山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

筑波山登山の記(第24回)

2014-04-13 20:58:23 | 筑波山登山の記

<第24回 登山日 2014年4月12日(土)>

 今年の登山も12回目となり、昨年の5月からの12回と並んだ。通算計24回となる。3月の穴を埋めるべく、少しハイペースの登山間隔となったが、体調の方は回を重ねるごとに慣れて来ているようで、ふくらはぎの痛みも次第に減少して来ているのはありがたい。今回も白雲橋コースである。

 今日は土曜休日なので、日中は混むのではないかと考え、一般の方が登り始める頃には終わらせようと考え、久しぶりの暗闇登山を敢行することにした。家を3時10分に出発する。まだみんな眠りの中なのだが、国道294号線は、物資を運ぶトラックが断続的に走っている。その中に混ざって、事故などに巻き込まれないようにと注意しながら車を走らせ、いつもの駐車場に着いたのは4時丁度だった。さすがにこの時間では登山者も少ないようで、先着らしき車は1台だけだった。

 筑波山神社の右脇を登って、登山口に着いたのは4時20分だった。さあ、ここから登山の開始である。今日はカメラ撮影も巨石・奇岩の観察も行わずに、ひたすら登山のことだけに集中して往復することにしている。何時ものリュックよりも小さなリュックに着替えと小さいペットボトルの水だけを持ってきただけでの軽装で、あとはいつもの自製の金剛杖だけである。頭にヘッドランプを点けているのは勿論である。このコースの暗闇登山は初めてなので、慎重に歩を進める。

 このコースの女体山頂上までの標準所要時間が2時間だというので、それより少し早いペースで登り、6時頃に山頂に着けばご来光を拝むのも可能かなどと考えながら、ひたすら登り続ける。50分ほどで弁慶茶屋跡に着いたのだが、まだ5時を少し過ぎたばかりなのに、どうやらもう日の出は間近かいらしく、東の方が赤く染まり出した。えっ、こんなに早くなっているの!と、ちょっとの間に夜明けも日の出も、もう夏のそれにぐんと近づいているのを知り、驚かされた。5時20分に国割り石に着いた時は、太陽は既に顔を出し、樹間の向こうにボワッと霞んで見えた。あと30分早く登り出ださなければ、ご来光を見るのは出来ないのだなと思った次第。

   

日が昇って間もない頃の樹間の太陽。下に輝いているのは、霞ヶ浦。春霞の日の出はこれからしばらくは鮮明さは期待できないようだ。

 国割り石の辺りの巨岩・巨石のある場所からは頂上はもう直ぐで、そこからは何だか元気が出てきて、坂を坂とも思わぬペースで、一気に頂上まで登ってしまった。時計を見たら5時45分だった。これは95分で登ったことになる。早いペースでの登山は避けるようにしているのだけど、今日は無理をしなくても標準よりも早く登れたので、少し足に自信が持てる感じがして、真にありがたい。

今日の山頂には、何故か外国からの若者たちのグループが先着していて、賑やかに英語で談笑していた。筑波大学辺りに遊学している人たちなのかもしれない。どこの国でも、若者たちの会話は笑顔と一緒で、他愛ない内容が殆どである。ま、自分たちが若い頃もそうだったなと、懐かしく思ったりした。

 登山の証拠のご本殿の写真を撮って、直ぐに折り返して下山を開始する。登りよりも下りの方が自分は苦手である。というのも、若い頃からかなり膝を痛めて来ているので、下りの足の使い方を誤るなどして、一発膝に衝撃が来たりしたらとんでもないことになりかねないので、慎重にならざるを得ない。とても飛ぶように降りるなどという真似は出来ない。それでもただ下りるということだけに集中しているので、何時もよりは足の運びの道筋が見えて来て、かなり早く下山を終えることが出来た。登山口到着6時50分。丁度60分で下りて来たことになる。そこから駐車場までは1.5kmほどあり、15分ほどで車に戻り、帰途に着く。

 今回の記録はこれだけである。本来の登山というのは、つべこべ言わないで、ただ黙って登り、下るというのがその姿ということなのであろう。今日は無心に返っての登山だったように思う。今月はあと数回はチャレンジしたいと思っている。

   

今日の登山の証明写真の女体山ご本殿。このご本殿は、正面から撮るのが難しいため、上から見下ろす姿になってしまう。神様に申しわけなし。

 

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筑波山登山の記(第23回)<筑波山の巨岩・奇岩>

2014-04-11 21:59:08 | 筑波山登山の記

<第23回 登山日 2014年4月10日(木)>【筑波山の巨岩・奇岩】

 一日置いての登山となった。前回は定期受診の直前の登山だったため、以前の御幸ヶ原コースからのカタクリ探訪中心の登山だったが、今回は再度白雲橋コースに戻り、このコースでは2度目のチャレンジとなった。最初の時は多少の不安もあって、とにかくコースの様子を確認しながら登ったのだったが、今日は前回初めてお目にかかった、たくさんの巨岩・奇岩をじっくりと見てみたいと思っている。それに、カタクリやキクザキイチゲの他にも何か新しい野草に出会えたらいいなとも思っている。

 今回も4時45分と、早朝の出発となった。予報ではかなり気温が上がるということなので、登山は早い出発に越したことはない。何しろ登山口まで1時間以上かかるので、出発は暗くても到着時は日の出近くになってしまう。もし、登山口近くに住んでいたら、毎回頂上でご来光を拝めるのになあ、などといつも思う。それにもっと近くだったら、毎日の歩きの代わりに、毎日登山が出来るのになあ、と思ったりしている。いつ登っても、必ず途中で出会う人もおられるので、その方は恐らく毎日登っておられるのではないかと思う。もしそれが出来たら、糖尿病なんて、あっという間に克服出来てしまうのではないか。そんなことを思ったりした。

 5時半少し前に駐車場に着いて、そこから登山口までは20分ほどかかった。白雲橋コースと呼ばれているが、その白雲橋がどこにあるのか判らない。神社の脇に砂防ダムが築かれており、その下に名前の表示のない小さな橋があるのだけど、もしかしたらこの橋が白雲橋というのかなと思ったりした。筑波山には橋が必要な場所があるようには思えず、不思議な思いにとらわれている。何れ判明する時が来るのであろう。

 登山口には小型の石の鳥居が建っている。勿論筑波山は信仰の山だから、この鳥居は女体山のご本殿に向かう案内の目印ということなのであろう。直ぐ脇に民家があり、こんな急坂の脇で暮らすのは、大変だろうなと思った。ま、住んでしまえば坂道などどうってことは無いのかも知れない。長崎や尾道の人たちのことを思い出したりしてしまう。その鳥居を潜ってしばらくは舗装仕様の階段を歩き、酒迎場分岐というつつじヶ丘方向へ向かう道と別れて左折し、しばらく登ると白蛇弁天があった。先回は後ろ側から写真を撮っただけで通過してしまったので、今回は表側に回りちゃんとご挨拶して行くことにした。それにしても白蛇というのは全国の至る所に出没するようで、人間はそれをありがたいと敬い、弁天様にして祀り上げて、財貨の恵みを願ったりしてしまうのだから、考えてみれば、愛すべき存在ということなのであろう。この地の白蛇は、今ごろはどの辺りに潜んでこの社を守っておられるのだろうか。もはや財貨欲などからは遠くなっているジサマは、無心にこれからの登山の安全を願って祈っただけである。

 白蛇弁天を過ぎてからは、だらだら坂というのか、急なだらだら坂というべきなのか、杉林にモミの木が混ざる樹間に、どこまでも似たような石と根っこの混ざった急な坂道が続いている。このような連続は結構厳しい。一歩一歩を踏みしめながら、ゆっくりと登り続ける。1時間ほど登り続けていると、いつの間にか杉君たちの林が終わって、ウラジロ樫の多い樹林帯に変わった。その辺りから登山道の方も下りの混ざった登りとなり、歩きながらも一息つける道となった。もうここまで来れば弁慶茶屋跡は間近かだ。このコースでの登山では、これからは、このだらだら急坂をどう登るかが、課題だなと思った。

 弁慶茶屋跡の少し手前の道脇に小さな沢のような箇所があり、そこにニリン草の群落があるのを前回確認しているのだが、前回は殆ど花を咲かせておらず、もう終わったのかなと思ったりしたのだが、今日見てみると小さな純白の花が一面に群れ咲いていた。今が最盛期らしい。帰りにカメラに収めることにして、先に進む。直ぐに弁慶茶屋跡に到着する。汗をぬぐって一息いれて直ぐに出発。

 ここから先は今日の目当ての巨岩・奇岩の連続である。標高は既に700mを超えているのではないかと思う。筑波山には巨岩・奇岩が多いが、特にこの辺りに集中しているらしい。今日はそれらをカメラに収めるつもりでいるけど、写真を撮るのは帰りにすることにして、取り敢えずどこから撮ったらいいのか、撮影のポイントなどを確かめながら行くことにした。直ぐに弁慶七戻りがあり、その少し先に高天原があり、更に進むと母の胎内潜りという場所、それから陰陽石、国割り石、出船入船、裏面大黒、北斗岩、大仏岩と続いている。大仏岩の直ぐ上が女体山の頂上であり、そこからは右手をぐるっと回って10分ほどで到達できる。頂上到着7時40分。登山口から110分かかっての登山は、このコースでは少し遅いというところか。競争心など全くないので、あくまでもマイペースである。山頂は無人だった。今日も大気全体が霞んで膨れ上がっており、眺望はよくない。富士山も日光男体山も全て霞みの中である。久しぶりに汗を掻いたので、着替えを済ます。カメラを取り出して、ここからは撮影しながらあの下山となる。

 先ほどの道を慎重に下山開始。女体山の方が岩場が多くて厳しい。巨岩・奇岩が多いというのは、その分足場に岩石が多いということになる。このような場所の下山には自製の金剛杖(?)がその威力を発揮する。180cmほどの樫の枯れ枝を見つけて、その皮を剥いで、ニスを塗ったものなのだが、岩場を降りる時の支えとして重宝している。右手にカメラを提げているので、今日は左手を多く使っての杖遣いとなった。杖は、使い込むことで次第に自分の力となって来てくれているのが、この頃ようやくわかるようになった。間もなく大仏岩の下に到着。………、以降順次巨岩・奇岩の写真を撮りながら下山し、麓の登山口に到着したのは9時40分だった。20分ほど歩いて駐車場に戻り、帰途に着く。巨岩・奇岩について、引き続き紹介したい。

