新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

きょうは墨田区内をブラブラと…

2021-10-28 21:28:34 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

きょうは墨田区へおでかけしてきました。

目的地は二つありまして、一つは東京スカイツリーで、もう一つはたばこと塩の博物館
もともと、「杉浦非水 時代をひらくデザイン」展を開催中のたばこと塩の博物館に行きたかったのですが、この博物館は、

と、「4駅利用可」、つまり、どの駅からも遠いという、なんとも交通の便の悪いところにあって、この博物館単独で訪れるにはなんとも非効率です。
それならば、まだ登ったことのない東京スカイツリーにも行ってみよう ということで、東京スカイツリーの予約をして、きょう出かけてきたわけです。

で、きょうの行程はこんな具合でした。

自宅⇒徒歩最寄り駅武蔵野線南越谷駅新越谷駅東武スカイツリーライン曳舟駅東武スカイツリーラインとうきょうスカイツリー駅東京スカイツリー⇒徒歩たばこと塩の博物館⇒徒歩錦糸町駅総武線快速東京駅上野東京ライン赤羽駅埼京線最寄り駅⇒徒歩自宅

帰りは、往路と逆のルートをたどるのが一番だったのですが、それは無粋 と、真っ平らな墨田区内を歩いて、錦糸町からJRに乗って帰ってきました。
その結果、重複無し一筆書きルート

   

東京スカイツリー見聞録後回しにしまして、まずは本日のメインだった「杉浦非水 時代をひらくデザイン」@たばこと塩の博物館のお話から。

杉浦非水のことは、このブログでは一度だけ触れたことがありました。
それは、杉浦非水のふるさと、松山への旅行記(こちら)で、愛媛県美術館の常設展で「三越呉服店 春の新柄陳列会」「爽快美味滋強飲料カルピス」を観て、いたく萌え上がったという記事です。

で、なぜに「たばこと塩の博物館」で杉浦非水展を? ということは後回しにしまして、フライヤーからこの展覧会の概要を転記します。

日本におけるモダンデザインのパイオニアとして知られる杉浦非水(1876~1965年)は愛媛県松山市に生まれました。東京美術学校入学後は円山派の川端玉章に師事して日本画を学んでいましたが、在学中にフランス帰りの洋画家・黒田清輝がもたらしたアール・ヌーヴォー様式の図案に魅せられたことで、以降は図案家として活動しました。
(中略) 非水の単なる「宣伝」の枠を超えた図案家としての幅広い活動から生みだされた作品の数々は、現在でいう「グラフィックデザイン」の原点といえます。
本展覧会は、非水の故郷・愛媛県美術館所蔵のコレクションを中心に、その作品を振り返ることで、近代日本のデザイン史に刻まれた意義を考えようとするものです。今も色あせない魅力的な作品をお楽しみください。

いやぁ~楽しかった 素晴らしかった そして面白かった

「面白かった」という点はいくつかありまして、日本画を学びながらも基本的な模写・臨画よりも写生に精を出したこと、洋画家・黒田清輝邸に入り浸って黒田が持ち帰った「お土産」に熱中したこと、黒田清輝とは馬が合わなかった藤田嗣治とも親交を持ったこと、会社(三和印刷店)勤務の傍ら大阪商船(現・商船三井)の意匠図案嘱託兼任したり、新聞社(中央新聞社)勤務の傍ら三越呉服店(現・三越伊勢丹)の夜間勤務嘱託兼任したり、日本美術学校講師の傍らラクトー(現・カルピス)の顧問を務めたり、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)教授の傍ら大蔵省専売局(現・JT)の嘱託を務めたりと、二足のわらじを履き続けたこととか…。

このうち、の黒田清輝との関係については、図録に載っている非水の自伝からの抜粋によれば、

私が期待してゐたのは(黒田)先生が新しく齎(もたら)される芸術品のサンプルに外ならぬのである。巴里の万国博のあらゆるものが、新興の意気を持つて満飾されたそれ等の装飾美術の片鱗に触るゝこと。当時新進作家の傑作の複製品、書籍に、カタログに、写真に、雑誌に。私の待つていたお土産とは、これ等の先生に依って持ち帰へられた作品を鑑賞する欲望に外ならぬのであつた。(中略) 私が日本画科を出て、先生から洋画に対する多くの知識を与へられたのであつたが、断然図案の方面に進出して行かうとい云ふ心が動いたのは、黒田先生のこのお土産品の到来が最大の動因であつたことは事実なのである。

だそうで、黒田清輝先生の教えよりも、黒田先生がパリから持ち帰ったお土産の方が大きな影響を及ぼしたって… 黒田先生には直接言えない話ですな

ここで話題を非水の作品に戻しまして、レトロモダンポスターや装丁に人知れず顔をほころばせ続けていたが、ほわぁ~ 声を漏らしそうになったのは、上記のとも関連しますが、まるで図鑑のような植物や鳥や昆虫の写生と、繊細なタッチで描かれた「非水百花譜」でした。

またまた図録からの転記で恐縮しますが、

「非水百花譜」は、大正9年(1920)3月から同11年(1922)9月まで、1輯5点として全20輯100点を老舗版元・春陽堂より刊行、600名の会員を募って頒布された。非水が原画を描いた100種に及ぶ花卉図が、彫りを大倉半兵衛、摺りを西村熊吉、田口菊松、桃瀬巳之吉といった当代きっての一流職人たちが担当し、大判の多色摺木版画として仕立てられた。

だそうで、超豪華本です

この「非水百花譜」を観ていると、やはり日本画を学んだ人なんだなぁと思います。
一方で、非水が傾倒したアール・ヌーヴォーの影響も感じられて、

写生を常に創作の基盤に据えていた非水にとって、多様な手法を用いて植物の本質に迫ろうとしたと言える本作は、非水の全ての仕事の中でも究極渾身の一作である。

という図録の説明に納得です。

ここで、前に書いたなぜに『たばこと塩の博物館』で杉浦非水展を?ですが、これは非水職歴をざっと書いたにあるように、大蔵省専売局の嘱託を務め、

大蔵省専売局のデザインワーク全体の指導者的立場として活躍した。自らデザインしたパッケージは「響」が最初で、その後、「PALOMA」「Momoyama」「光」「扶桑」「NIKKO」を手がけている。

というわけですから、「たばこと塩の博物館」を運営するJTとも浅からぬ縁があります。

ところで、買ってきた図録を眺めると、きょうたばこと塩の博物館では観ていない作品どっさりと載っています。
前期(9月11日~10月10日)のみの展示だった作品とか、東京展では展示されない作品もあるようですが、きょう観ただけでも十分満足できました。
わざわざ出かけて良かった…

