⑤「この世は、理論的にあり得る限りで最善の世界である」
本多峰子「悪の問題にむかう」に、ライプニッツは善と悪とのつり合いを考えれば「ありうる最高の世界だ」と言っているとあります。
本多峰子「悪の問題にむかう」に、ライプニッツは善と悪とのつり合いを考えれば「ありうる最高の世界だ」と言っているとあります。
スティーヴン・T・デイヴィスは『神は悪の問題に答えられるか』でこう書いています。
この世界を造ることにおいて、神の方針が結局は最善だったと分かるだろうと考えることには何ら論理的にも道徳的にも不適当なことはないと思っています。
スティーヴン・T・デイヴィスは新聞やテレビを見ないのでしょうか。
戦争に巻き込まれて命からがら難民キャンプに逃れる人たち。
国民を虐殺する親米独裁政権を支援するアメリカ。
ソマリアやハイチのような無政府状態の国。
そうしたことを知らないのでしょうか。
⑥自由意志論と成長の糧論との混合
本多峰子さんによると、リチャード・スウィンバーンは、人間の自由意志とそれに伴う責任の価値を、自由な選択を誤った時に生じる悪の深刻さを差し引いてもなおあまりある大きな善だと考える。
人生には勝つ者がいれば必ず負けるものもあり、それが論理的必然である。
その論理的必然のため、全能かつ善なる神でさえ、何もかもが善である世界を作ることはできない。
われわれはさまざまな選択をしながら、成長してゆく。
その選択において、善をなす可能性は多くの場合、悪の存在によって可能になる。
苦難は苦しむ本人には勇敢な行為と精神形成の機会を与えるものであり、他人のためになることもある。
それを考慮すると、全体として、苦難がないよりもあったほうが良い。
すべての苦難が報われる天国の存在を想定し、死後の埋め合わせと報いがある可能性を示唆している。
ジョン・K・ロス「抗議の神義論」(『神は悪の問題に答えられるか』)は、神義論が人間の苦難を、よりよいを成就するための道具と見なすことを批判しています。
赤ちゃんがエイズになるということを別の言葉に置き換えると、虐待された子供、災害で死んだ子供、餓死した子供、そんな子供たちは何を学ぶのでしょうか。
言論の自由がない独裁国家に生まれ、逮捕されて拷問によって死亡することを自分で選ぶ人などいません。
生き延びた人の中には精神的に成長する人もいるかもしれませんが、心の傷が一生残る人は少なくありません。
悪が自分が成長するための手段なら、他人の不幸を利用することにならないでしょうか。
小さな悪という言葉は費用対効果であり、これくらいの悪なら許されるということになります。
本多峰子さんは
世界にはなぜ悪があるのか、神は、もし存在するならば、なぜ悪の存在を許すのか、ということには、結論は出ていない。
と書いています。神が完璧だという前提では、悪があることに対して神の義を主張しようとする試みはいずれも批判を免れてはいない。
⑦抗議の神義論
デヴィッド・レイ・グリフィンとジョン・K・ロスは、『神は悪の問題に答えられるか』で、この世に悪があることは神に責任があると主張します。
デヴィッド・レイ・グリフィンは神の全能を否定。
ジョン・K・ロスは神の完全な善性を否定。
デヴィッド・レイ・グリフィンとジョン・K・ロスは、『神は悪の問題に答えられるか』で、この世に悪があることは神に責任があると主張します。
デヴィッド・レイ・グリフィンは神の全能を否定。
ジョン・K・ロスは神の完全な善性を否定。
全能であり完全に善である神は起こることをすべてはっきりと知っていて、創造の決断をしたという前提の神義論より、神は有限だとするほうが納得できます。
プロセス神学は、神は有限であり、全知でも全能でもないという考えです。
ヒュームやジョン・スチュアート・ミルも有限な神だと説いています。
ジョン・K・ロスは神義論の欠点をこう説明します。
ほとんどの神義論は、悪を正当化するという致命的な欠点があります。(略)多くを言いすぎる傾向は、全ての苦難は受けるに値するものであると示そうとする神義論にはっきりとみられます。言い足りない傾向は神の測り知れない知恵と善に訴えて、幸福な結末を確約しようとする試みが見られます。
完全な善である神は善しか創造したはずがないのであるから、悪の起源は説明できない。
アダムが自由意志で神に背いたわけですが、悪を選ぶ資質は持って生まれたものでしょうか、それとも後天的に生じたのでしょうか。
前者なら神は悪をアダムと一緒に創造したわけでしょうし、後天的なら子孫には遺伝しないので、原罪があると言われても困ってしまいます。
どちらにしても、アダムの間違った選択のために人類全体が苦しまなければならないというのは納得できません。
また、誰もが天国に生まれることができるという万人救済論が正しいとしたら、最後の審判は必要ないことになります。
地獄に堕ちる者がいるとしたら、地獄の苦を神は創造したことになります。
ジョン・K・ロスは神を否定しているわけではありません。
神を否定するからではなく、そのような抵抗が絶望から身を守るためにどうしても必要だからと認識しているからです。
抗議の神義論の原型は『ヨブ記』らしいです。
ヨブは神を絶対的に信じつつ、その一方で、自分の苦難の原因が神であることもまた、疑っていません。そして、神に反抗しつつ、しかも従い続けようとしているのです。
神を否定せず問い続ける、否定しないが免責もしない。
宗教は一人称、私にとって、ということだと思っています。
そのことは私にとって何なのか、どう受け止めるのか、ということです。
しかし、神は客観的実在だと考える人にとって、宗教は三人称です。
それだと、なぜ悪が存在するのかという問題が生じます。
神は全能か、限界があるか。終末にはすべてが明らかにされ報われるのか。
「どうしてこんな目に遭うのだろうか」という問いは、答えを得るための問いではなく、問い続け考えていくための問いだと思います。
ケネス・スーリンは、我々ができるのは、「われわれは、悪と苦しみを克服するために何をしているか」でしかないと言っているそうです。
スタンダール「神のできる唯一の弁解は、神が存在しないということだけだ」
カミュ「世界で起こっていることに神は責任があるかどうか」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます