無意識日記
宇多田光 word:i_
 



そういや高校野球好きだったな。SOHOだとテレビつけながら仕事が出来たからなー。

あたしゃ野球自体は面白いスポーツだとは思うがそれを興行として成り立たせているシステムが嫌いなので素直に楽しめない部分がある。極端に言えば、どんな美味な料理だろうと材料が人肉だと食べた後に初めて言われたら焦るだろう。私にとって日本の高校野球はそんな感じである。喩えが激しすぎですが。

「犠牲」というのは、それだけに重い概念だ。どちらかというと西洋的な思想なのだろうか。"You'll have to pay the price"みたいな表現は日本語にはなかなかない。対価を払う。どれだけの利得があろうと、支払う対価が大きすぎれば人は躊躇う。

逆の話もある。日本の上水道なんかはどうだろう。我々は上水道を止められたらかなり死ぬが、上水道代は驚く程安い。いやもっとも、高い安いを言えるのは経済活動に参加出来ているからであって、その埒外に居る人間には関係ないどころか憎悪の対象だろうが、それは兎も角、文明が発達し過ぎると価値の非常に高い物事でも非常に安価に手に入れる事が出来る。両方の側面があるのだ。


昔に較べてヒカルから"犠牲"を感じなくなっているのは気のせいだろうか。昔は、いろんなものを削って、最終的には生命すら削って音楽を生み出していたように見えていたが、今はもっとこう、無理をしていないようにみえる。

勿論これはある程度錯覚だ。「慣れた」というだけで、ヒカルの創作上の苦悩は相変わらずのようだ。全身全霊になる為に、昔はまず種々の"余計なものやしがらみやこだわり"を捨て去るプロセスが必要だったが、今はいきなりスタートからフルスロットルになれる、即ち最早犠牲を払い終わったあとの状態から始まるようになったから改めて犠牲云々を意識する必要がなくなっただけで、その厳しさは相変わらず変わらない、のだろう。

『生きてりゃ得るもんばっかりだ』は名言中の名言だが、これをポジティブとか前向きとかは正直言える気がしない。未来の誰にも(自分自身にすらも、いや、自然の摂理(≒神)にさえも)期待していないから言える事だ。誰にも甘える事が出来なかった人ならではの一言である。確かに、ここまで来てしまえば犠牲なんて存在しない。

他者をアテにしない態度を極めてきたからヒカルは「シンガーソングライター(&直近ではダンサー)」という道を選んできた。出来るだけ独力でやる。他者の力を借りた時も、うまくいけば儲けもの、という「ダメもと」の精神でやっている、のではないか。結局ヒカルが責任を追うのだし。

しかし、バンドサウンドとなると様子は変わるのだ。そこでは、他人に必ず期待"しなければならない"し、妥協もすれば犠牲も払う。そういう事が一切なく皆こちらの言う事をちゃんと聴いてくれる…のであればそれは既にバンドではない。ただ演奏を手伝って貰っているソロ・プロジェクトだ。バンド活動においては、妥協も犠牲も必要であり必然なのだ。でなければ何人もで結成する意味がない。

勿論中には奇跡的に「全員のやりたい事が一致する」ユニットもあるだろう。しかしそれこそそんな奇跡は狙って作れるものではないし、そんな未来に期待していられる程人生長くはない。

例えばヒカルは今回の『Forevermore』において、ヴォーカルのアプローチやサウンドやメロディーや歌詞やら何やらかんやらに関して"大きく妥協して"いるようにみえる。その対価を払ってでも手に入れたいサウンドがあった。そう考えてみるとすれば、これは確かにヒカルにとって新局面だ。ヒカルが普段の持ち味を殺して迄得たかったものとは? 以下次回。

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そうそう、『Forevermore』のベース・サウンドに絡んでひとつ触れておきたい事がある。同曲のヴォーカルのミックスについてである。