ただ、バッグにをぶら下げていて、チャリチャリと音を館内に響かせ続ける若者がいたことだけはいただけなかった
財布とかバッグにをぶら下げるのはおばちゃんたちだけかと思っていたんですけどねぇ

ということで、東京スカイツリーの見聞録と、たばこと塩の博物館常設展示のお話はまた後日。

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2日続けておでかけ (前編)

2021-03-24 20:47:16 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

今週月曜日に別邸から2週間ぶりに戻ってきました。

別邸へは新幹線で帰省したもので、ほとんど別邸に引きこもった生活をしていました。
それならブログでも書いていれば良さそうなものの、2週間の帰省期間中に書いたのは3.11絡みの1本(こちら)のみ。
これというのも、さっぱり沈静化しない新型コロナウイルスに、やはり閉塞感みたいなものを感じて気が晴れないこと、出かけようにも出かける先がないこと、そして、別邸に物理的な不具合が続いて、その対応にあたったりと、なんとも冴えません

そして、Uターンしてくると、天気は良いし、暖かいし、サクラは咲いているし、一応緊急事態宣言解除されたしで、「お出かけしたい虫」が蠢きます。
時刻表を見ることなく最寄り駅に行っても、すぐに電車がやってくるというのは、別邸ではあり得ないシチュエーションですし。

そこで、昨日は、東京国立博物館(トーハク)に行って、「博物館でお花見を」を楽しんで来ました。
きのうの上野公園は、平日だというのにかなりの人出で、

大丈夫かなぁ と心配になったのですが、トーハクの敷地内は人が少なくのんびりサクラを楽しめました。

   

そして、きょうも美術館に行こう となりました。

先月、私はこんなTweetをしました。

先月末の私のTweet

備忘録的に、帰省Uターンしたら行きたい展覧会をリストアップしたのですが、さて、きょうはどれに行こうか…
と考えた結果、会期末が近いところから、、、と、東京都庭園美術館に行ってみることにしました。

そして、

 最寄り駅埼京線恵比寿駅山手線目黒駅

と電車を乗り継いで、東京都庭園美術館に向かったのですが、、、なんと、きょうは休館日でした
美術館・博物館は、火曜日を休館日にしている六本木の美術館たちを除いて、ほとんどが月曜日が休館日なんですが、なぜか東京都庭園美術館「毎月第2・第4水曜日」が休館日です。
よりによって、きょうが「第4水曜日」だったとは…

新年度からは、東京都庭園美術館も休館日を「毎週月曜日」に変更するそうですが、いやはやまいりました

でも、このまま踵を返して 目黒駅に戻るのは癪に障るので、白金台駅から地下鉄に乗って別のところに行こうと考えました。

そして、もうすぐ白金台駅だというところで、左側にスクラッチタイル堂々とした建物が見えました。

私、白金台国立公衆衛生院古めかしい建物ある or あったことは知っていましたが、その建物が現存していることは知りませんでした
しかも、今は港区立郷土歴史館になっていて、内部も拝見できるとは

これは見物するしかないではありませんか

中央エントランス前のサクラ立派です。

そして、この建物立派さときたら…

この建物の概要を、いただいたリーフレットから転記しますと、

名称 ゆかしの杜 (港区郷土歴史館等複合施設)
所在 東京都港区白金台四丁目6番2号
構造 鉄骨鉄筋コンクリート造、地下1階地上6階塔屋4階
竣工 昭和13 (1938) 年
設計 内田祥三
施工 大倉土木株式会社 (現・大成建設)

だそうで、トーハクの本館(計画案:渡辺仁)とほぼ同時期の竣工ですな。

「港区立郷土歴史館」入館料 300円をお支払いして中央ホールに入ると、
あまり上手ではない筆で記された プレートがありました。

公衆衛生院は我国の公衆衛生の改善を目的としてロックフェラー財団の厚意ある寄附に依て設立された
本院は厚生省所管として昭和13年3月29日よりその事業を開始した

だそうです。
リーフレットによれば、

この建物は、昭和13(1938)年、米国ロックフェラー財団の支援・寄附のもと、国民の保健衛生に関する調査研究及び公衆衛生の普及活動を目的に国が設立した機関、「公衆衛生院」のために建設されたものです。平成14(2002)年に、国立保健医療科学院として統廃合され、埼玉県和光市に移転するまでこの建物は使用されていました。

そして、

平成21(2009)年、港区がこの建物と敷地を取得し、郷土歴史館を中心とした複合施設として改修を実施します。歴史的建造物であるこの建物の意匠等を保存しながら、耐震補強やバリアフリー化等の改修工事を行い、平成30(2018)年に工事が完了し、開館となりました。

というわけで、今の形で公開されるようになったのは、ついちょっと前のことだったんですな。

それはそうと、この建物、安定感にあふれるシンメトリーで、威厳に満ちていて、どこかで視た建物と似てる気がする…

と思ったら、設計者内田祥三(よしかず)さんは、建築家であり、かつ、東大教授であり、東大の営繕課長として東大本郷キャンパスの多くの建物を設計したのみならず、東大総長まで務めた、プレイングマネジャーの極みみたいな方です。
旧公衆衛生院の隣にある東京大学医科学研究所(元・伝染病研究所)も、内田さんの設計だそうで、

確かに正面入口アーチの連なりがそっくりです。

と、約2週間ぶりにブログを書くと、かなり疲れます

そんなわけで(?)キリは良くありません、今夜はこの辺にして、「後編」に続きます。

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だいぶ体調が良くなったので上野にお出かけ (後編)

2021-02-28 20:35:59 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

だいぶ間が空いてしまいましたが、先々週金曜日(2月19日)のお出かけのことを書いた「だいぶ体調が良くなったので上野にお出かけ (前編)」のつづきです。

ほんとはさっさと書いてしまいたかったのですが、正直、前後編に分ける必要があったのか? と思うほど、後半に書くべきネタが少ないのでありまして…
とはいえ、書いておきたい話が皆無でもありませんので、前編で書いた特集展示「木挽町狩野家の記録と学習」以外で、惹かれた作品をいくつか紹介いたしましょう。

まずは、こちらは既に2月21日で終わってしまった特集展示「館蔵 珠玉の中国彫刻」で拝見した仏像から。

この仏像は、法隆寺が所蔵する檀像「観音菩薩立像(九面観音像)」(記事はこちら)を元に、1893年に森川杜園が彫った模刻像です。

私、中国の仏像は、あんまり好みじゃありませんで、「仏像ならガンダーラか日本」なのですが、この7世紀で彫られたたというこの「観音菩薩立像(九面観音像)」のオリジナル法隆寺で拝見したとき(記事)は、そんな私の嗜好がひっくり返るような衝撃でした。
そして、今、この観音さま(オリジナル)は、「私のお気に入りの仏さま 10選」に唯一入る渡来仏でいらっしゃいます。