 【筑波山の巨岩・奇岩】 

 筑波山は火山ではない。隆起した深成岩が風雨で削られて出来上がったものらしい。しかし、深成岩というのはマグマが固まってできる岩石なのだから、隆起する頃は火山活動があったのかもしれない。太古の地球のことは、興味はあっても想像を超えた世界なので、知るすべもない。現在の関東平野に進出して来た八溝山系の膨らみの最南端に位置する場所が筑波山の原点だったということなのであろうか。いずれにしても深成岩を代表する花崗岩が主体になって形成された山なので、風化浸食によって生まれた巨石・巨岩がたくさん見られるのは、自然の成り行きということになるのであろう。山全体が巨大な花崗岩の塊なのだと考えると、屋久島を思い出してしまう。屋久島は離島なので、花崗岩の風化浸食された場所に、独自に育まれた生態系を持っているけど、筑波山は、それとは違った植物や昆虫などの生育帯があるのかもしれない。昔からよく知っている山なのだけど、実のところは知っていたのは山の名前だけで、この歳になるまでその実態は何も知らなかったのである。これからの登山を通じて、少しずつこの山についての見聞を広げてゆきたいと思っている。

 ということで、今回は白雲橋コースを登り始めて、初めて知った巨岩・奇岩の幾つかを紹介したい。このコースはTVなどでよく紹介されているので、ご存知の方から見れば「何だ、あれか」ということになるのは承知の上である。全部で9カ所を取り上げるけど、山頂から下る順に並べてある。

<大仏岩>

     

高さが15mの自然が作り出した仏像である。その荒々しい造りっぷりは、人間の造り出す仏の姿よりも逞しく映る。仏の慈悲に満ちたこころというのは、真の強さに由来するのかもしれない。大自然は、そのことを教えようとここに姿を表現したかのようだ。

 <北斗岩>

     

北斗とは、北斗七星のことであり、天空の北の中心にあって不動の存在というイメージからこの岩の名前が付けられたようである。5mを超えようかという巨岩が天空に不動の形で聳え立つのは、これまた大自然が作り出した造形モニュメントの一つであろう。

 <裏面大黒>

     

何ともまあ、愛嬌のある名称であり、又それに相応しい形をしているのが面白い。大黒様の後ろ姿を拝したことは一度もないのだけど、確かにこのような格好に違いないように思う。よくもまあ、このような楽しい姿をつくり出したものだと、真に以って大自然の力というのは不思議である。

 <出船入船>

     

説明板を読むまでは何のことかわからなかった。そこには「元来『熊野の鳥居石』といわれ船玉神を祀り、石の姿が出船と入船とが並んでいるように見えることから呼ばれている」と書かれていた。熊野に船玉神社があることは知っているけど、この石が何故熊野の鳥居石なのかが良く解らない。しましまあ、出船入船とはよく言ったものだなあと感嘆せずにはいられない。

<国割り石>

     

ちょっと目には、庭に適当に並べられた大小の石としか思えないけど、説明によると、諸神がここに集い、この石の上に線を引き神々のゆくべき地方を割り振ったと書かれていた。古事記の国生みの話に連なる古からの言い伝えのようだけど、何だか眉唾ものに思えるのは、素直でない証拠なのかもしれない。

<陰陽石>

     

このような形での陰陽石というのはあまり見たことがない。陰陽とは、中国古来の思想で、万物は陰と陽の気質でバランスをとって出来上がり動いているという考え方だが、身近ではプラスとマイナス、男と女などがすぐに思い浮かぶ。この石のどれが陰でどれが陽なのか判らないけど、何かを暗示しているには違いないなと思った。

<母の胎内潜り>

     

巨岩の祠(ほこら)の中に潜り抜けるのを邪魔している石が嵌っており、そこを潜りぬけることによってもう一度生まれた姿に戻れるという、修験道の修業の場の一つになっているとか。巨岩の圧力を感じながら敬虔な気持ちで狭い空洞を潜ることが、現世の汚れを拭い去って、新たな出発につながるのだという考えは、それなりに首肯できるものがある。でも、自分はもう生まれ変わらなくてもいいと思っているので、ここを潜る気持ちは湧いては来なかった。

<高天原(たかまがはら)>

   

高天原がどのような世界なのかはわからないけど、神様たちが住む世界であることくらいは承知している。下界を見下ろせる小高い岩場がここではそれらしい。両側に巨岩が迫る細い坂道を登ると、右側に視界が開けた小さな広場があり、そこには天照大神を祀る稲村神社というのが建っていた。それらの関係はさっぱり判らないけど、神様というのは、全国至る所に分身を派遣して、超忙しいのだなと思ったりした。

<弁慶七戻り>

   

これは前回にも掲載したのだが、今回は反対側から撮ったのを掲載した。光が樹木たちの葉影を映して少しわかりにくいものとなったが、巨石が岩を塞いでいるのが判ると思う。さすがの豪の者の弁慶も通るべきかどうかと七度もためらったということで名が付いたというが、本物の弁慶さんなら決してためらい迷う様な事などするはずがないなと思った。この呼び名は、弱虫の言い訳のように聞こえて、弁慶さんの名誉を回復すべきではないかと思った。

 

以上、今回は9カ所の巨岩・奇岩を紹介させて頂いた。筑波山にはこの他にもまだまだ幾つかの巨石の不思議な存在があるのだと思う。まだ2コースしか登っていないので、これから順次訪ねて、回り逢うのが楽しみである。

 

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筑波山登山の記(第22回)<カタクリの花のこと>

2014-04-09 22:09:23 | 筑波山登山の記

<第22回 登山日 2014年4月8日(火)>【カタクリの花のこと】

 今月2回目の登山である。2日の登山の時にカタクリが咲き始めたのを知り、本当はもっと早く登ろうと考えていたのだが、所用があったり天気が崩れたりして、延びてしまい、あっという間に一週間近くが過ぎてしまった。筑波山の御幸ヶ原の少し上の方にカタクリの里というのがあり、カタクリが自生しているというのは知っていたのだけど、昨年登山を開始した時は既に開花期は終わっており、花を見ることが出来なかったので、今年は何としても見たいと意気込んでいるのである。今日は持病の定期受診日であり、本当は登山を控えるべきなのかもしれないのだが、予約が11時15分しかとれなかったため、それまでの時間がもったいないと思い、先に登山を済ませてから受診するのもいいのではないかと勝手に決め実行することにした。11時前にクリニックに着くためには、6時半までには登山を開始しなければならないと逆算して、今日は前回のコースを止めて、以前のコースに変更して登ることにしている。その方が登りはきついけど、距離が短いので、往復では30分以上時間にゆとりが持てるからなのである。

 ということで、家を出たのは4時40分頃だった。家を出る時は未だ夜だったけど、それでも夜明けの兆しはあって、何となく東の方が明るみかけていた。途中から夜が明け始めて、いつもの梅林の駐車場に着いた5時半少し前は、もはやヘッドランプなどは無用の明るさとなっていた。ちょっとの間に夜明けが急に早まった感じがした。日の出は6時近くになっているのかもしれない。

 先回は違うコースだったので、たった1回だけの実績なのだが、何だか懐かしい感じがするのは、どういうことなのだろう。何時もの登山口に来て時計を見たら5時42分だった。当初の目論見が6時だったので、それよりもかなり早い出発となった。計画を立てると、常に前倒しにしなければ気が済まないという習性は、サラリーマン時代の悪癖なのだと思うのだが、リタイア後10年以上も経っているのに、それが未だに抜けないというのは、もしかしたら、これは生まれつきの習いなのかも知れないなと己を呆れ返って思ったりした。

 なれた道を淡々と登り続けて、中間点を過ぎ男女川源流地点を通過して、間もなく御幸ヶ原に到着。その少し手前の道脇にニリン草の群落があり、そこに交じって幾つかのカタクリが花を咲かせていた。脇の方にはキクザキイチゲの花も見られた。まだ日の出から時間が経っておらず、寒いので花を開いているのはほんの少しで、花びらを細くしてうなだれている姿がいじらしく思えた。御幸ヶ原に出て、休まずにそのまま男体山の頂上を目指す。その途中にもカタクリやキクザキイチゲの花を幾つか見ることが出来た。筑波山の現在では、標高800mくらいの地点が、これらの植物の開花の目覚め時となっているようである。山頂のご本殿に参詣し、裏手の岩場で汗をぬぐい、カメラを取り出す。ここから先しばらくは、景色や野草たちを撮りながら下山までの時を過ごすことにした。今日は望遠レンズを着装してリュックに入れて持参している。

 一息いれて下山を開始する。御幸ヶ原に下りるまでの間にカタクリやキクザキイチゲの花を何枚かカメラに収めた。日が差して来て空気も暖まり始めたためなのか、花たちは敏感にそれに応えて表情を明るくしているのを感じた。カメラに収めるのにちょうどよい状態で生えているのが少なくて、2本以上の株の花をまとめて撮るのは難しく、どうしても一株だけの花を撮ることになってしまう。特にカタクリは滅多に並んで咲いていないので、撮るのが難しかった。

 御幸ヶ原に出て、今日のメインの目的である、カタクリの里に向かう。御幸ヶ原から女体山に向かう坂の入口付近に、ロープで囲われた300坪ほどの林の下の草地がカタクリの自生地のようで、そこがカタクリの里と名付けられた名所らしい。丁度今はカタクリの花まつりということで、何本かの幟(のぼり)が風に翻(ひるがえ)っていた。で、肝心のカタクリはといえば、まだ寒さで眠っているものが多いようで、花を咲かせているのも開いているのは少なく、昼頃になれば賑やかになるかなという感じの状態だった。草地一面がカタクリの花で赤紫色に染め上げられるというレベルには行かないけど、それなりにカタクリの里と呼べる場所のようには思えた。しかし、草地の一部が異常に掘り起こされて、カタクリの花が踏みつけられている箇所が二つもあり、これは一体何なんだ!と思った。ロープで囲われている内側の場所なのだから、幾らなんでも関係者が今時このような作業をするはずはない。しかも花の密集度が高いような場所が掘り起こされていたので、これはイノシシの所業に違いないなと思った。そういえば筑波山のイノシシが増えているという話を聞いたことがあり、この里が彼らの絶好のターゲットとなってしまったのかもしれない。カタクリの根が彼らの好物なのかは知らないけど、人間だってその昔はこの根からでんぷんを抽出して食料にしていたのだから、イノシシたちにもそれを嗅ぎわける本性が備わっている筈である。こりゃあ困ったことになるのではないかと思った。花を楽しむよりもそのような獣害のことが心配になったりして、複雑な心境で何枚かのカタクリをカメラに収めたのだけど、自信はない。

