榮一の生家は、現在の埼玉県深谷市にあり、農業・養蚕の他に藍玉(染料)の製造、販売も家業としていました。この藍玉の商いをするときに使用した記章が「別の紋」であり、澁澤家では「ちぎり」と呼んでいました。
文献によりますと、「別の紋」「りうご」あるいは「ちぎり」共に正しいとのことですが、当社の昔からの言いならわしによれば、元来は糸巻に糸を巻き付けた形であって、この形が鼓を立てて横から見た形に似ているところから「立鼓(りうご)」とか、またあるいは、「別の紋」漢数字の「五」が立っている形と見て「立五(りうご)」と呼ぶようになったとも伝えられています。

だそうな。
上の転記で「別の紋」と表記した部分は、HPでは、社章の画像が使われています。

そうか、渋沢家家紋商標なんですな。

実は、NHK大河ドラマ「青天を衝け」第1回を見返すと、藍玉を入れた袋にこの「ちぎり」の焼き印を捺す場面が出てくるし、「青天を衝け 紀行」では、しっかりと、「渋沢家が商売の際に使用した商標紋」と説明されておりました

私の目は節穴

   

「中の家」から200mも離れていないところに、立派すぎるくらいの鳥居を持つ諏訪神社があります。

諏訪神社にも駐車場があるのですが、「中の家」から歩いてすぐの距離です。
私は、諏訪神社に駐車場があることは知りませんで、クルマ「中の家」の駐車場に置いて、歩いて往復しました。
で、栄一さんが晩年まで大好きだったというこの神社の篇額は、もちろん「澁澤栄一謹書」

Wikipediaによると、「諏訪神社」を名乗る神社は、

全国に約25,000社あり、長野県の諏訪湖近くの諏訪大社(旧称:諏訪神社)を総本社とする。

だそうで、この血洗島の諏訪神社もご多分に漏れず、境内の「諏訪神社修繕記念碑」には、

当社は、その創立の年代を詳らかにしていませんが、かつては諏訪大明神ととなえ、信州諏訪の地より勧請したものと伝えられています、江戸時代には岡部藩主安部氏の崇敬するところでもありました。

と刻まれていました。
そして、御神紋はというと、

「丸に立ち梶の葉」です。

総本社たる諏訪大社御神紋は、こちらで書いたように、上社4本の根を持つ「諏訪梶の葉」

下社5本の根を持つ「明神梶の葉」で、

共に「カジノキ」がモチーフになっています。
ちなみに、諏訪大社上社で拝見したホンモノのカジノキの葉っぱがこちらです。

どちらかというと、諏訪大社の御神紋よりも、そこから別れた各地の諏訪神社などが使っている「立ち梶の葉」の方が、実物に近い気がします。

それはともかく、「梶の葉」の紋を見たら、「諏訪大社と縁がある」と思いましょう。

   

最後は、「尾高惇忠生家」で拝見したこちら

こりゃどう見ても、家紋ではなく商標ですな。

リーフレットによれば、

「入り山二」の印は、当時、菜種油等の商いをしていた尾高家の商標にあたるものと考えられます。

だそうです。
そういえば、「青天を衝け」で、尾高千代さんがを売りに行く場面がありましたな

それはそうと、尾高家の紋は何?

尾高惇忠の肖像写真を見ると、はっきりとは判りませんが、なんとなく「丸に木瓜」紋のように見えます。

実際のところ、どうなんでしょ…

記事の前半に「青天を衝け 紀行」からのキャプチャー画像を載せましたが、「ちぎり」入りの鬼瓦満載の建物はどれなんだろ? と思って、撮った写真をじっくり見て、見つけました

正門の右側にある「副屋」で、リーフレットによると、

現在の副屋は、明治44年(1911)に上棟。
それ以前には藍玉の取引きにつかわれたのか「お店」と呼ばれていた。
また、市郎(栄一の妹・ていの婿)が近隣の子供に漢学を教えるために学者を住まわせていた時期もあるという。八基村農業協同組合事務所として使われていた時期もある。