   

東京国立博物館(トーハク) 本館の総合文化展(平常展示)の中で、一番地味なのは、2階 15室の「歴史の記録」じゃないかと思っているのですが、私が密か楽しみにしている展示でもあります。

今年度は、

伊能忠敬測量による日本沿海輿地図(中図)、各種の博物図譜、五海道分間延絵図のうち基幹街道である五街道、古写真を展示し、19世紀日本の社会、文化、交通、景観などを紹介します。

で、この日(2月19日)日本沿海輿地図は、

関西地方の中図が展示されていました。
そして、この地図の京都の南部を、去年1月に行った宇治(記事はこちら)辺りをしげしげと視ると、、、

「大池」とあるのは、今は亡き巨椋池ですな

そういえば、巨椋池って、いつまであったんだろうか 今は跡形もないけど…

と調べると、、、っつうか、Wikipediaに書かれていました
それによると、

江戸時代には一般に大池と呼ばれており、巨椋池という名が広く使われるようになったのは近代に入ってからである。

だそうで、なるほどなるほど
そして、1940年代までに干拓されて、巨椋池無くなってしまったのか
そして、そして、Wikipediaの、

京都競馬場の馬場の中央にある池は、かつての巨椋池の名残りを残した池だと考えられてきた。1999年(平成11年)に、京都府によって池中の生物の生態調査が実施されている。

との記載に、ほぉ~
京都競馬場は昨年末から約2年半にわたる大改修工事に突入していますが、この機会を捉えて、再調査したりするんでしょうかねぇ

   

五海道分間延絵図「甲州道中分間延絵図」で、

)

ここで描かれているのは、

甲州街道玉川上水が交差する辺りっぽい。
当然のことながら、江戸は現在の東京へと繋がっているんですな。

   

同じ展示室で目に止まったのは、こちら古写真

これはもしかして…
と思ったら、説明板によると、

浄土真宗の宗祖親鸞聖人の遺骨を祀る大谷本廟、いわゆる西大谷の一角にある圓通橋(通称眼鏡橋)です。前庭から総門に向かうなかに架けられています。

と、やはり、京都大谷本廟(西大谷)に向かって架かる「眼鏡橋」でした。

展示されていた古写真「明治時代(19世紀)」に撮られたものだそうで、まぁ、変わりようがない、というところでしょ

   

次は、トーハクの中で私がもっとも楽しみにしている本館2階 5・6室「武士の装い―平安~江戸」に展示されていたこちら羽織

徳島・蜂須賀家伝来の「袖無革羽織 白地薬玉模様」(18~19世紀)です。(展示はきょうで終了しました)

裏身頃がまた現代的でよござんす

この羽織は、説明板に、

徳島藩の厩方(うまやかた)で一括して23件の装束が長持ちに保管されていました。稀に見る華やかな装束がそろっており、「犬追物」「流鏑馬」「打毬」「鷹狩」といった伝統行事のために特別に誂えられたものでしょう。端午の節句にちなんだ薬玉模様を描絵を表わしています。

とありますので、戦場用(陣羽織)ではなく、イベント用晴れ着なんでしょう。

ところで、この記事を書いていて知ったのですが、徳島藩10代藩主の蜂須賀義重公は、末期養子として秋田の佐竹家から入った方でした。

Wikipediaによれば、義重は、徳島藩主に就いて15年後の1769年、「藩政宜しからずとして幕府より隠居を命じられ」隠居
更に、

かなりの贅沢三昧の生活を幕府に咎められ、江戸屋敷への蟄居を強要されそうになったので、1788年8月、阿波の富田屋敷へ移り、江戸行きは免れた。

だそうで、この華やか「袖無革羽織 白地薬玉模様」は、「贅沢三昧」だったとされる蜂須賀義重好みなのかもしれません

   

久しぶりのトーハク観覧を楽しんだ私は、鶯谷駅から山手線に乗って池袋に向かったのですが、トーハク東隣にある両大師屋根の装飾に目が止まりました。

上の写真では良く判らないと思いますので、肝心の部分を拡大しましょ。

そこにあるのは、「二引両紋」です。

両大師を含む寛永寺では、もっぱら徳川家三つ葉葵の紋を用いているはずなのになぜ?あざとい

寛永寺の開山は、両大師(開山堂)に祀られている慈眼大師こと天海僧正です。

「二引両紋」天海の紋であること(桔梗明智家の紋 ではありませぬ)は、こちらで書いたとおり。

当然のことながら、江戸は現在の東京へと繋がっているんですな。(二度目)

このあと、池袋とある目的の下、行動した私ですが、目的を達することはできず、結局は、週に一度の「分不相応(=豪華)な昼食をとって帰宅したのでありました。

以上です。

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コロナウィルスにも負けず出かけてきた #7

2020-03-05 15:38:57 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

「コロナウィルスにも負けず出かけてきた #6」のつづきです。

いよいよ、大川美術館での「桐生のアーティスト 2020」で楽しみにしていた山口晃画伯のことを書く「準備」として、2015年4月19日に放映されたNHK日曜美術館「画伯! あなたの正体は? ドキュメント・山口晃」を見かえしてみました。

この番組は、「山口晃展 前に下がる 下を仰ぐ」の山口画伯自身による紹介と併せて、この展覧会に向けて新作を制作する画伯をアトリエに取材するという画期的なもので、「ショッピングモール」の制作過程がつぶさに撮されていました。
番組の中で、画伯は、「ショッピングモール」についてこんなことをおっしゃっていました。

ショッピングセンターというのが今、地方に行くとできていまして、大きいわけですね。
その一か所で全部済んでしまうんで、その地域の商店街が軒並み壊滅をして、シャッター街ができるというときにですね、ショッピングセンターと商店街を重ねるという絵が描けるかなぁというので…。

地方出身で都会に暮らす人間の多くは、帰省するたびに、寂れる商店街、増殖するシャッター街駐車場のんき広がる空を見て嘆息するものですが、この感覚は、桐生育ち山口画伯(生まれは東京)にとっても同様のようです。

そして、桐生の街のど真ん中に巨大ショッピングモールが存在し、周りに高い壁結界のように巡らせているという「ショッピングモール」を、桐生市で、それも大川美術館で観られるというのは、感慨深いものがありました。(下の画像は、フライヤーの一部)

というのも、大川美術館の創設者・大川栄二さんは、美術館のHPから転記すると、

1924(大正13)年3月、群馬県桐生市に生まれる。
  桐生高等工業学校(現・群馬大学工学部)卒業。
1946(昭和22)年、三井物産株式会社入社、エフワン株式会社代表取締役。
1969(昭和44)年、ダイエー株式会社入社、副社長、サンコー(現・マルエツ)社長、ダイエーファイナンス会長を経て勇退。
1989(平成元)年4月、桐生市に財団法人大川美術館を設立。理事長兼館長として現在に至る。
2008(平成20)年12月、逝去。

と、まさしくショッピングセンターを創る側の人でしたから…。

さて、5年ぶりに再会した「ショッピングモール」は、ちょっと色が増えたかな? くらいの変化でした。
手元の「前に下がる 下を仰ぐ」図録と見比べても、太陽柱のような光の柱虹色になっているとか、桐生天満宮杜の緑が濃くなったとかが目立つ変化かな?