『大空で抱きしめて』は、『雲の中飛んでいけたら』といった歌詞に合わせて広がりのある歌声の録音だったが、『Forevermore』では一転して残響(エコー、リバーブ)の少ない、生々しい感触になっている。より耳元で歌われるような"近さ"を感じる筈である。

これを最初ソニーストアのハイレゾで聴いた時、「随分とハイレゾ甲斐のないミックスだな」と思った。試聴機には他の様々なジャンルの曲もハイレゾで入っていたので機器とハイレゾの特質を把握すべく色々と聴き較べしてみたのだが、やはり『Forevermore』には"ハイレゾらしさ"がない。私にとってハイレゾらしさとは、音そのものよりその音が鳴り響く空間の広さを感じさせる事にある。『Forevermore』の録音、特にヴォーカルの録音はまるでその特質を活かす気がなかった。

これはどういうことだろう。曲がりなりにもソニーストアで解禁を歌う以上、ハイレゾの効果を知って貰って購買に繋げる事も大きな目的のひとつだろうに。

恐らく、ここからは推測だが、その原因は今回の"ヒカルとしては珍しい"ベース・サウンドにあるのではないか。ヒカルがベースを軽視する理由として前回"曲作りのプロセスに登場しない"のを理由として挙げたのだが、かつて触れたようにもうひとつ、"ヒカルの歌声の音域"にも原因があるのではないか。

ヒカルの歌声はチェロである。言い換えると、ヒカルの声に含まれる倍音成分(要は声色)がチェロのそれ(要は音色)に近いのではないかという仮説である。チェロの音域とエレクトリック・ベースの音域は近い(曲によっては同じ)。つまり、ベースが暴れまわってしまうとヒカルの声色と食い合ってミックスが難しくなってしまうのではないか。要は音が混ざり合ってお互いの音の輪郭があやふやになってしまう、という。

今回それを避ける為に細心の注意を払ってヴォーカルのミックスをした。その結果がこの"ハイレゾ甲斐のない"サウンドである。高音域低音域ともにあやふやな混ざり合う成分はばっさり切って歌声の輪郭をトリミングするレベルで正確に浮かび上がらせる。それに注力する為か妙にヴォーカルの録音音量レベルが高い。兎に角、かつてない程に分厚くなったバンド・サウンドの中にヒカルの歌声が埋もれないようにとのミックスである。特に今回はヴォーカルラインがいつになく中低音域中心だからかなり難易度が高かっただろう。それでも今回のコンセプト自体は奏功した。のだがお陰でハイレゾ・リマスタリングの恩恵は薄くなってしまった。あちらを立てるんならこちらも立てればいいじゃないの宇多田メソッドらしからぬ"失態"だが、『桜流し』のように元々の録音状態に問題がある訳でもない。これはこれで狙いは成功しているのだから我々は遠慮なく普通のマスタリングでこの曲の分厚いサウンドを堪能する事にしよう。偶にはこういうのも悪くないでしょ


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翻って、『Forevermore』のベースはよく動く。そういや、エレクトリックかアコースティックかもよくわからんな。アップライトでもこんなサウンド出ない? 無理かな。やっぱりエレクトリックベースかな。

イントロのストリングスからのAメロでは登場しないが、そこからクリス・デイヴと一緒にまぁ跳ね回る事跳ね回る事。二番じゃもう耐え切れずにAメロから登場している。いやはや、本当に、こんなにベースが動き回って目立つヒカルの曲は珍しい。

実を言うと、ベースとして何か特別なフレーズを繰り出しているかというと、そんなでもない。フュージョンにシャンソンを合わせて「なんだこれは」と言わせるような特異性がある訳ではなく、極々普通なベースラインだ。コードから極端に離れる事もない。