     

筑波山御幸ヶ原近くにあるカタクリの里の花まつりの幟。この道の左右がカタクリの群生地となっている。

     

カタクリの里の花の様子。まだ日が昇ってからあまり時間が経っていなくて花たちは今日の活動を始めていない感じだった。それなりに点在しているのが判ると思う。

     

イノシシが荒らした跡。とんだ花園への乱暴狼藉である。ここの他もう一カ所荒らされている場所があり、これから先が心配である。

 20分ほどをカタクリの里で過ごして、下山を開始する。しばらくはカメラをそのまま持ったまま道端の野草たちを撮ることにした。先ほどの里の花よりも、こちらの方が写しやすく、何枚かをものにした。それらの花の中で、一つだけ名前の知らないものがあり、登ってきて写真を撮っている方に訊ねたのだが、やはり知らないとのこと。草丈が10cmほどと低く、花の形も小さな白い集合化で、ちょっと見にはイブキジャコウソウに似た姿形をしている。しかし、花の色は違うし、この花の方が花数が多いように思えた。拡大鏡を持参していなかったので、花を覗くことが出来ず、確認できなかったのが残念。(帰宅後図鑑を調べたら、ハルトラノオと判った。)この外、ミスミソウなども小さな花を咲かせており、久しぶりの野草たちにも逢えて、満足しながらの下山だった。ゆっくりと降りて、9時半過ぎ駐車場に戻る。その後クリニックを受診して帰宅したのは13時少し前だった。受診前に登山をしたというのは初めての経験だったが、一つの自信になったことは間違いない。糖尿病の場合は、このようなことが可能なので、これからもチャレンジして行きたい。

     

下山の途中で見たカタクリの花。花びらがツンと反りかえって咲いている様は、穏やかさよりも気性の激しさのようなものを覚えさせる。

     

カタクリの花たちとほぼ同じ場所に咲いていたハルトラノオの花。草丈が10cmくらいの小さな植物で、うっかりすると見落としてしまいそうな存在である。良く見るとなかなか美しい花を咲かせている。

【カタクリの花のこと】 

 今回初めて筑波山のカタクリの里を訪れて、久しぶりに群れ咲く花たちを見たり、或いは登山道脇に何気なく咲く花を見て、カタクリのことについて少し書いて見たい。

 私がカタクリという植物があるというのを初めて知ったのは、子供の頃に、片栗粉を使って調理をする母から教わったように思う。もうその時は片栗粉がジャガイモでんぷんだというのは知っていたのだけど、何故片栗なのかを疑問に思ったからだった。母の話では、昔はカタクリという植物の根からでんぷんを採って食べていたので、片栗粉というのは、そこから来ているのだという。今ではジャガイモから採れるでんぷんが主流になっているので、それを片栗粉と呼ぶようになったのだと。しかし、片栗粉は知っても、その後ずっとカタクリという植物を見たことはなかった。戦後引っ越しして来て育った、茨城県の北部の常陸大宮市の片田舎の家の近くの山野には、カタクリという植物は自生してはいなかったのである。

 カタクリの花を初めて見たのはいつだったのだろう。図鑑を見てそれがどんなものかは知っていたけど、本物に逢わない限りは、なかなか覚えるものではない。どこかの園芸の店などで販売されているのを見たのが初めてだったのかもしれない。それが、いつどこだったのかはさっぱり覚えてはいないのである。そのようにして少年期から青年期に入り、壮年期を迎えても花などのことはさほど関心事ではなかった。それが次第に野草たちに注意を向けるようになったのは、糖尿病を宣告されて、歩くことを余儀なくされてからだった。ただ歩くだけではつまらないので、歩きの時間を使って道端の野草たちの名前を覚えることにしようと決めたのである。普段何気なく見ている道端の雑草と呼ばれる草たちにもちゃんと名前はあり、それなりの個性があるのである。図鑑を頼りに彼らの名前を片っ端から覚えることに努めた結果、やがてかなりのところまで彼らの名前を覚えることが出来たのだが、何しろ植物界には無数といっていいほど彼らが存在しているのである。とても覚えきれるものではないが、しかし、野草たちへの関心だけは並々ならぬものとなり、それは今でも消えることはない。そのようなことを経験していると、やがては野草たちの方から、その存在をアピールして来てくれるようになるのが不思議である。例えば、図鑑で見て、是非逢いたいなと一途に思い込んで探すと、ある時その野草の方から自分の前に現れてくれるのである。それは車で全国を旅して歩きまわるようになって、初めて知った不思議な体験なのだ。カタクリもその一つだったと思う。

 カタクリの花は北国に多く、そこに住む人たちにとっては、山に入ればどこにでも自生している野草なのである。都会に住む人にはその気にならない限りは滅多に見られない花ではないかと思う。私がカタクリに出会って、強烈なインパクトを受けたのは、十数年前くるま旅を始め出した頃、東北の春を訪ねていた時に、秋田県の大曲市近郊の山の中だったと思う。「だったと思う」というのは、その後もカタクリが谷を赤紫色に染めて群生している場所を何カ所か見ているので、その当時はデジカメもなく、しっかり記録を録っていなかったため、記憶が混雑してしまって場所を確定できないからなのである。とにかくその頃はくるま旅を初めて間もない時であり、足にまかせてどこでも構わずに走り回っていたのだが、うっかり道を間違えて山奥に入り込んでしまった時に、思いもかけない場所でそのカタクリたちに出会ったのだった。車で走っていると、カタクリやキクザキイチゲなどが咲いていても、殆ど気づかずに見落とすことが多い。よほどたくさん咲いていないと目には入らないのである。しかし、赤紫色が谷を染めているような場所に出会うと、一体何だろうと車を止めずにはいられなくなるのである。

 いやあ、あの時の感動は忘れることはできない。今までに見たどんなカタクリの名所などよりもはるかに抜きん出たカタクリの群れ咲く天国だった。ほんの少しの花を見ている限りは、その昔この花の根からでんぷんを取り出したなどと到底想像できないのだけど、谷を埋めて群生しているカタクリを見ると、片栗粉が嘘ではなかったことが確認できたのだった。その後、群生して他場所を訪ねていないので、今どうなっているのかは分らないのだが、そのまま残っているとは思えず、いつもカタクリの花を見る度にあの場所を思い出すのである。

 東北の春を旅していると、道の駅の売店などで、様々な山菜類に混ざって、カタクリの花が食用にと束ねて売っているのに出会うことがある。都会の人たちには想像もつかないことだと思うけど、地元の方たちはカタクリの花を茹でて酢のものにしたり、吸い物に入れたりして食するのである。美味というわけにはゆかないけど、優雅な珍味といったところか。いつだったか、青森県の道の駅では、リュウキンカの花も食用として売られていたのには驚いた。リュウキンカというのは、水生の植物で、春に黄色い花を咲かせるのだが、これを食べるとは凄いなと思ったものである。カタクリなら花を食べるのに抵抗は少ないのだけど。

 ところで、カタクリの花というのは不思議な形をしているなと改めて思う。優雅な色合いなのだけど、花びらの形からは、実はよく見るとある種の不気味さを感じさせられることがある。何故なら、花びらが反りかえって上を向いており、それは怪しげな女性が髪の毛を振り上げた形相を呈しているかのように見えるからである。花芯部のおしべやめしべを顔とみなすと、妖女の般若面のようにも思えて、気持ちがちょっと後ずさりしてしまいそうになる時があるのは、自分だけなのだろうか。

ここ数年、東北の春を訪ねる旅に出掛けていない。大震災の影響もあって、遠慮がちだったこともあるけど、今年こそは是非出掛けようと思っている。カタクリたちにも是非逢ってみたい。デジカメを活用するようになってからでは、2005年に秋田県の西木村(現仙北市)の赤倉クリ園という所のカタクリの群生が一番記憶に残っている。この連休明けでは、もう開花期は終わってしまっているかもしれない。でもちょっと覗いて見たいなと思っている。

     

2005年5月に西木村(秋田県仙北市)の赤倉クリ園を訪ねた時のカタクリの花たちの様子。この時は既に開花が終わりかけていたので、あまりいい写真ではない。広大なクリ園の下を埋めるようにびっしりとカタクリが群生していた。

筑波山のカタクリの里は、小さい分だけこの山にとっては貴重な存在なのだなと思った。イノシシ君たちの食料の標的となってしまったことに対しては、何か強固な対策を講ずる必要があると思う。どこがそれを担当されるのかは判らないけど、早急に対処して欲しいと願っている。あれこれ、カタクリの花について思いつくままを述べた。もう2~3回は筑波山のカタクリの花を楽しみたいと思っている。

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筑波山登山の記(第20回)

2014-03-29 02:05:19 | 筑波山登山の記

<第20回 登山日 2014年3月28日(金)>

 今月はずっと登山の機会がなく、今日が初めての登山日となった。というのも、今月は孫の誕生を控えており、出産の予定日が月末の31日ということだったので、いざという時に備えて在宅を厳守するという体制を月初めからとることにしていたからである。それが、21日に無事に孫の誕生を迎え、その後ドタバタしている内に数日が過ぎて、ようやく今日を迎えることが出来たという次第。この間、一応は歩きの鍛錬を続けていたとはいうものの、やや甘い内容となりつつあったので、さて、無難に20回目の登山を完了できるのか、不安は拭えない。