説明板を見ると、制作年は「2015年~」となっていて、今だ「未完」なんですな
でも、ショッピングモールの寿命って結構短いものですから、この作品が完成する頃には、描かれたショッピングモールの壁寿命を迎えているかもしれません。

それにしても、山口画伯の作品って、どうして観ているうちにニコニコしてまうんだろ。「ショッピングモール」もそうだし、壁板のように細長い板に油彩で描かれた「無題」もそうだし…。
結局、私の「好みだということですな

   

みかけ、さほど大きくないと思えた大川美術館は、中を巡ると、山の斜面を利用した5階建て(入館すると、ひたすら下る)、けっこう広い
エレベーターはないので、階段の上り下りの苦手な方にはきついかもしれません。

大川栄二さんを記念した部屋には、大川美術館にいらした方々と大川初代館長との記念写真が飾られていまして、その中には当然の様に中内功さんの姿もあったのですが、上皇さま&上皇后さまの写真もありました。
へぇ~ でございます。

結局、1時間半をかけて大川美術館堪能させていただきました。

   

私がクルマを駐めたのは「水道山公園駐車場でして、せっかくなので水道山に登ってみました。
「水道山」と聞くと、ついつい、母校(高校)の裏手にあった水道山を連想してしまいまして…

ところが、登り始めてみると、キツい

まっすぐ伸びる階段を登りきると、

そこからもまた登り

そして、ヒーコラ言いながら(運動不足でございます)「ほぼ頂上」に着くと、そこにも駐車場がありました…

考えてみれば、自宅を出発してから3時間、まったく飲まず食わずでして、自販機でコーラを買い、下界を眺めながら飲んだら、美味いのなんのって…。

一息ついたのち、展望台に上ると、先客がいらっしゃいました

   

クルマに戻ると、坂道を下り赤城山をバックミラーに見ながらクルマを走らせました。(下の写真は往路で撮ったもの)

この日のドライブルートはこんな感じでした。

太田市を抜け、利根川を渡ると埼玉県熊谷市
名前だけは馴染み深いR17を通って、久しぶりにさきたま古墳公園に寄ってみました。

   

報道番組によれば、人が群れていない公園は、新型コロナウイルスに感染するリスクが低いそうで、そのせいか、さきたま古墳公園の駐車場はなかなかの賑わいでした。
でも、さきたま史跡の博物館臨時休館でした

新型コロナウイルスのせいで、閉館中美術館・博物館は多いし、人混み避けたいし、家の中ばかりにいるのも鬱陶しい、そんなときに、こんな公園を歩くのは、気分転換に最適かもしれません。

丸墓山古墳の上から山々(下の写真は浅間山?) を眺めて

稲荷山古墳「前方」部から「自撮りして

恐らく今年最後を楽しんでから、

帰路につきました。
もう1週間早ければ、見頃だったんだろうな…
また、国宝 金錯銘鉄剣を拝見できなかったも残念ですが、先日、国立歴史民俗博物館(訪問記)レプリカを観たばかりですから良しとしましょう(イミフ)

帰る途中、行きつけのガソリンスタンドに寄って、今年初めて給油(去年11月中旬までは毎週給油していたことが嘘みたい…)のあと、モノは試し とばかりにスーパーマーケットに寄ったら、を買えました
いつもの秋田産米売り切れていましたが、山形産つやひめを買いました。
それにしても、埼玉県産米千葉県産米ばかりたっぷり在庫があったのはなぜ?

こうして、17時ちょい過ぎ自宅に帰着しました。
この日の走行距離約200km
天気も良かったし、渋滞も無かった快適なドライブでございました。

シリーズ本編の完結編:2020/03/07 コロナウィルスにも負けず出かけてきた #8 

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コロナウィルスにも負けず出かけてきた #1

2020-02-27 21:04:46 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

現在、国宝に指定されている文化財は、今月1日現在、全部で1,117件あって(原典)、都道府県別では、1位:東京都 281件、2位:京都府 234件、3位 奈良県 203件と、この3都府県がトロイカ体制(古いことば…)を築いていて、4位以下は、4位:大阪府 62件、5位:滋賀県 56件、6位:和歌山県 36件と水をあけられています。
東京都1位なのは、収蔵品・寄託品合わせて144件(2019年3月31日現在)も国宝を抱えている東京国立博物館(トーハク)の存在がデカい

ところが、建造物 271件の所在地を見ると、1位:奈良県 64件、2位:京都府 51件、3位:滋賀県 22件、4位:兵庫県 11件と、やはり畿内が上位を占めていて(大阪府は5件9位)東京都はというと、たったの2件。しかも2009年までは、東村山市正福寺地蔵堂しかありませんでした。

そんな、数少ない東京都内の国宝建造物の一つを、きょう、見学してきました

まずはきょうの行程から。

自宅⇒徒歩最寄り駅埼京線恵比寿駅日比谷線六本木駅⇒徒歩六本木ヒルズ(大宮エリー個展「大自然の動物たち〜ハートのレオナ原画展とともに〜」)⇒EXシアター六本木前路線バス渋谷駅前⇒徒歩昼食Bunkamura ザ・ミュージアム (永遠のソール・ライター)⇒徒歩渋谷駅銀座線赤坂見附駅丸ノ内線四ッ谷駅⇒徒歩迎賓館赤坂離宮(迎賓館赤坂離宮特別展~1964年東京オリンピックがつくられた場所~(歴史と写真展))⇒徒歩四ッ谷駅中央線新宿駅埼京線最寄り駅⇒徒歩⇒自宅

ということで、私が見学した「東京都内の国宝建造物の一つ」というのは、迎賓館赤坂離宮でした

「永遠のソール・ライター」展3月8日まで、「迎賓館赤坂離宮特別展~1964年東京オリンピックがつくられた場所~(歴史と写真展)」3月10日まで、「大自然の動物たち〜ハートのレオナ原画展とともに〜」3月1日までと、いずれも会期末迫っていることに加えて、このご時世ですから、いつ繰り上げ千穐楽になっても不思議ではありませんので、ドタバタ3か所をハシゴしてきた次第です。
もちろんマスクを着用して、更に予備のマスクも持って…