だそうで、建て替えられる前の「お店」と呼ばれていた頃の設えを踏襲して、商標入りの鬼瓦や軒丸瓦を使ったのかもしれません。

ということで、「紋編」はここまで。

#3「石碑編」とする予定です。

つづき:2021/04/08 深谷までドライブ #3 石碑編 

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深谷までドライブ #1 「中の家(なかんち)」まで編

2021-04-04 12:43:39 | タウンウオッチング

相変わらずブログ書きに怠慢で、「2日続けておでかけ (前編)」つづきを書けないまま新シリーズ(?)を始めてしまいます。

一昨年末までは、平日ならほぼ毎日往復130kmクルマ通勤をしていた私ですが、会社を辞めてからはクルマを運転する機会がめっきり減りました。帰省ドライブ(往復1,200km)ができる時季はともかく、が見込まれる12月~3月の期間は新幹線で帰省しますし、今期は月のほぼ半分を別邸で過ごしましたから、ますますクルマが駐車場でご休憩される時間が長くなってしまいました。
そして、もう4ヵ月給油していない

来週末、昨年11月以来帰省ドライブを決行する予定にしているのですが、その前に、クルマの調子を見ておこう ということで、一昨日、深谷までドライブしてみました。
なぜに深谷? ですが、私にとって、友人の一人の故郷だという以外に接点はないものの、「半日ドライブ」にはちょうど良さそうな距離ですし、今年はNHK大河ドラマ「青天を衝け」の舞台になって、盛り上がっていそうですから。
NHK大河ドラマ絡みでふり返ってみれば、「真田丸」放映前年の2015年には上田に行ったし(メインの目的は「MISIA星空のライヴⅧ」上田公演)[記事]「麒麟がくる」放映の昨年春には岐阜・比叡山・静岡に行ったし[記事]で、結構ミーハーな私です

   

さて、黄砂にまみれたクルマを駐車場から出した私は、ナビに目的地として深谷市の血洗島交差点をセットして、いざ出発
道順は、ひたすらR17(旧中山道)を北上するだけというシンプルさです。

新大宮BP片側3車線の広い道なのですが、どうしてあんなに混んでんだろ
とりわけ、大宮近くの三橋辺りは、いっつも渋滞しています
三橋の先の宮前IC~吉野町ICR17R16との共用区間になっているせいなのかな?

それでも、上尾市内以降は、ほぼ信号毎に停められながらも、比較的スムーズに流れていました。
運転免許の更新鴻巣にある運転免許センターに行く時は、基本的にR17を走るのですが[例外:上尾のマラソン大会に遭遇して迂回したときの記事]、今回、クルマのナビは、R17とほぼ並行する旧中山道県道164号線を指定してました。
Why? と思いましたが、R17混みまくることを知っていましたので、指示されるがまま旧中山道を走りました。

「人形のまち」といえば、すぐに岩槻が思い浮かびますが(訪問記)鴻巣もまた「人形のまち」。旧中山道沿いに人形屋さんが並ぶ佇まいは、なかなかの風情でした。

ところで、信号待ちした交差点の近くにその名も「鴻神社」という神社があって、コウノトリのイラストなんぞも見たとき、そういえば「鴻巣」という地名は、この地に鴻(コウノトリ)の巣があったからなのかな? と思いました。
そういえば、前日のニュースで、渡良瀬遊水地に営巣しているコウノトリにヒナが生まれたという話もありましたっけ…

帰宅してから調べて判ったのは、意外なことだらけで、

鴻神社は明治初年氷川社・熊野社・雷電社3社を合祀してできた。
鴻巣の地名の由来は「コウノトリ伝説」にある。
と思いきや、「『国府の洲 こくふのす』」が『こうのす』となり、後に『こうのとり』の伝説から『鴻巣』の字をあてるようになった」説もある

