三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

西田幾多郎と念仏

2023年03月28日 | 仏教

西元宗助『宿業の大地にたちて』を読んで、西田幾多郎が務台理作宛ての書簡に浄土宗や念仏について書いていることを知り、『西田幾多郎全集』を図書館で借りました。
務台理作は西田幾多郎の門下生です。

昭和19年12月21日

ミダの呼声といふものの出で来ない浄土宗的世界観は浄土宗的世界観にはならないと思ひます そんな世界では何処から仏の救済といふものが出てくるのでせう あの人は宗教といふものを事実とせないで唯頭で考へて居るので少しも体験的に沈潜して見ないのです ザンゲばかりの世界は道徳の世界で宗教の世界ではありませぬ 宗教心といふものそのものが自分からのものでなく 向かうのものでなければなりませぬ(略)
私は浄土宗の世界は煩悩無尽の衆生ありて仏の誓願あり 仏の誓願ありて衆生ある世界と思つて居ります キリスト教では此世界は正邪をさばく世界 神の意志実現の世界とすれば 浄土宗では仏の慈悲救済の世界 無限誓願の世界だと考へてゐます 唯凡夫と仏と不対応な世界には何処から我々が仏を求め何処から仏の呼声が出て来るか 場所の自己限定は我々の個に対し偉大なる仏の表現 切なる救の呼声です 君が「自己表現」について云はれた様に場所論理にては内在的即超越的なものからその自己表現として仏の御名といふものが出てくるのです 故に我々は仏を信じその御名を唱ふることによつて救われるのです 仏を観ずるなど云ふのではありませぬ 観ずることのできないものだから唯の名号を唱へるのである

「あの人」とは田辺元のことです。

12月22日

田辺の様な立場からは信によって救はれると云ふことが出て来ない つまり回心といふことの世界だ これが宗教的世界か 罪悪重々の凡夫が仏の呼声を聞き信に入る そこに転換の立場がなければならない これまで独りで煩悶してゐたが実は仏のほどころにあつた 仏の光の圏内に入つて仏に手を引かれて居ることとなる そこにはどうしても包まれるといふとこがなければならない


12月23日

場所の自己限定として我々が弥陀の光明に摂取せられる否せられて居る所に場所的論理こそ真に浄土宗教的世界観を基礎附けるものとおもひます 唯対立の立場からは入信といふことは考へられない 何処から歓喜の念が出てくるのでせう 唯 意志的努力的によつて仏に近づくと云ふなら それこそ唯 行の聖道門的宗教だ 否単に道徳ではないか


昭和20年1月6日

大拙の名号の論理 あれはとてもよいです 浄土真宗はあれで立てられねばならぬ あれは即ち私のいふ表現するものと表現せられるものとの矛盾的自己同一の立場から考へられねばならない そこが天地の根源 宗教の根源です 絶対現在の自己限定の底から仏の名号を聞くのです


1月8日

唯人間の迷だけから出立せねばならぬと(田辺ハ何処ニカウ云フコトヲ云ツテ居ルカ御存知ナラ知ラセヲ乞フ)田辺が云ふと云はれるが 唯の人間の迷から宗教があるのではない 相場師でも迷ふ 神があるから人間の迷があるのだ 凡夫との自覚は神の呼声ではないか 日本精神に論理がないといふがそれは西洋論理がないといふ事だ 生命のある所そこに論理ありだ

西田幾多郎は昭和20年〉6月7日に75歳で亡くなります。

西元宗助はこのように書いています。

西田幾多郎先生は、禅体験を基盤とした希有の哲人として周知の如く高く評価されている。しかし前述の書簡の一端にうかがわれるように、すくなくとも晩年の先生は、いわゆる禅とはいいがたいものがある。そこには心境の転換が看取されるようである。


「宗教心といふものそのものが自分からのものでなく 向かうのものでなければなりませぬ」
「観ずることのできないものだから唯の名号を唱へるのである」
「意志的努力的によつて仏に近づくと云ふなら それこそ唯 行の聖道門的宗教だ 否単に道徳ではないか」
「凡夫との自覚は神の呼声ではないか」
念仏によりどころを求めていたように思います。

西田幾多郎は明治44年に真宗大谷大学の講師をしているし、鈴木大拙は親友です。
務台理作も大正12年に大谷大学教授に迎えられています。

それにしても、西田幾多郎は手紙やハガキを毎日のように何通も出しています。
すごく筆まめです。

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