しかし、それこそがいいのである。オーソドックスで、気を衒わず、王道を行きながらここまでの高揚感を齎してくれたから嬉しいのだ。つまり、この曲は、「最初聴いた時の驚き」に頼らずとも全く普遍的に魅力が強いのである。何十回何百回聴こうがこの「シリアスウキウキ」感は消える事がない。いつ何時ライブで演奏しても必ず盛り上がる事だろう。ある意味「いざという時のとっておきの曲」を手に入れたのだヒカルは。

このオーソドックスではあるが"強い"ベースラインさえあれば、ヒカルの曲を知らないオーディエンス(残念ながら国内では望むべくもない客層だ)ですら引き込む力を持っている。なんだったらこのベースとドラムを中心にして曲をストレッチしてギターとヴォーカルのアドリブを絡めたジャム・セッションに突入したっていい。ライブなら、次第にオーディエンスは盛り上がっていく。断言しちゃおっかな。

知ってる我々は勿論大いに期待していい。ベースサウンドというのは、ライブでこそその威力を発揮する。ギターの音は大きすぎると耳障りなだけだが、ベースサウンドはデカければデカいほど耳ではなく腹に響く。カラダに訴えかけるのだ。今までのヒカルのライブではその点がやや弱かったのだがこの『Forevermore』を手に入れた今弱点は失せた。もう存分に踊り狂いはしゃぎ回ればいいさ。

逆からいえば、そういうライブ的な魅力を是としない人にとっては『Forevermore』はアップテンポだけどなんかパッとしない地味な曲、みたいに映っているかもしれない。ならまずベースとシンバルを聞いてくださいな。話はそれからだ。

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さて、『Forevermore』はストリングスに始まりドラムスが曲を引っ張ってギターが彩るサウンドだが、宇多田ヒカル的に最も新奇なのはよく動くベースラインである。

宇多田とエレクトリック・ベースは、J-pop(と嘗て呼ばれたジャンル、かな最早)においては珍しい程疎遠であった。兎に角ヒカルはベースを鳴らさない。フルバンド編成の曲ですらベースレスのものがあったほど(『Stay Gold』のスタジオバージョン)。ベースは親の敵なのかと訝る位。例えば亀田誠治プロデュースならこんな事は考えられない。

鳴らしても殆どがルート音のみ、それもバスドラのキックとユニゾンだから大体音を潰される。鳴っているかどうかわからない。鳴っていても「これシンセドラムだから(打撃音に音程を与えられる―トーキングドラムみたいに―)かなぁ?」と錯覚するほどだ。否、ちゃんとベーシストのクレジットあるからっ。

ヒカルはそうやってベースの音を(普通より)間引いておいて空いてしまった低音域をどうするかというと、最初から居るドラムスに更にパーカッションを入れて対応してきたのだ。ベーシストもう既にそこに居るのに…っ! 贅沢というかなんというか、ヒカルのライブでは「ドラマーとパーカッショニストのダブルリズムセクション」が定番となっていた。ベーシストの影はとても薄かった。だってキーボーディストが足で踏んで賄える程度しか音が無いんだもの!(それは言い過ぎ)

恐らく、これはヒカルの曲作りの手順に起因しているのだ。ヒカルはまずリズムパターンをプログラミングする所から始める。超名言『スネアの切なさ』からわかるのは、ヒカルがそのリズムトラックを作るや否や切ないメロディーが現れてくる感覚である。実際にはまずコードを組んで、更にそこからメロディーラインを決定していくのであろうが、ヒカルの場合リズムが出来た時点である意味既に"メロディーが聞こえている"のだ。ちょっと普通じゃない。リズムとメロディーは全く別のもので、組み合わせによってそれぞれに色を変えるものだと我々は思っているが、ヒカルの場合リズムにもうメロディーが"絡みついた"状態で楽曲を生み出すのだ。絡みついているだけに、掘り起こす必要があるが。

普通はリズムとメロディーが別々にあって、その間を取り持つのがベースなのだ。リズム楽器でありつつ、音程を持つ。ドラムスはベースのリズムと呼吸を合わせてグルーヴを作り、ギターはベースのコードに合わせてソロを弾く。そうして"バンド・サウンド"というものが出来上がるのだ。