と、先週金曜日に観てきたトーハク「出雲と大和」展(記事はこちら)が、3月8日まで1週間以上の会期を残して、きのうで終わってる…
危なかった…

   

それはさておき、まずは、六本木ヒルズ A/Dギャラリー「大自然の動物たち〜ハートのレオナ原画展とともに〜」

ちょいと会場を探し回って、ようやく看板を見つけた と思ったら、が閉じてる 
一瞬、マズい予感が頭をよぎりましたが、会場の入口にあるミュージアムショップの品揃えが面白くて(こちらの記事で登場したマムアンちゃんのグッズがあった)、しばらくウインドウショッピングを楽しんでいると、あれ 開いた
まさか12:00開場とは思わなんだ
予習ほとんどしていないんだから、もう…、困ったもんだ…

さて、大宮エリーさんの作品は、新丸ビルでのパネル展でも拝見しましたが(記事はこちら)、やはり原画違うなぁ~

どれもこれもお持ち帰りしたい作品ばかり
パネル展のときには、こんな感覚は無かったからなぁ…

で、一番はこれかなぁ~

いや、これイイ

おっと、もしかして、こちらが、

MISIAが、「このバオバブじゃないと言ってボツにした作品かな?

MISIAからのも飾られていました。

こうして「大自然の動物たち〜ハートのレオナ原画展とともに〜」を楽しんだあと、さて、六本木から四ッ谷まで行くにはどういうルートがあるのだろうか? と考えましたが、地下鉄の乗り継ぎが思いつきません
そこで、スマホで路線検索すると、バス乗り継ぎが推奨されていて、どうもピンと来ない…

それなら、めちゃくちゃ頻繁に走っている新橋⇒渋谷路線バ(就職間もない頃、毎日地下鉄で通っていた新橋~渋谷の区間を、「地上も見たいと、バスで帰ったことがありました)に乗って渋谷に行けば、そこからはうまく渋谷⇒四ッ谷⇒帰宅の移動ができるではないか と思い至りました

そうした結果、上に載せた行程になったわけでして…。

EXシアター六本木前(バス停)に向かって歩いて行くと、おっと、渋谷行きのバス行っちゃった

と思ったら、またもや、渋谷行きのバス行っちゃった

やはり、新橋⇒渋谷の路線バスは、めちゃくちゃ頻繁に走っているのです

そして、2本続けざまに通り過ぎたばかりだというのに、すぐに後続がやって来て、私は待ち時間無し渋谷行きのバスに乗ることができたのでありました。

つづき:2020/03/01 コロナウィルスにも負けず出かけてきた #3
寄り道:2020/02/28 コロナウィルスにも負けず出かけてきた #2 

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吉祥寺⇒渋谷と美術館をハシゴ (後編)

2020-01-20 14:47:49 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

「吉祥寺⇒渋谷と美術館をハシゴ (前編)」のつづきです。

約1年前「終わりのむこうへ : 廃墟の美術史」(記事はこちら)を観に行って以来、2回目渋谷区立松濤美術館の訪問、前回は渋谷駅からだらだらとした坂道(文化村通り&松濤文化村ストリート)を登って、ちょっとうんざりしたので、今回は井の頭線神泉駅から歩きました。

松濤美術館で開催されていたのは、「サラ・ベルナールの世界展」

「サラ・ベルナールの世界展」のフライヤーフライヤーから引用しますと、

フランス出身の大女優、サラ・ベルナール(1844-1923)は、19世紀半ばから20世紀初頭にかけて活躍しました。パリで女優として成功を収めた後は、ヨーロッパ諸国やアメリカなどフランス国外にも活躍の場を広げました。また、自らの一座を立ち上げ劇場経営にも携わったほか、アーティストとして彫刻作品の制作を行うなど、生涯にわたって幅広い活動を続けます。(中略)
本展は、サラの人生を当時の貴重な写真や肖像画、舞台衣装や装飾品のほか、ミュシャ、ラリックによる作品をもとに通覧する、日本発の展覧会です。また、彼女が生きたベル・エポックの時代に制作された華やかなポスター作品なども展示し、サラ・ベルナールの世界を多面的にご紹介します。

というもので「サラ・ベルナール」キーワードとして、関連作品を集め、彼女が活躍していたベル・エポック(良き時代)垣間見ようという、美術館で開催される展覧会としては異色の企画です。

私、「サラ・ベルナールという大女優がいた」ことは知っていますが、どんな女優さんだったのかは判りません
これというのも、リュミエール兄弟動画用カメラ兼映写機「シネマトグラフ」を発明し、それを使って最初の映写会を開いたのが1895年末ですから、彼女の全盛期は「映画」が一般化する前。
Wipipediaによれば、

映画の分野でも等しく女優として活躍した。最初の出演映画は、1900年の映画「ハムレットの決闘」である。(中略) サラはその次は2本の無声映画に出演した。

とありますが、残念ながら「動くサラ・ベルナール」拝見したことがありませんで、先ほどググってみたところ、こちらのサイトで数本の彼女の短い動画を見つけました。

画家や彫刻家、工芸家ならば、その作品が後世に残って、我々もその仕事を拝見することができますが、演劇や音楽、舞踊といったパフォーマンス・アートは、録音・録画しないと後世には残らずライヴを体験した人たちが書きしるした文章に頼るほかありません。

ただ、サラ・ベルナールの場合、私が抱くイメージがありまして、それはミュシャによるポスターです。
右に載せた、「ジスモンダ」のポスターとか、こちらで書いた「メディア」のポスターとか…。

右に載せた「ジスモンダ」のポスター(縦2mを超えるド迫力作品)は、1984年末「ジスモンダ」再演が急遽決まり、「事務所」が印刷所にポスターの作成を依頼したところ、印刷所の主立ったところはクリスマス休暇中で、唯一のイラストレーターだったミュシャが筆を執ることになったのだとか。
そして、できあがったポスターをサラが気に入り、以降、ミュシャ feat. サラ・ベルナール黄金コンビが誕生して、二人はまさに「Win-Win」の関係になったというお話が有名です。

テオパルド・シャルトラン描くところの「『ジスモンダ』を演じるサラ・ベルーナル」がとてもステキだったので、ポストカードを買ってきました。

この絵もステキですが、ポスターとしての威力は、ミュシャの作品が圧倒的

   

