米本和広『教祖逮捕』に、洗脳が行われる仕組みについて書かれてある。
脳にも容量があるが、情報量ではなく、時間が関係する。
洗脳セミナーでは脳に休む暇を与えない。
思考力の容量が限界に達し、自我はパンクしてしまう。
自我がパンクし、思考が停止した状態でも情報はインプットされる。
そこでカルトの教えが刷り込まれる。
カルトの教義は普通に考えると理解できないものだが、自我がパンクしているので論理的思考ができず、直接教えが刷り込まれてしまう。
それに加えて、パンクした瞬間、ドーパミンやエンドルフィンといった脳内物質が放出され、感動体験、神秘体験を経験する。
そうした体験を伴う教義の刷り込みだから、しっかり脳にこびりついてしまう。
教えを理解し、納得して結論を出したのではない。
だから、「本当の自分に出会えた」「すばらしかった」といった抽象的で幼稚な表現しかできない。
カルトの教えを他人に論理的に説明することはできない。
カルト信者に見られる共通した特徴である。
頭を空っぽにさせて、そこに教義を詰め込むということだが、超常現象大好き人間としては神秘体験の部分に興味をひかれる。
というのも、オウム真理教の元信者の
「初めての体験(神秘体験)の感動は「今までこのために生きてきたんだな」と思うほどでした。
具体的にはまず気持ちが良くなり、身体が驚くほど軽く、柔らかくなり、ものすごい解放感と自在感に包まれ、「この肉体は仮の姿だったんだ」と気づき、輪廻転生の存在を確信しました」(『オウムをやめた私たち』)
という告白を読むと、神秘体験を経験をしなかったら何だか損をしたような気になる。
とは言っても、不精だから瞑想なんて続かないし、自己啓発セミナーを受けるのはお金がもったいないし、クスリなら簡単神秘体験ができそうだが度胸がない。
神秘体験に何か特別な意味を見出すアヤシイ宗教は多い。
オウム真理教はどういう神秘体験を経験したかで、その人のステージを決めていた。
神秘体験にどういう意味づけがされているのだろうか。
小阪修平『そうだったのか現代思想』に、
「自分の弱さをごまかすために、人間は自分自身に耐えかねて、「背後世界」というものを作ってしまう。八十年代はそういうものにたいする興味が非常に強くなってきた時代という感じがします」
とある。
神秘体験は「背後世界」との通路だということなのだろう。
ま、「背後世界」があればの話だが。
だが、神秘体験に意味づけをすること自体が間違いである。
一遍の伝記にこういうことが書かれてある。
「往生される前に、空に紫の雲がたなびいていることをお耳に入れたところ、「すると、今日明日は私の臨終の時にはならないに違いない。私の命が終わるその最後の時に、そんなことは決してあるはずがない」と言われた。
上人が日頃おっしゃっていたことも、「もののわきまえもつかない人に、仏法に害をなす魔王にとりつかれたような心で不思議の現象に心を奪われて、ほんとうの仏陀の教えを信じようとはしない。まったく意味のないことである。確かなものは南無阿弥陀仏だけである」とのご教示であった」(『一遍上人語録』)
これは神秘体験ではなくて超能力だが、立場としては同じである。
「湖のほとりに予言者が暮らしていた。信奉者に向かって、自分は水の上を歩く能力がある、明日の朝、それを実際にやってみせよう、と語った。約束の時間に信奉者たちは湖に集まった。
「みんな、私が水の上を歩けると信じているのだね?」
と予言者が尋ねると、忠実な信奉者たちは声をそろえて、
「信じています」
と答えた。
「それなら、やってみせるまでもない」
と予言者は言った」
「修行者に弟子入りした若者が修行の旅に出た。師のもとに帰って、
「水の上を歩けるようになりました」
と言って、やって見せた。すると師は
「わしは昔から水の上を自由に行ける」
と舟に乗った」
この予言者や修行者のようであれば、インチキ宗教にだまされることはないだろう。
そうは言っても、超能力があればいいなと思うし、現実とは別のところに何かあるのではと思いたいのが人情である。
キューブラー=ロスも「背後世界」にはまりこんでしまった一人である。
『死ぬ瞬間』の著者であるキューブラー=ロスは実はかなりアブナイ人で、死んだ人を見たり、寝ている間にアンタレス星(だったと思う)に行ったりしたと言っている。
そうして、いんちきチャネラーに何度もだまされながらも信じつづけた。
キューブラー=ロスのトンデモな主張はポール・エドワーズ『輪廻体験』に詳しい。
いかにへんてこりんなことを言っても、キューブラー=ロスは高い評価を受けている人だから、スピリチュアルの世界ではそのトンデモ発言は「背後世界」を証明するものとして認められている。
ポール・エドワーズはこう言う。