ヒカルにはそれが必要ない。いや、なかったのだ。リズムパターンからいきなり歌メロだったから。ベースの介在する隙はない。低音を補強しようと思ったら、だから、ひたすら打楽器を増やす方向にしか行かなかったのだ。

それが何故か『Forevermore』ではベースが中央で大活躍しているのだ。その話から又次回。

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SACKYが亡くなった。無意識日記の大半の読者にとっては「誰?」なのかもしれないが、今迄のこのBlogの芸風に少なからぬ影響を与えてきた人だし、という事は、これを境にここの筆致に変化が現れるかもしれない。自分でも書いていて予想がつかないが、大いに有り得る事だと思うので、些か触れておく事にする。

彼女が私にとってどんな人だったか、というのを示すには、情緒的な事を一切書かずとも、こう書けば早い。「Twitterでいちばん会話した相手」だ。別にそれが総てでも何でもないし、特にそれについて改めて思う事でもないが、距離感や影響力を想像させるのにはいちばんわかりやすい"数字"だろう。Twitterを始めて私も8年になるから、長期間の傾向であると言ってよいと思われる。

実際、この日記で「絵」とか「写真」とか「マンガ」とか「アニメ」のような、視覚的な作品の話をする時は、ほぼ100%彼女の「目」を意識していた。彼女は別に無意識日記の熱心な読者ではなかったが、「もし彼女に読まれたらどう思うか」は常に意識して書いてきた。

2011年頃から当欄でもアニメの話が増えたのだけれど、長期的にみれば彼女の影響はとても大きい。寧ろ彼女との会話の為にアニメを観ていたまである。何しろ小さい頃からの筋金入りのアニヲタ(の割にやたらめったお洒落だったのでキモヲタからは対極にある"キレヲタ(=キレイなヲタク)"だったのだけれど)なので経験値は半端ではなく、近年はこちらもその経験と鑑定眼を大いに買っていた。半年前会った時に「Webのあらゆるアニメ批評のうちでいちばん参考になるのがSACKY評だ。合点が行き過ぎて未視聴作品を観た気になってしまい結局観ないという現象が起きる位に信頼してる」と言ったら納得した風だった。13年以上も付き合いがあると、お互い相手の趣味嗜好がよくわかるようになるものなのだな。

「いい作品・いい創造性を見極める目」を持っているなと感心したのは、この日記でも度々引用している「創作は制限がある方が捗る」発言である。彼女はドット絵を例にとってこの限られた升目と限られた発色で如何に表現するか、その制限によってどれだけの工夫が生まれるか力説した。理屈には大いに共感したものの、モノホンのプロがそう言うのを聴いて説得力が段違いだなと感心したものだ。年下だけれど、私は大いに尊敬していた女性だった。

こういう風に書くとどうにも堅苦しいけれど、実際の彼女は明るく大きな口を開けて笑う、気さくで冗談好きな、歌と絵の上手い、生真面目でありながら抜くべきところがどこかよくよく知っている、旦那の話をするのが好きな、旦那と話をするのが大好きな、Hikkiとしょこたんをこよなく愛する、ミーハーで食いしん坊でハイカラで背の高い素敵な女性だった。ただそれだけだ。

その「目」が今後はなくなる。だけど、自分が今後どう書いていくかはわからない。なんだか、全然相変わらず「こう書いたらSACKYはどう思うだろう?」と考えながら日記を書く気がする。元より無意識日記に対する反応は少ない。最後に「いいね」をくれたのは「けものフレンズ」の魅力を力説した回だった。結局アニメネタかよ。お互い宇多田ヒカルが好きで知り合ったというのに。やれやれだぜ。そんななので、冒頭とは異なる結論になりそうだが、私は変わらず彼女の「目」を意識しながら生きていくと思う。もう変えようが、なさそうだ。