とな
詳しくは、鴻神社のHPをご覧くださいませ。

さて、鴻巣の市街地を抜けて熊谷BPに入ると、クルマの流れはさらにスムーズになって、燃費もどんどん良くなっていきました。
また、前回・前々回の帰省ドライブで連続してトラブルになって、今回のドライブでの最大のチェック項目だったタイヤの空気圧も、約4ヵ月の惰眠期間を経てもなお、適正値を保っていました 気温が上がったのも効いているのでしょう。

天候は「晴れたり薄曇ったり」でまずまず。
終盤に入ったサクラとか、最盛期を迎えつつあるナノハナとか、新緑が始まったケヤキとか、目に麗しい

バイパス沿いのそば屋さん昼食を摂って、その後ちょっと深谷BPを走ったのち、ナビに従って右折して地方道に入りました。
最初の目的地を示す案内看板を見つけて、それに従って、血洗島交差点を過ぎてさらにちょっと走ると、「旧渋沢邸『中の家(なかんち)』に到着しました

けっこうなキャパの駐車場があって、3割程度の利用率でした。
平日ながら、なかなかの人出です。

立派な門の両側に「史蹟 澁澤榮一生地」「青淵翁誕生之地」2本の石柱が立っています。
蛇足ながら、「青淵」とは、渋沢栄一「号」でございます。

門も立派ですが、主屋も立派です。

主屋を始め、建物の中には入れず、敷地内を歩き回るだけですが、それだけでも建物好きの私には楽しい しかも、駐車場を含めて無料
深谷市太っ腹だなぁ

上に載せた主屋の写真の左端に笠をもった人物の銅像がちょいとだけ写っていますが、これは青年期の栄一さんの像です。プライバシー保護の観点から、お顔を隠させていただきました ←ウソ

ところで、この主屋は、渋沢栄一の生家ではありません
リーフレットから転記しますと、

現在残る主屋は明治28年(1895)市郎[栄一の妹・貞の婿]により上棟されたものである。梁間5間、桁行9間の切妻造の2階建、西側に3間×3間の平屋部分等を持つ。また、主屋を囲むように副屋、土蔵、東門が建ち、北武蔵における養蚕農家屋敷の形をよくとどめている。

だそうで、このあと訪れた「尾高惇忠生家と異なり、正門の門前の石柱に「生地」「誕生之地」としているのにはこんな背景がありました。

さて、視線を右に向けると、大きな蔵2棟建っています。

リーフレットによると、左奥の「土蔵Ⅰ」米蔵等、右手前の「土蔵Ⅱ」藍玉の製造・貯蔵庫として使用されていたと伝えられる」とか。

2棟の土蔵を拝見した後、ようやく主屋に足を向け、身近に見上げると、

なんとなく旅館みたいな風情です。
そして、一番奥の部屋にいらっしゃったのは、

紋付袴姿の渋沢栄一翁、のアンドロイド
ときどき、ビミョーに顔が動くのがめちゃくちゃリアルで、そんじょそこらのマネキンとはまったく違います

ちなみにこの部屋は、

帰郷する栄一のために市郎が特に念入りに作らせた、と伝えられる。

だそうです。

というところまで書いて、このシリーズを今後どう書き進めようかと考えてしまいます。
いつもの旅行記のように、時間経過を追うのか、はたまた、「建物編」「石碑編」「紋編」ジャンル毎に書くのか…

しばし考えた結果、「ジャンル別」を採用することにしました。

したがいまして、この後の私のルートを先に書いておきます。

旧渋沢邸「中の家」⇒徒歩諏訪神社⇒徒歩「中の家」駐車場⇒クルマ渋沢栄一記念館⇒クルマ尾高惇忠生家⇒クルマ⇒帰宅

今のところ、つづきの「#2」「紋編」として、家紋・標章・社紋の視点から書こうと考えております。

つづき:2021/04/06 深谷までドライブ #2 紋編 

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ふと思い立って浅草 #3

2020-10-21 21:11:04 | タウンウオッチング

「ふと思い立って浅草 #2」のつづきです。

浅草六区ブロードウェイWINS浅草前からた~らた~らへそぞろ歩くと、右側に、かの有名な浅草ロック座がありました。
いくらくらいするんだろか? と思ったら、6,000円だそうで、結構なお値段なのですな