「キューブラー=ロスのメッセージは微妙な形で害を及ぼす。知的水準を低下させるのだ。少なくとも宗教的な問題においては、何であれ自分にとって喜ばしいことを信じるがよいと説いているに等しいからである。苦痛を回避することだけが善ではない。「誠実であること」にも価値があるのだ。たとえ不愉快きわまりない結論であろうと、それが正しいという証拠があれば潔く受け入れるという態度である」
今を生きている実感を持てない人はキューブラー=ロス的な考えに共感するだろうし、神秘体験を売りにする宗教やサークルにハマるに違いない。
現実に対するリアリティが薄れ、別の何かが実在するように思うなら、オウム真理教のように今の生すら軽んじるようになってしまう。
神秘体験から生みだされた虚構ではなく、今生きているこの世界について関心を持つこと、そして自分がどう行動するか、そこを宗教は語るべきだと思う。
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ま、あの人権派(社会派)弁護士・遠藤誠さんの仏教勉強会(空海の『秘蔵法鑰』がテキスト)に行ったときですら、
「この人の仏教解釈は、中期プラトン思想(目に見える現実の世界「現実界」の背後に完全なる真実の世界「イデア界」がある)みたいやなあ」と思ったもんです。
「現実‐背後世界」という図式はわかりやすく、すんなりと人々に受け入れられやすいんではないでしょうか。
それに、「洗脳」が行われる過程は、パチスロなんかで大当たりした経験が忘れられず、はまっていく過程に似ているように思います。
基本的人権を尊重しない弁護士、命の尊厳を守ろうとしない弁護士こそ、「権派」というレッテルを貼るべきではないでしょうか。
>「現実‐背後世界」という図式はわかりやすく、すんなりと人々に受け入れられやすいんではないでしょうか。
親鸞の教えはニューエイジとは無関係だと思っていましたが、でも浄土を実体化、梵(ブラフマン)化して考えれば「背後世界」になりますね。
「もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ」なんて、受け取り方ではスピリチュアル真宗かなと思ってしまいます。
>それに、「洗脳」が行われる過程は、パチスロなんかで大当たりした経験が忘れられず、はまっていく過程に似ているように思います。
睡眠や食事をけずって、長時間、台の前に座って同じことをし、そこにフィーバーでも来たらスコッとはまってしまいます。
なるほど、洗脳ですな。
この世は幻の世界で、あの世が真実の世界。その真実の世界に(死後)行くことだけが一大事。それを可能にする不思議なことばが南無阿弥陀仏。。。
こう考えると、スピリチュアルなんですが、言葉をただ称えるだけではなかなか神秘体験は得にくいですね。だから、浄土教は逆に現代、流行らないのかも。
二泊三日ぐらいで、食事を減らし睡眠時間を削って
質問を一切受け付けず、教学用語を羅列したわけのわからん話しを聞かせて疲れさせ、みんなで念仏を長々と大合唱したら、恍惚の時間が訪れるかも解りませんね。
自然現象の裏には、これを造りだした天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きがあります。
天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きは人の目には全く見えませんし、一生涯このことを知らずに終る人たちがざらにいます。
目には見えないことは一切認めないし信じないという人たちもいます。
この人たちは、現象を、目に見えていることだけで説明をしようとします。
しかし、この世界の成り立ちと仕組みは、人の目には一切見えない、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られているので、目に見えていることだけで全てを説明しようとするのは最初から無理があります。具体例は、唯物論のマルクス主義。
なお、神秘体験と悟りの体験とは異なります。
神秘体験をしても、この世界の成り立ちと仕組み
を自動的かつ必然的に発見する悟りの体験にはならなかったりします。
そして、大事なのは、悟りの体験です。
http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/
いわゆる神の存在証明がもたらす意味について
天然自然の存在の創造主である神の存在証明をして、神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みについて説明し、人類史のリセットと再構築を試みる。
一般法則論者
背後世界、別の世界こそ真実の世界、本当の世界だ、という考えは古今東西あるわけで、それは人間の持つ根元的な憧れみたいなもんなんでしょう。
