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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

仏教と死刑(3)

2021年11月30日 | 仏教

死刑は国の制度ですから、古代インドでは国王が定めたはずです。
ですから、『サティヤカの章』や『宝行王正論』では、国王に死刑をしないよう説いています。
『宝行王正論』は龍樹がシャータヴァーハナ王朝の王に教えを説いた書簡体のものです。
http://media.dalailama.com/Japanese/texts/Nagarjuna-Precious-Garland-JPN-2019.pdf

龍樹は死刑囚や囚人についても、二個所で王を諭しています。

偉人の相好 三十二相について
殺生を犯すことなく、死刑囚を釈放するならば、身体は美しく、直立にして大きく、命が長く、指が長く、踵が広い者になられましょう。

 

慈愛と恩恵
たとえ彼らが正しい判断にもとづいて、処罰・入獄・笞打ちなどの罰を下すとも、あなたはつねに慈愛をもち、恩恵を施す者となりなさい。
王よ、あなたは常に慈愛によって、すべての人びとに対して利益する心を起こしなさい。たとえ恐ろしい罪を犯した人びとに対してであっても。
慈悲は、ことに恐ろしい罪を犯した悪人たちに向けられねばなりません。このような憐れむべき人びとこそ、心の高潔な人の慈悲にふさわしい対象でありますから。
囚人の釈放
毎日または五日ごとに、、力の弱った囚人を釈放し、また残りの者も適宜釈放してください。けっして拘禁しておくことがないように。
もしあなたに、ある人びとを釈放する心が起きないならば、彼らに対しては自制を欠くことになります。このように自制を欠くならば、永久に罪を受けるでありましょう。
また、彼らが拘禁されているあいだは、牢獄を楽しいものとし、理髪師、浴場、飲食物、薬、衣類を備えつけておきなさい。
処罰をなすときには、あたかも値打のない息子たちを値打のある者にしようと願って処罰を加えるように、慈悲をもって行なわねばなりません。けっして惜しみからしてはなりませんし、また財を欲してなしてはなりません。
事情を正しく考慮し判断して、たとえ罪深い殺人を犯した人びとであっても、処刑に処することなく、また責苦を与えることなく、彼らを追放しなさい。

龍樹の提言は今も死刑を廃止していない日本にも通用します。

死刑は執行人に殺人という悪業を作らせます。
『テーリー・ガーター』に、寒さに震えながら沐浴するバラモンとプンニカー尼とのやりとりがあります。

「バラモンよ。あなたは誰を恐れていつも水の中に入るのですか。あなたは手足がふるえながら、ひどい寒さを感じています」
「老いた人でも若い人でも悪い行ないをするなら、水浴によって悪業から脱れることができる」
「もしもそうなら、蛙も亀も竜も鰐も、その他の水中にもぐるものも、すべて天に生れることになりましょう。
また、屠羊者も屠豚者も漁夫も猟鹿者も盗賊も死刑執行人も、そのほか悪業をなす人々はすべて水浴によって悪業から脱れることになりましょう」

死刑執行人や業者は悪業を作る人とされているのです。
殺生の業報をいつか受けることになると、本人も思っていたでしょう。
しかし、死刑執行人は国王の命令に従っているだけです。
なのに国王は何の報いも受けないとしたらおかしな話です。

仏教は不殺生を説いているので、本来は戦争や死刑で人を殺すことも罪です。
ところが、時代とともに殺生を認めるようになりました。
敵を殺すことが菩薩行だとまで言う僧侶もいたほどです。
このようにして、殺生が正当化されていったのです。

アヒンサー(不害)が説かれたということは、残酷な刑罰や拷問が実際に行われていたからだとも言えます。
死刑は残酷な刑罰だという認識が現代では世界的に広まっています。
ところが日本ではそうではありません。

1948年、死刑制度の存在は違憲であるか、合憲であるかが争われた裁判で、最高裁判は「死刑制度は憲法第36条で禁止された「残虐な刑罰」には該当せず、合憲である」としました。
当時は死刑が残虐な刑罰ではなかったとしても、70年以上も経った現在は違うはずです。

2011年、パチンコ店放火殺人事件で、絞首刑は残虐で違憲と主張する弁護側の証人として元最高検検事の土本武司筑波大学名誉教授の証言しました。
岩瀬達哉『裁判官も人間である』からの引用です。

絞首刑が惨たらしいとはいえないとは実態を知らな過ぎる指摘というほかない。(略)
つい十数分前まで自分の足で歩いていた人間が、両手・両足を縛られ、顔は覆面をさせられ、刑務官のハンドル操作により踏み板が開落するや地下部分に宙吊りになり、首を起点にして身体がゆらゆらと揺れる。その際、血を吐いたり失禁をしたりし、やがてその宙吊り状態のままで、死の断末魔のけいれん状態を呈する――それはまさに見るに耐えないものであり、人間の尊厳を害することこれに過ぐるものはないということを痛感させられるシーンである。(『判例時報』2143号)

ところが、2016年、最高裁は「死刑制度が執行方法を含めて合憲なことは判例から明らかだ」という判決を下しました。
https://www.sankei.com/article/20160223-BHAAMD6OFNOWZNSWI6FQHFOB64/

中川智正弁護団『絞首刑は残虐な刑罰ではないのか?』には、絞首刑は残酷だということが詳しく説明されています。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/7b7140abd9acb8c5e42700c606da6fa2
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/cf4e163f561b3d22b69f3ed15682d31a
オウム真理教の死刑囚は全員執行されました。
日本では、死刑は今も残虐とはされていないのです。

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