展示されていた作品の中に、サラティファニーで誂えたという食器セットがありまして、これが何とも凄かった…
40cm×25cmの巨大な水差し燭台トレイが、打ち出し模様も鮮やかに、サラモノグラム(SB)モットーなど統一されたデザインで揃えられています。

この食器セットは、放蕩息子がつくった借金の返済のため、サラが知人に頼んで買い取ってもらったのだとか…。(モノグラムが入った特注の食器ですから、この知人は、使うつもりではなく、大女優ゆかりの品として家宝にするつもりで買い取ったんだろうね)
大女優と放蕩息子って、日本にも似たような母子がいたな…

   

ミュシャと共に「チーム・サラ」のメンバーだったルネ・ラリックの作品が数点、箱根ラリック美術館から出張してきていまして、その中でとりわけ素晴らしかったのはこちら (ポストカードを買いました)

ダイニング用センターピース「火の鳥」

尾羽鳳凰のようで、いかにもジャポニスム好きラリックの作品だと思います。

最後は、「あ いた Misiaさんだと思ったトゥールーズ=ロートレック「ル・ルヴュ・ブランシュ」誌のポスターです。

「ラ・ルヴュ・ブランシュ」は、1891年からパリで刊行(創刊は1889年にベルギーで)された美術と文芸の雑誌で、このポスターは、「ラ・ルヴェ・ブランシュ」の主宰者であるタデ・ナタンソンの妻Misiaさんをモデルに描いたもので、ポスター作品だということもあって、結構、あちこちの美術館で拝見することができます。

   

こうして「サラ・ベルナールの世界展」を観終わった私は、松濤文化村ストリート⇒文化村通りと坂道を下り、ハチ公前交差点を渡って、原宿駅に向かいました。

普通に考えれば、渋谷駅から埼京線あるいは湘南新宿ラインに乗って帰るところですが、渋谷駅の埼京線ホームは遠いし、ちょっと渋谷を散歩するのもいいかな?と思った次第。

ところが、渋谷の中心部はとにかく人が多く歩きづらいし、通りを流している広告トラック/バスからのやかましくて、ぜんぜん快適じゃない

それでも岸記念体育会館の辺りまで来ると、人通りも少なくなって、ちょっと一息
と、代々木第一体育館の下までくると、歩道「変」になっていました

スキーカヌースラロームコースのようです

何だろ、これ? と思ったら、歩道には、

こんなペイントがありまして、

自転車速度抑制ゾーン
歩行者と自転車との事故を防ぐため、自転車の速度を
抑制する対策を行っています。     渋谷区役所

ですって。
要するにシケインなんですな。

そういえば、松濤文化村ストリートを歩いていたとき、ガラガラ不快な音を響かせながら スケートボードで坂を下る若造がいたけど、ああいうのもの危ないですよねぇ。
私の場合、あのからしてムッ としてしまうんですが…。

さて、人が少なくて快適 と思ったのもつかの間、原宿駅の中は人でごった返していました
もともとコンコースもホームも狭い原宿駅なのに、現在は駅舎建て替え工事中で、その混雑が助長されているようです。
今年の初もうでの時には相当大変だったんだろうな…

そんな原宿駅も、ちょうど2ヶ月後新駅舎とプラットフォーム稼働開始するらしいです(こちらのサイトをご参照方)

今年春は、こちらで書いたように渋谷駅埼京線ホーム北上するし、原宿駅新しくなるし、私としては使い勝手が良くなりそう渋谷・原宿界隈でございます。

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久しぶりの王子散策記 #2

2018-06-13 22:02:52 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

「久しぶりの王子散策記 #1」のつづきもお札と切手の博物館の見聞録で、「#1」で予告した「地域通貨」のお話です。

日本最初の「紙幣」「地域通貨」だったというのは知る人ぞ知ることでして、説明板によれば、

1600年ごろ、日本で最初のお札である「山田羽書(はがき)」が登場する。伊勢神宮の門前町である山田で、商人たちが小額銀貨の預かり手形を発行し、これが貨幣の代わりに流通するようになったのである。

この「山田羽書」のことは2年前に放送されたブラタモリ「伊勢神宮 ~人はなぜ伊勢を目指す?~」に出てきましたっけ…

「山田羽書」のことは知らなくても、「藩札」なら「知ってるぞという人は多いんじゃないでしょうか?
上の説明板に載っている「出羽窪田銀」の現物(日本銀行貨幣博物館蔵)は展示されていませんでしたが、

同じ秋田藩(久保田藩)発行の藩札現物が展示されていました

さて、この「藩札(はんさつ)というのは、もう一度説明板から転記しますと、

江戸幕府は、金銀銅貨の「三貨」を発行し、全国的な幣制を整えた。しかし、地方では幕府発行の貨幣が不足した。そこで諸藩は、貨幣不足を緩和し、さらに藩の財政赤字を補塡するため、領内流通藩札を発行するようになった。現存する最古の藩札は寛文元(1661)年に越前福井藩が発行したものである。
藩札は、乱発されて価値が下洛することもあったが、価値さえ安定していれば金属貨幣より軽量で便利であり、江戸時代を通して全国の藩で発行されるようになった、明治4(1871)年に藩札の通用が停止されたときには、244藩(全国の藩の約8割)が藩札を発行していた。

だそうです。
正貨と交換できるという信用力と、による強制力によって、紙っぺらが藩内限定で貨幣として流通していたというわけですな

さて、時代は明治に変わり、明治政府「太政官札」という政府紙幣を発行しました。
ところが、Wikipediaによれば、

当初、国民紙幣に不慣れであったこと、また政府の信用強固では無かった為、流通は困難をきわめ太政官札100両を以て金貨40両に交換するほどであった。このため政府は、太政官札を額面以下で正貨と交換することを禁止したり、租税および諸上納に太政官札を使うように命じたり、諸藩に石高貸付を命じるなどの方法を講じた。これらの政策や二分金の贋物が多かった事などから、信用が増加したために流通するようになったが、今度は太政官札の偽札が流通し始め、真贋の区別が難しくなったため、流通は再び滞るようになった。

だとか。
この辺りの「事情」についてお札と切手の博物館の説明板では、

太政官札は、政府の依頼を受けた民間の職人によって、幕末期以来の技術で製造された。そのため偽造抵抗力が低く偽札が出回ったため、政府は近代的な印刷技術によるお札の製造を外国に依頼した。

