無意識日記
宇多田光 word:i_
 



少しEVAQの感想も絡めながらいくか。

Beautiful Worldを「100%好み、という訳じゃない」旨光は強調していたように思うが、それ位譲歩してもいいと思える程にEVAを愛していたともいえる。アーティストとしてのこだわりというのは物凄く強い。ぼくはくまの歌詞の字幕が「ゼンセ」でも通らなかったならみんなのうたを降りるつもりだった、と訊いた時には流石に私も吃驚した。そこまで言うのだ、アーティストというのは。それを「100%好みでない」と公言して憚らないのは、それだけEVAを尊重する精神が強い事の顕れであろう。

私は、この光の態度に、逆に序破の作風の可能性を見ていた。新劇版に私が期待していたのは「大人」だった。総監督の言う、こどもも楽しめる真っ正面からのエンターテインメント。それを作るからには大人は、自身の好みを盛り込む事は勿論としても、その提示方法において観客であるこどもを尊重した作風を目指すべきなのだ。まさに、作品の為に「100%宇多田ヒカル、ではない」楽曲を作り上げたヒカルの精神と呼応する。要は、相手の事を考えてわかりやすく、親しみやすく作るという事だ。EVA序破とBeautiful Worldは、その点において非常にシンクロし、抜群のコンビネーションをみせ、アニヲタも非ヲ多も唸らせてみせた。見事だった。

EVAQと桜流しはそれとは対極にある。いきなり14年後に飛んで観客を突き放す。シンジが観客の代弁者として機能している事だけが、唯一の親切か。それが主人公である点が、次回作での更なる"転回"を示唆する。結局は彼を中心に物語が回るのだから、どこまで行っても作者はシンジと同じ目線…即ち観客の目線を意識せざるを得ない。ここが旧劇版との違いである。これは、ただ突き放すだけでなく、その戸惑いや驚きを共有する事で主人公への感情移入を促進する効果がある。逆にいえばその一点のみでQは観客と繋がっている。「わからない」を共有する。Qを「旧劇版に戻った。これぞ俺達のエヴァ。」と好意的に評する向きもあるし、それは実際正しいのだが、この構造を導入部に持ってきている時点でこの作品は旧劇版との違いを宣言しているようなものだ。

話が逸れてるな。まぁいいやこのまま行こう。序破は、テレビ版とほぼ同じストーリーを辿りながら違和感を積み重ねていきしまいにはエンターテインメント性溢れる王道の作品としての威厳を構築するにあたった。いわば、昔のEVAの衣を着た別のスピリットを持つ作品だった。今度のQは、ストーリーは全く真新しいが、観客を突き放し幻惑する、一言でいえば「ひたすら説明不足」な作風を取り戻した。あの25話26話に帰結する不親切の固まり。親にあらず大人にあらずと申しますか。表現力不足をありとあらゆる言い訳で覆い隠そうとする中二病の権化、永遠の14歳たるあのエヴァンゲリオンが帰ってきたのだ…そう見える。実際正しい。しかし、先述したように、観客目線を序破に引き継いで失わずに居るのもまた事実。ややこしいが、いわばこれは旧劇版EVAのパロディですらあるのだ。いちばん象徴的なのがエンディングでアスカに引っ張り上げられるシンジの情けないカオだ。その腐抜けっぷりに―あれ、字がカヲル君を巻き込んで間違えてるよ
うな気がするな…まぁいいか―、私は思わず噴き出した。絶望に身を窶し打ち拉がれる14歳を、旧劇版では決してあんな風には描かなかった。あのカットに、新劇版の新劇版たる所以があると思うのだ。つづく。

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桜流しのサウンドで驚愕したのはその空間支配能力である。このテイクのミックスについては公開早々ツイッターで不満を表明したし、今でもその評価は変わらないが、映画館で聴く分にはこのミックスは非常に優れていて、更に将来LIVEで演奏されるとなればこのサウンドバランスがベストだろう。そこまで見越してミキシングを施したのであれば大したものである。

だからといってスタジオバージョンを映画館やLIVEでの音響に合わせる必要はないのだが、そこは考え方次第か。常日頃からこのバランスに慣れていれば映画館やコンサートホールでの戸惑いは少なくて済む。何の事を言っているかよくわからない読者も多いだろうが、いつの日かLIVE会場で桜流しを"体感"してくれればそれは実感として伝わる筈だ。この曲の全貌は、映画館で体感し更にLIVE会場で体感して初めて把握できる筈である。その時まで、桜流しの物語は続いていく。

空間支配能力。この楽曲のスケール感は、どれだけ男が現実の空間に浸透していけるかで推し量る事が出来る。まだ楽曲が発表されて間もないので、曲を聴く時にあらゆる雑音を遮断して、という向きもあるかもしれない。しかしこの曲の本領が発揮されるのは寧ろ周囲の生活音が耳に入ってくるような状況の時だ。試しに、外で子供が遊んでいたり、街宣車や石焼き芋屋さん(そろそろ季節だねぇ)がけたたましく音を出している時に桜流しを聴いてみるといい。個人差はあるかもしれないが、まるで映画の一場面のように感じられる筈である。そこが凄い。普通雑音は音楽鑑賞にとって妨げとなるものだが、桜流しはそういった様々な雑音を効果音として自らの内に取り込めるだけのスケール感、包容力を持ち合わせているのである。こういう感覚を、サウンドトラックとしてではなくひとつの主張を孕む自立した楽曲として提示できるのは、Pink FloydやKate Bush等、"伝説的"と言われるレベルのミュージシャンにしか見られないものである。宇多田ヒカ
ルは、遂にその領域に足を踏み入れたと言っていい。至極感慨深い。勿論、そのレベルの最初のステップを刻んだというだけで、まだまだ先は長いのだが。

映画でいえば、小津安二郎の作品を見ているかのようだ。(またそれか) 彼の作品は、以前話したように、日常の何気ない場面ですら尊く、美しく表現する。いや、観客にそう思わせる事が出来ると言った方がいいか。けたたましい街宣車の騒音をバックに桜流しを聴けば、"世界が違って見える"という感覚が、朧気ながら掴めるのではないかと思うのだが、こればっかりは個人差があるのでどうしようもない。

今まで宇多田ヒカルというミュージシャンは「若いのに凄い」「日本人にしては凄い」とか「世界で通用する」とかいう評価を受けてきたが、桜流しまでくればこれからはもうそういう注釈は一切不要である。比較するのは人類の歴史上伝説的と呼ばれる人たちどなるべきであろう。その為には、どちらかといえば世界中でぐぅの音も出ないような大ヒット曲を発表して欲しくなるのだが、流石にそんな話は現段階では気が早すぎるわね。

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