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『Forevermore』はドラマにハマり過ぎるほどハマっている。ドラマにのめり込めない勢からすれば曲にドラマのイメージが染み付いてしまうのはよしとしないかもしれないが、佐ほど抵抗なく毎週見ている身としては「限りなくベタだなぁ」と半ば呆れながらそのハマり具合を楽しんでいる。

俗っぽ過ぎる程に俗っぽい、もうどちらかといえば昼ドラに近い作風なのだが、それにこういうモダンなサウンドをアジャストさせてくるとは素直に恐れ入る。いつでも幾らでも高尚になれるんだろうに「大衆の音楽」としての矜持を忘れない。一周まわって誇り高い。

歌詞の使い勝手もいい。お馴染み視点の転換も見事に許容してくれる。TBSドラマとしては冬彦さんの最終回を思い出すが(話が古すぎる)、歌詞の視点が主人公だったり、相手役だったり、不義の相手役だったり、親だったり友だったりを想起させるのは大事である。特に今回は「息子を溺愛する母」と「(実の)息子を毛嫌いする母」の両方が出てくるのが興味深い。

マザコンを、息子の方からではなく母親の方から描く視点はそれこそ視聴者層が限定された昼ドラの手法だが、宇多田発言監視隊からすれば(何なんだそれは)、母親から天使とも悪魔とも呼ばれたヒカルの心境を慮らざるを得ない。

「子を愛する母」と「子を嫌う母」。ドラマの中ではそれを生き別れた兄弟の弟と兄に割り振っているのだが、ひとりっ子のヒカルはその両方をいっぺんに、或いは日によって代わる代わる体験した。具体的なエピソードは知らないのだが、不安定な圭子さんの精神がヒカルに希望と絶望の両方を等しく与え続けたといえる。その「運命と和解」する為には歳月を要しただろう。

その二面性ある背景を念頭におきながら『Forevermore』の『あなただけ』という歌詞を聴くと切ない。母からみれば子は2つに(まるで"2人"に)見えているけど、私にとっては「たったひとり」の存在なのだ。

ドラマの中で生き別れた兄弟がそれぞれに母との運命に和解するプロセスが描かれるとすれば、ヒカルの精神史を考える上でも参考になるだろう。テレビドラマなだけに、わかりやすい形で描いてくれる筈である。

とはいえ、いかに悲劇と悲恋の物語とはいえ、これはあクマで娯楽作品。そのようなややこしい事は考えず、素直に登場人物たちの数奇な運命に一喜一憂するのが楽しみ方ってもんだろう。『Forevermore』は、その物語を彩る素敵なサウンドトラックになっていればそれで十分なのである。肩の力を抜いて引き続き視聴を…って明後日放送ないんだっけ!?(笑)

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『大空で抱きしめて』にせよ『Forevermore』にせよ、演奏陣で最も目立っているのはやはりクリス・デイヴ、ドラムスである。特に『大空で抱きしめて』では、徐々に押し寄せてくるストリングスを中心としたシリアスの波に呑まれ切る事無く飄々と、冒頭から変わらぬ軽快なリズムを貫いてこの楽曲のアイデンティティの確立に於いて大きな役割を担っている。例によって私は彼のプレイに詳しくないので言い切れないけれど、彼以外のドラマーが叩いたら全然違う『大空〜』が聴けるかもしれない。『WILD LIFE』で阿部薫が叩いた『BLUE』のグルーヴが、アルバム・ヴァージョンと全く異なっていたように。

『Forevermore』でも彼のプレイはまさに楽曲の大黒柱だ。特にそのシンバル・ワークは、テクニック以前に、フレーズ自体がヴォーカル・ラインとベース・ラインとエレピ・ラインの総てに目配りして構築されている点で傑出している。普通レコーディングはドラムとベースを先に録音する為、ベース・ラインにまでは目を配れてもキーボードやましてヴォーカルにまでとなると難しいと思うのだが、或いはデモの段階で先を見越したアレンジを想定していたか。誰が"犯人"であっても、結果彼のプレイは素晴らしい。