一方、近くにある「落語定席」浅草演芸ホールのチケット3,000円ですから、落語ストリップ半額で楽しめるという次第で…

と、浅草演芸ホールの向かい側の角地に立つ建物「DENKIKAN」という名前がビビッと来ました

「DENKIKAN」って、かの名高い、日本最初の常設映画館「電気館」の流れか???

10年前の記事「江戸を感じた日曜日 (その5)」に、江戸東京博物館で撮った電気館の模型の写真をレタッチして載せましたっけ…

で、レタッチする前の写真がこちらです。

もう1枚、角度を変えて…。

「アントニーとクレオパトラ」上映中のようです。

「アントニーとクレオパトラ」といえば、チャールトン・ヘストンが監督&脚本&主演した1971年の作品を思い出しますが、こちらは、1913年のイタリア映画の方で、Wikipediaには、この作品が電気館で封切られた1914年3月11日の写真が載っています。

この写真が、江戸博の模型を制作する際に参考資料とされたのは間違いないと思われます。

それにしても、凄い人混み

帰宅してから江戸博図録「図表でみる江戸東京」で調べると、現在の「DENKIKAN」こと浅草電気館ビルは、この電気館と、隣にあった千代田館があった場所に建てられているようです。

   

せっかく浅草に行くんだから、浅草らしい昼食を ということで、出かける前から、どじょうを食べることに決めていました。

そして、事前にチェックしていたどじょう屋さんまで行ってみると、店の前に順番待ちの人たちが2グループほどいます。
12:15という時刻は昼食どきですからねぇ~。

そこで、時間つぶし旁々、まだ行ったことのなかった「かっぱ橋道具街」に行ってみることにしました。
とりたてて買いたい料理道具があったわけではありませんが、電気の秋葉原本の神保町美術の上野食品の築地場外市場…と、特定のジャンル集中する街の存在が、その巨大都市ぶりを証明する東京で、まだ「かっぱ橋道具街」に行ったことがないってのは、いかがなものか…ということ。

そして、「かっぱ橋道具街」に到着

ん? お休みの店が多い…
神保町の古書店と同じく、日曜日には休む店が多いのかもしれません

それでも、営業中のお店を覗くと、Deeeeeep

食器の店では、紐で括られた皿とか丼とか茶わんがドッサリと展示されているし、食品見本の店では、ロウ細工が店内を埋め尽くしているし、ブラシ専門店では、ブラシや刷毛類が壁や平台を埋め尽くしています

私は、テフロン加工のフライパン用のブラシ衝動買いしたのですが、それはさておいて、それぞれのお店が凄いだけで終わらないところが、「東京の専門店街」奥深さで、料理道具の専門店が、約800mにわたって軒を連ねていること

