三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

神秘体験したい

2007年12月25日 | 問題のある考え

米本和広『教祖逮捕』に、洗脳が行われる仕組みについて書かれてある。

脳にも容量があるが、情報量ではなく、時間が関係する。
洗脳セミナーでは脳に休む暇を与えない。
思考力の容量が限界に達し、自我はパンクしてしまう。
自我がパンクし、思考が停止した状態でも情報はインプットされる。
そこでカルトの教えが刷り込まれる。
カルトの教義は普通に考えると理解できないものだが、自我がパンクしているので論理的思考ができず、直接教えが刷り込まれてしまう。
それに加えて、パンクした瞬間、ドーパミンやエンドルフィンといった脳内物質が放出され、感動体験、神秘体験を経験する。
そうした体験を伴う教義の刷り込みだから、しっかり脳にこびりついてしまう。
教えを理解し、納得して結論を出したのではない。
だから、「本当の自分に出会えた」「すばらしかった」といった抽象的で幼稚な表現しかできない。
カルトの教えを他人に論理的に説明することはできない。
カルト信者に見られる共通した特徴である。

頭を空っぽにさせて、そこに教義を詰め込むということだが、超常現象大好き人間としては神秘体験の部分に興味をひかれる。
というのも、オウム真理教の元信者の
「初めての体験(神秘体験)の感動は「今までこのために生きてきたんだな」と思うほどでした。
具体的にはまず気持ちが良くなり、身体が驚くほど軽く、柔らかくなり、ものすごい解放感と自在感に包まれ、「この肉体は仮の姿だったんだ」と気づき、輪廻転生の存在を確信しました」
(『オウムをやめた私たち』)
という告白を読むと、神秘体験を経験をしなかったら何だか損をしたような気になる。
とは言っても、不精だから瞑想なんて続かないし、自己啓発セミナーを受けるのはお金がもったいないし、クスリなら簡単神秘体験ができそうだが度胸がない。

神秘体験に何か特別な意味を見出すアヤシイ宗教は多い。
オウム真理教はどういう神秘体験を経験したかで、その人のステージを決めていた。
神秘体験にどういう意味づけがされているのだろうか。

小阪修平『そうだったのか現代思想』に、
「自分の弱さをごまかすために、人間は自分自身に耐えかねて、「背後世界」というものを作ってしまう。八十年代はそういうものにたいする興味が非常に強くなってきた時代という感じがします」
とある。
神秘体験は「背後世界」との通路だということなのだろう。
ま、「背後世界」があればの話だが。

だが、神秘体験に意味づけをすること自体が間違いである。
一遍の伝記にこういうことが書かれてある。
「往生される前に、空に紫の雲がたなびいていることをお耳に入れたところ、「すると、今日明日は私の臨終の時にはならないに違いない。私の命が終わるその最後の時に、そんなことは決してあるはずがない」と言われた。
上人が日頃おっしゃっていたことも、「もののわきまえもつかない人に、仏法に害をなす魔王にとりつかれたような心で不思議の現象に心を奪われて、ほんとうの仏陀の教えを信じようとはしない。まったく意味のないことである。確かなものは南無阿弥陀仏だけである」とのご教示であった」
(『一遍上人語録』)

これは神秘体験ではなくて超能力だが、立場としては同じである。
「湖のほとりに予言者が暮らしていた。信奉者に向かって、自分は水の上を歩く能力がある、明日の朝、それを実際にやってみせよう、と語った。約束の時間に信奉者たちは湖に集まった。
「みんな、私が水の上を歩けると信じているのだね?」
と予言者が尋ねると、忠実な信奉者たちは声をそろえて、
「信じています」
と答えた。
「それなら、やってみせるまでもない」
と予言者は言った」

「修行者に弟子入りした若者が修行の旅に出た。師のもとに帰って、
「水の上を歩けるようになりました」
と言って、やって見せた。すると師は
「わしは昔から水の上を自由に行ける」
と舟に乗った」

この予言者や修行者のようであれば、インチキ宗教にだまされることはないだろう。
そうは言っても、超能力があればいいなと思うし、現実とは別のところに何かあるのではと思いたいのが人情である。
キューブラー=ロスも「背後世界」にはまりこんでしまった一人である。

『死ぬ瞬間』の著者であるキューブラー=ロスは実はかなりアブナイ人で、死んだ人を見たり、寝ている間にアンタレス星(だったと思う)に行ったりしたと言っている。
そうして、いんちきチャネラーに何度もだまされながらも信じつづけた。
キューブラー=ロスのトンデモな主張はポール・エドワーズ『輪廻体験』に詳しい。
いかにへんてこりんなことを言っても、キューブラー=ロスは高い評価を受けている人だから、スピリチュアルの世界ではそのトンデモ発言は「背後世界」を証明するものとして認められている。

ポール・エドワーズはこう言う。
「キューブラー=ロスのメッセージは微妙な形で害を及ぼす。知的水準を低下させるのだ。少なくとも宗教的な問題においては、何であれ自分にとって喜ばしいことを信じるがよいと説いているに等しいからである。苦痛を回避することだけが善ではない。「誠実であること」にも価値があるのだ。たとえ不愉快きわまりない結論であろうと、それが正しいという証拠があれば潔く受け入れるという態度である」

今を生きている実感を持てない人はキューブラー=ロス的な考えに共感するだろうし、神秘体験を売りにする宗教やサークルにハマるに違いない。
現実に対するリアリティが薄れ、別の何かが実在するように思うなら、オウム真理教のように今の生すら軽んじるようになってしまう。
神秘体験から生みだされた虚構ではなく、今生きているこの世界について関心を持つこと、そして自分がどう行動するか、そこを宗教は語るべきだと思う。

コメント (17)
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