三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

杉山龍丸『わが父・夢野久作』

2019年09月04日 | 天皇

杉山龍丸氏(1919年~1987年)の父は小説家の夢野久作、祖父は明治から昭和初期にかけての政界の黒幕だった杉山茂丸です。
右翼系の人が杉山龍丸氏に尋ねた。

「杉山さん、貴方のお祖父さんは、頭山翁と、義兄弟の血盟をされた人でしたから、さぞかし、天皇を尊敬されていたでしょうね。」
と、いう質問をされましたので、私は、
「さあー、どうでしたでしょうかね。私の父は、『天御中主命は、猿の中のボス猿のようなものだ。』と、申していましたからねー。」
と、申しましたら、その人は眼をむいて、
「へーえ、天御中主命が、猿の中のボス猿。へー、そうすると、天御中主命の子孫の天皇は、猿ということですか? へえー、杉山さんがねー。」
と、嘆息していました。


そして、杉山龍丸氏はこのように書いています。

夢野久作は勿論、父の茂丸も、学問として、天皇制を、機構政治学的に申せば、天皇機関説が正しいと申していました。
それは、天皇そのものと、政治機構上の天皇の地位の問題とは、別に考えねばならないということであったということです。
日本の場合、戦前には、これを混同して考えられていました。
それで、問題になったようです。
第二次大戦で、天皇は、戦争責任は無く、政治機構上、無責任の立場になっていたのですが、これは、非常に奇妙なことで、外国の人々、特に第二次大戦で惨禍を受けた国々の人々の理解に苦しむことであったと思います。
東京裁判で、天皇は、無罪でした。
しかし、それは、人為的な法律的なものにおいてであって、本質的なものにおいて、無罪であるかどうか、それは、人為的なものでは、云々出来ぬものがあるでしょう。
そこに、天皇の難しさがあるように思います。
天皇を絶対者とする、日本の一部の人々の考えに、大きな矛盾があるのではないでしょうか。


天皇の戦争責任を考える手助けとして、吉田裕『日本軍兵士』に引用されている文章をご紹介します。
1940年10月、昭和天皇は「支那が案外に強く、事変の見透しは皆があやまり、特に専門の陸軍すら観測を誤れり。それが今日、各方面に響いて来ている」(「小倉倉次侍従日記」)と語っています。
状況をきちんと把握しているわけで、軍部のロボットだったわけではないことがわかります。

そして、日中戦争中の1937年から1941年に、天皇の侍従武官を務めた清水規矩の発言は大きい意味を持つように思います。

陛下のお考えとしては、〝国務については、補弼の大臣があるので、これを重んずるが、しかし、その結果については、みずから責任を取る〟とのお覚悟がおありであったように拝された。一方、純統帥については、おんみずからが最高の責任であるとのお考えであらせられたものと拝察申しあげるのである。(美山要蔵編『天皇親率の実相』)


吉田裕氏の説明によると、統帥権とは、陸海軍を指揮し統御する権限のことで、統帥権は大元帥としての天皇に属し、内閣や議会の関与を許さないとされた。
各軍の司令官や連合艦隊司令長官は天皇に直属し、天皇が発する最高統帥命令にしたがって作戦を実施した。
参謀総長や軍令部総長は大元帥としての天皇を補佐する最高幕僚長であり、天皇からあらかじめ委任を受けない限り、基本的には自ら命令を発することができなかった。
昭和天皇は、自分は軍を指揮しているから責任があると意識していたと思われます。

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