三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『エリア・カザン自伝』

2019年09月16日 | 戦争

演出家で映画監督のエリア・カザンは米軍慰問のため、1944年末か1945年初にニューギニアとフィリピンに行きました。
『エリア・カザン自伝』にはその時に見聞したことも書かれています。

わたしは日本軍の残虐行為の話を延々と聞かされた。彼らが親指だけで人を吊るし、その腹を切り裂いて、中にガソリンを注ぎ、火をつけた、というような話を。我が軍も黙ってはいなかった。四十九人の日本兵を捕虜にして、全体が小さな輪になるよう縛り上げ、そこに航空燃料をぶちまけて、全員を焼き殺した。ガソリンはふんだんに供給されていた。日本兵捕虜を尋問のためにC-47で移送するときには、機体横の貨物用の扉を開けっ放しにしておいた。そして、機内でめいめいに対する尋問が終わると、目的地に着く前に蹴飛ばして外に放り出した。双方とも捕虜を残さなかった。


フィリピンに行く途中、ピアク島に着きます。
ある砲兵がしてくれた日本兵の捕虜の話。

やつらを捕虜にすると、おれたちの仲間から守ってやらなきゃならなかった。何しろ、見たとたんに殺っちまうんだからな。ほんとにあっという間に。


タクロバンの海軍基地で話題になった、同盟軍フィリピン軍の蛮行。

ここの南のレイテで日本艦隊の背後を衝いたときのことですが、何千もの日本の水兵が海に放り出されて、岸に向かって泳ぎ始めたんです。で、うちの陸軍の部隊が現地に出向くよう命令されました。G-2が尋問するから何人か捕虜にしてこいというわけです。部隊が日本兵の目指していた海岸に着いてみると、海はフィリピン人の小舟でいっぱいでした――カヌーだの丸木船だので。フィリピン人たちは日本人どもを殺してはいませんでした。連中は山刀を持ってて、それで日本兵の片腕を、次にもう一方の腕を切り落とし、生きたままで放り出して鮫の餌にしたんです。

「それを語る口吻には、軽蔑だけでなく称讃が入り交じっていた」と書いています。
これはエリア・カザンが聞いた話ですから、実際にあったことかどうかはわかりません。

吉田裕『日本軍兵士』によると、ジュネーブ条約で認められている傷病兵が捕虜になることを、日本軍は禁じた。
傷病兵の残置を認めないため、傷病兵を軍医や衛生兵が殺害するか、自殺を促すことが常態化した。
ガダルカナル島撤収部隊の実情を視察した参謀次長が東京に発信した報告電にこうある。

単独歩行不可能者は各隊とも最後まで現陣地に残置し、射撃可能者は射撃を以て敵を拒止し、敵至近距離に進撃せば自決する如く各人昇汞錠二錠宛を分配す。(「ガダルカナル作戦の考察」)

どっちもどっちだと思いました。

もう一つ、こんなことも書いています。
タクロバンでは、米陸軍が郊外に売春宿を開設していると聞き、連れ立って様子を見にいった。

そこはMPが管理していた。女を買おうとする兵士たちは、食べ物を買うのと同じように行列していた。その長い列は、六軒の小さな小屋へと続いていた。料金は十ペソ、約五ドルだった。私の見るところ、軍は利益を上げているようだった。女たちの素性もわからなかったし、一人も見ることはできなかったが、料金からすると、そう遠くから連れてこられたとは思えなかった。(略)兵士たちは、あたふたと小屋を通り抜けていった。中にいる時間は平均して四、五分というところだっただろう。彼らは小屋から出ると、近くの軍の性病予防センターに直行した。


日本陸軍が中国で慰安所を開設したのは性病防止と強姦防止のためです。
アメリカ軍も性病防止に苦慮していたようです。
それにしても、どうやって女たちを集めたのでしょうか。

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