だそうです。
発行元の信用だけでなく、紙幣そのものの信用(真贋)もまた、紙幣には重要だということですな。

そして、発行されたのが、ドイツで印刷された「明治通宝」と呼ばれる紙幣。

「日本風」というよりも「東洋好み」といった雰囲気が外国でデザイン&印刷されたことを伝えているようです。

ところで、太政官札明治通宝も、正貨との交換を保証しない「不換紙幣」でして、ひたすら「政府の信用」で流通させようとしています。

ところが、Wikipediaから引用すると、

当時は金本位制が国際的な流れで日本でも兌換紙幣(本位貨幣と交換が保障されている紙幣)を発行する必要性があった。明治政府は金本位制度の確立を民間に任せることとし、1872年(明治5年)に国立銀行条例(民間資本で発券銀行を設立し兌換紙幣の発行を義務付けるというもの)を制定した。これにより4行の国立銀行が設立され、1873年(明治6年)から兌換紙幣としての国立銀行紙幣が発行された。

ということで発行された兌換紙幣もまた外国製

券面をよく見ると、

「この銀紙幣を持参した者には、いつ何時であっても、2円をお渡しします」

といった文言があるのが兌換紙幣たる由縁です。

ちなみに、これら兌換紙幣を発行した「国立銀行」「国立」とうたっていますが、現在の「国立」とは意味が違っていまして、実質的に「私立銀行」です。
例えば、国立銀行として最初に設立された「第一国立銀行」は、「三井組」「小野組」を母体としたもので、第一銀行帝国銀行第一銀行第一勧業銀行みずほ銀行と現在につながっています。
みずほ銀行の金融機関コードが「0001」なのはこんな由来によるわけで…。

ここで疑問が湧き上がりませんか?

「第一国立銀行」の設立に関わった三井財閥(三井グループ)メインバンク「第一国立銀行」の流れを汲むみずほ銀行ではなく三井住友FGなのか ということ。

これは、三井財閥が、小野組やら渋沢栄一やらも経営に関わる第一国立銀行(1873年営業開始)とは別に、「自分たちの銀行」として「三井銀行」を設立(1876年)したから

私、大学では経済学部で日本経済史のゼミに所属していたのですが、ゼミの教授の忘れられないことばが、「就職したら、ぜひ、社史を読んでください」というものです。
この影響があるのかないのかよく判りませんけど企業の歴史って、ホント、面白いと思っています

なんだか方向性判らなくなってしまいましたので、きょうはこれまで

番外編:2018/06/19 久しぶりの王子散策記 番外編
つづき:2018/07/16 久しぶりの王子散策記 #3

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久しぶりの王子散策記 #1

2018-06-09 22:48:58 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

きょう、12ヶ月点検を受けに、板橋にある自動車ディーラーにクルマを持ち込みました。
所要時間は2時間程度だろうと予想して、その間、何をして過ごそうか と考えていました。
過去をふり返れば、ディーラーの近場でブランチを摂ったり、散策したり、近くの図書館ブログを書いたり、赤羽でブラブラしたり、赤羽からさらに足を伸ばしたりもしたのですが、今回は、久しぶりに王子を歩いてみようかと思いました。
ただ、約2時間(実際、ディーラーからもそんな見込みを伝えられた)だと、歩く範囲は限定する必要があるな… そんなことを考えながら、赤羽駅のプラットフォームで京浜東北線(南行)を待っていると、電話が…

ディーラーからの電話でして、「2時間程度とお伝えしたが、ナビの地図更新もあるので、4~5時間かかるですと

きょうは、特段、午後の予定を組んでいませんでしたから、王子散策の時間が増えた と、プラス思考で受け取り、王子駅へ…。

約6年ぶり王子散策(前回の散策記)ルートマップはこちら。

大ざっぱに書くと、

王子駅⇒お札と切手の博物館⇒装束稲荷神社⇒王子稲荷神社⇒昼食⇒王子神社⇒音無親水公園⇒飛鳥山公園⇒紙の博物館⇒王子駅

と、結構狭い範囲を歩いたのですが、それでも所要時間は3時間半と、なかなかなもの。
きょうは、日差しがあって、かなり暑かったのですが、それでも日陰の多いコースで、梅雨とは思えない快適な散策でした。

まずは、王子駅前からほど近い国立印刷局王子工場にあるお札と切手の博物館へ。

この博物館、見た目は郵便局っぽい。

独立行政法人 国立印刷局広報活動の一環という位置づけなのか、入館無料なのですが、それにしては、印刷、さらには、電子マネーが普及しつつあるとはいえ、日常生活には欠かせない「紙幣」の歴史やその意味なんぞも、まとめて知ることができるかなり密度の濃い展示をしています。

お札の原版を彫る道具なんてのは想像の範囲内ですが、1手彫りの原版を元に、印刷用の原版コピーを正確に複製しているなんて、あまり知られていない話かと思います。

切手印紙はもちろん、お札も、印刷用原版は、1回の印刷で複数枚の切手・印紙・お札を刷れるように、同じ画像が並んでいるわけで、

当然ながら、これらはすべて「同一」でなければマズい
ところが、かつてはこれら複数の画像を、1枚の原版手彫りしていたんですと

すると、どうなるかといえば、例えばこちらの日本最初の切手「竜文切手」の場合、

当時は版面の複製技術がなかったため、1シート40面分すべてが手彫りであった。反面は2版作成されたため、全部で80種のバラエティがある計算となる。特に1版目と2版目の違いは顕著である。
この製版法は、品質が均一でないため偽造品との区別が難しく、印刷効率も悪かった。

だとか。
19.5mm四方の小さな版面を、80枚分、寸分違わない画像を手彫りするなんて、到底無理 ってヤツですよ

ちなみに現在の切手は、偽造による影響の大きさと、製作の手間・コストを秤にかけた結果、オフセット印刷が主流になっているそうです。

   

ところで、今、日本国内で使われているリアルマネーには、造幣局が製造して政府が発行している硬貨と、国立印刷局が製造して日本銀行が発行しているお札(紙幣)2種類あります。
このうち硬貨はあくまでも「補助貨幣」の扱い(1回の決済で同一額面の硬貨は21枚以上だと受け取りを拒否できる)で、あくまでもメインお札=日本銀行券です。
単なる印刷物のお札が、その券面に印刷されている金額の価値を持つ紙であるということは、日本銀行がそう決めているから、つまり、日本銀行の「信用」が人々の間に浸透しているからなんですな。

その昔、貨幣は、といった、貴金属素材そのものの価値をよりどころにして流通していました。
でも、の現物で取引するとなると、高額になると、運搬も保管も大変 ということで登場したのが、「この証文とひきかえに金や銀と引き換えます」という、一種の「手形」のようなもの。
もとをたどると、17世紀の英国で金匠が発行していた約束手形=金匠手形=ゴールドスミス・ノートというものに行き着くそうで、最初の銀行券といわれるイングランド銀行銀行券は、

