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巻き添え食ってたまるかよ

1956 ─ メルボルン五輪

2021-07-11 17:27:25 | メディア・芸能
オーストラリアのメルボルン=史上初めて南半球に招致された1956年夏季オリンピック大会は北半球では冬季にあたる11月22日~12月8日に開催された。イギリスとフランスが関与するスエズ動乱、ソ連によるハンガリー侵攻に抗議し数ヵ国が不参加。また中国も中華民国(台湾)の参加に抗議してボイコット、中国としての参加は1984年大会まで先送りされることになる。


オーストラリアの19歳、ベティ・カスバートが陸上女子200mでドイツ(東西ドイツが統一チームで出場)の選手を引き離す。100mと4×100mリレーも制しゴールデン・ガールと称された。


マラソンは戦争を経て独立する前のアルジェリア出身、アラン・ミムンが宗主国フランスに金メダルをもたらす。52年のヘルシンキ大会で5000・10000・マラソンの三冠に輝いたザトペック(チェコスロバキア)は6位。



競泳男子400m自由形のレース後、健闘をたたえ合う優勝のマレイ・ローズ(中央・オーストラリア)、2位・山中毅(日本)、3位・ジョージ・ブリーン(米国)。1500mも同じ3人が金銀銅。


競泳男子200m平泳ぎで大半を潜水泳法で泳いで優勝した日本の古川勝。この泳法は練習中に溺死の危険があるとして翌年に制限。こんにちのクロールやバタフライも元は平泳ぎをいかに速く改良するかという試みの結果であり、バタフライが五輪種目として独立したのもこの大会から。


体操の男子日本チームの活躍を伝えるアサヒグラフ誌面。団体総合で2位、小野喬が個人総合とあん馬で2位、鉄棒1位。しかし「ソ連」という略し方はいまになってみると奇妙な感じを受ける。


ハンガリーの伝説的なボクシング選手ラズロ・パップはロンドン大会のミドル級、ヘルシンキ大会のライトミドル級に続いて本大会でもライトミドル級を制し、ボクシングで3回オリンピックに優勝した初めての選手となった。翌57年プロに転向するが社会主義のハンガリー政府はプロ活動を認めず、国外でのみトレーニングと試合出場を行い、プロとしては無敗のまま引退。


1956年10月、ソ連の傀儡と化していたハンガリー政府に対し市民が武装蜂起するハンガリー動乱が起り、すぐさまソ連軍が侵攻し戦闘状態となってハンガリー側に17000人の死者・20万人の亡命者を生んだ。ソ連の蛮行は西側各国で報じられ、オリンピック大会でも各競技でハンガリー選手に声援が送られた。中でも水球の決勝ラウンドでは前回優勝のハンガリーとソ連が対戦して乱闘に発展、2得点を挙げたエルヴィン・ザードルが殴られて右目の下から流血したまま会場を去る写真が「メルボルンの流血戦("Blood in the Water" Match)」と報じられた。ハンガリーは予選から全勝し優勝。大会後、ハンガリー選手団100人のうち45人が西側諸国に亡命した。

 

【左】ハンガリー動乱、10月29日にはソ連軍が一時的に撤退し、優勢となった市民側が共産党ブダペスト地区本部から出てきた秘密警察員をリンチにかけて遺体を樹に吊るす動きがみられた(画像の遺体は秘密警察の大佐だという)。【右】鳩山一郎に続く新総裁を決める自民党大会が12月14日に行われ、東洋経済新報の社長を務めた開明派で中国との国交回復を目指す石橋湛山がわずか7票差で戦時の有力閣僚でA級戦犯から公職復帰を果たした岸信介を破る。しかし翌年病に倒れ首相の座は「昭和の妖怪」に転がり込むことに。ウソと欲にまみれた2度目の東京オリンピックにつながる痛恨の歴史である。
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