同業店ぎっちり狭い範囲(ぜんぜん狭くない)集中しながら、過当競争に陥ることなく共存共栄できる…

そんな専門店街が、成立して、存続できるところが、大都会・東京ならではだと、改めて思いました

次回は多くの店が営業しているときに来て、探検したいゾ と心に期しながら、そして、東京スカイツリーを眺めながら、もと来た道を戻りました。

もちろん、どじょう昼食をいただくためです。

ところが、どじょう料理屋さんに着くと、入店を待つ人が増えている…

考えてみれば、休日はランチタイムの最混み時間後ろにズレるわけで、12時ちょい過ぎより12:30過ぎの方が混んでいて当然です

行列が嫌い な私ですが、これでくじける(どじょうをあきらめる)のも面白くありません。

ということで、ウェイティングリストに名前を書き、店頭の灰皿周辺で加熱式タバコをプカプカしながら順番を待ちました。

そして、順番が来て、入店して、「どぜう鍋」「ご飯」をオーダー

お姐さんからマルでいいですか?」と聞かれて、ここは「はいと返答。
そして、そして、丸鍋が到着しました

コロナ禍のこのご時世、七味とか山椒小袋入りで、ネギ金属ボウル入りでしたが、ほぉ~、これがどじょうの丸鍋

実は、私、実家では何度かどじょう鍋を食べたことがありましたけど、外食するのは初めてでした

鍋に、これでもかぁッ というくらいネギを投入し、どじょうを取り鉢にとって、七味を散らして、いっただっきまぁ~す

箸で掴むのが大変なほどとろっとろどじょうは、味わう間のなく口の中で姿を消しコリコリ & チクチクの食感だけが際だつ感じでしたが、名物を食べられたというだけで、満足
ただ、「丸鍋」ではなく「柳川鍋」にすれば良かったかな? というのが本心ではあります

   

昼食を食べた後、田原町から地下鉄に乗り、東京国立博物館に立ち寄って(一応入場予約して)先日買い損なった「桃山展」の図録を買って、帰宅しました。

このブログシリーズを書くにあたって、復習かたがたいろいろ調べると、また浅草に行きたい気持ちが高まってきます。

復習の復習をしたいし、浅草演芸ホール落語を聞いてみたいですし。

ということで、「ふと思い立って浅草」シリーズ完結です。

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ふと思い立って浅草 #2

2020-10-19 13:07:20 | タウンウオッチング

「ふと思い立って浅草 #1」のつづきです。

昨夜のニュースを視ていると、毎年5月に行われている三社祭が、コロナ禍の影響を受けて、大幅に規模を縮小して先週末に行われたと伝えていました。

私は、翌週末に三社祭が行われるともつゆ知らず浅草寺に続いて、浅草神社にお参りしました。

老婆心ながら書いておきますと、浅草寺は「せんそうじ」と読みますが、浅草神社は「あさくさじんじゃ」と読みます。

それはさておき、浅草神社由来書きを転記しましょう。

明治初年の文書によると、祭神は土師真中知命(はじのまつちのみこと)・桧前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)・桧前竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)・東照宮である。浜成と竹成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた人物、真中知はその像の奉安者といわれている。三神を祀る神社なので、「三社様」と呼ばれた。しかし鎮座年代は不詳。東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、慶安2年(1649)に合祀された。以来、三社大権現といい、明治元年(1868)三社明神、同6年浅草神社と改称した。

だそうです。
浅草神社の神紋「三網」浅草神社の神紋「三網」は、由来そのままの意匠なんですな。

由緒書きは、更に社殿についても触れていまして、

現在の社殿は慶安2年12月徳川家光が再建したもの。建築様式は、本殿と拝殿との間に「石の間」(弊殿・相の間ともいう)を設け、屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造。この社殿は江戸時代初期の代表的権現造として評価が高く、国の重要文化財に指定されている。

とな。

浅草寺の方は、約10万人が亡くなった1945年3月10日東京大空襲のため、関東大震災にも耐えた本堂や五重塔焼失したのに、すぐ隣の浅草神社無事だったんだ…

塀や樹木越しに、本殿を拝見…

拝殿は瓦葺きだけど、本殿は銅板葺きなんですな。
「三つ葉葵」の紋が輝いています。
で、もう一枚、裏側から…

この本殿の裏にあるお家の表札からググると、こちらのサイトにこんな話が出てきました。

慶応3年徳川幕府の大政奉還となり、翌慶応4年(明治元年)3月28日神仏分離の令が下され、太政官布告により、神社と神職は神祇官の直属となり、社僧、別当は復飾(還俗)を命じられ、神仏混淆が禁じられたのである。
これまで三社大権現に祀られた土師中知、檜前浜成、竹成の子孫は三譜代と称して、観音堂に使えていたが、神仏分離で誰か一人は復飾して三社の祭典に専従しなければならなくなった。三家とも千余年の間観音に仕えてきたのに、いまさら復飾させられるのは迷惑だったので、檜前斎頭の倅相模を復飾させることを願い出たが認められず、斎頭も常音も復飾を拒否したので、やむなく土師専堂が復飾に応じて、三社の神官となり土師内膳と称した

