米本和広『教祖逮捕』を読み、問題のある宗教を見分けるポイントをいくつか思いついた。
以下、順不同
・信者が支払う金額の多寡
借金をしてまで無理矢理に寄付をさせる教団は法の華三法行に限らない。
・教祖の言行が一致しているかどうか
質素倹約をうたう教団なのに、寄付金をつのって豪華な神殿を作る。
欲望をなくせと説く教祖が豪邸で贅沢三昧。
報恩感謝を教える教祖が、信者を悪罵し、人使いが荒い。etc
・簡単に解決法、答えを与える宗教
オウムの元信者は、若者がカルトに魅かれるのは、「絶対」「存在」「意味」という三つのキーワードが絡むと言っているそうだ。
元信者はこう説明している。
「『絶対』は変わらない永遠不滅の真理です。『存在』は自分が生きているという実感。そして『意味』は自分が何のために生きているのか納得することです。これらの解答を与えてくれるのがカルトだと思うんです」(米本和広『教祖逮捕』)
エホバの証人もそういうところがある。
「エホバの教えは簡単で、今はエホバ神とサタンが戦っており、近いうちに人類は滅亡する。唯一生き残れるのは信者のみ。そのために聖書を研究しながら、ひとりでも多くの人たちをエホバの証人にしようと家々を回る」(米本和広『教祖逮捕』)
悪く言えば単純なのである。
・白か黒かの二元論
・絶対を旨とし信者の全精神を支配する教祖と、教祖に対する病的なまでの依存(批判力の喪失)
他にもまだまだあるだろうが、これくらいにして、「白か黒かの二元論」をもう少し説明しましょう。
絶対者の教祖に依存する信者のことはその次に。
『教祖逮捕』に、心理療法家の服部雄一と米本和広の対談が載っている。
服部雄一は
「カルトは物事をすべて極端な善悪に分けます」
すなわち、善か悪かの二元論がカルトの特徴だと言う。
二元論は内外、上下、高低、中心と周辺、時間の前後など、そして善悪、正邪、優劣、浄穢、貴賎、尊卑というふうに世界を二つに分ける。
そして、どちらかを選ぶよう迫られる。
エホバなら、ハルマゲドンで滅びるか、パラダイスに入るよう選ばれるか
オウムはハルマゲドンで滅びる社会と理想郷を建設する選ばれた民か
顕正会は日本が滅びる道か、日蓮に帰依して日本を救う道か
親鸞会は阿弥陀仏に救われた大満足の世界か、無間地獄に堕ちるか etc
これは宗教に限らず、政治でも二者択一が迫られる。
自民党か民主党か
資本主義か共産主義か
戦争か敗北(じり貧)か
テロの側につくか、反テロ側か
改革に賛成か反対か etc
ところが、二つの選択があるようでも、一つしか選べない仕組みになっている。
「改革に賛成か、反対か」と言われたら、「反対」とは言いにくい。
テストの点が悪いよりはいいほうが決まっている。
「二元論の罠にはめられると、自分の意思で相手が望む道を選んでしまう。しかも決定は自分がするから、誤った道であろうと、それは自分の選択になる。カルトに入った人たちは「組織に強制されていない。自分で選んだ道だ」とみんなが言いますが、本当にそうなんです」
と服部雄一の指摘に、なるほど、自分が選んだんだということがカルトを抜け出る難しさだと納得。
二元論の罠に落ちるのは、「理解したい」ということ、そして「正しくありたい」という気持が我々にあるからだと思う。
どちらも真っ当な願いである。
しかし、善か悪かで割り切れることはほとんどないのだが、単純なほうがわかりやすいし、正しさにすりよって自己正当化をしてしまう。
そして、理解できないことは無視し、自分の正しさとは違うことは排撃する。
以前、アンチユートピアについて書いたが、「カルトはユートピアを実現しようとする集団」という定義はどうだろうか。