しかし…もし私が『大空〜』と『Forevermore』の演奏陣において誰か1人を挙げろと言われたら、迷いながらもギタリストの彼女(或いは彼。どっちか知らん。どっちでもないかもわからんし、そもそも同一人物である保証もない。)を挙げるだろう。一言、センス抜群である。

この2曲に於いてエレクトリック・ギターがリードをとる場面はひとつもない。それどころか目立つ場面もどこにもない。いつ鳴っていていつ鳴っていないのかもわからない位に言わば隠れキャラ的に、しかし、しっかりと存在感あるプレイをしている。その演奏は…フレージング以前にタッチ、そもそもの"音の鳴らし方"自体に非凡なセンスを感じる。

たとえて言うなら…そうね、一部の人にしか通じないかもしれないが、漫画家やアニメーター(作画監督やキャラデザ、原画の人)がホワイトひとつ原稿に垂らすだけで、セル画(え、もう死語?)に描かれた一本の線をほんの0.数mmズラすだけで、驚く程その一枚の絵の印象が鮮やかに変化するような、そんな感じの"音"を、このギタリストはこの2曲で奏でている。恐らく、彼女(彼)のプレイをまるごと抜いたら「サウンドのどこがどう変わったのかよくわからないけど、なんとなく味気なくなったような、味わいがぼんやりとしてしまったような気がする」みたいな感想をリスナーは持つ事になるだろう。居るか居ないかわからない、在るんだか無いんだかわかんない、そういう"一見曖昧な"サウンドで決定的な仕事をしている。タダモノではない。まぁ今剛なら納得だけど、わざわざロンドンまで行かないよね。

斯様に、この2曲はサウンドの特色のかなりの部分までが"属人的"である為、先程ちらっと触れたように、ライブでは印象がかなり変化する可能性がある。しかも、レコーディング・メンバーが(名を知らぬ人たちを含めて)世界でもトップクラスな為、ツアーでそのレベルのミュージシャンを2ヶ月も3ヶ月も拘束するのは容易ではないだろう。ツアー準備も着々と進んでいるとは思うが、メンバーの人選とリハーサルは呉々も入念に。もうウタユナ序盤の様なグダグダな演奏は懲り懲りですわよ?

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話がとっちらかってるな。『大空で抱きしめて』のインストゥルメンタルについてギターから始めるつもりが始めてないし、『Forevermore』のリズムセクションもドラムにちらっと触れただけで肝心のベースがまだだ。『Rockin' On Japan 9月号』も最初に渋谷さんへの愚痴を語っただけで、肝心要のヒカル自身の言葉について語っていない。

インタビューアでも対談相手でも、話す相手によって語る内容が変化する事もあれば、誰が相手であっても結局言っている事は同じ、という面もある。渋谷陽一ほど個性の強い音楽評論家もいないが、それを相手にマイペースも崩さないヒカルは流石だ。なので、そういった側面を拾っていければこのインタビューは、枚数を割いただけあって、大変貴重な発言に溢れているともみれる。

にしたって、写真多いね。文字通りの大盤振る舞い。デカい写真だらけだ。是非電子書籍でほしかったが贅沢言うまい。これでこの雑誌の印象が随分よくなった。表紙もいうことなしだしな。

という訳でのちのち、ろきのんじゃぱん9月号の、そのヒカルの発言についても順次追っていきたい…のだが、そうこうしてるうちに次のインタビューが世に出ちゃうのが世の常なんだよね。全く痛し痒しだわ。

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今回もまた『生まれ変わっても』という歌詞がある。『Forevermore』。