ところで、筑波山の登山を開始してから今回でちょうど20回目となる。三浦雄一郎さんの80歳にしてのエベレスト登頂チャレンジの話に感化されて、歩行鍛錬を開始したのが昨年の今ごろだった。登山の開始は5月からだったが、その1カ月前からの歩行鍛錬は決して無駄ではなく、初めての登山時もさほど筋肉の痛みなどは覚えなかったが、あれから1年が経過して、衰えていた我が身の随所の筋肉も少しは老化のスピードを弱めてくれているのを感じている。今でも歩行鍛錬は続けているけど、最近は歩く楽しさが増したようで、鍛錬とは思わぬようになり出している。登山の開始以来ずっと同じコースばかりを歩いているので、20回が済んだら次回からは別のコースにチャレンジする考えでいる。筑波山登山には幾つものコースがあるようで、その昔は修験道の鍛錬場所でもあったから、その実は無数と言ってよいほどの登山道があるのかもしれない。主なものとして6コースくらいあると聞いているので、これからはそれらの内の幾つかを味わいながら歩いて見たいと思っている。今までの筑波山神社脇ケーブルカー乗り場側からのコースは、今日を区切りとしてしばらくはおさらばということにしたいと考えている。

朝3時過ぎに目覚めて、玄関を開けて外に出て空を見上げたら幾つかの星が煌めいていた。寒さは覚えず、暖かさの方が勝っているような空気だった。出発前の車の窓ガラスは夜露に濡れていて、拭き取らないと運転ができないほどだった。昨日の雨の天気が一層の温かさをもたらしてくれているのだなと思った。それはまあ良かったのだが、3時40分頃出発してしばらく走ると、霧が視界を妨げ出したのには困惑した。小貝川に架かる橋を渡ってつくば市に入る頃が最悪の状態で、ヘッドライトの先はいつもとは全く違う霞んだ景色が広がっていて、スピードを落とさないと危険だと感じた。そのような状態が筑波山麓の駐車場に着くまで続いた。4時40分、いつもの梅林駐車場に到着。

まだ暗いので、ヘッドランプを装着して出発。登山口には5時ちょうどに着いて、いよいよしばらくぶりの登山の開始となる。このコースも今日が区切りとなるので、一歩一歩を味わいながら歩くというつもりで歩を進める。と言っても、暗いので周囲がどうなのかを見ることはできない。30分ほど歩いて、中間点近くになった頃ようやく夜が明けたらしく、ヘッドランプは不要となった。足腰の方は異常なし。大丈夫である。大して汗も掻かないのは、体調が良いのか、悪いのか良く分らない。良いことにしてそのまま歩き続ける。無心に歩いていると、疲れを感じなくなるのは不思議な感覚である。6時15分、御幸ヶ原に到着する。誰もいない。既にご来光は終わったようで、太陽は女体山の山かげにあるようだけど、空気全体がボヤっとしているので、視界はよくない。女体山も霞んでいる。女体山山頂を目指して歩き続ける。

その途中にカタクリの自生地があり、見学コースがつくられている。昨年登り始めた頃は既に開花期が終わっており、まだ一度もここで花を見たことは無かったので、今年は咲くのを楽しみにしている。そこをちょっと覗いてみた。先日、新聞にカタクリの開花の紹介記事が出ていたので、どんな按配か見たかったのである。そこにはもう既に花が咲きだしているような書きぶりだったが、実際に見てみるとどんなに注意深く探しても花など全く咲いている気配はなく、僅かに葉だけが数カ所見られる程度だった。でも葉が出ているのだから、開花は間もないと言っていいのであろう。4月初めくらいになれば見られるのかもしれない。楽しみである。6時半丁度、女体山山頂に到着。

     

御幸ヶ原の少し上の方にあるカタクリの里の様子。枯葉の間からカタクリの葉が顔をのぞかせていた。これほどの大きさのものは他には殆ど見当たらず、開花まではあと1週間以上かかるのではないか。

山頂からの眺めは諦めてはいたものの、予想以下の状態で残念。それでも持参したカメラを取り出して、神社の御本殿などを撮る。カメラは、先日一眼レフのデジカメを買ったので、その練習にとリュックに入れて背負ってきたのである。ファインダーなしのカメラでは、被写体を確認できないことが結構多いので、やはり一眼レフでないとダメだなと思っていた。小遣いをためて1年くらいの後に何とかしようかと考えていたのだが、カミサンにそのことを話したら、「楽しみは生きている内だけなのだから、すぐにでも買ったら。お金出してもいいよ」などと言われてしまい、その気になって買ってしまったのである。もうこの歳になると、「あとで、……しよう」はダメだな、などと常日頃から言っていたのが効いたらしい。ありがたいような、心配なような、ちょと複雑な心境だけど、確かに生きていられるのも、いろいろ活動できるのも、せいぜいあと15年足らずだろうと思っている。買ったからには、それなりの楽しみを急ぐべきだと、昨日まで取扱説明書を読み漁って、今日の本番となった次第。でもこの天気では、……。

     

今日の女体山山頂の御本殿の様子。写真のサイズを小さくしたため鮮明度が欠けるものとなってしまった。なにしろ2410万画素もあり、最小サイズでも6MBもあるので、これからはいつもサイズダウンの手間をかけることになりそうだ。

     

女体山山頂付近からの今日の筑波山からの眺望。ロープウエイつつじヶ丘駅の向こうの山並みの上方に見える筈の霞ヶ浦は霞んで見えなかった。この写真だけがサイズダウンを免れた。

山頂で数分休んだ後、カメラを抱えてゆるりと下山を開始。途中ガマ石やセキレイ石などの巨岩を改めて撮りながらの下山だった。御幸ヶ原まで下りて、今まで案内板しか見ていなかった、紫峰杉というのを見に行く。筑波山には何本かの杉の大木があるのだが、その中でもこの杉がナンバーワンのものらしい。今までは脇道するのが嫌で、ちらりと立札を見て通過していたのだが、よく見るとここから1分と書かれていた。確かに直ぐ近くにその樹はあった。巨木である。しかも幹のすぐ上近くで枝がわかれて上に伸びており、それが太いのである。更に上方でも枝が幾つかにわかれており、一種異様な厳かな雰囲気のある樹だった。樹齢が800年と推定されているとか。カメラには収まらない大きさだった。

     

紫峰杉の雄姿。この画面では杉の樹の大きさが判らないのが残念だ。紫峰とは、筑波山の別称とか。荘厳さを感じさせる大木である。

その近くに男女川の源流地を示す筑波山神社の案内板があった。今までの登山コースの途中にも男女川の源流を示す場所があったが、こちらの方が本物だなと思った。大木の生命を育てたのがこの水なのかもしれない。確か、北上川の源流地点に行った時にも、大木の傍の小さな井戸のような箇所がそれなのだと書かれていたのを思い出した。水と巨樹とは生命のやり取りに深い関わりを持っているのだなと、改めて感じた。近くにはブナの大樹もあり、筑波山にはまだまだ訪ねなければならない場所が幾つもあることを教えられたのだった。

     

紫峰杉の脇にある男女川源流地点。男女川は、ここを源として筑波山を細く流れ落ち、やがて桜川に注ぐとあるけど、その先どこへ流れゆくのか知らない。貴族の恋の歌が有名だけど、淵のようなものがあるとは思えず、自分には幻の川のように思える。

御幸ヶ原の下山開始は7時10分頃。麓のケーブルカー駅に到着したのが8時15分と、いつもより遅いペースでの下山となった。ケーブルカー駅の脇の福寿草園はどうなっているのかなと覗いてみた。もうすっかり逞しい若葉が出揃っていて、花の方は殆ど終わっていた。もう一カ月も経ってしまっているのだから、当たり前なのだけど、確実に春は本格化し、福寿草たちの生命も大きく育っているのを感じた。その後は、筑波山人神社の境内を散策した後、次回からの登山ルートの上り口を確認するなどして、駐車場に戻り、9時ちょうど、帰途に着く。

久しぶりの登山が無事に終わり、帰宅した後も足腰に痛みもなく安堵している。来月からは新しいルートにチャレンジする予定だが、今年中に少なくともあと20回以上は登りたいと思っている。筑波山には、ほぼ毎日登っていると思われる人もおられるようで、回数など問題ではないとも思うのだけど、毎回このような形で記録を録るということになると、どうしても回数が気になってしまうのである。次回は白雲橋コースというのにチャレンジする予定である。こちらを何回登るかは未定である。

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筑波山登山の記(第19回)<筑波山は世にもつまらない山か?>

2014-02-27 09:40:52 | 筑波山登山の記

<第19回 登山日 2014年2月26日(水)>【筑波山は世にもつまらない山か?】

 前回18日に引き続き今月2回目の登山となった。前回は残雪に悩まされ、頼みの杖を無くしたりして、復路の下山は自力での歩きを諦めて、ケーブルカーを利用せざるを得ない羽目となったが、今回はそのようなことがないよう、アイゼンも用意してのチャレンジとなった。

前日は、明日は夜が明けた頃の登山開始にしようと、家を5時頃の出発と考えていたのだが、どうも熟睡が叶わず、浅い眠りのままに4時過ぎに目覚めてしまったので、ヘッドランプを使ってもいいからと、思い切って早めに行くことにし、4時半過ぎの出発となった。出がけの玄関先には、東の空に鋭い鎌の形の月と明けの明星が光り輝いていた。空気がピリッと締まって、この分だと今日はいい登山日和になるのではないかと思いながらの出発だった。

5時半前にいつもの駐車場に着いたが、駐車場は観梅用に有料化されており、しっかりと区切りのポールなどが立てられていた。無人なので、500円也の料金は支払えなかったが、帰りには支払うのを覚悟しての出発だった。まだ足元は暗くて、しばらくはヘッドランプの光を頼りの歩行となった。登山口の辺りから中間点の辺りまでは残雪は殆ど消えており、その分だけ解けた雪の水が大地をぬかるみにしていて、凍結とは異なった歩きにくい状態となっていた。それでも凍結して雪の上を歩くのとは大分違って、使う神経も少なくて済むのはありがたかった。

しかし、中間点を過ぎる辺りからは、残雪の量が少なくなっているとはいうものの、高度で次第に気温も下がるのか、凍結している箇所が多くなり、男女川源流の辺りまで来ると、前回と大して変わらない厳しい残雪状態となっていた。前回無くしてしまった杖を探そうとしたけど、登り道では、辿りついている杖の位置の見当がつかず、周辺を見てもどこにあるのか全く判らない状態だった。帰りにもう一度探すことにして、先ずは御幸ヶ原を目指す。

