三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

生き神・生き仏信仰

2007年12月13日 | 問題のある考え

米本和広の言う「絶対を旨とし信者の全精神を支配する教祖と、教祖に対する病的なまでの依存(批判力の喪失)」とは、つまりは生き神信仰、生き仏信仰の問題である。

それは今に始まったことではない。
末木文美士『日本宗教史』によると、江戸時代には突発的に流行し、熱狂的に信仰されるが、やがて忘れられてしまう生き仏、生き神がいたそうだ。
たとえばお竹大日というのがいて、出羽国から出てきて江戸の商人のところで奉公していたお竹が、羽黒の修験者によって大日如来の化身として信仰された。
「何の特別のこともない庶民が突然仏の化身とされ、やがて大々的な宣伝によってブームを呼ぶこともあった」

麻原彰晃は最終解脱者だと自称し、統一協会の文鮮明は自分はメシア(救世主)だと説き、幸福の科学の大川隆法は釈尊の生まれ変わりだと言っている。
このように、新興宗教の教祖には神様や仏様がゴロゴロしている。
江戸時代の庶民を笑えない。

生き仏信仰を善知識だのみと言い、異義として否定する真宗でも、本願寺の住職が善知識であり、法主が地方に巡行した時、法主が入った風呂の残り湯を競って飲んだというのだから、人のことは言えない。

私たちは、生き仏、生き神を立てて、拝むのが好きなんだから困ったものです。
どうして好きなのかというと、仏と神とかいった見えないものによってではなく、具体的な人間から「あなたは大丈夫だ」と言ってもらって安心したいという気持ちがあるからである。
それが生き仏、生き神を生み出す。

人間を生き神、生き仏としてあがめるならば、教祖が「絶対を旨とし信者の全精神を支配する」ということと、信者の「教祖に対する病的なまでの依存(批判力の喪失)」という問題が生じる。

新興宗教の教祖の中には、自分は生き仏、生き神ではない、信仰の対象ではない、と自らの神性を否定する人もいる。
しかし、教祖が神ではないとしても、神と信者を結びつける唯一の存在とされる。
たとえば、福永法源は日本で唯一天の声を聞き伝えることのできる、天と修行者とのパイプ役である。
これは真光。
「教え主さまは私達を導いて下さいますけど、信仰対象にしてはいけない方です。教え主様は神様と我々組み手の中間に位置し(御神意を我々組み手に伝える方とでも言いましょうか)、神様の御光は教え主様を通して送られると教えられております。また教え主様は御神意によって選ばれます。現在の教え主様も御神意によって選ばれたそうです」

教祖が生き神・生き仏、あるいは神との唯一の仲介者ならば、教祖だけが何が正しいか間違っているか、この人は救われるか救われないかを決める力を持つことになる。
教祖から「お前はダメだ」と言ったら、もうどうしようもない。
だから、信者は教祖の言うことに何でも従うしかないし、疑いを持つことは許されない。
こうして絶対的な権威を持った教祖は信者を支配する。

「オウムでは、「上司の指示はグル麻原の指示」とされていました。指示に疑問を持つことは、グルに対する疑念を意味し、弟子として恥ずべきこととされていました。また、指示に従わなければ、オウムにいることはできなくなります。そのことは生活の基盤のすべてを失ってしまうだけでなく、修行ができなくなり地獄行きになってしまうと思い込んでいたのです」(『オウムをやめた私たち』)

真光です。
「我々は疑ってはいけないのです。教え主様を疑うこと、手かざしを疑うこと、御み霊の力を疑うこと、これは神様を疑うことと同じで非常に悪いことであると教えられています。これらを疑うと神様からの霊線が切れてしまい、いろいろな不幸現象が起こることがあるとも言われます」

信者に対してこういう力を持つ人が支配欲が強ければ、信者を自分の言いなりにあやつろうとするだろう。
信者は教祖に気に入ってもらうために何でもするようになる。
オウム真理教の信者だって、最初のうちは人を殺したり、サリンをまくことに抵抗を感じたと思う。
しかし、結局は自分で考えることをやめて、麻原の言いなりになってしまった。

「その救済も、初めのうちは、曲がりなりにも他のために生きるということに主眼が置かれていたのですが、それがいつのまにか「グルのために生きる」→「グルの言いなりになってなんでもする」という方向にシフトしていってしましました」(『オウムをやめた私たち』)

「「真理の実践だ! 麻原尊師の指し示す道こそ最善の救済だ! 他のことは考えるな! 自分の考えを持つな! 疑問を持つな!……」とマインド・コントロールを受け、じぶんをなくした」(滝本太郎、永岡辰哉編『マインド・コントロールから逃れて』)

これはオウム真理教だけの問題ではない。
また、真光。
「我々は手かざしによって幸福になれると教え主様から教えられております。それはつまり神様の言葉と同義なのです。神様そして教え主様の考えは我々一般の組み手には到底理解できないことです。しかし、そのお考えはおそらく素晴らしく、そして正しいのでしょう」

特定の個人を絶対化、神格化し、批判力を喪失するのは宗教の世界だけではない。
あさま山荘事件で逮捕された加藤倫教はこう書いている。
「何かを絶対視して信じることは、楽で気持ちのよいものであるが、必ず自らの主体的な思考の放棄を伴ってしまう」(『連合赤軍少年A』)

稲盛和夫の私塾の塾生の言葉。
「右と左、どちらが正しいかをジャッジする場合,右が正しいとするのが通念とします。でも、塾長(稲盛和夫)が左が正しいと言われたら、周りの人間も納得して左が正しいと思わせてしまう神業みたいな力がありますね」

「塾長講話録第六巻『利他の心』を全員で拝聴し、心の底からこみあげてくる涙に只々嗚咽の連続で、すべてを忘れて利他愛の声に聞き入ってしまいました。我を忘れて肩をふるわせ、しゃくりあげ、ひとしきり泣いたあとのすがすがしさはいったい何なのでしょう」(斎藤貴男『カルト資本主義』)
これは冗談ではないところが、おかしくもあり、恐ろしくもある。

増谷文雄先生は、釈尊は法、すなわち永遠なる真実を発見し、私たちは釈尊の教えによって法にうなずくのだが、仏教の歴史を見ると、釈尊を尊敬するあまり釈尊を絶対視して神格化している、と言われている。
釈尊はそうした絶対化を否定しているのだが、後世の仏教徒は法よりも釈尊を上に置き、法そのものを見ようとしない傾向がある。
そうして、釈尊ばかりではなく、宗派の開祖をも絶対視するようになった。

人ではなく法に依ること、独立者であることは今も昔も難しいことなんだと思う。

コメント (22)
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