ヒカルの輪廻転生への拘りは甚だしい。どうしてそこまで、と思うほどに。『Hymne a l'amour 〜愛のアンセム』は原詞がキリスト教的世界観(最後の審判、かな?死んで魂が救われるやつ)だったもんだからわざわざ東洋的な転生観を前面に出して自分で歌詞を書いた。『ぼくはくま』の『ゼンセ』もそうだし、『Goodbye Happiness』も勿論だ。そして今回の『Forevermore』も。全く関係ないけど誰か語呂のいい『Forevermore』の愛称、呼び名を考えてくれないか。何も思いつかん。『大空で抱きしめて』はあっさり『おおぞら』で決まった。既にそう呼んでいる。しかし『Forevermore』はどこを切り貼りすればいいのやら。『Addicted To You』を『中毒』にしたような変則的な技が必要なのかな。まぁ私は普段「アディク」って呼んでる気がするけど。『Movin' on without you』なんかは「むびのん」という力業がハマった例だ。それに倣うと「ふぉえばも」…言いづれぇ…。という訳でいい案募集中。

さて戻ると。昔私は輪廻転生の世界観を「論理的には否定できない」と力説した。本当に難しいのだ。「もし生まれ変われても記憶が断絶するのでは意味がない」という反論はよくきくが、意味がないのはあなたの都合で世界の話ではない。

反証ではないが、「では多重人格」をどう説明するのか、という展開をする。「1つの肉体に2つ以上の自我が宿る」のが「多重人格」なら、「2つ以上の肉体に1つの自我が宿る」のが輪廻転生だ。この2つの概念は肉体と自我の対応が「1対1」に留まらず「「1対多」「多対1」「多対多」まで広がるとすればどうなるか、という論理的な思考実験における2番目と3番目であるというに過ぎない。通常信じられているのは1番目のみだが、2番目が実在する以上3番目も真剣に考察する必要がある、というそれだけである。更に、4番目の例はどのような状況なのかという点もまた考察の対象だ。即ち「多重人格の輪廻転生」である。転生してきた人格同士が1つの肉体に宿ったり、2つ以上の肉体に跨って多重人格を構成したりと、ここにくると飛躍的に複雑度が増す。しかしまずは、輪廻転生が実在するかどうかを知らなければならない。

再三繰り返すが、これはオカルト的興味ではない。実際に論理的に輪廻転生の不可能性を主張するのは本当に難しいのだ。少なくとも、私には無理だ。ないならないで構わない。ヒカルの歌の多くがファンタジーになるだけである。しかし、もしあるとしたら…? このテーマは、あまり邪険に扱わない方がいい。信じる必要はないが、疑うには難しすぎる事柄なのだから…。

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期間がさほど空いた訳ではなかったが、『FINAL DISTANCE』にせよ『ぼくはくま』にせよ、最初に出したシングルがそのままそれぞれのアルバム『DEEP RIVER』と『HEART STATION』において重要な位置を占めているという点では、『桜流し』と同じである。『ULTRA BLUE』においては二番目にリリースされたシングルである『Be My Last』の方が所謂要の位置に在るが。

要の位置。ラスト前のポジションの事だ。『FINAL DISTANCE』はインタールードを挟んだ次がラストの『光』、『Be My Last』もインタールードを挟んで次の『Passion』で大団円を迎える。『ぼくはくま』はラストの『虹色バス』をそのまま呼び込む。

これが『桜流し』の場合、彼女がラストだ。ここが今までのヒカルの作品と異なる点で、言うなれば起点からあとの"未来が見えない"。ひとつのアルバム作品としては綺麗に終わっているが、それが逆に次を見えなくしている。踏み込んでいえば、まだ『Fantome』は完結していないとも言える。美しく纏まっているが故に、だ。

では例えば。『Forevermore』がアルバムの10曲目か11曲目にきてラストが『大空で抱きしめて』みたいな構成を次作にみる事が出来るのだろうか? 次回、考えてみますかね。