中間点辺りで、せっかく持参しているアイゼンを取り付けた方が良いと思ったのだが、何だか面倒になり、このままで行くことにして登り続ける。御幸ヶ原に出て、そのまま一気に男体山頂上へ。順番では今回は女体山なのだが、男体山にしたのは、次回以降3月に入ると観梅のため駐車場が使えなくなるので、別のコースに切り替えるつもりであり、そうなると女体山への登山が多くなる可能性が増えるからである。ま、毎回500円也を払えば、そのような考えは無用で済むのだけど、年金暮らしには、500円也は気にすべき額なのである。

男体山頂上で、先ずは登山証拠の写真を撮る。今日は天気が良さそうなので視界が開けているのかと思っていたのだが、下界はもとより直ぐ近くの女体山の山頂までもがボヤっと霞んでおり、霧がかかっているわけでもないのに、今日の眺望は全く期待外れだった。何だかこの天気は異常だなと思った。〔後で、この日はPM2.5なるものの飛散が異常なほど多くて、各地に注意報が出されたと知った〕

     

今日の筑波山・男体山御本殿。背景の青空は本物なのだが、少し先の方を俯瞰すると靄のようなもので視界は閉ざされていた。

     

男体山の山頂付近から見た女体山方向の景観。劣悪な墨絵のような景観は、今まであまり見たことのない景色だった。後で、中国から飛来のPM2.5とかいう奴の仕業と知った。不気味な悪魔の存在を感ぜずにはいられない。

一呼吸して、直ちに下山を開始する。杖の使い方が上手になったのか、いつもは15分ほどかかるのに、今日は御幸ヶ原迄10分で下りて来てしまった。ケーブルカーの頂上駅脇の休憩台の椅子に腰を下ろし、アイゼンを取り付ける。アイゼンは10本爪のものと4本爪のものとがあるけど、筑波山のこの程度の状況では4本爪で十分だろうと、それしか用意していない。取り付けた後は直ぐに下山を開始する。思った通り、アイゼンは4本爪で十分だった。登りではきつかった場所も問題なく足を運ぶことが出来た。但し、本格的な雪山では通用しないであろう。でも、もはやそのようなチャレンジは諦めているので心配は無用である。

下山を開始して、男女川の源流に近づいて、前回杖を失った箇所まで来て、慎重に下方を見渡し、下山道のどの方向に杖が滑って行ったのかを再確認した後、もう一度探しながら降りることにした。30mほど下って、この辺りかなと道脇を見ると、何と、あった!ではないか。登山道から3mほど脇の雪の中に、1週間前に我が手から離れて滑落した杖が、オーク色の肌を見せて、残雪に半ば埋まった状態で見つかったのである。直ちに駆け(?)寄って手に取る。間違い無し、ニスを二度塗りしたまだら模様の出来栄えの杖は、誰にでも作れるものではない。他の人ならもっときれいにつくり上げるに違いないけど、自分にはまだら模様の塗りあげレベルの技量しかない。何はともあれ、今まで心の奥底に淀んでいた残念感のようなものがいっぺんに消え去って、俄然元気が出たのだった。

そこから先は、杖の二刀流での下山開始となる。考えもしなかったのだが、杖の二刀流は、岩石の多い登山道の下山の場合は、大いに威力を発揮するものだと合点した。利き腕の右手に長めの杖、左に短い杖をもって、バランスを取りながらの下山は、今までにない快適な歩きとなって、いつもは1時間ほどかかる下山が今日は何と10分ほども短縮できたのだった。不思議な気分となった次第。

下山を終えて、駐車場に戻ったら、既に営業が開始されたらしく、交通整理のガードマンや、料金徴収のアルバイトらしき若者が待ち構えていた。車に行く前に料金を払おうとすると、歩きの人は支払わなくていいという。自分は確かに歩いて山を下りて来たのだが、車はここに置いてあるのに、いいのかなと思った。ま、そういってくれるのだから、余計なことは言わずにありがたく承っておこうと、そのまま車に戻って帰宅の途に就いたのだった。バイトの若者は勘違いをしたのではないかと思いながらも、駐車料金を取られずに助かったことはありがたい。杖は戻ったし、駐車料は無料で済んで、めでたしめでたしの今回の登山だった。

 

さて、ここで一つ筑波山について、この山の名誉のために一言いいたいことがある。先日、筑波山の登山ルートなどについてより詳しく知りたいと思い調べていたら、ネット上に筑波山の登山などのことについて書かれているブログの中に、「筑波山という世にもつまらない山を登ってきた」という見出しの記事があった。「超音速備忘録」というブログの中の記事のようだったけど、この超音速備忘録という意味がさっぱりわからない。超音速というからには、音を超えるほどの、つまりマッハ級のスピードというイメージは湧くけど、それが備忘録すなわちもの忘れ防止のメモなるものと、どういう関係にあるのかが判らない。直ぐに忘れてしまうので、ほんのちょっとメモしただけという様な内容なのだろうか。

ま、それは措くとして、そのブログ記事を読むと、というよりも見るといった方が正確かもしれないのは、文字よりも写真の方が前面に出ている記事だからである。自分のようなジジイとは違って作者はお若い方らしく、大きな写真のコメントには、何やら短絡文字らしきものが幾つか使われていて、例えば「ミスド」などというのは意味不明だったのだが、後でそれがミスタードーナッツとかいうファストフードの店と判ったりして、大分に感覚の違いを覚えた。すなわち、我はジジイなりなの再確認である。

写真を見ながらコメントを読み、本文らしき文章を読みながら思ったのは、これは気の毒な人・気の毒な記事だなということだった。しかし、気の毒といっても同情心が湧くような人物には思えず、恐らくご本人も気の毒だなどとは余計なお世話で、心外な話だと思われるに違いない。都会に住む人の、つかの間の思いつきの遊山が、同じ思いつきでやってきた人間の溢れかえる状況の中で、それにうんざりする思いが積もり積もって、ついには、開き直ってダダをこねて大声を上げたのが、「筑波山という世にもつまらない山を登って来た」というタイトルになったのではないかと思う。五月の連休の新緑シーズンに手軽に遊山を楽しもうとするからには、予めの覚悟のようなものが必要なのに、不用意に来てしまったという迂闊さを、筑波山という山に責任を被せようとする感じがして、やはりこのタイトルは不適切だなと思った。

筑波山をこよなく(それほどではなくても)愛し、大事に思っている人から見れば、このタイトルは明らかな冒涜であり、挑発的な罵詈雑言だと思う。何故なら筑波山という山そのものは、つまるとか、つまらないとかの存在などではあり得ず、そのようなコメントは全て人間の世俗の為せる業であるからである。つまる・つまらないは、皆人間どもが勝手にそう思い、しているだけの話に過ぎない。世にもつまらないというのは、筑波山そのものではなく、そこに群がりそこに一緒になってぶつくさ言っている人間世界の愚痴に過ぎないのだ。

ところで、このブログの内容はなかなか面白い。筑波山のことではなく、世俗のできごととして目を向ければ、取り上げられている写真とコメントは、興味深い部分がある。どうやらこの方は写真に関心が大でかなり力を入れられているようだ。カメラアングルにもそれなりの鋭さもある。このブログ記事だけでは判らないけど、写真に関しては何か面白い作品などを残しておられるような気がする。見てみたい気もするけど、深入りはしたくない気分もある。何しろ、「筑波山という世にもつまらない山」などという言い方を改めて貰わぬ限りは、このジジイの心は動かない。

ひょんなことから筑波山を冒涜する様な記事を見つけて、はじめは怒りを覚えたのだが、中を見るとタイトルの付け方が間違っているだけで、存外にまともな内容だったので安堵したのだが、今様のマスコミなどのなりふり構わぬ人寄せ見出しのようなものは、やめて貰いたいなと思った。筑波山がつまらないのではなく、そこに集まる人間どもの仕業の中に、つまらぬことどもが溢れているということを、より正確にタイトル化して欲しいものだと思った。

 

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筑波山登山の記(第18回)

2014-02-19 22:27:54 | 筑波山登山の記

<第18回 登山日 2014年2月18日(火)>

 2月に入って、野暮用が続き、加えて登山にチャレンジしようかと決めた途端に雪などが降り、しかもそれがとんでもない大雪で、残雪や凍結の心配が重なって、とうとう半月以上、登山には手も足も出せない状態が続いた。先週末に降った今月2回目の大雪は、未だに山梨県や奥多摩・秩父地方それに群馬県の山沿い内陸部に甚大な被害や影響を及ぼしているけど、幸いなことに関東平野東南部では降り積もった雪が後半の雨で大方解け去って、消えたので、今日は思い切って今月初の筑波山登山を決行することにした。今週も又雪降りの可能性が週半ばにあるというので、まさに今日行かなければ、いつになる、という意気込みだった。

まだ少し雪が残っているかもしれないので、早朝の暗闇登山は控えることにして、明るくなってからの登山開始とすることにして、6時過ぎ家を出発する。この頃は日の出がかなり早まって、1月初め頃よりも30分ほどの差があり、いつもの駐車場に着く前の6時半には、車の中から東に登る朝日を拝することが出来た。明け方に玄関から見た空は澄んでいて、西に満月を過ぎた寝待ちの月が輝いていたのだけど、その後は次第に薄雲がかかって、何だかスッキリしない空に変わってきていた。駐車場は梅林近くにあり、来週から梅まつりが開催されると、ここに車を止めて登山というわけにはゆかなくなりそうである。しかし、今日は未だそのムードは全く窺えず、梅の花もさっぱりのようだし、登山者の方も数は少ない感じだった。

雪解けの水が道路にあふれ出している箇所があり、その一部が凍って滑り易くなっているのを避けながら登山口に向かう。今回もいつもと同じように筑波神社脇からケーブルカーに沿って御幸ヶ原に出るコースを行くことにした。今回で18回目となり、そろそろ別のコースにチャレンジすることにしたいとも考えている。ケーブルカーの宮脇駅までは、雪など全く残っておらず、何の心配もなかったのだが、少し登って杉の林に入ると、登山道の様子は一変して、残雪が解けたのが階段に止まって凍りつき、滑り易くなっており、真に歩きにくい状態となっていた。

今回は先日作った初めて使用する杖を持参している。樫の古木の枯れた枝を削って、サンドペーパーを掛け、ニスを二度塗りして乾かしたもので、金剛杖ほどの長さは無いけど、一応は登山に役立つようにつくり上げたと思っている。初めて使ってみたのだが、使い心地はまあまあだ。凍っている雪の道では少し使いにくいのは仕方がない。アイゼンには思いが至らず、この杖を使えばまあ、なんとかなるだろうと思いながらの前進だった。実のところは,アイゼンは用意すべきだったと、登るにつれてそのような気持ちが大きくなって来ていた。