その世界を体験するためにいろんな手法が考案されています。
念仏も本来は神秘体験をするための手段でしょう。
法然の伝記を読むと三昧発得ということが書かれていています。
http://www.hm.aitai.ne.jp/~jintori/think99.htm
http://www4.ocn.ne.jp/~namino/p50.html
そこをどう考えたらいいのか、悩ましいところです。
>一般法則論者さん
前にトラックバックしていただいた方ですね。
>自然現象の裏には、これを造りだした天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きがあります。
それはあくまでも仮定の話でしょう。
また、自然現象の背後に「天然自然の存在の創造主である神」を設定する必要はないと思います。
そして、人間が認識できないものをどのようにして知ることができるのか、知ったことが正しいかどうかをどうやって証明するのか、ということもあります。
証明できないし、反論もできないとなると、それは科学的とは言えず、宗教的なお話になります。
「憂鬱の鬱という字がスラスラ書けるような人に憧れるんです」と言ってはりました。(まあこれは伊集院静さんなんでしょうが)憂鬱の憂の字が思い出せなかった私はそのときユーウツな気分になりました、、、
http://www.youtube.com/watch?v=hB-7GCqwXHU
夏目さん、美人薄命。で、法然上人ですが。↓これですか。
http://blogs.yahoo.co.jp/bjdsg450/28333009.html
1198年、66歳から74歳までのことと在りますね。あの『選択集』が書かれた1198年と同じ年から始まる出来事。長い間、勢観房源智にだけ伝わるとありますね。ふーん。誰それさんは、一般的にはこう言ってるけど、幾人かには特別秘伝を授けられたというのもよくある話しのパターンですね。
法然上人ももちろん比叡山のオーソドックスな修行や観想念仏もされてたのでしょうから、そういう神秘経験も持たれたことがあったとて不思議じゃないのではないでしょうか。
ただ伝記では、そうした超常現象があったから法然上人は優れた方だ、という書き方なんですね。
でも、法然の教えでは念仏と神秘体験、救いと神秘体験は無関係なはずでしょう。
みんな神秘的な現象、そして偉人の神格化が好きだということですね。
メシア・コンプレックスのように「他人を救うことができる」という妄想によって自分のしんどさを何とかしようとする人もいるし。
この二者が共依存することによって、カルトができるんでしょうね。
そらあ、救いのない現実なんて誰だって耐え切れませんからね。何かごほうびがあるから、辛いことに耐えられるのですよね。まあ仕方なしに惰性でやってることもあることにはありますが。勉強するのは、合格をあてにするのだし。バイトするのはスキーに行くためだし、、、
多少の貯えがある人だって、何かもっといいものが先にあると思いたいんですよね。だからあいもかわらず、出会い系エロサイトがあるんだし、パチンコ必勝法サイトがあるんだし、、、
私は、三昧発得なんてせんでもええから、「牡丹灯籠」のような、この世のものでないべっぴんの幽霊にいっぺん会ってみたいですね。まあその代わり命を奪われるのでしょうけど。ガハハ。
http://www.ffortune.net/symbol/rei/botan.htm
細く長くのおつきあい。というのは、某そうめん会社のコピーですが。花火は一夜の夢であるから美しいと思うし、桜もいさぎよく散るからこそとよく言われますね。恋や革命に命を賭して、宗教戦争もテロも、ストーカー殺人も起こると、、、
四衢先生は、「魔という形の宗教性があるわけです。それの日本の代表的なものが霊の宗教です」と言われています。
相手の弱点を見極め、そこをうまく突いて霊を紹介します。
「なんで私ばっかり。こんな現実は嫌だ」と思う人には祟る霊を、順風満帆な人には守る霊を。
私たちは何かもっといいものがあると思いたいし、そうした希望があるからこそ努力し頑張るわけですが、そのこと自体が弱点なわけです。
で、年とともに何かいいことがあるのではという願望が減るらしいですけど、私の場合はまだまだ燃えさかっております。
やばいなと。
きつねに憑かれる人が減って、宇宙人にサラワレル人が増えるのは何故か。そんなことを考えてます。
キツネの出てくる落語がリアリティを失うので、爬虫類人が出てくる新作落語を考えなアカン時代ですかね。
http://jp.youtube.com/watch?v=up5jmbSjWkw&feature=related