1694年に設立されたイングランド銀行が最初に発行したお札は、金匠手形の影響を受けた手書きの手形形式だった。

そうで、下の写真は1936年に発行されたイングランド銀行5ポンドの銀行券ですが、

18世紀前半、印刷されて額面が固定した形式になり、このとき採用されたイングランド銀行券のデザインは、1956年まで約200年間変更されなかった

だそうです。
18世紀半ばから約200年間ずっと同じデザインだったというのはすごい話です
18世紀半ばといえば、日本では江戸時代ですぞ

この頃の日本では、大判・小判やその他、「正貨」として取引が行われていたわけですが、「正貨」以外の、今でいう「地域貨幣」も流通していました。

その辺の話は「#2」で書くことにします。

つづき:2018/06/13 久しぶりの王子散策記 #2

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サクラといえば上野か? (前編)

2018-03-24 22:55:25 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

きょう、自宅の近所で淡々と予定してた用事を済ました私は、上野に繰り出しました。

目的はサクラ

見頃は来週かな? と思いつつも、上野駅公園口から上野公園に向かうと…、

きょう、東京のサクラ満開になったという発表があったらしいのですが、上野公園のサクラ「満開一歩手前」の様相(まだサクラの木のが見えますもの)。
でも、人出満開状態でした。
すっげぇ~人

私は人混みに背を向けて、竹の台広場を通って、毎年恒例の「博物館でお花見を」を開催中(3/13~4/8)東京国立博物館(トーハク)へと向かいました。

と、いつも何かとイベントが開催されている竹の台広場噴水の南側には、カラーコーンが並べられていました。

何だろ???? と思ったところ、

上野動物園??? (上野動物園のシンボルマークはツルか?)
なるほど~、シャンシャンに逢いたい方々の行列用のスペースなんですな

シャンシャンを先着順で観られるようになってから、私は何度も上野に行きましたが、いつも東京文化会館前には、「本日の観覧券の配布は終了しましたという掲示があって、きょうも同様でした。
私がシャンシャンに逢えるのはいつなんだろか…

   

さて、トーハクに到着した私は、まず、公開中(3/13~5/20)庭園を散歩

トーハクの庭園に植えられているサクラは種類が豊富で、咲き誇るサクラもあれば

(上の写真は「静岡県国立遺伝学研究所で作出」というミカドヨシノで、右の写真はエドヒガンシダレ) かと思えば、私の好きなオオシマザクラなんぞは、

まだまだツボミ固く閉じた状態で、正門を入って左手にあるイチヨウザクラに至っては、まったく咲く気配はありませんでした。

植わっているサクラが一斉に咲くのも壮観ですけれど、何種類ものサクラ時期をずらし「我が世の春」を見せてくれるというのも、なんだか、JAZZで各パートがソロを廻して聴かせてくれるみたいで良いではありませんか。
そして、何よりも、長い期間にわたってサクラを楽しめるというのは何よりです

トーハクでは、屋外だけではなく、館内でもサクラの競演が楽しめます。

そして、サクラに関連した展示を鑑賞しながら、本館内のところどころに置かれたエンボッサースタンプを集めてコンプリートすると、トーハクくん缶バッジをいただけるというお楽しみもあります。

で、ここから本館内の展示のことを書こうと思うのですが、その前に、庭園で観たこちらを…

庭園内の九条館の手前にあった燈籠なんですが、前からあったかな… と、写真を撮りました。
普通の石燈籠とは違う雰囲気が漂っていましたので…。

この燈籠、「大燈籠」という一般名詞なのか固有名詞なのか判らない名前がついていまして、実は、1908年に造られた「陶製」の燈籠なんだそうで、

京都で代々続く陶家・清水六兵衛(きよみずろくべえ)家の四代による作品。四代が61歳のときの作で、昭和13年(1938)に五代によって寄贈された。陶製の燈籠という、器にとどまらない四代の作風の幅の広さを伝えるものとして、大変貴重な作例である。

ですと

この「大燈籠」のことは、本館内の展示でその「いきさつ」を知ることになったのですが、この話も含めて、つづきは「後編」で。

つづき:2018/03/25 サクラといえば上野か? (後編)
     ※「大燈籠」のことは順延いたしました

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久しぶりの川越 前編

2018-02-04 21:39:15 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

久しぶりに川越に行ってきました。

お目当ては、川越市立美術館で開催中の「小村雪岱 『雪岱調』のできるまで」を観ることでして、先々週のの影響(クルマで出勤したり電車で出勤したり)で、クルマのガソリン残量がたっぷりでしたから、クルマで…。
川越市立美術館には、美術館博物館川越城本丸御殿共用の無料駐車場がありますし

この駐車場は過去2~3回使ったことがありまして、そのいずれのときもすんなり駐められたので高をくくっていたのですが、きょうは満車の表示が

クルマの中で、NHKのど自慢を観ながら15分ほど待って、駐車場に入れました。

駐車場にクルマを駐めて、「小村雪岱」展より先に、まずは、川越市立博物館ティーラウンジかなり遅いブランチを摂りました。
お腹がほどよく満たされたところで、いざ、「小村雪岱」展

この「小村雪岱 『雪岱調』のできるまで」展は、フライヤーから引用しますと、

当館の開館15周年を記念し、川越に生まれ、装釘・舞台装置・挿絵など他分野で才能を発揮した小村雪岱(1887-1940)の展覧会を開催します。

とあるように小村雪岱川越出身の画家でして、加えて、この展覧会の「冠」には「生誕130年」というのがついています。
こんな「キリ」が重なると、川越市立美術館としては何があっても「小村雪岱展」開催しないわけにはいかないでしょうなぁ…

「『キリ』が重なる」ついでに書けば、展覧会の最後に小村雪岱の年譜が掲げられていまして、それによれば、小村雪岱が生まれたのは「川越市郭町」という場所なんだとか。
「川越市郭町」ってどの辺なんだろ… と思いつつ、川越市立美術館を出て、川越の街の中心部を散策しようと歩いていますと、川越市立美術館とは目と鼻の先の交差点に掲げられていた地点名の標識には、、、、

あれま 「川越市郭町」って、川越城本丸のすぐ近くだったったんだ

さらに自宅に帰って、買ってきた図録を読みますと、

生誕地は郭町600番地と記す文献が多いが、郭町に600番地は見当たらない。雪岱と東京美術学校の同窓生で卒業後も交際のあった久保提多「商業高校敷地の西隣」とする。商業高校の敷地には現在当館が建つ

ですと
こりゃ、川越市立美術館小村雪岱さんを大事にしないとならないですよねぇ

と、かなり小編になってしまいましたが、きょうはこれまで。

つづき:2018/02/06 久しぶりの川越 中編

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