途中ケーブルカーの中間点を過ぎ、しばらく登って男女川の源流地点を過ぎ、御幸ヶ原まであと600mほどとなる階段開始近くの所に差し掛かった時、ちょっと油断した隙に杖が手から離れてしまった。しまった!と思ったけど、何とか近くで止まってくれるものと思っていた。ところが、いつもなら近くで止まってくれるはずの杖は、登山道を外れて樹木下の藪の中に入り、そこに残っている表面が凍った残雪の上を滑落して、どんどん下の沢の方に落ちて行くではないか。おい、おいとあわてて追いかけようとしたのだが、凍りついた道は駆け歩くことなどとんでもない話で、もたもたしている間にたちまち見えなくなってしまったのである。それでももしかしたら途中に引っ掛かって止まっているかもしれないと思い、50mほど下ってみたのだが、それらしきものは全く見当たらず、諦めざるを得なかった。

急に手ぶらとなってしまい、何だか頼るものが消え去った感覚で、このまま杖なしで上ることへの不安が膨らんだ。さりとて、下るのはもっと危険で、しばらくどうしたものかと己のドジを嘆くのも忘れて困惑した。結論として、とにかく上るのは何とかなりそうなので、予定通り男体山の頂上まで行くことにした。同時に、このままの状態では下まで降り切るのはとても難しいと判断し、下りは悔しいけど歩くのは止めてケーブルカーを利用することに決めた。何だか中途半端な登山となってしまうけど、無理をして危ない思いをするよりはましだろうという判断だった。

男体山の山頂は日陰の方には残雪が多くあったが、日のあたる部分も多くて、そこは杖なしでも歩くのに困ることは無く安堵した。今日は晴れの天気の割には眺望が利かず、富士山は全く見えなかった。まだ空の方は機嫌が直っていないのだなと思った。この分だと、今週も雪を降らせるような空がやって来るのかもしれない。困ったものである。男体山御本殿にお願いしたのは、いつまでも冬の顔をして愚図ついていないで、スカッといい天気を運んで下さるように、天の神様に忠告して欲しいということだった。直ぐに下山を開始する。

     

今日の男体山御本殿。周辺に積もった雪がそのまま凍りついて残っている。この反対側は東と南に位置しているので、雪は解けて消えている。標高が871mともなれば、そう簡単に雪は消えないようだ。

今日の御幸ヶ原には、人影は見られなかった。ケーブルカーは9時20分が始発で、20分間隔の運転である。切符を買って、乗り場に止まっている車両に乗る。ケーブルカーは上りと下りを交互に行き交う2台の車両があり、夫々に「あおば」と「もみじ」という愛称が付けられている。今日の9時40分発の下りは、「あおば」の方だった。客は自分一人だけで、運転手と合わせてたった2人の車内だった。それでも運転手の方は、満員のお客さんが乗っている時と同じ内容の挨拶をしていた。ここのケーブルカーに乗るのは、昨年から登山を開始して初めてのことだった。それ以前に乗ったのは、中学1年生の遠足の時だったのだから、60年ぶりということになる。とにかく久しぶりなので、妙に興奮して、立ったり座ったりしながら写真を撮りまくった。車両の前方のガラスに当たった光が乱反射して、窓越しに撮った写真は殆ど全滅に近かった。麓の宮脇駅に着くまで10分足らずの短い旅だったけど、いい経験だった。切符は、記念に持ち帰ることにした。

     

下りの車両から見た、中間点付近の上り車両の姿。この左側の方に登山道が隣接している箇所があり、登山時の目印の一つとなっている。この付近につくばねという小樹木があるらしいのだが、まだお目にかかっていない。

宮脇駅付近には、福寿草の花園があって、丁度今が花の最盛期だった。福寿草祭りという幟も立っていて、観光客の呼び込みに力を入れているようだった。せっかくなので、しばらくその花園を眺め、写真を撮ることにした。福寿草は早春の花である。黄色い花びらは、少しドライがかっていて、一見造花のように見えることがある。しかし、大地の厳しい冬のエネルギーを吸い上げて咲く、その力強い咲きっぷりは、他の冬を越す花には無い生命の輝きがある。点在する花を眺めながら、もう雪などに関係なく春は我らのものだと思ったりした。

     

福寿草の一株。寄り添うようにしてたくさんの花を咲かせていた。この周辺には数百株の福寿草が点在して花を咲かせているのが見えた。早春のシンボルの花の一つである。

予定より少し早い下山時刻となって、車に戻り帰途に就く。失敗半分の登山だったけど、時にはこのような出来事もあるのであろう。ま、同じ失敗を繰り返さないよう、握力の衰えて来ている老人は、自戒が肝要である。

 

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筑波山登山の記(第17回)<筑波山の妖光>

2014-01-30 18:33:31 | 筑波山登山の記

<第17回 登山日 2014年1月29日(水)>【筑波山の妖光】

 1週間も経たない内の今月5回目の登山となった。何しろ旅に出かけることもなく、ただ歩いているばかりでは、やはり充実感は得られず、家の中でグータラしているよりは、山に登った方がずっとスッキリするのである。本当は毎日登ってもいいくらいに思っているのだけど、少しばかり遠くて、毎日往復80kmのガソリン代は、当節円高で値上がりの激しい石油価格のことを考えると、せいぜい週一回の登山で我慢せざるを得ないのである。

今日は女体山に登る番なので、久しぶりにご来光を拝したいと昨夜考えていたのだが、二度寝をしてしまって、目覚めた時は30分ほど時既に遅しの状況だった。玄関に出ると、下弦を過ぎた、細い鎌のような月が、明けの明星と一緒に東の空に鋭く引っ掛かって輝いていた。いい天気である。ちょっぴり残念さを噛みしめながらの出発となった。

5時半過ぎに駐車場に着いて、6時少し前に登山口から上り始める。まだ暗くて、しばらくはヘッドランプの光を頼ることとなった。30分ほど登って丁度中間点辺りに来た頃、夜は終わりを告げたらしく、灯りは不要となった。今日は登山者が少なく、前も後ろも静かでもの音もしない。男女川の源流を過ぎて少し行くと、このコース最後の踏み段が始まるのだが、まだ日の出前なのに、早や降りて来る数人の人たちに出会った。どうしてご来光を拝しないのかなと、他人事ながら勿体ないなと思ったりした。700段ほどの踏み段を一歩一歩噛みしめて歩き続ける。かなりきついのだが、この頃はこの最後の登りが楽しみとなっている。どんなにつらくても、登り続けていさえすれば、御幸ヶ原の広がりの恵みに出会えるのである。その喜びが判っているので、楽しみなのである。

御幸ヶ原に着いた頃は、既に日は高く登っており、その光の下に霞ヶ浦が鏡のように光っていた。北西側には、日光の男体山や女峰山などの連なりや那須連山などが、凍りついて輝くのが見えた。今日の筑波山の鞍部から上は、思ったよりも寒くて、風の音もかなりのものだった。そこから女体山頂上まで500mほどなのだが、もうここまで来ると疲れは吹き飛んで山頂の御本殿までは、あっという間である。しかし、今日はかなりの風が吹いていて、それがまた超冷たいのである。持参しているアンカの能力を超える寒さで、両手は痛いほどだった。頂上には誰もおらず、独り占めだったけど、寒さには勝てず、大急ぎで証拠写真(?)を撮って下山を開始する。直ぐ下の風邪の当たらない窪地で、大急ぎで着替えを済ませたが、両手先がかじかんで、着衣のボタンを閉めるのに苦労した。

     

今朝の登山の証拠。女体山山頂ご本殿の一枚。こうして見ると、穏やかで暖かそうな景色に見えるが、ここで風を写すのは大変難しい。

そのあとは、淡々と下山して、いつもと同じ1時間ほどで登山口に戻り、駐車場に戻って、帰途に就く。今回は、寝坊をしての、ごく平凡な登山だった。

 

さて、今日は筑波山にまつわる妖光について紹介したい。これは、登山の時ではなく、小貝川の堤防を重いリュックを背負って歩いていた時の発見の話なのである。昨年の12月の終わり頃、いつものように早朝の歩行鍛錬で、小貝川のコースを歩いていた。家からは、つくばエキスプレス(=TX)の基地の横を回りながら30分ほど歩くと、小貝川の堤防に出る。そこから2kmほど堤防を歩いて、田んぼの横道をつくばみらい市の住宅街を経て守谷市の自宅の方に向かうのだが、このコースが気に入っていて、特に冬の間は、ほぼ毎日このコースを辿っている。コースの中では、何といっても堤防の上を歩くのが気持ちが良い。堤防にはほどよい川風が吹いていて、少し汗ばみ始めた頃合いの身体には、真にありがたいのである。ま、鍛錬などとは無関係の人には、その風は冷たくて敬遠したくなるのは必定だと思うけど。

その日は、いつもと同じように6時頃に家を出て、堤防に上ったのは、6時30分過ぎだった。ここから堤防を2kmほど歩く間に、天気が良い時は日の出を迎えるのである。この土手から迎え見る日の出も、なかなかのものであって、冬の厳しい寒さを反映した東の空のかぎろいの後の日の出は、厳粛で荘厳に満ちたものなのである。その時には思わず立ち止まって、太陽に一礼することとなる。自然とそのような気持ちになってしまうのだ。

しかし、その日は晴天にも拘わらず、朝日が昇る方向にだけ雲があって、日の出を邪魔しているかのような空だった。今日はダメかと諦めて歩き続け、日の出の時刻の7時少し前に、辺りが明るくなり出したので、ああ、日の出だなと思って頭を上げて振り返ると、黒雲の上にまさに煌めく太陽がせり上がる所だった。邪魔ものがあっても、やっぱり日の出は良いなと思いながら、ふと前方の筑波山の方を見てみると、何と女体山の頂上辺りに怪しげな光の球が見えるではないか!