そして、現在の宮司さんは、「土師氏62代に当たる」のだとか…

「神仏分離」は、明治政府の思いつきで行われたものではなさそうですが、日本の文化・風俗の一部を破壊した事実は厳然としています

   

浅草神社にお参りしたあと、浅草寺本堂の裏手を通り、九代目市川團十郎の銅像(「暫」鎌倉権五郎)を見物し、

浅草花やしきの前を通って、初めて六区ブロードウェイへ…。

この日は日曜日で、競馬開催日だったのですが、WINS浅草に出入りする人はホント、少なかった
六区ブロードウェイも人通りが少ないし、まだまだコロナ禍のさなかなんだな…

と、WINS浅草駐輪場に、G1レース優勝肩掛けが飾られているのを見つけました

え" ホンモノ
と、思いましたが、既に終わったレースのもあって、なぁ~んだ、レプリカか… でした

WINS浅草の前に、「瓢箪池と凌雲閣(十二階)」説明板がありました。

瓢箪池、この池は浅草場外発売所や東宝映画などの建ち並んでいるところにあった。明治17年(1884)に浅草寺境内にあった奥山の見世物小屋などを現在の六区に移転させる計画のもとに、浅草田圃(この辺一帯)の一部を掘ってをつくり、その土で六区を造成した。大池が正式の名であるが瓢箪池の愛称で呼ばれ親しまれていた。池の広さは1820余坪あり、池の中央に中の島があって藤棚や茶店が憩いの場となり東西を橋でつないであった。夜ともなれば池面に興業街を彩るイルミネーションが浅草の灯をうつして美観を呈した。
当時の浅草公園にはあらゆる階級の人間が集り、人間の生の息吹が渦巻いていた。瓢箪池は青春の思い出であり、人生哀歓のオアシスであり、夢の泉でもあった。
凌雲閣、通称十二階の名で知られ、明治23年(1890)に浅草の空に聳え立った日本最高の凌雲閣は、東京市民驚嘆の的であった。凌雲閣は今の浅草東映から西北約50mの地点にあった。(浅草公園五区、千束2丁目38番地) 設計者はイギリス人WKバートン氏。高さ約60m、1階から10階までが煉瓦積みで、11階と12階それに屋根は木造であった。八角形の塔状で8階まで日本最初の昇降装置があり、明治23年11月10日に開業した。
浅草の文明開化の金字塔であった東京名物凌雲閣も、大正12年(1923) 9月1日の関東大震災で8階から二つに折れ取りこわされてしまった。

なんて気配もないし、凌雲閣も、その存在は知っているものの、浅草のどこにあったのか判りません
「今の浅草東映から西北約50mの地点」と言われても、浅草東映既にない

帰宅してから、蔵書の江戸東京博物館図録「図表でみる江戸東京」を見ると、載っていました関東大震災直前1921年の地図

へぇ~
現在は、、といいますと、

WINS浅草のあるブロックとその南のブロックが瓢箪池の跡で、凌雲閣跡パチンコ屋など(パチンコ屋は閉店??)になっているようです。

そして、Googleマップ拡大していくと、

「凌雲閣記念碑」があるではありませんか

しかも、何も知らない私は、その記念碑に気づくこともなく、その数m先を通り過ぎていた

ありゃぁ~~と、ストリートビューを見ると、、、

へ???? 
記念碑って、この小さなパネル?

と、一喜一憂しているところで、#3につづきます。

つづき:2020/10/21 ふと思い立って浅草 #3

コメント
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