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『桜流し』から幾らか年月を経て『真夏の通り雨』を端緒にアルバム『Fantome』が構成されていった様は、『COLORS』から年月を経て『Be My Last』を皮きりに形作られていった『ULTRA BLUE』のそれに準じると考える事が出来る。いずれも、ひとつだけ時期の違う楽曲がまるで予言のように未来に生まれる楽曲たちの「核」となった。

『COLORS』が『ULTRA BLUE』の「核」と呼べるかどうかは、勿論議論があるだろう。しかし、『ULTRA BLUE』は、その前作『DEEP RIVER』と比較して、線より面、流れより広がり、詩より絵、モノトーンよりカラフル、と解釈されてきた。その色彩豊かな感覚はまさに"カラフル"であり、それまでの楽曲より大きな広がりを感じさせる『COLORS』はまさに『ULTRA BLUE』の主要なテーマを曲名からして体現している、と言っても構わないように思うのだ。

『桜流し』はもっと、こう、図抜けて"異様"である。『Fantome』は"母への弔い"が主要なテーマのひとつと言っていいとこれまた構わないように思えるのだが、まるで仕向けられたかのように、幾ら震災があったとはいえ、内容もまるで知らされていない映画の主題歌として斯様な鎮魂歌を歌ったのか。魂を鎮めると言っても生者死者問わずだが。決まり文句でしか言えないが、「運命とはいえ余りに非情」である。

『Single Collction Vol.1』の表紙詩は、この状況を"嘆いている"ともとれる。そんなに言った事が叶うのなら理想や希望ばかり歌えばいいのにと思われるかもしれないが、実現するのはただひたすら無意識の階層であって、自覚的な希望や願望は寧ろ避けられているとすらいえる。願いや祈りは届かない。

この事態をどう潜り抜けるかは難しい問題ではない。自覚的な詞だけを書けばよいのだ。しかし恐らくそれはヒカルにとって作詞ではない。24時間脳を作詞に支配させて辿り着く境地から、最早逃れられないのだ。1ヶ月で別れる歌を歌ったら別れたし、大切な人を喪った歌を歌ったら喪った。しかし次に別れる歌を歌っても別れないだろうし次に喪う歌を歌っても、何も関係がないだろう。起こる事は常に一期一会なのだ。何かに対して対処するしないの問題では最早ない。それでも願わずにはいられない、祈らずにはいられないと歌うのが宇多田ヒカルなのであるし。


さて、今。『大空で抱きしめて』や『Forevermore』は未来へ向けての使者なのだろうか。この続きはまたいつか。

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The Rain will fall like tears from the stars
The Rain will say how Fragile we are

- sting "Fragile"


しかし渋谷陽一の『真夏の通り雨』推しは圧巻だった。手紙までしたためるとは余程である。気に入ってくれたんだねぇ。作者からすりゃ出来上がった作品は総て等しく過去なのでどんなタイミングだろうと何回目だろうと誉められればひたすら嬉しい。ヒカルもきっと御満悦だった筈だ。

ただ、言葉の綾と勇み足だろうが、この曲のメロディーが"新しい"というのは少々違う。一部はほぼ『Letters』と同じ(『木々が芽吹く』と『花に名前を』とかね)だし、どちらかといえば「いつものヒカルの筆運び」であって、寧ろ歌詞を重視する余りメロディーが二の次になったという方が実状にはそぐうだろう。まぁ、この圧倒的な歌詞の迫力の前ではメロディーも従わざるを得ない、というのが感覚的なところだ。

そんな強力な楽曲から切り込んでいく判断力は流石だが、後が続かない。ファンが自分の好きなアーティストに自分の好きな曲をアピールしただけで終わっている。裏を返せば、こんなに壮年の男性(スティングと同い年だってさ)をまるで10代のロック少年のようにはしゃがせるヒカルのスケールが大きいという事だ。彼が盛り上がれば盛り上がるほど、終始落ち着いて冷静なヒカルが浮かび上がる。今ヒカルがこんな人だからこそ、いい写真が一杯撮れるのだろう。いい相に入っている。

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