一瞬何だろうと思った。歩きの時間の殆どは下を向いており、頭を上げるのは日の出の時と前方確認の時くらいなので、今まで筑波山をあまり見たことがなかったのである。しかし、その時はもしかしたら、筑波山にUFOが降りて来て何やら怪しげな動きをし始めたのではないか、或いは突然に筑波山が噴火に目覚めたのかとさえ思った。筑波山が活火山だとは聞いたことがない。丁度女体山の真下20m辺りに点っているその怪しげな光は、光の束の筋を八方に放って何とも不気味だった。思わずカメラを取り出しその妖光を収め撮った。

     

小貝川堤防の道から見た筑波山の妖光。突然この光を見た時は、誰だってドキリ!とするに違いない。この辺りにはくもの巣のように電線が張り巡らされていて、これを避けて筑波山を撮るのは難しい。

しばらく佇んでその光の正体を確かめることにした。間もなく解ったのである。光を発している場所は、注意して見ると、女体山頂下のロープウエイ乗り場辺りなのである。ここのロープウエイにはまだ乗ったことは無いけど、山頂駅にはコンクリートの土台で作られた小さな広場があり、それは遠くからは小さな白い点となって見えるのを思い出したのである。そこに日の出の光が打ち当って、ちょうどその台場が鏡のような働きをして、怪しげな光の源となっていたのだった。それが解ってみれば、幽霊の正体見たり枯れ尾花の笑い話のようなものなのだった。しかし、あの一瞬のドキリとした思いは、この頃の異常現象の発生のあり様を見ていると、決して安易に笑えるものではないようにも思えたのである。

その後もこの時間帯にそこを通る時は注意して見るようになったのだが、やはり日の出に合わせて同じ現象の妖光が点っており、今はもう笑って済ませている。しかし、この現象が見られるのは、この時期の半月ぐらいの間で、1月半ば頃になると、もうそれを待っても見ることはできなかった。筑波山には、登らなくても楽しめる不思議がまだまだあるのではないかと思っている。

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筑波山登山の記(第16回)<60年前の登山記憶>

2014-01-26 17:04:34 | 筑波山登山の記

<第16回 登山日 2014年1月25日(土)>【60年前の登山記憶】

 この25日、今月4回目、通算16回目の登山を行った。いつものコースを往復共に淡々と登り、下ったという感じである。今日の予報は晴れで、かなり暖かくなるという話だったが、朝出発の際は細くなりかけた月が空に鋭い光を放ち、きらめく星たちが淡く大地を照らし、かなりの冷え込みだったらしく、車のフロントガラスに霜が凍てついて、温水を掛けて取り除くといった状況だった。そのままの空ならば、ご来光は拝めなくても日の出の後の太陽を垣間見られるかなと思ったのだが、実際には、山麓の駐車場につく頃には、空は薄い雲に覆われて、何だかぼやっとしたムードに変わってしまっていた。

いつもの駐車場に6時半少し前に到着。今日は土曜休日とあって、いつもより少し先着の車が多かった。直ぐに身支度をして歩き始める。登山口までは15分ほどかかる。6時40分過ぎ登山開始。ただ淡々と登るだけ。ただ、今日気にしているのは、筑波山に自生しているというツクバネという樹木を見つけたいということ。しかし、この季節では、あの印象的な羽根つきの羽根の形をした実は残っていないだろうから、もしそれに出会ったとしても、葉っぱだけでは判る筈がないとは思っている。

淡々と登るというのは、登山の真髄を味わっている感じがする。あれこれ理屈をつけて登るのもそれなりに面白いのだけど、ただ足元を見続けて息を整え、汗を拭いながら一歩を進めるのは、生きて動ける実感を噛みしめる時間のように思う。今日はそれを十二分に味わった時間だった。ツクバネは見つけられなかったけど、まだまだそれを探し出すための工夫の余地があり、これからが楽しみである。

8時少し過ぎ、男体山の頂上に到着する。御幸ヶ原の登り口に、先日の雪が少し残っていたけれど、その先の頂上辺りは、日陰にほんの少し消えかかった残雪があるだけだった。男体山御本殿に参詣の後、今は廃屋となった筑波山測候所の門前にて、記念写真を撮る。今日はこの記念写真のことについて思い出を語ってみたい。

つい先日、筑波山に登り始めるようになってから初めてのことだが、何となく古いアルバムをめくっていたら、今から60年前の中学1年生の時に遠足で登った筑波山登山記念の集合写真があるのに気づいた。あの頃は、毎年に一度、学年全体で少し遠い所に遠足に行くという学校行事があったのである。自分の通った中学校は、全学年が二クラスで、小中学校を通じてずっと同じ顔ぶれの村の子ども仲間だった。クラスは時々メンバーの入れ替えがあったが、何しろ計9年間も一緒に学んだのだから、70数名の顔と名前が一致するのは勿論だった。しかし、あれから60年が経って、それらの記憶は次第に薄れ始めており、中学校卒業以来一度も会っていない友だちも多く、アルバムを見ていても「誰だったかな?」という顔がかなり増え出している。今、どこかで会っても、名乗り合って思い出すまでにかなりの時間がかかるに違いない。

さて、その中一の時の記念写真なのだが、この写真にだけは何故か「中一、筑波山測候所にて」と脇に書かれていた。それで気づいたのだが、よく見るとまさに今日登って来た筑波山男体山の頂上脇にある測候所での記念写真なのであった。こんな狭い所によくもまあ、先生を含めて80人近くの子どもたちが岩場に並んで撮ったものだと、驚くほどである。その当時は、この測候所は勿論現役で、関東エリアを初めとする気象データの収集などで活躍中だったのだと思う。しかし、現在は廃屋となっており、そのまま放置されているので、自分がこの世から消えてもまだ老醜を深めながら残り続けるに違いない。人工物の最後は、破壊しない限りはそのような運命を辿ることになるのであろう。拡大鏡で見てみると、間違いなく60年前の門が残っており、塀の模様もそのままなのだった。少し違うのは、右側にあった大きめの樹木が消え去っており、反対側の左に自生していた小さな樹木がかなりの老木となっていたということくらいである。

そのように山頂近くの建物や自然環境はそれほど大きな変化は無いのが判るのだけど、その記念写真に収まっている人々は、この60年の間に何という大きな変化をしたのだろうか。夫々の人々についての消息は確かめるすべもないけど、想像すれば、果てしもなく想いは錯綜する。早や既にこの世を去り幽界に住む人たちも何人かあり、生き残っている者も、夫々が何らかの形で老というものを実感しているに違いない。その一枚の写真を眺めながら、改めてこの世の無常を想った。自分は老計と死計の核に「PPK(ピン・ピン・コロリ)」を据えてこれからを生きようと考えているけど、願わくば皆が残りの人生を活き活きと過ごして、天国での再会が叶うようにと思うだけである。

そのような思いを込めながら、今回は測候所の門前にリュックとその脇に杖を置いて、60年ぶりの一人相撲の記念写真を撮った。勿論、我が心のカメラには、往時の仲間や先生たちの姿もしっかりと写っている。これから先も、ここに来るたびに60年前の思い出がよみがえり、不思議な力を与えてくれるような気がしている。終りに、2枚の比較写真を載せることにしたい。

      

60年前、中学1年生の時の筑波山遠足の記念写真。ケーブルカーで御幸ヶ原まで来て、その後男体山頂上の脇にある測候所の前で撮ったものである。後ろの門や塀は今の位置にそのまま残っている。

      

上の写真から60年経った、同じ場所からの目線で撮った無人の記念写真。右手の外装の一部剥げた門の前に、リュックと杖を置いての写真だけど、自分の心の中には、往時の皆がそのままで写っている。

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筑波山登山の記(第15回~その2)<シモバシラのこと>

2014-01-19 05:33:43 | 筑波山登山の記

<第15回 登山日 2014年1月17日(金)>【シモバシラのこと】

さて、前回に引き続いて15回目の登山の際に出会った「シモバシラ」の話である。霜柱といえば、寒い冬の季節には、道路脇や畑一面に地面を持ち上げて立つ、あの氷の柱のことであるけど、ここで取り上げようとしているのは、それではなく氷の花としてのシモバシラのことであり、それゆえに敢えてカタカナで「シモバシラ」と書かせて頂くことにしている。

今回の登山の際に、御幸ヶ原からの下山を開始して10分ほど下りた地点で、登山道脇で何やら熱心に調べもののようなことをされている方に出会った。何をされているのか、挨拶の後でお訊きしたら、「氷の花があるんですよね」とのことだった。覗かせて貰ったら、枯れ草の中に真っ白な花のようなものが咲いていた。思わず「ギンリョウソウみたいですね」と言ったら、「いや、花ではないですね。氷の花なのです。高尾山辺りでは良く見かけるのですが、筑波山では今日初めて見ました」とおっしゃった。「若しかしたら、シモバシラというのではないですか?」と聞いたら、言下に「いや、霜柱ではありません」と断言された。自分としては、大地に立つ霜柱ではなく、シモバシラという名の植物に良く見られるという氷の花ではないかという意味での問いかけだったのだけど、その方は霜柱と受け止められたようだった。この氷花の名前は知らないとのことだった。それで、家に帰ってから調べてみようと思い、写真を撮らせて貰った。

     

筑波山登山道脇で出会った「シモバシラ」。この茎のある植物がシモバシラという植物なのかどうかは判らない。昨年の夏から秋にかけてはあまり登らなかったので、ここにあったのを気づかなかったのかもしれない。来年は注意してこの茎の正体を知りたいと思っている。

シモバシラという植物があり、それが枯れて冬を迎えた時に茎の中に入っていた水分が凍って外に飛び出し、あたかも花のような姿を見せるという話を聞いたことがある。それは、10年ほど前まで、家内が東京小金井市の小金井公園の中にある「江戸東京たてもの園」でボランティアのガイドをしていた時に、聞いたのだった。冬のある寒い日に、「シモバシラが咲いているよ」と仲間の方に言われて、そこへ行って見るときれいな氷の花が咲いていて、「これはシモバシラという植物に出来るのだよ」と教わったとのこと。その日は、帰宅後の家内に、かなり興奮しながら何回かその話を聞かされたのを思い出したのだった。しかし、その時の記憶が残っているだけで、その後実際にそのシモバシラなる植物も氷の花も見たことは無かったのである。

