三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

感謝の日暮らし

2007年12月16日 | 仏教

かつて西丸震哉の山歩きエッセイを愛読していた。
だけど、お説教口調の中にはえっと思うものがあって、こういうことを書かれるとムッとする。
「宗教者だって、ほんとうに心から感謝しながら生活しているかどうか。きいたことはないし、きいてもどうせ本心を正直に答えるはずはないから、きこうともおもわない」
聞きもしないで勝手なことを言わないでほしい。

では、讃岐の庄松さんに尋ねてみましょう。
「庄松はん、如来の御恩ということは、何ともないが、真実領解が出来たら、御恩御恩の日暮が出来ますか」
「おらはそんな難しいこと知らぬ。お前はお前の持ったまま暮らせ、おらはおらだけで暮らす。そんなこと聞いて何にする」


次に浅原才市さんは何と言っているでしょうか。
「才市よい うれしいか ありがたいか
 ありがたいときゃ ありがたい
 なっともないときゃ なっともない
 才市 なっともないときゃ どがあすりゃ
 どがあも しようがないよ
 なむあみだぶつと
 どんぐり へんぐり しているよ
 今日も くる日も やーいやーい」


最後に田原のおそのさんに聞いてみましょう。
「おそのさん、あなたがおいでると、同行の方々が集まって、さも嬉しそうにご相談しておられますが、私はいかなる邪見者やら、ただこの世ばかりが面白うて、後生のことは嫌いで御座います」
「そうそう、お前さんもさようか。私もそれよりほかはない。毎日、仏法の話はしているけれども、仏法が好きではありませぬ。実は後生のことは大嫌いで、この世のことが好きで御座ります。けれども嬉しいことには、後生が嫌いで、この世が好きな者も、親様が好いて下されますげなで、この世好きの後生嫌いの者が,一番けにお浄土へ参らせて下されますげなで、それが何より嬉しいでのう。このことを毎日談合しているのじゃげなあ」


念仏申したり、仏法を聴聞したからといって即身成仏するわけではないし、人格が向上するわけでもない。
ありがたいと感謝の気持ちがわくことがあっても、やはり欲も起これば腹も立ち、不平や愚痴はつきない、どうにもならないお手上げの私である。
なのに、西丸震哉(トンデモ系の部分もあるらしい)のように、自分はよくわかっているという気になってしまうどうしようもなさ。

コメント (2)
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