そういやこのネタもしかしたらTwitterで呟いただけで日記に書いてない? どうだっけ? 忘れたので重複厭わず書くとしましょうか藤圭子ネタ。
何のことかといえば、私の勝手な妄想案なのだが、
「宇多田ヒカルと椎名林檎による
藤圭子トリビュートアルバムの共同制作」
というアイデアが叶ったら嬉しいなという話。二人が藤圭子の曲をカバーするアルバムだね。単独でも凄まじい事態に発展すること請け合いだが、それを二人がかりで。天災級の作品になるわよね万が一実現したら。
ポイントは、これに「相互プロデュース」というかたちをとらせる事だ。
恐らく、どの時点のヒカルに「藤圭子の歌をカバーしてみない?」と提案しても「畏れ多い」として却下されてしまう。自作品である「Fantôme」を制作する時ですら『母の顔に泥を塗ることのない最高の作品にしなければと強く思った』と発言していたのだから直接母の歌を歌う際には尚更最高のものを出さねばと力が入りまくるだろう。
私なんかは、もし歌唱が及ばないなら及ばないなりにその接近していく過程もリアルタイムで公表していけばいいのにとか軽く考えてしまうが、まぁヒカルはそんなことせんわな。なので、ヒカルが舵を取る藤圭子カバーアルバムの実現性は今の所かなり薄い。
しかし、これが椎名林檎からのリクエストとなるとどうか? 「私がプロデュースとディレクションをするからヒカルちゃん、圭子さんの歌を歌ってくれない?」と頼まれたら、ヒカルがそれでも難色を示しそうではあるものの、ヒカル単独企画に比べれば遥かに実現可能性が出てくる気がしない?
そして取引材料として、と言えるかどうかは定かではないが、一方で椎名林檎の藤圭子トリビュート・パフォーマンスをヒカルがプロデュースする。ヒカルが自分で歌うのより寧ろ敷居が低くなる気がする。母親と似た声質の自分(ヒカル)の声だとどうしても比較してしまうけど、ゆみちん独自路線の解釈で藤圭子を歌うなら…という話になりはしないか?
つまり、単独で藤圭子トリビュートをオファーしても2人とも「畏れ多い」「…ヒカルちゃんを差し置いて?」と断るだろうが、相互プロデュースというかたちならOKする未来が微かに見えてくるのではないか…と、思う。思いたい。
なんだったら、ミュージック・ビデオも相互プロデュースすればいい。宇多田光監督は『Goodbye Happiness』PVで経験あるしな。平成令和の「新宿の女」といえば椎名林檎なのだ。昭和の「新宿の女」にどんなアプローチで近づき、どんな切り口のヴィジュアルで魅せてくれるか、想像だけで悶絶しそう。
…まぁ、言っててそれでも敷居とハードルはかなり高いなとは思うよ。ヒカルのママに対する想いは尋常じゃないのだし。林檎嬢も上記の通り基本的に「ヒカルちゃんを差し置いて」という感情があるだろうし。だが、そうやって遠慮しているうちに藤圭子伝説は風化していくのよね。現役の頃を知ってる人たちはどんどん鬼籍に入っていくのが今という時代。37週連続一位という化け物記録を持つ藤圭子は果たしてどうなるだろうな? 後ろ盾となる強い事務所とかないからねぇ。
そこらへんはもうヒカルがどう考えるかだよね。藤圭子の凄さは自分がわかっていればいい、と捉えるか、それとも彼女の歌声は語り継がれていくべきだと捉えるか。そこを見極めないととても手を出せるテーマじゃない、か。藤圭子トリビュートアルバムは。
「藤圭子の歌は藤圭子が歌うからこそ」というのもそうだからね、時代の徒花として崇めていくというのもひとつの方法だわな。しかし、私半世紀近く生きてきてつくづく感じるのは、「昔の偉大な音楽の数々」を今もこうして聴けるのは、それを意識的に語り継いできた人たちがいたからだということ。たとえそれで稼ぐのが目的だったとしても、ビートルズですらポール・マッカートニーによるこの半世紀のソロ活動がなければここまでポピュラーにはなってなかったと思うし。どれだけよいものであっても、頑張ってアピールしてくれる人が在って初めて伝説化されるのよね。藤圭子は今後どうなっていくんだろうか。まだまだ全然わからないけど、油断大敵なのは間違いないと思うわよ。
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