さて、帰宅して早速シモバシラを調べてみた。先ずは撮ってきた写真を家内に見て貰い、知っているシモバシラかどうかを確認して貰った。しかし、彼女も10年以上も前に見た氷花の記憶をはっきりとは思い出せないらしく、「確か、このような姿をしていたような気がする」という様なことだった。それで、ネットを見てみたら、どうやら氷花には様々な形があるらしく、今日筑波山で見たものに似たような写真が何枚か写っていた。これでシモバシラに間違いないと確信した。ネットの説明、紹介の中にも東京郊外の高尾山で多く見られるという様なことが書かれており、山で出会った方もそのようなことをおっしゃっていたから、これはもうシモバシラに間違いないと思った。

植物図鑑を引くと、シモバシラというのが掲載されていて、シソ科シモバシラ属の植物であると書かれていた。そこには、初冬になると枯れた茎の根元に霜柱がつく光景がよく見られるのでこの名があるが、咲いた花の形も霜柱のように見える、と書かれていた。写真を見ると、確かに霜柱に似た感じの細長い花穂が写っていた。なかなかに楚々とした感じの美しい花だった。まだ見たことがなく、先に氷花の方にお目にかかってしまったけど、今度は是非とも植物の方のシモバシラに会いたいと思う。恐らく筑波山で見た氷花は、植物のシモバシラに着いたものではなかったのではないか。して見ると、どこに行けば生きたシモバシラの花に会えるのか、又一つ出会いの楽しみが増えたというものである。

     

ギンリョウソウ(イチヤクソウ科ギンリョウ属)の花。これは2010年北海道の旅で、黒松内のブナセンター(ブナの北限といわれている)の中で見つけて撮影したもの。ギンリョウソウ(=銀竜草)は、ユウレイダケとも呼ばれる腐生植物で、葉緑素をもたない白く透明感のある植物である。今回のシモバシラの氷花に良く似ている感じがしたのは、あながち間違いではないなと思っている。

 

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筑波山登山の記(第15回)<さざれ石のこと>

2014-01-18 09:45:58 | 筑波山登山の記

<第15回 登山日 2014年1月17日(金)>【さざれ石のこと】

 今年3回目の筑波山登山は、天気予報が外れた曇り空の下での暗闇登山となった。天気予報は結局、登山を終えて帰宅してからは晴れ出したので、一応は当たっているということなのだろうけど、早朝登山者から見れば、日の出などとは無関係の空だったので、がっかりして恨みのことばがこぼれてしまうのである。特に、昨夜(1/16)は満月だったので、期待は大きかったのだが、朝起き出して空を見ると、月はおろか星の煌めきも全く見られず、がっかりの天気だった。しかし、昨夜行くと決めてしまったので、目覚めは早くやって来て、5時前には我慢が出来ずの出発となった。

筑波山麓のいつもの駐車場に車を止め、登山口に向けて出発した時は真っ暗闇の世界だった。登山口からしばらく登ったら、近くの闇の中で突然「ギヤァ―」という獣の声がした。今までの暗闇登山では一度も聞いたことのない声だった。自分に気づいた動物が警戒心から発した声なのかもしれないなと思った。狸か狐の類なのか、犬や猫ではあるまいし、ここには熊などいない筈だから、小動物が脅かしたのかもしれない。しかし、こちとらは人間を70年以上もやっているので、今更脅されても素直にびっくりしたりはしない。ジャカマシイ奴だなと思った。もし襲ってきたら自慢の桜杖で一発かましてやろうなどと思ったりした。しかし、脅しはその時だけで、あとは静かないつもの森の中だった。

いつもと同じペース登り続け、やがて中間点から男女川源流を過ぎて、長い階段の始まりの場所に到着。ここから700段ほど登ると、ケーブルカーの頂上駅のある御幸ヶ原に着くのである。筑波山登山で一番きつい場所なのだが、15回目の登山では却って楽しみの場所になってきている。何が楽しいかといえば、あと700歩登れば、確実に平らな場所に出ることが出来、そこから15分ほど歩けば、女体山の頂上に着くのは間違いないからである。つまり、麓からの一歩の積み上げの成果が確実に実感できるという楽しみがあるからなのだ。

女体山頂上には7時半ごろ到着。どうせお天道様を拝することはできなのが判っているので、女体山御本殿に参詣し、今日の登山の証拠写真を撮るだけなのだ。予想通り、山頂からの景観は味気ないものだった。救われたのは、北西に連なって見える日光男体山の峰々やその右方に見える雪をかぶった那須の山々が、早朝の光の中にはっきりと浮き立って見えたことだった。富士山も樹間から微かに見ることが出来たが、明瞭度は今一だった。今日は先着の人が一人いただけで、直ぐに下山されて行った。ま、普段はこれが普通の姿なのだと思った。自分も直ぐに下山を開始する。

     

今日の女体山御本殿。登山した証拠写真として毎回撮らせて頂いている。曇天の寒空の下で、さて、ここに宿る神様は何を想っておられるのか。

御幸ヶ原からの下山開始は8時少し前、そして登山口に下りた時は9時少し前で、いつもの通り約1時間の下山時間、そして登りは1時間半という標準的な登山時間だった。9時15分頃駐車場を出発して帰宅の途に就いたが、途中走り出して間もなく車のガソリンの残存量表示に赤ランプが点き、それから後はガス欠を心配しながらの走りとなった。10時少し過ぎ無事に帰宅となる。

さて、今日の登山の話題は二つある。その一は「さざれ石」のこと。その二は「シモバシラ」のことである。まあ、お聞きあれ。

先ずはさざれ石の話。多くの方々は「さざれ石」というのを耳にして知っているのではないかと思う。何といっても日本の国歌に出てくる石なのだ。しかし、実際にさざれ石の実物を見たことがある人は意外に少ないのではないか。筑波山には、筑波山神社の境内に国家の歌詞を刻んだ碑と合わせて、さざれ石の実物が展示されている。そして、登山の途中にも、これは、さざれ石ではないかと思われるものが、登山道を突っ切って剥き出しになっている場所がある。知らない人にはただの石にしか見えないだろうけど、知っている者にはなかなか興味深い。

ところで、さざれ石の実物なるものを初めて見たのは、何年か前に九州を旅した時の鹿児島県の何処かだった。実際の場所は良く覚えていないのだけど、その時初めてさざれ石なるものに興味を覚えた。その後はさざれ石の展示がある場所などに注意を惹かれるようになった。何といっても国歌の中に詠われている石なのである。古希近くまで何度も国歌を歌いながら、ただの一度もさざれ石というものに関心を持たなかったというのは、迂闊(うかつ)といえば迂闊な話である。さざれ石が巌となるなどというのは、嘘っぱちな修飾の話なのだろうというくらいにしか思わなかった。それが、これがさざれ石だよというのを見せられて、えっ、本物の石だったんだ、とびっくりしたという話なのである。その後、いろいろの場所でお目にかかることとなった。

さざれ石というのは、全国各地にあって、筑波山神社の境内にも展示されている。それのみか、登山道の途中にそれらしき剥き出しの石もあるのである。筑波山は岩石の多い山で、登山道には大小無数の岩石がとび出している。また、山麓一帯には石切り場も多い。筑波石として知られている。桜川市・真壁町辺りには道路の両脇に軒並み石屋さんが並んでいる。筑波連峰の山の中を探せば、さざれ石など幾らでも見つかるのではないかと思うほどだ。

     

筑波山登山道の中にある、さざれ石と思しき石の塊が露出している箇所の様子。まだ成長が不十分な感じがするけど、今まで幾つか見て来たさざれ石の仲間に違いないと思っている。

さざれ石というのは何なかといえば、漢字では「細石」と書くようである。細い石というのは、つまり小石ということであって、小石といえば様々なサイズのものがあるので、例えれば砂のレベルからこぶし大のようなものまでが入るのかもしれない。それらの小石が、炭酸カルシウムや水酸化鉄などが隙間を埋めて一つの塊を作って成長したものをいうとのことである。簡単に言えば、自然が生み出した小石入りのコンクリートのようなものということになるのかもしれない。古代人は石というものは成長して大きくなると信じたということである。あれこれ調べてみて、そのようなことが判った。つまり、細石が巌となるというのは、古代人の信じた世界であり、国歌にはそれが詠われているということである。

ところで、君が代という国歌については、過去様々な論争があり、そのふさわしさについて、意見の姦しいところだけど、今のところは平成11年に国歌として立法化され以降、少し落ち着いている感じがする。しかし、この歌の文句は拡大解釈しないと、今の時代にはなかなかフィットし難い感じもする。最大の問題は、タイトルともなっている「君が代」ということばの「君」が何を、誰を意味するかということだ。戦前ならば国体は皇統第一だったから、勿論君が天皇であることは明らかだったけど、今の世では天皇は象徴であり、象徴の世を詠うのは少しおかしいと思う。自分的には、今の世の「君」というのは、複数の君であり、つまり「君たち」すなわち「国民一人ひとり」ということなのではないかと思っている。自分の世ではなく、自分も含めた君たちみんなの世である、という解釈である。それでいいのかではないかと思っている。

この国家の文句がその昔の古今和歌集の詠み人知らずの歌(「わが君は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで」)を元にしているというのには、驚かされる。詠み人知らずの詩が、国歌になっているなどというのは、考えれば不思議な話である。この歌は、その昔は賀歌として、新年のお祝いの歌として詠われたとのことである。つまりは、今の時代なら、全国の諸所で耳にする「めでた、めでたの若松さまよ、枝も茂れば葉も茂る、……」という、あの祝い唄と同じ類の歌だったということなのであろうか。ま、そう考えると、それなりに国歌としてフィットしているのではないかとも思われてくる。

かなり登山の枠を外れた話しとなってしまったが、この世にはさざれ石なるものが実在し、それは日本全国至る所といっていいほどたくさんあるということだ。石が成長するなどということはあり得ないと思っていたのだけど、さざれ石だけは別のようである。放って置けば、炭酸カルシウムや水酸化鉄の力で、周囲の小石を集めて次第にその塊は成長して行くのである。古代人はいいところに目をつけたものだと、改めて感嘆する。その塊に苔が生えてあたかも大きな巌のようにガッシリと国が固まるというイメージは、例えば、さざれ石を絆に例えれば、しっかりした絆が国の礎となっているのを詠っているのであり、それは国歌として悪くないものではないか。そんな風に思った。そんなさざれ石が、筑波山にも間違いなく存在している。という話。

     

筑波山神社の境内に展示されているさざれ石。かなり大きな塊であり、なかなか立派なものだなと思った。

(シモバシラの話は、長くなってしまったので、次回にしたい)

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